"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

銀山 (函館本線) 1981

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1980年代には『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)に準拠して選定された地方交通線の事業形態の転換が続いた。ご承知のとおり、経営体を替えて鉄道営業の存続した線区も存在したが、多くはバス交通を代替として廃止の途が選ばれた。
必然的に人口過疎地域を経過地とする線区が大半を占めた北海道においては22線区が選定され、1990年までに地北線の140.0キロを除いた、実に1316.4キロもの線路が失われた。1981年10月1日現在の道内国鉄線延長は石勝線の開通により32線3996.7キロに達していたのだが、実にその33パーセント、三分の一を喪失すれば、道内の鉄道地図に空白の目立つようになるのは当然で、北海道周遊券が値下げされぬのはおかしいと毒づいたりしたものだった。
2008年に至って国土交通省北海道運輸局が行った「北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査」の報告書(2009年3月)に拾うと、すべての路線で転換時点よりも利用者数は減少と報告されており、中には代替バス自体の廃止事例も含まれる。この報告に際して開かれた「北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査検討会」(2009年3月17日札幌にて開催)議事録にも、バス転換を契機にした沿線のさらなる過疎進行への言及が読みとれ、特定地方交通線の主たる利用者であった通学生徒に高齢者は、前者が全国的な人口動態にて漸減した上に、代替バスの(一部に低床型ノンステップ車両導入事例の見られたとは云え)路面からの乗降の不便や、シートが小さく狭い車内の居住性の低下、そして何より便所を設備しない不安に後者が利用を諦め、やむなく世帯で沿線を離れるなどから過疎スパイラルに陥ったとある。小さな集落やら地域は、そもそもに経済規模が極小なだけに一世帯の離脱だけでも大きな打撃を受けるに違い無く、それがさらに次の離脱を誘発する連鎖である。

なるほど確かにその通りなのだろうが、些か説得力は欠く。過疎スパイラルは辛うじて鉄道の存続した地域でも変わるところが無いからである。バスへの転換はそれを早めた程度だろう。交通弱者とされる個別移動手段を持たない住民が鉄道利用者として残存したにせよ、彼らとて極めて限定された乗車チャンスによる生活時間の拘束が時代の間尺に合わなくなったのである。それを嫌えば、最早その土地を離れるしか選択の余地は無い。
かくて、皮肉なことに過疎はマクロには鉄道の沿線から進行する。鉄道と主要道路交通路が近接している区間では目立たないけれど、鉄道単独で通過するところなら如実である。
余市川の形成した谷底平野を遡る函館本線は、瀬戸瀬川の谷に出るべく稲穂嶺直下の稲穂隧道へ向けて山腹に取り付いて高度を稼ぐ。その途中の斜面に位置する銀山など、その代表例と言えまいか。肥沃な生産基盤である谷底平野を通過する道道沿いにはそこそこの集落が張り付くと云うに、1980年代までの駅前集落は今やほぼ壊滅の有様である。

馬群別の平野を見下ろして稲穂嶺の山腹を下るのは、903D<らいでん3号>。
その10月改正での幹線急行の廃止などで捻出の急行型が、ようやくこのルーラル急行にも充当されるようになっていた。
奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977 に書いた、冬旅組写真の一枚のつもりで撮ったカットだが、これも永い事塩漬けのままである。葉の落ちる季節なら車窓には木立越しの視界が開ける。運良く、気動車は淡い雪煙を巻き上げてくれた。

翻って、バス転換路線とて沿線全てで過疎が深度化したでは無い。旧羽幌線の羽幌や旧標津線の中標津、旧名寄本線の紋別、盲腸線でも旧渚滑線の滝ノ上などである。沿線人口の総数は減じているにかかわらず、1970年代と現在との空中写真を比較すれば一目瞭然にこれらでの市街地が拡大したのを見て取れる。過疎域から離れた人口を吸収したとするのが妥当だろう。
函館山線沿線でも、余市や倶知安はそれに該当しようか。つまりは生活域が集中化しつつあるのだから、その間を線で結ぶ速達輸送は鉄道の分野である。その経路間が極端な過疎域と云うなら北海道旅客鉄道が主張するように、そこの駅を廃せば良い。線路が通っていればこそ、いざとなれば駅など幾らでも再開できる。線路そのものを失っては元も子もない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f4-5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

