"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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北舟岡 (室蘭本線) 1988

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1870年4月を端緒とした旧亘理伊達藩による噴火湾北岸、胆振国有珠郡紋鼈地域への数次に渡る集団入植と開墾事業は、それの成功事例とされている。紋鼈に戸長役場が開かれた1879年の末までに、人口は2504人を数えるまでとなり、その農業生産には農機具や食品加工の工場が立地し、その従事者は勿論のこと、住民経済の充実に商業者や物流業者なども呼び寄せるところとなって、1880年代の紋鼈には当時の室蘭を凌ぐ市街地が形成されていたと云う。
道内経済の拠点に成長しつつあった函館との連絡は、1800年代始めまでに長万部への礼文華山道、弁辺山道を含む陸路が通じてはいたものの、辛うじて人馬の通行を保証する三尺幅の険しい峠道は増大する物流に応じられるでなく、加えての割高な通行料には海上輸送が主体であった。用いられたのは帆船であり、当初には自然の良港とされた室蘭や近隣でも有珠湾が中継地とされる中で、紋鼈の請願が実り1876年に東浜に埠頭が築造されるに至った。築港のなされれば早速に農作物の移出や消費物資の流入拠点に機能したに違いなく、伊達町史は函館紋鼈間航路開設を1883年とするが、これ以前より紋鼈の商人や函館の米穀商太刀川善吉による帆船が不定期に就航していたのである。
一方で、函館市史によれば、この時期は道内における個人による動力船=汽船の所有、それを用いた海運業の黎明期にあたり、函館でも豪商渡辺熊四郎が自らの経営する函館器械製造所(後の函館造船所、現函館どつくの前身である)で建造の汽船を所有して回漕業に手を染めていた。後の金森回漕組の創始である。その汽船、矢越丸は1885年11月から室蘭・紋鼈との不定期運航を開始し、順調に輸送量の伸びると見るや、これを定期化し紋鼈東浜に出張所を開設したのだった。
同市史は、当時の「水産事情特別調査」を引用して、地域に与えた経済効果を書いている。曰く、有珠・虻田地域の漁獲の不定期な帆船輸送では時期を逸して買い叩かれたものが、汽船の定期就航により産地側に有利な取引が実現し、また肥料にせざるを得なかった有り余る漁獲に商品価値を与えもしたとある。これは農地の換金作物とて同様であったろう。
地形に阻まれて鉄道の開通を1928年まで待たねばならなかったこの地域にとって、およそ半世紀に渡る海上輸送は生命線だったのである。

東浜に造られたと云う埠頭の位置は知れない。紋別川・気門別川河口を境に東浜・西浜と呼んでいたのだから、それは現在にも残る伊達市東浜町の海岸線の何処かであろう。痕跡も残らぬとなれば、史書は「埠頭」と記すものの木造の桟橋程度だったと思える。半世紀に一度も永久構築物に改良されることが無かったことになる。

東浜の海岸を背景に北舟岡へと接近する1列車<北斗星1号>。
運行開始から間もない頃で、重連の機関車は国鉄制式塗色、次位には函館からのスハフ14が従う。
6月と云うに、立ち込める霞が湾岸の視界を遮る一日と覚えている。うららかな日差しの下、信号場当時からと思える打ち捨てられた乗降台に腰掛けて列車を待ったものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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落部 (函館本線) 1988

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1988年3月13日の改正を以て運転を開始した<北斗星>は、北海道旅客鉄道、東日本旅客鉃道ともに旗艦列車に位置づけた、その多様な設備による積極的な旅客サーヴィスも然り乍ら、青函隧道の開通にともなうマスコミを巻き込んでの旅客誘発効果には両社の想定を遥かに上回る利用の集中するところとなり、幾つかの誤算も生じていた。
本来に輸送力列車とした6003・6004列車への個室式寝台車や食堂車を組成した上の大幅な運転日の追加や、立席利用としていた早朝の函館以北区間から札幌への既存需要を吸収出来ずに専用の座席車連結を要したことなどだが、それは国内では初めての事例として夕食利用の乗車前予約制を採用した食堂車営業にも在った。

