"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

蘭島 (函館本線) 1986

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手稲の新興住宅地に暮らした頃、家族での海水浴と云えば祖父祖母の元へ帰省した折のことばかりで、至近だった日本海岸、石狩湾岸での記憶は無い。当時の家族アルバムを手繰ってみても、大洗や磯浜、鮎川のキャプションが付された写真は収められるが、道内のものは見当たらない。内地生まれの両親には、当地での海水浴など考えられもしなかったのだろう。唯一の記憶は家族のそれでは無い子供会の海水浴で、行先は蘭島海岸だった。

古来から日本人も海水に浴することは在ったろうが、それは禊など神事に属することに限られ、日光浴を兼ねた健康増進や余暇の楽しみとしての習慣は江戸期末期の開港以来に外国人によりもたらされたのだった。とは云え、薩長政権の時代となってもしばらくは彼らの奇異な習慣と見られていた様子であり、居留地からの行動制限内の横浜富岡海岸や片瀬海岸、神戸なら須磨海岸などが海水浴場に利用されるも、ほぼ外国人専用であったらしい。
1880年代に至ると、外国人と接する機会の多い上流階級や医師、一部文化人などの日本人が続き、「海水浴場」を名乗る海岸が各地に出現し始め、やがては1890年代を通じて一般化して往くのである。
道内における発祥は開港場函館に隣接の七重浜や開拓使本庁が置かれた札幌至近の銭函海岸とされており、お雇い外国人が利用を始め日本人が続いたものである。
遠浅で砂浜の風光明媚な蘭島海岸が海水浴場を名乗るのは1903年夏のことと記録され、それは道内における嚆矢となっている。蘭島の停車場自体は1902年12月10日に開かれていたが、平坦な線形から離れ小島的に開業した然別-蘭島間の1駅であり、それは翌夏を前にした1903年6月28日だった小樽中央への延伸に満を持したと云うことなのだろう。それには銭函や朝里浜を越えて札幌方面からの海水浴客を運んできたのである。
戸数200ばかりの漁村だった蘭島村(当時)の観光地としての発展は鉄道を抜きには考えられない。当初に徒歩連絡だった北海道炭礦鉄道の小樽と北海道鉄道の小樽中央の間、2キロばかりが、1905年8月1日に接続されれば尚更として良い。両鉄道の国有化を経て、鐵道院から鉄道省の時代に蘭島海岸は海水浴ばかりでなく、観光地・保養地に活況を迎え、多くの名士たちが別荘を構えたと云う。

戦前に訪れた、この隆盛期における海水浴臨時列車の運転については調べ得ていないが、記憶する1960年代以降なら、それらは基本的に余市着発で設定されていた。かつてに豊漁の続いたニシンなど海産物積出に整備された同駅設備の活用である。ただし、牽いて行った機関車が逆向きで築港区へ戻るのを目撃していたから、転車台は遠に使用を停止していたものと思う。勿論に蘭島着発列車も存在して、これには貨物列車の退避用だった中線が客車留置に用いられた。
蘭島での子供会海水浴は1965年のことである。帰路に乗車の臨時列車は満員の乗客を乗せた11両の客車を2両のD51が牽いた。この長大編成は函館本線が幹線ゆえの輸送力と云えよう。

通票の授受に本線を速度を落として通過して往く11D<北海1号>。
山線優等列車最末期の姿で、キハ80系編成と云えど食堂車の組成されない姿に、もはや特別急行の威厳は感じられなかった。夏期輸送の増結で2両目もキハ82である。これも特急らしからぬ編成には違い無い。
上り本線での行き違い退避は142Dの長万部行き。これに乗車してのスナップは、小沢に降りて102列車を押さえる前の駄賃だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f5.6-8  Fuji SC-52 filter  Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.



