"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鬼鹿 (羽幌線) 1977

onishika_08-Edit.jpg

ニシンの生態に関する学術研究が本格化するのは1900年代以降であった。勿論、それが資源と認識されてのことであり、かつては新潟でも大量に漁獲された北海道樺太系群のニシンが奥羽地域北部からも去り、この頃には未だ大漁の続いていた北海道西海岸での資源確保が喫緊の課題されたゆえであろう。
漁業者に伝承は残されていたと思われるが、古文書の解析からその資源量の長期的な周期変動が裏付けられ、西欧での研究を取り入れた調査では、卓越年級群の出現頻度がその動向を左右することや、その出現は低く推移した海水温が関係すること、幼魚の生存には好適かつ豊富な餌(ブランクトン)との遭遇を要することなどが明らかとなった。
現在に至るまでには、さらに深度化された研究の続けられ、種として見ればニシン資源はマイワシやスケトウダラの資源量変動と逆相関にあること、それは地球規模の海洋環境に連動することが知られるが、産卵海域にて区別される系群単位では、やはり卓越年級群の発生状況により変動し、それは卵から稚魚期における生き残り数に左右されることが、より明確にされて来ている。
けれど、年級群の資源量にも当然に関係するはずの海洋環境の変動との相関のメカニズムには研究者間に諸説あって定説には至っていないと云う。
よって、1887年の97万トンをピークに増減を繰り返しながらも漸減し、1920年代半ばに減少傾向が明らかとなり、1950年代には壊滅的となった北海道西海岸における北海道樺太系群のニシン資源についても、消滅に至る事由が解明されたではない。プランクトン組成が変容した結果とは明らかでも、海洋環境が如何様に影響したかに説はあっても確証は得られぬのである。20世紀初頭ともなれば、漁具の改良や漁法の革新などによる著しい漁獲量増加の人為的要因も無視できぬに違いないが、これがどのように影響したものかも仮説の域を出ていない。
留萌郡鬼鹿村を含む石狩北部から宗谷に至る沿岸での鰊漁の終焉は1955年と記録されている。青森西海岸・渡島地方での1912年からは40余年、後志南部の1937年からでも18年を遅れ、この間に30万トンから20万トンの漁獲を維持した事由も明らかでないらしい。春鰊は実に時間をかけて南下南限を北に移したものだが、地球規模の変動からなら1秒にも満たぬ時間なのであろう。

1957年まで鰊漁が行われたと云う留萌地域沿岸には、1970年代半ばまでなら多くの鰊番屋が廃屋として残されていた。この時期北海道西海岸の残存全鰊番屋を撮影し続けた写真家樋口英夫氏によれば、増毛から苫前まで島嶼を含んで19箇所とある。鬼鹿地内には花田家番屋と隣接して小川家番屋が記録される。前者は現在にも観光資源として現存するが、後者は遠に解体されている。

鬼鹿の下り場内信号機を越えて上り方に進出して往くのは、826Dの深川行き。幌延から5時間をかけて走っていた。
画角左の建物は、鰊番屋に付帯して浜に建てられた「倉(くら)」と呼ばれた施設である。漁獲の一時貯蔵施設の「廊下(ろーか)」に対して、これは漁具の置き場に用いられたものと思う。手前側には鰊船が打ち捨てられているのも見える。
画角右側へはこの頃執心していた浜番屋(漁師小屋)が連なっていたのだけれど、段丘下の線路とは間に国道を挟むなど距離があり、まともな絵は撮れず仕舞いだった。

=参考文献=
近代北海道における鰊漁業の歴史地理学的研究 (服部亜由未 名古屋大学大学院論文2013年)
北海道におけるニシン漁業と資源研究 (小林時正 農林水産省水産庁報文2002年)
北海道における漁家住宅の歴史・地域的特性を活かすための研究 (駒木定正・小林孝二・山之内裕一 2015年)
北海道西海岸 鰊番屋全記録1976ー79年 (樋口英夫WebSite)


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.



