"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1980

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1958年6月19日に国鉄総裁あて提出された「動力近代化委員会」(1958年2月17日付総裁達第64号を以て国鉄本社に設置)の報告書には、ディーゼル機関車の将来の運転分野として、非電化線区・区間での貨物列車、電化区間より直通する客車列車、および入換用途と記されていた。そして、これを受けた工作局部内での検討により、動輪周出力1200PS程度の大型機、同800PSの中型機、同じく550PS程の小型機を開発し、動力伝達方式は液体式とすること、軸重は丙線規格への入線から14トン以下が望ましく、大型機には蒸気発生装置の搭載も考慮することなどの、おおまかな方針が立てられたのだった。
本線用大型機の目標とされた動輪周出力の1200PSとは、このクラスが将来的にも現用のD51形式蒸機を代替する出力で十分と考えられ、DD13の経験からは内燃機関の低速性能が蒸機よりも優良なことも勘案の上で導かれたのだが、それに従い開発され、形式をDD51と付された機関車は1000馬力機関の2基搭載にて同1400PSを実現していた。それは、低速域でのD51は勿論のこと、40km/h以上の中高速域で旅客機C61をも上回るものだった。
投入を急ぐべきとされた東北・信越・鹿児島・長崎線の各地方幹線には誠に相応しい性能だったのだけれど、1961年度末に出場した試作1号機は、2基の液体変速機の不協調と14tの軸重から勾配引き出し性能が計画値を大幅に下回る事態となった。貨物機とすれば致命的であり、量産計画を遅らせての設計変更がなされ、ノッチの多段化などの改良が盛り込まれたほか、2次試作機とされた2号機は軸重15t、3次試作の3・4号機には中間台車による14tと15tの軸重可変方式が取り入れられた。その改良機は1963年4月に東北線盛岡付近において、10‰勾配からの1260トン引き出しに成功、その際の粘着性能も交流電機に匹敵する摩擦係数40を記録して量産への目処を達成したのだった。(他にも軸重14tにおいても過大となったK荷重からの低規格線での速度制限問題などを生じたが、ここでは割愛する)
開発時には旅客機・貨物機を兼ねるDD51を母体に、重貨物用をDD52、除雪と貨物牽引兼用をDD53とする計画があり、後者は実現したものの、想定外の設計変更にてDD51で十分に貨物仕業への投入可能となれば、それは蒸機発生装置に替り死重を積んだ番台区分とされて前者は空番となったのである。

ここまでは内燃の識者ならとっくにご承知のことだろう。けれど、その貨物専用機が1962年当時、5動軸即ちDE50として計画されていた事実は余り知られてはいないと思われる。1969年に至って試作機の出場した軸配置をA・A・A-Bとした機関車のことでは無い。DD51のヴァリエイションとしてB-A-Bにて計画されていたのである。まずは、狩勝峠区間の長大トンネルを伴う新線への移行にて全面無煙化が必須だった根室本線が投入の想定線区であった。
12パーミル連続勾配の縦断線形で設計の狩勝新線において、将来的に計画の根室線貨物列車の1000トン牽引には4動軸機では粘着力が不足と考えられ、DD51の前後台車中間に動軸を追加し、変速機からプロペラ軸で駆動させる方式が検討されたものである。これが立ち消えとなったのは、軸重を15tとした2次試作機が前述のとおり、勾配引き出し試験に成功したことに加え、機関出力2000PSを以てしても、12パーミル勾配での1000トン牽引における均衡速度は25km/hの低速となり、何れにせよ重連仕業を避けれない事情からも、重貨物機の製作は得策で無いと判断された故であった。

清涼な風力の遍く渡り往く盛夏の狩勝新線を上るのは422列車の滝川行き。マ級を含むとは云え、客車の6両はDD51には楽な仕業だったろう。
1976年当時、根室線貨物はDD51による定数100でスジは引かれていたのだけれど、富良野-帯広間に1000トン貨物の運転はなかったと記憶する。下りの特急貨物3053だけが狩勝を重連で越えていたものの、コンテナ車12両の600トンには速度確保のためだった。(石油輸送の5472も重連だったが、これは定期回送による)
この当時も増田山はここでの定番位置になっていたものだから、敢えて外した画角を試している。昨年秋のこと、久方振りに訪れたが、周辺樹木が成長してこれは撮れなくなっていた。

趣味的にB-A-B機は誠に興味深いのだが、後にプロペラシャフトに起因する事故がDD54に引導を渡したことを思えば、仮に実現していても短命だったように思える。

=参考文献=交通技術 1963年9月号 通巻215号 (交通協力会)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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張碓-銭函 (函館本線) 1980

