"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

細岡 (釧網本線) 1985

hosooka_09-Edit.jpg

北海道鉄道網の骨格路線を定めた『北海道鉄道敷設法』(1896年5月13日法律第93号)の第2条には、「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」が規定されていた。これは同法の制定意図から将来に幹線と位置付けられた路線と見て良い。公布後、直ちに道庁に置かれた臨時北海道鉄道敷設部による調査が行われ、この鉄道は第1期線に位置付けられたのだった。
経路中の厚岸は当時まで道東の拠点であった故だが、釧路川水運によりヒンターランドを確保した釧路が厚岸を凌ぐ経済的地位を確保すると、1919年の『北海道鉄道敷設法』改正にて(1919年3月25日法律第21号)、太平洋岸とオホーツク岸連絡線は短絡を意図して釧路から網走間と改られ、ここに後に釧網本線となる路線が確定したのである。
とは云え、釧路側の泥炭地帯(釧路湿原)の通過には難工事が予想され、二つの経路が比較・検討されるところとなっていた。釧路川の右岸と左岸の経路であり、当然ながら双方とも台地の縁を縫う線形が調査されていた。
実現しなかった右岸線を乏しい資料から推察するに、後の新富士付近の大楽毛方から分岐し、温根内までは1926年に開通した殖民軌道雪裡線とほぼ同経路、右転して温根内川・雪裡川の低湿地を築堤して渡り、宮島岬・キラコタン岬に隧道を穿って通過し下久著呂付近から標茶に至るもの、即ちは現在の道道53号から243号線に類似ながら、より泥炭地側の経路とされていたと伺える。
新富士-標茶間調査路線は、およそ50キロ余りの延長と推定され、それは東釧路(当時に別保信号場)-標茶間を上回るのだけれど、泥炭地への路盤構築距離は短く、現行路線が軟弱地盤への施工に難航し、工費・工期とも当初予定を大きく超過したことからは、ずさんな調査・見積りによる選定だったとも思える。開通後も、この現行線は激しい凍上や法面崩壊に悩まされ、洪水時の路盤水没からの一部線路付け替えなども生じたから、尚更の感がある。
にもかかわらずの左岸選定は、結局のところ釧路でのスイッチバック運転の回避だけだったのではなかろうか。

細岡から中の沢川流域の湿原陥入部を渡る築堤区間へと差し掛かる5691列車。東鹿越-中斜里間の指定運用による石灰石輸送列車の、これは返空回送であった。
写真の頃には湿原の乾燥化も進んでいたけれど、ここへの築堤構築も難航したに違いない。丘陵の裾に張り付けた区間が多かったとは云え、別保信号場-細岡間の1メートル当りの竣工単価は21円81銭と記録にある。釧北隧道掘削を含む上札鶴(現緑)-川湯(現川湯温泉)でも22円60銭であったから、如何に工費を浪費したかが理解されよう。細岡から塘路間に至っては50円82銭であった。

ところで、写真の背後には細岡駅周辺に所在していた集落が写り込んでいる。現在では全てが失われた。2010年国勢調査ではトリトウシ原野南4線の居住者は1世帯2人であった。さて、昨年の調査結果ではどうだったのだろうか。

=主要参考資料=
釧網線建設概要(1931年 鉄道省)
日本鉄道史(1921年 鉄道省)
鶴居村史(1966年 鶴居村)
北海道交通史(1950年 梅木通徳)

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


細岡 (釧網本線) 1985

hosooka_08-Edit.jpg

蒸機の末期から飽きるほど通った釧網本線なのに、細々と残っていた中斜里着発の貨物列車が1996年に廃止されてからと云うもの、一度も撮っていない。1984年2月改正では混合列車(実質には客車列車だったけれど)が無くなり、86年11月改正で貨物の大半に優等列車まで喪失しては、前述の中斜里貨物を思い出したように撮るだけになっていたのだが、それすら失われての単行気動車ばかりには、あの沿線風景と云えども食指が動かないのである。
けれど、単なる旅行者としてならその後も幾度か全線を乗り通している。かつてに自分が立った位置を確認しながらの旅は、この四半世紀を越える歳月を感じさせる車窓でもあった。
降りる気にはなれない北浜の喧噪ぶりは論外として、沿線は極度に過疎が進行しているはずなのに網走近郊や斜里原野区間では建造物を煩わしく感ずるし、河川敷に樹木が大きく成長した猿間川橋梁では海別岳を背景に編成列車を捉えるのは既に困難だろう。
けれど、変容の著しいのは標茶から先、釧路湿原の区間と見える。一言で云えばハンノキの群落が増えた。釧路川へと流れ込む細い川筋はヤチダモが教えてくれるし、加えてはカエデやらヤナギの灌木だろうか。その樹林帯の確実な進出に、ヨシやスゲにコケ類の高層湿原群落の面積縮小が素人目にも見て取れる。これらは土砂堆積とそれにともなう乾燥化傾向を明らかに示していよう。

