"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

函館 (函館本線) 1983

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戦前期までの函館港と云えば、国鉄函館桟橋から弁天町の函館船渠(現函館どつく)に至る一帯、現在に西部地区とかウォーターフロントと呼ばれている地域を指していた。
幕末の「開港」時点で函館山の山麓が箱館であり、その前浜を埋め立てるなどして用地を得、やがて港湾が形成されて行ったゆえある。1932年に函館市の手により竣工した現在の西埠頭もその延長にあり、北洋漁業の大型母船なども接岸出来たそれは函館港の中心的存在であった。その供用により、港湾地区が漁業基地に、同時期に埋立ての進んだ若松町から海岸町の東側地区が石炭や原木など工業材の集積地と住み分けられたと函館市史にある。
それは、西埠頭に加えて、北海道庁による東側地区への大規模埠頭の築造計画が1927年の第二次拓殖計画に盛り込まれていたことも背景としていたのだが、国鉄の有川埠頭が戦時下の陸運転換政策にて応急に築造されたのみにて終戦を迎えてしまった。

その中央埠頭の着工は国土交通省函館開発建設部の資料によれば、終戦間もない1946年とあるのだが、1944年10月に陸軍が撮影した空中写真には埠頭の基部らしき姿が記録されており、40年代初頭には工事の始められていたと見える。第二次拓殖計画には、国鉄の若松埠頭(函館桟橋を含む国鉄の海陸荷役施設を指す)の北方に2基の大規模埠頭建設と、後背となる亀田地区の工業地域化が明記されていたのである。
けれど、実際に着工したのは現中央埠頭の一基に止まり、終戦を挟んで再着工されたと云うことなのだろう。その全ての工事竣工は1971年までを要したものの、背後に整備されていた倉庫群や集積場、工場等に接したことで函館港の中核的地位を西埠頭から奪ったのだった。
なお、その年には北側で万代埠頭築造も着工されて、第二次拓殖計画でのプランは40余年を経て達成されたことにはなっている。
中央埠頭への陸側の連絡路、即ち臨港道路は永く国道5号線からT字に分岐する中央埠頭通りだけだったのだが、1980年代半ばに新川広路を介しての道道86号函館南茅部線との直結が図られた。流石にこの時代ともなれば函館本線との交差は立体交差となり、函館運転所の検修庫を間近に見下ろす位置に中央埠頭跨線橋が架けられ、函館構内を見渡す新たな視界となっていた。

朝8時の函館構内、彼方市街地は低く差し込む朝日を反射するモヤに霞む。下り本線をDD51に牽かれて加速するのは長万部までの123列車。その先は245列車として室蘭に達していた。青函局[函3]運用-3組中の1組-4両編成である。
この頃、函館運転所には29両の51形客車が配置されていた。このカットに写らないのは、240列車に運用中の[函3]のもう1組-4両に、森から126列車で2番ホームに到着して回送を待っている[函5]運用の1組-8両、写真の[函3]に併結で木古内から到着した[函付1]運用の1組-3両だから、写真の123列車を含めると、この時刻に運用に就いているのは19両になる。なので、検修庫前の通路線をDD13にて客留線へと押し込まれて往くのは、夕方に木古内へ向かう1723列車となる[函3]の3組目と[函付1]だろう。運用表上では29両配置の23両使用、予備6両の需給なのだが、実質には、より余裕があったと見て取れる。
航送線へと繋がる副本1番から4番線には、DD51にDE10、2両のDD13が見える。DD13は道内での配置末期であった。

この頃、中央埠頭跨線橋自体は竣工したものの、肝心の新川広路側への斜路が未成で、階段で上る歩道だけが供用されていた。贅沢な「歩道橋」だったと云うべきか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

興部 (名寄本線) 1983

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1980年代半ばまでなら、ルーラル線区にも弁当の販売駅がまだまだ生き残っていた。日高本線の鵡川や静内に様似、留萌本線の留萌、根室本線末端区間の厚岸に厚床、釧網本線の弟子屈などである。そして、名寄本線の興部もそのひとつであった。
そこでの駅弁販売開始は1961年11月と歴史は浅く、それは米田弁当店の上興部からの移転によるものと記録される。

