"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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倶知安 (函館本線) 1982

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そこには18時05分が定刻の倶知安発車に夕刻が近づけば三々五々写真屋達が集まり始めるのだった。勿論、C11の逆向き運転の観光列車でもC62が短い編成を牽いた展示運転でも無く、それの重連が本州連絡急行<ニセコ>の仕業に就いていた頃の北四線踏切の話しである。
集合と云っても、せいぜい10人を超える程度は近年の狂乱の比では無かったものの、定番の画角を得られる位置は限られて、皆が踏切取付道の盛土中程で団子のようになって撮っていたものだった。なので、この画角を一度押さえてしまえば他の位置を選びたいところではあったけれど、前に出る訳には往かずに些かもどかしかったのである。
それの叶うのは、71年9月にC62が三重連運転などと云う愚挙の果てに走り去り、さらに2年を経て山線蒸機が終焉を迎え、そこが静寂を取り戻してからのことだった。

もともとに蒸機は身近に過ぎて、近代車両に惹かれていたくらいだったのでその喪失感は薄弱で、寧ろひとりきりで自由に画角を選べるのが喜ばしく、幾度かそこに立ったのだった。<ニセコ>はメインの被写体に変わりはなかったものの、優等列車の風格が失われつつあった時代に、客車急行の重連牽引であることとスロ62組成を除けば遠目には普通列車と大差の無い姿に次第に飽きてしまい、忘れた撮影地にはなっていた。
その復活は、ここでも編成の14形座席車系列への置替である。特急寝台の設定が無かった道内で機関車次位に深い丸屋根こそ続かぬにせよ、それを彷彿とさせる姿は十分に魅力的だったのである。1972年製の新系列客車には旧型客車編成の重厚さの失われたとの評も聞いたが、こと<ニセコ>に関しては列車に風格を与えたと思える。比すべき列車の無かった道内で気動車特急に匹敵する設備を得、加えて重連の機関車の牽引が寄与したと云うべきか。

この頃、無人となった農家の残されたここの農地には毎年に麦が育てられていた。馬鈴薯の輪作作物とは知っても、どちらがどちらのための地力回復作物なのかは知識のないのだけれど、完全な輪作では無かったように覚えている。
真狩山を背に峠へと向かう101列車<ニセコ>は定番の画角ではあるが、真狩山に架かる雲に麦の植列を意識したタテ使いにはだいぶ踏切寄りに立っている。
小麦は秋蒔きで、後ひと月程にてそれこそ小麦色に染まり収穫を迎える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f1.8S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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張碓-銭函 (函館本線) 1982

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東京と航空機で往き来しながら福岡に仮住まいしていた頃、筑肥線の今宿から今津橋を渡った洲ノ崎の漁港で、岸壁を這い回るムカデのような生物に驚いたことがある。近くで作業する漁師の網に同類が何十匹と張付いており、尋ねて気がつくのだが、恥ずかしながら生きたシャコの初見であった。鮨屋カウンターの冷蔵ケイス越しには幾度も対面していたと云うのに、水揚げされたばかりのそれがほのかな琥珀色とは思いもしなかったと記憶する。博多湾は、その浅海の泥中にシャコが棲息し、初夏に旬が楽しめた。

大消費地である首都圏に眼を向ければ、そこに流通しているものは、かつてには東京湾や瀬戸内産が多かったが、現在には北海道石狩湾の水揚げが大半を占めると聞く。それの20センチに迫らんとする大振りの個体が市場に好まれていると云う。
石狩湾には古から棲息していたのであろうが、商業漁獲の始まりは1950年代に激減したニシン漁の代替としてであった。終点に着いた電車の酔っぱらいを車掌が起こす有名な小咄、「お客さんもう車庫ですよ」「なにぃ、シャコでもいいからもう一杯呑みてぇ」の通り、かつてには下魚の扱いだったのだけれど、鰊の群来の無くなってしまった沿岸では、それを穴埋め出来る魚種など無く、とにかく泥底をさらえば幾らでも獲れたシャコに縋ったと云うことなのだろう。おそらく、当時には大半が漁師家を始め沿岸だけでの自家消費だったろうが、カニ・エビと異なる独特の旨味が市場に受け入れられて、今や小樽市や石狩市の漁協は地域ブランド化を推進するまでになっている。
漁期は脂の乗る抱卵期の4〜6月と脱皮を終えて身入りの良い10〜12月であり、海岸から100から300メートル前後、水深10から30メートル程の泥底への刺し網漁法による。海の荒れて海中の濁った際に捕食に巣から出る習性を利用して、時化前に網を海底に被せておき、それの収まってから引揚げるのである。よって、一般的な漁と異なり、漁期に時化の日の多い程に漁獲量が増える。
石狩湾岸では約80の漁業事業者に第二種共同漁業権が許可されていると云うが、1トンから5トン程度の漁船規模で操業が可能であり、全て零細(個人)事業者により担われている。