陸化型の湿原は、低層から中間、高層へと推移して、やがては陸地と化する。縄文海退による潟湖に発する釧路湿原は、まさに植生学の教科書どおりの「湿性遷移系列」の途上にあるには違いない。けれど、数千年を経ての泥炭の堆積により形成された湿原である。前に 植苗 (千歳線) 1970 で勇払原野のウトナイ湖周辺湿地についても書いたけれど、現在に我々はその何千年目かに訪れる陸化への最終遷移に偶然にも立ち会っている訳では無い。この50年にも満たぬ期間での景観の変容は人為的結果と云わざるを得ない。
それは、19世紀末期以来の湿原を囲む丘陵地の開墾にともなう土砂流失と、そこでの経済活動にて生じた栄養塩類の涵養水源への流入がもたらしたとされている。戦後に至っての湿原内河川河道の直線化では氾濫原が失われ、結果的に増した土砂流送量に堆積は進み、湿原内にも及んだ農地化が拍車を掛けたと云えそうだ。
薄暮の車窓など特に、かつても現在もただ茫漠たる湿原風景の過ぎ行くに見えるけれど、その景観は様変わりしたとして過言でない。

幾度も通った細岡の遠矢方、中丿沢川出口の陥入部をR=362M曲線の築堤で渡って往くのは3692列車。
此の頃には、後部の石灰石を積んだ無蓋車を中斜里で切り離しての北見行きであった。
背景の湿地を横切る中丿沢川の流路沿いには、たかだか30年を経た今にハンノキにヤチダモが密生するに至っている。土砂の堆積は、やはりこのような「入江」から進むものか、背後の丘陵地からはエゾイタヤやシナノキの樹林の進出が著しく、ヨシ原に最早湿地を湿原に足らしめる「湿原植生」の群落は存在しないだろう。
このように書いておきながらなのだが、実はここを含む達古武沼周辺地域でのハンノキ群落の面積は減少している。皮肉なことに、陸化したそこが農地へと転用され続けた結果である。
=参考資料=
釧路湿原達古武地域自然再生事業実施計画書(2005年環境省北海道環境事務所)

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

猿払 (天北線) 1985

sarufutsu_05-Edit.jpg

天北線(当時の北見線)への気動車運行は1955年12月1日に音威子府-稚内間の混合列車1往復を置替えたのが始まりである。その秋に稚内機関区へも投入されたキハ48000(称号改正後のキハ11)が運用された。そして、年の明けた1956年2月26日には、それの増備とキハ10000(称号改正でキハ01)の配置を受けて、早くも貨客分離が実現していた。列車本数の少なさもあろうが、これは宗谷本線の名寄-稚内間に先駆けてのことだった。
この際に、混合列車から貨車を引継いだ蒸機の牽く貨物列車が幾本設定されたものかは解らぬが、手元に資料の残る1963年10月改正ダイヤには790から793列車の4本に、音威子府-浜頓別間の区間列車2本の計3往復が見て取れる。全線を通す4本は全て昼間の運転であり、この頃に小石-曲淵間の峠に立てば、その全てを異なる光線下で撮れたことになる。これの削減は1968年10月改正であり、沿線物流の道路輸送への移行は早い時期から始まっていたのだろう。
道北へと遠征を始めた頃の浜頓別以北での1往復運行は、貨物の3往復に加えてC55の旅客列車まで撮れた宗谷線に比すれば効率の悪いのは明らかであり、実は一度も撮っていない。蒸機の無くなってからも興浜北線へは通ったのに、天北線はキハ22の2両組成を恵北の丘から幕別原野に望む程度でお茶を濁していた。

そこへもたらされた1985年3月改正からの昼行客車急行の運転、<天北>の客車化のニュースは青天の霹靂として良かった。1972年の<白山>の電車化、特急格上げ以来に白昼を堂々と駆け抜ける客車による優等列車は新潟以北の<きたぐに>に、函館山線を重連の機関車で越えた<ニセコ>だけであり、それが<宗谷>と合わせ2往復も追加設定されるなど夢にも思わなかったから、鉄道雑誌に見つけた速報に機関車屋は驚喜したものだった。しかも、<天北>は優等列車牽引なら1968年10月改正での米原-田村間<日本海>以来のDE10が登壇と相成った。
かくして始まった天北線通いは、ポイントの探索からとなり、音威子府の北で天北峠を越えての頓別川流域よりも浜頓別から先のクッチャロ湖をはじめとする海跡湖が点在し沿岸湿原の続く猿払原野区間に惹かれ、中でもポロ沼を茫漠と遠望した情景が、世話になったそこの牧場主一家と共に印象に残っている。