上興部へのほぼ最初の定住者だった米田久三郎が、アカダモが生い茂るばかりの原生林地帯だった植民区画上興部17線に私設駅逓を開いたのは1906年のことであった。オホーツク岸から天塩川最深部の内陸へと短絡する交通路上に天北峠を控えて位置したこの駅逓所は、1909年には官設駅逓に買上げられるなど拠点として繁盛した様子だが、久三郎の三男久作が管理人を務めた当時の1915年に上興部三等郵便局が開局すると逓送業務が無くなり、1921年10月5日の名寄線全通には、翌年1月に駅逓そのものが廃止されてしまう。
久作はそれを見越して1917年頃から澱粉工場を経営、駅逓廃止後には菓子舗を開店し、1925年には米田弁当部として上興部駅での弁当販売の構内営業に進出したのだった。函館桟橋-野付牛間直通1往復のほか、函館桟橋-稚内間急行接続の名寄-野付牛間1往復の長距離列車が経路とするなど、名寄本線が野付牛・網走連絡の幹線として機能していた時代である。名寄から先の汽車弁当は渚滑だけだったから、商機と見込んだものだろう。
冷蔵設備も無い中でのヤマベを用いた「やまべ寿司」は道内初の事例としてこの際に売り出されていたのだが、菓子舗を生かして「こくわもち」も製造・販売し、ともに評判を取ったと伝わる。前者は1972年に購入の150円の掛け紙が残るけれど、残念ながら後者には記憶が無い。久作の妻の郷里、石川県小松・松任地域に伝わるあんころ餅(圓八あんころ?)をヒントに製造したものと云うが、コクワを餡に仕立てられるはずも無くコクワ=サルナシの葉を用いた柏餅状の菓子だったのではなかろうか。
米田弁当部の興部移転は、1961年当時に計画されていた名寄線経由の札幌-紋別間急行が上興部に停車せぬことが明らかとなったゆえである。素早い経営判断と言うべきか、1962年5月1日の運転開始に先駆けて、そこでの構内営業を始めたのだった。同日には、その急行<紋別>ばかりでなく、旭川発着で名寄線を循環する準急<旭川>や興部-網走間の準急<天都>も設定され、ルーラル線区と化していた名寄本線の都市間連絡線への復帰が成っている。この当時、既に中長距離移動に優等列車利用が一般化し、供食需要はそれに頼らざるを得なかったのであろう。

興部上り乗降場に停まる628D、名寄行き。4両編成で到着し、825Dとして興浜南線に入る後部1両を残して発車して往く。
この時も、列車到着直前に携帯容器を下げて改札をすり抜る立売りの姿を認めていた。米田弁当部は列車ごとに調製して駅に運んでいたものと思う。やまべ寿司にこくわ餅は遠に製造をやめてしまい、幕の内弁当に、稲荷と巻物の寿司だけの販売と覚えている。
米田弁当部の構内営業からの撤退(廃業?)の時期は1985年の夏前と思われる。冒頭に掲げた各駅の多くも1986年には販売を終えており、同年11月改正における、そこを走る優等列車の廃止と運命を共にしたと云うことである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

常紋信号場-金華 (石北本線) 1983

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北見市留辺蘂町字金華の人口は、2010年国勢調査のデータによれば5世帯10人と在る。この統計調査での金華地区とは、奔無加川とその支流流域すべての約33平方キロであり、奔無加川奥地の上金華集落はとうの昔に消滅し、常紋への細道(それでも、かつての北見湧別間道路である)分岐周辺の数戸も人の住む気配は無いから、これは金華駅前集落の居住者と云うことになろう。
最近には随分と解体・整理の進んだ様子ではあるが、1990年代末頃で既に廃屋ばかりの眼についた駅前集落の荒れた有様を思えば、未だに居住者のあること自体、不思議な気がしてしまう。