スポンサーサイト

川湯 (釧網本線) 1977

kawayu_04-Edit.jpg

御料地とは皇室の所領を指しての言葉と云う。そして、皇室を存立足らしめる天皇制は、徳川幕府より政権委譲(断じて「維新」などでは無い)を得た薩長政権が唐突に持ち出し、民衆の支配に利用した根拠の曖昧な装置である。そればかりでは無い。これは土地の収奪と隔離にも用いられた。勿論に為政者の利権確保のためである。

薩長政権は、先住民が全く預かり知らぬ間にアイヌモシリ全土の領有を宣言し、すべての土地を官有地とした。その上で、この独裁政権は、1872年の『地所規則』に『北海道土地売貸規則』に始まり、1886年に『北海道土地払下規則』を、1897年には『北海道国有未開地処分法』(旧法)と矢継ぎ早に制定し、それこそ勝手に地積処分を行った。その過程で支配階級による広大な土地所有制が確立して行ったのである。
独裁には、所詮は同じ穴の狢であり支配階級内での権力闘争に過ぎなかったのだけれど、やがて議会開催を求める自由民権運動を生ずる。強権的弾圧で対抗するも、その高揚に抗しきれぬと見るや懐柔にて沈静化を図った政権側は、1889年に非民主的な『大日本帝國憲法』の制定に漕ぎ付けると、翌1890年に第一回総選挙を施行し帝國議会の開催を受け入れた。
しかしながら、政権基盤であった国有財産への議会の関与を嫌った薩長政権は、これに先立ってそれらの皇室財産への編入を画策し隔離・温存を図ったのだった。官営に発する銀行や商社など国有企業の株式は皇室への献上を以て政府資産から切り離され、官有地・官有林は大規模に御料地への編入が行われたのである。この結果、1873年度末に約193万円だった皇室財産は1889年には975万円にまで増加したと記録される。これは大財閥と呼ばれた三井・岩崎・住友の各新興資本の合計総額を遥かに上回るものであった。
当時に釧路国川上郡熊牛村に属した熊牛・弟子屈・美留和・跡佐登原野においても植民区画の引かれていた578万坪を除く2000万坪と云う広大な官有地が1897年に皇室財産へと編入、御料地・御料林とされた。(数字出典は弟子屈町史だが、やや疑問が残る)
それは阿寒湖・摩周湖を含んで、1923年に成立した弟子屈村は村域の大半が御料地と云う特異な自治体となったのだった。そして皇室財産の観光地に、鉄道省は1936年の川湯停車場本屋の改築に際して、それに相応しい洒落た山小屋風意匠とし、果たして利用を想定したものか内部には貴賓室をも設けた。道内駅として現在までも唯一の事例である。

凍てついた川湯の下り乗降場。列車は混合636列車の網走行きである。行き違いも無いのに、ここで10分ばかりを停車する。
釧網線の客車はウェバストヒータ装備にてスチームの上がらないのが物足りないけれど、静まり返った中に低く唸るそれの動作音と微かな石油臭も、二度と帰らない鉄道情景だろう。
19時前はまだ宵の口に過ぎないが、日没の早い道東なら早くも深夜の趣ではあった。シャッタを開け放って絞り込んだレンズに夜を吸い込ませるのはモノクロームの、それも銀塩の領域と思う。

今に続く保守勢力の権力基盤は、天皇制を隠れ蓑にした姑息な収奪により築かれた。蝦夷地に限れば侵略と略奪と云うことである。とは云え、当の天皇自身もまた加担した罪は免れ得ない。被災地見舞い好きな千代田区在住の好好爺夫妻は極めて真っ当なリベラルに見えるのだが、曾祖父の行状をどう振り返っているものか、興味深い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 bulb@f8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1977