小樽市張碓町の恵比寿島(岩)に、昔から小さな船溜りに漁師小屋の設けられていたのも、おそらくはシャコ漁のためなのだろう。そう云われてみれば、真夏にも冬期にも船の出ているのを見掛けたことは無い。
恵比寿島を車窓に降雪の石狩湾岸を往くのは12D<北海2号>。後追いである。
前年秋のダイヤ改正で<宗谷>の札幌以南区間を分割・格上げした運転であった。画角の幾度かの既出はお詫びする。この位置にも季節毎に立ったものだった。

シャコは鮮度の落ち易いため、大抵は網から外されてすぐに漁師自らの手で巨大な釜にて浜茹され、氷蔵の上で出荷される。首都圏へと運ばれているのは皆これである。浜では少量ながら活けも出回っており、小樽市内の鮨屋で食することが出来る。海のモノなら鮨も刺身も好む酒呑みとしては当然にそれもいただいているのだが、シャコはやはり浜茹、しかも茹でたてを食らうべしとは書いておく。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC40M filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

トマム信号場 (石勝線) 1982

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鵡川と聞けば日高本線の停車場を思い浮かべるのは鉄道屋だからだろうが、本来には駅の所在地である勇払郡鵡川町(現在には穂別町との合併により「むかわ町」)の由来であり、そこに河口を持つ川の名である。狩勝連山のひとつ、狩振岳の北西斜面を水源に延長135キロを流れ下るには、夕張山地をトンネルで貫いた石勝線がそれの谷を遡ることになり、些か意外感もある。その上流域が先住民族が湿地を指して呼んだトマム(tomam)に当て字した苫鵡である。自らの形成した谷底平野を蛇行する鵡川の川岸が低湿地を成していたのであろうか。

この山中に開けた僅かな平坦地を現在の道道136号夕張新得線は緩い曲線を挟み乍らもほぼ直線で通過している。かつてに拓殖のインフラとして開削されたこの道路を基線として植民区画の定められた明らかな名残である。それは占冠村史に依れば1900年のことであり、入植は1902年から始められたと記録されている。
植民適地の選定と区画設定は、1886年1月に北海道庁の設置からまもなくに開始され、全道遍くに及んだ事業に関わらず時間を要したのは、この地が鵡川を遡るにもニニウの峡谷と鬼峠に阻まれ、石狩側から神居古潭なり空知大滝の難所を経て富良野盆地に至り、さらに金山峠の踏分道を延々と越えた上に鵡川上流を目指して辿り着く最奥地だったからであろう。岩見沢からの官設鉄道が1898年に旭川へ、そして1900年12月の鹿越開業を経て翌1901年9月3日に落合に達すれば、落合からルウオマンソラプチ川の谷筋、もしくは幾寅峠越えが最短経路となり、1902年12月6日の幾寅停車場の設置はここでの拓殖計画と関連してのこととも思える。
しかしながら、過酷な気象条件とあまりの交通不便に入植は進まず、本格的に開拓の進むのは、戦後の「緊急開拓事業要領」による復員兵や引揚者らの入植以降のことであった。

「鉄道敷設法別表」に第142号ノ2項として法定の御影辺富内間鉄道、国鉄部内で通称の日勝線が、日高山系を沙流川ではなく鵡川を辿るよう計画変更された経緯や時期については調べ得ていない。石狩十勝連絡線として1957年4月に調査線となり、別表134号に法定の金山登川間鉄道、計画線名での金山-紅葉山間紅葉山線と共に、途中占冠で接する新得-日高町間狩勝線として1959年11月9日に工事線へと編入された時点で苫鵡地区の通過は既定であり、そこには滝ノ沢、下トマム、上トマムに串内の4駅の設置が予定されていた。
狩勝線の占冠-新得間工事計画の認可された1961年当時の占冠村トマム地区には農業・林業関係者を主体に892人が暮らしていたから(1960年国勢調査)、その利便には当然の計画であったろう。けれど、その直後よりの高度成長期を通じて歴史の浅い戦後入植者たちの離農が相次ぎ、国内林業の衰退もあって、これら鉄道が石勝線として開業を迎える頃には124人へと減じ(1980年国勢調査)、並行道路の整備からも予定駅は、近隣に保養地開発計画の存在した上トマム、開業名の石勝高原を除いて全て信号場とされたのだった。