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国有鉄道当局が、函館札幌間列車の東室蘭・苫小牧経由運転の可能性を認識したのは、戦後の駐留軍専用列車が契機と言われている。1946年11月5日からその経路を辿った横浜-札幌間のYankee Limitedである。
戦前の鉄道省にすれば、室蘭本線とは長輪線計画時から岩見沢以北と青函航路との連絡を目的としており、沼ノ端で接続の札幌方面線が線路規格の貧弱な私設鉄道だったことからも、これを札幌連絡に用いるなど考えもしなかったのである。
その北海道鉄道(2代)札幌線が戦時買収にて国有鉄道に編入された中で、駐留軍司令部は単純に部隊が展開する千歳線沿線への直行を命じたに過ぎぬのだが、ガソリン動車が行き来するばかりだった極めて劣悪な線路へ客車を連ねた本線列車を運転してみれば、20パーミル勾配で越える峠の連続する函館山線に比して遥かに良好な運転条件を備えた新経路の「発見」に至ったのだった。

けれど、函札間連絡の優等列車は引き続き険しい峠道を経路とし、千歳線の改良を背景に1961年10月改正における道内初の特急列車が同線経由で設定されて以降、次第にこれが主要経路に位置づけられてもなお、山線側にも67年に至り特急が設定されるなど、優等列車の運転経路として双方の並立は永く続いた。
これは、偏に山線経路上に位置した小樽の存在ゆえと云えよう。60年代から此の方、札幌が一人勝ち的経済成長を遂げたとは云え、小樽の都市経済力もまた無視し得なかったのである。国鉄もさぞかし悩ましかったに違い無く、本音では全ての優等列車の室蘭・千歳線運行を希求しようとも、小樽の地理的位置が阻んだとして良い。
80年代には既に一部列車を残すのみだったけれど、道央と道北・道東方面列車でも小樽発着の時代が永く続いていた。小樽築港機関区に小樽客貨車区が苗穂や札幌区より規模の大きかったのがその証である。
1986年11月改正でようやく実現の山線優等列車全廃は小樽の札幌都市圏内包を担保にしたものだろうが、当時にはこじつけの感を否めなかったし、今にも連続した都市圏とは見えない。それゆえ3扉の電車列車ばかりの行き交う現況に、小樽にも中間の手稲にも暮らしたことのある旧い鉄道屋はいまひとつ馴染めずに居る。

風雪の石狩湾岸を往くのは、903D<らいでん3号>。この年の10月改正で岩内線直通を廃し、急行形の投入で遜色急行を脱した姿は幹線急行の装いだった。降雪の線路を音もなく、滑るように走り去る。
今は優等列車を失い、近郊型電車だけの往来には魅力も薄れたけれど、この当時には一般型から急行・特急型の気動車列車に、急行型擬きの711系電車、電機・内燃機の牽く客車列車に貨物列車と、およそ道内運用の全ての形式が見られたとして良い。それは都市近郊線では無く、まぎれもない長距離幹線鉄道の姿である。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/500sec@f4-5.6 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

名寄 (宗谷本線/名寄本線) 1980

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手稲の新興住宅地に暮らした家族が晴れて札幌市民となった頃だから、1967年か68年の冬だったと思う。札幌駅構内各所の分岐器から時折雪煙の上がるのに驚き、何事かと思った記憶が在る。構内に降りて近づく訳にも往かず、遠くから観察していると、列車の通過して進路の切り替わる度のことと知れた。推察は附いたのだが、念のためと4番/5番線ホームの苗穂方にあった輸送本部を訪ねて問えば、案の定、空気で分岐器の雪詰まりを吹き飛ばす装置であり、今冬からの設置には大変に役立っていると教えられた。引き続いて、道内各駅構内に多くが導入された「圧縮空気式分岐器除雪装置」の初見であった。

降雪地域において、分岐器の転撤部・轍叉部への雪詰まりによる不転換には、永らく人力に頼らざるを得なかったのだが、戦後に至り季節要員の不足と賃金の高騰には機械化の研究が行われ、1950年代半ばまでにはシーズ線ヒーターによる直接過熱式の電気融雪装置が上越線石打駅構内での試用を経て、東京や仙台、札幌の各鉄道管理局管内にて実用化され、国鉄本社においても「ポイントヒータ研究委員会」が各地での実績を元に1963年度に「電気融雪器標準仕様書」を策定していた。
しかしながら、当時には床板形も考案されていたものの、軌条に直接に設置する構造にかかわるメンテナンスや分岐器一組あたり2400から3400Wの電力消費に、本社内に設けられた「雪害対策分科会分岐器除雪専門部会」では、ガス赤外線式、蒸気式および圧縮空気式の各方式が検討されたのだった。前の二方式が湿雪ないし潤雪に応じ熱源を要するに対して、後者は寒冷地での乾雪を想定した空気式であり、謂わば掃雪装置とも云えるものであった。極寒地において、電熱式での融雪の再氷結や分岐部通過の振動で列車から落下した氷雪塊の詰まりなどの融雪には、より大きな熱源容量を要して、降雪を積雪のそばから吹き飛ばすのが有効と考えられたのである。

