"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

帯広 (根室本線) 1976

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1948年7月に豊橋市からの申請を承認したことに始まる「駅舎およびその付帯施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として、その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設」(鉄道辞典下巻1677ページ-1958年日本国有鉄道)である民衆駅の、全国で42例目(道内では札幌・釧路・旭川に続く4例目)として、1965年8月に着工し66年11月16日に使用開始の帯広駅舎は、この方式による建設の末期にあたり、公共企業体として発足間もない日本国有鉄道の窮乏した財政から進まぬ戦災駅舎の本格復旧や、復興の都市計画からの移転や改築を自治体から求められての資金導入承認とは既に状況の異なっていた。国鉄は、この時期に至ると承認団体の駅ビル運営による収益性に着目し、自らの直接出資を伺って国会に国鉄法の改正を働き掛けていたのである。
戦災での焼失を免れて老朽化し、戦後の輸送量増加に狭隘となっていた帯広駅舎建替には、国鉄が民衆駅制度利用を帯広市に働き掛け、1965年2月に市を筆頭株主とする資本金2650万円の帯広ステーションビル株式会社の設立に至るも、国鉄も鉄道弘済会・日本食堂など関係4社をダミーに用いて資本参加し、それは資本比率で帯広市の22.6パーセントに対して合計で41.9パーセントに達して主導権を留保していた。
これにて4代目駅舎となったRC構造地上3階、地下1階のビルディングは1階部分を駅業務施設とし、地階の機械室の他はステーションデパートを名乗る単体小売店(テナント)の集合店舗、2階半分を帯広ステーションホテルのフロントにロビーと事務室に充て、残り半分に貸席と飲食店からなる帯広老舗街が入居、3階が和室19室・洋室17室の客室に結婚式場のホテル施設とされ、総床面積10061平米の内、2910平米を国鉄が、7151平米をビル会社が使用するところとなった。
ビル会社の経営は、日本経済の高度成長期とも重なり、デパート、ホテルともに順調に推移し、特にホテル運営は同社収益の6割を占める安定事業となり、1972年12月31日には4階部分を増築しての客室の増設もなされていた。

小樽-釧路間普通列車、1975年に<からまつ>と命名される夜行で乗り降りしていた帯広に、場合によっては宿を取るようになるのは、その頃のことで、当然にステーションホテルを選んでいた。手元に残る領収証には宿泊税込みにて2100円とあり、ベッドにデスクにテレビ(しかもコイン式の有料)の在るだけの簡素な部屋ながら、当時の貧乏旅行にあっては大変な贅沢だったと記憶する。但し、これがバス付の部屋だったか、バス無しを選んでのことかは失念している。
写真は、帯広場内にゆっくりと進入して来る5D<おおぞら3号>。函館から8時間を走り続けての到着である。ホテルにチェックイン後に必要機材だけを手に構内に出るのが恒例であった。
先日、函館 (函館本線) 1990 にも書いたとおり、昼夜分たずに構内作業の行われていた構内は照明塔の灯りに煌煌と照らされ、日中と同じ感覚で写真の撮れた。

帯広ステーションビル株式会社においては、開業時に続いて1969年、1972年にも増資の行われた結果、その資本金は2億2千万円となって、5200万円を出資に至った帯広市は23.6パーセントの出資比率にて筆頭株主に違いはなかったのだが、国鉄系4社も合わせての41.9パーセントにも変わりなく、それは四半世紀を経て、資本を引継いだ北海道旅客鉄道の戦略に乗せられた挙げ句の自己破産の遠因ともなった。駅高架化に際して建設した高架下東西2館の施設は、今や北海道旅客鉄道子会社の所有である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/60sec@f1.8 NON Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1976

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鉄道作業局は、北海道官設鉄道の移管を受けた1905年度に、道内最初の事例として天塩線(現宗谷本線)の蘭留・和寒の両停車場へ双信閉塞器を設備し、この峠越えの区間に双信閉塞式を施行した。なお、当時に塩狩信号場(当初に信号所)は未開業である。