写真は夏の日の猿払駅本屋。
それにしても旅心は無いのだな、と熟熟に思う。
鉄道の旅はそれはそれは随分としたのだけれど、車窓を肴に酒を舐めるのは旅情とは云わぬだろうし、写真を撮りに往く旅ならコンテの検討が先に立っていたし、仕事の移動に乗るならば着いてからの手順が気になった。鉄道屋だから汽車に乗ることこそ旅だと偏った理解はすれど、それを写真にするなぞ思いもしなかったのである。撮り切れずに断念した話しは 奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977 にも書いた。
これも光線が気になったのが先行して、せいぜいに上りの到着に忙しい駅員氏を待合室越しに抜いた程度である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

常紋信号場-金華 (石北本線) 1985

jomon_16-Edit.jpg

鉄道屋なので道路は門外漢である。それでも徒歩のそれとしては自分の歩いた道のことは気になる。
金華の先で国道242号線から右に分岐して熊の沢川の谷を遡り、標高397メートルの峠で八重の沢川の源流に至って生田原の平和橋近くで再び合流する(ここでは国道の方が合流して来ると云うのが正しい)、つまりは石北本線と共に常紋郡境を越える細道もそのひとつである。常紋信号場から要員の引揚げられ、隧道内の照明点灯がままならなくなって以降には、生田原側との往き来に歩いた諸兄も多かろうと思う。
線路との平面交差は一箇所のみで、その踏切名称-旧北見湧別線踏切から、かつては路線名を「北見湧別線」と呼ばれていたらしいと知れる。けれど、国有鉄道による踏切付名は正規の道路線名を採用するとは限らず、その名称は、ここでの道路史には登場しない。それを勘案しても「北見」と「湧別」と云う広域地名を名乗るには、ある一定の時期に両地域を結んだ主要道だった証と受取れもする。

ムカ原野とイクタラ原野を連絡した最初の「道路」は、1891年秋には完工していたであろう北見道路(中央道路)を構成する区間とされており、これは留辺蘂から北上し現佐呂間町の共立で左折、丸山(558.3M)の斜面を標高510メートルまで上る五号峠(共立峠)を越えて下生田原に至る経路であった。北見道路は1895年3月23日の北海道庁令23号を以て仮定県道中央線に指定、基幹道路とされた。そして、1919年に五号峠の北方に標高を302メートルに下げる旭峠が開かれると、『道路法』(1919年4月10日法律第58号)に基づく1920年4月の「北海道道路令」(1919年11月25日勅令第473号)での地方費道5号旭川根室線への指定と同時に、同峠に経路が変更されていた。それは道路としての輸送力向上を意味する。
かように旧北見道路出自の道路が幹線であり続けた中で、「北見湧別線」なる経路の開通はいつのことなのだろうか。門外漢は調べ得なかったけれど、米軍が1947年に撮影した空中写真にくっきりと確認出来るところから、戦前期ではあろう。最も順当に、留辺蘂-下生田原間湧別軽便線の建設資材輸送路として開削されたものと考えるならば、鉄道開通と同時期に一般の供用を開始したものと思う。名称すら記録されていない、その常紋郡境越えの峠は五号峠に比して標高を100メートル低下させたばかりでなく、標高320メートルの丸山峠越えも不要としたから、この推定が正しいとすれば、1914年頃から旭峠開通までの5年間ほどは中央線に比して輸送の主体を担っていた可能性もあり得る。けれど、それらしきは、北海道に存在した仮定県道は勿論、その後の地方費道・準地方費道にも見当たら無い。

