"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

大岸 (室蘭本線) 1991

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今には想像もつかぬかも知れないが、特急急行列車とは威厳を伴った正に特別な列車であった。それによる列島ネットワーク形成の端緒となった1961年10月のダイヤ改正で、それまでの9往復から26往復へと大増発されたにせよ、大衆化には程遠い時代のことである。
それでも小樽に暮らした家族は、父母の故郷である水戸市への帰省に駅へと出迎え、見送りに来る親戚筋への見栄も在ったものか、時には普通急行料金の倍以上だった大枚を叩いて、気動車に置替られたばかりの<はつかり>に乗ったものだった。大人も子供も限られた利用客層に見劣りせぬよう、一張羅を着込み、精一杯のお粧しをしてのことで、背広姿の父に、ワンピースに大きな帽子の母、そして半ズボンに白シャツを着せられ、ズボン吊りにチェックの蝶ネクタイと云う出立ちの自分が水戸駅頭での写真に残る。憧れの「ディーゼル特急」に乗れる喜びと共に、車中の振る舞いの緊張感も永く記憶している。

先の白紙改正では北海道にも「ディーゼル特急」は走り始め、休日には札幌駅へ「汽車」を眺めに通った1960年代半ばには<おおぞら><おおとり>の2往復となっていたが、一日に4回の着発時刻の近づけばホームの着飾った乗客に見送り客で溢れるには違いなく、それは札幌駅の特別な時間だったろう。接近を告げるアナウンスに、やがて静々と苗穂方から入線して来るキハ82の端正な前頭形状に長い編成は威厳に満ちて、近寄り難さすら覚えたものだった。まだ、そのデザインを優美とは感じ取れない年代とあっては、何故にそれが<はつかり>と同じキハ81では無いのか不満も抱いていたのだけれど、「ディーゼル特急」の存在感には圧倒される5分間でもあった。

1970年代を通じての勢力の拡大は、同時に特別急行列車の普遍化でもあったのだが、函館で連絡船の接続を待つ周遊券では乗れないそれは、威風堂々の姿だったとしても良い。けれど、1980年に後継系列のキハ183系の投入が始まれば、その増備に配置から20余年を経た1982年度より用途廃止の始まり1986年11月改正にて定期運用を離脱、食堂車も特別車も含まない組成で臨時特急など波動輸送に余生を送ることになったのだった。それは、配置を札幌運転所の5両にまで減らしながらも6年間、1992年の夏まで続いた。

写真は、団臨充当のため札幌運転所から函館へ向けて回送中の姿。かつてには最大14両組成のエンジン音で周囲を威圧したことなど嘘のように軽々と走り去って往く。
翌年10月の用途廃止通達に、異様なトレインマークを掲げての「さよなら運転」などには興味の持てぬ身には、これが走行するキハ80系列の最後の目撃となった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6+1/2 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 1991

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札幌からの函館本線は、500メートル程を進んだ函館桟橋起点287キロ500メートル付近のR=500M曲線で右転すると苗穂直前の288キロ700メートル付近にR=1000Mの左曲線を入れて、豊平川橋梁直前に所在のR=400M曲線に至る。札幌構内が高架駅となった今には、それの北側への移動により苗穂のR=1000Mはより半径を縮めているのだけれど、これは1882年11月13日に幌内から札幌までを開通した官設幌内鉄道以来の線形である。
最後の急曲線は勿論豊平川を最小延長の橋梁で渡河するためであり、札幌近傍のR=500Mは北6条通り(開拓使による空知通り)に設けられた札幌停車場への取り付きに要したのだが、この間を直線としなかった事由が解らぬのである。
道立図書館北方資料ライブラリの収蔵する「幌内鉄道敷地並用地図」(1883年4月 出版者不明)によれば、この間は一部に官有地や勧業地とした土地の所在するものの、大半が個人名の付された民有地を通過しており、当時の札幌市街地図から札幌寄りのそれらの多くは葡萄や林檎の果樹園だったと知れる。苗穂のR=1000M曲線の北側に特に避けるべき対象地なり対象物の存在は見えないのである。考えられるのは、豊平川を渡った路盤はそこで東西方向に存在した道路の一部を敷地とした様子の伺え、その頃には湧水による低湿地の広がっていたとされるここで既設路盤の活用を意図したゆえかも知れない。道路は現在も線路に沿った陸上自衛隊苗穂分屯地前の市道として健在、それが南に遷移して線路と交差する位置に設けられたのが、後の苗穂東通り踏切である。
この辺りを明らかにされた郷土史家もおいでとは思われ、是非にご教授を請いたいものではある。

