"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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釧路 (根室本線) 1978

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釧路駅前を左手へ線路沿いの道路を進めば、程なく旧釧路川に架橋の旭橋に達し、そこから川上方に根室本線の釧路川橋梁を眺められた。駅至近のお手軽な位置でもあり、幾度も立っているのだけれど、その分だけ雨傘(釧路なら霧傘と云うべきか)だったり、時間的に動きのとれない場合の代替地だったりで、あまりまともな写真は残っていない。

1917年12月1日の釧路本線の厚岸までの延長に際して架橋の鉄道橋に対して、旭橋はずっと時代を下った戦後の、しかも高度成長期とされる時代にあたる1966年10月12日の開通である。この永き間、釧路川左岸から業務市街地へは1889年から所在の幣舞橋(最初の架橋時には愛北橋)もしくは1933年12月に架橋の久寿里橋まで迂回せねばならなかったから、当時の都市計画を閲覧したではないけれど、増大した市街地交通量には3本目の架橋を要したには違い無い。
戦後間も無い1947年の空中写真に農地の広がる左岸側の段丘上部は、1961年には宅地への転用が始まっていた様子が見て取れ、架橋直後の1967年となれば街路の整備が進み僅かばかりの畑作地を残すのみと成っている。旭橋により中心街へのアクセスが格段に向上した証左であろう。
その架橋位置は材木町の町名が示す通り川沿いには原木の野積場が続いていたところであるが、同じ1966年の9月1日には上流右岸の釧路村(当時)と跨る位置に釧路水面貯木場の供用が始まったこともあり、旭橋たもとの鉄道橋までのそれの移転した跡地河岸へは1967年には岸壁を伴った施設が建てられていた。そこには漁船の係留も見てはいるけれど、裏手には釧路臨港鉄道からの側線(専用線?)が引き込まれており、何らかの(おそらくは肥料関係の)工場だったと思うものの、施設名は失念している。岸壁が魚揚場では無かったのは確かである。鉄道橋の北側に接しては、戦前からの艀製作所である天寧造船所が健在で、そのせいか艀も多くが繋がれていたと記憶する。
釧路駅前から至近ながらのこの場末的河岸風景は、中小製造業が市街地に同居し都市河川が輸送路であった時代の当たり前の景観ながら、1967年5月25日付で成長する都市外縁の工業地域である西港に注ぐ新釧路川を釧路川とし、ここは旧釧路川と改められるなどの動きとも無関係では無かったようにも思える。前年には岩保木水門が完全に閉じられ、確かに釧路川とは分断された存在となっていた。

釧路川橋梁を渡るのは終着間近の混合444列車。
場末感をより一層に深めていたのが、鉄道橋直下の水面に朽ちるままに係留された木造の曳舟に筏だった。1967年の空中写真に認められず、70年夏に橋梁を通過した際には見ているから、その間に繋がれて放棄されたものだろう。
とは云え、写真の鉄道屋には格好の写材であり、旭橋に立つ度にそれを画角に取り込んでいたのが、この頃のネガに見て取れる。

旭橋はおよそ30年を経過した1995年に架け替えられ、その際に左岸の旧国道44号への接続ばかりでなく、緩やかな勾配にて城山の台地に取り付き、材木山の手トンネルでそこの住宅街に直接に達するところとなった。雑然とした工場や土場が全て取り払われた河岸は、北海道開発局による釧路川水系の治水事業を兼ねた河川整備計画(ふるさとの川整備事業)にて遊歩道の続く河岸公園化が進んでいる。
単行の気動車に趣味の悪い観光列車ばかりには、久しく此処に立っていないけれど、その無理矢理感溢れる余所往きの景観はとても居心地が悪そうだ。ただ、2001年4月5日に至って、ここが再び釧路川の名称を取り戻したことは喜ばしい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8 1/500sec@f5.6-8 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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美留和 (釧網本線) 1978