金華の集落形成は1914年10月5日の湧別軽便線留辺蕊-下生田原間開業に際しての奔無加停車場設置による。それまでは、金華はもとより奔無加の地名すらないポンムカ(=小さい方のムカ川)の下る原生林の谷だったのである。
当時の鉄道院には、名寄線との接続構想は持たれていたにせよ、留辺蕊湧別間鉄道を将来の道央連絡幹線とする意識は希薄であり、1906年に北海道庁長官に着任した河島醇が仕掛けた道内統一組織であった「北海道鉄道期成会」の住民を巻き込んでの鉄道敷設促進運動に渋々に応じた結果とも云える特殊軌間軽便線を想えば、道庁の意向の強く働いた拓殖拠点としての開設だったろう。1915年から1916年と記録される上金華への愛媛団体35戸の入植も、この停車場の在ってこそである。

肝心の停車場周辺への定住も進んだ様子で、奔無華特別教授場(後の金華小学校)は1918年に開設されている。ただし、このあたりは奔無加川の谷が狭く耕作地の確保が困難だったから、その住民の大半は造材従事者と家族だったと思われる。米軍が1848年に撮影した空中写真に見える川沿いや山林地緩斜面の耕作地は、戦後の「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月5日閣議決定)に基ずく入植者により開かれたものだろう。今は全てが野に還っている。

常紋へと幾度も通った1980年半ばまでなら、駅前には商店も開かれ、東側へと鉄道官舎が建ち並び、その背後に民家の続くそれなりの集落を成していた金華は、道内に幾多と存在した先例と同様に消滅の道を辿りつつある。2010年10月現在に、そこに暮らす5世帯10人の方々の年齢構成を見れば、ご他聞に漏れず高齢者と見受けられる。おそらくは、先の林業関係者の御子孫か開拓入植者ご本人なのではあるまいか。
自動車交通の発達した今なら留辺蕊市街地から然程に離れるでは無いから、ご家族の行き来があれば生活に困るで無し、集落の最後を見届けられる覚悟とも思える。5年を経て、つい先頃の国勢調査の結果は如何なるものだったろうか。
それを見越したように、100年余りの歴史を刻んだ停車場には廃止の報道が為された。

堂々の9両組成で峠を上る32D<オホーツク2号>。
特急列車の貫禄とは、やはり編成長からもたらされるものと思う。
夕刻の様相は冬至も近い時期のこと。バッグや三脚の水滴は早くもしっかりと凍りつき、とっぷりと暮れた道を金華へと急いだものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1983

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晩秋ともなれば、日本海岸は時雨に見舞われる。大陸に張出した高気圧からの季節風が日本海上空に雲を生成し、沿岸に断続的な驟雨をもたらすのである。これが冬の走りと云われているとおり、より季節の進めば、やがて雨は雪と変わり季節風の強まりには風雪の日々が訪れる。
以前にも書いたと思うが、鬼鹿には冬にばかり幾度も通った。冬旅となれば、稚内や網走からの夜行急行をまだ深夜とも云えた深川に捨てる旅程を必ず組んでいたのである。
遮るもの無い強風に白波が砕けて飛沫となり、海上遥かにまで連なる雄大積雲の乱れた雲底からもたらされる風雪の情景に惹かれてには違いないのだが、吹雪くのが当たり前の日々には梃子摺ったゆえでもある。
例え猛吹雪としても、吹き下ろす強風に積雪の舞い上がる地吹雪とは異なり、線路から多少高さを稼いだ程度の段丘斜面からなら列車を視認出来ぬことは無いけれど、鉛色の海面への視程は閉ざされてしまう。吹雪くのはひとつの積雲が上空を通過して往く都度のことであり、それは断続的であったから、その周期を計って列車通過時刻近辺での天候を予測しては見るものの、結局は風の呼吸に任せるしかなかったと想い出す。

1983年1月後半の旅でも、深川からの821Dで着いた鬼鹿は吹雪き模様だった。力昼方に歩いて待った上りの急行<はぼろ>は、その猛烈な吹きの最中にやって来てしまい、仕方なく今度は同じ位置から鬼鹿漁港の防波堤を画角にして次の列車を待ったのだった。現在にツインビーチの開かれたあたりである。
雲底の低い雄大積雲の到来と吹雪の襲来は視認が出来た。上空に雲の先端が延びて露出の低下が眼にも見えたタイミングで海上を見遣れば、遥かにその先は吹雪いているであろう黒い壁が立ちはだかっているのである。列車通過時刻の近ければ、それの早いか吹雪到来が早いか、気を揉むことになった。
列車は幌延からの1822D、留萠から遜色急行<るもい2号>に昇格して旭川まで往く。
上空には既に雲端が達して、海上には次の吹雪が迫っている。機材の撤収はそれの通り過ぎるのを待つしか無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

