"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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箸別仮乗降場 (留萠本線) 1979

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国有財産を無償で承継した民営鉄道会社とは、随分と勝手なことをするものだ。留萠本線の末端区間の話である。
降雪やら風雪の気候が大幅に変動したでなく、沿線の地形が大改変されたでも無い。増毛港を内陸へと連絡するこの区間は、1世紀に及ばんとする歳月を開業以来の位置に線形を維持して休むことなく客貨を輸送し続けてきた。
春先の融雪期に雪崩の危険箇所が存在すると云うならば、それはその間に継続的に潜在したに違い無い。記録に当たってはいないけれど、時には実際に線路を塞いだことだろう。それでも、可能な限り速やかに復旧され、線区の機能が留め置かれたことなど無い。
ところがである。北海道旅客鉄道は乗客への危険を事由に、いとも簡単に春先の数週間の運行を放棄してしまうのだった。先の事由など建前だけのこととは言うまでもなく、1日に12往復を運行するバス交通への旅客の転移促進が本音である。かくて、輸送密度を39人キロまで落とした(落とせた)この区間は、沿線自治体は勿論、住民からの差したる反対もなく、2016年12月4日を最終運行とする念願が成就する。
全くに恐れ入った「公共企業」だけれど、そんな策を弄さずとも、沿線はとっくにこの線路を見放していよう。

2015年3月改正ダイヤでの、ここでの列車設定は6往復である。
この6往復の運行とは、もともとに輸送需要の小さい線区・区間における列車頻度の国有鉄道以来のスタンダードと云える。1980年代半ばの時刻表を開いてみれば、渚滑線も湧網線も興浜南・北線も羽幌線の中間区間も判で押したように6往復運行であった。これら線区も実態はより需要が縮小していたのであろうが、運行を削減したところで、車両の運用や乗務員の行路が当該線区に特化したものでは無い限りに、線区経営の改善には然程に寄与するものではなく、公共輸送機関との自覚が踏み止ませるのが、営業時間帯の2から3時間に1本運行となる6往復だったのだろう。
北海道旅客鉄道もそれを踏襲したと見えるものの、代替機関の未発達な時代ならいざ知らず、移動の自由が権利と理解されるよう変化した生活意識の下では、とても満足の往く頻度では無い。運営側と利用者では、6往復を巡って意識に乖離を生じざるを得ない。12往復の道路交通が並走しているとなれば選択先は明らかである。

とは云え、そのバス運行も1970年当時には24往復を数えていた。留萠駅前基準で6時台から19時台まで30分毎の運行である。公共交通として十分な頻度の、その後の40年での半減は、この間の増毛町の人口動態と符合する。1万人から5千人に、これも半数を減らしているのである。
対しての鉄道は札幌直通を含む8往復からの削減である。6往復は、やはり踏み止まったとして良さそうで、それは北海道旅客鉄道も受け継いだはずの「国民の国鉄」の微かな残滓に思える。

増毛へは1979年と翌年の二度訪れただけに終わった。ここの他には目ぼしい立ち位置が見つからず、それを撮って仕舞えば再訪するまでも無かったのである。
これは、既出のカットの前コマで、後追いの763D。増毛方に組成はキユニ21、1形式2両のみの希少車だった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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抜海 (宗谷本線) 1979

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天塩線の建設は宗谷線の音威子府を起点に順次北進したのだが、稚内(当時)から兜沼の区間だけは1924年6月25日に天塩北線として終点側から先行した。南線は問寒別までを開業した時点であり、工期の短縮目的には違いない。とは云え、宗谷線は1922年に稚内へと達していたから、それと連絡して道央へ、本州への輸送路が確保され、早速に勇知川流域の入植地から芋の道外出荷が記録されている。
この当時に宗谷郡域の日本海側で古くから和人の定住が進み、集落の体を為していたのは抜海くらいだったのだが、天塩線はこの海岸集落に立ち寄ること無くクトネベツ原野を経路とし、ここに設けられた停車場が直線距離で2キロばかり先の抜海を名乗ったのだった。原野を西に弧を描くような平面線形は、勇知川流域とを隔てる丘陵への取付けゆえかも知れぬが、停車場位置を少しでも集落へと近づけんとする配慮だったとも思える。
当然に原野の只中の駅であった。これは原野が酪農地帯と開発された後年にも、そこに孤立するには変わり無い。