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航空機で道内入りし、専ら貸し自動車で巡られる諸兄には無縁の話しであるが、列車と徒歩の鉄道屋に、最近の道内は動きにくくて仕方がない。
要因は何といっても夜行急行の廃止による長距離移動の制約である。それの宿代わりはさておいても、夜間移動に加えて、未明から早朝に南稚内や生田原に網走、音別や釧路に降り立てたはずが、前日の撮影行動時間を削って午後から夕刻の特急列車を選ばねばならなくなった。必然に現地への投宿も余儀なくされる。せっかくに全道全線のオープンチケットを利用しても、かつての均一周遊乗車券の時代のごとくに、それを存分に活用するなど端から諦めるしかない。代替に夜行バスなど選択すれば、それこそ余分な負担になってしまう。
一般の用務客としても、札幌から旭川や帯広あたりならまだしも、釧路に函館ともなれば朝の特急では午前中を車内で浪費するのだから、夜行需要など低下のしようも無かろうと思えるのだけれど、現実には夜間移動は嫌われて、旅客は前泊を選択するか、自家用車もしくは当日朝の航空機へと逸走したのだった。
旧い鉄道屋は、早起きして遠い飛行場を目指すくらいなら、前日夜から車内で一杯やり乍ら過ごす方が余程マシと考えるのだが、もはや少数派と云うことである。結局のところ、泣く泣く夜行バス料金を別払いしたり、夕刻の斜光線に後ろ髪を引かれつつ特急の客となるしかなくなった。

もうひとつには、釧網本線の使命だったはずの太平洋岸とオホーツク岸との回廊機能の喪失である。
単行の気動車に場違いな観光列車ばかりとなった、この線を撮る気は全くに失せているのだが、ならばと、朝方で「用事」の終わってしまう石北線から日中を潰しての根室線方面への抜け道としようにも網走で足止めされる。勿論、年間の多くの期間で日中のスジの1本が緑-川湯温泉間を直通することは承知しているけれど、所詮に定期運行では無い。キハ54形内燃車の優れた動力性能を以てして、現行の各駅停車はかつての急行列車並みの所要時分で釧網間を到達すると云うに、使えぬのでは話しにならない。
意図的なダイヤ編成には違いないから、先に書いた「喪失」は「放棄」とするべきなのだろう。
釧路への速達には、結局のところ北見からの都市間バスに頼らざるを得ず、ここでも鉄道のオープンチケットが無駄になる。

一面に霧氷の朝を往く604D<大雪6号>。この釧路からの札幌行き急行はキロ26を含む5両組成で釧網本線を走破していた。<しれとこ2号>を併結した釧路-標茶間なら7両編成を組む堂々の幹線列車だった。
阿寒湖に摩周湖の内水面を控えた美留和付近は、放出される水蒸気に冷え込めば霧氷の生成され易い区間とは、以前にも書いた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

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徒歩の鉄道屋なのだが、撮影とのタイミングや運行頻度などからバス便が利用可能なら勿論乗っていた、とは以前の記事に書いたことがある。
均一周遊乗車券が使えた国鉄バスは機会の多く、洞爺駅前とエントモ岬に出入りした有珠中学校前と若生町停留所間に加え、豊浦市街とも往き来した伊達本線(豊浦駅-伊達紋別駅間)や、石狩湾に恵比寿岩を見下ろす西春香停留所と小樽築港駅なり銭函停留所(駅まではやや距離が在った)の間の札樽線(札幌駅-小樽駅間)には良く乗っていたし、北広島駅(東側に在った旧駅舎)と江別駅を直行出来た空知線(江別駅-恵庭駅間)は、椴山あたりと新夕張川橋梁との掛け持ちに便利だったと記憶する。
民間バスも、函館線普通列車の時隔を埋めた函館バス長万部線の森駅-長万部駅間ではあちらこちらで乗降し、時隔の空き過ぎていた旭川から塩狩峠へは道北バス名寄線の急行便を使っていた。
都内や近郊都市圏では確保されない定時性から決して乗りたいとは思わないバス便だけれど、列車で移動するばかりの旅先なら、渋滞の無い道路の法定速度に忠実な淡々とした走りには沿道の車窓を楽しませてもらったものだった。

倶知安峠を越えての倶知安駅と小沢駅の間もバスの運行頻度の高い区間だった。倶知安と岩内を結んだニセコバスの小沢線に加えては、同社による昆布温泉・ニセコ駅前-小樽ターミナル間路線も小沢駅前を経路としたからである。1978年12月号の「弘済会の道内時刻表」に拾えば小沢線の16往復に小樽連絡の9往復運行が見て取れる。但し、小樽方面は急行便であり、倶知安峠途上のワイス温泉やら峠下停留所で乗降しようと思えば小沢線に限られた。