開業間もない頃の石勝線を上るのは臨時急行8416D<まりも52号>。
<まりも>は石勝線の開業に際して根室線急行に復活した愛称である。高速走行の短絡線として開業の石勝線ではあったけれど、出力不足のキハ56/27とあっては札幌-帯広間に3時間50分あまりを要して、それは富良野回りにて残存した<狩勝>の4時間10分と大差なかった。
画角後方に見えるのが、下トマム駅として計画されていたトマム信号場である。上記の民間の保養地開発計画名称から付名の石勝高原を1987年2月1日付にてトマムへ改称するに際しホロカ信号場と改められた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

倶知安 (函館本線) 1982

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個人的には意表をつかれた思いなのだけれど、倶知安の駅前から、かつてに蒸機牽引時代の<ていね>を見送った構内北側の踏切道を渡り、坂道を上って二世古酒造を右に折れる、彼の北4線踏切へと通った道は、1896年に北海道庁により開削された倶知安小沢間道路だと云う。
即ち、その道は1907年5月13日内務省告示58号による「東京ヨリ北海道廳ニ達スル路線」である「國道四十二號」の経路変更にともなう指定から1960年代に現国道の開通するまで、函館市より札幌市に至る国道42号線、後に4号線を経ての国道5号線の一部だったことになる。
1948年に米軍の撮影した空中写真を閲覧しても、確かに倶知安峠を越えて往くのはこの道の他に無い。開削時に確保されたと云う幅の二間、その4メートルに満たぬ幅員は現在にも然程変わらぬとも見え、幾度かそこを歩いての印象も農道そのものであった。
それが国道だったとは俄には信じ難いが、ここでも前に触れた七飯峠下から小沼湖畔に至る無沢峠の道や音別の海岸を往く砂道に、内地版で書いた米坂線沿いの宇津峠越えの砂利道やら五能線とともに北上する細道も皆同様で、つい最近まで日本の道路とは実に貧弱だったのである。戦後の増大する物流にはとても耐えれたもので無かったのは明白と云え、なるほど、鉄道が輸送の全てであり陸上交通の王者だった例証にも違いない。これを思えば、それの僅か10年あまりでの逆転にも意外感を覚えるところでは在る。

写真は北4線踏切近傍からの荷45列車。激しい降雪を突いて峠へと向かう。
白銀の真狩山を期待しながら、翌年も翌々年も降雪の日々にばかり巡り合っていた。ホワイトアウト寸前の光景には、それを逆手に絞りを少し開く。
この踏切で線路と交差する道は前記の空中写真にも見て取れ、古くからその先のクッチャン原野北部の植民に旧國道との連絡に開かれたものであろう。1904年10月のここへの鉄道開通以前からとも思われ、その名称はともかくも北4線踏切は、相当に旧い時代からの存在として良さそうである。
写真にも見える開拓農家が健在な頃には、件の旧國道転じての農道も市街地からここまでが除雪されていたのだが、それの廃屋と化せば、踏切は線路伝いでしか到達出来ない地点となっていた。
線路の積雪は、連日のラッセル車運行によりプラウで踏固められ、まるで舗装路のように歩けたと記憶する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