札幌からの夜行<利尻>は終着を目の前にした南稚内で10分近くを停まった。そのシーンを記憶していないのものの、郵便荷物車からの取り下ろしのためだったと思われ、ここでの扱いは稚内では無く南駅だったのだろう。冬なら、まだ夜明け前なのだけれど、ホームに降り夜空を仰いで悪天と判断すれば、やがて向かい側2番線にやって来る単行気動車で抜海に戻っていた。稚内まで北上する事由の積雪を纏った利尻島が望めぬ場合の代替地点にしていたのである。なので抜海に降りたのは冬ばかりで、夏場の記憶は無い。
つい先ほど<利尻>で通過した車窓には駅長事務室に灯りのあるだけだった駅は、待合室も煌煌と明るく、点火されたばかりのストーヴでは薪がパチパチと弾けていたものだった。夜の白み始めるまでそこで過ごし、7時半に通過するキハ56/27組成の<宗谷>に間に合うよう駅を望む南側の丘に上るのが定番であった。勿論、本命はその1時間後にやって来る324列車だったのだから、それまでを暖かい待合室で過ごしても良かったのだけれども、特急設定の無かった宗谷本線では6両編成の気動車急行でもそれに匹敵する被写体に違いなかったのである。
この丘からの遠望には、もうひとつ保険が掛けてあり、背景に雄大に浮かび上がるはずの野寒布岬への宗谷丘陵が見通せないなら、写真機を東に振って牧草地の雪原を収めれば良かった。

写真は、その保険カット。雪原を往くのは324列車、旭川行きである。
おそらく此の日のことと思うが、駅で昼の上下貨物が運休と知らされ、有り余る時間潰しに抜海集落までを歩いた。雪の漁港風景の記憶は失われているものの、その近くの民家庭先に繋がれていた飼い犬のことは良く覚えている。分厚い体毛に覆われた大きな丸っこい犬は、姿に愛嬌もあれば、やたらと人懐っこい。犬と戯れる見知らぬ旅人を認めて庭に出て来た飼い主は「それでも樺太犬」と云い、名前は「ブク」だと笑った。なるほど、名は体なのだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

釧路 (根室本線) 1979

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釧路駅前から徒歩でも間近に位置する幸町公園に「北海道鉄道千哩記念塔」なる碑が建てられている。永年の鉄道屋とは云え、この手の鉄道碑を巡る趣味は持ち合わせていないので訪ねたことは無い。
最近には、折からの「鉄道ブーム」とやらに俄鉄道リポータからの報告がWebに散見されるのだけれど、自ら調べたでもない受け売りの情報が語られ、それの誤っているばかりか、肝心のことが記されていないので書いておきたい。

この碑は、1896年に北海道庁臨時北海道敷設部の技師となり、1898年11月5日にそれが鉄道部に改組されると部長に就任した工学博士田辺朔郎が、1896年公布の「北海道鉄道敷設法」を根拠に計画・建設を推進した道内鉄道網が、1880年の幌内鉄道以来に延長1000マイルを越えて発展したことを回顧し、退道後に奉職した京都帝国大学の学長をも辞し、各地の鉄道建設事業を指導していた1927年3月に私費にて建立したものである。田辺本人は、自らが経路選定に原生林を踏査した多くの体験の中でも難行であった狩勝峠(彼がその命名者でもある)への建立を希望したようであるが、事由不明ながらそれの叶わず、これも彼が道東での鉄道起点に選定したことで発展した釧路市が誘致を申し出たのだった。
市内鶴ヶ岱の春採湖を見下ろす丘の一角に、1000年の風雪に耐えることを願って石材で築かれた塔壁の四方には、自筆による「明治15年11月、手宮-幌内開通から始まり、明治45年9月、釧路-旭川間開通、そして大正5年5月延達千哩」との碑文や、当時の釧路市長からの寄稿を刻んだノルウェイ産エメラルドパールの額石が埋込まれていた。そして、その塔中には当時の記録資料や文献が銅製の箱に収めた上で安置されたのだった。
ところが、戦後1958年に至り、釧路市立東中学校(現幣舞中学校)の拡張により解体・撤去されてしまう。碑石は保管され、1963年には同じ鶴ヶ岱に再建の叶うのだけれど、肝心の銅箱に収められた文献は関係者らが勝手に持ち帰ったものか、散逸し行方不明であり、その責任追及もなされぬままである。鉄道史研究には貴重な一次資料であったろうに、文化に敬意を払わぬ行政により失われたとして良い。
再建されたは良いけれど画竜点睛を欠き、やがて忘れ去られ草に埋もれるままの記念塔は、釧路鉄道管理局の手により、鉄道開業95周年にあたる1967年10月14日の「鉄道記念の日」に記念事業の一環として釧路駅前広場の一角に移設されるも、ここでも後の広場の整備・拡張のため、現在の幸町公園に再々度移設されたのである。
そこが、かつての初代釧路駅、1917年からの初代浜釧路駅構内の一部だったとするのが事由らしいが、より正しくは1952年度まで釧路機関区が所在した位置である(1953年3月14日付にて移転)。
なお、建立当時の石積の形態や土台の造作は移設の都度に失われている。特に1963年の再建時のものはオリジナルと似ても似つかない。