雪晴れの強い陽光に峠下地区の山脚を往くのは、苗穂機関区キハ22の運用だった902D<らいでん2号>。
小沢で岩内行きを4941Dとして切り離せば、この区間は倶知安から普通列車の522D長万部往きに併結となる1両と倶知安止まり1両の2両組成が所定なのだが、スキーシーズンのこの日は蘭越までの<ニセコスキー>1両を併結しての3両編成であった。<らいでん>とは別に与えられた列車名称も、これが江別発着だった当時にはそれなりに意味も在っただろうが、札幌発着の一体運用となれば<らいでん>の増結車と何ら変わりは無い。愛称は誘客上の事由にて残されたものだろう。編成の真ん中の1両が当該臨時運用に当たる。
この日は函館からの41列車を未明の小沢に捨て、ワイス付近で峠を下る11D<北海>を捉えてから、小沢線のバスにて倶知安側の峠下停留所に降りたのだった。勿論、北四線踏切を目指しての目論みだが、肝心なことを忘れていたのである。冬期に除雪されないその位置まで、息を切らしての40分あまりのラッセルと覚えている。写真はその途上からのもの。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

黄金 (室蘭本線) 1978

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木骨に鉄骨のレンガ構造や石造り、はたまた導入されて間もないコンクリート建築など幾多の例外のあるにせよ、開業以来に鉄道駅舎の原型は日本家屋に従った土壁に木造であり、古くは外壁仕上げの全てを板張とした質素な建築であった。構造材としての土壁も省略して内壁も板張とした例も数多在ったろう。
それは鉄道の創業期に建設を主導した技術者達の路盤や隧道、橋梁など半永久構造物に比重を置き、いずれ改築を要する駅舎は簡素な建築とした方針に依っていたのである。背景には資金的に駅舎などの建築物に十分な投資の出来なかったこともあった。
けれど、幾多の変遷を経て鉄道の監督・運営機構が鉄道院に一本化される時代となって、駅はその機能に標準的設計も固定し、地域のランドマークとも集客拠点としても理解されれば、主要駅や都市代表駅などに意匠を凝らした欧風様式の登場し、一般の小駅にも頑丈な漆喰壁などが併用されるようになる。木造小屋の延長然とした造りからは、或る程度の耐用年数の考慮され始めたゆえであり、当時に建築水準の上がっていた一般家屋に揃えられたとも云えよう。建築史には疎いのだが、それは高価な上に調合にノウハウを要した漆喰壁に、建材として調合漆喰の商品化も後押ししたのではないかと思う。
総板張による駅舎の終末は鉄道省成立期の1920年代のことで、その半ばを境に新築事例は無くなって往く。道内では、当時に建設の進められた天塩線(現宗谷本線音威子府以北)に渚滑線、相生線、そして長輪東線(現室蘭本線東室蘭-伊達紋別間)の例が最後であった。

1925年8月20日に東室蘭(当時に東輪西)から伊達紋別までを開業した長輪東線上では、黄金に稀府が該当して、資料の見つからなかったのだが1957年の改築前の本輪西も同様だったと推定する。道内における最後の総板張での新築駅舎群であった。設計に施工も一括して共通に行われたものと思われ、これらには下見板張にも腰板だけは羽目板張とした例の多い中で全外壁仕上げに下見板張の採用が特徴的であった。
余談ながら、1944年10月1日に信号場として開設の豊住の、その際に建築されたと思われる本屋も再びに総下見板張りであった。但し、これは物資不足の戦時下での例外である。

北海道南部の比較的温暖な気候である噴火湾北岸は、早い時期に開拓入植の進展した地域である。けれども、ずっと時代の下った1947年に米軍が撮影した空中写真に見ても、当時の伊達町東端にあたる黄金蕊駅周辺は、鉄道官舎の目立つ他は集落の体を成していない寒村に見える。内陸側も農地の広がる中に僅かばかりの農家が散在するのみである。
とは云え、入植地に駅の開業すれば農産物の安定的出荷や生活物資の到着に機能したには違いなく、多くの駅員の詰めたであろう駅本屋は、まもなくに鉄道省工務局が通達することになる「小停車場本屋標準図」(1930年10月6日工達第875号)に示された、床面積200平方メートル、間口20メートルの「四號型」を先取りするような幹線上の小駅らしい規模だった。ここに始めて降りた1970年代半ばには鉄道弘済会の売店も開かれていたから待合室も広かったと覚えている。