糠平 (士幌線) 1983

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音更川の上流域、先住民族によりユウウンナイと呼ばれた地域は太古からの広大な原生林に覆われ、彼らの狩猟・採集生活の場であった。
それを全くに顧みることの無かった新政府と開拓使は、拓殖拠点としての帯広市街地造営ための用材供給地をユウウンナイに求め、北海道集治監釧路分監の囚人を造材従事者に送込んだ。それは道路の開削から始められ、着手は1892年と記録されている。十勝分監の設置前のことで下帯広村に釧路分監帯広外役所が設けられ、囚人の移送されていたのである。刑期5年以上の重罪囚からそれを半ばまで服役した囚人から選ばれた彼らは、当初には十勝平野の農地開墾要員と考えられており、刑期終了後には農民としての定着を意図していたと云う。犯罪人とは云え、多くは西南戦争下での不平士族や思想犯であった。しかしながら、奥地に越冬しての造材作業への従事には、凶悪犯罪囚から選別の為されるようになるのだった。
年間を通しての伐採は冬季には山元に貯木され、造材は夏季に音更川を利用して流送の行われた。それらは全て分監築造の自家消費に回されたのだが、市街地構築の造材には、ここでも内地新興財閥たる王子木材が関わった。囚人労働は自家用材の伐採終了後には同財閥の伐採地への道路開削、そして造材に振向けられたと上士幌町史にはある。

少しばかり乱暴な物言いになるが、1922年の改正『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号)とは、1900年9月15日の伊藤博文による結党以来に、地方の大地主と新興資本を支持基盤に政権を担った立憲政友会による党利党略の集大成として良い。
この政党は、幹線鉄道国有化の実現した鉄道院による改軌計画を1912年に力づくにて頓挫させる一方、鉄道建設の規制を大幅に緩和した『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)に、それに準拠した新線に利益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月23日法律第17号)までも制定して、新線建設を利益誘導の手段に用い、建設を希求する世論の沸騰を背景に法的根拠を与える「鉄道敷設法」の改正にまで至ったのである。同党に対抗した憲政会にせよ、同じ穴のムジナであり、鉄道の誘致に着工を巡っては私利私欲の熾烈な政争が繰り広げたのだった。全くに日本の保守政党と、それを支えた資本とは碌なものでは無い。

その碌で無さは、先の囚人労働を通じた搾取など一端に過ぎず、時の政権(これも伊藤博文内閣である)は1896年1月に拓殖を一元管理する北海道庁を成立させると、内地新興資本など「盛大な事業者」には未開墾地を無制限に、且つ無料での貸付けを定めた「北海道土地払下規則」(1896年6月29日閣令第16号)を制定、未開墾地には当然のごとくに広大な原生林の山林が含まれたのである。王子木材はこれにより、労せずして道内各所において山林地主となり、年間を通じての大量・定形の造材搬出には鉄道の建設を要求したのだった。
改正『鉄道敷設法』の別表に「 十勝國上士幌ヨリ石狩國「ルベシベ」ニ至ル鐵道」として法定された、上士幌からの延長線も、そのひとつである。1920年代後半の政友会と憲政会との政争の具とされて時間を浪費したものの、1934年に着工して1937年9月26日にユウンナイの糠平に、1939年11月28日には最奥地の十勝三股に達した。両駅の土場には造材の溢れたと記録され、それを満載した列車の行き交ったに違いなく、沿線住民には生活革命とも云える利便で生活の安定に寄与したのも確かではあるが、戦後に木材資源の枯渇とともに、資本はこれを打ち捨てるのだった。