厚賀 (日高本線) 1986

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厚賀に降りて駅前を見遣れば、集落を貫く道路が線路に併行している。駅入口から東側が道道208号比宇厚賀停車場線、西側が日高町道5号線とされるこの道は、元には室蘭市から浦河町に至る国道235号線の構成区間であった。今は住民の生活道路であり両側に住宅やら商店が続き(多くは廃業状態ではある)、駅正面には広い敷地の製材工場が立地するのだけれど、これが国道に指定される以前、仮定県道南海岸線であった時代の地図を閲覧すると、その南側直下まで痩せた海浜の海岸線が迫っているのが見て取れる。
現状は人工的に埋め立てられたのでは無い。昨年の隣接海岸での線路路盤流失が記憶に新しいとおり、波浪災害に悩まされて来た地域にかかわらず汀線が遠のくとは不思議な気もするが、これは漂砂の堆積にて形成された土地なのである。切っ掛けは厚別川河口西側に築港の厚賀漁港であった。

日高地域の沿岸は、単調な海岸線に沿って段丘や砂丘が発達した浸食には極めて脆弱な地形を示し、加えて太平洋へと流入する中小河川の多数には砂の供給源に事欠かず、大量の漂砂が海中に存在している。そして、北西から南東方向への海岸線には冬期の季節風も春から夏期に三陸沖から根室沖へと北上する低気圧の呼び込む南風も、海岸線に併行方向の沿岸流を生じさせるところとなっている。ここでは、西向きのそれが東向きに卓越して古より河川河口には西側に大きな砂州の発達が見られた。
そのような沿岸に築港のための防波堤のごとき突起物を置けば、そこを始点に堆砂現象を生ずるのは自明の理であり、その港湾は漂砂流入に依る埋没に悩むことになった。1948年に着工された厚賀漁港も例外ではなく、漂砂流入阻止から港左岸の防波堤(南防波堤)中途から沖合へと湾曲した防砂堤を設けた。それは水深の浅い側に堆積を進め、先端側には堆積させずに浸食すら期待するものであったが、その意図に反して防砂堤を延伸しても構内埋没は避け得ず、都度に左岸の汀線は前進して、1960年代末までには現在に見る埋立地の如き陸地を生むに至ったのだった。そればかりではない、砂の供給を絶たれた右岸側は一層の浸食が誘起され、清畠との間で線路も道路も内陸移設を余儀なくされたのは、このためであった。
日高本線の不通を呼び込んだ大狩部側での路盤流失も、元はと云えば厚賀と同時期の節婦漁港の築造により、新冠川や静内川からの大量の土砂が、右岸にあたるこの海岸に供給されなくなり次第に汀線の後退したゆえであろう。北海道旅客鉄道や北海道は、語らずとも天災としている様子だが、節婦港を掘割にしなかった謂わば人災である。

さて、かように僅か20年程で出現した新たな土地は当然に国有地と思われるのだが、そこには個人の住宅ばかりか、先に述べた通り工場まで立地している。その所有権の変遷とは如何なものなのだろうか。
延長297メートルの厚別川橋梁を往くのは、704D<えりも4号>。たかが3両組成とは云え、ここでは急行型が急行らしく見える、札幌から直通の堂々たる優等列車だった。
今は写真のとおり海中を渡るような橋梁ではあるが、厚賀漁港の築造前には沖合に大きく砂州が発達して河口は駅の南方あたりに位置し、橋脚も大半が砂地に埋もれて、確かに「河」への架橋であった。写真中央に見えるコンクリート張りの水路がかつての厚別川流路の名残であり、今は美鈴川の放水路を成す。橋梁から彼方厚賀漁港防波堤までが、漂砂の堆積にて出現した土地である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6-8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