人気の無い静かな海辺を駆け抜けて往くのは、旭川と釧路への3D<おおぞら3号>。キロ80の次位にキシ80の無いのは旭川編成である。1977年8月7日に噴火した有珠山は、未だに噴煙を上げていた。
非日常の日常を撮りたいなどと戯言を申し立てていた頃である。テーマに選んだ被写体が漁師小屋(船番屋)と云うのが失敗だったのだろう。道内の海沿いをあちらこちらと彷徨いても、結局のところ思うような写真は撮れなかった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

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鉄道における除雪作業はおおまかに本線除雪と構内除雪に大別される。当然のことだが、両者は全くに異なる作業である。
1955年当時の札幌鉄道管理局管内を例に採れば、およそ3200万立方メートルと推定された年間の総除雪量に対して本線が2400万立方メートル、構内は25パーセントの800万立方メートルなのだが、その人力による作業量と経費は本線除雪を遥かに上回ったのである。
中間小停車場であれ、構内には本線や側線の線路ばかりでなく、本屋に旅客上屋、貨物積卸施設に保管施設から用品庫など付随建物に宿舎までが所在し、拠点ともなればそれらの規模の大きくなる上に構内も広く、各現業機関の建物も所在して、機関区や客車区などのあろうものなら除雪すべき巨大な屋根が加わった。
構内除雪の本線除雪との最大の相違は、多くの場合で雪捨作業をともなうところにある。構内とは云え線路除雪なら分岐器の中掻など人の手に依らざるを得ない場面はあるにせよ、本線同様にラッセル式やジョルダン式の雪搔車が使え、集雪にも掻寄式やジョルダン式、場合によってはブルドーザが用いられたが、それの無蓋車を代用した雪捨車への積込に取卸には多大な人力を要したのである。勿論、積込みにはスクリュウ式の搔込ヘッドにベルトコンベヤの付帯したようなスノウローダなる機械も持込まれ、無蓋車床面に敷いた巨大なゴム製チューブに圧縮空気を送込んで膨らませ、上に積込まれた雪を押しのける方式の取卸も考案されてはいたものの(後に「空気袋式雪捨装置」と命名された)、主力は人力であった。
線路外では貨物積卸場などならブルドーザやローダなどの道路建設機械が流用されたが、旅客・貨物上屋を含む構内建築物の屋根やその周囲は、機関区の大屋根であれ人力に頼らざるを得ず、これにも雪捨が付帯した。
札鉄局管内では人力除雪の88パーセントは構内除雪であり、さらにその半分は雪捨作業に関わるとされていた。例を挙げれば、15両組成の雪捨編成の運行には約60人の作業者を要したと云う。

この状況を劇的に改善するのが、この50年代にも既に青森や長岡で実証されていた流雪溝なのだが、道内への導入は、水利権の絡む水源に排水先の確保も然り乍ら、水路凍結の不安に雪と水を分離して排出する流末処理の問題など寒冷地特有の事情から進まず、海水を使用する小樽築港と水源が至近に得られた夕張と胆振線支線の脇方のみに留まっていた。
しかしながら、冬毎の膨大な作業量に慢性的人手不足の解消は喫緊の案件ともなり、1961年度予算にて倶知安と滝川構内への整備が決定されたのだった。
滝川の設備は1960年3月から稼働した北海道電力滝川火力発電所の温排水の利用により水温18度を確保して上記の諸問題を回避したけれど、倶知安の河川から導水管を敷設しての取水は道内で最初の事例となっていた。
1961年12月に完成し稼働を開始したそれは、1.5キロほど離れた硫黄川よりの導水を水深30センチに秒速90センチの流速にて通水する勾配1.8パーセントの設計であった。
流速の確保には凍結や投入雪の滞留も無く、順調に稼働した模様であるが、寒冷に融解しきれずシャーベット状となる排水処理には課題も残されたようである。流雪溝は1967年度に岩見沢の広大な構内にも設備されるが、流末処理の問題は1969年度の苗穂構内への設備に際して実用化された定置式スノーメルターの開発を待たねばならなかった。これは流末に設置の融雪槽から網目のベルトコンベヤにて雪のみを分離し温熱にて融雪する仕組みであった。

=参考資料=
除雪作業と除雪機械 : 札幌鉄道管理局施設部 田中行男(交通技術通巻118号/1956年4月号に掲載)

