"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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糠平 (士幌線) 1984

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蒸機末期の頃、士幌線を管轄していたのは、釧路鉄道管理局に置かれた帯広管理所と云う組織だった。
言わずと知れた非採算線区経営改善に設けられた現業機関であり、1960年の11月に、それまで管理長制度下に在った士幌線と広尾線の各駅に、池田機関区帯広支区、釧路車掌区帯広支区、帯広保線区の士幌・広尾線管内、加えては帯広駅までも統合して発足し、総勢600名余りの職員を擁していた。
管理所とは支社長の権限にて設けられ、1958年7月に発せられた総裁通達で、線区別経営組織を設置した場合、支社長は部内規定に拘らず経営改善のためであれば何事でも施行出来ると通達されていたとは云え、ルーラル線区の個別経営体が本線の拠点駅までも飲み込んでしまうのは、誠に珍しい事例だったと思われる。600余名とは帯広に在勤する国鉄職員のほぼ全てではなかったろうか。

前置きが長くなったが、この帯広管理所には東京から幾度も電話したものだった。長距離電話料金が恐ろしい程に高額だった当時に用いたのは、以前に小平 (羽幌線) 1972にも書いたけれど、当然に鉄道電話であった。
70年代の初頭、9600の牽く士幌線貨物は定期2往復が設定されるも、共に上士幌までの運転であり、十勝三股に到達するのは年に数回と言われた運材の臨貨だけだった。今に理解すれば第五音更川橋梁と思われる連続アーチ橋を往く蒸機列車を鉄道雑誌に見て以来、機会があればと念じ、渡道の予定が決まれば丸の内の国鉄本社ロビーに通った訳である。
帯広へは、1960年9月までに札幌を起点に岩見沢東と神居山の反射板を経た支線系SHFマイクロ波通信網が旭川から達しており、ダイヤル即時通話が実現していた。国鉄PRコーナーから借り出した電話帳に帯広管理所だけで、多くの番号が記載されていた覚えがある。記憶は定かでないけれど、選んで架けていたのは駅運転助役だったろう。そこでは、急遽運転が決まることもあると教えられ、渡道してからも撮影先の駅長事務室で電話を拝借しては問い合わせたものだったけれど、とうとう機会に恵まれぬまま終わったのだった。
余談だが、東京からのダイヤル通話も、SHF通信網を外れた道内地点からでは旭川や釧路の交換台を呼び出す必要があり、またもや蚊の泣くような通話に大声で怒鳴ることになっていた。後々即時通話の時代になっても小駅の駅員氏が待合室にまで響き渡るような大声で電話していたのは、この必要に迫られた癖が抜けぬものだったに違いない。

上士幌までの平原区間には魅力を覚えず、結局は足を踏み入れず仕舞いだった士幌線への初訪問は、煙も絶えて久しい1978年の年明けまもない頃で、十勝三股に気動車で到達した唯一の記憶である。勿論、前述の第五音更川橋梁が目当てだったのだが、寧ろ山腹にへばり付いたルートから第四糠平トンネルを抜けると眼前に広がる景観に惹かれ、数年を通うことになった。糠平での思い出話の幾つかは、前にここへ書いている。

糠平湖岸の726D。後追いである。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320)  Edit by LightroomCC on Mac.

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札幌 (函館本線) 1984

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学生当時は勿論、その後も職業のフリーランスを良いことに道内へは、それこそ足繁く通った。夏の長い休みを周遊券の有効期間一杯に放浪するなどは出来なくなった替わりに、一度旅に出れば1週間から10日、短くても3・4日の行程を年間に幾度と無く繰り返していたのだから、右のprofileに書いた年間の延べ1ヶ月の道内生活とは決して誇張でなく、年によっては2ヶ月近くまで彷徨いていたはずである。
その間の主たる宿泊先とは、ここに何度も書いて来たように、札幌を基点に4方向に運行されていた夜行列車だった。宿代の節約が何よりなのだが、長旅の疲労に寝台などを選んでしまうとそれより高く付いたにせよ、夜間に長距離を移動出来る利便には替え難かったのである。とは云え、それを幾日も続けるわけにも往かぬから、適度に地上へ宿も取っていた。
けれども、札幌を泊地に選んだことはあまり無い。翌日を山線に入るなら小樽が、千歳線なら千歳なり苫小牧に地の利があったし、そこは、あくまで道内移動の中継地点との意識だった。勝手知ったるかつての地元でもあれば、敢えて宿泊して市内に出掛ける気もなかったのである。
それでも、行程上に宿泊を要する場合も在って、駅から歩きたく無い鉄道屋は南口正面、駅前広場の手稲通り向かいに営業していた「札幌ワシントンホテル」を宿舎に選んでいた。