此の道路が記録に現れるのは、連合軍施政下の一時期に存在した「北海道2級道路15号線」としてである。新制北海道庁による1948年9月の「北海道総合開発計画書」に札幌と主要都市・重要港湾を結ぶ1級道路と、隣接支庁間の2級道路の指定があり、15号は紋別郡上湧別村を起点に遠軽町・生田原町を経て常呂郡留辺蘂町に至る路線とされていた。旧北見道路は1級道路6号(旭川市-現根室市厚床間)とあるから、これが件の「北見湧別線」に間違いあるまい。1954年3月30日には道道111号遠軽留辺蘂線に認定されている。
一方、国道39号線(旧北見道路)の留辺蘂-下生田原間の30キロばかりに旭・丸山の二つの峠の維持管理を避けるべく、ずっと時代の下った1963年に、金華から奔無加川沿いに上金華へと、上生田原からは生田原川・支線沢川の谷に伸びていた開拓道路を結んで開削されたのが金華峠(1973年に現道に改良)である。開通と同時に前後の開拓道路部分も含めて、湧別-遠軽-留辺蘂-置戸経由で網走市と帯広市を結ぶ国道242号線の構成区間となり、これが「北見湧別線」こと道道111号遠軽留辺蘂線を旧道に追いやったのだった。
道道111号遠軽留辺蘂線は1965年4月1日付にて29号遠軽上湧別線と結んで511号上湧別留辺蘂線となり、意外なことには1976年8月31日に認定解除されるまで道道であった。

石北線定期貨物運転の末期、盛夏の常紋郡境を下って往くのは1557列車。コンテナ車 7両の350t牽引には、所定の補機運用が省略されていた。
この日も早朝に金華へと降りて、かつての道道を既に無人となった常紋信号場へと歩いた。北海道らしく湿度も低く、快適なトレッキングと覚えている。
さて、旧北見湧別線の踏切名称付名は「旧」の付される以上、金華峠開通以降の比較的近年、しかも道道上湧別留辺蘂線の時代のことであろう。それが設置時に、即ち道路の開削時に何と呼ばれていたかは、終ぞ知り得なかった。それ次第では設置時期も推察可能ゆえ、鉄道省札幌鉄道局による線路略図など所蔵の方が居られれば、ぜひとも御教授を請いたいものだ。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

道路の門外漢には、大島仁氏による労作「道道資料北海道」を参照させていただいた。

常盤仮乗降場 (天北線) 1985

tokiwa_02-Edit.jpg

戦後に北海道の国有鉄道路線上には、その鉄道景観を特徴付けることになった仮乗降場の多数が設けられた。どの施設も地方機関の限りにおいて設置されたに違いはないが、1949年6月1日の日本国有鉄道発足を境に、前後ではその性格は異なったのだった。
これは、2013年6月に 安別仮乗降場 (天北線) 1985からシリーズで記述した仮乗降場に関わる記事の補遺である。

アジア太平洋戦争の敗戦直後より日本国有鉄道発足までの仮乗降場の開設は、戦地からの復員や外地よりの引揚げによる人口動勢に端を発していた。1945年から47年までの2年間に、実に622万人にも及んだこれら人々の収容と人口増にて危惧される食料難に対して1945年11月9日に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域の交通手段として鉄道駅の必要とされたのである。当時に国有鉄道を管轄した運輸省鉄道総局には多くの新駅設置の請願が行われた中で、特に未開墾地の多くが所在し早期に入植の進展した北海道においては、緊急の国策に政府の要請も強く、本省の裁可を待たずに札幌鉄道局の限りに仮乗降場としての設置が進められ、その数は11線区での23箇所に及んだ。都市近郊での1箇所に炭住街の拡張による運炭線上の2箇所を除けば、全てが道北道東地域に所在した。(具体的個所は追記にて記す)
この当時の国鉄は常設駅を無人駅も含めて恒久施設と考え、これら仮乗降場も将来の駅昇格を念頭に土盛の乗降場に待合所、必要とあらば本屋も備えていた。中には木材組み板張り構造の乗降場と云う個所も含まれたが、あくまで駅昇格時の本工事を前提に工期短縮の仮設備とされて少数派であった。

1949年に発足の日本国有鉄道は、鉄道総局への請願に対して1951年3月の理事会にて新たな駅設置基準を内規に定めた上で、それに適合した93駅の新設を同年7月14日付にて承認した。この内、38駅が仮乗降場からの格上げであった。ところが、道内の23箇所には上記承認とは無関係に昇格を果たした個所のあった反面、全てがそれを認められたでは無かったのである。
この際の駅設置基準は、地形・線路状態が設置に適し且つ工事の容易なことを前提に、便益者側での用地寄付や工事費の負担があり、既設駅間距離の8キロ以上の中間に位置する、一日あたりの推定乗降客数の500人以上の旅客駅を承認条件としていたものの、僻陬地についてはそれの300人以上と緩和され、さらに仮乗降場からの昇格には駅間距離の条件も緩められていた上に、鉄道以外に交通手段の無い地域には特段の考慮との項目も付されていたに関わらずであった。石北線の旧白滝・野上(新栄野)・生野・鳥ノ沢、池北線(当時に網走本線)の笹森の5箇所を数えた事例の、個々の事情は知り得ない。