倶知安の雪は深い。年間累計降雪量の1954年からの記録は10メートルから15メートルで推移し、最新の10年間平均も13.1メートルである。(札幌管区気象台データによる)
北4線踏切への取付け道路は冬季に除雪されず、線路伝いに達するほか無かった。朝の内には見えていた真狩山も層雲の彼方となれば周囲の丘を目指したのだけれど、深々とした新雪には数メートルを上るのに30分近くを要したと覚えている。
峠を下って来たのは104列車<ニセコ1号>。思いのほか速度の遅くてブラしそこねのカットでもある。
お陰で機関車に続く車両を確認出来るのだが、次位が根室から継送の[北東航21]のオユ10、冷房化直後の姿である。その後に札幌-隅田川間護送便[札航1]のスユ13と続く。この上り<ニセコ>に荷物車の組成は無く、謂わば本州行きのメイルトレインでもあった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/30sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

厚床 (根室本線) 1978

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標津線、それも一日に5往復の運行されるだけの通称-厚床線は撮り難い線区だった。当時に中標津を5時に出る始発が在り、これで線内に移動すれば4回から5回のチャンスは確保出来たのだけれど、アプローチの行程も限られる東の果てのルーラル鉄道とあっては前日の訪問地は勿論、全体のスケジュールとの調整も要して、勢い早朝に釧路到着の夜行からの移動に頼ることになった。それは、標茶回りでは時間のロスの大き過ぎ厚床からが定番コースだった。
これだと、釧路で乗継いだ<ノサップ1号>を厚床へ8時に降りれば、3番線にはDE10に牽かれた470列車の到着しており、それを見送って1時間後には釧路からの混合441列車と根室からの236Dが到着、標津線の352Dも加わる中に遥か函館を目指す<ニセコ2号>が着発する、ここでの最も華やかな時間にも立ち会えたのだった。
この後、標津線への353Dまではまだ40分程あったので、一旦帰ってしまった立売人を追いかけて駅前の田中屋で昼食用に「ほたて弁当」を仕入れたものだった。この頃には400円だったとメモには残る。

厚床を出発して往くのは、釧路操車場行きの区間貨物470列車。
根室本線の釧路以東区間は、1917年から1921年に架けての開通時に設けられた停車場の全てが一般駅だったけれど、戦後の1960年代には早くも一部で貨物扱の廃止の始まり、1970年以降の「営業近代化」施策下で1971年10月2日付と1974年10月1日付との二度に渡り深度化されたに加えては、1976年12月に公表の「今後の国鉄貨物営業について」と題した文書に示された「貨物営業近代化計画」で1978年10月までに厚岸と根室の2駅までへの集約が示されていた。この際に廃止対象となったのは茶内・別当賀・落石に厚床だったのだが、地元荷主との調整に手間取り、この12月に至っても扱いは継続されていた。
とは云え、出荷は極限まで減っており、ご覧の通りにこの日の470列車も財源を牽いていない。着貨なのか所要車の送込みなのか前日の471列車に僅かながらのそれの在ったゆえの運転ではあるが、「国民の国鉄」が異常なコスト高の輸送を強いられていた左証のシーンでもある。

1984年2月改正で、その貨物輸送に安楽死の図られ、混合441・442列車も気動車化されてしまえば、撮りたい列車の無くなって以来に疎遠となっている区間だが、Webを検索するにここにも惨状として良い光景の広がっている様子が伺える。
1989年の標津線廃止に際して北海道旅客鉄道は乗降場以外の旅客関係用地を根室市に売却して、そこには厚床駅と云う名のバスターミナルが建つ。駅舎改築とは正しくなく、それを廃してのターミナル本屋新設であり、鉄道はそこに財産を持っていない。係員の常駐してバス乗車券発売が行われるけれど、既に鉄道の乗車券類を買うことは出来ない。なんとも不可思議な光景である。
矢鱈と空疎となった駅前広場にそれだけの残る田中屋の廃屋には暫し見入ってしまった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

緑 (釧網本線) 1978

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初山別 (羽幌線) 1982 から続く

1969年度末に1296駅で全旅客扱い駅の25パーセントであった国鉄が定員をおかない要員無配置駅は、1970年度を初年度に本社が主導して展開された「営業体制近代化」施策により当面の目標とされた1972年度末で1961駅に達し、38パーセントを占めるまでになっていた。この3年間での無人駅化、当時の国鉄部内で云う「停留所化」の行われたのは697駅、国鉄としては要員無配置にあたる日交観などへの業務委託化は165駅に及んだ。
この施策は同年度で打切られるものの線区運営の合理化は引続き至上命題であり、1979年度までにさらに335駅が要員無配置とされ、同年度末でのそれの2293駅は44パーセントと半数に迫るものであった。

