"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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洞爺 (室蘭本線) 1990

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静狩から30キロあまり続く、噴火湾北岸に迫り出した山塊の断崖を幾つもの隧道を穿って通過する区間は、虻田町大磯海岸でようやくに終わり、下り列車はクリヤトンネル坑内からの半径800メートル曲線を左に旋回しながら、ゆっくりと海岸線に姿を現す。この減速はその先の洞爺停車場手前、長万部起点40K885M地点に所在の半径400メートル曲線に速度制限を受けるゆえなのだが、如何にも難所を越えて来た安堵感を漂わすように見えて好きな光景だった。特に機関車列車にその感が強い。
断崖への長大隧道構築の困難は、長万部輪西間鉄道の全通が道内幹線では遅い部類の1928年を待たねばならなかった所以であった。けれど、豊浦-洞爺間(当時には辨辺-虻田間である)に限れば、延長の在る隧道掘削を避けて断崖下に路盤の選ばれており、まだ地形が許したと云うことなのだろう。ただし、それは噴火湾の浪害と切取法面からの落石や土砂崩落と引換えであった。

もっとも大きな災害は、それが鉄道関連に限らぬ年表の類いにも記録される程の規模だった1967年9月27日の土砂崩壊であろう。未明の午前0時18分頃、起点38キロ200メートル付近で秋霖期に続いた降雨に地盤の緩んだ切取部斜面が崩落し、約7000立方メートルの土砂が線路を埋めたのだった。これだけでも復旧に手間取る土砂だったのだが、その作業中の10月3日に現場は再度の大崩落に見舞われ、その土砂量は都合40000立方メートルにも及んだ。加えては崩落斜面の上部に巨大な岩石が不安定な状態にて残り、発破にて粉砕せざるを得ないなど復旧をより困難にさせていたのである。
函館山線も幹線として機能していた時代ゆえ、長距離優等列車には早速に迂回運転の手配が取られたものの、秋の繁忙期を迎えていた貨物輸送には、その線形からの低い牽引定数に、貨物幹線だった室蘭本線の代替を完全には果たし得ず、函館-室蘭(東室蘭)間にトラック代行輸送を実施した他、青函航路の空知丸と檜山丸(ともに初代)に民間からの傭船1隻を青森桟橋-室蘭港日通埠頭間に臨時運行させた。当初に車両渡船は車両甲板を板敷としたバラ積荷役であったが、後に未使用で保有していた橋梁向けの鈑桁を活用した可動橋を仮設しての貨車航送も行われた。これらにより、不通期間後半には貨物所定輸送力の75パーセントまでを確保したと云う。

豊浦-洞爺間では線増工事の進められていた時期であり、崩落に見舞われた線路は一年後には(将来に下り線となる)別線新線に切替られて大部分が放棄される運命だったのだが、事故地点はたまたまに将来の上り線として路盤の再利用が計画されていた位置にあたり、手戻りの無きように復旧の考慮され、その費用総額は418百万円であった。現行上り線で堅固な第二チャス落石覆いの構築された地点である。車窓に見る通り、ここに今でも海岸線までやや距離のあるのは、海まで流れ込んだ岩石・土砂の名残である。かつては路盤直下まで護岸が迫っていた。
現場の開通は10月20日の15時27分のことであり(*1)、室蘭本線は事故より24日を経て旧に復したのだった。なお、この間に連絡船2隻は46運行を行い11700トンの物資を航送と記録に在る。
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(*1) 復旧には幾つかの異なる記録(20日・21日・23日など)が残り、特定し切れていない。この時刻は、D51機と車掌車1両による線路確認列車通過を指したものかも知れない。

写真はクリヤトンネルを抜け、大磯の海岸を洞爺へと向かう8007列車<エルム>。
1968年9月28日に使用開始した新線である。前記の通り、事故より丁度一年後のことだった。復旧した既設線をこれに切替え、その間に既設線の一部路盤を活用しつつ上り線用の新線を建設したとは、ここに何度か書いている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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北舟岡 (室蘭本線) 1990