複線区間での同方向続行運転の保安に用いられたのが本来である、この閉塞方式の単線区間への転用は、1/50、即ち20パーミルを超える勾配の介在を事由としていた。
双信閉塞式とそれに用いられた双信閉塞器は日本で考案・開発された閉塞方式であり、複線区間での運転保安に新橋-品川間にて1899年より試用されたのを嚆矢とする。その閉塞器の実物は、かつて神田の交通博物館に展示されていたと記憶するが、箱形のそれの丸い表示窓に示される腕木状の表示器の45度の下向きもしくは水平にて閉塞区間の開通・非開通を示し、それは正に腕木信号機を模したデザインとされて中々に洒落ていた。これの一対が区間両端停車場に設備され専用の電信線にて電気的に結ばれるのである。双方の駅長(運転扱者)が規則に従って電鈴にて、必要の有れば専用電話にて打ち合わせつつ操作し、閉塞区間を一個列車に専用させ追突から防護した。詳しい構造や動作法には言及しないが、腕木の上下は永久磁石と電磁石の作用にてなされ、例えば到着側停車場でそれを確認の後に双方で操作しなければ、出発側閉塞器の腕木は下がらないような仕組みになっていた。双信式の謂われである。
あくまで複線区間での同一方向運転に対応した方式・装置であり、乗務員は自列車に占有の物証を持って防護区間に進入するでなく、また駅長による列車出発到着の目視のみにて閉塞器の扱われるなど、続行運転への扱いの利便を優先させて保安度は劣った。

従って、天塩線のごとき単線に対しては、既に施行中の票券閉塞式に加えてのことであり、両方式の併用が1901年10月1日付で施行の「列車運転及び信号取扱心得」に規定されていた。それは続行運転のあり得る幹線の急勾配区間における列車分離や逆走への保安度向上を意図してのことである。票券閉塞式のみでは、閉塞区間に1個のみの「通票」に替えて先行列車に「通券」を所持させての間隔法による続行運転が認められており、勾配線での万が一の分離・逆走車両の検知には相手方停車場への確実な到着確認を要した故である。
票券閉塞式に替えてタイヤー氏式タブレット閉塞器(当時の呼称、後に通票閉塞器)を導入すれば同等の保安は達成されるが、双信閉塞器はそれより遥かに低廉でもあった。

1907年度の帝国鐵道庁年報に見れば、北海道帝国鉄道管理局の管轄線に双信閉塞器は44台の設置とあり、閉塞区間とすれば22区間であろう。具体的設置個所の記載はないのだが、同年7月に買収した北海道鉄道線の駒ケ岳山麓区間や渡島半島基部縦断区間、9月に開業の釧路線落合-新得間など当時の急勾配区間への導入は、ほぼ完了していたと読める。
けれど、1910年度の鐵道院年報では36台/18区間へと減少を見せ、早くもタブレット閉塞器への更新の始まったことが知れる。それの国産化により導入経費の低下したゆえであろう。以後に道内線のみのデータの無いが、おそらくは1910年代後半までには一掃されたものと推定される。急勾配線に、あくまで一時的な保安設備だった双信閉塞器だが、本来の複線区間用途には1965年まで生き延びた。

写真は、塩狩構内へと上る324列車の後ろ姿。角形の背板は塩狩の遠方信号機である。
宗谷本線における腕木式を廃しての色灯信号は1965年3月22日に全線での使用を開始している。閉塞方式の連査閉塞式施行に歩調を合わせてのことであった。この方式は通票閉塞式からの転換を低コストで実現するものとして開発され必ずしも色灯化を要しないのだが、要員合理化や保守コスト低減、積雪地域などでの通票授受解消も目的にしていたから、それとの同時施行事例が大半であった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

美留和 (釧網本線) 1976

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地球の赤道傾斜角、自転軸の公転軸からの23.4度の傾きは、緯度の高い北海道に冬期間の遅い夜明けに早い日没、そして低い太陽高度をもたらす。本州からの特急寝台列車の走り始めてからは、それを電化区間でしか捉えられぬゆえ避けるようにもなったけれど、かつてには12月の渡道を定番にしていた。この時期なら浅い角度で差し込む斜光線を日中でもふんだんに使えたからである。
そして、曇りや降雪では意味の無いこれには、晴天確率の高い道東方面へスケジューリングの大半を充てていた。例えば12月半ばでの釧路における太陽の南中高度は25度に達せず、積雪の少ないこの地域の心象風景には、それの織りなす陰影の濃淡も相応しく思っていたのだった。日中を通じての黄色味を帯びた光線に加えて、16時前と云う日没時刻(太陽上辺)には15時を過ぎれば夕暮れに暮色の光景も見せてくれたのである。
ただし、短い昼間時間には撮影チャンスが持って往かれて、長い夜にバルブの対象を探すことにはなっていた。