1960年代末期から70年代とは、海外でのモーテルやB&B(ベッド&ブレックファスト)に相当する料金低廉な洋式宿泊施設の国内における黎明期にあたり、既存の商人宿を代替する業務旅行利用に特化したサーヴィス形態から「ビジネスホテル」と呼ばれた(和製英語とも言え、海外でのそれとはかなり異なる)。札幌ワシントンホテルは、同和鉱業系の観光事業会社だった藤田観光が全国チェイン展開の第1号店として1973年に開業したものである。
札幌市内には、地元資本により先行した同業態ホテルも所在したのだが、旅館業からの分離も不明確な当時には、洋室主体ながら和室も維持され、設備投資による料金への影響を嫌ってかバスルームを持たない個室も多くを占めていた。
その中でワシントンホテルの全個室へのバスルーム設置はビジネスホテルのあるべき容態を示したものと言えようか。その上で北4西4の東京読売本社の所有地に524室もの開設は、開業時点で一泊2000円前後の料金を実現しており、それは当時のアウトバスシングルを含めた札幌での相場でもあった。ホテル料金の価格破壊時代である現在と一概には比較出来ないけれど、立地と設備からは極めて低廉だったとして良い。
ただし、それゆえにシングルルーム当たりの床面積は圧迫され、驚くほどに狭かった。一番安い部屋ばかりを選んだせいもあるだろうが、小さなライティングデスクの他は全てがシングルベッドに占領され、壁面との僅かな隙間をカニ歩きの有様だったと記憶する。その狭苦しさと云ったら、宿泊経験のあるホテルではWebSiteに書いた高山駅前のホテルGO(ゴー)と双璧を為す。もっとも、ベッドに上がってしまえば、全てにそこから手が届くのは便利でもあり、早い朝に寝るだけには苦にもならなかった。

写真は、薄明の札幌駅3番線に到着した514列車<大雪4号>。
[北東航2]のマニ50と[札郵1]のスユニ50を隣の苗穂に置いてきてしまうのは、この2月改正からのことで、おかげでスハネフ14に接する機関車の姿を撮れるようになっていた。終着には荷物・郵便車に要した暖房の蒸気を盛んに捨てている。
1988年に札幌が高架駅となり北口が整備される頃となれば、それの至近に幾つものビジネスホテルが建ち並びワシントンホテルを宿舎に選ぶまでも無くなった。最後に利用したのは、86年の渡道だったと記憶する。ホテルは30年を経過した2004年に営業を休止、建物を建替えの上で2006年に再開業した。コンセプトも新たなグレードには翌2007年に藤田観光の新ブランドであるホテルグレイスリーに名を改めている。撮影の旅なら、北口の安宿で十分過ぎるから多分そこに泊まることは無いだろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/30sec@f2.8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

国縫 (函館本線) 1984

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山越郡長万部町国縫地内の国道5号線には、国縫停車場への進路を示す道路標識は見当たらない。設置が通例とばかり信じて来た旧い鉄道屋には、これも鉄道の地位低下を示す事象のひとつに見える。
停車場は函館バス長万部方面行き停留所に隣接の細道突き当たりに所在し、国道からも本屋の一部を認めるのだけれど、案内の無ければそれとは知れないだろう。もっともその位置なら地元の利用者は皆承知しているし、国道を通過する外来者には元来無縁の施設に違いないにしても、駅が街なり集落なりの生活の拠点と認識されなくなった何より証である。経済中心の無い集落は輪郭もまたぼやけて見える。