札幌駅高架化で生じたR=800M曲線を旋回して往くのは、4列車<北斗星4号>。夕陽を背に南下を急かされる。
背景は東11丁目人道跨線橋、苗穂の移転新駅はこのあたりになる。
R=1000M曲線はここからやや直線で後方へ進んだ位置から始まり、地平駅の札幌構内を伺っていた。このR=800Mもそれがなければ生じなかったから、鉄道のエンジニアリングとは100年を超えて残るものと改めて思う。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[お断り] このカットは2013年9月に既出です。ただし、レタッチを全てやり直しています。

札幌 (函館本線) 1991

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国縫 (函館本線) 2002 から続く

国鉄が1985年度に決定した上野-札幌間直通列車の方針は、将来の北海道線承継会社と本州線承継会社が1往復ずつの運用を担当する定期列車2往復運転だったと推定される。
当時に東北新幹線から<はつかり>に乗継ぎ、青函連絡船の深夜便を介して<北斗>に接続する系統の代替との想定には、その有効時間帯を継承する、19時台発と翌9時台終着を要しての2往復とも解せられる。およそ16時間と算定の到達時間に1往復では双方を充たせぬゆえであり、これにて道内では、1985年3月改正時点での1・10D<北斗1・10号>の、東北線内で1M<ゆうづる1号>・14M<はくつる4号>のスジを踏襲するとして計画されたのである。純粋に新設定のスジは、後の1・6列車の上野-函館間、5・2列車の青森-札幌間と云うことになる。

車両の需給財源は、東北新幹線への旅客転移により将来に縮小の見込まれる上野-青森間列車に運用の24系に求め、青森運転所25形の選定は24形に比しての寝台定員だろうか。収益確保には例え20名程度でも編成定員の多いに越したことはない。
計画の編成組成を、経営基盤の脆弱とされた北海道会社への承継車を国鉄の責任にて準備すべく1986年度内に前倒して出場した形式とその両数から予備車を勘案して類推すれば、二人用個室式A寝台車-1両にB寝台車-8両と食堂車、これに電源荷物車を加えた11両組成となる。これは、1987年3月21日以降の<ゆうづる>編成そのままに食堂車を組込んだだけの姿であり、海峡線開業の移替運用に際しては、青森から札幌への回送は当然としても尾久と青森で到着した編成にそれを組成するだけで済み、国鉄当時の計画はそこまで考えられていたものかとも思う。

二人用個室式A寝台車-オロネ25 500番台の5両出場は、当面にそれを組成する<ゆうづる>運用が4組使用だったゆえなのだが、1986年度時点で上野-札幌間直通列車も4組運用、即ち2往復を予定していた根拠でもある。二人用個室とは、九州特急の一人用対して観光利用の多いと目される北海道運用が意識されたものだろう。
食堂車-スシ24は、24系本来のオシ24の品川客車区での8両使用/2両予備の需給に将来的にも捻出の余地が無く、1982年度以降に運用を失っていた485系電車の食堂車からの転用にて計画された。その意味の良くわからないのは、1986年度に至っても休車措置の取られたサシ481の多数が青森運転所や仙台運転所に留置されていたに関わらず、北海道会社承継車の3両は1985年度末での用途廃止車をわざわざ車籍復活させて改造種車としていたことである。税制上の事由だろうか。
廃車前の金沢運転所に復籍、改造出場後は青森運転所の配置とされ、1987年4月1日付で同日発足の北海道旅客鉄道に転籍と云う経過を辿った。ただし、実車は工場より直接に札幌運転所に送られた模様である。受取った同区も一年間遊ばせる訳にも往かず、企画列車や団臨などに運用していた。最初の営業運転は1987年6月22日に札幌から石勝線に運転された<グルメ列車>と記録にある。