北浜 (釧網本線) 1981

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鉄道を真っ当に撮り始めてから、最も多く降り立った駅は北浜だと記憶する。すべての記録を精査したではないが、間違いないだろう。札幌在住時に近所の北大生にお供を頼んでの最初の遠征旅行で目的地として以来、内地から道内へと向かうようになっても必ずスケジュールに組込み、ひとつの旅で2度3度と訪ねたことも在った。
道内では此処と日高本線に数例を見るだけの海原を画角背景に出来た濤沸川橋梁が存在したにせよ、他にはこれと云った立ち位置の無いにかかわらずの訪問は、そこでの基本形と云えるその画角で最良と思えるカットを初回訪問の、しかも最初のシャッタで押さえてしまっていたので、それを超えることを無意識にも自分に強いていたからだろう。→ 北浜 (釧網本線) 1967
とは云え、やはり北辺の沿岸のロケイションに気候、空気感、何より駅の佇まいに魅せられてのことにも違いなく、そこでの旅の禁欲を破っての至福の時間については前にも書いたので繰返さない。

橋梁撮影の基本形ばかりでなく、その周辺や網走方の波打ち際、それを見下ろした海岸段丘上など然程遠く無いところに幾つもの立ち位置の見つかるのも、徒歩の鉄道屋としては有り難いことだった。後には、市街地後背の段丘からそれを前景にオホーツクを眺めた画角に執心し、それこそ季節を変え、時間を変えてそこに立ったのだけれども、これもコンテに思い描いたような絵の撮れぬままに終わっている。
1984年2月改正で、既に実体は単なる客車列車だったとは云え機関車の牽く混合列車が一斉に気動車に置替られ、1985年3月改正に至って撮影可能な貨物列車も2本にまで減ってしまえば、翌86年の秋までにここでの撮影を止めてしまったからである。釧網線自体の貨物列車運行は1997年春まで維持されたのだが、それも釧路方から中斜里までであり、単行やせいぜい2両組成の気動車の往来には、撮る気の失せたのが正直なところであった。

鉄道を失った市街や集落の衰退して往く様を目撃することは確かにあるのだが、一方で滅び往くは鉄道ばかりと云う事例も数多である。ここもそのひとつでは無いかと思える。1984年2月改正での要員引揚をきっかけとして始まった駅自体の観光資源化は幾多の人々の努力の実を結び、テレビドラマや中国映画の撮影地として情報のマスに流れれば、今や観光バスの定番立寄地ともなり、それとは無縁の市街地も網走市の郊外域として然程に寂れるでも無い。網走方面が4車線に拡幅された国道244号線とは裏腹に、駅へは一日に数本の単行気動車が申し訳なさそうに着発するのみなのである。
これの無くなっても誰も困りそうになく、怨念の籠ったかのような「お札」に占拠された待合室は、そのままに「観光地」に存続するのではあるまいか。個人的には、二度と訪れたくも無い場所に成り下がった。

10メートルを上った程度の牧草地の外れから濤沸川橋梁を眺める。列車は混合634列車、網走行き。

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白樺 (深名線) 1981

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深名線の名寄-朱鞠内間は、白樺 (深名線) 1981 に記した通り、1928年に設立の雨龍電力株式会社による雨竜川の電源開発計画に始まる。この電力会社は内地資本たる王子財閥の事業子会社であり、王子製紙苫小牧工場への電力供給に加えての売電の営利事業は、軍部が膨張主義に独走を始めた時代に電力増強は国策そのものと捉えられ、1932年5月に成立の挙国一致内閣は、『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号-通称の新鉄道敷設法)に法定されながら放置されていた名寄-雨龍-羽幌間鉄道(同法別表143号)の建設を鉄道省に命じたのである。建設は電源開発計画の進行に組み入れられ、実質はほぼ雨龍電力株式会社の専用鉄道だったと見て良い。