南稚内 (宗谷本線) 1986

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1869年、開拓使により北見国の郡名に採られ、北海道庁の成立後の1897年に設置の支庁名ともされた広域地名としての「宗谷」の起源は、現在の宗谷岬から1キロ程西方の珊内集落にある。珊内もここで先住民によりサンナイ(san-nay=浜に出る川の意)とされた小さな流れからの地名なのだが、沖合の弁天島まで岩礁の続く海岸の様を彼らはソヤ(so-ya=岩磯の岸の意)と呼んだのである。1685年の松前藩による場所の設置には岩礁を天然の防波堤とした穏やかな海が交易船寄港地となって拠点たる会所が置かれ、和人は先住民の呼称のままにここをソーヤとし、場所もソーヤ場所と定めたのだった。和人命名によるアイヌ語地名である。「宗谷」の当て字のなされた時期は調べ得ていない。
この地点名だった「宗谷」は会所の移転と共に移動する。それが現在の宗谷市街地である。当時にこの地域での中心地に発展し、冒頭の郡名への採用や、1879年の『北海道一級町村制』(1897年勅令第159号)と『北海道二級町村制』(1897年勅令第160号)の公布による行政区画の設置に際しての村名が宗谷村を名乗ったのも当然と云えよう。同時に宗谷郡に設置の、抜海、稚内、声問、泊内、猿払各村を管轄する戸長役場もそこに置かれた。この辺りが広域地名化の始まりと云えようか。
オホーツク海岸と日本海を隔てる宗谷丘陵に、国際名ラ=ペルーズ海峡に対する日本での宗谷海峡の命名時期も明らかにしようとしたが、当たるべき文献が見つかっていない。先達のおいでなら、ご教示願えると有り難い。
1888年には戸長役場が移されて新たな拠点に成長しつつあった稚内村に向けて建設の進められていた鉄道の線路名称は、永く天塩線部の天塩線とされており、宗谷線部の宗谷線に改められるのは、宗谷支庁の設置されて以降の1912年9月21日のことであり、これは北海道北端部に対する広域名称「宗谷」の定着化ゆえであろう。
なお、宗谷岬の名は戦後の日本最北端としての観光向け命名として良く、それまでは大岬と呼ばれていたのである。

列車愛称としての<宗谷>は、1960年7月1日の道内ダイヤ改正にて設定された札幌-稚内間に毎日運転の臨時準急への命名が嚆矢である。道内に気動車準急網の整備の進められた時代であり、苗穂機関区に配備されたばかりのキハ22の2両組成が充てられた。
戦後の宗谷本線への優等列車は1958年10月1日改正での夜行準急が先行したが、1956年の北海道周遊乗車券の発売でブームになり始めていた離島を意識しての<利尻>の付与は、代表列車名としての<宗谷>を温存したものでもあったろう。1961年10月1日の全国白紙改正では定期列車化と急行格上げに函館への延長のなされ、これも新製間もない急行型キハ56/27系列による堂々の本州連絡急行となるのだった。敗戦により樺太を失ってから途絶えていた稚内への連絡急行の復活には<宗谷>愛称の本領と云えただろう。我々の世代には函館山線を越える印象の強いのだが、1964年10月改正までの3年間は<摩周> <オホーツク>に併結の室蘭・千歳線経由だった。

林野火災により周氷期地形の露出したエノシコマナイ(犬師駒内)原野を往くのは、302列車<宗谷>。
1981年10月改正で札幌以南が特急格上げにて分離されれば、編成も短縮された地味な気動車急行と化していたのだけれど、1985年3月14日改正を以ての14系置替には機関車屋/客車屋としては蒸機廃止から途絶えていた稚内通いを否が応でも再開するところとなっていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい更新の滞り気味です。3月末頃までのこととご容赦下さい。

猿払 (天北線) 1986

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天北トンネルで頓別川の谷に出てから、頓別原野に猿払原野を北進して宗谷丘陵に分け入るまでの天北線の車窓には延々と牧草地が続いた。それは同じ酪農地帯としても、緩やかな起伏のそれに落葉松林や広葉樹の樹林帯の交互に現れた標津線とは異なり、車窓の視座からでは原野や海岸湿原とは見分けのつかないくらいにどこまでも平たく広がっていた。けれど、どこか茫漠としているに違いは無く、ここでも通過する駅名を読んでいないと自分の位置を見失った。

農林水産省の2007年度データによれば宗谷郡猿払村の耕作地面積は5670haとあり、その内の5640haが牧草の栽培地である。そして、69戸の酪農農家が7630頭の乳牛を飼養している。村の農業生産額322千万円は、肉用牛を飼育する3戸と合わせ、全てが畜産業により産み出されている。
残る30haの耕地には穀類(麦であろうか)に、大根・白菜などの野菜の栽培されるらしいが、統計に数字として現れて来ない。これら現況は浜頓別町に中頓別町も同様であり前述の車窓を裏付ける。けれど、それは戦後の、強いて云えば近年に出現した景観である。