スシ24を除いた1986年度先行改造の北海道会社承継車-26両は引続き青森運転所に留め置かれて運用されるが、これらも北海道旅客鉄道の発足には車体の所属表記が「札サウ」に書き替えられており、オハネ・オハネフ25は<ゆうづる>ばかりでなく[盛101]運用で<日本海>にも組成されたから、1988年3月までは大阪駅頭にも「札サウ」が顔を出していたことになる。
1987年度にも東日本会社承継車に続いた改装工事の入場にともなう需給不足は、1986年11月改正での運用編成の減車により予備に余裕の生じていた南秋田運転所の24形で補われ、青森運転所運用編成に25形本来の銀帯に加えて金帯、白帯の三色混結の見られたのも同時期である。
列車名が<北斗星>と決まりトレインマークも出来上がれば、1987年12月16日の4列車<ゆうづる4号>の水戸までの牽引機ED751037は、早速にそれを装着して運転された。来春の運転開始を控えてのプロモウション映像撮影のためであったが、さすがに混色編成は避けて、その運用ばかりは全金帯車で組成されていた。
<北斗星>前史の興味は、まだ尽きない。(この項 山越 (函館本線) 1996 に続く)

写真は札幌に進入する手稲からの回送3列車(当時)。札幌からの4列車<北斗星4号>である。
運行開始時点でトレインマークは札幌運転所札幌駅派出の管理にて札幌駅で着脱を行っていた。回送区間でもそれの見られるようになるのは、札幌の高架化された1988年11月3日改正での派出廃止以降のことだった。→ 札幌 (函館本線) 1988

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/60sec@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

植苗 (千歳線) 1991

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国鉄の民営化時に旅客鉄道会社へ承継され無かったものに「客車運用(表)」がある。勿論、それ以降も客車列車は運転され、当然に運用表も作成されたのだが、その性格は異なったのである。運用に付される運用番号の記号が、国鉄当時の「北東」や「大」の鉄道管理局の略号から「尾」や「宮」の運用担当区所へと替わったのは、この際のことである。

鐵道院・鉄道省の時代より客車は、その地方組織である鉄道局に「配属」され、鉄道局が保守管理に運用受持とした常備駅に「配置」されるものだった。次第に常備場所は、駅の一部から現業機関として独立した客車区や客貨車区が大半となって往く。
鉄道創成期に、現場組織としてはそれしか無かった駅が上部組織の監督の下に、その管理・運用を行った名残であろう。戦後に日本国有鉄道も伝統的にこれを踏襲し、運用は鉄道管理局毎に定められ、運用表の運用番号にはその略号を冠し受持区所の配置区が併記される所以である。そして、運用は出区から帰区までが単位とされ、原則に暦日を単位とした機関車など動力車とは考え方が異なっていた。
これは、蒸機機関車の運用がその能力から狭い範囲に限定されていたことに加え、乗務員運用と一体で考えねばならない運用は人間の活動サイクルである暦日単位が自然であったのに対して、自走しない客車にあっては、当初には朝から一定区間を数往復して常備駅へと戻る運用だったものが、鉄道の延伸と共に運行距離も夜行運転など遠方に及んで戻るまでに数日を要する事例も生じても、機関車に牽かれて出発してから回帰するまでを運用単位とするに不都合の無かったためであろう。かくして、客車運用表には機関車1両や電車1編成にその日の運用の割り当てられた動力車と異なり、運用に必要な編成数が「運用行路表」「客車編成順序表」(優等列車の場合、普通列車では使用形式と両数)と共に「運用組数」として書き込まれたのである。
これが旅客会社の発足に、運用表の様式こそ引き継がれたものの、運用自体は動力車と同様に「仕業」の性格にて組まれることになったのだった。客車列車に固定編成で往復する優等列車と一定の線区や地域を出ることの無い普通列車ばかりの残存して、運用管理を各車種で統一したものだろう。伝統的且つ職人的な客車運用の手法は、この時点にて失われたとして過言では無く、冒頭に記した運用番号の略号の変化と共に、夜行の優等列車では上下列車にて別の運用番が付されたのが、それを如実に表していた。