朱鞠内-名寄間の全通は1941年10月10日と記録されるのだけれど、これはあくまで一般運輸営業の開始であり、1935年8月に着工の朱鞠内から宇津内の区間(西第一工区)は、宇津内から第二堰堤工事位置までの専用線と一体に1937年8月には竣功し、おそらくは朱鞠内場内から第一堰堤位置までの専用線も同時期には通じたと思われ、1937年11月に工事実施認可を得て12月より工事用通路などの準備工事に着手していた雨龍電力株式会社は、1938年の春から夏にこれを終え、直ちに堰堤排水路ならびに遮水壁基礎掘削や、連絡水路隧道、各竪坑横抗水槽、余水路ほかの排水路工事など基礎的工事に着工しているから、早速に建設資材運搬列車の運行されたのに違いない。
2400haあまりに及んだ湛水予定域の原生林の王子製紙による伐採も、積雪期を通じて行われ、1936年の融雪期を待って着工とされた宇津内から白樺の区間(西第二工区)も1938年4月に竣功すれば、すぐにも原木輸送に供されたはずである。

堰堤から発電設備に至る全ての工事竣功による湛水と発電開始の1943年度を勘案すれば、1941年の深名線全通開業とは電源開発関連の資材や伐採原木輸送の大方を完了してのことになる。つまりは国費で私企業に提供した線路を沿線開発目的に転用した訳である。
実際に白樺駅付近には鉄道官舎のほかにも居住区画の造成整備が行われ、造材関係者や開拓入植者が移り住み、ここに限らず沿線への開拓民には初期移民の子弟が多かったと云われている。1930年代ともなれば彼らの次男や三男が新たな土地を求めたのであろう。泥川流域の緩やかな傾斜地が開拓適地と見られ殖民区画も引かれていたのだけれど、その冷涼な気候には収穫の阻まれ、まもなくに全戸が離農と伝わる。
白樺集落の最多人口の12戸100人は、皮肉なことに全道に大きな被害をもたらした1954年の台風15号(洞爺丸台風として知られる)による雨龍山地の風倒木処理に賑わった1955年から翌年に掛けてのことであった。

ルーラル鉄道にあまり興味を持たぬながら、蒸機の去った後にも深名線の朱鞠内湖北岸区間には幾度か通っていた。二度の夏場を除けば全て積雪期ばかりを選んだのは、厚く氷結し深雪の雪原と化す湖面上にポジションを採れるゆえである。
1977年度より白樺は冬期間に営業の休止されており、北母子里に降りて、通路はそれしかない線路を積雪に足を取られながらも延々と歩いたものだった。
北母子里から6キロばかりを歩いた泥川橋梁近くの盛土区間。列車は944D、朱鞠内行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

銀山 (函館本線) 1981

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北海道を離れる前の秋口だから1970年のことだ。親父とのトムラウシ山の縦走で谷を隔てた対岸斜面へヒグマの姿を遠目に確認したことがある。一瞬こちらを垣間見たような気もしたが、クマは何を気にするでなく悠然と餌探しを続けるだけだった。
後にもその生息域とされる山域に入り込み、古い糞や樹木の傷跡、蕗の食痕に直径2メートル程に笹のなぎ倒された昨夜の寝床と思われる痕跡などを見つけてはいたものの、幸いなことに林道で鉢合わせするようなことは無かった。けれども、その存在の確かに感ずるまでに接近した(と思われる)ことは2度程ある。そして、その2度ともが銀山の小沢方、稲穂トンネル東側の標高300メートル近い位置の送電線あたりまで続いていた伐採地で、紅葉黄葉の季節のことである。
一度目にはまだ新しい糞を見つけて撤退したのだが、二度目には樹林の中からの只事でない気配に加えて、その強烈な獣臭を嗅がされては身体の震えを抑えられなかった。直前までヒグマがそこに居たに違いないのである。熊鈴を振り、携帯ラジオも大音量で鳴らしていたのだけれど、ヒグマはこちらの姿を林班界から観察していたことになる。
この事態には、その姿を見せぬことを祈りながら手早く機材を撤収し、とにかくその場を去るしかなかった。
樹木の取り払われて地表に植物の繁茂する伐採地は絶好の餌場とも云われ、近くの樹林帯に身を潜めつつそこに出没するのだろう。帰京してから調べてみれば、秋の採餌期のクマは本能から占有した餌場への侵入者を排除することも在ると書かれ、森の中からの気配は確かにそれを警戒していたに違いない。