1924年の猿払村の成立からの戦前期において村域の広大な山林・原野は、内地新興財閥系の王子造林や三井造林に所有される原木の供給源であった。そこには同系の農場も開かれ小作農が入植していたものの、原木伐採の地積獲得目的の実態には定着を見ること無く、僅かな民有林で1920年代に開墾入植の記録もあるが、冷涼な気候に加えての掠奪農法には数年で離農を余儀なくされていた。この時代の猿払は天然帆立貝の漁獲に沸いた漁業が中心産業であり、かつての宗谷本線(後に天北線)の車窓にはハンノキの灌木が散在する泥炭の原野が果てしなく続いていたのである。
これを含む猿払原野での本格的農地開発は、戦後の「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月9日閣議決定)に基づく開拓入植以降のことになる。しかしながら、その初期政策が基盤整備を伴わず、単にアジア太平洋戦争の敗戦にともなう引揚者や農家の次男・三男の収容目的でしかなかったため、特に泥炭地の排水不良による畑作の低生産性に冷涼な気候、過酷な自然環境から、その入植者たちの生活は辛酸を極め、多くの離農者を生んだ。その様相は不振開拓地として社会問題化するのだが、批判が拓殖政策の不備に向かわず、ここを「農業不毛の地」として北海道開発政策そのものを不要とする論調を巻き起こすに至って、1963年に北海道は「猿払村開拓地特別新興対策実施方針」を策定して国に対して強く支援を迫り、農林省は1967年度を初年度とした三カ年計画の「第一次農業構造改善事業」を打ち出して応じたのである。それは、この地での持続的営農形態として酪農への専業化を掲げていた。
猿払原野への乳牛の導入は1932年に既に記録のあるけれど、あくまで半自給的畑作営農の一部とされ飼養頭数も1頭からせいぜい数頭に留まり、これは戦後入植者にも引継がれていた。これに対して、上記事業では、未利用地の機械開墾に離農農地の再配分による農地拡大や牧草地転換、電力に用水確保の営農基盤整備に、農家へ牛舎やサイロ、搾乳設備などの建設に積極的な融資・補助を実施して酪農専業営農への誘導がなされ、現況への発展の基礎となった。この際に泥炭低湿地の大規模な排水が未墾地開発事業として行われ、天北線の車窓は1970年までには一面の牧草地へと姿を変えたのであった。

遍く夏風吹き抜ける牧草の海を渡って往くのは、304列車<天北>。
写真の頃、猿払村がこの豊かさを手にして、たかだか10年あまりに過ぎなかった。
いつも撮影位置にさせていただいていた牧場の主に伺えば、秋田県よりここの東山農場の小作農として入植した祖父が、その後樺太開拓団に加わるも敗戦にて引揚げとなり、1949年に舞戻って開拓入植したものと云う。ご苦労なさったはずだが、80を越えていた当の爺様は訪ねる度に「また来たのか」と笑っていたものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

曲淵 (天北線) 1986

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この駅に降り立ち駅名標を眺めれば、そこには「稚内市」と記され、些か意外だった覚えが在る。平成の大合併とやらで広域に及ぶ自治体の珍しくもなくなった昨今ならいざ知らず、線路は南稚内まで32キロ余りを残していたからである。
この地は1879年に開拓使が宗谷郡を置いた際、声問村戸長役場の管轄区域に含まれた。宗谷湾岸声問川の河口付近に漁業者と思われる和人の定住が在り、その集落に先住民族による地名 koy-tuyeに声問の字を当て村名としたものだが、声問川の上流域に向けては宗谷丘陵に至るまで無人の原野(上声問原野と呼ばれた)が続いていたゆえだろう。1900年7月1日付で施行の北海道一級市町村制(1900年5月19日内務省令第19号)にて稚内村が指定されると抜海村と共にその一部となり、声問村の名は大字として残された。稚内が村から町、そして市へと改められた1949年4月1日以来、稚内市大字声問村字曲淵なのである。大字としての旧村名の存続は先の内務省令によるが、その後の改正で「村」を省略ないし廃する例が大半の中、ここではそれが現在まで残るのが珍しい。