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今、北舟岡に降りると駅前広場と呼ぶには躊躇する空き地の広がり、段丘面上の道道779号南黄金長和線(旧国道37号線)へは土道が続いている。これは伊達市の都市計画に基づき造成されながら、その後の情勢変化にて、謂わば打ち捨てられたものである。
その計画決定は古く、1950年代からのことになる。1890年代に通じた長万部室蘭間道路に始まる一級国道37号線の新道バイパスが市街地北側通過と決定し、幹線輸送力増強を目指した国鉄の第二次五ヶ年計画下で、旅客も便宜的に扱う北舟岡信号場の新設となれば、将来の駅昇格を視野に新国道よりそこに至る都市計画街路が1962年3月13日に公示されたのである。そして、この街路西側までが市街化区域(当時にこの用語は無い)とされ、早速に団地造成の土木工事も始められた。後の見晴台団地である。北舟岡の駅を核に駅前通りを整備し、段丘上への市街地形成を誘導する目論みだったろう。
1960年代を通じての経済成長、70年代に地域的にも続いた都市部への人口流入と核家族化により、伊達市の人口は1970年に30117人と3万を越え、1980年に3万5千人に達して以降現在まで横這いとなっている。道内から地方都市から人口流失の続く中では異例とも云え、土地区画整理事業として1976年に始められた「舟岡シーサイドニュータウン」造成を経て、伊達市が市街化区域とした舟岡町は、2010年の国勢調査にて2734世帯、6770人の人口を擁するまでに市街化の進んだ。
そこは基盤整備も十分に為された住宅街を形成して、市の先見は功を奏したとして良さそうなのだが、この間のモータリゼイションの進展には鉄道は見放され、北舟岡は駅への昇格どころか信号場の廃止には辛うじて仮乗降場にて存続したのみだった。前記都市計画街路の道道より北の部分は植生も整備された住宅街の街路となっているのに対し、駅へと通ずる南側は土道のままに残された所以である。

軌道インフラは優等旅客や貨物輸送に必須なのだから、室蘭を起点に伊達紋別との間での短編成気動車によるフリークエントサーヴィスは新たな投資無くして可能であり、同区間運行のバス便から一定の乗客を奪えそうにも思えるが、道南バスのその路線すら閑散線とあっては北海道旅客鉄道の動くはずも無い。

写真は、北舟岡の旧信号場場内に差し掛かる9002列車<トワイライトエクスプレス>。
一般多客臨としての運行開始から間もない頃である。スロネ25の未組成でそれと知れる。なお、列番の8000番台付番はこの年3月改正からのことであった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

函館 (函館本線) 1990

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駅なら夜間でも(動体が)撮れるのは1980年代半ばまでは常識だった。煌々とした構内照明の大駅ならISO400でも絞り開放では1/125秒が切れることもあったし、僅かな灯りの構内でも画質の許容出来る範囲に在ったISO800まで押せば何とか写し止められた。例えシャッタ速度の1/30秒程度しか確保出来なくて被写体のブレても夜間動体撮影の表現に違いなく、寧ろその方が本筋ではある。
ここにも幾度か書いているが、これの揺らぎ出すのは、国鉄が貨物輸送をヤード作業を廃した直行輸送への転換を決めた1984年2月改正以降のことである。車扱からの大幅な撤退により夜間に作業を要していた組成駅や中継駅のほとんど全てで、それの撤廃されれば構内を照明するまでもない。当時にこの変革の意味するところを理解し十分に承知もしていたのだけれど、構内照明の減らされ落とされ、闇に沈み込んで往く駅の次第に広がるには困惑した覚えが在る。
旅客輸送においても、運用合理化の要求からダイヤ改正毎に入換駅や滞泊駅が集約され始め、それは1987年4月の国鉄の分割・民営化以降には極端なまでに進んで、照明に浮上する構内など希有な存在と成り果てた。

ここ函館についてのそれは、1988年3月改正での青函貨車航送廃止による。昼夜分たず行われていた組成、分割、入換をともなう航送の作業が、この改正を境に無くなったのである。終航後も暫くは構内照明も変わらずに点されていたが、同年8月の連絡船の遊覧運行終了を待って着工し、最終的には現行駅舎の使用開始まで14年あまりを続けられた、函館市都市計画と連動した構内改良工事の過程にて照明塔は全てが撤去されてしまった。この一連の改良工事については、函館 (函館本線) 1988函館 (函館本線) 1978 に書いている。
ロープウェイで函館山に登頂し、かの高名な夜景を眺めれば、照明塔の残された函館運輸所の一角を確認できるものの、かつてには函館桟橋とともに一際明るく視界に目立った構内は、ホーム照明を遮る上屋群の存在でそれと知れるだけである。