さて、碑文で田辺は延長1000マイル到達を「大正5年5月」とし、実際にこの1916年5月29日には札幌を始め函館や釧路でも「北海道鐵道千哩祝賀會」の開催されたのだが、この日を以て1000マイルに達した事実は無く、この時期・日程の選ばれた事由は調べ得なかった。
確かに、前年の11月1日付での湧別軽便線下生田原(現安国)-社名淵(後の開盛)間開通にて、官設・国有鉄道線は972マイルとなり、私設鉄道も12月1日の登別温泉軌道の開業にて30マイルに達して、これを合わせれば1000マイルを記録していたものの、国有線のみでは、1916年11月1日に開業の宗谷線小頓別-中頓別間と11月21日の湧別軽便線社名淵(後の開盛)-下湧別(後の湧別)間を待たねばならなかった。
当時の中外商業新報もその1916年5月29日付社説にて、これを祝賀するとしながらも「厳格なる計算に於ては一千哩に達せざるに拘わらず、北鉄一千哩と称し祝賀会を開く、余輩其意の在る所を知るに苦む」と書いている。
なお、開業延長実績は「北海道國有鐵道建設誌」(1915年鉄道省北海道建設事務所)所載のデータに依った。

1917年12月1日に、当時の市街地外れの原野に移転の釧路停車場は、貨物扱いの旧駅存置を前提にしていたから、極めて単純な通過駅の配線だったと思われ、それは雄別鉄道の接続や浜釧路の仕訳線不足により側線を増設しての貨車操配の時代を経たにせよ、広々と端正な構内の佇まいだった。配線の整理されてしまった現在には余計にそれを感ずる。
上り本線から根室方に進出して往く列車は1413D<ノサップ3号>。
1975年に構内を横断していた踏切に替えて架設の巴人道跨線橋は、今でも構内を見渡すビューポイントであろう。側線にはキハ12や21も見える。キハ12は池田機関区からの疎開車。勿論に全て廃車前提の休車中の姿である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec.@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

鬼鹿 (羽幌線) 1979

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1596年から1614年の慶長年間に、松前氏によって開かれたルルモッペ(rur-mo-ot-pe)場所、それはマシケ(mas-ke)からトママイ(toma-oma-i)を含む広大な区域だったのだが、幾つかは所在したはずの交易拠点のひとつが、先住民族がポンオニウシカペッ(pon-o-ni-us-ka-pet)と呼んだ現在の鬼鹿広富地区付近とされる。
「森の中の川」を意味する地名の通りに今の番屋の沢川にあたる原生林からの流れの在って、交易箇所の置かれる程であるから、水流沿いには彼らの小集落(コタン)の散在していたことだろう。

和人は、オニウシカペッをオニシカと聞き取り、交易の度に出向いたとは云え、その進出地の証には1714年に弁天社を置き、1786年には厳島神社も創建、和人地名としての鬼鹿の起こりである。
場所が知行地としての交易区域から請負制を経て商人の経営する漁場へと変容し、1840年に漁民の出稼ぎが許可され、そのまま越年しての定住者の現れる以降に和人が居住地としたのもポンオニウシカペッであった。この時代まではそこが鬼鹿だったのである。
沿岸への定住者の増加には、そこが鬼鹿村と、より南側の今の鬼鹿秀浦付近の集落が天登雁村と呼ばれるようになり、それは開拓使の成立以降にも引継がれて1880年には、その境界近くであった天登雁村字番屋の沢に両村の戸長役場が設けられた。此の時、鬼鹿村 62戸/892人、天登雁村 31戸/667人、と記録にある。

一方で北へ1キロばかり、現在の鬼鹿中心市街地の一帯はオンネオニウシカペッ(onne-o-ni-us-ka-pet)と呼ばれた大きい方の水流の河口付近にあたり、幕末期に至って漁場の開かれ、オンネオニシカは鬼鹿と区別して温寧と呼ばれていた。オンネオニウシカペッが今の温寧川である。
ここへも以降に定住者の増えていたものと思われ、1881年に両村の連合小学校が開かれ、そこの海岸に杭を打って和船の繋留地とすれば、1884年には戸長役場も移転し、やがては中心集落となって往ったのである。そして、1906年4月1日付での鬼鹿村への二級町村制施行には天登雁村を併合、役場が置かれた。ただし、地名がポンオニシカの留萠郡鬼鹿村大字鬼鹿村字鬼鹿から移動することは無く、そこは永らく鬼鹿村字温寧のままであった。
この際の鬼鹿村の人口は戸口571戸に2981人と在り、その氏神であった厳島神社も1908年に旧天登雁村から温寧市街の後背海岸段丘上に遷座していた。