そして、1964年の基礎試験に続いて1965年1月からこれの実地検証の行われたのが、道内でも屈指の寒冷地域に位置し、構内に多数の分岐器の配された名寄駅であった。
初期装置は基本レイルとトングレイル間に埋め込まれたノズルからの5kg/㎤の圧縮空気噴射により、含水率0〜0.5%の積雪なら10センチでも20秒で完全な掃雪が確認されたけれど、少しでも含水率の高くなれば弱点を露呈していた。空気圧を7kg圧に向上、ノズルを大きくした改良型を次の降雪期に同じく名寄駅構内に設置し、10センチの湿雪でも35秒の噴射で除去を確認して実用化に至ったものである。

名寄が極寒ゆえに試験地に選ばれたのはこればかりではない。
将来の北海道新幹線車両設計の基礎データ収集のための試験列車が、1972年度より77年度まで冬期毎に運転されたのも旭川-名寄間であり、近年では281系強制振り子式気動車の試作車によるふた冬に渡る長期実用試験が記憶に新しい。

道道538号旭名寄線の名寄跨線道路橋から名寄構内の南端を見下ろす。
左端が南部引上線、その隣は名寄本線、旭川行き342Dの走り去るのが宗谷本線の上り本線であり、まもなくに隣接の下り本線に合流する。右端は深名線で、この先で分岐する天塩川製紙名寄工場への専用線と線路を共用していた。
引上線に見える分岐器には、もちろん圧縮空式分岐器除雪装置が付加されている。
この除雪装置の使用成績は実に良好であり、吹き上がる雪煙は高架となった札幌駅を含め、現在にも各所で見ることが出来る。おそらく将来もそうだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

石倉 (函館本線) 1980

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茂無部(もなしべ)川は、それを先住民族が pon-nayと呼んだとおりの細い水流である。にもかかわらず、これは茅部郡森町と二海郡八雲町との町界を為し、そこに所在する一連の集落の行政区画を分け隔てている。この水流を以て境界とするのは300年あまりを遡り、それは、松前藩が藩士への知行に替えて先住民との交易権占有を認めた「場所」の区分界としてであった。
「場所」の設置時期は明確ではないが1600年頃からと云われており、噴火湾西岸地域にはノタヲイ(野田追)場所とカヤベ(茅部)場所、少し遅れてユウラッフ(遊楽部)場所が置かれている。けれど、当初にその範囲が藩により明確にされなかったことから隣接場所との境界争いを度々に生じていたらしく、1791年と後年の記録ながら「東蝦夷道中記」には、ノタヲイ場所とカヤベ場所の境界争いが1695年に出された裁定にて、pon-nayこと現在の茂無部川に定められたと記されている。
同様の水流なら、近隣に現在の本内川や三次郎川、石倉川など幾つも存在した中での選定は、これが海岸段丘から岬状に砂浜の押し出た地形、当時に和人が稲穂岬と呼んだ位置に河口を持っていたゆえと思われる。つまりは同じような水流の存在には特定の容易だったからなのだろう。ちなみにノタヲイ場所北側に追加されたユウラッフ場所との境界はヤムクシナイ(山越内)南方の境川なのだが、ここに目立つランドマークは無かった。