写真は、函館に進入する6列車<北斗星6号>。
長万部で2と4列車をバルブで収め、30分後にやって来る最終の<北斗>で函館に移動、6に8008列車を待ち構える手順は幾度か繰返した。快速<ミッドナイト>で折返したいところだが、それは時刻的に叶わず、下り<はまなす>を待つことになっていた。
第4乗降場が運用を開始し、第2・第3乗降場の旧桟橋側が使用停止となった頃で、既に照明塔の消灯しており、運転所から漏れ届く灯りだけが頼りだった。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/30sec@f2.8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

上野幌-北広島 (千歳線) 1990

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札幌市の経済発展を背景とした千歳線沿線における公的宅地開発事業は、1960年代後半に開発面積が50haから100ha規模の千歳市東郊地区、恵庭市駒場地区を端緒に(これに先立つ北広島市輪厚団地の市営住宅開発があるけれど、これは沿線域を外れる)、1970年には広島町の旧市街地東側に広がる丘陵地での北海道主導の440haに27000人の居住を目指した大規模開発が始まり、以後、民間を含めて続々と計画の続いた。
これにて、同町を例に採れば1970年に9746人であった人口が1975年に22264人に急増するなど、全ての開発計画が札幌への通勤線に依拠した国鉄千歳線の沿線人口は著しく伸長したに関わらず、国鉄側の対応は必ずしも開発事業者の思惑や利用者の期待どおりでは無かったのである。

この間に千歳線は、1968年10月に予定した全線複線供用が苗穂-上野幌間の線増方式決定に手間取り遅延しながらも、1973年9月9日の同区間を最後に施行されるなど線路容量の飛躍的に向上したのだけれど、それはあくまで対本州連絡輸送に重きを置いてのことで、以降の輸送力拡充は貨物輸送を主体に長距離旅客輸送に振向けられ、線内輸送は1972年3月改正時の上下24本列車が1975年3月改正に至っても2往復の増発を見たのみであり、朝の通勤時間帯でもキハ21や22を連ねた列車の4本が雁行するだけの有様であった。これには、完成した分譲住宅に全く募集のかけられないなど沿線の宅地開発事業の計画進行の遅滞を引き起こし、道議会で問題視されるなど新聞にも多々取り上げられるところともなっていた。
運行の大幅な増発は電車運転を前提としていた国鉄北海道総局も1964年1月に当時の北海道支社へ設置の「北海道電化計画委員会」が立案した1971年度からの遅れを憂慮しただろうが、代替案の気動車の増備は電気運転の実現すれば手戻りとなるだけに踏み切れなかったのである。
電気運転化工事の着工に至らなかった事情は、以前の記事 張碓-銭函 (函館本線) 1974 に書いた通りであり、国鉄も道も、また利用者も国策に翻弄されたゆえであった。
それのようやくの実現は1980年10月改正を待たねばならなかった。一挙上下60本運転への増発は現在の頻発運転に比すれば隔世の感もあるのだが、この飛躍的利便の向上を見越してのことか、その年に広島町の人口は4万人を突破したのだった。

R=800M曲線を旋回して厚別丘陵越えのサミットに差し掛かるのは2778M、千歳空港行き。
幾度かここにも書いている通り写真屋として幹線の電化区間をあまり好まぬ上に、実を云えば鉄道屋としても電車は全くの専門外である。なので、北海道へとやって来て、それを意識的に撮ることはほとんど無い。後方からの斜光線で知れるだろうが、これも8002列車を待つ間の習作カットである。
線内列車自体の増発も在って過密化する千歳線の線路容量拡大には、最高運転速度の130km/hを伺っていた気動車列車に伍する速度に、各停列車の加減速性能向上を要して1988年度に開発されたのが721系列電車の一群であった。そればかりでなく、接客設備から車体デザインに至るまでのコンセプトは北海道旅客鉄道の意欲作として良い。発足当初には同社が輸送サーヴィス業者として正しい道を歩んでいた左証でもあろう。
高速走行に「タラコ唇」状を呈する貫通幌の小樽方定位には、撮るなら苫小牧/岩見沢方面行きに限る。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec.@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