ここに国内における食堂車営業史を述べる余裕はないけれど、戦前にも3等特急や急行列車に和食堂の営業の事例などの在るものの、基本的に洋食を提供したそれの利用は本来に一部の優等旅客の利用に限られ、謂わば高級レストランだったのである。その大衆化は戦後の特急列車のそれと軌を一にしており、その過程で供食品目やステイタスも市中の食堂と大差の無くなるのだが、車中と云う物理的事情に、折からの要因不足には価格設定は高止まりして、高かろう不味かろうの評が定着してしまう。これを根底から払拭し、在る意味での先祖帰りとも云えたのが「グランシャリオ」との命名までを伴った<北斗星>の食堂車営業なのだった。
利用時間を区切ったテーブルタイム設定は、高級感の名残の在った頃の食堂車には常識であるが、夕食の案内放送とともに従業員が車内を歩いて募っていた利用予約を乗車前の利用券購入としたのは目新しく、限られる食材の積込み量に、高価なそれの無駄を回避する営業上にも必要な措置ではあったろう。
誤算の第一は、収益の確保から60分のローテイションにて1・2列車で3回転、始発時刻の遅い5・6列車で2回転としていたテーブルタイム設定にあった。5・6列車運用の尾久客車区のスシ24での定員40名維持は、1回転少ないそれを事由としていた。
メインデッシュを肉料理としたフランス料理のAコースから以下B・C・Dと同じく魚料理のフランス料理、スペシャルシチュー(ビーフ)ディナー、海峡御膳と銘打たれた和食のコース料理の提供に客は60分で席を立たなかったのである。勿論、ある程度の想定の下に予約券販売数(予約人数)を定員未満として各テーブルタイム毎に予備テーブルを確保していたのだが、Aコースなら¥7000を支払い旅情をもその範疇とした旅客心理を読み違えたのだった。急遽、一ヶ月前から発売する予約券販売数の削減を可能な時点より手配して凌いだものの、当時にマスコミにも注目された営業であっただけに、1988年6月22日の発売開始分、即ち7月22日相互発列車よりローテイションを80分とする変更がなされた。これにて、1・2列車の3回転が2回転に、5・6列車では1回転のみとなるなど営業収支の悪化は避けようの無い措置ではあり、後々の営業に与えた影響は小さく無い。

もう一つの誤算は朝食である。これは定期運転の終了まで四半世紀余りそうであったように予約は不要だったのだが、運転開始直後には夕食利用の予約制と云う物珍しさも手伝ってか、午前6時だった営業開始とともに利用客の押し寄せて混乱を生じたため、当面に30分ローティションの時間区分のなされ、前夜に車内で予約制が取り入れられたのだった。正規に告示されたものでは無く、営業を担当した日本レストランエンタプライズの判断(もちろん鉄道側承認の下である)で臨機応変に施行されたものだろう。よって廃止時期も明らかでないのだが、Web上の乗車紀行などの記述からは1988年度内には継続されていたと伺える。
余談ながら、当初に前述のとおり午前6時からだった朝食営業は、88年の11月時点では6時30分に改められたのが確認される。正確な施行日にその事由は不明である。
波穏やかな朝の噴火湾岸を駆けて往くのは1列車<北斗星1号>。ここの5時30分の通過には、食堂車は営業準備に追われている頃であったろう。なお、機関車次位は函館から増結のスハフ14である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec.@f5.6 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[お詫び] この写真はWebSiteのギャラリーにて既発表のものです。但し、レタッチを全面的にやり直しています。

豊浦 (室蘭本線) 1988

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前回記事 落部 (函館本線) 1988 からの6003・6004<北斗星3・4号>への個室寝台車・食堂車の増結に関わる興味を続ける。

増結(組込)の施行
当初には夏季輸送の終了する9月3日相互発までが予定され、9月3日の6003と増結車の抜取られた4日の6004は前回に述べたように青森駅経由が計画されていたのだが、個室寝台への旺盛な需要に期間の延長されるところとなった。しかしながら、検査回帰の関係もあって尾久区車は予定通りに9月3日の6004を以て組込を一旦終了し、同月6日の6003から再組成とされ、札幌車は10日の6004まで組成、尾久区で交番検査の上13日の6003からの再施行であった。
この時期以降1989年3月11日改正まで6003・6004は集約臨としての運転を含めて、ほぼ毎日の運転が決定しており、この間も増結は断続的に施行された。9月4日以降の月別の施行回数(上下計)は以下のとおりである。「札」は札幌所予備車、「尾」は尾久区予備車の増結を示す。
[09月度] 札-12/尾-16
[10月度] 札-8 /尾-10
[11月度] 札-12(内8回はオロネ25+スシ24のみ)/尾-16
[12月度] 札-7 /尾-23
[01月度] 札-9 /尾-9
[02月度] 札-10/尾-12
※ 3月度は個室式寝台車にロビー車、食堂車の増備による定期列車格上げ準備のため施行は無い。

札幌所と尾久区での施行回数のバラつきには上下の一方が増結編成でも、もう一方はB寝台車だけの運転日も在ったことを示し、前回にも書いた通り、定期列車の範疇で運用も固定化された季節列車には極めて変則だったことが分かる。