そして、曲淵の地名はこの鉄道停車場名からの派生である。ここは、鬼志別まで達していた宗谷線の最終区間として1922年11月1日に稚内(現南稚内-但し位置は異なる)までを開通した際に、閉塞距離のある宗谷丘陵越え区間の西側に行違い設備を要して上声問原野の只中に設けられ、そこに集落なり人家の存在したでは無かったのである。命名者は知らぬが「北海道駅名の起源」(1939年鉄道省北海道鉄道局編)によれば、付近を流れる「ウベ、ウタン川」(宇流谷川を指すのだろう)の「淵を成し」且つ「甚だ湾曲」した流れからの付名とある。鉄道職員の居住に稚内町も、この年に大字声問村に曲淵の字を置き、鉄道を頼りに入植者や林業従事者の定住が始まって次第に集落の形成されたのである。
ここには、1940年に天北石炭鉱業が稚内坑(通称-稚内炭坑)を、宗谷炭礦が曲淵坑(通称-宗谷炭坑)を開き、戦時下には軍部による炭油抽出の指定坑として盛業し、戦後1950年前後の最盛期にはそれぞれが年間7万トンを出炭していた。その輸送に天北線の用いられたのは云うまでもなく、両坑のホッパまで専用線が引込まれていた。当然に炭住街が成立し、炭坑従業員だけでも500人を越える人口を抱え、多くの飲食店に劇場も営業する「街」であった。稚内との人的往来も盛んであったと思われ、天北線に最後まで残った稚内-曲淵間列車設定はその名残だったろう。
1958年に稚内坑が、1963年に宗谷坑が閉じられると個人経営の赤松炭坑による露天採炭が細々と続けられたものの、集落は衰退し、2010年国勢調査データでは61世帯113人が暮らすのみである。

夏の訪問で虻の大群に集られて散散だった線路沿いの林道へは、その秋に再訪した。→小石-曲渕 (天北線) 1986
高い緯度での紅葉黄葉に選んだ時期は、まだ尚早だったのだけれど、今度はゆっくりと心地よい林道歩きを楽しめたのだった。
列車は、勿論304列車<天北>。

余談だけれど、Web上に散見される、この駅が開業時に「曲渕」と名乗ったとか、読みを「まがりぶち」とする記述は誤りである。この区間の鉄道運輸営業開始の告示(1922年10月27日鉄道省告示第144号)に記載の通り、開業時より「曲淵」であり、曲渕であったことは一度も無い。読みも「まがりふち」とルビの振られている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1986

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北海道東部で太平洋岸とオホーツク岸を連絡する鉄道は、『北海道鉄道敷設法』(1896年5月14日法律第93号)第二条に「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」として法定されたものであった。これは同条の第一項に掲げられ、政府は道央と十勝、釧路との連絡と共にオホーツク岸に最初に達する幹線鉄道として、同法に定めた路線中で最も速成を期すべく第一期線に編入していた。途中、標茶から跡佐登の間は既設の釧路鉄道を買収の上利用する計画であった(1897年10月31日付で買収)。
厚岸経由は、この時代まで釧路を凌ぐ中心都市であったことに加え、1890年に旧士族440戸が国策の下入植した北・南太田屯田村への交通確保を目論んでのことである。しかしながら、この根釧原野の只中への入植は厳しい自然条件に屯田兵村以外には進展せず、政府は1903年に、それを理由に厚岸-網走間を第二期線に格下げ、これに替えて『北海道鉄道敷設法』第二条二項に規定の「十勝國利別ヨリ北見國相ノ内ニ釧路國厚岸ヨリ根室國根室ニ至ル鐵道」の前段を池田-野付牛間とした上で建設に着手し、これが網走に達した最初の鉄道となった。沿線官有林の払下げを受けていた産業資本の意を受けた立憲政友会の画策が功を奏した結果だった。
これにて、釧路-網走間鉄道は10年あまりを遅滞することとなり、この間の釧路の発展とturi-tuye-us-i(鳥通)原野やkuma-us-i(熊牛)原野など釧路川東岸台地への入植進展を背景に、釧路線からの分岐を釧路に改めて標茶までの区間が1914年8月にようやくに着工を迎えたのだった。