初山別 (羽幌線) 1982

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春立 (日高本線) 1971 の続きである。

線区別経営による対象線区の合理化が進展する最中の1964年度、国鉄は初めての赤字決算を計上し、以後にその額の累積するばかりには、経営の建直しは喫緊の課題とされて往く。全国規模での駅運営体制の刷新が求められ、その合理化、即ちは運営経費の削減が本社主導の下、強力に推進されるところとなった。管理局が線区単位に総合的計画を策定し実行したそれは「営業(体制)近代化」と総称された。
1970年度を初年度に結果的に国鉄の解体まで継続されたこの政策は、地域交通線に限らず幹線に都市交通線までが遍く対象とされ、それぞれの線区に応じた施策の施行により、地方幹線・地域交通線上においては要員無配置駅の爆発的な増加を見たのであった。1968年度に設置の高山本線で経営改善効果の確かめられた運転へのCTC制御方式の導入がそれを後押ししたのではあるが、その非導入線区においても貨物扱の廃止や列車削減を前提の閉塞区間統合により要員の撤収が進められた結果でもある。
実際の運用には線区や地域事情の考慮されたものとは思うが、1970年当時に本社の提示した要員引揚げ、無人駅化の目安は、一日平均の乗降客数の1500人以下とされ、それの800人から1500人の駅は「業務委託」の対象に、800人以下についても「簡易委託」とする方針が示されていた。低下したとは云え地域輸送に一定のシェアを確保していた当時、まだ窓口閉鎖には慎重だったとも受取れるが、予想される駅勢圏地元住民の強い抵抗を想定しての懐柔策でもあったろう。これには、自動車線駅の業務委託に実績の在った国鉄の外郭団体である日本交通観光社(日交観)を、鉄道からの要員の出向や退職者の再雇用促進などにより鉄道駅の受託に誘導し(これは1960年代からのことである)、また「乗車券簡易委託発売基準規程」(1970年9月28日旅客局達第201号)を制定、個人などの受託も想定した規定整備もなされていた。
国鉄監査報告書に拾えば、当初目標とされた1972年度までの3年間で697駅が「停留所」化され、165駅が業務委託駅となっている。「停留所」の中で乗車券類簡易委託販売の行われた個所数は記載されていない。

以下に「営業(体制)近代化」の一例として羽幌線の例を述べる。
ここは、道内の地域交通線における初期事例であり、築別-幌延間が1970年9月7日付にて、以南区間が1972年2月8日付で実施された。駅の営業体制の変更は以下のとおりであった。

要員配置を継続 : 小平・古丹別・苫前*・羽幌・天塩
業務委託**を継続 : 築別
業務委託化** : 鬼鹿・初山別・遠別
簡易委託化 : 大椴力昼天塩有明豊岬更岸北川口
業務委託***解除-簡易委託化 : 丸松
業務委託***解除-無人化 : 三泊臼谷上平
無人化 : 歌越振老
* 1973年10月改正時に業務委託化。受託者は不明、日交観では無い。 ** 日交観 ***受託者不明。丸松・歌越は日交観と推定。

線内の要員配置駅中の15駅でそれの引揚げられ、要員69名を削減と記録に在る。下線を引いたのは、この際に行違い設備を撤去した駅、斜体が従来からの棒線駅を示す(これ以前に撤去された駅を含む)。簡易委託化・無人化としたのが、国鉄の云う「停留所」に該当する。
日交観への委託個所では駅務長の下に駅務員がそれまでと変わらぬ業務を遂行したから、販売乗車券類の発行駅名に付された記号を見ない限りは国鉄の直営駅と区別は付かなかった。簡易委託でも販売員が列車の着発時間前後には旧駅務室に詰めて、駅本屋の完全に無人となったのは全21駅中の5駅に留まったと分かる。
この例のように、利用者の利便を最大限に確保しつつ実施されたのが、この時代の「営業(体制)近代化」であった。1970年代は、多くの駅に(広義の)駅員の所在を認める鉄道駅本来の姿の見られた最後の時代だったと云えよう。そして、その様相は1980年代に至ると一変する。
(この項つづく)

初秋の透き通った朝、第三金駒内陸橋を往くのは851D、幌延行き。後追いである。
日交観には独自の制服の定められず、それは国鉄のものを着用していたから外見上に業務委託駅とは全くに区別出来ない。この頃の初山別駅務長は地元の出身と伺い、このような里帰り人事も可能な限り便宜を図って貰えたと聞いた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 NON filter ri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1982

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機関区に貨車検修区、貨物扱い関連施設の撤去された長万部の構内は随分と小さくなった。不夜城のごとくにそれを照らし出していた、北部に二基、南部に一基の構内照明塔も消灯され、闇に沈み込む姿は前にもここへ書いている。けれど、列車運転に常用される本線の構内配線とその規模は、1965年の中丿沢方、1969年の旭浜(静狩)方の線増以来の構内配線が分岐器・出発信号機建植位置もそのままに、本屋側の1番線から7番線までに維持されているのである。函館山線の衰退に貨物列車削減など輸送環境は激変したものの、当時にも現在にも必要且つ十分な設備であり、完成された配線と云うべきなのだろう。
唯一の改良は第一乗降場2番ホームに接する3番線の有効長を、2番線との渡り線を使用停止として320mから535mへ延伸したのみである。施行期日は明らかに出来なかったが、貨物入換のなくなった以降に中丿沢方線増時に場内信号機直近に設けた両渡線へ代替してのことと推定する。
各線路の使用方は変遷したものの室蘭線列車の運転上からの現状では、2番線を上り本線、3番線を下り本線とし、1番線が上り副本線、4番線が上下副本線、5番から7番線が下り副本線である。函館線倶知安方面との運転列車なら5番・6番線がそれぞれ上・下本線となる。なお、1番と2番線を除き中丿沢・二股・静狩の各方向と進入進出の可能な配線に信号設備となっている。