国鉄の理事会が打ち出していた、この93駅の設置承認を最後に「今後当分の間は新駅設置はしない。事情止むを得ないものと云えども地方機関限りで仮乗降場も設置してはならない」との方針に反旗を翻したのが、旭川鉄道管理局の第二代局長として1954年に赴任した斉藤治平であった。管内視察から、そこに数多くを擁した僻陬地に位置する開拓集落の、地理的条件や気象状況に数キロ先の駅までの交通にも難儀する実情に鑑みて、離任時期は調べ得ていないが、1960年までに管内の12線区に実に97箇所もの仮乗降場を開設したのである。
当然に本社との軋轢を生んだのだが、彼は自らの構想を本社の云う仮乗降場とも考えていなかった形跡が在る。線区としての輸送量を重視し乗降場あるいは駅としての乗降客数の集積に拘らないのが斉藤の発想であり、進展しつつ在った気動車運行を前提に、バス停留所のごとくに乗降施設の短い距離間隔での多設を想定していたのである。本社への意見具申の中での指導により中途半端に終わったのだが、構想通りに実現していれば設置は200箇所に迫ったのではなかろうか。施設自体も乗降扉1枚分程度の乗降台を考えていたものが、これは運転側のブレーキ扱い上の要望にて気動車と同等の有効長とされた。板張りの粗末な乗降台と云う北海道に特徴的な鉄道景観は、斉藤の構想に始まったとして良い。

常盤仮乗降場は下頓別から3キロ余りの音威子府起点54K820M地点に1955年12月2日に開設されている。写真にも見える通り、広大な酪農地帯に位置し農家の散在するものの、周囲に集落の存在するではない。ここも、1950・60年代には高校生の街への下宿を不要とし、小荷物として特認された生乳の出荷にも大いに寄与して列車着発の度に賑わったものであろうが、線路際にバス停然とした施設だから、代替交通機関の発達すればいつしか忘れ去られ、廃止予定線ともなれば尚更に放置されるのみだった。

本社が斉藤の具申を認め、それに続いた他の管理局での設置も追認し、最後には前述の方針の撤回に至ったのは、それが増収をもたらした故と推定する。以後、国有鉄道の矜持としての土盛の乗降場にも拘らなくなるのだった。
(文中、斉藤治平氏の敬称は略させていただいた)

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

続きを読む

浜頓別 (天北線) 1985

hama_tombetsu_05-Edit.jpg

旭川稚内間鉄道は1896年に成立の『北海道鉄道敷設法』(1896年5月14日法律第93号)第二条に規定の「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」を建設の根拠とし、この年7月の臨時北海道鉄道敷設部による調査をもとに早急に建設に着手すべき第一期線に組み入れられたものである。法定条文に経過地の記されないこれに対し、同敷設部は音威子府以北区間について「天塩川・サルペツ原野回り」と「頓別・猿払原野回り」の比較検討から、距離の短く且つ北見・天塩国境越えにも勾配の緩い前者の採用を前提に、名寄以北区間の工事を1909年9月に着工したのである。
しかしながら、この1900年代初頭は、道内における鉄道敷設の主導権が、それまでの大地主たる華族集団から当時に台頭しつつあった新興資本とその代弁者たる政治家・政党へと移行する時期と重なり、鉄道の誘致は各所において、巨大政党であった立憲政友会とそれに対立した同志会(後に憲政会)の地盤と利権確保の具とされ、この音威子府以北区間もその政争に巻き込まれるところとなった。ここで予定の天塩経由維持を主張したのは政友会であり、反政友会系の大同クラブ(同志会)が、頓別原野経由とする『北海道鉄道敷設法』改正案を提出した1912年2月の第28回帝国議会にて両者は厳しく対峙し、線形からも建設の容易さからも天塩経由の優位性は疑いの無いところではあったけれど、その激烈を極めた政争に鐵道院の正論の入り込む余地も既に無かったのである。
これは鐵道院総裁後藤新平の政治判断をして頓別回りにて決着するのだが、そこには同時期にやはり海岸線と山手線との争いの在った湧別原野網走間鉄道の政友会が主張する山手線採択と相互に裏取引の存在も囁かれるものの、確証は残されていない。
いずれにせよ、鉄道線路は、この頓別原野経由線と云い、常紋国境越えの山手線と云い、比較線のありながら難工事の想定される経路に建設せざるを得なくなるなど、最早鐵道院が自主判断で合理的に選定出来るものではなくなっていたのだった。