国鉄の経営は1964年度に赤字を計上して以来にそれの積み上がるばかりとなり、政府は1969年度に最初の財政再建策を策定し(「営業体制近代化」施策はそれに応じての運営経費の抑制策であった)、以後も1973年度、1976年度、1977年度と4次に渡り種々の再建策を講じたものの、何れも実を結ぶこと無く終わっていた。その公共企業体そのものが孕んでいた構造的要因については、ここでは触れないが、それを逆手に取った政府与党は、1980年11月28日の第93回臨時国会において『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)の成立を図り、翌1981年3月16日には財界と結託して国鉄民営化を策動する「第二次臨時行政調査会」を発足させ、これにより国鉄は追いつめられて往くのである。
1985年度での単年度収支均衡の法定化には、なりふりを構わぬ経営改善策の要求され、線区運営の合理化はより深度化されるに至った。1980年代には旅客の道路交通への流出の止まらず駅利用者は漸減していたことも手伝って、多くの駅が要員引揚げの目安とされた一日の平均利用者数1500人を割込むこととなり、1980年度から1985年度までの6年間にて停留所化ないし業務の外部委託化された駅は1298駅を数えた。途上、1982年度には272駅からの要員引揚げにて無配置駅は2753駅となって要員配置の2437駅を逆転し、1985年度末の3060駅は全旅客扱駅数の、実に61パーセントを占めるまでに至った。

道内においても、1980年度から83年度に集中した室蘭線・千歳線に石北線、根室線、富良野線、札沼線の凡そ400キロ区間のCTC制御施行により大半の駅から要員の引揚げられ、有無を云わさぬルーラル鉄道の廃線も進展する社会情勢下では、沿線自治体もそれを黙認せざるを得なかったのだった。
また、非自動化線区においても運転要員を存置しながらも営業フロントを閉じる事例の現れたのもこの時期であり、国鉄の置かれた情勢の厳しさが伺えた。駅員の姿の在りながら窓口の板の張付けられて閉じられ、駅前の商店などで乗車券を購入する不可思議な光景には利用者も戸惑ったろうが、この頃訪問した銀山や抜海駅では当の駅員からも肩身の狭いとの話しも聞かされたものだった。

冬の低い日差しの入り込む地域交通線小駅の待合室。利用者はほとんど無いのだが、窓口の開かれ当務駅長は列車交換の運転業務に忙しい。この温もりの鉄道情景は二度と還らない。急行613Dとの行違いを待つのは混634列車である。
ここは1986年度の釧網線への符号照査式特殊自動閉塞の導入により要員無配置となり、間もなくにこの開業以来の木造駅舎も失われた。
釧網線を始め、日高線、根室線の釧路以遠や函館山線区間への同閉塞施行に、函館・室蘭線森-東室蘭間へのCTC制御は経営基盤の脆弱な北海道旅客鉄道への餞別的に設備されたもので、これら線区上に多くの無人化駅を生じた。駅と云えば(広義の)駅員の姿を認めた道内鉄道の原風景は、1986年に至るまでの10年に満たぬ期間で瓦解したと云えようか。
(この項終わり)
※駅数データは国鉄監査報告書各年版による

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

銭函 (函館本線) 1978

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旅にはコンテの幾つかを立て、それぞれに従ったロケーションを選んで出向いた。コンテには気象条件も指定していたから、大まかなスケジュールの確保こそすれ後は天候次第である。かつてなら新聞朝刊の予想天気図にラジオの天気予報を頼りに翌日以降の行動を決めていた。降雪に積雪と云う重要なファクタの在る冬場は尚更であった。
以前に鬼鹿 (羽幌線) 1981 に書いたように、予想最高気温の動向を気にしていたことは そのひとつだし、勿論に降雪の予報には注意を払っていた。黒々とした針葉樹林よりは雪を纏った姿の方が相応しいし、雪を蹴立てる列車の必要なら降雪中かその直後でなければならない。逆に雪面へ落ちる影や風紋がテーマなら晴天に限った。天候次第でコンテとそれの実現出来そうな位置を当て嵌めてスケジュールを決めていたのである。早い日没には夕刻から移動も始められたゆえ、例えば釧路や函館周辺からでも翌朝に稚内へ達するような移動も可能であった。