かつての国縫停車場は瀬棚線を介しての日本海岸との輸送の結節点であり、その貨車操配に相応しい構内規模を持っていた。加えては、隣接した合板工場への原木の到着に製品出荷を扱う専用線も稼働して、側線には多くの貨車が見られたものだった。函館海線では貨物拠点のひとつだったとして良い。
合板工場の北海ベニヤ株式会社国縫工場としての操業開始は、瀬棚線が瀬棚までの全通を果たした2年後の1934年と記録されており、それの沿線資源も期待したものであったろう。海外からの金属原料輸入が途絶えた戦時下には木製航空機の資材生産工場に指定されたと云う。戦後には幾度かの変転を経て、瀬棚線撮影にここへ降りるようになった1970年代前半には札幌の合板会社北晴合板の国縫工場となっていた。
当時のダイヤには、五稜郭操車場-長万部間の区間列車だった1191・1190列車の1往復のみが停車して貨車の集配を行っていたと見て取れる。瀬棚線内発着貨車の授受も担っただろうが、それには当該貨車は半日程の滞留を要することになって構内に車票の差された中継車の多かったのも頷ける。

現在も残される駅本屋は1939年に改築の三代目となり、大きく取られた待合室に駅長事務室は瀬棚線接続で増大した旅客や構内作業の人員の収容からと思われ、調べ得なかったが跨線橋の設置もその際だったと推定される。駅員の詰めていた当時には集落規模に不釣り合いな堂々の規模と見え、今は元商店の2軒が残るだけの駅前も、それに隣接して商人宿の二階屋が駅舎と相対し、さらに商店が続いていたと覚えている。深い草叢と化している北側一帯には集落人口の多くを占めたであろう鉄道職員の官舎が建ち並び、確かに集落経済の中心を成していたのだった。

写真は瀬棚線蒸機から10年後に再訪した国縫停車場。今は取り払われてしまった第二乗降場上屋が、真夏の白い光線にくっきりと影を落としていた。
2番線には森から長万部への643Dが停車中。1番線に到着したのは瀬棚線への927Dである。本来なら3番線着発のはずだが、この日は大幅遅延と思われる貨物列車が入線していたゆえの変更であろう。発車して往くそれの後ろ姿も画角にある。
北晴合板は1981年11月28日に44億円の負債を抱えて札幌地裁に和議を申請、30日に財産保全命令を受けて事実上に倒産し、国縫工場も操業を停止した。この1984年には瀬棚線からの貨物出荷も既に無く、側線だけが空疎に残されていた。画角のコンテナ車は、それを利用した夏期遊休車の疎開留置だったと思う。
けれど、駅長事務室には当然に職員が詰め、待合室にはキオスク売店も健在だった頃ではある。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with adaptor 1/500@f5.6 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

富浦 (室蘭本線) 1984

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以前の記事 富浦 (室蘭本線) 2008 にも記したとおり、蘭法華岬を先住民族はリフルカ(Ri-hur-ka=高い丘の上)と呼び、そこは彼らのハシナウシ(hasinaw-us-i=幣場)でもあった。海面からの比高60メートル程のこの岬は、先住民には安易に近づくことが戒められた神聖なる地であり、その基部にはアフンルパル(ahun-ru-par=入り口の意)も存在したのである。

原初的アミニズムと云われる先住民族の信仰には門外漢ゆえ、受け売りをお断りするが、彼らのあの世とは地中深くに存在するポクナモシリ(pokna-mosir=下方の国)であり、対しての現世はカンナモシリ(kanna-mosir=上方の国)とされる。死者の魂は神となってポクナモシリに帰り往き、神の生活に飽きた頃に人間や獣などに再び姿を変えてカンナモシリへとやって来るのだと云う。
アフンルパル(若しくはアフンルパロ=和人の聴き取りの違いによる)とは入口を意味する言葉に過ぎぬのだけれど、多くは伝承を伴い、この世を去った人々の暮らすカムイコタン(Kamuy-kotan=神の国)たる地下のポクナモシリへ繋がる通路と伝えられる。ゆえに自然の洞窟や横穴が対象なのだが、ここは、上縁部での長径の約30メートル、短径の約22メートルの楕円形を成し、深さ5メートル程に底部長の約10メートルの擂鉢状を呈する明らかな人為的掘削抗に加えて、6〜7段の「奇妙な階段」が周回していたと云う。道内各地に残るアフンルパルの遺構の中でも人工の、しかも竪穴は特異に違いない。何らかの祭祀的儀式の場とは想像に難く無いが、それがどのようなものであったかは解明されていない。何れにせよ、この岬は神となった人々と交信する祭祀の場であると同時に、死者とも見(まみ)える霊域でもあったのだろう。もっとも、あの世への入口とする伝承は、それの「地獄穴」との説明を含め、あくまで和人を近づけぬための口実だったとする説もあり、その祭祀とは、より呪術的なるものだったのかも知れない。