以前に 山越 (函館本線) 1999 に書いたように、明治政権以来の戦前の時代、国家管理の下、国民に天皇への隷属を強いる装置として機能した神社神道の歴史には個人的に複雑な想いがあるのだけれど、鳥居の向こうに神域を拝めば参詣せずには居られない。
鬼鹿へと幾度も通った1970年代当時の厳島神社への参道は、整備された現在と異なり羽幌線線路の築堤に刻まれた細道だったと記憶するけれど、冬にも参拝する人の踏締め道となっていて高台の境内には容易に上れたものだった。流造りの社殿に参り、そこを横切り続く雪原に踏み込んで往くと眼下の温寧市街地から日本海を一望として、ポイントの選定に困ればそこに立ったものだった。
いつも積雪期ばかりで、その雪原に何が埋もれていたものか知る由もなかったのだが、改めて調べるとかつての農地が放棄されて笹の原野に還った位置だった様子である。どおりで平坦だったはずだ。
市街地を往くのは853D、幌延行き。冬季の訪問で、この日は珍しくも晴天に恵まれた。
背後の海岸には後に第二種漁港として鬼鹿漁港が築造され、この景観は失われている。何より、そこに鉄路は無い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

銭函 (函館本線) 1979

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少しばかり言い過ぎだろうが、銭函の海岸には「仕方なく」立っていたのもしばしばだった。
宿代の節約に道東・道北とを夜行急行を宿替わりに往き来した旅で、必然的に一日おきに巡って来る札幌行きへの乗車では、途中深川、滝川や岩見沢に降り立つ手は幾らでも在ったのだけれど、旅程の積んでくると体力的に未明の下車の辛くなり、ついつい終着まで乗り通していた。なので、その日の行き先は室蘭線や山線方面としてコンテを選択しても、太平洋岸の濃霧だったり、後志の吹雪予報には銭函を代替地としていたのである。確かにそれには悪天のカットが多く、天候がそぐわなければ近場でやり過ごす腹だった訳だ。

国鉄バスの西春香バス停から至近だった民家地先の畑作地からの恵比寿岩俯瞰は勿論、そこまで急坂を降りて行って張碓から銭函へと波打ち際を歩いたり、銭函近く浜番屋や漁師小屋を何とか絵にしようとしていた時期もあるものの、あまり満足の往くカットは撮れなかったと覚えている。
1994年3月の改正で機関車列車が朝の1往復のみとなって以来には、全くに足の遠のいてしまっている区間だが、ロングシートの電車で小樽までを往復して見れば、朝里を中心とした沿線や国道沿いに住宅の増えた現在の方が足場の確保は容易に感じた。いかんせん、やって来るのがその都市向け電車列車ばかりには写欲の湧かない。

銭函近くの石の海岸をゆっくりと走り抜けるのは、121列車の旭川行き。
函館運転所の普通列車運用がスハ32を主体としていた時代である。蒸機に牽かれるならよいけれど、電機にはどうにも不釣り合いと感じたものだった。
石の汀線には、いつに築造されたものか、木杭を打ち込み石を積んだだけの原初的消波工が点在していた。それの続いた位置の護岸に近年の改修は見られなかったから、有効に機能していたのだろう。
この区間は風雪に抑止の取られることは在っても浪害はあまり聞かない。急激に深度を増す海底地形や石の海岸には波浪も勢力を殺がれるのだろうか。不粋な消波ブロックの山積みとされないのは幸だった。それは今でも変わらない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塘路 (釧網本線) 1979

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随分と前のことだが、誘われて栗山町の蔵元、小林酒造の「呑みきり」に参加させてもらったことがある。「呑みきり」とは寒造りして貯蔵した酒を初めて開封、具体的には貯蔵タンクの上呑みと呼ばれる栓を開けて取り出して試飲し、出来映えと熟成を確認するもので、大抵は気温の上がり始める6月終わりから7月始めを選んで行われる。酒蔵にとっては夏の定例の「行事」ではあるが、実際に全ての貯蔵タンクの酒を調べ、その後の貯蔵計画や製品化計画を立案する基礎データを得る「実務」でもある。近年には「行事」的には行わなくなった蔵も多いが、かつてには故郷に帰っていた杜氏や蔵人集も再集合し、醸造試験場からの来賓を迎え、得意先も招待しての利き酒会に懇親会と称しての宴を開くのだった。小林酒造には「実務」の方に不肖ながら参加させて頂き、酒呑みとしては天にも昇らん体験であった。