その当時の12月渡道では釧網線中央部の弟子屈から美留和のあたりに必ず降りていた。標高150メートル程の高原状の沿線にはシラカバにミズナラやカラマツ、それにトドマツの樹林帯と牧草地が交互に続くだけで、これと云った立ち位置のあるで無かったけれど、南から西側が開けて屈斜路湖カルデラ西端の低い山稜を越えて斜光線が遮られることなく届いて、それらに陰影を与えてくれたのである。昼間の日射と夜間の冷気に融解・凍結を繰返して表面の固くなった積雪をサクサクと踏み抜きながらの線路端歩きも楽しいものだった。

列車は612D<しれとこ4号>。
基本編成のキハ27-2両の所定にこの日はキハ22が入っていた。後部の同形式は斜里までの増結車である。
凍結した雪面への降雪は強風に風紋を描いて、道東ではどうしても撮りたくなってしまう素材だった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f5.6 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

塘路 (釧網本線) 1976

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塘路の地名が初めて記録に著されるのは、1797年の松前藩士高橋壮四郎らによる『蝦夷巡覧筆記』であり、そこにはトウロと記されている。高橋壮四郎は松前藩の『寛政十年(1798年)家中及扶持人列席調』によれば御近習列とあり、藩主より直接に蝦夷地の奥地調査を命ぜられたものであろう。文化年間(1804-1818年)の『東蝦夷地各場所様子大概書』にもトウワ(※ママ)トーとして塘路湖の記載がある。そこは蝦夷地の先住民アイヌ民族の古くからの集落(コタン)の地であった。

蝦夷地が明治政権の植民地たる北海道に改められると、1869年に川上郡トーロ村が佐賀藩の支配地として置かれ、それには開拓使根室出張所の管轄となった後の1875年に「塘路」との漢字表記が当てられた。
1880年には跡佐登硫黄鉱山からの硫黄搬出にかかわる道路、と云っても通路と呼ぶべき踏分道程度だったらしいが、それは塘路村を貫通して釧路まで開通し、ここには1885年に川上郡4ヶ村の戸長役場が置かれた。それらの地理的中心に位置したものであろう。
この地への開拓の集団移民は、1892年の高岡縫殿を代表とする香川県からの11戸48人による「貫誠社」を以て嚆矢としている。彼の地で製糖のサトウキビ栽培の農民であった彼らは、ここでもそれを目指しての移住と云うが叶うはずもなく、原生林に熊笹の大地に冷涼な気候に僅か半年にて開墾を諦めざるを得なかった。1930年にイソポウンナイに入植の山梨団体も同様の命運を辿り、与えるべき情報も営農技術も無いままに植民を急いだ政府による犠牲者と云うべきであろう。移民の主体が授産目的の士族から民間人へと移行した北海道庁成立初期には多々見られた事例であった。貫誠社を率いていた高岡は、その責任感からか団体の解散後も塘路に留まり、1895年に英国人宣教師が開設したアイヌ学校にて教鞭を取ったとの記録がある。農民とは云え学識の在る人物だったのであろう、ここはその彼にも想像を遥かに越える北辺の地であった。
ここへの入植の本格化するのは、麦や蕎麦すら育たなかったこの地で馬鈴薯や燕麦の栽培に目処の付き始めた1910年代以降のことである。

塘路への鉄道の到達は、1927年9月15日に至ってようやくに標茶までを開通した釧網線に、開拓地への利便として塘路停車場が開かれたことによる。ここに限ったことでは無いが、鉄道の開通は開拓地の換金作物の安定的な大量出荷を可能として農家の収入確保に寄与したばかりでなく、生活物資の供給と物価の低廉により生活の安定をもたらしたのだった。
さらには、有り余る天然資源に商品価値を与えもした。ここでは塘路湖のワカサギに開通した鉄道で内地から加工業者が買い付けにやって来たのである。その内水面漁業は鉄道開通を契機としており、塘路湖漁業組合は1928年に創設されている。当初には業者に安く買い叩かれるばかりだったが、1932年には漁業者自らが佃煮への加工を始めて現在に至って居る。