植苗への築堤を駆け上がるのは5列車<北斗星5号>。
尾久客車区の受持つこの列車には[尾23]の運用番が与えられていた。上りの6列車が[尾24]である。(カニ24のみ荷物車運用にて[尾荷123][尾荷124]に付番)

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

大岸 (室蘭本線) 1991

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未成に終わったものを含め北海道の鉄道の計画や建設にかかわる資料を読むと、その大半の敷設目的に、地方開発、林産資源開発と並んで地下資源開発と記されるのを多々眼にする。鉱石移出の輸送手段として鉄道は資源開発に不可欠であり、採掘の採算性、強いては鉱山の規模をも左右する要件だったのである。

北海道に於ける鉱山開発は徳川幕藩体制末期に事例の見られ、幕府は1861年に米国より鉱山技師を招聘し渡島・後志地域の鉱床調査に当たらせている。政権を引き継いだ明治政府も1869年に開拓使を設置すると、雇い外国人の地質学者ベンジャミン=ライマンに全道の地質調査を命じ、これは1876年に日本最初の広域地質図である「日本蝦夷地質要略之図」として報告された。1886年に置かれた北海道庁も地質調査所(1882年に創立)のライマンの指導を受けた技師らを動員して数次に渡る調査を継続し、道内の地下に眠る鉱物資源の全体像が次第に明らかとされるとともに、これらに基づく試掘の行われ、道内には多くの金属・非金属の鉱山が開かれた。欧米や大陸の列強に対して富国強兵を国策とせざるを得なかった明治政府に、国内での資源確保は喫緊の課題だったのである。
採掘にはコストに見合う規模を要して、大規模化は移出手段の鉄道と不可分に在った。その延伸とともに沿線地域に鉱山の開かれて往ったとして良い。

1928年9月10日に長輪線として長万部-東輪西(現東室蘭)間の全通した室蘭本線の沿線にも、金・銀・銅を含む黒鉱などの熱水性鉱脈鉱床に倶知安周辺まで続く褐鉄鉱の鉱床が確認されており、鴻之舞での金産出に湧いた1910年代の北海道は全国から鉱山師(やまし)を集め、この長万部から虻田に至る一帯にも金鉱脈の試掘権申請が輻輳したと云う。ここでは、鉄道開通以前からの静狩に加えて、後に礼文、小鉾岸(大岸)、来馬、豊浦、虻田、伊達、仲洞爺、白竜などの鉱山が稼働した。
小鉾岸の鉱区では1921年の試掘にて鉱脈が確認され、これの鉱業権を隣接の来馬鉱山ともども買収した住友合資会社と川崎造船傘下の静狩鉱山との合併にて設立の静狩金山株式会社による1933年からの本格操業には、ペタヌ川の谷から馬車で運び出された鉱石は、小鉾岸(現大岸)から製錬所を持つ小坂鉱山、日立鉱山の遥か内地まで積み出された。出鉱の良質であったため大手鉱山への売鉱にて十分に利益の確保されたものだが、その長距離輸送をともなう取引も鉄道の存在があればこその採算と云えよう。
豊浦鉱区を加えての小鉾岸鉱山株式会社発足後の1941年に豊浦青化製錬所を建設・稼働したのは、折からの戦時下における金増産の国策により、良質鉱とともに大量に産出する低品位鉱の自家処理を要したためであった。
採算を度外視した低品位鉱の精錬は私企業としての体力を奪い、徴用による熟練労働力の不足からも1943年には閉山に追い込まれ、大岸の駅の賑わいも過去のものとなった。