さて、先の和人による稲穂岬の稲穂とは、道内に多数の事例のあるとおり先住民族のinaw(木幣)に対する当字であり、そこは彼らが神にinawを捧げた hasinaw-us-i(幣場)であった。そして、岬を回り込んだ段丘下にはコタンが所在して、これも pon-nayのコタンと呼ばれていたようである。
この集落に対する和人によるモナシベの呼称の起源は知り得なかった。pon-nayからの転訛と仮定しても、モナシ「ベ」が不明である。pon-nay-petでは「川」が重なってしまう。o-tes-petからのオトシベ(乙志部=現落部)との混用だろうか。享保年間(1716-1735)の著作とされる「蝦夷商賈聞書」にオトシ部、モナシ部の表記で記述されており、「場所」が請負制で運営されていた時代の1786年の「蝦夷草紙別録」に箱館の商人江口屋伊右衛門の請負としてモナシベ場所の名も記録されている。前述の「東蝦夷道中記」には「ノタオイ場所モナシベ運上屋あり」とノタヲイに在った運上屋がモナシベに移転したらしき記録もなされる。
18世紀後半には「場所」は先住民との交易区域から請負商人による直接の事業区域へと性格を変えつつあり、噴火湾西岸地域でも、それまで交易や漁労の度に出向いていた和人の定住化が1764年の津軽からオトシベへと移り住んだ漁家3戸を最初の事例として進行すれば、運上屋を中心に番人が常住するようになり、大規模化した漁場には番屋が開設されて先住民は労働力としての和人への隷属構造が形成されて往くのである。運上屋のモナシベ移転も、そこが中心漁場となったことを示し、従来からの住民に加えて近隣のコタンからも使役のために集められもしたであろう。19世紀半ばの松浦武四郎らの記述によれば、20軒ばかりの全てが漁家であり和人とアイヌ民族が混住していたと云う。とは云え、そこに移住した和人たちもまた幕府による経済構造の下層に位置したに違いなく、先住民とどのように共存したものか興味深い。

石倉から落部へのほぼ中間地点、湾岸のR=600曲線を旋回して往くのは104列車<ニセコ1号>。
無煙化されてしまえば、スロ62の組成を除き外観上に普通列車と大差なく、この時期に熱心に撮った記憶は無い。本来に機関車次位には、[北東航21]の隅田川区オユ10の姿が在るはずだが、遅延などの事由にて前日の418列車からの継送の出来なかったものか、護送便である[札航1]の札幌区スユ13だけが従っていた。
段丘斜面を路盤まで続くのは枕木廃材による保線用の通路。使われなくなった今もクマザサの薮に埋もれているはずである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1980

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ルペシペ(ru-pes-pe)は「道に沿うて下るもの(川)」の意であり、転じては源流へと谷を遡り分水嶺を越えて反対側の水流源流域へと至る通行路を指した。夏に越えて往く道をサクルペシペ(saku-ru-pes-pe)と云い、積雪期に通行可能となる通路をマタルペシペ(mata-ru-pes-pe)と呼んで、サクルー・マタルーとも略された。険しい分水嶺越えでの上流の道はペナルペシペ(pena-ru-pes-pe)であり、より下流の道はパナルペシペ(pana-ru-pes-pe)である。
道内には、行政区画の町名ともなった留辺蘂を始めとして、これらに由来する地名が各所に残されており、さらに多くが現在までに失われただろうから、それは無数に存在したとして良かろう。全てが先住民族の古の交易路であった。

根室本線が石狩から十勝へと脊梁山脈を越えて往く狩勝峠もルペシペであった。それは、落合から遡る空知川支流の川の名に残っている。現行の国土地理院地形図にはペイユルシエペ川と記されているが、かつてにはパンケユクルペシュペ(panke-yuk-ru-pes-pe=川下の鹿道の意か?)と呼ばれていたのである。その谷を登り詰めた位置が標高640メートル余りの鞍部となっており、十勝側はペンケシントック(penke-sittok)川の源流となる。先住民族の交通路は急斜面を降りて、その谷を下っていたのであろうが、旭川釧路間官設鉄道の最後の区間として1907年9月8日に開通した落合-帯広間線路は勾配を避けて、新内川源流斜面を曲線を描きながら迂回していた。
ここには1931年に至り国道も通ずるが、それ以前の道路はずっと南側の臥牛山と尾田朱山の鞍部、現在に北海道横断自動車道黒松内釧路線(道東自動車道)がその直下を第二狩勝トンネルで通過する標高690メートル程の峠に開削されていたのである。「石狩道路」と呼ばれたのがそれであり、落合から串内を経て広内から清水、芽室へと至る経路を1898年10月に芽室側から着工し、翌年に富良野までを開通、峠の両側のクシナイとシントクに駅逓が置かれていたと云う。
この道路の経路選定にかかわる文書(北海道殖民地選定報文-1891年)に見ると、現在のルウオマンソラップチ(ru-oman-sorapchi=奥の方に往く空知川の意)川であるルウマソラチ川を遡った支流にルペシペとの記述が在り、このルートも古くからの交通路だったと知れる。ここでのルペシペとは現在の二股川のことである。
鉄道が落合までを開通した1901年以降は、十勝原野以東地域への入植路として、またそこでの農産品を鉄道に連絡する唯一の経路として荷馬車などの行き交ったらしいが、前述の釧路線の帯広に達せば、すっかりと寂れ廃道同然となり、狩勝峠に国道の通れば尚更に打ち捨てられたのだった。現在に北電の送電線保守通路の一部は当時の開削路と云われている。
1966年9月30日に開通の狩勝新線は落合からルウオマンソラップチ川の谷を上り、隧道の位置こそ北寄りだけれど、広内を経由するなど、同じような経路を採るのは先祖帰りのようで興味深い。
なお、その線路が広内陸橋から続く盛土築堤区間で交差する(通称の斜めガード)新得市街地から広内信号場への道、この道路だけがかつての殖民区画に逆らうようにそれを斜めに貫いているのだが、これも当時の石狩道路の名残である。