礼文-大岸 (室蘭本線) 1990

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山塊が海岸線に落込む地形の続く噴火湾北岸の交通路は、1799年に幕府が箱館からニムオロ(根室)、海路キナシリ(国後)までに至る軍事通行路の一部として松前藩に開削を命じたことに始まる。峻険な地形には先住民族も海岸線に点在したであろう小集落間の移動には小舟を用いていたのである。
工事は難航し翌1800年には幕府が直轄工事に乗り出すものの完成に至らず、放置の後、この地域の警護を幕府に命ぜられた津軽藩の手により1803年から再開され、三年の歳月を要してようやく1806年に幅三尺の通行路が通じたのだった。1メートル程の道幅は静狩・礼文華の峠に加えて弁辺から虻田へと続いた厳しい地形に人馬の通行を最低限に保証するものだったろう。
しかしながら、その余りの険しさと、それゆえの高額な通行料には沿岸の交通は引続き海路が選択され、せっかくの陸路は荒廃の進み、開拓使の時代となって1872年から整備の進められた札幌本道も森-室蘭間を海上連絡となれば、これの顧みられるのは1890年を待たねばならなかった。
1886年に成立の北海道庁は、天候に左右されない海路に替わる室蘭への重要交通路との認識の下に、この古の交通路の馬車道への拡輻・改修を開始、一部区間には新道を開削する難工事の末の1894年に長万部から室蘭に至るそれを完成させたのだった。これがその後の部分的な改修を繰返しながら戦前から戦後の自動車交通に対しても道南の往来を支えた道路の原型である。

意外なことに、この険しい交通路に対する抜本的改良の最初の事例が礼文華川の谷と小鉾岸川の谷を山越えで結んでいた区間であり、ここに海岸線を迂回する新道を開削したのである。既に1928年に長輪線(現室蘭本線)が通過していたそこへの工事はアジア太平洋戦争の戦時下に着工され1944年に完成した。九十九折の難所であった礼文華山道など1960年代の改良工事に関わる資料は多いのだけれど、この新道については探し得ていない。
戦時下での工事は軍需上に迫られてとも思えるが、東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない。工事の比較的容易な区間から着工したと云うことだろうか。確かに、断崖下に開削する延長の短いことに加えて、長輪線建設時の工事用道路の一部転用が可能ゆえのことと推定するも確証はない。「長輪線建設概要」(鉄道省北海道建設事務所 1928年)に所載の写真には完成した線路に併行する工事用と思われる道路が現行位置にて写り込んでいるのが見て取れ、それは少なくとも(鉄道の)岩見隧道入口抗口までは通じていたはずである。但し、途中に二箇所の岬の通過には、短いながらも(道路の)岩見隧道と達古武隧道が掘削された。
この道路は1953年に一級国道37号線を構成する一部に指定され、大岸トンネルで芝伏川の谷へと出る新々道の供用にともない1968年3月30日付にて路線認定の道道608号線の一部と変転した。

秋風に耳を澄ませば波音が繰返すだけの噴火湾岸。複線新線の礼文浜トンネルから眼下の新達古武トンネルへと5列車<北斗星5号>が駆け抜ける。
画角中央の廃隧道が1928年9月10日に開通の旧線茶津隧道、さらに海側がこの当時に現役だった道道608号線の岩見隧道である。この静かな海辺の風景も1996年から97年の室蘭線旧線茶津隧道と達古武隧道を転用した道道新道の建設にて失われてしまった。
国道37号線に対しても道道としても旧道となり、打ち捨てられた隧道は以後も閉鎖されながら現存する。それに巻かれたコンクリート壁には実見で1970年との刻印があり、道に移管後の改修によるものと知れる。隧道半ばには素堀のままの個所も残されていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1990

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去る2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による津波は北海道内浦湾(噴火湾)岸にも到達し、豊浦町の本町地区では同日19時05分に最大波高3.4メートル(札幌管区気象台速報値)を記録した。人命の失われこそしなかったものの、豊浦漁港に面した、いぶり噴火湾漁業協同組合豊浦支所や一般住宅36戸が床上床下浸水し、ホタテ養殖施設には約30億円に上る損害を与えた。1960年のチリ地震津波の最大波高2.06メートル(北海道庁公式値)を上回り、近年では最大の津波であったのだが、噴火湾岸は過去に二度、これとは比較にならない程の大津波に襲われている。どちらも地震では無く、その湾名由来の火山噴火にてもたらされたのが特徴的である。