透過層雲の雲底が湖面に接するような糠平湖岸を往く723D。隧道をひとつ越せば糠平に着く。
画角は既出で、糠平 (士幌線) 1978 の夏姿になる。
1955年の客貨分離以来の一日に5往復運転は、その内の1往復分には乗車するし夜間には撮れないから、撮影チャンスの2回から3回程度は効率の悪いこと、この上無かった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

奥白滝 (石北本線) 1983

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今、遠軽町域に含まれる旧白滝村がソバの産地とは、そこに暮らすJamさんのBlog「しらたき徒然草」に教えられるまで、恥ずかしながら蕎麦好きと云うのに知らなかった。全国至る所で育つ作物ゆえ少量の栽培はされているだろうとは思っていたものの、車窓にそれを認めた覚えの無く、道内産地ならば幌加内町に代表される雨龍地域に、旭川市から和寒町、音威子府村に至る宗谷線沿線地域とばかり理解していたのである。
調べてみれば、或る程度の作付け面積を以ての栽培は近年のことらしい。史料には畑作物の薄荷に多くの頁が割かれ、他には馬鈴薯、玉葱、麦、豆類に加え工芸作物の除虫菊の登場してもソバの記述は見られないのである。それでも、かつてに薄荷の研究や品種改良を手掛けて来た道立農業試験場北見支場では、それが国際競争に敗れて栽培の衰退した1980年代半ばより、やはり高地作物としてのソバに着目して研究を続けていたものと云う。
けれど、薄荷の後継作物には国の寒冷地農業政策が畜産に傾斜していた時代でもあり、大部分が牧草やデントコーンなどの飼料作物、従来からの主要作物でもあった小麦や馬鈴薯に転換され、奥白滝など僻陬地では打ち捨てられた農地も在ったろう。
同試験場が試験栽培を繰返して富良野産の牡丹ソバから選抜固定した新品種「キタワセ」が、農水省に品種登録されたのは1989年のことである。ソバではその第一号であり、記念すべき「農林一号」の名が与えられた。これの試験栽培地が遠軽試験地だったとも寡聞にして知らずにいた。
夏型で生育日数の85日は牡丹ソバに比して早熟、小麦の前作が可能な道内栽培に適した特性を示し、且つ、それに対して2割を上回る収量に製粉後の食味も良好となれば、瞬く間に道内作付け面積の90パーセントに達したのも頷ける話である。
奥白滝での作付けの拡大もこれ以降のことではないかと思う。過去の白滝村の資料を探し得ず、2013年度の最新データとなってしまうが、遠軽町のソバの作付け面積は111ha、95tの生産高と在った。その道内シェアは僅か0.5パーセントに過ぎないが、上位10の市町村だけで50パーセントを超えるのだから、そんなものだろう。

紅葉黄葉の峠を下って来たのは1595列車。
特急の車窓から斜面に僅かばかり開いた草地を見つけて、数年振りに奥白滝に降りたのである。この年の1月に石北線にはCTC制御が施行され、無人となったその光景には思わず嘆息したものだ。
1982年11月15日改正ダイヤで、この区間の補機は上下とも中越-白滝間に統一され、夜行急行と貨物列車の全てに仕業が組まれていたのだが、国鉄の貨物輸送からの大幅な撤退の既定となったこの時期には、荷主のトラックへの誘導も進んで列車の財源は先細りとなり、補機仕業の省略が常態となりつつあった。
石北線撮影の終焉を思った頃である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

札幌 (函館本線) 1983

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以前の記事に、駅本屋に接した1番線ホームは「特別な」ホームだと書いた。→旭川 (函館本線) 1983
勿論、札幌駅1番線ホームも例外では無く、優等列車の優先的な着発には、駅蕎麦スタンドや弁当に(鉄道部内に云うところの)雑貨の売店の多くが据付けられ、立売人(後年にはワゴン売り)も屯した華やかな乗降場だったのだが、札幌駅の特殊事情から1980年代には不遇を囲った。