hirouchi_11-Edit.jpg

鉄道の趣味者であればご承知と思うが、客車の運用は、日本国有鉄道発足からその末期までを通じて、運用を担う鉄道管理局単位に設定され、運用番号もそれを示す略号を冠しての付番であリ、運用区所単位とされた動力車や自走車両とは大きく異なっていた。
60年代後半の例で、札幌客貨車区による<まりも>運用だった[札1]運用の「札」は札幌鉄道管理局を、函館運転所持ち<ていね>運用の[函1]運用の「函」は青函船舶鉄道管理局を示し、決して運用区所名の略号では無かったのである。対して、動力車は車両運用のA運用と乗務員のB運用に分けられ、<ていね>を牽いた小樽築港機関区のC62なら同区の[A21]仕業、「築港21番」などと通称された。
資料を遡れば、内閣鐵道院の地方機関として置かれた鉄道管理局(鉄道省昇格後なら鉄道局)単位に客車運用を設定したものが、それまでの運輸事務所を改組した戦後の国鉄における鉄道管理局に引継がれたものと知れる。
鉄道創成期からの旅客車である客車が、しばらくは唯一の現業機関であった駅により運用された名残であり、鉄道管理局(鉄道局)に配属され、常備駅を指定の上でそこに配置して運用に供し、保守・管理責任を負わせる考え方が取られたのである。これは常備先が客車区なる専門機関に独立しても変わらなかった。国鉄では、これを客車の「配属制」とし、対して一部を除き常備駅を指定しない貨車は「共通制」であった。動力車と云えば機関車しか無かった時代の制度が、国有鉄道の消滅と云う近年まで続いていたことになる。
そして、それは(動力を持たない)客車がゆえに常備区所を出区してから帰区するまでを1運用と数える、これも鉄道創業以来の慣例に従っていた。これについては 植苗 (千歳線) 1991 に書いている。
管理局単位であるから、同管轄に運用区所が複数あれば付番の番台で区別された。近年道内の例なら札幌運転区の0番台に、岩見沢客貨車区の30番台のごとくである。よって、運用番の1番に始まる一桁番号とは、その管内での代表区所の代表運用に付与されるものだった。
ならば、その管理局が特急運用を持っていれば付与されそうなものだが、不思議なことにその事例は稀であり、大抵は急行列車運用への付番であった。寝台特急全盛期の大阪局を例にとると、それらは全て100番台・200番台付番とされ、[大1]運用とは東京-大阪間<銀河>運用に与えられていた。これも、優等列車と云えば急行列車を指していた国鉄の慣例からであろうか。そこでの特急列車とは、特別な急行、即ち「最」優等列車とされていたのである。

冬晴れの狩勝新線を下って往くのは、滝川から釧路まで日中の9時間近くを通していた425列車。
高度の低い太陽が新得市街からオメガカーブの通称南山までを見通す景観に陰影を与えてくれる。
1970年代当時、釧路鉄道管理局管内で客車は、釧路客貨車区、帯広運転区に同池田支区の各区所に配置があったけれど、定期運用を持つのは釧路区だけになっていたので、必然的に同区が[釧1]を運用していたのだが、急行運用を持たないがゆえにス級客車-3両組成の2組による滝川-釧路間425・422列車運用がそれであった。札幌運転区による小樽-釧路間423・424列車(後に<からまつ>と愛称付与)が存在したにせよ、昼行で滝川釧路間を通すのは、郵便荷物輸送の使命も担った根室本線の基幹列車に違いなく、運用番の1番には相応しい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977

oku_shirataki_06-Edit.jpg

道内の車両が寒地向け仕様を要するように、それを撮る鉄道屋も耐寒耐雪の装備は必須である。
道内在住の頃、近所の線路端に立つのは日常生活の延長のままの姿だったけれど、山線などに遠征するようになればそうも往かず、ごく自然にスキー遊びの装備を流用していた。と云っても、今時とは違いキルティングのズボンにセーター、中綿入のジャンパーにヤッケの出で立ちで、足元はゴム長であった。けれど、それで積雪の斜面を這いずり回れば長靴に雪の入り込むのは自明の理である。冬山装備としてのゲーター(スパッツ)など知らぬ頃で、スネ回りにタオルなど詰め込んでいたところ、現場で出会った先達が雪切りの付いた長靴を履いているのを見つけた。恐る恐る尋ねれば会津線撮影の際に現地で入手したと聞かされ、仙台の弘進ゴム社の製品と教えてくれた。さすが内地の雪国には便利なモノの在ったものと、早速に親に強請り、狸小路アーケイド街に在った若井靴店で取り寄せてもらったのだった。
それは厚手のゴムの使われた頑丈な造りにウールの内張りも付いて、かなり値の張ったと覚えているが、雪侵入の悩みからは解放されて重宝した。身体の成長と共に買替えもし、札幌を離れるまで足元は長靴だったと記憶する。

けれど、都内から遠征するようになると、郊外私鉄や山手線でその出立ちは余りに素晴らしく(相変わらずのジャンパー・ヤッケのせいもある)、神田の小さな山・スキー用品店で見つけ購入したのが、世界的なバックパッキング活動の普及にて日本へも輸入され始めて居たカナダ-ソレル社のアークティックブーツだった。現在には良く知られており説明も不要だろうが、当時なら取り寄せたメイルオーダーカタログに眺めていたLLビーン社のメインハンティングブーツの積雪地版と云った印象で、長靴には違いないながらアッパーの鞣し革製は洒落ており、フェルト製のボアも付いたインナーシューズはなるほどに極寒地仕様だった。
おそらくは並行輸入と思われたそれは、学生身分には目の飛び出る程の価格で、懇意にしていた店主が「見栄で仕入れたものの、まさか売れるとは思わなかった」と宣うたのを覚えている。国内でバックパッキングの入門書などが出版される数年前のことである。