ひとつは歴史時代を遥かに遡る、およそ7000年から8000年前とされる有珠成層火山の大崩落、今に云う「善光寺岩屑なだれ」により引き起こされた大津波である。これによる堆積物が駒ケ岳周辺を始め多くの内陸地点で見つかり、その規模が推定されている。
対して、その駒ケ岳の1640年の大噴火による大津波は、全て後年の聞き書きながら「内浦嶽発火動山海蒼海水溢人夷溺死者甚多人里破壊船百餘隻 」(松前年歴捷径 1799年)、「ウスノ善光寺如来堂ノ后口山マデツナミ上レリ」(雑羅記録 年不明)、「十三日午後ヨリ内浦ヨリ東夷地マテ津波商船夷舶夷船人数七百餘人溺死」(福山舊記 1834年 )、「山峯焚頽而堕于海木 石飛散,海嘯大起」(日本災異志 1894年)など多くに記録された。
標高1700メートル程と推定された成層火山だった内浦嶽(当時和人はそう呼称した)は、同年7月31日(旧暦6月13日)のプリニー式大噴火の直前に山頂部の500メートルを吹き飛ばす水蒸気爆発を起こし、これによる岩屑なだれは東および南斜面を流下して噴火湾に没入し大津波を生じさせたのである。
近年の研究(※)によれば、この津波は土砂の海面突入後20分で室蘭母恋半島南岸に、40分後までには噴火湾全岸に到達し、堆積物の発掘調査と堆積物没入量と速度から計算される遡上標高は、森町鷲ノ木で6.8メートル、伊達市アルトリ岬で8.3メートル、伊達市黄金で10メートルと推定され、それは前記の「雑羅記録」から伺える善光寺如来堂の標高8.5メートルを裏付ける結果となっている。それは発掘地点の地形から最低遡上高であり、総じて湾岸には6メートルから11メートルを越える波高の津波が押し寄せたとされる。それは先の災禍での大船渡や気仙沼、久慈に匹敵する。海溝性地震によるそれと異なる短い波長には、まさに壁として来襲したに違いない。

700人を越える溺死者とは、全てがこの当時に湾岸に暮らした先住民族アイヌである。文字を持たなかった彼らは、その被害に教訓を口碑として残した。それを採取した人類学者-吉田巖は1915年に人類学雑誌に発表した「アイヌの天地山水説話」にこう書いている。
「内浦湾沿岸のアイヌ間にも昔大海嘯のあつたと衆口一致してある。膽娠元室蘭はそのため寳器什物遠く對岸の禮文華エコリの岬に漾ひ附きてエコリの名を留めオシャマンベヌプリ(長万部山)、コンポヌプリ(昆布岳)は、鰈(シャマンベ)、昆布(コンポ)がその山に打揚げられたからの命名といふ。斯く海岸からかけ離れた山にまで海に因んだ命名を在するのは必ずしも海嘯の結果とのみ解することはできぬがその多くは海嘯に因むようである。」
津波によって長万部岳や昆布岳に鰈や昆布打ち揚げられるとはあり得ない話だけれど、その遡上の高さや内陸深くまで達した浸水の様子が伝承されたものであろう。
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(※) 北海道駒ヶ岳噴火津波(1640年)の波高分布について : 西村裕一・宮地直道 (火山第43巻第4号 1998年)

礼文華浜を背景に峠への築堤へと向かうのは150列車。萩野からのロール紙輸送のワキ5000編成にコンテナ車を併結編成した運転だった。
津波は、この狭い開口部一杯に押し寄せ、推定波高からは、海岸線より2.7キロ余り離れた現在の鉄道築堤付近にまで遡上したと思われる。画角に写る平野部は勿論全てが水没域となる。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

苫小牧 (室蘭本線) 1990

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苫小牧は室蘭本線上の拠点駅ではあるけれど、それほどに広大な構内規模を持っているではない。1892年8月1日の北海道炭礦鉄道による岩見沢-室蘭(現東室蘭)間開通に際して、開拓使勇払郡出張所が移転していた勇払郡字苫細の原野に開かれたこの駅の、その後の拡張は周辺の原野を得て1910年に立地した王子製紙(初代)苫小牧工場の荷主としての要求によりなされ、同時にそれに囲まれたがゆえに用地に限界のあったとも云えよう。