塘路湖畔の列車は634列車の網走行き。「塘路の崖」(→塘路 (釧網本線) 1982) のあまりの斜度に上り切れず、その途中で何とか身体を支え乍ら撮っている。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1976

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倶知安 (函館本線) 1984 から続く

スキー北海道』は、1938年12月28日に鐵道省札幌鐵道局が発行した道内スキー適地の案内書である。勿論内地においても販売され、道内への誘客を促進するものであった。
詳細は調べ得なかったが、奥手稲へ山の家を開業した1930年に発行の『雪・スキー・北海道』、おそらくそれの改訂版と思われる1934年の『スキー北海道』のさらなる追補・改訂版であろう。戦後の1947年には、日本交通公社札幌支社に発行元を替えての『新スキー北海道』もある。
前述した1924年の『スキーとスケート』で、ニセイコアン地域に小樽・札幌近郊、旭川近郊程度だった案内は、同書で「将来の」との但書きを付けて2行程度の触れられるのみだった網走線、宗谷線沿線に加えて、函館・大沼地域や定山渓地域、十勝岳、大雪山系、帯広近郊など全道に及んでおり、この間のスキーの普及が伺える。
これら案内書に明らかなように、戦前期におけるスキーとは、山岳地帯の尾根筋を縦走する山スキーであり、縦走路途上の自然のスロープで滑降を楽しむスタイルであった。都市近郊やスキー適地の下車駅近くに滑降場も開かれてはいたが、それは『スキー北海道』には「練習場」と紹介され、ここからも山スキーが基本と知れる。その拠点ともされた山中の温泉地などへ冬期に道路は通じず、そこへも鉄道駅からスキーを履いて到達するのである。1930年代に、鉄道省が大々的に着地キャンペーンを展開した、先進地ニセイコアン地域にしても事情は変わらず、狩太(現ニセコ)から昆布温泉までに馬橇の定期運行が行われていた程度であった。

そのような山岳地の斜面や山麓がスキー場として整備され、スキーのスタイルがゲレンデでの滑降中心に移行するのは戦後ことである。北海道での国鉄の直接関与には、1961年からのニセコひらふスキー場(同年にニセコ比羅夫スキー場から改称)への接続輸送がある。
このニセイコアン・ヌプリの東斜面は、1920年代の前半にはその山頂から途中山田温泉を経て比羅夫駅に至る幹線滑降コースが開かれて、その広大なスロープでは長距離の滑走を楽しめた。ここのスキー場としての整備は、1961年12月17日より運輸営業を開始した特殊索道(スキーリフト)の設置に始まる。戦後に進駐軍がその専用施設として札幌藻岩山に持込んだこの設備は、この頃までに群馬県草津や新潟県野沢を始め道内でも荒井山や天狗山に設置が進んで、スキー滑降場には必須とされつつあり、このニセコ比羅夫スキー場では、第40回全日本スキー選手権大会の1962年3月の開催決定に際して、急遽計画の具体化したのである。設置された2基の索道の延長570メートルと500メートルは当時に国内最長であった。
これを運営したニセコ高原観光には、他にチセヌプリと昆布温泉からモイワ山斜面にも設置計画があり、国鉄山の家へのコースにあたるこれが、索道の設置されても山麓までの交通のなかった比羅夫側に国鉄を関与させる誘因であったように思える。
札幌鉄道管理局は、索道の営業開始に合わせて札幌からの臨時準急に、比羅夫からの自動車運行を開始する。国鉄によるスキー客輸送に特化したバス運行は北海道に於ける唯一の事例である。
(この項続く)

写真は、岩見沢から倶知安に終着した134列車。小樽行き1553Dの着発を待っての入換となる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