とは云え、細かいメッシュ単位に予報のなされる時代では無く、現地に達して裏切られるのも多々ではあったけれど、その経験の積み重ねには天気図から一定の地域内の天候変化を読み取れるようにはなっていた。
日本海を東進して来た低気圧が北海道の何処を通過するか、オホーツク海に抜けるか、太平洋上へ去るかによる違いなどである。例えば羽幌線で風雪に荒れる海を背景にするなら、石狩湾あたりに接近途上が最適だった。これが宗谷北部を横断してオホーツクに抜けて停滞すると最悪で、その沿岸は確実に猛吹雪に襲われた。太平洋へと抜けると今度は興浜北線の斜内山道が猛吹雪である。けれど、倶知安あたりで遠景を捉える画角ならば、その方が「程良い」降雪に出会えたものだった。厚岸湾で降雪を見ようとすれば、東からやって来るのでは役に立たず、太平洋岸を北上する低気圧の接近を待つことになった。

湾曲した石狩湾岸一帯は、低気圧がどのコースを辿ろうがそれの通過した後には北から西寄りの強風を受け、小樽に暮らした時代に坂上の借家が風速に軋むのを幾度も体験していた。函館本線が幹線使命を果たした頃、運転抑止要因は山線区間の雪害よりも小樽から銭函への海岸線区間での暴風雪による信号確認不良が凌いだと覚えている。
発達した低気圧の通過にて全道が荒れると予報されていたこの日、想定していた撮影は全て諦め、遠景を撮ることの無い銭函上り方海岸線に建ち並ぶ漁師小屋区間へと歩いたのだが、凄まじい吹雪には数カットを押さえて引揚げざるを得なかった。風雪は戻った市街地にも吹き荒れて道を歩く人影は見えない。
海上からの吹雪のまともに吹き付ける駅近くの銭函西部踏切を6540Dが過ぎて往く。中長距離列車が遅延する中で、札幌からのこの列車は定時だった。
この辺り、今では様変わりして面影すら無い。
猛吹雪に備えては、パーカのフードを被っても露出する頬を覆うタオルに鼻当ての付いた山岳用ゴーグルを用意していた。こうでもしないと飛礫のような降雪の風上に顔を向けてはいられなかった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

桂川仮乗降場 (函館本線) 1978

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1979年9月27日の森方の複線使用開始まで信号場として機能していた当時の桂川には、残念ながら降りていない。乗り合わせた列車の交換待ちでの停車は幾度か経験して、木張りの粗末な乗降台に赤いトタン屋根の本屋、そして汐焼けした漁師家の屋根越しの海を車窓に見ていた。
アジア太平洋戦争末期の非常陸運体制下における、北海道炭の京浜工業地帯への年間300万トン輸送に際して設けられた函館/室蘭線上18箇所の新設信号場のひとつであり、1944年9月30日の使用開始と記録される。森町鷲ノ木集落の背後を切取りで通過していた5パーミルの下りからレヴェルに至る路盤を拡幅しての設置には、1200t運炭列車の運転に当初より500メートル程の本線有効長の確保されていたものと思われる。森からは僅か2.7キロ、石倉までも3.9キロの位置だが、森方の1キロ区間に9パーミルの上り勾配が続いて、足の遅い貨物列車が石倉までの線路容量の足を引っ張っていたのだろう。停車場名は湯の崎手前で海に注ぐ小さな流れ、桂川から採られている。
近隣の本石倉や鷲ノ巣が戦後に不用施設として一旦廃止されたのに対して、ここは引続き維持されていた。開設時より便宜的客扱いの行われたものと思われ、複線化による廃止には同位置に同名の仮乗降場が設けられた。
些か余談めくが、ここを始めとした函館海線区間の旧信号場を出自とした仮乗降場の扱いは特別で、ダイヤ上にも停車場線の引かれたではないものの記載が続き、全国版時刻表にも臨時駅との表記にて永く掲載されていた。道内に多くの仮乗降場とは勿論、同様の沿革を持つ旭浜や北舟岡など室蘭線上の事例と明らかに異なった扱いの事由は未だに分からない。