方転編成での運転
これも前述のとおり、札幌車の組込と解放の都度に青森以北区間を方転編成で運転され、それも度々であった。停車駅では乗車口案内板の差替が生ずるところだが、1・2列車とは同方向につきそれの案内板を流用出来たゆえ、その煩瑣は避けられていた。とは云え、それの続くでは無く、一日だけのことであったから駅では注意を要したことだろう。利用の多い札幌駅では差替の行われていたと記憶する。
札幌所入区を同区配置車の所定と揃える運転の白眉は、1989年1月9日と2月13日の6003にて施行された<北斗星トマムスキー>としての運転であろう。これについては 落部 (函館本線) 1988 の追記に書いているので繰返さない。

この<北斗星>系統への需要、特に個室寝台のそれに自信を深めた北海道・東日本の両旅客鉄道は、遅くとも1988年の秋口までには6003・6004列車の翌年3月に予定のダイヤ改正時での定期格上げと定期列車との編成統一を決定し需給計画に着手したはずである。
北海道会社ではオハネ14 500番台、東日本でもオハネ24の転用を要した増備計画と実際の組成、また既存定期列車との関係など、ここにも興味深い事項がある。これらには、また別項を立てたい。
(この項 終わり)

噴火湾北岸を駆け抜ける6003列車。これは使命本来の集約臨時列車として運行の姿である。牽引機にトレインマークの取付けの無いのでそれと知れる。当然に増結の施行は無い。
なかなかすっきりと晴れてくれない蝦夷梅雨には、背景の海面は空に呑み込まれてしまい境界の区別出来ない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec.@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、3月末頃まで更新の滞ることのあるかと存じます。ご容赦下さい。

落部 (函館本線) 1988

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大沼 (函館本線) 1988 から続く

6003・6004<北斗星3・4号>への個室式寝台車に食堂車の増結組成に関する趣味的な興味を以下に列記する。

組成順の相違
組成は4・5号車のオハネ25を解放し3-6号車間にオロハネ25/オロネ25/スシ24を組込むものであった。ただし、札幌運転所予備車の組成編成と尾久客車区予備車組成編成では組成順が異なり、前者が4号車・5号車・増結5号車として[オロハネ25 550番台-オロネ25 500番台-スシ24 500番台]の順としたのに対して、後者では[オロネ25 500番台-オロハネ25 500番台-スシ24 500番台]であった。このオロハネ25とオロネ25の順位は両区の定期列車も同様であり、おそらくはスシ24に搭載されていたAVサーヴィス制御装置回路設計の相違によると思われるのだが、確証は得ていない。

設備・定員の相違
札幌運転所のオロハネ25550番台と尾久客車区の同500番台では個室式B寝台設備に前者の2人用と後者の1人用との相違があり、スシ24でもテーブル配置が異なっていたから、組成期間中に上下列車は異なる設備である上、前述のとおりの組成順位で運転され、希有な事例には違いなかった。
営業の煩瑣を避けてか、食堂車のテーブル販売は定員の少ない札幌車の28名に合わせられ、尾久車運用編成では2名予約にも4人用テーブルが充てがわれた。
なお、運転時間帯の関係から2回目のテーブルタイムの開始は20時と<北斗星>中で最も遅く、5・6列車と同じく翌日の朝食に続いてブランチタイム営業も行われた。

組成の実際
この当時に<北斗星>系統の編成方向は東北線上を基準に上野方を前位としており、青森で客扱いのあった札幌運転所持ちの1・2列車と、青森信号場-津軽線間を直行した尾久客車区の6003・6004列車とでは以北区間での編成方向の異なっていた。このため、札幌運転所在姿での編成各車の方転には、札幌所予備車の組込・抜取作業前日の6003と当日の6004を青森駅経由として札幌所入区方向を札幌車に合わせていたのである。
実際に即して述べれば、4・5号車を欠車とした1988年7月21日の6003は青森信号場に替えての青森駅経由にて以北を所定とは逆編成にて運転し、旭川方を前位として札幌所に入区、前述ごとくの組込を施行の上、7月22日の6004に折返し、これも青森駅を経由として東北線上の方向を所定に戻していた。
一方の尾久区では同日に6004で上野に到着した編成(7月21日の6004)から4・5号車を抜き取り同じく組込を行って6003に運用した。かくして、7月22日の相互発から6003・6004に個室式寝台車に食堂車の組成が実現したのであった。
増結施行の期間中には札幌所車は尾久区に貸渡とされて、日常の検修は同区にて行われた。この間、増結の3形式は予備を持たないことになり、札幌所、尾久区ともかなり苦しい検修計画を迫られ、後述のように札幌車の交番検査を尾久で施工する事例も、その現れであろう。
(この項 続く)

低く雲の垂れ込めた噴火湾岸の6003列車は増結施行中の姿。これは尾久区予備車の組込編成である。しかも、この日はB寝台車も増結しての12両を連ねていた。
DD51は、あまり好ましいとは思えない青色20号への塗色変更の進められていた頃だったけれど、運良く重連の2両ともが国鉄制式塗色車だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/f1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、3月末頃まで更新の滞ることのあるかと存じます。ご容赦下さい。