1927年9月15日に釧網線として開通した別保信号場(後の東釧路と同位置)から標茶の区間は、釧路湿原に根釧台地の尽きる縁端をトレースする線形が選ばれ、ここに両端を除いて5箇所の停車場が設けられた。何れも旅客・荷物・貨物を扱う一般駅であり、それによる開拓地の換金作物の安定的大量出荷は農家の収入確保に寄与し、生活物資の供給と物価の低廉は生活の安定をもたらしたのだった。
けれど、戦後に至って、1880年の開削以来に悪路であった釧路標茶間道路(現国道391号線に相当)の整備が進むと、開拓地を貫通していたそれに輸送は次第に転移して往き、遠矢と五十石の貨物扱いは1960年度と云う早い時期に、細岡・塘路・茅沼についても1973年2月5日付にて廃止され、併せて塘路を除く各駅からは営業要員が引揚げられてしまった。
この際には、連査閉塞の運転要員だけは残されたのだが、その後もこれら各駅の縮小は進み1824年2月1日改正にて細岡の閉塞扱が廃止、1986年11月1日改正での電子閉塞の施行には残る全てが要員無配置となり、茅沼では閉塞扱も廃止されて現況となっている。
ここは、1970年代には既に釧路-標茶間の通過連絡が主体だったのである。

写真は中丿沢川橋梁付近のR=362曲線を旋回する5690列車。釧路操車場から北見への石油輸送列車である。
所定は重連仕業だが、荷の軽い夏場には単機牽引だった。
余談だが、釧路町役場遠矢支所によれば、とっくに無人と思っていた細岡駅前には現在も2戸が居住とのことである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

釧路 (根室本線) 1986

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母方の実家は戦前に茨城県水戸市内で大規模な養鶏場を経営していた。戦争末期の空襲で鶏舎の焼け、戦後の農地改革にて土地をも失ってしまうのだが、記憶に在る母の実家の敷地にも名残の鶏小屋が置かれていたのだった。鶏卵の自家採卵程度の施設ではあったものの、近所から買いに来る人も居たから、祖母の小遣い稼ぎ程度にはなっていたのだろう。食用での飼育ではないけれど、当然に廃用鶏が出ればそれに充てて、親戚一同が集合する機会や慶事などに祖母は鶏料理を振舞っていた。本格的にブロイラー鶏の出回る以前にて、まだまだ鶏肉の高価な時代である。そこには、お決まりの骨付もも肉の素焼きの他、唐揚げも並べられて子供らには馳走に違いない。
そのレシピを受け継いだであろう母の唐揚げは、タレに漬け込んで澱粉で揚げる製法であった。澱粉は戦時中の小麦粉の代用品の名残りであり、生姜や大蒜の擂り下ろされたタレを、母は龍田揚げとは区別していた。
1960年代を暮らした札幌で母自身も家族も違和感を感じなかったのは、それがたまたまに「ざんぎ」だったからではなかろうか。寒地ゆえにブロイラー導入の遅れた当時の北海道で、その呼称が家庭にも浸透していたものか分からぬが、製法は同等だったのである。

この家庭の味に対して、都内に一人暮らしを始めると定食屋や総菜屋での鶏唐揚げの薄味には唖然としたものだった。ずっと時代を下った1980年代の半ば、小樽駅前の食堂で出会った「ざんぎ定食」は食べて懐かしくも在る唐揚げだった。
食用油業界が設立を主導したと思われる「日本唐揚協会」は、内地での鶏唐揚げと北海道の「ざんぎ」を同一のものとしているようだが、確かにそのヴァリエイションには違いあるまい。
鶏肉の高価だった戦前の時代なら、その下味の作法や製法は全国の鶏料理屋独自に存在していたことだろう。道内に何店もは無かったはずのそこへはしっかりとした下味が移入され、料理屋のものだった唐揚げが、60年代以降に家庭へと普及する過程にてそれに収斂されて往ったと思われる。その語源には諸説が語られる「ざんぎ」の呼称と共にである。

霧の釧路川を渡って往くのは213D<ノサップ3号>。河畔の岸壁は既に使われておらず、ここの繋留されるのは廃船ばかりである。
現在に「ざんぎ」は釧路が発祥を名乗り、流行の地域グルメとして町起こしを担っている。ザンタレ("ざんぎのたれ"の意か)をつけて食するのは特徴的だが、同じような供食形式の店は昔から都内にも在った。とは云え、数回は立ち寄った市内末広町の呑み屋での「ざんぎ」は実に美味い。ビールが何杯でも呑めそうだ。
この「ざんぎ」は最近には内地にも進出を果たして、いつも都内と行き来に通る町田にも小田急電車の車窓に見えるところに「北海道ざんぎ旭屋」なる売店があり、繁昌している様子である。そして2014年4月には、女子学生御用達のファッションビル-町田ジョルナの2階、カフェの退店した跡に「釧路ザンギ食堂」が開店した。釧路でのオヤジ達の酒の肴は、ここ町田では女子高生のおやつと化した。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1986