苫小牧市史に1911年に本屋を改築し跨線橋設置とあるのは、それの本格操業にともなう着発貨車の増大や旅客増に対応して構内の拡張を要してのことと思われる。海側所在の貯木場(*1)に達していた王子製紙専用鉄道を改めた苫小牧軽便鉄道が1913年に構内へ乗入れ(*2)、1927年の762ミリ軌間であったそれの国有化に際しては、構内に専用の機関区(追分機関庫苫小牧分庫)と工場施設(苗穂工場苫小牧派出所)が設けられ、1929年12月9日の改軌完成による室蘭線接続に併せては現下り用の第二乗降場の設置を含む構内の大改良が行われ、本屋側の1番線から9番線までの本線を擁する現況に繋がる規模となっている。軽便線の乗入れていたと思われる本屋隣接乗降場の使用停止、同線(1番線)の通路線化もこの際であろう(*3)。なお、用途を失った苗穂工場苫小牧派出所は同日付で廃止されるも追分機関庫苫小牧分庫は存続した(*4)。
いつの改良かは特定出来なかったのだが、上記本線に本屋西側の王子工場専用線の分岐位置に1番から5番上り仕訳線が、構内北側に1番から4番の下り仕訳線が、本屋東側に貨物積卸線2線ほか側線の整備された規模が戦後の1950年代までの苫小牧であった。1950年2月10日には機関区に隣接して苫小牧客貨車区が開かれている。
この頃には王子製紙の増産に加えて、戦後に接続した岩倉組の木材関連工場への専用線(*5)の扱いも増え、上記設備による下り198両/日、上り514両/日の仕訳能力に対して、操配車は1957年度に754両、1959年度には814両に達していた。特に下りの能力不足が著しく、1955年度でも280両を負担して側線は勿論のこと本線2番に貨物積卸線も仕訳に用いる有様であった。この事態に拡張の余地の無い構内を3.4キロ沼ノ端方の一本松地区に求めたのが、苫小牧操車場である。苫小牧工業港の開港に臨海工業地帯の開発とも関連するこれについては次回に続ける。

上記の1929年の改良以来の特徴的な配線には、日高線本線との進入・進出の1〜3番線限定がある。日高線は室蘭線の構内を抜けぬうちに南へ分岐していたから、特に同下り線との接続はその有効長確保からも困難だったのである。これが1962年12月1日に日高線が勇払方へ操車場構内まで室蘭線と並列に付替えられた以降にも改められないのは、そこに相互の渡り線を設備したゆえであるが、様似から札幌への急行列車は室蘭線下りへの併結に際して上り方への本線引上げを要して、些か不可解でもあった。(この項続く)
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(*1) 現在の王子総合病院、白鳥アリーナ、中央公園一帯を用地としていた。
(*2) 省線との連帯運輸の開始は1922年7月1日からである。貨車の直通のあり得ず、それは旅客・荷物に限られた。
(*3) この1929年度の構内改良は、1952年8月苫小牧駅発行の『開驛六十周年記念誌』(北海道道立図書館収蔵)によるが、少なくとも1927年から1636年の鉄道省年報には記録されていない。
(*4) この際に山側へ移転か?
(*5) 現在の株式会社イワクラ。1944年から53年に駅北側に製材・床板・合板・パーティクルボードの各工場を操業、専用線が引込まれていた。1958年には現在の三光町にパーティクルボードの第二工場を開設して、ここにも専用線が追設された。なお、現在では全ての工場が臨海部に移転している。

写真は、苫小牧室蘭上り本線に停車の2列車<北斗星2号>。
陽の短い季節には札幌近郊でも走行撮影は困難だったから、それは必然的にバルブになっていた。苫小牧のこの位置は王子製紙の工場構内が背景にとなるゆえ、それを写したくなければ構内照明の反射を取り込めるように列車との角度を浅く取った上で、バルブ時間を切り詰めるしかない。逆に取り込んでしまったカットなら 苫小牧 (室蘭本線) 1994 に在る。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED Bulb@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上野幌-北広島 (千歳線) 1990