1955年に知里真志保や山田秀三らにより、それを覆っていた植生を取り払っての調査・計測が行われ、前記のデータはその際のものなのだが、遺跡保存策の無い中での破壊を恐れて発掘を含む本格調査は先送りされていた中で、アイヌ文化への尊厳意識の無い時代だったゆえか、僅か数年後には国道36号線富浦バイパス建設の用地に供され、1967年までには南側の四半部分が失われてしまった。今、切取にて通過する国道の北側法面を直登した位置に、その遺構が眠っている。
一度は見物をと思いながらも、身の丈ほどの熊笹との延々の格闘を覚悟せねばならないここでの撮影では、そんな気力の失せてしまって果たせてはいない。
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=参考文献=
あの世の入口―いわゆる地獄穴について― : 知里真志保・山田秀三(1956年)「北方文化研究報告 第十一輯」所収
   
写真は、富浦の海岸線を往く3D<北斗3号>。
北海道におけるキハ80系列運用の末期にあたり、既に札幌運転区の配置は無く、函館運転所の66両が7両基本編成-5運用、附属2両組成-3運用に、使用41両/予備25両で運用されていた頃である。異常に多い予備計上の内10両は1984年2月改正での保留車で、第二種休車を経て同年夏までに用途廃止が通達された。
運用列車は、<おおとり>に<北斗> <北海>の計5往復列車だけなのだが、キシ80は全てで営業していた。しかも、北陸特急などは紙皿を用いた簡易営業となっていたにかかわらず、日食北海道による手抜きの無い接客であった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

千歳 (千歳線) 1984

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千歳線による千歳市街地の分断は1960年代初頭には既に市当局の関心事だったようである。当時の千歳市は、1957年の航空自衛隊第二航空団の浜松からの移駐による千歳基地開設、1962年の陸上自衛隊第七師団(当時に第七混成団)の真駒内からの東千歳駐屯地移駐などにて自衛隊関係者の転入が相次いで人口が急増、1955年に42317人に達して1958年7月1日付で市制を施行するなど、この頃より線路東側の農地が宅地へと転換されつつあったのである。
当初には東西を連絡する跨線道路橋の数本が検討されたものの、接続すべき幹線道路が線路近傍を並行しているために断念せざるを得ず、鉄道の立体交差化が望まれたのだった。しかしながら、国鉄にそのインセンティブは働かず、市当局も単独での事業遂行は困難で、1969年に運輸省と建設省間にて締結の「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」を待つこととなったのだった。これには、事業費の9割を主要受益者の自治体負担とした上で、そのおよそ半分の国庫補助が制度化されていた。
これを受けて、事業は北海道を主体とした都市計画事業にて動き始め、1973年に基礎調査を開始、報告を受けた建設省の1974年の新規事業採択を経て、1975年に都市計画決定されたのだった。その後には、道と国鉄間にて細部の協議が繰返され、1978年3月に工事協定書を締結して着手に至った。
興味深いのは、この際の都市計画決定区間は苗穂起点38K000Mから48K126Mまでの延長10K126Mの区間とされ、それには当時に建設線であった追分線分岐の信号場位置、即ちは千歳空港連絡駅と目されていた施設を含んでいたことである。→ 千歳空港 (千歳線) 1988

連続高架橋の建設位置は既設線直上に西側・東側併行の各案が比較検討された結果、用地確保や工事施工性に工期、工事手順などから東側が選択された。高架事業区間は起点37K710Mから43K100Mまでの4K390M、この内39K248M63から42K584M67が高架橋である。高架上への盛土を含む斜路の勾配は10パーミルとしたが、恵庭方を上った線路は地形の関係から千歳駅手前に10パーミルの下り勾配が介在して美々方は4パーミル勾配で済んでいた。これが今に千歳から南千歳を遠望出来る所以である。
設計には、同時期に進行していた東北新幹線と同じく施工基面拡輻の貯雪構造が採用され、軌道構造の寒冷地向けスラブや充填のモルタルも同線向けに開発された技術であった。