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鉄道での塩狩越えは然程に大きな峠では無い。その最高所は塩狩より300メートル程起点よりの28K130Mに在って、その施工基面高の260メートル余りは、蘭留との比高で凡そ80メートル、和寒とでも120メートル程度に過ぎない。しかも、この和寒方は起点32K903Mから35K347Mまでの2.5キロの連続を含め20パーミルが断続的に介在するにせよ、ほぼ直線的に上ってしまう。山間らしい区間は蘭留山の裾を巻いて230メートルの等高線に達するあたりから塩狩構内までの2キロ足らずに過ぎないのだけれど、そこは機関車が積雪を踏み締るように上って来る、雰囲気のある峠道であった。針葉樹を屈曲する線路なら、常紋越えも奥白滝からの石北トンネル区間も似たようなものだが、これと云った足場の無いにかかわらず塩狩へは冬場に随分と通った。
積雪期と云うのは、それをかき分けて往けば夏場に到達出来ない位置にも立てたからだが、ここは小さな峠に似合った開放感からか、写り込む背景との距離感が絶妙だったのである。なので線路際の雪山の上からでも楽しめた。加えて、1985年3月改正以降なら客車急行が昼間に通過し、客車の普通列車にコンテナ貨物(夜間・早朝で撮れなかった)、キハ56/27の気動車急行も健在だった。それは、紛れも無く幹線の姿でもあった。

写真は、20パーミルの雪道を確かめながらゆっくりと上って来る321列車。
このカットを見ていて、抜海 (宗谷本線) 1984 への書き漏らしに気がついた。1984年2月改正でマニ50(マニ36)+スユニ50+オハフ51の3両組成に改められた321・324列車は、1985年3月改正にて[北東航6]のマニ50が[旭荷1]のスユニ50に置替られた際に、護送便となった[旭郵1]をこれに統合してスユニ50+オハフ51と云う2両組成になっていたのである。写真でのオハフ51の2両は何らかの都合での増結であろう。気動車化されるひと月程前の撮影である。

最近のことと思うが、塩狩構内近くに「塩狩峠」と表記した標柱が建てられた。地名としての峠名称は古くからの人馬の交通路へ付名が通例であり、鉄道のものでは無い。しかも、記された標高274メートルとは国道40号線での最高地点と思われ、そもそもそこに建てられるべき標柱とは思えない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

鬼志別 (天北線) 1986

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猿払村域の天北線には4駅(他に仮乗降場の2場)が存在したが、村の代表駅は村名を名乗る猿払では無く鬼志別であった。
ここに集落の形成が先であったか、停車場の開かれたゆえであったかは調べていないけれど、ここに鉄道の開通したのは1920年11月1日のことで、宗谷村から分村しての猿払村の成立は1924年と記録される。それから半世紀以上を経て見た駅は市街地の外れに位置していた。市街地とは云っても、駅前通りは鬼志別川を渡り2分も歩かぬうちに家並みは途切れ、右をみれば村営住宅と思われる住宅が続いていたから、本来の集落規模は極めて小さいと知れる。

駅は、その開設から2年間は宗谷本線(*1)の終端駅だったから、その設備として機関車の駐泊施設に転車台も置かれて、後には稚内機関庫の鬼志別分庫ともされていた。1922年11月1日に稚内(現南稚内)までが全通すると小石から曲淵へ宗谷丘陵を越える勾配区間の補機基地を要したゆえである。
頓別・猿払原野の開拓と樺太への連絡を目的に建設されたこの線の停車場は300メートル近い本線有効長が確保され、副本線を設備した例も多く、加えてここは客車留置に使われたであろう側線も有していた。それは、その地位
にあったのは僅か4年ばかりに過ぎないのだが、幹線駅の風格と云えた。
本線有効長に比しての客車で3両程度のアンバランスな乗降場延長は、その4年あまりの間に運転された小樽-稚内間や函館桟橋-稚内間などの長距離列車(*2)を例外として、混合列車での客扱いに対応すれば十分との設計なのだろう。
本多勝一氏の著作『北海道探検記』には、開拓地への入植の入口駅として機能した姿がルポされており、実際に利用の多かったものであろう、猿払村史には1941年に駅舎改築との記述がある。それが、新築であったか、増築をともなう改築を意味するのかは知れぬが、駅本屋の下頓別や浅茅野、猿払に比べて一回り大きかったのは確かである。