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上野幌-西の里信号場 (千歳線) 2008 から続く

千歳線苗穂-北広島間別線の工事計画の概略は以下である。
(1) 苗穂より豊平川橋梁までは既設線3線の北側に1線を腹付けし、橋梁から白石構内までは函館線複線の北側に2線の増設とする(*1)。
なお、白石付近では東札幌から新札幌(現札幌貨物ターミナル)への連絡線が南側に増設される(*2)。
(2) 白石以遠は用地の関係から函館本線の複線路盤を千歳線複線に転用し、その南北に1線ずつを地平に腹付けして操車施設用地に至り、これを抱込んで厚別川付近まで10パーミル勾配の白石高架橋を上下線別に構築、外側に函館上下線を腹付けして既設の厚別に繋ぐ。ここでも、白石方南側には上記連絡線が付帯する。
なお、着工時のこの計画は操車設備自体の設置が取りやめられたため(*3)、用地北側に複線路盤の高架橋構築に変更された。
(3) 厚別川に厚別川橋梁(l=323M)を架橋し直進、続いて厚別高架橋を構築して起点8K716Mに下野幌停車場(仮称)を置く。
(4) 下野幌停車場からは短い盛土区間を経てR1000で右に回る下野幌高架橋を構築して野幌川左岸の丘陵部に取り付き、R800左回りの切取・盛土を築造する区間となって、その先に移設の上野幌停車場を置く。
(5) 上野幌構内にて野幌川を渡り、右岸の丘陵地を切取・盛土によりほぼ直線の路盤を構築して既設線西の里信号場北側に至る。途中丘陵地の谷に大曲橋梁(l=231M)、保安林橋梁(l=115M)、橋本橋梁(l=82M)を架橋する。
(6) 既設西の里より起点19K200M付近まで既設線北側に並行した後、同地点でこれを横断、以遠は南側にほぼ並行しながらR=800右回りの輪厚橋梁(l=363M)の架橋にて北広島構内に接続する。

白石高架橋および厚別高架橋区間で高度を上げて下野幌(新札幌)にて29M00の施行基面高を確保することで、椴山付近での同63Mの頂点まで10パーミル勾配を維持する縦断面線形にて設計されている。既設線の西の里信号場以遠区間が既設線とほぼ同経路にもかかわらず腹付け線増としないのも、輪厚川前後に介在した下り込みを避け、これも10パーミルを維持して北広島へ下るためである。
新設の上野幌までの延長は11.6キロとなり、既設の上野幌への12.4キロを大幅に短絡するものであった。

前記に加えて、新札幌(現札幌貨物ターミナル)から函館/千歳線下り方への通路線が設けられたのだが、これは本線抱込み式の操車場建設が最終段階で放棄されるまでは、それの南側を通過するそれぞれの上り本線として計画された設備である。函館本線上り線は1969年から71年頃には実際に厚別からの本線として使用されていた。
また、上記(1)の東札幌からの連絡線は新札幌構内の他、当然ながら操車場にも接続を計画されており、それはこの南側抱き込み線を乗越すものであった。白石の構内から水源地通り跨線橋付近にかけての余裕のある用地は、その名残である。
なお、操車場用地は札幌貨物ターミナルの着発線群およびコンテナ積卸場の一部に転用され、通路線は着発線に接続されている。
(この項 白石 (千歳線/函館本線) 1992 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)
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(*1) 豊平川橋梁部分については、建設省札幌開発建設部に依る豊平川の河川改修工事と連動して本件工事と切り離され、1962年度に当時の千歳線橋梁から着工していた。詳細は、苗穂-白石 (函館本線/千歳線) 1991 の記事を参照。
(*2) 先行して1968年10月1日に新札幌(現札幌貨物ターミナル)開業に際して開通した。
(*3) 上野幌-北広島 (千歳線) 1988 の記事と当該脚注を参照。

写真は、椴山の切取り区間を往く8002列車<トワイライトエクスプレス>。
ここの跨線橋を「農事橋」と呼ぶ向きがあるが、正しくは北広島市道大曲椴山線の「農場橋」である。近隣の農林省北海道中央馬鈴薯原原種農場(現独立行政法人種苗管理センター北海道中央農場)に由来する。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

植苗-沼ノ端 (千歳線) 1990

uenae_03-Edit.jpg

室蘭本線の複線に千歳線上り線(下り列車運転線)が並走するここは、20メートル近い線路路盤幅が取られ、撮影にも乗って通過しても気持ちの良い区間である。
1892年8月1日に北海道炭礦鉄道が、沼ノ端(当時には未開業)で内陸に進路を取った直線の線路を寂寞とした湿地帯に敷設し、ここは国有化後の1920年9月1日に早くも複線使用が開始されている。
1926年8月21日に(2代)北海道鉄道が札幌線として開業し、戦時買収にて国鉄線となった千歳線は永く単線鉄道であったのだが、その線増計画は、函館/室蘭本線とともに本州-道央地区連絡の輸送力増強として「第三次長期計画」にて予算化され、植苗-沼ノ端間については、室蘭本線を上方で交差して東側を大きく迂回している既設線に対して、植苗から直進、曲線の盛土を構築して室蘭本線に並び、その長万部起点148K500M付近から沼ノ端までの約5キロを西側への腹付けとする別線線増とされた。
1966年に着工して、1969年9月25日の既設線を下り線(上り列車運転線)、新設線を上り線(下り列車運転線)とした複線運転の開始により、ここでの3複線区間が出現したのである。なお、旧北海道鉄道線である下り線に存在した曲線の改良は1967年と1968年に施工済みであった。