雪切りこそ附属しないこれには、深雪ならロングスパッツを装着すれば良く、暖かさにも満足して数シーズンを過ごしたのだけれど、此の頃に背負って行動する機材も増えれば、雪上とは云えそれを支える足への負担が気になり始め、重さから避けていた登山靴を検討せねばならなくなった。本格的な冬山用は既に所有していたものの、それは流石にオーヴァースペックでもあり、トレッキングとマウンテニアリングの汎用タイプだった東ドイツ-マインドル社のマッターホルンを手に入れた。無雪期には暫く前から軽量のザンバラン社製フジヤマを導入しており、これで足元は季節を問わず登山靴を装備する羽目となったのだった。
皮革にSno-Sealを幾度も塗り込み(湯煎で溶かしながらの作業が懐かしい)、ウェルトスティッチも専用の接着剤でシールしたものの、本来にはスリーシーズン用なせいか、僅かながら靴底側からと思える浸水が見られたものだから、底革周囲もシールし、ヴィブラムソールに打たれた鋲の頭もゴム系接着剤で塞いだ。ソレルブーツには比するべくもない防寒性能には、靴ごと装着するオーヴァーゲイターを履いたこともあるが、肝心のキック&ステップで斜面を上れないなど行動に支障を来して一度で懲りてしまった。

上京して、雪の無い地域に育った人々が冬の汽車旅に、矢鱈とセンチメンタルな想いを抱いていると知った。当然と云えばその通りの話しなのだが、冬ともなれば白い風景ばかりで育った人間には、とても新鮮な驚きだった覚えが在る。
ならばと、冬旅を何枚かの組写真(死語?)に仕立てることを目論んだのだけれど、雪が身近だった鉄道屋には雪中を這いずり回るばかりで、そんな感性はとても持ち得ずに諦めてしまった。
写真は、雪の細道を峠へと上る522列車、札幌行き。組写真の構成カットのつもりで撮影したものの、それっきりだった。

さて、弘進ゴムの長靴もソレルのブーツもマインドルの山靴も、全て手元に残っており現役である。特にマッターホルンは旧式の山靴と成り果てたけれども、ソールを幾度も張替え、足首のカーフスキンを取替え、アイレットも幾つかを新調し、アッパーの内側のライニングも張り直すような、新たに購入するに匹敵する費用の修繕もしながら30年余りのシーズンを過ぎた。しっかりと馴染んだ足入れの良さが手放せないのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

落合 (根室本線) 1977

ochiai_04-Edit.jpg

ヲビルビルップの原野を目指した官設鉄道十勝線が下富良野(現富良野)を経由地としたのは、脊梁山脈に向けての経路に空知川の谷を選択したからに他ならない。妥当なエンジニアリングと云えよう。
けれど、その山越え経路の佐幌岳南方の標高640メートル程の鞍部、後に狩勝峠と命名される位置への選定は、土木方面に決して明るくは無い素人目にも非合理に見える。空知川支流の谷を詰めてゆく石狩側は良いにしても、十勝側には峻険な地形が続いているのである。

この経路決定に至る経緯詳細を記した資料には、今のところ出逢えていない。
眼を通し得た限りに、先住民による古の交通路として、佐幌岳北方のシーソラプチ川源流域から佐幌川水源域への標高780メートル程の峰を抜けるサヲロルペシペと、ずっと南側の臥牛山(串内山)から尾田朱山を結ぶ陵線の標高690メートル程の鞍部を越えるルウマソラチルペシペが確認されるものの、後の狩勝峠の記述は見当たらない。どうも、この鞍部越えが記録に現れるのは、1872年にここを通過した酒井忠郁による「北地履行記」が最初のようである。
そして、新得町史は、1898年の時の北海道庁鉄道部長 田辺朔郎技師による現地踏査は、その記述によるところが大きいとする。「北地履行記」には「跋渉セシ處ニシテ実ニ容易ノ山脈ナリ往々石狩ト十勝ノ開道ナスニアラバ又容易ナラント思想ス」と書かれていたのである。
田辺自身も参加したものかは分からぬが、当然に前記ルペシペの踏査も行われ、遅くとも1901年までには狩勝峠に加えてこれらも比較経路に選定されていた。余談ながら、現在の日勝峠のさらに南側、ペケレベツ岳南方経路を比較線としたと書く資料もあるのだが、これだと沙流川の谷を詰めることになり、これは十勝線には様々な経路が検討・調査されたものと解すべきだろう。