雪煙を引いて広内陸橋に続く盛土築堤を駆け下りて来るのは425列車、釧路行き。
今は西側も東側も防風柵に囲まれてしまって撮れない。斜めガードは撮影位置の直ぐ後方になる。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/500sec@f4 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

落石 (根室本線) 1980

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根室郡和田村大字落石村の地名は随分と昔から知っていた。チャールズ=リンドバーグによる1931年の北太平洋横断飛行でアリューシャン列島を南下する搭乗機シリウス号を誘導し、濃霧の根室湾へと着水させた無線電信局の所在地としてである。書名は失念したが、学校図書館の蔵書に読んだものだろう。国家の大事な施設は全て東京に在るものと信じていた札幌の少年には、それが北海道の、しかも東の果てに存在するなどと信じられぬ思いだったと記憶する。
落石無線電信局は、それが唯一の長距離通信手段だった1908年に、北太平洋の大圏航路を北米西海岸と往来した船舶との通信局として設けられ、カムチャッカや千島列島、樺太の電信局との間で公衆電報業務や気象通報なども行っていた。高さ90メートルのアンテナと局舎に居住宿舎や共同浴場に娯楽施設なども擁する一角が落石岬の原野の只中に造られて、局員と家族の50人程が暮らしていたとされる。
電信とは電鍵を叩き、モールス信号を共通言語に意志疎通を図る通信方式である。それは国際通信ばかりでなく、当然に国内通信にも用いられ、全国に有線・無線の通信回線網が1900年代初頭までには形成されていたのである。

1872年に品川-横浜を開業して以来、鉄道もまた部内の相互通信を電信方式に頼り、官営からの国有鉄道も独自の電信網を整備するに至る。同年12月6日には当時の鉄道寮内に電信技士養成の電信修技所が置かれ、これが国有鉄道における職能教育制度の嚆矢とされているほどに、電信は列車運行に欠かせぬ通信手段であった。
1880年の神戸-三ノ宮間を端緒に電話の導入も始まるのだけれど、当時には長距離通信には使用出来ず、構内通話を中心にせいぜい駅間連絡の補助に用いられた程度に留まっていた。1900年代に至りタイヤー氏式タブレット閉塞装置の導入や双信閉塞器の開発により電信を用いた閉塞扱いが廃止されると、運転との直接性は失われ、電話技術の進展には事務的通信の分野からは撤退を余儀なくされたものの、まだ不安定であったそれに対しては確実性や多箇所への同時送信の利便から列車指令には電信の多用される時代の続いた。
電話による運転指令は、その信頼性の向上とともに1922年の汐留-沼津間、汐留-八王子間での施行に始まり、重要幹線から、ほどなくは全国へと普及し、電信を放逐するに至るのだが、その後も一部書面の通達に同報性・速達性を要する書類の送信には永く利用され、戦後の日本国有鉄道東京教習所では1963年まで電信技士の養成が行われていた。

落石無線電信局の業務は、それの存在を知った頃の1966年には札幌中央電報局に統合されて要員の引上げられていた。無人の通信施設としてはその後も稼働した様子なのだが、詳細は調べ得ていない。
落石に初めて降りた1971年に、午後から晴れ出した霧の彼方にアンテナ塔を確認したようにも覚えているのだけれど、どうにも記憶は曖昧になってしまった。数年後、落石漁港へと下る道の途上から、かつての局舎の廃墟を遠く眺めて位置を確認したものだった。
落石湾を見下ろす段丘上を往くのは238D、釧路行き。後追いである。
何度か落石で記事を書いているにかかわらず、いまさらに定番の画角をご容赦頂きたい。この日は、わざわざ漁港を経由して三里浜を延々と歩き、写真の急崖を登って到達したとメモにある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

門静 (根室本線) 1980

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根室本線の末端区間に残存した客車普通列車 441・444(1980年10月改正より441・442)列車は、1982年11月15日改正まで札幌運転区(当時)受持の運用番[札1]によるスハフ44-スハ45の2両で運転されていた。それは寝台車7両にスロ54の[札附1]を伴う札幌-釧路間417・418列車<狩勝>と共通運用であり、早朝に釧路駅1番線に到着した417列車からは、その基準駅寄り(道内では函館が基準駅)に組成の[札1]が前位に連結の[北東航21]のオユ10、[北東航1]のマニ36ないし60(後にマニ50)と共に切り離され、滝川方に引上げの上2番線に転線、441列車に仕立てられており、444列車の釧路着後には釧路操車場で[札附1]編成と連結する構内作業が行われていたのである。