頓別原野線は、この決定を受けて同年10月に小頓別まで区間から順次着工したものの、そこの天北隧道が軟弱地質に加えての強い土圧に難行し、頓別川流域から猿払原野に続いた泥炭地への路盤構築にも難儀して稚内への到達は1922年11月1日にずれ込み、それは政友会の巻き返しにて着工された天塩回り線の全通に僅か4年を先行したに終わった。しかも、距離の長い上に宗谷丘陵越えに半径300メートル台の曲線に12.5パーミル勾配の連続する線形は、それに樺太連絡の幹線の地位を譲らざるを得ないものであった。
とは云え、開通した線路は頓別・猿払原野の開拓に資したには違いなく、中頓別町史や浜頓別町史には入植の促進による沿線駅周辺集落の発展と現在には想像も出来ない繁栄の様子が記録されている。

建設距離の短縮のためであろうか、常盤付近からクッチャロ湖西岸の通過を予定していた線路を当時の頓別集落に近づけ東岸経由とさせたのは、その一帯に土地を所有していた菅野栄助であった。菅野は用地の提供を申し出て、そこに浜頓別停車場が置かれた。そればかりか原野であったそこへの市街地形成にも私財を投じたと町史にある。浜頓別の駅名は頓別川流域原野の最も海岸寄りの所在から鉄道院の付名したものだが、やがては新市街と呼ばれていたその地名となり、後に町名とまでなった。なので、浜頓別市街は頓別市街よりも内陸に所在する。

写真は浜頓別に到着する303列車<天北>。
この日、上川地方大雨による80分の遅延は日没直後となって、7月とは云え露出の苦しいのは否めない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8ED 1/30sec@f2.8 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

川湯 (釧網本線) 1985

kawayu_03-Edit.jpg

釧網本線は貨物輸送の幹線であった。国鉄が全国の貨物扱駅の集約方針を表明した1977年8月18日時点で起終点と乗降場を除いた線内22駅中14駅で扱いが行われ、磯分内、中斜里、斜里、浜小清水の各駅には専用線も接続しており、線内中間駅発着一般貨物を担った混合列車4往復に、貨物列車の6往復(臨貨含む)が設定されていた。貨物列車の半数は北見を発着駅としていた専用貨物で釧路とオホーツク岸との通過輸送線だったとも知れる。旅客輸送も1982年11月15日改正ダイヤまでの線内急行の3往復は主要線区として良いだろう。
この当時に沿線で待てば、昼間に少なくとも10本はDE10形内燃機に牽かれた列車がやって来たから、機関車屋には堪えられない線路と云えた。それは函館山線や根室本線末端区間の撮影効率を遥かに上回っていた。
余談になるが、1968年夏に補機から始まったここでの無煙化は貨物列車が先行して全区間に波及した。1972年10月改正ダイヤで既に東釧路-斜里間に蒸機牽引の貨物列車は皆無となり、斜里-網走間でも2往復のみとなっていた。貨物重視はここにも見て取れる。
前記の貨物駅集約により1984年2月1日改正までに中斜里を除く全駅で貨物扱が無くなり(*1)、同改正では混合列車も一般車扱貨物列車も廃止されてしまうのだが、それでも専用貨物列車の多かったこの線区には5往復(臨貨含む)のそれが残り、道内行きのスケジュールからは外す訳には往かなかった。
弟子屈-緑間釧北トンネル越えの原則後補機が1985年3月14日改正ダイヤから次位補機の全線通し仕業が所定(*2)に改められれば、機関車屋には魅力が増したとしても良かったのである。
......................................................................................................................
(*1) 扱いの廃止状況は以下の通り。いずれも荷主との調整に手間取ったものか、国鉄の計画より2年から4年を遅れた。
1979年7月15日付 - 川湯・美留和
1982年9月10日付 - 磯分内・弟子屈・緑・札弦・止別・北浜・藻琴
1983年5月20日付 - 標茶・清里町・浜小清水
1984年2月01日付 - 斜里
(*2) 1984年2月1日改正のダイヤ上には弟子屈-緑間補機が維持されていたが、実際には重量貨物には通し運用が散見されるようになっていた。

写真は硫黄山を背景に重連で釧北トンネルへ向かう5692列車。日鉄鉱業東鹿越鉱業所専用線からホクレン農業協同組合連合会中斜里製糖工場専用線への石灰石輸送列車である。
この区間は、その位置も確認し、幾度か機会の在りながらも画角反対側に在った斜面に登らなかったのが心残りではある。この日もあまりの暑さにその気の失せてしまい、駅から少しばかりの線路端で誤摩化している。