一方で鉄道より勾配に規定されない道路計画は先行し、広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1980 に書いた通り、石狩道路と呼ばれた交通路が1899年には前記ルウマソラチルペシペに開通していた。ここは現在にルウオマンソラップチ川上流では鞍部頂上まで串内牧場の牧草地が開かれているように緩斜面が続き、確かに道路には最適の経路に見える。
鉄道とて、その谷を遡ることに技術的困難は無く、手前の位置から斜面に取り付けば難なく峠下部へと到達出来たことだろう。その経路選定においても、ここと狩勝峠が最後まで比較検討の候補とされ、公式記録では無いけれど部内ではこれを推す日本人技師と狩勝峠を支持する英国人技術者との対立にまで発展したことが伝えられる。
では、狩勝峠への決定は如何なる事由からだったのだろうか。全くの私見ではあるが、やはり上部に掘削すべき隧道が左右したものとしか思えない。緩斜面で頂上へ至るルウマソラチルペシペのそれは確かに延長を要したには違いない。
とは云え、狩勝旧線の新内付近に存在した大きな馬蹄形線形を思えば、隧道を介在させない線形選定も可能だったとも思われ、やはり腑に落ちぬのではある。

写真は、第一落合トンネルから落合場内に進入する422列車。この隧道深くに落合の上り場内信号機が建植されている。
もうひとつ腑に落ちないのが、1901年に開駅した落合停車場の位置である。同年と云えば、まだ以遠の経路は未定だったはずなのだが、それは狩勝峠への延伸を意図したごとき位置である。ルウオマンソラップチ川の谷へと右転も考慮するならば、もっと起点寄りに置かれて不思議は無い。事実、狩勝新線建設には場内から分岐して、この第一落合トンネルを要した。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
新日本鉄道史 : 川上幸義 鉄道図書刊行会 1968
北海道殖民状況報文、十勝国 : 北海道殖民部 1898-1901
北海道殖民地選定報文 : 北海道庁 1891
南富良野町・新得町・清水町・帯広市 各村史・町史・市史
北海道浪漫鉄道 (ノンフィクション小説): 田村喜子 1986

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec.@f5.6 NikonY52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

続きを読む

湯の川 (函館市交通局・湯の川線) 1977

hakodate_siden_04-Edit.jpg

「蝦夷拾遺」に記録された徳川幕府による1785年から86年の調べで、上湯川村と下湯川村には300人余りの人々が暮らしていたと在る。それが和人なのか先住民族なのかの記載は無い。江戸期に集落を指し示していた「村」は、開拓使の時代となって1869年に渡島国亀田郡に組み込まれて引き継がれ、1879年には行政区画としての上・下湯川村が成立して下湯川村に戸長役場が置かれた。当時に道南の拠点に発展しつつあった函館区に隣接し、その市街地から東に6キロあまりを離れた郊外であった。
現在の湯川に対する先住民による yu-pet(ユペッ=温泉川の意)の地名とおりに、下湯川村には温泉の自然湧出していたと云い、1885年には高温の湯脈の掘り当てられ、翌年12月に湯川村温泉(浴場?)が開場、以後源泉の掘削の続いて1890年代に至れば温泉旅館に別荘などの温泉街が形成され、当時には湯川沿いを湯川温泉、松倉川より海岸側を根崎温泉としていた様子である。1887年には函館市街と結ぶ新道も開通して温泉街は活況を呈したのではあるが、徒歩ないし人力車や馬車に頼らざるを得ない交通に加え、物資輸送に往来した荷重の在る馬車の増加を想定していない道路は、融雪期や長雨の季節ともなれば、それこそ「馬体没する」悪路と化し、次第には温泉客の遠のくところとなっていた。
これには湯川側から函館湯川間鉄道の敷設運動の起こり、それは紆余曲折の末に亀田から函館連絡を優先した亀函馬車鉄道として1895年に設立登記され、1897年に函館市街区間の一部を先行開業、同じく函館-湯川間の蒸機鉄道を計画していた函湯鉄道(後に函館鉄道)と合併後の1898年に亀田までと共に湯川までの路線を開業したのだった。本社を置いた東川町(現在の函館市役所東側付近)から延長の線路は前記の新道上に敷設された。
この亀函馬車鉄道を改めた函館馬車鉄道の開通は、湯川温泉復興の起爆剤となり保養温泉としての地位確立に寄与し、1911年10月1日付での函館水電への買収にともなう電気鉄道への転換を経て、1943年11月1日の函館市による経営へと繋がるのだった。
松風町を起点に湯の川まで6キロの函館市役所交通局湯の川線の開業日は、その電気運転が実現した1913年6月29日が採られている。