これは、夜行<狩勝>の前身である<まりも>が、かつて根室着発で運転されていたことに由来する。
1949年9月15日のダイヤ改正にて設定の函館-釧路間急行列車は、翌1950年10月1日改正にて札幌以遠夜行区間の準急運転を廃して全区間が急行となり、1951年4月1日付で<まりも>の愛称名が与えられると、1952年9月1日からは釧路-根室間が普通列車にて延長されたのだった。手元の1956年11月19日改正時刻表には函館-根室間の全行程で21時間余りを要する運転とある。
ただし、食堂車を組成し1954年10月改正より2等寝台車(マロネロ38、後にマロネ29)を、1956年5月からは3等寝台車(ナハネ10)も連結した列車だったのだが、それらは全て釧路止まりであり、根室行きの客車行先標を掲げたのは編成中の2等車(オロ35・スロ52など)を含む座席車の4両ないし5両であった。
当時に<まりも>は基準駅寄りから優等寝台車-寝台車-優等座席車-食堂車-座席車とする編成順序の原則に忠実に組成されており、函館方に連結された上野発着の荷物車に郵便荷物車の航送車も根室まで延長された関係からも、釧路では編成から根室行きを抜き出しての再組成、上りならその逆の入換作業を伴うことになった。根室着発の車両は旅客乗車のままで構内を引き回されたのである。
列車としての函館-根室間運転は下りが1960年10月改正で、上りも翌1961年10月改正で釧路打切りとなるのだが、これは設定上に普通列車区間が分離されたに過ぎず、客車運用は繋がっていて実質には何ら変わることの無く、昼行区間の函館-札幌間を<ていね>として分離した1965年10月改正以降も同様に、基準寄りから[オユ10-マニ36(60)-寝台車7両-スロ54-スハ45-スハフ44]とされた12両から抜き出された[オユ10-マニ36(60)-スハ45-スハフ44]の組成が441・444列車として根室に達したのだった。444は時刻が立替られてしまったのだが、441では引続き乗り通しが可能であった。運用が函館客貨車区から札幌運転区持ちとなりスハ45-スハフ44に[札1]、寝台車組成に[札附1]の運用番の与えられたのも同改正からのことである。
根室線系統急行の愛称が<狩勝>に統一されて以降の1973年10月改正で、[札附1]の根室方に組成の[札1]を基準寄り側に変更(同時に[札附1]のスロ54もその基準寄りとした)、郵便・荷物車の次位として釧路での組成変更の入換を解消したのが冒頭に記した姿であった。

写真は、南岸低気圧のもたらした激しい降雪の厚岸湾岸を往く442列車。門静の疎らな集落の背後に見えるはずの画角の既出はお詫びする。
後追いの後部はスハ45である。前記のごとく[札1]の[札附1]前位側連結によりスハフ44が荷物車次位となったためであり、これには尾灯を装備したスハ45が限定運用されていた。
付記すれば、1981年10月改正で再び<まりも>に戻されたこの運用に14系座席車の投入された1982年11月改正以降も、航送車の連結には釧路客貨車区に持替として客車運用の存続し、[釧2]の運用番にて同区のスハ45やスハフ44、オハ47、スハフ42が使用された。運用を失った札幌区からの転入は無く、[釧1]の421・422列車の編成減車による捻出分の充当であった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f2.8 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

厚岸 (根室本線) 1980

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オランダ王国東インド会社の艦船カストリクム号が1643年の夏に18日間を停泊した海岸は何処だったのだろうか。厚岸町は厚岸湾とするが、艦船の停泊するような位置となれば、やはり現在のバラサン地区と云うことになるのだろうか。
ノイアサックと名乗る長のもとに暮らす住民達から、オランダ人はその地名を「アッキス」と聞き取っている。この先住民族アイヌの発音はアッケウシィ(at-ke-us-i)であり、それは寄港地の地点名では無く、おそらくは彼らの暮らす土地全体を指したものであろう。この時期には松前藩による交易場(アイヌ民族には被収奪の場)たるアツケシ場所も開かれており、そこには交易船も寄港していたと云う。