大沼 (函館本線) 1988

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2往復の定期運転を計画の北海道連絡寝台列車に、不定期運転の1往復がいつに追加されたものかは分からない。道内に向けては青函航路を介して観光目的や修学旅行の団体輸送需要が存在し、夏季観光シーズンなど多客期輸送とも併せては旅客波動への対応は不可欠であるから、早い時期には設定の決められていたものと思う。
そのスジは上下とも約2時間の時隔を置いた定期列車の間を埋めて引かれ、それらと相互に1時間の間隔にて雁行する、発車順から6003・6004の列車番号が振られた季節列車<北斗星3・4号>として実現したのだった。

輸送力列車との位置づけに、全て開放型のB寝台設備の11両(電源車含む)を所定編成として計画され、定期1往復と共に尾久客車区持ちの運用であった。1988年3月改正での<あけぼの>系統 1往復の廃止による青森運転所持ちの<日本海>運用の24系24形への置替には、<ゆうづる>2往復の廃止と併せての同所からの24系25形の捻出は札幌運転所転出分を除外して52両(南秋田運転区で番台を差替えた電源荷物車を含む)が確保されており、それは2往復運転の需給には十分過ぎる配置であった。1988年3月改正での[尾21]から[尾24]の運用行路表からは、上記にスシ24を加えた配置55両に対して使用44両/予備11両と読める。

運行は定期列車と共に1988年3月13日の相互発より開始され、春臨期間には海峡線の開業効果と春休み期間の需要に4月6日の上野発、7日の札幌発までの多客臨運転に、5月/6月には修学旅行集約臨として数往復が設定されていたのだが、<北斗星>の爆発的な需要には6月17日の下りを始めに同月中に6往復の多客臨を設定、夏臨期の7月3日の下りからは1989年3月11日改正まで集約臨としての運転も含め、ほぼ毎日に運転されるところとなった。
何よりのトピックスは、輸送力列車に留めおくには往かなくなり、尾久区は勿論のこと札幌所の予備車までも投入して個室寝台車に食堂車を組込んだことであろう。夏休み期間となる1988年7月22日の相互発より4・5号車のオハネ25に替えて、オロハネ25・オロネ25・スシ24を組成した12両の定期列車に遜色無い組成で運行されたのだった。当初には夏季輸送の終了する9月3日相互発までの計画であったが、個室寝台への需要の高く、以降も1989年2月まで断続的に施行され、同年3月改正での所要車を増備しての所定編成化、定期列車格上げの布石となっていた。
尾久区のオロハネ25 500番台と札幌所の同550番台では設備と定員が異なり、スシ24も両区配置車には定員に相違のありマルス登録には注意を要した上に、道内では車両の向きの所定も異なって、増結の操配には趣味的に興味深い点の多々存在した。これについては次回に続けたい。
(この項 落部 (室蘭本線) 1988 に続く)

写真は早朝の小沼湖畔を往く6003列車。牽いているDD51の重連は国鉄制式塗色、従う客車は全てB寝台車である。
実を云えば,ここへは蒸機撮影以来に訪れたのだが、かつての俯瞰位置は成長した樹木に遮られてしまって湖面を望めず、仕方なくかなり低い位置まで降りたものだった。今は、ここが定番位置と化しているようだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec.@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

函館 (函館本線) 1988

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青森 (津軽線) 1988 で青函連絡列車向けに転用されたオハ・オハフ50形客車についての趣味的興味を書いた。ならば、やや遅れて転用のオハ・オハフ51にも言及せねば片手落ちと云うものだ。

共に4両ずつが在籍したオハ・オハフ51の5000番台車の興味も、また尽きない。
想定を遥かに上回った青函トンネル開業による旅客の誘発効果にて、運転開始直後より混雑を極めた青函連絡列車の車両需給不足に、岩見沢運転所にて余剰気味であったオハ51の4両(5135-5138)が急遽函館運転所に配転され、運用に加わったのは1988年5月のことであった。使用開始は13日からと記録される。
この4両は運用投入を急ぐため、当初には5000番台との混用に要する高圧給電回路の引通シにジャンパ栓の設置、車体塗色の変更、および「青函トンネル内列車位置表示装置」のみが施工され、つまりは外部塗色こそ異なったとは云え、横型腰掛も存置した(但し吊り手は撤去)普通列車向け仕様のままに青函間を走ったのである。トンネル通過の安全に窓開閉機構は固定されていたから、非冷房のこれに乗り合わせてしまった乗客にはさぞや暑かったことだろう。さすがに指定席車への運用実績は無かった模様ではある。
腰掛取替や冷房装置、電気暖房設備の搭載、蒸気暖房撤去、車軸発電機撤去などの施工は同年の秋臨期輸送を終えた後となり、W12型腰掛の設置に加え内装や床材の変更も行って、この際に5000番台に付番されたのである。しかし、なぜか冷房装置は準備工事に留まり、それの搭載は1989年3月のことであった。転用工事は都合3次に分けてなされたことになり、おそらくは事業計画に無かった緊急工事への予算執行上の事由からであろう。
そして、その3月から4月にはオハフ51-4両(5161-5164)の海峡線運用転用工事も行われていたが、これらも前述のオハ51と同様に5000番台との混用改造および便所付なので汚物処理装置搭載の施工されたのみで、本工事は同年冬に先送りされて5000番台付番はその際となった。青函連絡列車には88年、89年と夏の2シーズンを続けて原番台の非冷房車が走ったのも然りながら、後にも先にも汚物処理装置を搭載したそれは、50系列の緩急車総数556両の中でも89年3月から90年1月までのこの4両だけである。