写真は終点湯の川停留所に進入して来る710型の711。
1985年の国鉄五稜郭車両所での車体更新を経て、2009年度末の廃車まで50年を生き延びた車両のオリジナル当時の姿、と云うことになる。
この湯の川終点は、ほぼ函館馬車鉄道開業の湯川の位置と思われるのだが、戦後の1949年6月13日付にて温泉入口停留所からの区間が一旦廃止され、1959年9月2日に再延長となったものである。その際には温泉入口を改めた湯川を湯の川温泉とし、ここを湯の川と、共に「の」入り名称が採用された。函館市の住居表示は湯川のままであるから、これは温泉街側の表記に合わせたものであろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

志撫子仮乗降場 (湧網線) 1977

shibushi-Edit.jpg

常盤仮乗降場 (天北線) 1985 にも書いた通り、北海道における鉄道景観の重要な一部を成すところとなった「仮乗降場」は、1954年に旭川鉄道管理局の第二代局長を任ぜられた斉藤治平を無くして生まれなかったとして過言ではない。「国鉄自動車経営論」の著作の在るとおり、地域交通に通じていた斉藤は赴任直後より多くの開拓地を抱えた管内の巡視から、始まりつつ在った「ディーゼルカー」の配備を背景に、それをバスのごとく頻繁に停車させることを考えたのである。
1954年11月半ばの網走方面巡視には、前年に全通を果たしたばかりの湧網線も通過し、沿線首長からの陳情も受けたことだろう。1955年12月25日と記録される遠軽機関区に新製配置のキハ10000形(後のキハ02形)-9両による同線客貨分離に際して、新たに線内6箇所の乗降場が置かれ、志撫子仮乗降場はそのひとつであった。

設置には既存停車場からの距離も勘案されたであろうが、ここに限ればその中湧別起点15K290Mの地点は、隣接の計呂地まで僅かに1240メートルしか離れていなかった。当時に付近にはサロマ湖での漁業者ら数軒からなる集落が所在したのではあるが、これは志撫子川の谷底を7キロ余り遡るまで散在していた本来の志撫子部落(当時の呼称)への利便を図ってのことであった。計呂地までの1キロを余計に歩かせず、気動車の加減速に優れた特徴を活かした短距離間での停留所設置は、斉藤治平の真骨頂と云えよう。
気動車1両分程度の粗末な板張乗降台の設備ではあったにせよ部落の利便に貢献したに違いなく、住民らの手により仮乗降場には例の無いような、ほぼ乗降台の長さに等しい待合施設が造られていた。住民(もしくは旧住民)の方によると思われる年表-志撫子郷土史には1957年10月18日の建築と記録されている。1964年7月17日の項で、これも乗降場にはあまり例を聞かない便所を設置したとの記述も見える。
ここには1977年の冬に始めて降り、翌冬にも再訪したのだけれど、寒冷にフィルムの折れてしまうアクシデントに、結局はその翌年と3年を続けて通ったのだった。

写真はサロマ湖畔を芭露へと走り去って往く924D、中湧別行き。
米粒ほどの単行気動車はご容赦いただきたい。この湖面に突き出した簡素な桟橋を画角にしようとすれば、どうしても広角の選択になってしまうのである。前述の年表によれば、この漁業施設も志撫子の住民が1972年4月に設置したものと云う。その延長は湖上200メートル程は在ったと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec.@f5.6-8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