道内の地質調査、鉱床探査は、戦前・戦後を通じて連綿と継続され、1958年10月の地質調査所北海道支所の報告には実に多くの鉱山・鉱床位置が記載されている。鉱山として採掘中のものが多いが、未調査鉱山に分類しての記載もかなり含まれる。鉄道がまだ輸送の主役に在ったこの時代までは、鉱床の確認されても鉱石の搬出や製品の移出手段の無ければ、余程の大露頭でも無い限り放置され続けていたのである。

写真は、大岸第一キャンプ場を駆け抜けて往く3059列車。それを小さな岩山から見下ろすのは好きな景観で、幾度かそこに立っていた。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

比羅夫 (函館本線) 1991

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自らもその渦中に在った蒸機ブーム末期に至る狂乱に嫌気の差してしまい、以来40年近くを蒸機の展示運転は勿論のこと、撮影者の集合しそうな機会には一切関わらぬことを信条として来ているのだが、それを一度だけ破ったことがある。
前夜に長万部へ宿を取り、本州からの下り特急寝台列車群の撮影を予定していたその日、生憎なことに前日夕刻の首都圏での架線障害に仙台付近の信号機故障が重なって、<北斗星>系統は1列車と3列車が函館で、5列車が本州内(後に聞けば盛岡)での打切りが決まり、加えて日本海縦貫からの8001列車も運転日に当たらず、撮る対象の無くなってしまったのだった。この状況下に仕方なく向かったのが、意識的に避けていた函館山線でのC62の展示運転であった。その倶知安峠をはじめ沿線の騒乱を聞き及んでいたから、撮影は下りのみとし、なるべくに人出の無さそうな位置に比羅夫を選んだのである。そして、念入りにも比羅夫トンネル付近の集中を避けて桟橋起点185.5キロ付近のR=300の連続する区間に立った。それでも曲線ひとつひとつの外側の茂みには後方からの画角にはいらぬように撮影者が潜んでいたのだった。

1979年に山口線にて産業遺産としての動態保存を本意に始められたはずの蒸機列車の展示運転は、1987年4月の国鉄の分割・民営化を契機に、同線での運用客車のアコモデーション改装や豊肥本線における<あそBoy>の運行を契機に観光列車に変質する。それを民間資本に預けてしまったのだから当然とも云えた。
対して、ほぼ同時期ながら「北海道鉄道文化協議会」なる非営利団体が主導したここでの運転は、北海道におけるC62の現役晩年当時の運行の再現に意が注がれ、展示運転のひとつの理想が実現していた。隧道に入れば車内に煙の充満し、窓を開けて旅すれば顔は煤で汚れ、ホームの洗面台はそれを洗い流すために在ったことを思い出させてくれたのである。
しかしながら、欧米での多くの事例に範を取ったこの試みも、歴史に敬意を払わぬ民族には挫折を余儀なくされる。この運行に集った多くの人々は、北海道鉄道文化協議会が全ての責を負った運行の仕組みを知ってか知らずか、自家用車で沿線に乗り付けては、同協議会は疎か鉄道会社にも一銭も寄与することの無く立ち去るだけなのだった。この辺りについては、内地版の 小国 (米坂線) 1972 にも書いている。

ほぼ10年を経て降りた比羅夫の惨状は以前にも記したけれど、優等列車廃止後の山線の情報には疎く、1961年にヒラフスキー場への下車駅としてスキーロッジを模しての観光駅舎に改築された駅本屋が、宿泊施設と化していたには驚かされた。それを目的の嬉々とした観光客を横目に、撮影を終わって下りの気動車を待った鉄道屋としては、どうにも居心地の悪い思いをしたものだった。
さて、撮影を終えて駅に戻った鉄道屋は3人だけだった。あれだけ居た撮影者の大半はやはり自動車利用と云うことになる。

夏の日の9163列車。列車名だけはどうにも戴けなかった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.