ついこの間までの札幌駅4代目駅舎は、駅機能の他に非現業管理部門庁舎、民間の商業施設を兼ねた総合ビルを民衆駅方式にて、1951年9月に第一期工事として地下1階地上4階建ての東半に着工、翌1952年12月25日挙行の開業式を以て駅と商業施設が営業を開始し、続いて西半の第二期工事に着手して1957年5月29日から北海道支社と札幌鉄道管理局が入居していた。間口96メートル、奥行18メートルのビル用地は1908年12月5日に使用開始の三代目駅舎正面直前の駅前広場に求め、一期工事完成後の1952年にそれの取り壊されて新駅舎と(旧)1番線ホームとの間の広い更地となっていた。この貴重な用地の遊休化には、札幌駅の旅客駅化を主眼とした1957年度からの第一次札幌地区改良計画による東側の車扱貨物施設の撤去を待って着発線の2線に乗降場2面が増設され、それが4代目駅舎に接した1番線ホームと対向の2番線ホームとされたのである。使用開始は1957年9月であった。なお、旧1番線ホームは増設2番線と島式構造の新3番線ホームとなった。

1番線ホームは以来、函館線上り副本線としての使用方に本州連絡列車の函館本線経由が主体の当時には上り優等列車の着発に用いられたのだが、1961年10月改正にて千歳線経由で設定の特急<おおぞら>は、敢えて本線を横断して、上下ともそこに入線とされた。特急旅客に跨線橋を昇り降りさせない配慮である。ここでの「特別な」ホーム化はこの際に始まったとして良い。この措置は特急の増発により輻輳の生じるようになっても「原則」として維持され、それの7往復運転となった1972年3月改正でも14本中の8本が着発し、特に自体も3往復運転となった<おおぞら>は下り2号を除く上下全列車が1番線着発を継続していた。
千歳線列車運転の複線が札幌に達しての1973年10月改正では着発線使用方の変更により、着発する特急列車は函館線から到着して千歳線に向かう上り8本に限定され、他ホーム使用の9本に逆転されてしまうのだが、函館上り線、千歳下り線を横断しての千歳上り線進出は「特別な」ホームの証にも思えたものだった。
しかしながら、1975年7月に運転開始の電車特急<いしかり>7往復は着発を3番線ホームに固定するなど、優等列車着発の主体が第二・第三乗降場、2番線から5番線ホームに転移しつつ在ったのも確かであり、1980年10月の室蘭/千歳線電化による同線列車の増発、1981年10月の石勝線開業にともなう<おおぞら>の経路変更を経て次第に「普通の」ホームと化して往くのである。
やはり、苗穂方の複々線化以降には優等列車着発の比重が圧倒的にその方向に偏る札幌駅の特殊性から、1番線の使い勝手は函館線上りの通り抜け列車を除けば決して良く無かったのである。そのような優等列車の皆無となれば地位低下は自明の理であろう。いつしか立売りワゴンも姿を消し、売店の幾つかの撤去も進んで閑散としていた印象であった。
1985年3月改正に至れば、長距離優等列車では上り<おおとり>と<ニセコ>の発車に使われるだけとなり、他には札幌止りの<まりも><大雪>に<オホーツク6号>が到着するのみだった。昼間に旭川から室蘭への短距離特急<ライラック>7本が入線したのが、せめての救いだったろうか。

写真は早暁の札幌1番線ホームに終着した414列車<まりも>。マニ50・スユ15を苗穂で解放しての7両編成に、機関車はホームの端まで往かずに停まる。
105ミリで1/8秒は手持ちの限界。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/8sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1983

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客車運用の昼行急行列車は、1972年3月15日改正で上野-青森間<十和田1号>、上野-金沢間<白山>が電車特急に格上げされて以降には、寝台車を新潟回転として以北を座席車組成で走った<きたぐに>と、この<ニセコ>だけになっていた。冷房を装備した電車や気動車運用との格差に対して、<きたぐに>には1973年10月1日改正より、それの最初の定期運用として12系急行形客車が投入されていたけれど、<ニセコ>の体質改善は道内運用に不向きとされたそれに替えて、1980年10月1日改正における関西-九州間夜行急行2往復の廃止による14系特急形の捻出を待たねばならなかった。
熊本客車区から直接の6両の他は、同区および早岐客貨車区からの転出を名古屋客貨車区、尾久客車区、品川客車区で差替えた24両が、耐寒耐雪改造工事を経て函館運転所に配置されたのは1981年初頭のことで、スハ45/スハフ44組成からの置替は2月7日の下り101列車からであった。[函1]運用の所定7両組成2組使用の需給に対しての30両配置は多客期波動輸送対応も意図してのことであった。