対して、大きく変貌したのが旅客営業施設である。北海道旅客鉄道発足直前の1987年1月に駅本屋が改築されている。建替では無く、山線に通った諸兄にはお馴染みの木造本屋を存置しての大幅な「改築」は、関連事業施設の併設のためであった。
駅業務の縮小に持て余していた、かつての駅長事務室(駅務室)部分に待合室を移設、出札窓口兼みどりの窓口と旅行センターの営業フロントのみが待合室内に再配置され、そこへの出入口(正面玄関)も従来の三角屋根の正面出入口の右側に隣接して、それに合わせたやはり三角屋根の新たな出入口を設け、従来口は旧集札口位置への増築分と合わせた面積の商業施設への出入口に転用されたのである。その分だけ本屋規模は大きくなったのだが、広かった待合室をかなり縮小する設計であった。板張りの外壁をパネルに置替えただけだった外装も、この機会に一新されたものの厚化粧の感は否めなかった。
入居した商業施設は、子会社の「ジェイアールはこだて開発」が営業した食品スーパー「アーク」で、長万部に因んで「あいりす店」を名乗っていた。云うまでも無く、旧青函船舶鉄道管理局管内における国鉄共済組合の事業を承継した企業体であり、店舗は同組合物資部長万部配給所の後身ということになる。系列店舗は森店として森駅本屋にも入居していた。
これに先駆けての1979年3月20日使用開始にて旅客跨線橋の架替も行われ、従来の木造跨線橋の函館方に現橋を新設の上で旧橋を撤去したものである。また、第一乗降場のかつては札幌方端部近くまで伸びていた上屋の先端側が撤去されているが、これの施工時期は全くにわからない。

低い斜光線に長万部6番線(4番線ホーム)から室蘭本線に進出するのは247列車、室蘭行き。
<ニセコ>に14系の投入された後とあって、編成中には転用のスハ45も見られる反面、スハ32は姿を消していた。
第一乗降場の260m、そしてこの第二乗降場の270mのホーム有効長も、知り得る限りの1960年代末より変わっていない。かつてに最大13両組成を数えた函館山線経由の<まりも>や<大雪>などの優等列車着発に対応した第二乗降場は、今や2両編成程度の気動車着発には無用の長物と化しているが、90年代の一時期に寝台特急<エルム>の<北斗>に対する長万部退避は、この設備の在ってこそだった。
なお、画角に写る1番から9番までの線路が今も全て健在である。8・9番線はこの当時から留置線に用いられ、今も気動車が滞泊する。但し画角右にも同程度の構内を有していたのが、この頃の長万部である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

赤井川 (函館本線) 1982

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赤井川は、1904年10月14日の(初代)北海道鉄道線の歌棄(現熱郛)-小沢間開通による全通に際して、既設区間に山崎や中丿沢、蕨岱と共に開設された停車場である。これら4駅は10キロから12キロ程の停車場間の中間に位置したから、全通にともなう直通列車の運転などの列車回数増に対応したものと推定され、当該区間の開通から1年を経ての設置は線路計画時からの既定方針だったろう。

ゆえに、赤井川も上下本線を設備した配線だったと思われるのだが、現況の駅本屋に接した乗降場と島式のそれの有効長のあまりの差や、上下本線を区別しない線路使用方が些か不可解である。本屋側乗降場は途中に段差がついていたので、後年に嵩上したとも見えるが壁面石積にも本屋の土台にもその痕跡は見られず、低い部分が延長されたものかも知れない。本来には島式側とほぼ同延長だったならば、それを(千鳥配置では無く)並列配置とした故の片側使用の配線も説明は付く(*1)。
本屋に信号扱梃子の撤去跡らしきの見られないのも不思議で、それは別小屋だったのだろうか。ちなみにそれの使用停止は1969年8月のことである。
本線有効長の500メートルは明らかに後年の(おそらくは戦時下)の延長であり、乗降場延伸もその際と考えれば、本屋側だけのそれには当時より、これを上下本線としていたものだろうか。
いずれにせよ、この駅の沿革をぜひ知りたいとは思うものの、その資料には出会えそうにない。