51形での改造工事内容は50形でのそれに準拠していたけれど、大きく異なった点もある。ユニット方式では無い客窓構造の相違から固定窓化の行われず、開閉機構の閉位置での固定に留まって外観上に変化の無かったこと、分散型のAU13AN型冷房装置に対して集中型のAU51には客室天井の見付の異なったこと、電気暖房装置の新設を要したこと、海峡線内での110km/hの見送りにはA急ブレーキ弁の設置を省略したことなどである。
経験的には客窓に寒地向け二重窓が存置されていた51形が、寧ろトンネル内走行時の遮音性には優れていたように記憶する。

開業の1988年度に海峡線の輸送人員は306万人にも達して、300万人超は1977年度の青函連絡船利用者数以来のことであった。それゆえに51形までの動員を要したのではあるが、90年度の290万人から漸減を続けて96年度には連絡船時代にすら例の無い200万人を割込むこととなった。これのテコ入れには1997年3月22日改正にて青函間到達時分の短縮が行われ、青函連絡列車の最高運転速度の95km/hから110km/hへの引上げが、ようやくに日の目を見たのだった。前述の通り省略していた51形へのA急ブレーキ弁の設置に際しては、そのTR230型台車の14系座席車からの廃車発生品であるTR217への換装が行われた。この四国旅客鉄道の特別車改装車「アイランドエクスプレス」にも例の無い空気バネ台車を履いた50系列のことは記憶に留めて良いと思う。
そして、翌1997年度にはオハ51の4両全車が、連絡船の座席宜しく客室を絨毯敷とする接客設備改造工事を受けた。当時の50系列による5往復の運用には4両の使用を要して予備を持たない需給は、改造経費からと50形を種車とした1両だけの異端車を避けたものであろうが、連結の無い運用が周期的に現れるのでは営業施策的に如何にも中途半端であった。運用投入は1997年6月1日の3122列車から行われ、全運用への連結は同年7月1日より実現した。

降雨下の函館駅3番ホーム(当時)に進入するのは3129列車<海峡9号>。堂々の12両組成、後位から5両目にオハ51の組成が見える。
転用まもない頃で、それを知らぬものだからホームに到着した姿を見つけて面食らった覚えが在る。団体乗車用に割り当てられた位置に組成されていて、向かい合い座席を好む彼らには寧ろ好評だったかも知れない。W12型腰掛を向かい合いに転換すると、910ミリのピッチには4人分の足の置場の無いのは諸兄には新幹線でご経験であろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec.@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

長万部 (函館本線) 1988

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国鉄の内部統制規程である「日本国有鉄道営業線等管理規程」や「同旅客及び荷物営業管理規程」の存在は知っていても、残念ながら通読したことが無いので知り得ないのだが、そこには駅営業時間の定めのあったはずである。
現業機関である駅の営業掛の職員は、深夜にも着発列車のあれば、「職員勤務及び休暇規程」に規定された勤務種別の、主には昼夜三交代制ないし一昼夜交替制もしくは変則的な交代制であるC形にて勤務し、夜行列車の無い地方線等の駅なら日勤に夜勤で、閑散線区でも拘束時間の長い特殊日勤により勤務し、駅の旅客窓口は列車着発時間の限りに開いていたものである。