時代は下って幕末の1855年、函館を開港した徳川幕府は北方警備から東蝦夷地を再び直轄領とし、津軽・南部・秋田・仙台藩の奥羽地域各藩に分担支配させ警備を命じた。アツケシ領を支配した仙台藩が1859年に作成した支配地絵図「仙台藩管轄厚岸領図」によれば、それはクスリ領、子モロ領と境を接して、現在の厚岸町苫多地内から根室市昆布盛付近に至る海岸線と内陸部を含む広大な地域であり、そこにはアイヌ民族から聞き取ったと思われる多数の地名が記されるけれど、アツケシの名は見られない。現在に厚岸駅の置かれる市街地位置はタンタカ、厚岸湖の湖口はタンタカ岬と記される。その対岸がノテト岬と在り、1804年建立の国泰寺は当然に記載されるが、そこまでの海岸線にもホントやヘトマイ、ホニコイにバラサンの地名のあるのみである。
そして、この時代までにアツケシ領の中心地は浜中湾西岸とも見て取れ、番屋の他に多くのアイヌ集落が描かれている。そこは1700年代初頭にアツケシ場所を分割してキイタップ場所の置かれた位置であり、交易拠点から変じた好漁場だったのだろう。
これに対して、仙台藩や開拓使初期に支配を命ぜられた佐賀藩も国泰寺の所在したバラサンや、かって会所の置かれたホント地区を本拠とし、やがては開拓使の出張所も置かれて、ここに市街地の発達する契機となり、時代の進めばアツケシ領の行政中心として厚岸を名乗ったのである。

湖岸を北上する線路沿いには保線用なのか通路が続いて、左手の丘陵が湿原に尽きる手前でそこへと分け入る細道に繋がっていた。それを辿ればやがては北に景観の開けて湿原の線路を見渡せたけれど、背景の国道をどうにも処理出来ずに諦めたものだった。
仕方なく再び線路まで降りて写真機をセットするが、今度は自分の付けた足跡が写り込む。
列車は404D<狩勝4号>。後追いである。
キハ56/27の2両組成は釧路からキロ26を含む附属編成5両を増結して札幌へと向かっていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f5.6 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

弟子屈 (釧網本線) 1980

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北海道旅客鉄道の公表する2014年7月1日現在のデータでは有人駅が111駅とある。
交通新聞社北海道支社発行の「道内時刻表」に「JR北海道のおもな駅」として窓口営業時間と共に掲載されている107駅はマルス・総販システム端末の設置駅、即ちは「みどりの窓口」の開かれている駅なのだが、同社には他にそれの設備されない、鷲別、石狩月形、清水沢の営業フロント駅が存在し、それを加算しているのである。111駅とするのは、駅に直結した大規模休養施設内に窓口を持つトマムを加えているからだろう。それの駅総数453駅に対する25パーセントを意外に多いと見る向きもあろうが、その内45駅は札幌・函館の都市圏に集中して、その他の広大な道内には66駅が散在すれば鉄道の運営には十分とも読め、やはり鉄道の時代の終わったことを思い知らされるばかりである。
さらには、111駅中での直営駅となれば73駅である。発足直後に国鉄精算事業団から追加募集を行った後の1987年6月1日現在の従業員数10450名の内、駅への配属者は24.3パーセントに当る2540名であった。これは5年後の1992年4月1日現在には、8080名中の1640名に激減し、割合も20.9パーセントに低下する。暫定的に経営を引き継いだ地方交通線4線の廃止もあったけれど、この間に駅営業体制と勤務形態の見直しが相当に進んだことが伺える。
発足から四半世紀を経過した2012年4月1日現在においての駅配属者は987名にまで減るものの、全従業員も4724名となって、20.8パーセントには余り変化は無い。それでも日本国有鉄道における全国平均のそれは永らく20パーセント台後半で推移していたから、4人に一人の駅勤務は5人に一人となって鉄道事業における駅の地位は低下したと知れる。(※従業員データは交通年鑑各年版による)

摩周と云われるとカルデラ湖を思い浮かべてしまうが、弟子屈は本屋の改築を機会に1990年11月20日より摩周を名乗っている。確かに摩周湖は全域が弟子屈町に所在し、そこへのアプローチ駅には違いないのだが、古い鉄道屋には違和感が残る。
とまれ、現在には阿寒地域の観光基点のみならず、標茶に在った運転上の機能をも奪って線内の拠点駅である。当然に北海道旅客鉄道に直営され、標茶から川湯温泉までを管理する駅長が配置されている。汎用端末による簡易型CTCでの線内運行管理業務も在るはずなのだが、営業窓口は16時30分には閉じられる。フロント業務とは全くに切り分けられているのだろう。但し、それら人員は統計上に追分や石狩当別のごとく運輸営業所扱いとはされていないようである。