写真は、副本線(待避線)に停車の123列車と本線を通過する102D<せたな>。
画角外の123列車の客車はオハ51系列の4両組成で、後部2両はホームを外れている。
1966年10月1日改正にて設定の函館-瀬棚・長万部間急行<せたな>は、当初のキハ21・22の使用から1972年3月15日改正ダイヤより下りが本線急行<すずらん>に国縫まで併結されるようになると、キハ27の2両組成に置替られ面目を一新していた。もっとも、これの運転開始に際しての車輛費は沿線自治体による利用債にて賄われ、その際に国鉄の発注したのはキハ56/27だったから当然の措置でもあったろう。
この1982年当時の102Dは、瀬棚発(瀬棚-国縫間普通)のキハ27-2両の[増1号車][増2号車](*2)に、熱郛発(熱郛-長万部間普通)の号車札の無いキハ40(若しくは22)-2両を国縫で併結していた。
...............................................................................................................................
(*1) 対向式乗降場の採用には、列車在線時の利便から旅客乗降場を千鳥に配置して、その中央に本屋を置くのを原則とするが、諸般の事情にて並列配置とせざるを得ない場合に採用された使用方である。石北線の安国から東相ノ内間に留辺蘂を除き事例がある。
(*2) 下りの<すずらん>編成函館方の[1号車]に続く併結に要した号車札である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

長万部 (函館/室蘭本線) 1982

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長万部輪西間鉄道の必要性は、函館-室蘭間が小樽、岩見沢経由で北海道鉄道と北海道炭礦鉄道の私設鉄道にて結ばれ、北海道の鉄道が道庁鉄道部の所管であった当時から関係者には認識されていたものと思われる。それは両都市間の、しいては青函を経ての本州との距離を凡そ270キロあまり短縮するのに加え、小樽回りに比して勾配を緩和するからであった。しかしながら、山越郡長万部村静狩から虻田郡虻田村まで30キロ近くに続く峻険な地形の海岸線には難工事の予想され、着工に躊躇して居たのである。

その建設促進を熱心に運動したのは意外にも函館の財界とその意を受けた函館市当局であった。先の私設鉄道が『鉄道国有法』(1906年3月31日法律第17号)により相次いで国有化されると、1909年に周辺町村を巻き込んで函館商業会議所会頭を会長とした「渡島開発期成会」を結成し、同年に視察のため来道した後藤新平逓信大臣(鐵道院総裁を兼務)、大浦兼武農商務大臣への陳情を皮切りに、函館地域の政界財界を挙げての熱心な運動を繰り広げたのだった。
函館財界は、その開通により函館と室蘭の短絡ばかりでなく、この路線が函館線に加えての樺太に至るまでの各地との幹線路となれば、本州連絡の中継地の地位を背景に道内物資集散の中心拠点と成り得ると目論んでいたのである。
それが功を奏したものか、長万部輪西間鉄道は1918年に政府の取り上げるところとなり、第41回帝国議会で審議の『北海道鉄道敷設法中改正法』(1919年3月25日法律第21号)にて第二条に規定の予定線に追加、1919年4月1日付にて北海道建設事務所の所管に組み入れられ(1919年3月31日鐵道院告示第16号)、長輪線の建設線名により同年度から8年間の継続事業として建設に着手されたのだった。

計画に2年を遅れたものの、1928年9月10日の長輪線としての全線開通は道内の貨物輸送に一大変革をもたらし、函館市・財界の目論見を成功に導いたのは勿論のこと、道内産業に様々なインパクトを与えもした。鉄道省は直後に公表の「長輪線建設概要」の冒頭に「本線は北海道に於ける所謂拓殖鉄道と其の趣を異にし都市より都市を結び港湾より都市を連絡する本道中最も優秀なるエコノミカルライン」と記し、この新たな幹線鉄道を自賛する程であった。