1987年4月に国鉄を承継した旅客鉄道会社は、既に多くの駅が運転業務から切り離され営業フロント化していたのを背景に、営業体制の合理化を深度化した。中でも、経営基盤の脆弱とされた北海道旅客鉄道には、それは必然の要求でもあった。とは云え、地方交通線は勿論、幹線系線区においても駅の要員無配置化は極限まで進められていたから、ここでは残されていた直営駅の業務委託化程度であり、それの叶わぬ駅においては駅職員の勤務体制が見直され、その勤務種別としては例の少なかった日勤化の推進されるところとなった。
同社のWebSiteに「JR北海道のおもな駅」として107駅が、その窓口営業時間と共に掲載されていることはご承知と思うが、その全てが日勤駅である。深夜帯に着発の在るのは<はまなす>の停車する函館に長万部、敢えて加えれば伊達紋別くらいだから、早番・遅番の日勤も当然とも受取れるが、大半で夜間に営業が無い。18時以前に終了する駅も相当数存在する上に、日曜・祝日に営業しない例も散見され、とても現業機関とは思えぬ勤務形態である。全ての発列車に対して窓口の開いているのは、107駅中僅かに21駅に過ぎず、かつての当たり前はすっかり稀少例と化した感がある。終着列車を対象外とし、窓口終了の数分後が終列車の発車時刻と云う駅を加えてもこの有様である。
この施策の進められた頃、古い鉄道屋が俄に信じられなかったのは、それらに当直勤務も無いことであった。実勤務ですら夜間着発列車を無視するのだから、考えてもみれば当然なのだろうが、例えば長万部、洞爺とか遠軽と云った地域拠点駅の大きな駅舎が夜も更けぬ内から完全に無人と化すには驚かされたものだった。

長万部での当直勤務が何時に廃止されたものかは知り得ていない。着発する夜行列車は1986年11月1日改正での山線夜行と通称された荷43・44列車の廃止以降には多客期に運転の<すずらん89・90号>だけとなり、1988年の夏臨期からそれを代替した<ミッドナイト>の客扱い停車も多客期に限られていた。
おそらくは、夜間無人化に対応した窓口へのシャッタ設備などを含んだ駅舎の改築施工中であった<すずらん>の86年冬臨期運転終了までは維持され、1987年1月28日の改築駅舎使用開始までには廃止されたものと推定している。そして同年4月1日の北海道旅客鉄道発足に完全な日勤体制へと移行したものだろう。
1988年6月の1年と数ヶ月振りの渡道で函館からの最終特急で長万部に降りれば、20時半と云うのに窓口のしっかりと閉じられ無人の有様には、しばし呆然としたのを覚えている。「あの長万部が」である。古い鉄道屋の驚きと落胆を想像して頂ければ幸だ。

写真は、運転助役のいない乗降場に停まる札幌からの最終、5016D<北斗16号>。
この貨物積卸場跡に立って構内照明の大部分が落とされてしまっていたにも衝撃を受けた。楽に見えたはずの腕時計の文字盤が読めぬのだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

青森 (津軽線) 1988

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東北/奥羽両本線の終点ならば内地版の記事とすべきかも知れないが、やはり青函連絡列車は北海道のものだろう。
海峡線の開業に際して、航路普通旅客運賃のみを収受し、当然に青函間を直行した青函連絡船便の代替と位置づけられたのが、青森-函館間に設定の快速<海峡>である。これの運用車として函館運転所に配備されたオハ・オハフ50 5000番台車の15/16両(オハ50/オハフ50それぞれの両数を示す。以下同じ)には趣味的に興味深い点が存在した。余り知られない事柄でもあるので書き留めておきたい。

海峡線運用転用車捻出の直接の起点は1986年11月1日改正を以ての福知山/山陰線の宝塚-城崎間電気運転であるが、それは1985年3月14日改正にて一斉に施行された12系急行形客車の格下げ転用と仙台地区における普通列車の電車化に端を発していた。これにて捻出の電気暖房装備車-15/17両が弘前運転区、秋田運転区、仙台運転所、金沢運転所、岡山客貨車区の各区から、それを稼働しない竜華客貨車区亀山支区と福知山客貨車区、浜田客貨車区に配転されていたのである(*1)。これらから、1986年11月改正において福知山線運用の電車化で福知山区の7/6両、捻出の12系に非電暖車の配転にて米子客貨車区(*2)の1/5両、同じく気動車の配転にて亀山区の7/4両の捻出が行われた訳である。残るオハフ50の1両はここからは困難で、同改正で2両が需給減となる秋田区からとされた。
海峡線の列車体系がいつ頃から検討されていたものか知り得ていないが、国鉄の分割民営化にて発足の道内管轄会社は経営基盤が脆弱との想定から、海峡線開業投資は1986年度内に国鉄による実行とされる中で、実に見事な需給計画である。
なお、同線は気動車の運転が禁止され、貨物列車運行に専用機関車の配備には青函連絡船便代替列車の客車運行は既定方針であった。一時期に12系急行形の転用も検討された模様だが、初期車の経年の問題も在り、将来的に大量の余剰が予測された50形の選定となったものである。財政上に専用電車の新製など考えられぬ時代であった。