高架区間内には既存の6本に加えて都市計画道路4本の架道橋が含まれ、東西交通の円滑化と市街地一体化に寄与するものとされた。しかしながら、千歳市に委託した用地買収と支障家屋の移転が遅れ、高架橋本体工事への着工は1979年8月となった。この時点で千歳線電気運転にCTC制御施行の1980年10月実施は既定方針であり、高架線区間での設備工事とその後の訓練運転期間の確保から、同年7月の高架橋供用開始の至上命題には、通常には回避する冬期間の工事継続を余儀なくされたのである。基礎抗構築には寒冷に地表80センチ程まで凍結した地面を掘削せねばならず、掘削機械の騒音防止に場合によっては手掘も要し、またコンクリート打設には躯体全体をシートで覆ってのジェットヒータによる保温を行ったと工事誌は記録している。

斜光線を浴びて轟音とともに千歳を通過して往くのは414列車<まりも>。寝台車を連ねた編成に保線資材の収容庫が、如何にも邪魔モノではある。
この年1月末日を以ての取扱便の全廃には、機関車次位の[北東航21]はスユ15による護送便となっていた。札幌からは102列車に併結されて函館へ向かう。
高架橋と千歳新駅は1980年7月10日に供用を開始した。この後に旧駅構内に本屋の撤去されるのだが、それまで新駅への出入りは旧跨線橋を駅舎2階に延長接続して利用していた。旧線路盤は千歳市に一括して払い下げられた後に民間へと売却され、現状では跡形も無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1984

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ディジタルに持ち替えて、随分と変わった写真のお作法は夜間撮影だろう。フイルムでも出来ないではなかったけれど、使いモノにはならなかった高感度が実現して、僅かな灯りさえあれば走行撮影すら可能となった。そこまで往かずとも夜を夜としての肉眼視に近い情景描写はフィルム時代には手に入らなかった領域だ。
それでも、古い鉄道屋はシャッタを開け放った時間の経過が閉じ込められたバルブもまた、手放せない。三脚上に固定された写真機にゆっくりと夜の冷気を吸い込ませるのも撮影の実感に思える。
ディジタル写真機によるバルブは、基本的には機材の常用の最低感度まで落として行うのだが、それをフィルムと同等としても、当然ながら露光時間による濃度の乗り方は明部暗部とも異なり、画像エンジンによる差異はあるのだろうが、知るところのニコン社機材に限れば、低コントラス気味で双方とも「写り過ぎ」と感ずる。ソフトウェア上で創り出すことになる画像はバルブのそれに違いないけれど、しっかりと絞り込んだパース感のある深淵の描写はフィルムの、しかもモノクロの領分と云う気がする。
けれど、ディジタル機のバルブには福音もある。露光時間のブラケティングが出来た機関区に留置の車両ならば別だけれど、経験と勘に頼っていた本線運行中の列車の僅かな停車時間での意図した適切な描写に濃度は、必要なハイライトさえ飛ばさなければ何とかなるし、列車の起動しての光跡に、また点光源の光芒も固定画角の別データに撮って重ねれば良くなって、現場での多重露光は敢えて必要の無くなった。

小駅の夜は好きな題材で、深閑と静まり返ったそれを機会ある毎に撮っていた。特に積雪の構内は冬の冷気も写り込まぬものかと考えていたものだ。本屋を画角とするのは、勿論そこに駅員が詰め灯りが漏れていたからで、無人駅ばかりの昨今には撮らなく(撮れなく)なってしまった光景でもある。
写真は正月準備も終わった年の瀬の鬼鹿駅。海までの視界の効かぬ程の吹雪の収まった夜だった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with adaptor Bulb@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塩谷 (函館本線) 1984