この1980年当時は貨物扱いの廃止が予定されていた頃である。それは1982年秋まで先延ばしされるのだが、この頃でも構内に使用車は疎か停泊車の姿も見えず、既に到着発送とも扱いはごく僅かだったと思われる。とは云え、旅客扱いに線内の中心駅であったには相違なく、線内駅に唯一残った駅弁立売り(駅前の青木商店弁当部による)も、待合室での立食い蕎麦営業も行われていた。深い屋根の堂々とした駅舎を持ち、傾斜を合わせたホーム上屋の規模は幹線駅のそれを思わせたものだった。
上り本線に停まるのは633Dの釧路行き。
この旅客跨線橋からの眺めは現在にもあまり変わらない。駅舎の改築されても左に見えるホーム上屋は維持されている。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f11 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落合 (根室本線) 1980

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1868年に幕府より政権移譲を受けた新政権にとって国家の近代化は焦眉の急であった。そのため、学術・技術の全ての分野に渡り諸外国の指導を仰いで、多くの外国人技術者が招聘された。「お雇い外国人」と呼ばれた一群である。主には米英独からの技術導入にて始まった官設の鉄道事業にも1888年までの20年間に670人余りが雇い入れられていた。日本人技術者や実務者の養成もまた彼らに課した職務であり、1870年3月に民部省鉄道掛の建築師長に就任したエドモンド=モレールは、着任早々に技術官養成の教導局を発足させた。これは1877年に工技生養成所に発展し、鉄道部内から選抜された24名に対して、数学、測量、製図、力学、土木工学、機械工学、鉄道運輸の7科目が教授されたのである。
勿論、授業には鉄道に特有の停車場設計の含まれ、その卒業生により停車場本屋、即ち駅舎の設計・建築は1880年代後半には多くが日本人技術者の手に委ねられることになった。以来に日本の国有鉄道は一貫して建築に関わる部署を内包し続け、大都市駅や特殊な建築等の例外はあるにせよ、自らがそれを設計・建築したのであった。
鉄道敷設が法定化され、幹線建設の進む1890年代に至ると多くが設けられる中小の停車場に対して早くも標準化の動きがあり、1898年に逓信省鉄道局は「停車場定規」を通達し、その中で鉄道工事設計参考図面に「停車場之図」を示した。これには第壱級から第五級停車場までの等級が定められ、本屋のみならず旅客便所に跨線橋や石炭小屋、貨物庫などから官舎に至るまでの停車場建築物全ての標準図面が提示されており、実際にこれに従って地方駅の建設が進められた。現在まで続く日本の鉄道駅の様式の定まったのが、この時代と云えよう。

一方で北海道内の官設の鉄道事業は、1869年7月設置の開拓使による事業開始以来、それの廃止された1882年2月8日より1886年1月26日に北海道庁が成立までの期間を除き、1905年4月1日の逓信省鉄道作業局への移管まで拓殖行政に組み込まれて運営され、その敷設事業も岩見沢旭川間鉄道建設に際して1896年5月8日付で置かれた臨時北海道鉄道敷設部が拓殖務省に、続いては内務省に管掌されたから、内部の技術者に人的交流のあったにせよ、逓信省の所管であった内地の鉄道とは些か異なる経緯を辿った。後に北海道型とも称された独特の駅舎建築は、米国技術を背景に気候風土ばかりでなく、この経緯にも源流のあるものと考えている。
1905年に管掌変更を受けた逓信省外局の鉄道作業局は、北海道内の計画路線に対しては、その輸送規模から1906年に「北海道線停車場定規」を別に示しながらも、異なっていた規格の統一上から本屋など建築物については先の通達の図面に準拠を方針としたのだが、様式までを定めることなく、これにて北海道型駅舎の原型の成立したものだろう。

1901年9月3日に北海道官設鉄道十勝線の終端駅として置かれた落合は、1897年11月2日付にて臨時北海道鉄道敷設部が鉄道部として北海道庁組織に組み込まれた時期の設計・建築である。
将来の狩勝峠越えの補機解結駅として機関庫を含む広い構内と運転上の重要駅には、マンサード屋根こそ採用されなかったが、重厚な北海道らしい本屋が建てられた。当時、ここに集落は存在せず、落合は駅名が先行し後に地名となったものである。
現在、Web上などには当時の本屋が100年を経て残ると記述されるのだが、近年に旧待合室部分が撤去されるなど原型が改変された上に、外壁・屋根などの更新も幾度か行われただろうから歴史的建築物としての価値は失われている。
写真は、往時の姿を伝えていた頃、その撤去されてしまった待合室へ正面出入口である。ファサードの三角屋根には質素ながらも装飾が施されている。他には見られぬそれには、石狩東端の停車場としてどのような意味の込められたのだろうか。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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