前置きが長くなってしまったが、その際に立ち寄った栗山町の、確か公民館だったと思うのだが、そこに飾られていた魚拓には度肝を抜かれたのである。それには、戦前に夕張川で捕獲されたと云う、体長の2メートルに迫ろうかと云うイトウなのだった(*1)。このサケ科最大の河川遡上回遊魚は、石狩川水系のここにも棲息していたのである。
かつて、イトウは渡島半島南部と日高地方、道北日本海岸の一部を除く全道の水系に棲息して、奥羽地域北部太平洋岸にも採捕の記録が残る。その棲息分布は湿原地域、海跡湖沼の存在に一致していた。同じく降海性のサケとの相違は、およそ20年程と云われる寿命に成魚となってから幾度もの多回産卵にあり、その生活史の全ては明らかとなっていないが、流れの緩やかな湿原河川の中流から下流の汽水域を含む湖沼や塩水の沿岸を回遊して過ごし、春期の産卵に上流域へと遡上すると推測されている。
1960年代から急速に進んだ流域の農地化に宅地化では、蛇行していた河川が排水路として直線化され、それによる河畔林に淵と瀬、氾濫原の消失は産卵環境の悪化を招き(*2)、多くの水系で絶滅へと向かってしまった。開発の手の入り易い平坦地河川を棲息域としていたのが致命的だったとも云える。

広大と云われる釧路湿原も釧路川本流下流域での農地や宅地の開発のみならず、支流のオソベツ川、ヌマオロ川、コッタロ川、久著呂川、オンネナイ川、雪裡川、幌呂川で大規模な改修が進んだことで棲息数は激減した。1981年を境として急激な落込みを示した釣果報告は、1970年代に本格化して1980年代にかけて行われた上記施工時期と符合し、20年を経た2003年の調査では繁殖可能な親魚の個体数は20尾程度と推定されるに至った。
まさに絶滅寸前であり、採捕したそれら親魚からの人工採卵、孵化による稚魚放流も続けられていると聞くけれど、既に悪化した河川環境に稚魚の生存率の悪く、雄で4から6年、雌では6から8年と極めて遅い成熟魚齢にも阻まれて、個体数の回復には至っていない。それでも、河川名の明らかにされない僅かに残された産卵適地には年毎に十数箇所の産卵床が確認されているようではある。
本多勝一氏による1993年の著作「釧路湿原」には、戦前期に塘路で暮らした開拓民の話として、釧路川本流で子供達の背丈よりも大きなイトウと泳いだ話が記録されていた。透明で遥かに水量の豊かだった流れには、そんな魚体が当たり前に悠々と回遊していたのである。
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(*1) 記されていた捕獲年月は失念してしまったのだが、それは夕張川が新河道に切替えられる1936年以前と思う。新河道には落差4メートルの清幌床止が設置され、イトウは遡上出来なかったろう。
(*2) 淵から瀬への移行地点、俗に渕尻とか瀬頭と云われる位置の小石礫の水底を産卵床とする。

位置の数度の既出をお詫びするが、これも「塘路の崖」である。
エオルト沼、マクント沼、ポント沼から塘路湖まで、低い冬の光線に光る氷結した湿原を見渡す。これでも南中時刻まで30分も無い時間帯である。
眼下を通過して往くのは611D<しれとこ3号>。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

増毛 (留萠本線) 1979

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単線区間における線路容量増加の抜本策は、閉塞区間の分割、即ち停車場(一般的には信号場)の新設となるが、複線区間においては、それまでの双信閉塞方式に替えての自動閉塞方式の導入であった。連続した軌道回路により検知される列車自体により自動的に閉塞および信号現示の行われるこの方式は、駅間軌道回路を幾つかに分割すれば複数の閉塞区間設定を可能としたのである。後には、列車回数の増加した単線区間に対しても、通票閉塞器操作の煩瑣やそれゆえの錯誤の防止による保安度の向上、また閉塞作業に関わる時間の省略による運転時分短縮、通票授受時の通過列車の速度低下回避、ダイヤ混乱時の回復力確保などの事由から導入が進んだ。

自動信号による自動閉塞方式は1904年の甲武鉄道(現中央本線の一部)御茶ノ水-新宿間での施行を最初の事例として、続いては複線化の進んでいた東海道/山陽本線へと整備されて往った。
北海道内における導入は1936年度の小樽-南小樽間を嚆矢としている。以後に施行日の確認出来たのは1940年10月7日付での室蘭-東室蘭間、1942年7月20日の朝里-桑園間に留まるが、1937年に勃発した日中戦争にともなう「陸運転換」政策下においての運炭列車増発に対応して、この当時までの複線使用区間に設備されて往き、同時期に線増の進められた区間については併せて施工の行われて、戦争終結の1945年度までに函館本線の函館-桔梗間、小樽-砂川間、および室蘭本線の本輪西・室蘭-敷生(現竹浦)間が自動閉塞施行区間となっていた。
なお、複線区間ではあるが、石倉-野田追(現野田生)間にはタブレット式通票閉塞が、苫小牧-追分間では双信閉塞が維持された模様である。