広内信号場 (根室本線) 1976

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優等列車と云えば特急ばかりとなった昨今には、それが「特別急行列車」の省略形であることを知らぬ世代も存在しよう。けれど、遅くとも国鉄が長距離輸送力や都市間輸送の主体をそれに転換する1968年10月改正までは、特急列車とは正にLimted Expressであった。
設定の準急列車に始まる列車までもが特急列車に格上げされている現況には想像も付かぬかも知れないが、運行途上の2点間を他のどの列車よりも速達し、必要最小限の駅にしか停まらないのが特急列車だったのである。勿論、それは機関車牽引の時代に在っては表定速度向上の要件に違いないが、何より列車の「格」を体現するものだった。
特急列車が全国に6往復しか無く、全てが客車運行であった1957年度の資料ではあるが、平均停車駅間距離は急行列車の大半が該当した45から55キロに対して、特急のそれは65キロであった。このデータは、戦前からの歴史的な事情も含めて、蒸機牽引による給水の必要上や機関車交換を要して選定の停車駅も含まれるのだが、電車や気動車の時代となれば、それはより延伸されることになった。1958年に東海道線へ登場の<こだま>は横浜・熱海・名古屋・京都の僅か4駅停車であったし、東北/常磐線の<はつかり>は気動車化後の1962年に一ノ関停車を、1968年の電車化後には尻内(現八戸)停車を廃して、これも宇都宮・福島・仙台・盛岡の4駅にしか停まらなくなっていた。線区の延長距離から特急運転を要しないとされていた中央東線に1966年に設定の<あずさ>でさえ、新宿-松本間に甲府・上諏訪だけの停車であった。
その反面、停車する以上30秒停車などはあり得ず、それは最低でも1分、拠点の大駅には5分停車が標準であった。これはその駅の「格」に対する礼儀と云えよう。

1960年度末時点で全国に48駅を数えた特急停車駅(始発終着駅を含む)には、特急列車網の整備の行われた1961年10月改正にて、それの新たな運転線区を中心に53駅を加えた。それらは基本的に駅勢圏人口や長距離旅客の利用動向などのデータにて選定されたのであるが、国鉄の内規には運転区間や線区にて差異のあるため全国で統一の基準は設けられず、県庁所在地クラスの駅は当然としても、それ以外の地方都市駅や観光地駅など地元利益の交錯した場合には決定までに紆余曲折の存在が伝えられ、これにわざわざ項目を割いた自治体の誌(史)書も見られる程である。
沿線に地元の要請が強く、同程度の駅勢との判定が複数存在した場合の国鉄側の対応は上下列車に割り振っての停車であった。山陰線<まつかぜ>での豊岡と城崎、北陸線<白鳥>でのそれぞれに温泉地を控えた大聖寺に動橋などである。鉄道側とすれば列車使命からは停車を要しないと推定されるものも含まれ、沿線自治体への配慮の範疇であったろう。
同改正にて設定の道内特急<おおぞら>の、東室蘭・苫小牧・札幌・岩見沢・滝川は、1960年当時に市制施行の都市を選定したもので順当と云える。5万余りの人口を擁した千歳の外されたのは、人口の大半が自衛隊関係者であることに加え、苫小牧との距離の勘案されたものだろう。深川は4万を越えながらも町制当時であり、千歳市とのバランスの結果にも見える。
そして、周遊型観光地であった北海道へ初設定の特急列車には、洞爺湖への接続駅である虻田(現洞爺)と登別温泉の玄関駅登別の二駅も選定され、これらには5月1日から10月31日までの期間に限っての停車とされた。特急列車における季節停車の最初の事例である。観光客需要の季節波動の大きい北海道ならではの措置でもあるが、道央対本州連絡の列車使命からは不要とも思われるその輸送の考慮されたのは、時期尚早とも云われた道内の特急運転への国鉄北海道支社の自信の無さの現れとも取れて興味深い。なお、これは1964年10月改正を以て通年停車に改められた。

写真は、狩勝新線を上る6D<おおぞら2号>。列車後方に広内場内が見える。
これと下り5Dは、1964年10月改正における<摩周>の格上げによる設定であり、1970年10月改正までは<おおとり>を名乗っていた。出自の急行列車ゆえか<おおぞら>系統では最も停車駅の多かったけれど、それでも函館-釧路間で11駅であった。(ちなみに1・2D/3・4Dは9駅)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※お断り
不在ゆえ、本日より3月10日の記事(内地版を含む)までは予約投稿となります。


音別 (根室本線) 1976

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この1970年代の終わり頃、音別から古瀬方向の海岸区間を線路が馬主来湿原へと回頭するところまで幾度か歩いていた。その当時には尺別方の原野よりも、太平洋に面した景観に惹かれていたものと思う。背後の海岸段丘は何処にでも上れたし、そこからの光景は、それまでに見たどの海よりも広かったのである。そして何よりも、その広い視界に人影を見ることは稀であった。