晴れて同区間を往来した特急形気動車と同等設備を手にした<ニセコ>ではあったのだけれど、それは時遅しとせねばなるまい。この列車が本州連絡優等列車の貫禄を保ったのは、せいぜい1983年の夏まで、1984年2月改正以降はその地位すら危ういのである。
予定臨時列車に格下げされる1986年11月1日改正までの関連の動きを拾うと以下のようになる。

81-10-01改正
前年10月改正からの黒松内に加え蘭越も停車駅に追加。
82-11-15改正
所定の7両組成は引き継がれたものの、2号車(自由席)の季節減車期間が拡大され、実質的には季節増結。
83年度夏季輸送終了後(?)
季節減車対象が2・3号車(自由席)と6号車(指定席)に拡大。4両組成が常態化。
84-02-01改正
<らいでん>の快速格下げに関連して上りの時間帯が繰り上げられ、青函接続便が変更。上下列車とも、それまでの5時間30分から40分の到達時分が6時間に延伸。特に下りは長万部で30分余りを停車。
85-03-14改正
所定編成を4両とし多客期に6両まで増結。下りの長万部停車時間を削減して函館時刻を繰下げ、運用を1組使用として受持を札幌運転区(当時)に移管、<天北><宗谷>と共通運用([札5]運用)。
長万部-小樽間の補機仕業を臨運用化。
86-03-03改正
季節増結を取りやめ、これにより長万部-小樽間の補機仕業を廃止。

特急輸送力の整備と旅客のそれへの転移を背景に、84年2月改正以降の<ニセコ>は、青函接続の保持したにせよ実態は<らいでん>を代替した線内急行だったと見て良い。客車運用での存続、函館着発は偏に下りが3両、上りも1両を連結していた航送荷物車・郵便車ゆえである。この当時に乗られた方なら、4両組成でも閑散とした車内を目撃されたものと思う。

写真は藤城線の10パーミルを登る101列車。当時のキハ80系特急列車に引けを取らない速度で駆け上がる。
余談になるけれど、手前側に見える土道が 七飯 (函館本線) 1971 に書いた、戦時下での線増工事にて開削された路盤を転用した町道桜町8号線である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

網走 (石北本線) 1983

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冬場、観光のオフシーズンの夜行急行は空いていた。流動はほぼ道内旅客だけだから、週末等を除けば向かい合わせ4人掛けのひと区画を独占出来ることも珍しくはなかった。肘掛けを枕替わりに完全とは往かないものの身体を伸ばして休めたので連日の夜行移動には福音ではあった。けれど、座席での睡眠は秋冬期、それ故の車内暖房に泣かされた。
云うまでも無く、当時は機関車から編成に延々と蒸気を送込む蒸気暖房だった。従って原理的に編成の前部と後部とでは蒸気温度にかなりの差を生ずる。厳寒の予想される一夜の運行など後部車両への十分な供給には勢い送出蒸気圧を上げることになり、編成前部には暖房過剰とならざるを得ないのだった。
道内夜行は稚内、遠軽方が自由席車だったので下り乗車には要注意で、機関車次位は避けてなるべく後の車両に席を採ったものだが、一番空いていたのは一両目なので悩みどころではあった。逆に後位となる上りでは前位の寝台車での過剰暖房を避けるためか、蒸気供給が及ばず深夜の気温低下に目を覚ましパーカを着込こむことさえあった。特に悲惨だったのは上り<大雪>の北見回転車で、遠軽までは機関車次位なのだけれど、十分に暖まらぬうちに進行方向の変わってしまい白滝方向へと進むうちの車内温度低下を体験している。
塩狩や石北隧道越えの補機が蒸機の時代には、外気温によってはそれが後部からも暖房蒸気を供給して補ったものだろうが、1967年から置替に投入のDD51の6両は蒸気発生装置を殺した補機専用機で、その後に増備されても補機運用にそれを使用することはなかった。