戦後、1950年代始めまでに戦前の輸送水準を回復した国鉄は、1957年度を初年度とした第一次五カ年計画、それを打切っての1961年度からの第二次五か年計画を通じて、幹線の近代化と輸送力増強を推進した。主には線増に電気運転化であるが、それの及ばぬ単線線区に対しても冒頭に記した事由から閉塞方式の近代化、即ち信号の自動化が進められた。
北海道線においても、1970年度末までに既施行区間に加えて、函館本線、室蘭本線、千歳線の全線に根室本線の東釧路までの区間、及び宗谷本線の旭川-新旭川間が対象線区・区間となり、順次着工された。道内における自動閉塞施行の計画はこれが全てであり、旅客も然り乍ら貨物輸送の幹線が選ばれたことになる。この時点で長万部-小樽間が含まれたのは、そこに多くの優等旅客列車が運転されていたゆえであろう。旭川-新旭川間は当時に単線ながら宗谷・石北線列車の輻輳に応じた措置であった。

1960年代を通じて進展した計画は、函館本線の長万部-小樽間を中止とした上で1969年度の帯広-厚内間の完成を以て打切られる。残る厚内-東釧路間は落合-釧路間へのCTC制御導入と同時施行と計画の改められたためであった。
自動信号による自動閉塞式を大前提とするCTC制御の導入経過については別項に譲るが、1971年8月に使用開始した同区間の後、道内の自動信号化は10年近くの沈黙を経た1980年代にそれを伴って急速に進み、特に、民営化に際して経営基盤の脆弱とされた北海道地区に対し、国鉄は閑散線区への電子符号照査式閉塞導入の餞別とも云えた投資を実行し自動化はそこにも及んだ。
この1986年11月改正時点で廃止予定の地方交通線を除けば、江差線木古内-江差間、札沼線石狩月形-新十津川間、留萠本線全線、石勝線新夕張-夕張間、深名線全線、函館本線砂川-上砂川間、宗谷本線南稚内-稚内間が非自動閉塞線区・区間として残るのみとなっていた。

写真は、増毛港漁港区域(通称-増毛漁港)を車窓にする735D。
留萠本線の留萠-増毛間は、1921年11月5日の開通時以来には礼受・舎熊を閉塞境界とした票券閉塞式が施行されたと推定するのだが、1978年10月改正での貨物列車廃止にて続行運転の無くなれば、既に礼受・舎熊が棒線化されていたこともあって全区間を一閉塞の通票式に切替えられた。閉塞の扱い駅は留萠のみであり、列車は通票を携行したままに折返す。これは増毛が棒線となった現在まで30年来変わらない。
ご承知の通り、前記の非自動区間の内、江差線、深名線、函館上砂川支線は既に無く、留萌線の深川-留萌間と石勝線新夕張-夕張間、南稚内-稚内間には北海道旅客鉄道により自動信号が導入される現状となっている。
なお、道内における年度別自動閉塞方式導入区間を WebSite にまとめている。興味の在ればご覧頂きたい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

函館ドック前 (函館市交通局・本線) 1979

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函館市は観光都市のイメイジで語られることが多いけれど、かつて四方に伸びていた市内電車に見た市街地は、どこか殺風景な印象がある。函館観光の核心に位置する末広町停留所から十字街、坂道と趣の在る街並の続いた宝来町から谷地頭の函館山山麓地域を離れれば、倉庫街に工場地帯を抜けて北へと向かった本線は勿論、湯の川線、東雲線も広い道幅に住宅の市街地を淡々と走ったものだった。
函館山の麓と云えど基坂を過ぎれば街並の様相の一転して、そこは函館ドックを中心とした工場労働者の町であった。

戦前期から函館の都市経済を支えたのは、北洋に船団を送り出した水産業に、もうひとつの柱が函館ドックとその下請企業による造船・機械関連産業であった。1980年代以降に市勢の振るわぬのは、その基幹産業の時を同じくした衰退によるところが大きい。市域人口も80年の345165人(国勢調査集計値)を最大に漸減を続けている。
函館市史には、1977年当時に市内の造船関連企業への就業人口は6200人に達し、函館ドックには従業員(所謂本工)の2300人に下請関連も同じく2300人が働いたと在る。市内電車はその通勤輸送に賑わい、昼夜の勤務に午前0時近くまで運行が行われた。
入舟町、弁天町、大町には労働者を当て込んだ飲食店が進出し、そこには函館で「もっきり」と呼ばれた立ち呑み屋が数多営業していた。
立ち呑みと云えば近年には鉄道会社の駅ビル商売のひとつとなって、洒落た店舗に待ち合わせスポットにも使われているらしいが、本来には文字通り土間にカウンターと簡易なテーブルの在るだけの安酒場である。金欠の写真学生時代には渋谷の桜坂下にも在ったそこへ冷や酒を呷りに通ったものだった。
これの始まりは酒屋、現在に云う酒販店である。酒がガラス製の瓶に封入されて売られるようになるのは1900年代以降のことで、その永い酒造史の中では至極最近に属する。それ以前には徳利を下げて量り売りを買いに往くものだったのである。そして徳利の無ければ、その場で呑みもした。これが転じて古の酒屋は呑み処でもあった。
ガラス製一升瓶の登場以後にも、この習慣は廃れること無く続き立ち呑み屋に連なる。函館の「もっきり」はこれであった。飲食店の営業許可を得ている訳ではないから、酒は現状売りしか出来ない。あくまで酒販であり、本来には燗酒の提供も御法度である。肴も調理品はあり得ず、袋入りの乾き物を客が購入してその場で封を切ると云う形態を取る。「もっきり」は一合枡など酒器一杯ずつの量り売りを「盛り切り」と称したのが語源とされる。