音別 (根室本線) 1977

ombetsu_11-Edit.jpg

最初に音別へ降り立ったのは、帯広で下車のつもりで乗った<からまつ>で寝過ごしたゆえのこととは以前にも書いた。→ 音別-古瀬信号場 (根室本線) 1975
この根室本線の富良野-釧路間は、道内各地への遠征を始めた頃には既に無煙化の完了していた区間だったので蒸機を撮り歩いた時代には降りたことの無く、車窓に覚えていた太平洋と海岸段丘の延々と続く寂寥の光景をちょうど良い機会とばかりに選んだのである。
古瀬信号場方の海沿い区間へと線路沿いの土道(それが1960年代半ばまでの国道との驚きの事実は後に知る)を、線路がパシュクル原野へと海岸線を離れるまでの5キロ余りをロケハンしながら往復したとメモに残る。どこまで歩いても風景に然したる変化の無く、どの段丘に上ってみても茫洋とした光景にはロケハンの意味はあまり無かったとも云えるけれど、それを眺めて被写体を待っては、また歩き出すトレッキングは楽しくもあった。これには味を占めて、翌年も翌々年も同じように歩いて一日を過ごしたのだが、あれ程の広大な風景なのに、本当に誰とも出逢わず一人きりなのだった。ただし、段丘上から後を振り返れば国道を往く車列の指呼の間に見えて、くれぐれもここを「秘境」などとは語らないでもらいたい。

当時に音別での撮影地とは、あくまでこの古瀬方を指していて、尺別方にも音別川を越えて歩いたことも在ったけれど、背後の丘陵地から半島のように海岸線に向けて伸びた二つの尾根の先端には線路際から斜面の熊笹をかき分けていたものの、今に撮影者の間で「音別の丘」とも「尺別の丘」とも呼ばれる位置には記憶が無い。眺望の採れそうだと見れば上ったはずだから、この頃にはミズナラの灌木の中を旧国道が尺別へと巻いて往くだけの丘陵だったに違いない。明らかに地形改変の造成の行われた現状は、音別町の望洋苑斎場の建設ばかりでなく、当初にはここを町営墓地とする計画だったのではなかろうか。1980年前後のことと思われる。以前にも書いたが、現在に国道38号線から斎場へと通ずる山道が、1960年代までの国道旧道の名残である。

写真は、強い逆光線に北辺の海岸線を掠めて往くDD51内燃機の重連。牽いているのは425列車の釧路行きである。機関冷却ファンに光るのは駆動用の静油圧ポンプから漏れたオイルか。
もう一度上れと云われても、二度と同じ位置には立てないだろう。逆に言えば、どの段丘からでも同じ絵になる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec.@f8 NikonY52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1977

shiokari_10-Edit.jpg

名寄盆地は上川盆地の北端とは標高300メートル程の山稜にて隔てられ、獣道のごとき先住民族の交易路は通じていたかも知れぬが、人馬の通行の、増して物資の輸送に供される通行路は存在していなかった。幕末期から開拓使の時代となっても天塩国への往来は、江別太から石狩川を遡ってシラリカ(現在の雨竜市街地付近)より雨龍越えで留萠に至り海岸線を北上する経路であった。名寄盆地は天塩川河口から遡る最奥地だったのである。
そこへの開拓入植は、1897年のケネプチ(剣淵)原野への定住を始まりに1899年にはシペツ(士別)とケネプチに兵村が設けられ、タヨロマ(多寄)、ナイオロ(名寄)、フレペト(風連)への入植も進んで、その年の2月には風連へ剣淵ほか三ヵ村の戸長役場が開かれている。
一方、1894年から始まった上川盆地北端のピオプ(比布)原野への入植も、この間に進展したのは偶然では無い。『北海道鉄道敷設法』(1986年5月14日法律第93号)第二条の予定線に「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」が規定され、1897年6月に着手されたことを背景にしていたのである。また、同じ時期には経路を同じく仮定県道天塩線の工事も始められており、この地域における交通の飛躍的な利便向上が約束されていたのだった。

これにて石狩と天塩の国境を越える峠として開削されたのが塩狩峠である。道路は1898年に通じ、鉄道は1899年11月15日に天塩側峠直下の和寒までを開業した。蘭留から和寒への13.5キロに停車場の無く、列車は無人の山中を黙々と越えていた。夜間運行の列車の車窓には灯り一つ無い漆黒の闇の続くばかりだったに違いない。
この間に行違設備を要して峠頂上近くの10パーミル勾配上に塩狩信号所の置かれたのは1916年9月5日と記録される(規程改正により1922年4月1日付にて信号場)。当初には原生林に沈むランプの信号場であり、上り乗降場の背後に建てられた官舎に移り住んだ鉄道職員と家族は深い夜に暮らしたのだった。
隣接しては1923年に自然湧出の鉱泉に湯治場の開かれ、1925年には塩狩温泉旅館が建てられた。1924年11月25日付での駅昇格は、それによる乗降客の増加に応じてのことだろう。戦後には復員軍人や外地からの引揚者の帰農促進の緊急開拓事業にて周辺にも開墾地が出現するも、集落の形成には至らなかった。付記すれば、この開墾地は1970年代初めまでに離農により放棄され、線路東側のそれは植林地に転用された。今には杉の深い森に還っている。