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19世紀末の鉄道エンジニアリングでは、忍路半島から高島岬に続く石狩湾沿いの断崖に隧道を穿って通過するなど考えられなかったのである。北海道鉄道(初代)が1903年6月28日に開業した蘭島から小樽中央(現小樽)の区間は、蘭島川、桃内川、塩谷川の谷を隧道で繋ぎながら於多萠の峠に至る山間の経路が選ばれ、1/55(=18.2パーミル)から1/50(=20パーミル)勾配の断続する線形となった。15キロ程の距離には列車行違い設備を要して、ほぼ中間の塩谷川を遡った地点に塩谷停車場が置かれた。それ故、湾岸の塩谷村中心集落から直線で1キロぱかりに関わらず山間の駅であった。
現在に国道5号線上の塩谷バス停留所近くから駅へと至る道路がいつに開かれたものか、入植地であった丸山の麓斜面への通路として鉄道以前から存在したものか、或は鉄道の工事用道路に開削されたものかは分からぬが、地元では「停車場(ていしゃば)の坂」と呼ばれていたようである。それは駅まで延長1キロに満たぬものの、標高100メートルばかりの二つのこぶ山の鞍部を切通しで越える峠道となっており、そのピークからは塩谷駅を見通せた。
鉄道が交通の主体を担っていた時代には小樽への通学に、所用・買物にと塩谷沿岸地域の誰もが利用した主要通行路であり、集落からおよそ20分の徒歩となるそこには電柱毎に電燈(街路灯)も設置されていたと云う。歩いてみれば、国道からの緩やかな坂道は塩谷川へと下る斜面がやや急坂となり、冬には駅で荷物を満載した馬橇での通行には難儀したと伝わる。

追設された落雪防止柵の物々しい駅本屋。中線を持つ広々とした構内は、長距離優等列車の行き交った紛うこと無き幹線駅である。駅員の手になる瓜の栽培は些か育ちの悪い様子だけれど、やはり駅には要員の配置されてこそと思える光景だろうか。
列車は札幌-小樽間を快速運転の3532D、倶知安行き。この年2月の改正で<らいでん>から格下げられたこの列車には、急行末期の運用そのままにキハ56/27が組成されていた。
ここで降車した二人は用務客に見える。上りホームで列車を待っていたのは隣駅蘭島へ向かう海水浴の若い女性2人組だった。まだまだ鉄道の利用されていたのである。

小樽中心市街地や近隣との行き来が、ほぼ国道を往く自動車、バスの時代となれば、わざわざ坂道を上り下りする人もいなくなり、ここは標高50メートルに置き去りの駅となった。停車場の坂もまた昔語りである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

函館 (函館本線) 1984

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函館駅の水陸連絡施設を含む構内設備は、1925年までの車両航送岸壁の運用開始を受けて、1928年から翌年にかけて行われた駅前若松町所在の鉄道官舎の市中移転、機関庫に客車庫の構内北部への移設を主とした構内拡張工事(第二次構内改良計画と呼ばれた)にて、ほぼその後に繋がる構内の骨格と規模が確定していた。
その後も1935年前後頃より、貨車操配設備の五稜郭-桔梗間に用地を求めての移転と有川地区への航送岸壁の新設(増強)、万代町・海岸町沿岸にバラ積み輸送用の機帆船岸壁の新設などが構想され、前者のアジア太平洋戦争戦時下での実現に先駆けては函館から五稜郭までの複線使用が1942年12月17日より開始されていた。
但し、この際の増設線である上り線は、函館の場内信号機を越えた位置にて既設線の下り線に合流して、乗降場までの約600メートル(運転扱い上は場内信号機からの1100メートル)は単線区間が残された。これは同位置にて航送線に繋がる貨物着発線(当時の副本線1番から3番)が分岐して、乗降場までは旅客列車のみの運転に加えて、限られた用地に貨物関係配線が優先されたためであった。