森町の鷲ノ木地区には古よりアイヌの小集落の存在したらしく、1600年前後とされる松前藩の知行地としてのカヤウンペツ場所の設置には、和人の定住も記録されている。本来に蝦夷地への和人の移住は禁止されていたのだが、夏期の漁労への出稼ぎのまま越冬する者なども増え、18世紀半ばまでには一帯の中心集落となる規模だった様子である。
鷲ノ木は、ここのカツラの大木へのワシの営巣からの「鷲ノ巣」が、それの飛び去って「鷲ノ木」となったものと云われる和名である。先住民族にはユプトゥ(yu-put =温泉の河口の意)であった。湯の崎に温泉でも湧出して桂川に流れ込みでもしていたのだろうか。
函館六か場所への和人の人口増加には、1799年に蝦夷地を直轄領とした幕府もこれを追認し、1800年4月に蝦夷地との関門を亀田から山越内に移すに際して、鷲ノ木も森や尾白内を支郷に「村並み」と認め、1858年には「村」へと昇格させて鷲ノ木村とした。少なくともこの時期までは茅部地域の最大集落だったのであろう。
鷲ノ木の地名は以来、現在にまで残るのだが、函館本線の信号場がこれを名乗らなかった事由は知れない。

写真の斜路は国道5号線の新道(森バイパス)が開通するまで鷲ノ木集落を通過していた旧道から霊鷲院という浄土宗の寺院への、かつての参道の入口であり、現在に鷲ノ巣史跡公園(資料館)となっている箱館戦争当時の幕府軍の兵站地への通路だったとも思われる。当然にここへの鉄道開通より以前からのことである。傾いた古い石柱にそれの刻まれていたと記憶するが、その詳細は失念した。
ここは、1960年代に往き来した急行の車窓にも目立っていた右の汐焼けの二階屋と共に現在にも残っている。
窓枠のアルミサッシ化改装を受けたスハ45を連ねて走り去るのは104列車<ニセコ1号>である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

旭川 (函館本線) 1978

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家族で水戸から転居し小樽に、そして手稲に暮らしたのは1958年からの僅か12年間である。今や、遥かに内地の生活が永くなったのだけれど、毎年に冬ともなれば違和感を覚え続けている。札幌なら一年の三分の一を占めた白い風景の無いことにである。
積雪はソリ滑りにスキーと子供には楽しい遊び道具でもあった反面、住宅地の細道まで除雪の行き渡らない当時、低学年には踏み締め道を自分の背丈ほどの積雪に囲まれて登校せねばならなかったり、下校すれば玄関回りの雪掻きを手伝わされたりの余計モノにも違いなかったと云うに、どうにも物足りなくて落ち着けずに過ごすことになる。ここでは夏が先細りしながら緩慢に秋につながり、11月末頃の急激な気温の低下にようやく樹木が染まり始めるけれど、それの落葉してもいつまでも季節の間延びして、いつの間にか桜の咲く印象なのである。いつものように降り始め、いつものように根雪となる白い景色は時間軸のマーカーに違いなく、上京してもそれの確認に雪の道内には通い続ける動機にもなっていた。
北での暮らしは父親の転勤での偶然に過ぎないのだけれど、上野からの夜行列車には、いつも「帰郷」感を抱いて乗っていた。今の新幹線でもそれは変わらない。

以来に積雪期の渡道を欠かさない中で、北海道の雪景色は懐かしく、撮影地点への移動に列車に乗れば白い大地の車窓には何処までも乗り続けたい誘惑に駆られ、10日とか2週間の長い旅なら1日か2日はスケジューリングしていた休養日をそれに当てていた。日程は勿体無いけれど、連日の雪中行動の負荷に加えての夜行連泊には何より身体が保たなかったのである。大抵は前後をホテル泊として日中を長距離の移動に当て雪の車窓を楽しんだものだった。弁当の総菜を肴に酒を舐めながら車窓を眺め、とろとろと眠りながらも目覚めれば相変わらず白い景色の流れ去っているのは至福の汽車旅でもあった。
実は、これに味を占めてこの40年来に、ひたすら列車に乗り続けるだけの渡道を夢想し続けているのだけれど、生来の貧乏性か、限られた日程をそれに充てるに忍びなく実現していない。どうしても撮らずには居られなくなり雪中からそれを眺める側に回るのだった。そうこうしている内に、周遊券も肝心の夜行急行も過去帳入して久しい。

この冬に2回目の冬旅では9日間の日程の真ん中の1日を休養日に充てた。夜行ではなかなか下車し難い旭川での連泊として日中も食事に出るだけのつもりだったのだけれど、食料を仕入れに出向いた駅で828列車に、スチームに包まれたスハ32の組成を見つければ乗らずにはいられない。
写真の32821は、1939年に北海道仕様として新潟鉄工所にて新製された22両中の1両である。全検出場からまもないと思わる美しい車体で、撮影した自分が車体に写り込む程でだったのだが、2年後の1980年11月6日付にて用途廃止となった。14系投入にて捻出のスハ45に代替されてのことである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f1.8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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