この海岸線には線路と並行した土道が開かれていたから、砂地を延々と歩かされた落石の外浜より随分と歩き易かった。段丘からの小さな流れに木橋の架けられていたこの道が、1960年代半ばまでの国道38号線と知って些か驚いたものだった。
砂浜の海岸線とは先住民の交易に行き来した古代の交通路である。やがては人馬の踏み分け道となり、1700年代にここへ漁場を開いた和人もまた釧路とを往来し、1800年に尺別に宿泊した伊能忠敬が、1858年に松浦武四郎の歩いたのも、この海辺の道に違いない。開拓使の時代に馬車道に拡幅され、以降には架橋や路肩の整備はなされても大きな改良の無いままに半世紀以上を経て、戦後の1952年に北海道に7本の一級国道のひとつに指定されたのであろう。この先は、白糠手前に存在する断崖を避けて内陸に迂回して馬主来峠を越えていた。国土骨格とされた一級国道とは云え、当時にはそのようなものだったのである。
一時的には賑わいもしただろうが、とても増大する物流に耐えられるものでは無く、国道38号線の第一次改良は1960年代に始まり、音別から白糠への区間は段丘上をほぼ直進する新道が建設された。そして、この海辺の道は音別町に引き継がれ町道風連別馬主来線として残されたものの、交通路として顧みられずに古の静寂に還ったのだった。そこには轍は残されていたけれど、幾度か歩いても自動車に出会ったことは無い。

北緯43度に近いこの海岸で、冬の太陽高度は南中時刻でも30度に届かない。それは一日を通じて低く海上を移動し、15時を過ぎれば夕刻の様相を見せる。
写真は、透明な大気の斜光線に反射する 1D<おおぞら1号>。函館を未明に出て、ここまで10時間を走り続けている。
この反射光を除けば、これは海辺の道を歩いた古の旅人の視界と寸分も違わぬ光景であろう。

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宝来町 (函館市交通局・東雲線) 1976

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函館山の麓を半周するような本線の函館ドック前-十字街間と宝来・谷地頭線の計3キロ余りの区間は、路線と直交する坂道が幾つも通じていて、市内電車の撮影には良い足場ではあった。
函館港を望み、観光の核心地域に所在の基坂や八幡坂が定番ではあるけれど、それを外れたドック寄りの幸坂あたりも好ましい坂道と覚えている。但し、道幅からは電車を捉えるのは一瞬に限られた。
電車道そのものが青柳町電停を頂点に急坂を越えていた宝来・谷地頭線に入ると、坂道は古くからの住宅街に伸びていて点在する趣の在る建物と共に好ましい景観を見せてくれる。中には、今で云うところのカフェに転用された建物もあり、そこでの一休みも市内電車撮影の楽しみであったのだ。
ここでのポイントは、坂の名は失念したけれど宝来町の電停から、老舗すき焼き店「阿佐利」の角を上がる坂道であった。ここからなら、宝来町で接続する東雲線を見通せたからである。坂上からだと、基本的に電車の側面を見るしかないのだが、ここならば正面気味にも撮れて何度か立ったものだった。
1992年3月一杯での廃止から既に20年を経過して、函館市民の記憶には風化の進んだものかも知れないが、松風町で湯の川線・大森線に繋がる1.6キロの路線が存在していたのである。沿線には住宅地とも業務地区とも云えない平凡な街並の続くばかり区間と記憶している。五稜郭駅前への路線の健在な頃でも、そこからガス会社、五稜郭公園前、松風町を経由して宝来町からドック前までを往復する系統のみが走り、廃止前時点では駒場車庫から末広町で折返す系統が都市内交通にはあり得ない程の永い時隔で運行されるだけとなっていた。その頃には需要の完全に消失した路線だったのだろう。
この撮影当時には、1系統のみとは云え15分間隔程度に運行されていたから撮影チャンスは少なくはなかった。寒い一日で自動車の通行でも路面は露出しない。

実は最近に、この坂道を再訪しているのだが、30年を経過してここに写る建物の多くが健在なことに驚かされた。
函館の旧市街地とは、そんな地域なのだろう。羨ましくも思う。