1960年代の最盛期には店に入り切れぬ程に客の押し寄せた「もっきり」であったが、1973年の第一次オイルショック以降に造船業界は長期の不況に見舞われ、函館ドックもまた縮小を余儀なくされて1984年には来島ドックの坪内敏雄に再建を託するまでに至る。関連の下請企業の相次ぐ倒産には「もっきり」の転廃業も続いた。最後の一軒となった千代盛商会の廃業は1999年12月と市史には在った。よくぞ生き存えたとの印象だが、函館どつくも一応の再建を果たしたその頃に、立ち呑み屋は最早時代の間尺に合わなくなっていたと云うところだろう。

まもなく終点函館ドック前(現函館どつく前)に到着する500形515は3系統に運用中。柏木町からガス会社前を経由しての系統だった。
市内電車を撮ると、どうしても街を横目で覗き込むような視線になってしまう。きっと、そこの生活者では無いからだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f4 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

遠軽 (石北本線) 1979

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遠軽の駅前通りは1970年代の初めまで、正面の駅舎に向けてその末端が急傾斜していた。しかも、それは土道だったと記憶する。これを掘り下げて平坦化し、駅へ階段で達するように改められたのは1973年か74年のことと思う。70年頃から進められた市街地幹線道路の舗装工事に追随して、国鉄が駐車スペースの取れる駅前広場の整備に動いたものだろう。この際、その一角に貨物積卸場の奥側に在った国鉄の物資部が店舗を新築、移転していた。駅前広場に店舗を構える物資部など全国的に希有な事例なので良く覚えている。

第一次世界大戦当時の1918年、その影響による米価高騰を端に全国で頻発した「米騒動」と呼ばれた市民争議を切っ掛けに、鉄道省は国有鉄道職員家族の生活不安払拭を目的に「国有鉄道共済組合購買部規程」(1918年8月達1043号)を整備した。共済組合資金の運用により、高騰する生活物資を安価に提供する事業であり、その組織末端の配給拠点として全国に設けられたのが配給所であった。販売所としなかったのは購買代金は全て給与からの天引きにより、そこで現金の支払いのなかったためであろうか。当初には個所数も少なく、そこから列車にて正に配給された様子であるが、次第に数を増やし遠軽への開設は1936年11月と記録される。1932年に石北線が全通し、遠軽機関庫が本庫へと昇格して、ここに暮らす職員と家族の増加に対応したものだろう。正式には共済組合購買部札幌地方部野付牛支部遠軽配給所であった。支部は鉄道の外部組織とされたから配給所は現業機関の遊休施設等が利用されるのが通例で、ここでは貨物扱い用地の奥まった一角の建物が転用された。

アジア太平洋戦争の戦時下においては肝心の物資の不足する中、職場での勤務用物資の需給と職員への糧末供給が主要業務と変質せざるを得ず、従来規定を廃して「国有鉄道共済組合物資部規程」(1944年4月達253号)を制定、全国一体の組織から鉄道局や管理部門毎の運営・管理とされた。
戦後に公共企業体日本国有鉄道が発足し、1948年に全ての国家公務員の福利厚生に関わる『国家公務員共済組合法』(1948年6月30日法律第69号)が施行されると、国有鉄道の共済組合もそれへの準拠を明文化する必要の生じて、新たに「国鉄共済組合物資部規程」(1950年8月総裁達422号)が制定された。これは、鉄道管理局や管理部門毎の運営を継承し乍らも、職員福利厚生の共済組合運営に回帰し深度化させるものであった。これにて、遠軽の配給所は旭川鉄道管理局長に所管される国鉄共済組合物資部旭川支部に属した。
この改正での配給所に関わる変化は、戦時下にやむなく黙認していた現金取引を正規に認めたことであった。これは配給所が次第に商品を並べた店舗化する布石となったのだった。