戦時輸送を経て戦後にもこの設備は維持されたのだが、1960年度に至ると青函航路の年間輸送人員は274万人に達し、それにともなう旅客列車増発にて構内の単線区間が輸送上の隘路と化したのだった。頭端駅の宿命として列車は営業・入換に関わらず必ず折返しを要して、乗降場への編成据付け・引上げが本線運転と競合し、加えて本線横断にて行われる構内東側に所在した貨物積卸線への貨車入換も線路容量の圧迫要因であった。1961年10月改正ダイヤでの函館-五稜郭間列車回数は131回(ダイヤの引かれた臨時列車含む)に達して、計算上の容量である140回に迫っていたのである。なお、この場合の余裕9回は、既にダイヤ混乱時などの運転整理に相当の時間を要することを意味していた。
一方で、この頃には配置も増えていた気動車の検修設備が従来施設に追設だった関係にて、気動車列車の出入区線が客車列車に必須の入換引上線と平面交差して機関車操車と競合が生じていた他、気動車設備自体の拡充も要したのだった。

この事態に対して計画されたのが、「1962年函館地区改良計画」であり、機回線を延伸して引上1番と接続、これを気動車操車線として客車入換と分離して63年1月に運用を開始し、そして上り貨物仕訳作業の一部を五稜郭(操車場)に移して仕訳線を整理し、ここに新たな下り本線640メートルと回転線3線を整備して各旅客着発線と結び1963年10月に使用を開始としたのであった。
気動車施設の拡充には、函館客貨車区の従来からの客車庫線である客留10・11番線が支障するため、これを撤去して既設気動車検修線の8番線隣りに9番線として追設し、新たに引き直した10・11番線と共にこの4線を覆う検修庫を新たに設置した。1964年10月に完成したこれが、現在にも車庫4番から7番線として函館運転所の施設に引き継がれている。

函館駅は、この直後に今度は青函航路への津軽丸形近代化船就航にともなう、旅客桟橋施設とワム換算48両航送に対応する設備改良に追われることになる。これについては項を改めたい。
暮色近い函館駅2番ホームに到着するのは、長万部からの126列車。客車の普通列車は全て砂原線回りだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f2.8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

富浦 (室蘭本線) 1984

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他の調べ物をしていて、室蘭本線の長万部起点92K300Mにも線路班の在ったことを知った。富浦中間線路班である。設置時期など一切は不明ながら1950年代には存在していたらしい。1948年4月や1953年8月に撮影の空中写真を確認するも、その詰所や官舎らしき建物は当時の幌別村(1951年4月1日町政施行)字富浦の集落に紛れてしまい判別は出来なかった。深山や原野に所在する事例の多い中では恵まれた環境での中間線路班だったことになる。
その通例に従えば、簡易な乗降場の設けられて、少なくとも朝夕に特定列車の停車していたと思われるそこが、1953年12月20日と云う早い時期に正規の停車場とされるのも集落からの利用者も多く存在したゆえだろう。2005年に延伸されるまでの短い土盛の乗降場は線路班当時からのものではなかろうか。

古くは蘭法華村である。登別川右岸を海へと落ちて往くポントコ山の緩い南東尾根から続く台地は岬に張出し、その西側斜面が切り立った崖を成して、先住民族はそこに崖を這うような急坂の通路を設け、坂の下を意味する ran-pok-keの名を与えていた。東蝦夷地に進出した和人もホロペツ場所の漁場間の移動にそれを交通路とし幕末時期には難所として知られていたと云う。やがてはそこに定住した和人により蘭法華の字が当てられ、先住民が Ri-hur-kaとしていた岬は蘭法華岬と呼ばれたのである。
標高60メートル余りのその懐は入江となり、小舟の巻揚げに適した砂浜の存在からも登別に自然の潟を開削した掘込み式港湾の整備されるまでは、この地域での良港であり、早くから漁労集落に発展したものと思う。幌別村消防組が1924年に腕用ポンプを配備したとの記録からも、それは伺える。1960年代の車窓にも大きな岬を背景にした浜に多くの漁船がひしめき、漁師小屋の建ち並ぶ様を眺めた覚えがある。
言葉の響きも書き文字も奇麗な地名と思うのだが、当時の幌別村は1929年(1931年との記述もある)に難読を理由にこれを富浦と改めてしまう。岬にその名の残ったのを幸とすべきだろうか。
現在にも登別市の指定する第一種漁港の富浦漁港に違いないものの、戦前に築造されたと思われる防波堤のみの施設は往時と変わらず、船影のない浜には既に利用されていないと見える。上記の登別漁港に近接しており、確かにそこに係船して自動車で通えば事足りる時代ではある。
それでも、旧蘭法華村であり中心市街地の登別市富浦町一丁目には漁協の支所が設けられ水産加工場も数多く所在して、かつての水揚げの中心地を偲ばせる。地方の過疎の時代にも集落規模はさほどに変わらぬように見え、2010年国勢調査では118世帯273人が暮らす。