北オホーツクの早い秋空を空中の腕木信号機梃子のケープルが横切る、鬼志別駅の暮色。
キハ22の単行列車は、鬼志別下り本線に停まる727D稚内行き。ここで、後部に回1742Dで小石から回送され滞泊していた1両を併結、さらに曲淵では前部に744Dで到着した2両編成を加えて、稚内到着時にはキハ22ばかりの4両組成になる。
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(*1) この音威子府から鬼志別までの開業時に線名の宗谷線を宗谷本線と改めたが、1921年10月5日付で宗谷線に戻された。しかしながら、1922年11月1日の稚内(現南稚内)まで全通直後には11月4日付にて再び宗谷本線とされた。
(*2) 全通と同時に函館桟橋-釧路間急行に接続する小樽-稚内間列車を設定。稚泊航路の開設された1923年5月1日改正からは、これに替えて函館桟橋-稚内間急行の運転を開始している。但し、急行券所要区間は滝川までで宗谷線内は普通列車であった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/60sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

音別 (根室本線) 1986

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1985年3月14日のダイヤ改正は、1984年2月改正を深度化して鉄道の特性分野である「都市間」「大都市圏」「地方都市圏」の輸送改善に重点が置かれ、道内の都市間輸送を担う特急形気動車では、車両増備を伴わぬ中で編成組成の減車による捻出分にて増発を行う特急列車網の整備が計画された。
この運用増にともない所要となる制御車と特別車(グリーン車)については、キハ183系列には編成短縮にて不要となる中間電源車キハ184を種車としてキハ183-100番台とキロ184(-900番台)が改造出場した。
この系列の計画当時にも量産車の投入時点でも、道内気動車特急はキハ82系の基本である7両組成に2ないし3両を増結した組成での運用が常態であったから、制御車を前頭非貫通として中間電源車を含む9ないし10両を基本組成としたものだろうが、当時に北海道総局側が強く要望した食堂車製作を将来的な列車体系の変動予測から見送りながら、その量産車から5年を待たない時点までの国鉄を取り巻く輸送市場の変化を織込めなかったものか、とも思う。この時代の車両設計部署と営業現場の乖離した国鉄のモラール低下の一端を示す事象と云えよう。

キハ184の後位側に追設された中間組成も前提の貫通構造運転台は、非貫通の0番台との統一と設計に工作の簡略から平面ガラスが採用され、共通設計の前照灯を屋根上に装備した独特の形態となった。施工車4両の内、1984年12月から85年1月に出場した 101-103 の3両は、その塗色も0番台を踏襲して前頭部下部全体を赤2号としたのだったが、84年12月1日に五稜郭車両所を出場して報道公開された101の、その評判が部内も含めてあまりにも芳しくなかったものか、続いて12月18日に苗穂工場を出場の102とも、12月27日の運用投入から10両組成の中間にキハ184の代替に組み込まれて先頭には出ること無く、85年2月に再入場してダイヤ改正までにキハ82の制式塗色に類似の塗色に変更された。
五稜郭を85年1月9日の出場となった103のみは、原塗色のまま中間組成を経て85年3月18日から函館所[A2]仕業に札幌方先頭車として3月27日まで運用の後の再入場となった。この10日間に<北斗>の1・6・5・10号を撮影していれば貴重な記録である。85年3月13日に苗穂を出場の104は、当初より変更塗色であった。

その後に、キハ183-100番台車は、500番台系列に採用の新特急色、キハ281系に類似のHET色、そして北海道旅客鉄道特急色(各塗色名称は通称)と投入運用により変転したけれど、この85年当時に国鉄制式塗色を準用したものが最も似合っていたように思う。キハ82と共通部品を採用した愛称表示板(第3種列車名票)は、絵入りとなると同車には不似合いだったのに、このクルマには違和感無く釣り合っていたのも不思議ではあった。

写真は、5034D<おおぞら4号>函館行きの最後部に組成されたキハ183-100番台。後追いである。
この頃には、車両の向きをキハ184の組成方向に合わせていたので、先頭車としての組成は函館方に限定された。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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