とは云え鉄道屋である。2度の撤退は口惜しくもあり、農道まで降りて時計を確認すれば列車時刻も近く、トンネル出口付近にも伐採地の在ったのを思い出して登り直したのである。万が一には機材を放棄しての逃走を想定し、撮影済みフィルムだけはポケットに押し込み列車を待った。動悸と震えに雲台へのカメラ設置にネジ穴が定まらないのに苦笑し、どこかで聞いた「斜面上方のクマには要注意」との教えが脳裏に過れば、森奥からの物音に怯えながらのレリーズを思い出す。
銀山を発車するのは荷44列車である。

この積丹半島から支笏湖を経て噴火湾岸に至る山域における個体群は、ヒトの生活域である黒松内低地と石狩低地により、早い時期から増毛山域や夕張・日高山域の個体群と分断され、域内の開発進展に支笏湖周辺にまとまった個体の存在が推定されるものの絶滅の方向に在り、近年にはニセコ連山山域からは既に絶滅したとも云われている。銀山で近接したのは、ほぼ最後の個体だったのかも知れない。
告白すれば、ここでの恐怖は脳裏に刻まれてしまい、二度とその伐採地を登ることは無かった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

常紋信号場 (石北本線) 1981

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古い鉄道屋諸兄には特急列車の品格のようにも語られる食堂車だけれど、本来には長時間の運行に不可欠の供食設備であり、特別急行に限ったものでは無い。それが純粋に遠距離間の速達を目的に設定された時代に在っては必然に連結を要したのである。なので、組成を欠いた事例は1970年代に至るまで客車運用には無く、それの現れるのは1958年のモハ20系電車(後に151系)による東海道線<こだま>が最初であった。もっとも東阪間6時間30分運転(当初には6時間50分)には、これとて「ビジネス特急」なるコンセプトにビュフェと称された軽食堂車の組成が在り、1960年の<つばめ><はと>の同系電車化に合わせて食堂車も組み込まれたから、まったくに組成の無い特急の登場は1962年10月1日改正における<おおぞら>への釧路着発編成増強にともなう滝川-旭川間と云うことになる。(日光準急用の157系を充当した<ひびき>の例が1959年より在ることは承知しているが、東海道特急の補完目的の応急的運用としてここでは除外する。同系は当時に冷房装置も搭載していなかった)

地方幹線への特急列車設定を使命としたキハ80系気動車は、編成の分割併合運用を前提としており、現れるべくした運転ではあったものの、食堂車の無い運行時分は僅か50分程であり、しかも常識的な食事時間帯に掛からなかったゆえ旅客サーヴィス上には無視出来たのだが、1964年10月1日改正での増発列車で続いた同様の事例である<みどり>の小倉-大分間は2時間、そして<おおとり>に至っては滝川-網走間の5時間近くに及ぶものとなった。
これは<おおとり>増発にかかわる函館運転所へのキシ80の増備が3両に留まり、それの釧路編成に充当されたゆえだが、本州内には併結列車双方に連結の例の見られた中では冷遇と云って良かった。1968年10月1日改正で増発の函札間4時間半運転の<北斗>を組成編成としておきながらも、この措置は継続し、しかも1970年10月2日改正にて釧路編成が<おおぞら>に立替えられて分離されると10時間あまりの函館-網走間の全区間に供食設備を持たない特急列車となっていた。この全国的にも例を見ない運行は1972年3月15日改正にて解消されるまで続き、石北本線内への特急食堂車運行の視点からなら8年を待たされたことになり、現在に続く石北本線優等列車の「継子扱い」の始まりにも思える。
北海道の特急列車を代表したのは釧路特急の<おおぞら>であり、<おおとり>は常に2番手、3番手のポジションに甘んじていたのである。以前に此処の記事にもしたけれど、札幌駅のホーム使用方にせよ、<おおぞら>が永く「特別」な特急ホームとしての1番線ホームに着発したのに対し、<おおとり>がそこを使用するのは1985年3月改正以降の、既に「普通」のホームと化してからのことであった。