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塩狩 (宗谷本線) 1976

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その冬、まだ年も明けてまもない頃だった。塩狩の待合室で朝から夜までの一日を過ごしたことがある。
旭川での小雪模様は宗谷線を北上する程に激しい降雪となって、降り立った塩狩は沿線に立っても視界の取れない程だったのである。177で聴いた天気予報(当時の情報収集はそんなものだ)は一帯の悪天を告げていたし、列車本数も少なく、国道を往くバスの利用も考えたけれど、なにより何処へ移動するにせよ時間が中途半端だったものだから、仕方なく駅から離れない撮影に切替えて、その日は休養日とも決め込んだのだった。

駅を出ればその日の撮影予定をこなすまでフィールドで過ごすのが日常の中で、たまたま撮影地点が駅からさほど離れず、長い列車間隔に時間を持て余せば、線路の無いところへは往かない鉄道屋なので駅に戻り待合室で過ごしていた。
駅が当たり前に駅であった時代、冬の季節にはストーブの焚かれた待合室に腰掛けて、降り積む雪を眺め窓や扉の風雪に軋むを感じ、海沿いの駅ならば遠く海鳴りを、風鳴りを聴いた。夏には夏で、開け放たれた窓を吹き抜ける風速に佇み、うるさい程の野鳥の囀りに耳を傾けるのは至福の時間でもあった。
北浜に鬼鹿、細岡、門静、銀山、抜海、猿払、北母子里と思い出す駅はいくらでもある。

塩狩は樹林帯に囲まれて外界から隔絶されていたから、列車の通り過ぎてしまえば深々と積む雪の静寂に駅務室で事務を取る駅員のペン先の走る音すら聞こえた。ストーブの薬缶の湯気をぼんやりと眺め続けるには時を忘れる。
尽きぬ降雪にも列車は定刻にやって来る。下りの蘭留出発を告げる電鈴が鳴り、開けられたラッチ扉からの冷気に我に帰るけれど、これを待つ旅客はいない。簡素な松飾りの駅。
列車は345D、幌延行き。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.


平糸 (標津線) 1976

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現在の別海町域での拓殖事業は1869年の根室開拓使西別出張所の開設に始まるが、この遥か奥地の火山灰台地である根釧原野への入植が本格化したのは、1910年に北海道庁(現在の組織とは全く異なる)が拓殖15カ年計画、所謂第一次拓殖計画を策定し実行して以降と云う。
時代のかなり下がるのは、未開地の調査や入植区画選定、道路開削などのインフラ整備が遅れたものなのだろうか。同計画に追加された植民軌道も1925年の厚床-中標津間への試験的敷設後の多くは1930年代の設置である。
以来、多くの入植者と、また冷涼な気候と痩せた土壌に多くの離農者を出しながら開墾は進められ、次には酪農を核と定めての開発に切替えられたものの、戦後に進められたパイロットファーム事業の恩恵に外れた零細農家も数多く、本多勝一氏の著書『北海道探検記』には1960年代に至っても電気の通じない粗末な木造家屋に住む開拓農家がルポルタージュされている。これを出版された79年に読み、札幌で白黒のテレビ番組に興じていた子供の頃に同じ北海道の東端でそのような生活の在ったことに衝撃を受けたものだった。
淘汰された農家の開拓地は、やがて放牧地へと転換されて行った。

1970年代の末に乗った標津線の車窓は、ミズナラやシラカンバの林を散在させて、どこまでも放牧地や牧草地が続いた。開拓され尽くした土地を見ていたことになる。原野の面影は台地に浅い谷を刻む水流の周辺のササやハルニレ群落に残されるだけだった。
けれど、それは原初景観を見るようにどこか茫漠としていて、停車する駅名を読んでいないと自分がどこを走っているのかわからなくなるのだった。今思えば、酪農地として在るなだらかな畦りの開墾と変転の歳月が霞の彼方から立ち現れるように車窓を過ぎるのをぼんやりと眺めていたことになる。
列車設定が5往復しか無いここへ幾度か通ったのは、そんな漠然とした風景に誘われてである。一日に一往復などの蒸機列車の記憶も新しい頃ゆえ、撮影効率も気にならなかったのだろう。牧草地が緑であるよりも、それの雪原を好んだ。

この日は、平糸の粗末な木造乗降台に降りて線路際を歩き、ミズナラの林を過ぎた所で牧草地に上った。撮影方向と位置を把握してからでないと、自分の足跡を撮ることになる。
列車は355D、中標津行き。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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