苗穂-白石 (函館本線/千歳線) 1991

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苗穂 (函館本線) 2000 の続きである。
長々と書いて来た苗穂駅に係わる記述だが、前に少しだけ触れた千歳線の線増にともなう白石方の4線化工事に言及して終える。

苗穂構内から豊平側橋梁までの区間は、既設の函館本線上下線と併行する千歳線単線の3線の北側に1線を腹付け線増とした。千歳線南側には専用線を分岐する側線が在り、また工場なども近接して路盤拡幅が困難なためである。市道と接していた北側用地は築堤法面を改変、垂直に土留めすることで生み出した。
既設線が函館本線複線のみだった豊平川橋梁から白石の区間は、それの北側に2線の腹付け線増とされて大きな用地を要したが、ここには南側で1968年10月1日に開業を予定した新札幌(現札幌貨物ターミナル)への東札幌からの連絡線の設置工事があり、それは併せて手配済みであったのだろう。着工も同じく1967年3月のことである。

上流側より1925年に北海道鉄道(2代)が架橋した千歳線の長いワーレントラス橋、1909年12月6日の札幌-野幌間線増に際しての函館上り線のピン結合ブラットトラス橋、1915年にポニートラスから架け替えられた同下り線のリベット構造プラットトラス橋の順で並んでいた豊平川の橋梁については、建設省札幌開発建設部による河川改修と老朽化対策もあり、千歳線線増とは別事業として4線化を前提とした架替えが1962年度より行われた。
それは、千歳線橋梁の上流側に隣接して単線並列(=複線)路盤のPC桁橋を架橋、これに千歳線と函館上り線を移設して1964年12月12日に使用を開始、後にそれぞれの旧橋梁を撤去し、その位置にさらに同形式の単線並列(=複線)路盤のPC桁橋を架橋して函館下り線を移設するものであった。この将来の千歳下り線路盤も留保した橋梁の使用開始は1967年11月と記録される。
最近に好撮影地点として知られる白石側のR800の緩い反向曲線区間は、この移設にて生じてたものである。
(この項終わり)

4線区間の函館上り線を往くのは、3006M<スーパーホワイトアロー6号>。4両基本+2両附属編成を組み、前頭部・パンタの改造もない新製時の姿を保っていた頃である。
豊平川橋梁から先では、この線路位置が1909年の複線化時の増設線になる。内側千歳上り線(下り列車運転線)位置が1882年の幌内鉄道による開通時からの路盤にあたる。そして、北側2線が1967年に着工した増設線路である。

=参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
札幌駅八十年史 : 日本国有鉄道札幌駅八十年史編さん委員会, 1960
札幌駅116年の軌跡 : 北海道ジェイアールエイジェンシー 1996
苗穂工場五十年のあゆみ : 日本国有鉄道苗穂工場 1961
北海道旅客鉄道株式会社苗穂工場百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀 : 北海道旅客鉄道株式会社苗穂工場 2010
鉄道省年報/鉄道省統計年報資料 : 各年度版 (近代デジタルライブラリー)
交通技術 : 1958年8月号/1967年6月号/1978年8月号
国有鉄道 : 1947年より各号
交通年鑑 : 1947年より各刊
新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968
鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972
北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992
苗穂史 : 北海道拓殖銀行苗穂支店 1966
ふる里は今ふた昔 : 東苗穂第一団地自治会発足20周年記念誌 1984
札幌の橋 : 札幌市教育委員会編 1979
北海道建設新聞 2012年5月29日号
苗穂駅周辺地区のまちづくり : 札幌市 2002
フォーラム 苗穂を語る会実施報告書 : 札幌市中央区苗穂町内会編  2003

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f5.6  Fuji SC52 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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苗穂 (函館本線) 1991