青函連絡列車運用への転用改造を受けた5000番台車が、0系新幹線電車の廃車発生品であるW12型腰掛を装備していたのはご承知であろうが、実は国鉄による1986年度の転用工事の際には、オハ50に対してのみの取替施工だったのである。これは当時の列車計画でオハ50の指定席車、腰掛を種車のまま存置したオハフ50の自由席使用を前提とした措置で、列車単位での輸送力確保を考慮したものであった。しかしながら、これが函館で長期休車となっていた1987年度の北海道旅客鉄道と東日本旅客鉄道との協議により、普通船室でも特急車と同等の腰掛が設置されていた連絡船の接客設備に鑑みて見直され、オハフ50への工事が追加されたのである。定員減による輸送力低下には東日本会社が自社14系客車での多客臨乗入れを、この時に決めている。
付言すれば、客室妻面扉上部に取付けられていた「青函トンネル内列車位置表示装置」も、この際に北海道会社の企画にて全車への設置がなされた設備である。

車体幅2800mmへのW12型腰掛の配置は少しばかり窮屈で、570mmの通路幅の確保には窓側の肘掛を撤去して無理矢理に押し込めたように見えた。シートピッチの940mmは従来の特急形車両よりも拡大されていたものの、窓側席に着席すれば固定式にユニット交換された窓下部の框(かまち)の張出しが丁度肩に当り、居住性は快適とは云い難い車両ではあった。昼間の青函移動には、可能な限り<はまなす>間合いの14系編成を選んで乗っていたものである。
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(*1) 計画全体では高松運転所への9/4両を含む、24/21両規模の配転であった。
(*2) 1986年3月3日付にて浜田区の業務を移管。配置全車が配転されていた。

写真は青森駅6番線ホームで発車を待つ3129列車<海峡9号>。
トレインマークを掲げたED79のトップナンバーならスナップしておく価値はある。蟹田行きや三厩行きの気動車がひっそりと発車していた青森第三乗降場には、売店や蕎麦スタンドが増設され、すっかり青函連絡列車着発用に粧いを改めていた。
乗車した3号車オハ505007は1979年に弘前運転区へ新製配置の502107が種車であり、福知山区に去ってから3年を経て青森駅ホームへと舞戻っていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1988

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2014年3月の寝台列車<あけぼの>の廃止にて旅客営業から失われたものがある。寝台車の昼間座席代用利用、通称の「ヒルネ」である。(制度としては生き続けている)
起き抜けの寝台車に突然に現れる新たな乗客に遭遇した経験の向きは多いことと思う。立席乗車券での利用として発券を制限したはずだが、国鉄末期の九州島内では昼行特急群と等時隔配列ダイヤとした関係で自由席特急券所持のまま乗り込む旅客が絶えず、下り<さくら>での寝台のひと区画に8人から10人の詰め込まれる事態には観光利用客からの苦情が新聞に掲載されるなど、寝台利用客にはとかく悪評の扱いではあった。

この制度は1960年7月1日付の制度改正にて主には普通急行・準急行列車を対象に規定され、翌1961年7月1日発列車より特別急行列車を含めて実行されたのを嚆矢としている。それは寝台の余席活用による増収策に違いなかったのだが、当初には普通急行・準急行に限れば乗車制限も意図していたのである。
戦前期の旅客制度には疎いのだけれど、実は当時にも長距離運転にて運行時間も長い寝台車は、寝台利用時間(戦前にも21時から7時までだった)を除けば座席車と扱われた。寝台専用列車の存在しない時代には当然であり、おそらくは日本の鉄道に寝台車の導入されてまもなくからのことであろう。3等級制に定められての1等寝台車は、あくまで1等運賃を課する1等車であり、2夜行運転も珍しく無い当時に旅客は寝台利用時間に対しての寝台料金を支払ったのである。1931年2月1日に東海道線列車より導入された3等寝台車も同様で、これも昼間には通常の3等車と扱われた。急行に座席指定制の無い当時、それは自由席であった。
この扱いは戦後にも持込まれ、1958年10月1日付での大幅な制度改正でも継続されるのだが、こと普通急行列車に関しては1955年に3等寝台車が復活して些か問題を生じていた。国鉄がこの扱いを敢えて広く告知もしなかったこともあろうが、輸送力整備の追いつかずに長距離列車の混雑していた当時、それを知る旅慣れた昼行旅客が、座席車への行列を尻目に空いている寝台車へ先に座席を占める事例が多発して非難の対象となり、また寝台定員以上の乗車は寝台設営に支障したばかりか、その後にも退去しない乗客が通路を占拠する事例も見られたことも在って、それの寝台使用時間以外を座席指定車としての運用を可能としたのが1960年7月の制度改正だったのである。乗車抑制策であるのは、61年7月の実施に際して「座席指定券」を車内発売に限ったことにも明らかであり、1970年代に至れば対象列車は、羽越線の<天の川>など全車寝台編成の列車だけになっていた。