遠軽配給所の「国鉄ストア」と称しての駅前広場移転は1974年1月である。60年代の日本経済における高度成長は、職員家族にも生活様式や消費行動の変化をもたらし、スーパーマーケットの進出や大手流通資本による全国展開などにより物資部の利用率は年々に低下しつつあり、共済組合も利用回復とそれらに対抗し得る経営の近代化が課題となっていたのである。旧店舗でも受け入れていた一般からの利用を全面的に認めての駅前店舗進出は、それの一環であった。

冬の澄んだ西日の差し込む遠軽構内。冬至から間もないこの時期、それは願望岩の向こうに没する。暖冬で、まるで融雪期のような様相を見せていた。
駅前で営業していた国鉄ストアは、旅行者には無縁で興味本位に冷やかしただけと覚えている。
1987年の北海道旅客鉄道の発足に際しては、旧旭川鉄道管理局管内の共済組合事業を承継する「きょくてつ産業」が設立され、きょくてつストア遠軽店として営業を継続したが、売上の不振から1996年10月20日を以て廃業した。赤い屋根の建物も撤去され、跡地は駐車場となっている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/125sec@f11 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1979

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1920年代末の冬の季節、帝都東京の省線各駅に「スキーは北海道へ」とのポスターが掲出されていた。鉄道省は、この1920年代を通じてスキーへの誘客を冬期増収施策とし、それは上信越や奥羽方面、関西からならば北陸・山陰方面を加えた各地域への送客を主体としていたが、ここに遠く北海道が登場したのである。
当時、スキーの余暇旅行に北海道へ向かい得た層は確かに限られたけれど、銀嶺の世界に大衆を誘い出すに北海道の持つ北国のイメイジは十分に戦略的であった。しかも、鉄道が戦前の黄金時代を迎えつつ在ったこの時期の鉄道省のポスターは実にモダンで洒落ていた。
とは云え、倶知安を中心とした今に云うニセコ地域を筆頭に、北海道にスキー客受け入れ準備の整いつつあったのも確かであった。

国内におけるスキーの事始めはともあれ、それの普及と大衆化に鉄道省は大きな役目を果たした。この舶来のスポーツの冬期増収策としての活用には、その切っ掛けに些か面白いエピソードが伝わる。
1917年か18年の冬のことである。鉄道省の運輸局旅客課に勤務する職員のひとりが、公務か私用であったかは明らかでないが信越方面への旅行の際、新潟県高田ではじめてスキーに接する。軍隊が教練し、郵便配達人が雪上の移動手段として用い、子供らが遊びに興じる姿を物珍しく眺めるが、一番の驚愕はそれを目的とした東京からの学生達の存在だったと云う。
とすれば、この職員は承知していなかったことになるが、1912年に鐵道院の外郭団体として設立のジャパントゥリストビューローは、早い時期から外国人観光客誘致や在日外国人の冬期旅行にスキー・スケートを提案し、併せてこれの国内への普及運動にも熱心であり(*1)、1910年代後半には在京の学生を中心に信越あるいは奥羽方面に向かう一群が少数ながら現れていたのである。東京帝国大学、女子高等師範学校、早稲田大学、慶応大学などのスキー部は皆この時期に創部されている。
この、まだか細い冬期独特の旅客流動を新たな増収対象と捉えた旅客課の提案は上層部の承諾を得て、スキーへの誘客は鉄道省の方針となるに至ったのである。鉄道省は戦前の鉄道黄金時代に踏み出したこの時期、従来からの観梅、観楓、観瀑、観月など花鳥風月や神社仏閣を対象とした誘客に加えての資源を求めており、それにも合致したとも云える。ただし、鑑賞物では無く旅客自らの参加を求められるスキーにはそれの普及と人口拡大が不可欠であり、必然的にプロモウションはそれまでのポスター掲示などの誘客宣伝に割引運賃設定などの営業施策だけに留まらず、スキー大衆化のありとあらゆる施策を鉄道省自らが展開したとして過言ではない。それが、この時代にほぼ陸上交通を独占していた鉄道の運輸収入に直結したゆえである。
鉄道省とスキーとの関連に送客着地としての北海道での施策の概略を、以下数回に分けて記述する。(この項 倶知安 (函館本線) 1977 に続く)
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(*1) 一例を挙げれば、1918年1月に在京大学の学生約500名を集めての先覚者による講演と映画上映の「スキー講演会」、および一般大衆を対象に、スキー用具の展示に実地講習、ポスター・写真展示の「スキー博覧会」を主催している。これは帝都におけるスキーコンヴェンションの先駆けであった。博覧会は4日間の会期に2800名の入場と記録される。また、月刊で発行の協会広報誌『Tourist』には、毎号にスキー関連記事を掲載していた。

真狩山(シリベシ山)を背景に峠へと向かうのは、荷41列車。
冬の北4線踏切には、道路の閉ざされてしまうゆえ線路歩きしか到達手段はなかった。随分としばらく、ここに立っては居ないけれど、今も同じだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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