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苗穂 (函館本線) 1996 の続きである。

苗穂駅にかかわる新たな資料を閲覧したので、これまでの記事の補遺および訂正としたい。
ひとつは、1958年度に行われた札幌地区改良工事の資料である。
この改良は、札幌の機能が旅客・貨物とも限界に達したために計画されたもので、札幌の貨物扱いを桑園・苗穂・東札幌に分散吸収させ、着発線容量を緩和して構内作業の隘路を解消し旅客列車の増発を図ることを目的としていた。
苗穂には、札幌地区における小口扱貨物の全ての集約化と札幌から札幌用品庫関係と石炭専用線扱いを除く特殊扱い貨物(*1)の移転が計画されていた(*2)。これにより苗穂では、年間で40万トン余りを想定する扱いに駅本屋西側の貨物積卸ホームを幅11m・延長140mから15m×180mに拡大し、さらに15m×110mのホームを新設、上下の仕訳線群の増設も行われた。その後から現在までの用地規模はこの際に決定されたことになる。完成は1958年6月と記録され、同1日付にて札幌駅は旅客駅となっている。
そこに添えられた工事完成時の構内配線図には本線列車運転の7線が見て取れる。本屋に接した1番線から下り仕訳線群に隣接の7番線までであり、それぞれの使用方は以下である。
 1番 - 東札幌小運転線(*3)
 2番 - 通路線(*4)
 3番 - 千歳線上下副本線
 4番 - 函館上副本線
 5番 - 函館・千歳上本線
 6番 - 函館・千歳下本線
 7番 - 函館下副本線
加えての、南側に1・2番線に接続して上り仕訳線の5線と北側に下り仕訳線の9線が専用線接続側線を除く苗穂駅配線の全てである。当時に一面のみだった島式乗降場は当然5・6番線に面していた。
興味は駅本屋に接した1番線に乗降場の存在だが、この図面からは読み取れない。その東端には行き止まり線が1線あり、これが前年まで定山渓鉄道の電車が着発していたホームであろう。既に営業線でないためか番線表示は無い。

この1958年当時の図面と、同時に発掘した1966年時点での構内配線略図、および1947年の米軍撮影の空中写真からこれまでの記事を訂正する。
1935年から36年にかけての貨物設備増強工事に際して移設、改築されたと思われる駅本屋は、同じく移設の北海道鉄道札幌線着発乗降場と一体に建てられたことは、それから10年後に撮影の空中写真に見て取れる。
本屋西側に貨物積卸施設が隣接して、乗降場は本屋位置から東側に延長を持っており、現在の改札口付近から駐車場に転用されている敷地の東端に至っていた様子である。そこには機関車牽引の混合列車の発着したものであろう。その島式ホームの向かい側が行き止まり線であり、単行のガソリン動車に使われたと思われ(*5)、後年には架線しての定山渓鉄道列車の乗入れ線である。1958年の配線略図は前述のとおり1番線の状況は読めないものの、ほぼこれを裏付けていると見て良い。
これの7年後、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線化に際して島式乗降場の一面を増設した以降を示す1966年の図面では、島式ホームから本屋側に線路は6線を数える。これは、前に推定したとおりに不要となった旧札幌線ホーム(*6)を取り壊し、そこに貨物関連の1線を増設したものと思われ、乗降部の無い乗降場を土台に本屋の建つ現状に一致する。また、この際の増設乗降場はやはり現在の岩見沢・千歳方面ホームであろう。(この決定的な資料はまだ見つからない)
前回記事の1960年代に実見したホームから本屋側に5線の線路は、見誤りか記憶違いと云うことになる。
この時点での本屋側からの各線使用方を記して置く。島式ホームに面するのは3番から6番である。なお、操配線の番線表記は記されておらず、以下は便宜上の区別である。
 操配1番 (使用方不明)
 操配2番 (使用方不明)
 操配3番 (使用方不明)
 1番 - 千歳上下副本線
 2番 - 函館上副本線
 3番 - 千歳上本線
 4番 - 千歳下本線
 5番 - 函館上本線
 6番 - 函館下本線
 7番 - 函館下副本線
* 脚注は追記にある
(この項 苗穂 (函館本線/千歳線) 2009 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