1982年11月のダイヤ改正から電気暖房の14系特急形客車に置替えられれば、この不均衡は改善されたのだけれど、実はこれが曲者であった。今度はR51型腰掛に装架されたヒータが暑過ぎたのである。室温を検知しての自温度調節機能も付加されたものの、それはあくまで室温であって座席表面温度では無い。腰掛けて旅するには快適なのだが、そこに横になっているとTシャツの1枚でも汗の吹き出してそれどころでは無い事態に幾度も遭遇し、固定窓には貫通幌から粉雪の吹き込む乗降台へと避難し身体を冷やさざるを得ないこと度々であった。

写真は網走で発車待ちの516列車<大雪>。
1982年11月15日改正以来の14系座席車と在来型寝台車の混結編成は、この年の夏の寝台車への14系投入にてようやくに解消していた。この疑似ブルートレインとも云えた編成を眺め、ほんの10年前に同じ位置からC58の牽く在来型客車で組成の同じ列車を撮ったことを思い起こせば、変転の早さを感じたものだった。
DD51は、最後部の荷物車向けに蒸気発生装置を稼働している。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S Bulb@f8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1983

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スキー競技のジャンプ場は規模の大きな施設である。そのサイズは2005年の規約改正からジャンプ台の終端点、カンテと呼ばれるテイクオフ地点から着地区域終点のL地点までの実距離を示すヒルサイズ(HS)で区分されているのだが、つまりはランディングバーンの総延長であるこれは、ノーマルヒルと云えど85mから109mと規定され、これにアプローチの90mのジャンプ台本体を加えた、凡そ傾斜度35度の200メートル近い斜面にジャンプ台の滑走始点位置はL地点と100mを越える標高差となる。
倶知安駅至近の町営旭ヶ丘スキー場に1963年12月に完成した倶知安ジャンプ場は、当時の基準で65m級のK地点位置75mで建設され、1970年の改修にて70m級のK地点84mとされていたから、現行規定なら僅かにノーマルヒルに及ばずミディアムヒルに区分されよう。ほぼ地形の斜度に沿うように造られており、この大仏寺山の斜面は天然の適地だったことになる。滑走始点は標高290メートルに10メートル程に鉄骨を組んで設けられていて、倶知安市街地との標高差は130メートルに及んでいた。

駅ホームに立てば間近に望め、その始点はスキー場斜面の最上部に位置しスキーリフトの到達点近くとも見えたので、樹木も取り払われたそこに登ってみたくもなるのは鉄道屋としては致し方ない。観光パンフレットにそこからの真狩山(後方羊蹄山)の姿も見ていたからでもある。
旭ヶ丘公園から夏草に覆われた麓のスロープを上り始めたものの、着地区域に至れば斜度は30度を越えて、それは土木や建築の世界では「崖」の範疇の傾斜である。ようやくにジャンプ台下部のカンテ位置まで達したけれど、それ以上には草をかき分けて登坂する気になれず、ジャンプ台上面を辿ることにしたのである。
鉄骨を2メートルばかりよじ登ったそこは木板の張られた斜度30度の直線の通路が遥か上まで続いていた。鋼索鉄道の最大斜度である高尾山登山電鉄の31度に匹敵する傾斜は、草の繁茂した「崖」とは異なり、少しばかり威圧感を覚えたものだった。しかも両側の安全柵を頼りに登坂を始めれば、床の木板は多くの個所で腐食して穴の開いていたのである。荷重の分散されるスキー板に乗っての滑降には問題の無いものなのだろうか。
標高に風速も感じ始め、急傾斜を一歩踏み出す度に軋む床板に次第に斜面からの比高も増せば、今に振り返っても鉄道撮影行動の中で最も恐怖だったと告白せねばならない。背後には奈落の急坂が続いていたのである。

写真は、ようやくに到達した始点待機台からの倶知安市街地の展望。着いた時には大汗をかいてしばらくは脱力したものだった。駅場内に向かう列車は、荷44列車。
頂上までクリアに見えた真狩山を背景のカットは 倶知安 (函館本線) 1983 にある。
帰路には、草漕ぎのスキー場の斜面を選んだのは云うまでも無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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