とは云え、石北本線内においては最優等列車である。煙を吐かない列車は端折っていた蒸機の撮影時代でも、これだけにはレンズを向け、後にも機関車牽引列車と並ぶメインの被写体であり続けた。
写真は常紋国境越えの25パーミルを上って往く16D<おおとり>。
手前から5両目(6号車)にキシ80を組成した堂々の10両編成。金華方からの後追いである。
出力不足ゆえの緩慢な走行も優美と見て取るのは、<おおとり>への判官贔屓と云うものだ。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8S 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

斜内 (興浜北線) 1981

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午前3時に音威子府で下り<利尻>を凍てついたホームに降りれば、向かい側に天北線始発列車の据付けられているのは有り難かった。それには運用車送込みを兼ねた興浜北線直通北見枝幸行きが組成されて、6時には斜内へ到着する。誰もいない車内に駆け込み直ぐに睡眠の続きとしたものだった。

1月半ばの北オホーツク岸の朝は冬至をひと月程過ぎたとは云え、まだ夜明け(常用薄明)に至らない未明である。外が吹雪いていようものなら、そこにひとり気動車を降りるには勇気の要った。氷点下の冷気に照度の上がらない蛍光灯の薄暗い待合所に逃げ込んで風雪を凌ぐけれど、枝幸から折返して来る列車は7時なので、神威岬の燈台へ向けてはすぐにでも歩き出さねばならない。昨夜来の積雪に地吹雪の様相の国道を急ぐのも難儀には違いなかった。
けれど、そうでもしないと、この北辺のルーラル鉄道には撮影チャンスの確保が出来なかったのである。神威岬に列車のやって来るのは、この7時の上りの後には8時・9時と12時・13時に通過する一ヤマずつに15時半の下りの計6本、日没を過ぎた17時前のそれの折り返しはもう撮れない。
午前中の3本で切り上げ、11時の宗谷バスで浜頓別へ引揚げも出来たけれど、それから稚内方面に移動したとしても今度は撮るべき列車のなくて、結局は一日を斜内山道で過ごしたのだった。
とは云っても、訪れる度に風雪の吹き荒れた神威岬である。2度の3時間近いの空白には駅待合所までの避難も考えたものの、そこへ往復するのも面倒に思え、結局は風の岩陰に身を縮めてやり過ごすのを選んでいた。
長い列車間隔の暇つぶしにはならぬにせよ、持参の断熱シートを尻に敷いて座り込み、いつものように固形燃料で湯を沸かしてコーヒーをドリップすれば、それはそれで最高の贅沢に違いなかった。ただし、低温と回り込んで炎を乱す風には、燃料の浪費と引換えである。

夕刻の近づいてようやくに強風の治まった中を北見枝幸へと走り去るのは927D列車。スノウプラウの雪掻きでようやくに線路が現れた。
これの折り返しにて浜頓別へ戻るので、手早く機材を撤収せねばならない。
ここで、丸一日を風音と波涛の響きを聴いて過ごすと、帰りの夜行で眠ろうにも耳鳴りのして困ったものだった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