写真は、苗穂構内での4列車<北斗星4号>。それの3往復定期運行の頃である。
これも札幌駅の高架化で可能になった画角だけれど、この位置に今は立てない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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長万部 (函館/室蘭本線) 1991

oshamambe_12-Edit.jpg

モノクロ撮影での「長万部」と記録されたカットには圧倒的に夜間のものが多い。
かつては、この周辺での撮影から翌日に移動する中継地にしていたし、本州連絡の寝台列車が走り始めると、日の暮れてしまうそれの上りのポイントにしていたからだろう。函館本線の分岐する北部構内や、機関区を見下ろす人道跨線橋の架けられた後はそこが定番だったけれど、本屋南側の貨物積卸線群が整理されればその跡地に立っていた。今は広い駐車場になっているところである。
この南部構内の外れには屋根付きの跨線橋が渡っていて、その手前の信号扱所建物と共にここでの構内風景の一部を成していた。この跨線橋は、構内西側に在った鉄道官舎の集中した地区と東側、駅前側の本町通り(国道5号線-現町道)を連絡していた踏切道に替えて、1960年代半ばに架けられたもので、その頃までには西側地区に一般住宅も増え、列車回数の増加や引上線での支障などから設置されたものと思う。国鉄の財産で、乗降場間の旅客跨線橋と同じ鉄骨構造に木造の建屋をもっており構内の添景には申し分無いものだった。特に夜間の窓灯りの写り込めば、画角に趣を与えてくれていた。
けれど、この跨線橋も2001年にやや上り方に開通した道道1041号長万部公園線のふれあい大橋に併設の歩道に代替の上で解体されてしまった。とっくに官舎は取り払われており、跡地は奇麗に整地されて西側で通じていた路地跡だけが残っている。
以来、長万部で構内南側を向いた写真は撮っていない。

写真は、長万部を出て往く6列車<北斗星6号>。
まだ構内掛による気動車の入換業務が存在して南部構内の照明塔が機能していた頃である。この明るさで列車の画角内の見かけの移動距離は小さいから、列車後部を除けば十分に写し止められる。

[Data] NikonF4s+AFNikkor105mm/F1.8S 1/4sec@f1.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

苗穂-白石 (函館本線/千歳線) 1991

shiroishi_03-Edit.jpg

豊平川橋梁(217M)苗穂方のR400曲線を抜ければ、ほぼ直線のこの区間は、千歳線列車運転線を含む複々線の続いて引きも取れ、札幌往来の列車写真には定番の区間である。橋梁の架替に際して生じた短いR800の反向曲線がアクセントを添えている。
加えて、複々線の南側には白石構内から線路を撤去した路盤が続き、画角に余裕を与えてくれていた。
ご承知のとおり、1968年10月1日の新札幌(現札幌貨物ターミナル)の開業に際して、東札幌から白石を経由しての連絡線として敷設され、1986年11月1日に東札幌とともに廃止された貨物運転線跡である。開業当初は千歳線に所属したが、それの白石接続に経路の変更された1973年9月9日を以て函館本線の支線とされていた。

実を云えば、この路盤の白石寄りの一部区間は、戦時の不要不急路線として1945年3月1日に東札幌から白石までを廃止した定山渓鉄道のそれを転用したものであった。この鉄道は、札幌在住者には一般に千歳線の苗穂までを直流1500Vで電化して乗入れていた郊外私鉄と認識されているけれど、1918年の開業時の起点は白石だったのである。
そこに市街地の形成される遥か以前の廃止にて、その痕跡は残っていないが、現在の札幌コンヴェンションセンタ南側の道路がその一部と何処かで読んだ記憶が在る。けれど、1948年4月に米軍の撮影した空中写真に廃線跡を追えば、その敷地に、即ちかつての東札幌の貨物ホーム位置に取り込まれているように見える。

写真は、行啓通り踏切の白石寄りからの回8022列車。白石から札幌運転所までの<カートレイン北海道>編成の回送である。真夏の昼近くならば、光線は強烈なトップライトに荒れてしまう。
白石で客扱いと自動車の取卸しを終えた編成は、折返し整備のため一旦札幌所まで送られていた。その際の運転線は勿論この函館上り線である。白石据付けの下り回送は、千歳線上り運転線(下り線)が経路であったけれど、それでもそこで千歳線下り運転線と函館上り線の横断を要していた。

最近に、この行啓通も跨線橋にて立体化され、この区間での立体交差は3箇所となって撮り難くなった。豊平川付近に撮影者の集中する所以かも知れない。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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