保線区史がまとめられたとの記憶は無く、線路分区や線路班の設廃など国鉄文書に埋もれて調べようがない。富浦中間線路班もいつまで存続したものか分からないが、おそらくは多くの事例と同様に保線方式の近代化と機械化の進んだ1970年代前半までには廃止されたものと思う。

写真は蘭法華トンネルを抜けた222列車、岩見沢からの室蘭行き。この頃には富浦通過列車も存在し、勿論客車列車は停まらなかった。
富浦漁港に巻き揚げられた船は全て廃船と見て取れ、既に漁港としては機能していなかったと思われる。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

桂川臨時乗降場 (函館本線) 1984

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巡った先々では、そこの住民に随分と世話になりながら写真を撮っていた。見ず知らずの来訪者へのそれには感謝としか云い様が無い。
徒歩行脚の水筒に補給させて貰うのは日常茶飯事だったし、夏場なら庭の井戸や水道で顔を洗い汗を流させてもらいもした。前にも何処かに書いたけれど、自炊道具を装備しての貧乏旅行の当時には、調達に勿論代金を支払うつもりで訪ねた農家でバックパックに入り切れない程の食材を持たされもしたし、時にはそれに菓子やらパンの混じることもあった。鉄道屋はその頃には外部からの訪問者の珍しいような土地にまで出掛けていたからかも知れない。水を貰いに寄っただけにも、食事を振舞われた挙げ句に自家醸造のドブロク(所謂密造酒)まで馳走になり、風呂に寝床まで頂戴した経験もある。
時代は下っても、携帯電話の無い頃ならタクシーを呼ぶにせよ電話を借りるには民家を訪ねる他なく、逆に降雪の無人駅で列車を待てば、駅前住民に時間まで炬燵で暖まれと声の掛けられたのも一度や二度では無い。徒歩に距離のある地点への移動にヒッチハイクすれば、大抵は地元の軽トラが停まり荷台に乗せてくれた。

フィルムのトラブルに目についた民家に駆け込んで暗室代わりの押し入れにまで入れてもらったことは、前に書いたと思う。突然の見ず知らずの訪問者を善くぞ、と思えば本当に言葉も無い。切羽詰まってのことは他にもあって、どうしても入り込めなかった薮の斜面には民家まで戻ってカマを借りたことあれば、積雪が邪魔をした無人駅のホームの除雪にスコップを借出しもした。
どうしても、そこしか考えられない撮影位置には民家の庭先に立ち入らせてもらったし、見通しの良い二階の部屋まで案内されて、その家の婆様と茶呑み話をしながらの撮影さえあった。
俯瞰の高さの足りなくて土建事務所から長尺の脚立を借出した件も、前にここへ書いたと思う。
これらには可能な限り、当日のプリントを添えて礼状を書いたのは云うまでもない。

この桂川トンネル上部へもポータルの横から斜面を這い上がれず、反対側の高さ3メートル程の擁壁を越えるにハシゴを頼みに近くの民家を訪ねている。住民は無愛想な老人だったのだが、裏から勝手に持って往き、終わったら戻しておけと言われ、その大きく頑丈で重たいハシゴをトンネル脇まで運んだものだった。
写真は、それに味を占めての二度目の時で、件の老人の奥さんらしき老婦人が今度は愛想良く返事をくれたのだった。
噴火湾を眺めてトンネルへと走るのは123列車。この荷物車組成の無い長万部行きは、51形客車の函館所投入と同時に置替られた運用であった。

国道5号線の旧道に面した鷲ノ木の潮焼けした集落に、海岸沿いの漁師小屋を画角にする足場は、このトンネル上しか考えられなかったのである。
一時間ばかりを留まりハシゴに向かうと、大きな青大将がそれを伝って這い上がって来るのに出くわした。降りるに降りられず、日陰の低温にスロウモウな動きを見守ったのを思い出す。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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