追) この記事より、しばし予約投稿です。

門静 (根室本線) 1981

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撮影に出ると、例えそれが周遊乗車券の二週間から三週間は在った有効期間を目一杯に使う行程だったにせよ、ただひたすらに鉄道を撮っていた。本業との兼ね合いから短期間の渡道を繰返すようになれば尚更で、あれだけ渡道を重ねて置きながら観光地を知らない。様似までは乗っても襟裳岬には行ったことが無く、川湯に何度降りても屈斜路湖も摩周湖も見たことは無い。最も鉄道線路から離れたのは、宿泊に二股のラジウム温泉を選んだ時くらいだろうか。
撮影自体も「鉄道」と一口に云っても、正確には列車の在る鉄道光景ばかりであり、ついでの風景や旅のカットなどは当然に、鉄道情景のスナップすら満足に撮っていない。当時には、道内なら札幌でしか手に入らなかったTri-Xのコマを節約せねばならない事情もあったとは云え、今に思えば些か惜しいことをしたものだ。駅本屋(駅舎)も同様で、当初には余程に特徴的だとか、光線の陰影が良いなどの条件が無ければ撮らなかった。必ず記録を残すようになったのは無人駅の増え始めて、訪問の証の入場券が手に入らなくなって以降のことだった。

幾度か降りていた門静は道内のルーラル駅らしからぬ造りに記録していたものと思う。調べてみればそのはずで、これは戦後まもない1947年の建築であった。そのような時期に改築を要した事由は調べ得ないが、公共企業体日本国有鉄道の発足前であり、設計に施工は運輸省鉄道総局の管理下ということになる。
北海道型とも呼ばれた重厚な駅舎建築とは決別して、戦前期のモダニズムの余韻をも感じさせるのは、互い違いに設計された屋根だろうか。線路側に傾斜する屋根が一段高く掛けられ、その段差間の白い漆喰が板張り外壁とコントラストを見せるファサードの、写真では木板で塞がれてしまっているけれど、そこに通風窓を設けたところも洒落ていた。高さ方向の開口を大きく取った窓も特徴的で、上下二段に分けられたそれの上部は、当初には桟の無い一枚硝子が用いられたと思われる。これも残念ながら上部の塞がれてしまうが、竣工時にはモダンな佇まいだったことだろう。戦時下の抑制を解放したかのようなデザインは札幌鉄道局ではなく、やはり本局でのそれに思える。
砕石搬出の専用線の接続して詰める職員も多かったものか、駅務室の広く取られて堂々とした本屋だった。
これは2003年には失われてしまうのだが、1950年の厚岸を挟んでその先の糸魚沢の改築に際しては、間口を縮小しただけの同設計が流用され、こちらは現存している。但し、そのファサードの屋根の窓は採光窓だろう。
なお、写真では駅務室に休憩室窓がアルミサッシに更新されて見えるけれど、これは保温目的で窓を二重化した外窓であり、内側には本来の木製窓が健在であった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/125sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

白樺 (深名線) 1981

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1995年9月3日まで深川-名寄間で存在した深名線は、本来にこの両停車場を起終点に計画されたものでは無い。『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号-通称の新鉄道敷設法)での法定線は名寄-雨龍-羽幌間鉄道(同法別表143号)であり、これに幌加内村(当時)の有力者が政治力で実現させた深川より雨龍原野奥地、雨龍川流域への請願線へ雨龍(朱鞠内)で接続とした結果の線形に過ぎない。もっとも、建設線名を雨龍線としたこの請願線が幌加内線の名称で朱鞠内に達した1932年に、名寄-羽幌間法定線は予定線に留め置かれて調査線ですらなかった。鐵道省には、朱鞠内で区分される南部区間と北部区間とは計画はもとより建設動機、目的の異なる個別の案件だったのである。これを合わせて単一の線路名称を付与したのは両区間の大部分が通過した幌加内村への配慮とも思える。

北部、法定線区間の建設は1928年の雨龍電力株式会社設立に始まる雨龍川の電源開発計画による。沿線に入植の進展しつつあった南部幌加内線区間と異なり、予定区間はほぼ全線が人跡未踏の原生林地帯であったから、この計画のなければ建設のインセンティブに乏しい区間であった。
鐵道省は1932年に比較線として朱鞠内-美深間(37.3キロを想定)の踏査を行った上で、これを法定どおりに名寄起点を妥当として1933年度に朱鞠内までの区間を調査線とし、1934年4月1日付にて北海道建設事務所の所管線に編入、建設線名を名雨線として線路選定に着手した。
工事は、全線43キロを名寄-初茶志内-熊牛内-奥大学-白樺-宇津内-朱鞠内の6区間に分け、奥大学を境に名寄側からを東第一から東第三工区、朱鞠内側からを西第一から西第三工区として、1935年8月に朱鞠内口の西第一工区に、同年10月に東第一工区へ着工、他の工区も1936年の融雪を待って着工されている。
この作業拠点や飯場の置かれた工区区分箇所で、初茶志内に白樺と宇津内は開業に際しての停車場設置地点であろう。線路は名雨隧道出口近くで熊牛内川と交差していたから、この付近が熊牛内と推定されるも、奥大学の位置が良く分からない。おそらくは北海道帝国大学雨龍演習林の所在に由来した命名と思われるが、当時にも存在したはずの茂尻(後に母子里)の地名を用いなかったのは、母子里原野より西の原生林地帯に設けられたものだろうか。既に入植の始まっていた茂尻への飯場開設を避けたのは十分に考えられることではある。