函樽鉄道そして函館本線の中間駅に過ぎなかった長万部にとっては、幹線鉄道の結節点として要衝化する契機となり、1923年12月10日の静狩までの開業時点にて、まずは構内の拡張と改良の行われたものと思う。同年度の鉄道省年報の長輪線の項には「機関庫の移転」との記述があり、この時点で機関庫施設も開かれていたと知れる。但し、本格運用は見送られていたとも思われ、それは長輪線全通時に黒松内機関庫の分庫となり、1932年5月15日付にて本庫に昇格した(長万部町史による)。機関区に限らず客貨車検修区や保線、工務関係区所の移転・開設の続いて国鉄職員・家族の数百人規模での居住には商業の活況を呼び込み、鉄道の開通により宿場町として衰退していた長万部は、今度はその鉄道により発展したのであった。
鉄道の官舎群は当初に構内南の線路山側に置かれ、戦後に架けてこの一帯が市街地化する切掛けであったのだが、駅の縮小とともに全てが取り払われ、現在には住宅街に広大な原地を残すのは皮肉にも思える。

初夏の宵、薄暮の長万部6番線(4番ホーム)で発車を待つのは125列車、小樽行き。
ここで小一時間ばかり停車する。乗務員詰所へと引揚げるのは、この列車に函館から乗って来た車掌であろう。
扇形庫は取り壊され配置車両も無くなっていたけれど、乗務員区として機関区の名は健在な頃である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/30sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

糠平 (士幌線) 1982

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先住民族の意志を何一つ諮ることなくアイヌモシリを植民地とした薩長新政権は、1869年に拓殖を管轄する中央官庁たる開拓使を置く。その本庁が1873年に札幌へと造営されれば、開拓のインフラ施設の整備、即ち奥地への道路開削と各地域への開拓拠点の設置が喫緊の課題となり、これに使役されたのが1881年の樺戸以来、空知、釧路、網走へと置かれた集治監の収容者(囚人)達であった。
道内にこれだけの集治監の設置は、当初には矯正労働として農地開墾に従事させ、放免後の道内定住化を意図してのことだったが、1885年に政府より北海道三県巡視に派遣された太政官大書記官-金子堅太郎が翌年に提出した復命書を切っ掛けに変質したのだった。少し長くなるけれど、それの当該部分を再録する。

「彼等ハ因ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪エズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪エス斃レ死シテ其ノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ、万已ムヲ得サル政略ナリ。又尋常工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道ニ於イテ尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四十銭ヨリ下ラス。囚徒ハ僅カニ一日金十八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ、則チ囚徒ヲ使役スルトキハ、此開築費用中工夫ノ賃銭ニ於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ一挙両全ノ策ト云フヘキナリ。現時ノ如ク十年以上ノ大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房屋飲食衣服等一ヲ之ヲ内地ヨリ輸入シテ、非常ノ金額ヲ費シ、其使役ノ方法ニ至ツテハ軽罪犯ニ異ナラス之ヲ優待シ、悔悟ノ日ヲ待テ之ヲ土着セシメントスルモノハ、重罪犯ヲ懲戒スルノ効ナキノモナラス、又政府ノ得策ニアラサルナリ。宜シク此等ノ囚徒ヲ駆テ、尋常工夫ノ堪ユル能ハサル困難ノ衝ニ当ラシムヘキモノトス。」

民衆による革命ではなく、単に武家社会の封建制の看板を差替えたに過ぎなかった新政府の体質を如実に示す物言いである。当時の内務卿伊藤博文が採用したこの提案は、その後のタコ部屋労働を誘発する起点となったばかりか、現在に至るまで保守支配層に内在する階級是認の反動的体質そのものでもある。ここに使役された囚人達の大半は、佐賀の乱や新風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南の役などで新政府に対峙した政治犯とされた人々であり、決して犯罪者ではなかったのである。

1895年に開かれた北海道集治監十勝分監も、その設置そのものが十勝開拓への収容者の使役を目的としており、早速に拠点とされた帯広市街造営のための森林伐採に原生林の広がるばかりだった音更川上流のユウンナイと呼ばれた一帯へと送込まれている。当時には川筋を遡る他に道は無く、現地に越冬しながら伐採を進め、これを夏期に筏に組んで流下したと云う。そして、1918年の士幌村からユウンナイに向けての道路開削もまた彼らの使役により為されたのだった。当時に音更山道と呼ばれた後の糠平街道、現在の国道273号線にあたる。ここにも「囚人道路」の存在は忘れてはならない。

写真は強い西日に付替新線の不二川橋梁を渡る728D列車。
福島県相馬から1907年に本別村活込入植していた島隆美による原生林中への源泉湧出の発見は、その人馬交通路の開かれてこそである。島は1924年に湯殿山と名付けたそこに小屋掛けの湯坪を設け、糠平温泉の始まりとされる。
ユウンナイに達した道路からその位置までの通路は島が自らの手で開いたと云うが、その四半世紀後にダム建設に伴う付替で道路も鉄道もそこへ直接に達するとは露にも思わなかったことだろう。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