<あさかぜ>設定の1956年以来に戦後には原則的にこれを認めて来なかった特別急行列車については事情の異なり、こちらは本来的な余席活用と近距離利用促進の意味合いの強く、当初には<さくら>の下関-長崎間、<あさかぜ><さくら><はやぶさ>の静岡-東京間などが指定されたのだった。そして、それら区間には同時に設定された低廉な「特別急行の特定料金」が適用された。この時点でのそれは特急券の原則通りの指定席である。
東海道新幹線<こだま>で成功を収めた特急列車への自由席設定は、1965年10月1日付での制度改正にて在来線の一部列車全区間とそれ以外の末端区間に及んで夜行特急も含まれたのだが、それに限ればその全区間が「特別急行の特定料金」設定区間と重複した。自由席利用ゆえ、その特急券は座席の指定がなされなかったが、対象列車や区間が鉄道管理局長の通達にて指定されたことから、地方の実情により一部列車では座席を指定した特定料金の特急券も発売された事例も在る(料金は同一)。
この特急券は、座席指定を伴わないとしても乗車列車や区間は指定され、マルス上に寝台券の発売に連動して余席利用の理に叶っていたのだが、1969年5月10日の制度改正にて特急料金のキロ地帯に「200キロまで」が加えられた代替にこれの廃止されると、発売枚数に制限の無い自由席特急券での利用となり、上りでの自由席設定を廃したものの寝台の繁忙時期などに一部列車で混雑を生じることにもなり、さらには1970年10月1日の制度改正での特急料金を割り引いた「特定特急券」の規定に、適用区間が自由席設定区間と関わり無く上りも含めて設定され、また1975年3月10日ダイヤ改正では夜行急行列車の廃止にともなう輸送力不足に一部の寝台特急に座席車を連結(寝台電車編成の一部車両を座席にて運転)したことも加わって、所持すべき特急券が輻輳する混乱も起きていた。
これに対して、設定列車に区間を見直すと共にマルスの寝台券発券と連動させて下りを立席特急券、上りを指定席特急券での利用に統一した現行制度への改正は1978年10月1日発列車(同2日ダイヤ改正移替運転列車)からのことであった。

写真は礼文華山トンネルからの築堤を駆け下りる1列車<北斗星1号>。機関車次位に函館にて増結のスハフ14が見える。
この列車での寝台の昼行座席利用設定は、その運転により廃止された青函継送特急の道内旅客輸送代替と云う特殊事情に加えて、その需要を吸収出来ずに専用の座席車の増結を要した希有な事例であった。これについては、七飯-大沼 (函館本線) 1988 に詳述している。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f4 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

江別 (函館本線) 1988

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現在もそれも走る太平洋石炭販売輸送臨港線はさておき、かつて隆盛を極めた道内国鉄線上における運炭列車が最後に走ったのは、いつのことだったのだろうか。記録は無いものかと調べても、それを記した文献資料は見当たらず、Web上からの明確な情報も今のところ得られていない。

1980年代後半当時に運炭列車の着駅となっていた港湾側では、留萌港南岸石炭桟橋への側線が1987年限りに運用停止となり、苫小牧港開発の運営した石炭埠頭臨港線での輸送も1988年11月21日に廃止されている。これ以降にも稼行した炭坑の南大夕張、芦別、赤平、空知、太平洋釧路の内、日本貨物鉄道に関わる移出輸送の発駅となり得たのは、三井芦別鉄道の連絡した芦別と住友石炭鉱業専用線の接続した赤平の他には無い。それは既に道内向け輸送であり、着駅は豊沼の三井東圧肥料専用線と江別の北海道電力専用線であった。末期の両炭坑の出炭の大半は、この二箇所に引き取られていたのである。特に、江別の石炭火力発電所は政策的に国内炭の使用が義務づけられていた。
よって、前記の専用鉄道・専用線が最終移出を行った1989年3月23日当日、もしくは翌日に芦別と赤平を出発した列車が道内最後の運炭列車と云うことになるだろう。現在ならばセレモニーのひとつでも施行されそうなものだが、当時の北海道新聞のデータベイスにもそれらしき写真は見つからなかった。情報をお持ちの向きには、ぜひご教示いただきたい。

新夕張川橋梁を往くのは、最末期の運炭列車の5490列車である。
頼城からの石炭車を継送して芦別を出発し、赤平にて専用線発の編成を増結、豊沼で一部を解放して江別に至っていた。工場専用線行きの運炭列車は、かつてにも駅着発線有効長などの関係にて港湾の貯炭場に向かうような長大編成は見られなかったのだけれど、それにしてもこれは寂しい編成と云わざるを得ない。石炭車は江別で2両を残して切り離され、それは着駅の札幌貨物ターミナルまで運ばれるのだが、半高架の取り下ろし線を要する石炭車荷役の引取先はわからない。
なお、機関車はこの直後にDE10の重連仕業に替わった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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