前の年の訪問で白樺から道道638号名寄遠別線(当時に未成)とは名ばかりの林道へ至る通路を確認していたので、北母子里から延々と歩くこと無く、この朱鞠内湖の奥まった北岸を望む高台に到達していた。この夏の一日も誰一人出会わずに過ぎたのは云うまでもない。知識のあまり持たなかったせいなのか、ヒグマへの遭遇を心配した覚えも無い。
朱鞠内湖の湖畔を抜けるキハ22の単行は944D、朱鞠内行き。
それの去ってしまえば、チシマザサを揺らす風音しか聞こえない。

付記) 上記では飯場と記述したが、実態はタコ部屋労働である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1981

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細岡には幾度も降りた。数えれば塘路を上回るだろう。
遠矢から岩保木山の裾を辿り、その北端を回った線路はここで中丿沢の釧路川合流部の鳥通(トリトウシ)湿原をR=362Mの曲線を描く築堤で渡っていて、それを辺りの丘陵から容易に見下ろせたし、その背景には宮島岬まで続く釧路湿原と遥か雌阿寒・雄阿寒までを見通す景観が得られたからである。そこまでその先に一戸の開拓農家への道路の通じていたのも有り難かった。

1927年9月15日の釧網線の標茶までの開通に際して設けられた停車場は、後背地拓殖への利便を図ったものであろうが、入植は僅かに留まり、戦後まもなくに米軍の撮影した空中写真(※閲覧はダブルクリック)には、駅周辺にはおそらく開拓農家と思われる一戸に鉄道官舎が建つ様子が見て取れるのみである。達古武川や中丿沢上流への入植も数戸であったろうから、釧網線各駅中で旅客・貨物ともに扱い量は低く推移して、1973年には早くも旅客、貨物に手・小荷物を扱う営業フロントは閉じられていた。
初めてここに降りるのはこの体制の頃だが、連査閉塞の運転要員は引続き配置され、簡易委託の乗車券類販売も駅前に引き受け手の商店などの無く、これも本屋窓口を利用していたから外見は通常の駅と変わらなかった。
冬には石炭ストーブが赤々と焚かれ、駅務室で茶などを馳走になったものだったけれど、1984年2月改正での貨物列車の削減により美留和や止別とともに棒線化されて要員が引上げられ、委託販売も打切られてしまった。それでも、夏の季節に無人となった駅舎の窓を開け放し、湿原の爽快な風力に野鳥の囀りを聴いた至福の時間は忘れられない。

鶴見台と呼ばれていた現在の細岡展望台への下車駅でもあり観光客の利用もあっただろうが、出会ったことは無い。1988年にその近傍へ釧路湿原駅が置かれれば、老朽化に駅舎は93年にログキャビン風に建替えられたとは云え、全くに忘れ去られた駅である。旧上り乗降場(釧路方面行き)は植生に覆われ、そこで列車行違いが行われたとは俄に想像し難い現況ではある。

降雪を纏った湿原を往くのは681列車。斜里から釧路(操車場)への普通貨物Aである。
釧網本線貨物は、この当時の定期4往復/臨時2往復が、84年2月改正で定期3往復/臨時1往復に減ずる。混合列車も全廃されたから機関車屋には大打撃だった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