五稜郭 (函館本線) 1982

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五稜郭 (函館本線) 1982 から続く。

青函間貨物輸送量が連絡船17運航による年間440万トン台に達した戦後の1950年代以降に、有川航送場は航送貨車の70パーセントを扱うようになる(*5)。五稜郭操車場も拡張の行われてもなお操配能力が不足し、1967年度よりここで組成・分解を行わない有川発着列車が設定され、この通路線に本線列車の直接乗入れが始められた(*6)。これに対しては、操車場場内で上下着発線と接続する亘り線の設けられた他、有川には着発線と機回線が追設され全区間の軌道強化も行われた。
また、函館構内貨物積卸線へのコンテナ施設設置にともない、そこの荒荷線の航送場南側用地への移転もこの際に手配された事項である。なお、その用地は有川3岸(函館5岸)を築造しての航送場拡張に鉄道省が確保していたものであり(*7)、戦後まもない1946年3月から1948年2月まで実施の米軍供与のL.S.T(上陸用舟艇)による貨物輸送(Website参照)の際に積替えの荷役線が敷設され、1950年にはそれを利用して五稜郭の貨物扱の一部が移転していた。

青函間の年間貨物輸送量は1971年の8,553,033トンを最高に以降減少の一途を辿る。国鉄がヤード系輸送から全面撤退した84年2月1日改正を以て五稜郭操車場は使用停止となり、合わせて有川航送場も閉鎖、当然に通路線の運転も無くなった。けれど、航送場南側には1980年5月から従来の設備を増強して函館地区各駅の貨物集約施設が稼働しており(*8)、調べ得なかったのだが、70年代に線路の撤去されていた五稜郭本屋構内からの専用線路盤への再敷設は、これに替えてのことと思う。桁の撤去され、永らく築堤と橋台の遺構が残されていた乗越部は近年に西側部分が宅地と化して消滅した。
有川航送場は久しく荒れた姿を晒した後に埋め立てられ現存しない。貨物施設の方は1987年4月の国鉄分割・民営化に際し、五稜郭貨物駅と称して日本貨物鉄道の運営に承継され、2011年3月12日付にて函館貨物駅と改称したのは周知の通りであるが、法規上には現在も北海道旅客鉄道五稜郭停車場の一部であり財産上も同社に帰属する。
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(*5) 1953年のダイヤで青函航路17運航中、函館駅若松桟橋が8運航で180両、有川桟橋が9運航で420両であった。運行数が半々での差は、勿論車載客船/車両渡船(貨物船)の差異による。64年度より津軽丸形の客載車両渡船が就航すると差は縮小した。
(*6) 1968年10月改正ダイヤで急行貨物等5往復の設定が在った。
(*7) 有川3岸は計画時より車両航送設備を持たない機帆船岸壁とされていた。
(*8) 部内では五稜郭本屋駅と区別して(五稜郭)貨物駅ないし有川(貨物)駅と呼ばれた。1980年10月1日には函館構内からコンテナ積卸場も移転した。

夏の始めの朝を函館に回送される単機は、この時間に青函151便の船腹から牽き出されつつある3051列車の牽引機である。通勤時間帯前で国道5号線も閑散とした光景には単機が似つかわしい。
五稜郭は函館地区の北部工業地域に位置して多くの専用線が接続していたけれど、多くは戦中から戦後のことである。戦前からの事例は、北海道瓦斯会社と東京人造肥料会社であり、いずれも1924年9月1日に行われた函館-五稜郭間の線路移設にともない函館から移管されたものであった。
3本の線路の内、真ん中の下り線がその移設線であり、左の上り線は1942年12月27日に使用開始の増設線である。そして右端が三井東圧肥料(旧東京人造肥料)函館工場専用線を分ける貨物側線で、その分岐点も見えている。
この専用線は1907年に設置され、その当時には旧線の亀田構内から途中に北海道瓦斯専用線を分けて延々と本線に併行し、おそらくは左画角外で分岐して画角中央を左右方向に横切っていたものだろうが、勿論痕跡は全く見られない。これを新線分岐に付け替えるに際して、五稜郭方からの分岐としなかったのは鉄道省の五稜郭工場が支障したためだろうか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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