先ほど「直線の線路」と書いたが、腹付けされた千歳線は完全な直線ではない。途中、ウトナイ湖から流出する勇払川(この位置での公式の河川名称は美々川)への架橋に際して、室蘭本線のそれと線路中心間隔を空けるための緩い曲線が橋梁前後に存在する。その後に、開通時に完全な直線であった室蘭本線もまた、この勇払川橋梁の架け替えを下流側の新橋梁とした関係にて曲線を生ずるに至っている。何れも、ここでの高速運転を阻害するものでは無い。なお、勇払川の水流部を渡河するのみだった旧橋梁に対し、新橋梁は千歳線橋梁と同じく避溢部をも越える312Mの延長となった。

70年代までの灌木の疎らに遥かヨシ原の広がるばかりでウトナイ湖を見通した景観は、それの乾燥化とともにハンノキにヤチダモの樹林にすっかり姿を変えてしまい、今ここを地形図の記号に従い湿原とするのは憚られる。
それでも、線路だけは彼方まで視野に在って、列車を視認してからシャッターまでの時間経過に些か冗長な撮影になる。
列車は、1列車<北斗星1号>。
これの10分後には8001が、さらに20分を置いて3列車の通過する、今思えば贅沢な時間帯なのだが、場所を移動する訳にも往かず少しばかりもったいないことになっていた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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北舟岡 (室蘭本線) 1990

kita_funaoka_03-Edit.jpg

利用客数を減じる駅の多い中に在って、ここ北舟岡の乗降客数は増加傾向にある。仮乗降場時のデータは採られていないのだが、1992年度の1日平均の108人は2005年度に167人となっている。
これは、その周辺まで伊達紋別の市街地が拡張して駅勢人口の増加しているためであろう。室蘭方面への通勤通学や買物などの用務需要トリップが増えているものと思われる。
近隣の海岸段丘上の畑作地では、70年代より宅地への転換が始まって市営住宅団地なども立地して来たのだが、80年代以降にそれは加速度的に進展して、市街地/住宅地は伊達市中心市街地と連続するようになり、今ここはその東縁である。90年代には段丘下の原野部分も開発対象とされて、室蘭本線の車窓にも住宅街が見て取れる。
近年のデータしか得られなかったのだが、伊達市の1995年度の世帯数13711は、大滝村との合併直前の2004年度に15977世帯、それを加えた2005年度の17015も2012年度には17872と増加しており、これを裏付けている。

対しての人口は1995年度の35145人が2012年度には旧大滝村分を加算してもなお36201人である。
市域の人口は減少しているにかかわらずの市街地の拡大は、伊達市に限ったことでは無い。以前にここでも稚内市、中標津町についても書いたことがある。→稚内 (宗谷本線) 1985/計根別 (標津線) 1975 それは全国的に進行している、社会構造の変化を背景にした単身世帯の増加や核家族化の進展による市街地の外縁拡張なのだが、この規模の都市では旧市街地からの商業施設や人口の大きな転移をともなうでなく、ここでも大型店の立地はその近隣である。これには後背の山間地や農業地域からの流入もありそうで、中心市街地の焼け太りとルーラル地域の集落の縮小や消滅は裏腹な関係なのだろう。
(※人口/世帯数データは伊達市WebSiteに在る資料による)

写真は、強い西日を照り返す5011D<北斗11号>。
函館運転所による、キロ182が500番台である他は 0番台車の運用だったが、夏季輸送期とあって所定7両に対して3両の増結がある。
86年度新製の500番台車に採用され既存の0番台にも及んだ、この新特急色は来る民営化を意識したのであろうが、些か安っぽく感じられ、特にキハ183-0番台車には似合わない。北海道旅客鉄道がこれを廃して数年後、新潟の12系団体用座敷客車に同色が現れるとは意外だった。

[Data] NikonF4s+Distagon 28mm/F2.8(with Adapter) 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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