沙留 (名寄本線) 1983

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1980年に成立の『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)には、その第二条に1985年度での事業収支の均衡が規定されていた。これを受けて国鉄は、職員の7万4000人削減による35万人体制、特定地方交通線77線3,100kmの廃止、輸送の重点化と効率化による列車削減などを含む「経営改善計画」を策定、81年5月1日に運輸大臣に提出して同月21日に承認を受けた。そこには、1978年10月、1980年10月改正と縮小を続けた貨物輸送に関して、貨物扱い駅の800駅までの統合と貨車操配施設の100箇所体制が目標とされていた。国鉄はこれを1982年11月改正に繰り上げて実行したのだが、この鉄道開業以来のヤード集結輸送はこの間にも輸送量の低下しながら労働集約型の作業に依る高い輸送コストから収支を圧迫し続け、同改正を前にした10月31日に運輸省に設置の「国鉄再建緊急対策推進本部」の圧力に、それからの全面撤退を表明するに至った。旅客・荷物輸送に関しても経営改善計画のより深度化を求められ、緊急実施を要求されるも準備期間から1983年度末のダイヤ改正を以て施行とした。
これが、鉄道貨物の輸送体系に一大変革をもたらした1984年2月1日のダイヤ改正である。通常に融雪期の3月に行われる年度末の改正が、成案の決定直後に、日々に巨額の積み上がる損失に対して即効的な効果を期し、積雪期の改変に依る輸送混乱のリスクを承知で急遽繰り上げられたものである。これは当時に如何に国鉄が追いつめられていたかを示している。施行期日決定の混乱による市販時刻表の1・2月号合併発行をご記憶の向きも多かろう。
データで示せば、一般車扱の貨物列車は改正前の2449本が1669本を減じた780本に、列車設定キロは372.0千キロが295.1千キロとなった。これには19本を減らしただけの高速・専用貨物を含むから差分の76.9千キロはほぼ車扱貨物の消失分である。貨車は1982年11月改正までの33000両に加えて45000両が不要となり、余剰気味であった機関車も新たに770両が仕業を失い、運転関係区所は165箇所が廃止された(ともに旅客列車削減分を含む)。そして貨物扱駅は85年度目標の800駅を遥かに越えて460駅体制となった。

この改正を線路端で眺めていた鉄道屋としては、多様な貨車を延々と連ねた快速や普通に解結の貨物列車が一夜にして消滅し、操車場や拠点駅の側線が運用を失った貨車で溢れる様を目撃することになり、暗澹たる想いに駆られたものだった。物流ニーズと乖離した結果の必然とは承知していたけれど憂いの事由はそればかりでは無い。
国鉄の貨物輸送市場からの大幅な撤退は、土光敏夫や瀬島隆三らの名を連ねる「第二次臨時行政調査会」を隠れ蓑とした財界の意を受けた中曽根政権による、1982年9月24日の閣議決定、即ち5年以内の国鉄改革(政権の本音は解体)を含む緊急対策10項目を盾にした恫喝の結果であり、彼らを利する国民の公有財産である国鉄用地収奪の一歩だったからである。用途を失った広大な操車場用地をはじめ多くはまもなくに時の政権党に蹂躙され、続いて鉄道用地は全てが資本の手に落ちることになる。

ヤード集結型輸送からの撤退とは、とっくに廃止もしくは臨貨に格下げされていた行き止まりの盲腸線は別としても、地方ルーラル線区・区間の多くに引かれていた貨物列車のスジの消滅を意味したから、機関車屋にしてみれば大打撃に違いなく、そこに向かう動機の無くなれば、以来には一度も足を踏み入れなかった線区も多い。この名寄本線もそのひとつでる。
1982年11月改正以降も興部、紋別、元紋別(専用線)に貨物扱の残り1往復のスジが引かれていたけれど、出荷は激減して運休も多かった。前日に名寄に尋ねて運転を確認したこの日、下り1691列車は僅かな財源を牽いていたものの、期待した上りの1690列車は機関車の単行で現れた。財源の無いだけで単行機関車列車ではない。列車掛(車掌)は機関車に便乗している(はず)。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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