網走から単行の気動車がひっそりと発車して往く釧網本線の現況は、かつてを知る身には「惨状」と云う言葉しか見つからない。季節に両端の区間に運行される観光列車や蒸機の展示運転に些かばかり賑わうけれど、それは鉄道がここでの使命を終えたことと表裏を成し、とても撮りに往く気にはなれないでいる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塩谷 (函館本線) 1985

shioya_06-Edit.jpg

鉄道省が1924年に発行したウィンタースポーツのガイド本「スキーとスケート」については、以前にここへ書いた。
それを通読していて驚いたのは、小樽周辺のスキー適地の紹介に塩谷駅の名が登場していたことである。それとは無縁と意識していただけに意表を衝かれたのだった。
スキーの導入期からそれのゲレンデスキーに移行する戦後の時期まで、今はトレッキングの対象として知られる標高629.2メートルの丸山が、小樽市街地の高等商業(現商科大学)裏手斜面から伍助澤開拓地を経て、その東斜面に取り付き、頂上から北斜面を塩谷に向けて下る、或はその逆経路がスキーコースとされており、塩谷は乗降駅だったのである。頂上北側に標高差200メートルに渡り広がる斜面や麓の現塩谷4丁目付近の緩斜面が滑降の好適地と紹介されている。コース上にスキー小屋などの施設は無く、登坂と滑降にほぼ一日を費やす行程とある。駅裏手に1912年に操業した北海瓦斯(現北海道ガス)の工場が斜面からは良い目印となったことだろう。

北海道鉄道(初代)は蘭島から小樽中央(現小樽)への経路を、標準勾配の20パーミルを介在させてもなお内陸に選定した。一部には、湾岸の通過が不漁に繋がるとした鰊漁網元による強硬な反対運動が伝えられるけれど、実際にはそこに連続した断崖地形に関わる隧道建設を回避したものだろう。これにて海沿いの塩谷村の中心集落から外れた山腹の開拓地に設けられた停車場に塩谷の名が与えられた。そこは、標高の50メートル程度ながら前山に遮られて海面を望めない山間の駅だからスキーの基点としても然程に違和感は無い。
余談だが、ガイドには丸山よりさらに奥の通称の遠藤山から毛無山を経て蘭島へと滑り降りるコースも見られ、この海水浴駅に冬にはスキー客の在ったことになる。

丸山から続く緩斜面の開拓地は、既存集落から至近の距離にあり、この1903年には鉄道まで通過したのだから恵まれた位置と云わねばなるまい。さらには時期を同じくして小樽市中心部から直接に連絡する道路が開削されていた。軍事道路と呼ばれた通行路である。石狩湾に面した小樽からの有事の際の連絡路として軍部が建設を急いだもので、その目的から敢えて山中を経路とした急造の道路は一般運送には使い物にならなかったとも云われているのだが、ここや伍助澤開拓地から小樽への人馬の通路には十分に機能したことだろう。現在の北海道道956号小樽環状線はこれの拡輻整備による。

写真は於多萠の峠を越えて塩谷に接近する102列車<ニセコ>。見えているのが塩谷の上り遠方信号機である。
この3月の改正で運用受持区が札幌運転区へと替わり、4両組成が所定となっていた。小樽築港機関区の運用は改正されなかったので、DD51の重連仕業はアンバランスだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

幌延 (宗谷本線) 1985

horonobe_02-Edit.jpg

以前の記事、南稚内 (宗谷本線) 1970 で触れた、1911年5月17日の「明治44年稚内大火」は、15日から増幌原野や更喜苫内原野方面に出火していた大規模な林野火災が、春先の乾燥に加えて、この時期特有の「ヒカタ風」と呼ばれた南西からの強風にて延焼し市街地を舐め尽くしたものであった。
内地の積雪地と異なり、北海道でのそれの融解は晴天の続く春先の乾燥に蒸発するように進む。消雪後の泥炭の原野は地表の湿潤を失って葦の枯れ草だけが残され、一度失火があればたちまちに延焼するのである。この時期での小規模な林野火災は、それこそ年中行事の如くに生じていた様子なのだが、この年は全道的に1896年以来の少雨が続いたせいか、渡島半島部から宗谷方面に至って相次いだ山林・林野火災が当時の新聞記事に見える。それはまるで北海道西部全体が炎上していた如き様相を伝えて、宗谷地域では稚内大火と前後して、枝幸から目梨泊に至る火災に初山別村の大火も報道されている。ここでは、1913年にも稚内・猿払・豊富・枝幸に報告が在り、1924年には稚内・沼川・樺岡での出火も記録される。
なお、稚内はこの後も1928年、1930年と続けて市街地に端を発する火災にも見舞われている。