写真は塩狩に到着した323列車、名寄行き。
周辺に集落の在るで無く、国道からも隔絶された位置にあったこの駅は、日の没すれば太古からの闇に包まれた。構内の照明に雪明かりも期待してバルブを切ったのだが、写真は光が無ければ写らない。ランプの頃の夜の底は如何ばかりかと思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 Bulb@f8 Nikon L37filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※ このカットはWebsiteのGalleryで既出の再掲です。但し、ディジタル上での編集処理をやり直しています。

姫川信号場 (函館本線) 1977

himekawa_06-Edit.jpg

姫川信号場の設置は1913年8月1日と記録される。国有化直後の1907年12月ダイヤで10回であった函館-森間の列車回数は、1912年度末でも18回を数えるのみではあったのだが、日露戦争後の経済変革により食料・資源の供給地と目された北海道と内地間の増大する物流需要に、その翌年には青函間の貨車航送開始が予定されており、それにともなう飛躍的な列車回数の増加を見据えての措置であった。
なお、開設時には当時の建設規程に従い「姫川信号所」と呼称された。

これの開設当初の姿は知り得ない。1966年に南側に隣接して国道5号線の新道が開通し、今は自動車の走行音の聞こえ来るのだが、当時には駒ケ岳裾野の原生林に隔絶した札幌本道からの小径の通ずるだけの信号場であった。ただし、その南側には開拓地の存在した様子である。
当時の道内での例に従えば、1/50勾配(=20パーミル)のこの区間には票券閉塞に加えて双信閉塞が併用されたはずである。また、翌年には全国一斉の空気ブレーキの採用と自動連結器への取替(*1)により列車単位の増強も計画されていたから、停車場有効長も大きく取られていたことだろう。近年まで原型を留めていた本屋もその際の建築と思うが、確証は持てない。

写真は1977年当時の本屋である。ここは1969年11月と云う早い時期に道内最初のCTC制御施行区間に含まれて要員が引揚げられていた。この頃、コンクリートの土台を構築して乗降場に張出した部分が旅客待合所とされていたのだが、おそらくは三面に窓を取って場内の見通しを確保したここに転轍機に信号扱梃子の置かれていたものだろう。場内監視に本屋を二階建てとした信号場は多々見かけるものの、梃子までも上げた例は珍しいとは思うが、他にそれを設置した痕跡は見当たらなかったのである。木材で塞がれた土台コンクリートの窓部からケーブルワイヤの牽き出されていたと推定する。
旧駅務室部分を覗き込むと伽藍として石炭ストーブに机の置かれただけだったから、CTCの補助制御盤は隣接して建てられた信号機器室に収められていたのだろう。
上下の乗降場は旅客扱の公告された戦後の設置とされるが、これも信号場の例に倣えば開設時より短い乗降場は存在したものと思う。通票の授器は良いとしても受器設置にはそれを要し、鉄道官舎(戦後には宿舎)に暮らした職員家族の乗降にも配給列車からの用品取り下ろしにも必需の設備ゆえである。
公式の客扱い開始に際して、客車列車の停まる下りは有効長を延長して改築し、気動車列車のみとなる上りには従来の土盛をほぼそのまま利用したのではなかろうか。
本屋の左手に見えるのが職員宿舎である。戦後に米軍の撮影した空中写真には6棟程が確認出来るのだが、この頃に残されたのは、この1棟だけだった。当然に空家である。

写り込んだ駅名標のなんら変哲の無い標準に忠実な表記は腑に落ちない。ひらがな、漢字、ローマ字表記(*2)の何処かには示されたはずの「信号場」が欠落しているのである。青函局の公告した仮乗降場を表記したものかも知れぬが、同様の施設ながら漢字表記にそれを示した仁山信号場との整合性が無かった。
.......................................................................................................................................
(*1) 道内はそれに先行して、この信号場開設直後の8月13日から17日に施工された。翌年の全国施工に備えた予行演習を兼ねたと云われている。
(*2) 通常は、シグナルステイションを示す「S.S」が付記される。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/60sec.@f8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

次のページ

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。