幌延村域においても、1920年代後半に大火が続き、1926年6月7日にタンタシヤモナイ(現在の雄興地区)で2995haに及んだ林野火災、その二日後の9日にヌプカナイ(現在の問寒別地区)での665ha、1927年6月23日に上トイカンベツ(現在の上問寒)で900ha、1929年6月1日にオヌプナイ(現在の雄興地区)で1946haを焼いたと記録される。
10年を下った1940年にもトイカンベツにて900haを焼失する火災が在り、1946年6月半ばには豊富、安牛、オヌプナイ、エコロベツの各所で山林火災が同時多発的に発生した。

この1946年火災については、当時の幌延保線区の職員が残した記述がある。
それによると、数日来に燻っていた山林火災は6月18日午前9時に至り、折からの風速20メートルを越す南風に煽られて幌延市街地から500メートル程の疎林帯に飛び火し、全保線区員は勿論のこと消防団に市民らも駆けつけるも、10時30分頃には遂に樹齢20年程まで生育していた鉄道防雪林に延焼、火勢は線路南側を焼きながら12時過ぎには烈風に線路を越えて北側の防雪林へと燃え広がり、そこを流れるペンケウブシ川にポンプを入れての放水も空しく、遂には迎え火での消火を決断したと在る。
迎え火とは、延焼の進行方向前面に小規模な防火帯を造り、そこから火勢に向けて敢えて火を放ち、事前に燃焼物を焼失させてしまって延焼を食い止める消火方法である。防雪林の焼失を前提とするから苦渋の決断に違いないが、市街地南端に迫る火勢にはそれどころでは無かったことだろう。これは功を奏して、原野20町歩(=約19.8ha)、鉄道林3町歩(=約3ha)を焼いて16時30分頃に下火となったと云う。
記述から旭川起点198キロから199キロ付近に所在の防雪林と思われ、ここには再び育成されたそれを現在に見ることが出来る。

写真は、その防雪林をくぐり抜けて幌延場内に進入する321列車。前年2月の改正で旅客車はオハフ51の1両に置替られていた。
秋の始まりの北緯45度。低い太陽の強烈な西日が長い影を落とすけれど、原野の風はもう冷たい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

釧路 (根室本線) 1985

kushiro_06-Edit.jpg

1960年5月22日15時11分(日本時間5月23日04時11分)、南米大陸チリ国中部の都市バルビディア近海にて歴史時代を含めても最大と云われるマグニチュード9.5の海溝形巨大地震が発生した。海溝に幅200キロ、長さ800キロに渡り最大20メートルの逆断層を生ずる活動による津波は、約15分後から波高18メートルでチリ沿岸に達し始め、同じく平均750Km/hの速度で環太平洋地域に向かった。
この津波は、およそ22時間から24時間後に日本列島の太平洋岸に到達して各地に被害を及ぼした。気象庁が「チリ地震津波」と命名した災禍である。

子供の眼には、白黒のニュース映像として放映された宮城県塩竈市や岩手県大船渡市の船舶が市街地にまで流された惨状(50年後にデジャブのようにそれを見るとは思わなかった)が強く印象に残っている。勿論、津波は北海道の沿岸にも押し寄せて、最大波高は浦河で3.2メートル、11人の犠牲を出した浜中町の花咲港では4メートルと記録されている。
当然に海岸線の鉄道も被災し、旧釧路川に架橋された釧路川橋梁もそのひとつであった。釧路への第一波の到達は検潮所の自動観測記録によれば5月24日午前2時40分とされ、潮位変化は4時45分に記録の2.34mが最大である。
これにて、釧路川橋梁は全ての鉄桁に最大300ミリのズレを生じ、列車運行が不能となった。国鉄の記録では、この桁を移動させた最大波高は3.50mとある。桁下高さの低い橋梁であるから直撃を受ける波高であろう。落下、流失のなかったのを幸に鋭意復旧に努め、翌25日夕刻には運行を再開したのだった。
この他道内では函館駅構内が全水没し、これは当時にも報道されて承知していたのだが、この釧路での橋梁被災は最近になって資料をめくるまで知らずにいた。

釧路の4月から9月の半年は海霧の季節である。年間の平均霧日数は約100日とされるから、この季節の二日に一日はそれに沈むことになる。大半が移流霧と呼ばれる遥か三陸沖に発生し、南風に押し流されて北海道東岸に達した霧なので、それが続けば晴れことがなく一日がその底にある。
夜行で釧路に到着したものの、気象予報に諦めて至近の釧路川に立った。乳白色の大気が画角を単純化してくれるに気づけば、それも楽しい。
橋梁を往く列車は 212D<ノサップ2号>。
左岸に在った漁業施設は取り払われていたけれど、まだ岸壁には廃船の繋留されていた頃である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/125sec@f4 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
次のページ

FC2Ad