"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

銀山 (函館本線) 1975

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函館運輸所に配置のDD511142には、2014年度末日を以て用途廃止の措置がとられた。四半世紀に及んだ本州連絡夜行列車群の撮影では、ファインダに確認する機会の最も多かったと記憶し、それらの最後を見届けるものとばかり思っていただけに意外感が残る。

DD511142号機は、1974年度第一次債務車両計画にて発注され、日立製作所笠戸工場で落成して、1975年6月27日に当時の北海道総局に配属、岩見沢第二機関区の配置とされるも、同年12月1日付では1141・1143の僚機と共に小樽築港区に転じて、主には函館線区間に運用されていた。
1974年度と云う年は国鉄の無煙化計画の最終局面にあたり、北海道や山陰地区に残存したD51やC57蒸機の一掃を目的とした、74年度本予算での51両と前記第一次債務計画での38両の計89両とは、1962年度が初年度であったDD51形式内燃機の単年度発注数では最大両数であり、以後1975・76年度と続いた発注は既に山陰地区のDF50にDD54の内燃機の取替用であった。
つまりは無煙化目的では最後に増備の一群となり、89両の内、1092-1103・1135-1169の45両がA寒地仕様車とされて、75年の1月から9月に架けて旭川・岩見沢第二・小樽築港の各区に投入、石北・宗谷線や道央地区の蒸機を放逐したのである。なお、1135号機のみは、5月に東新潟区に新製配置の後、9月までに鷲別区へと転じていた。磐越西線での夏季輸送に応じた措置であったろう。

小樽築港区へのDD51機の配置は、1973年4月の2両が最初の事例であるが、一般装備機であったこれは関西線無煙化用途を要員検修と道内の夏季旅客・秋季貨物輸送を兼ねたもので、年内には本来の配置区である亀山区へと去り、この年10月1日改正を以ての函館山線区間の完全無煙化は、篠ノ井・中央西線電気運転にともなう篠ノ井区および稲沢第一区からの25両(一部は短期間の五稜郭区や鷲別区配置を経て転入)と、1972年度第二次債務計画で新製の7両にて為されたのだった。
以後も増備は続くのだが、1974年7月の3両を除けば、何れも本来配属の前使用の多くて定着しなかった。上記の1974年度発注車からも1975年3月から6月に12両の配置があったものの、内8両が同年10月から翌1月の間に鷲別区や岩見沢第二区へと転出し、それに替わって転入したのが1141・1142・1143の3両だったのである。岩見沢第二との間でこの3両が差替えられた事由は分からない。
とまれ、1142号機は小樽築港区で11年近くを過ごし、年度末の民営化を控え継承体制を確立した1986年11月1日改正を以ての同区の乗務員区化に際して、連番で揃っていた1136-1143号機と共に岩見沢第二区を改めた岩見沢機関区へと転じた。この改正では旅客鉄道会社と貨物鉄道会社への承継車の振分けが行われ、それがどのような基準に拠ったものかは知り得ぬのだが、岩見沢区への配置には将来の特急機の座が約束されたのだった。

北海道旅客鉄道に所属したDD51機の25両が岩見沢区改め空知運転所に集中配置とされた1990年7月当時、本州連絡列車群の牽引は最大で7仕業に13両の使用だったから、重連の本務機となる確率はその半分、出区から帰区まで本務と次位補機の役目の入れ替わるだけの運用を上下別にすれば、さらに半分の25分の3(12パーセント)程度となる。けっして高い数字とは思えぬのだが、それにしてもこの機関車にはよくよくに出逢っていた。

新製後、最初の冬を迎えた頃の1142号機。121列車の旭川行きを牽いて銀山に到着した姿である。
小樽築港機関区に転じて10日足らずなのだが、既に同区配置車に特徴的なスピーカが設置されていた。蒸気暖房用接続ホースは使用中と云うことなのか、所定のホルダに掛けられていない。
付け加えさせていただけば、続く函館所のスハ32・スハフ32は、これが優等列車用であった当時を思わせる程、重厚に整備されていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

小沢 (函館本線) 1975

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無人の原野に、まず鉄道の停車場が開かれ、その駅名が地名へと転化した事例は道内に多々ある。事情はやや異なるけれど、現在の岩内郡共和町小沢地区、即ち小沢駅周辺の集落地名もそのひとつではなかろうか。

旧小澤村の村名の由来は、sak-ru-pes-pe(サクルペシペ=夏道に沿って下る川の意、転じて夏の交通路を指す)の意訳からと云われているが、1939年に北海道鉄道局の発行した「北海道駅名の起源」の小澤駅の項には、「起源は詳らかでない」と記されている。いずれにせよ、幕末期には岩内平野の最奥に和人集落として小澤村は存在し、それは開拓使の時代にも引継がれて、1901年に行政区画としての岩内郡小澤村他一ヶ村の戸長役場が小澤村に開かれているけれど、その位置は国富とされ、当時にはそこが小澤村の中心集落だったと伺える。同年に小澤郵便局の置かれたのも国富地区であった。
けれど、1904年7月18日に稲穂嶺に隧道を穿って小澤村に達した北海道鉄道(初代)の停車場は、セトセ川の谷を下ると掘株川を遡って倶知安峠へと至る国富を経由しない線形に、ヤエニシベの三田農場下に用地を求め、駅名に村名からの小澤を名乗ったのだった。ここへの停車場の設置は、徳川幕府により1857年に御手作場の設けられるなど早くから和人の移住の進んだ岩内平野一帯や、1900年には一級町村となった岩内町との結節点としてのことであり、そこに集落の存在した訳では無かったと思われる。それは駅前集落として形成され、小澤村の字小澤と呼ばれたのは駅名からの派生であろう。駅による利便からは1905年には小澤郵便局も移転していた。

開駅時の小沢は、稲穂・倶知安の二つの峠の狭間での給水に欠かせぬ地点ではあったけれど、基本的には中間駅に過ぎず、規模は小さかっただろう。以前に 小沢 (函館本線) 1975 にも書いたけれど、それの拡張は1912年11月2日の岩内軽便線の接続を機に行われたと見える。1908年にはシマツケナイ川の谷筋に黒鉱を産出する国富鉱山が開発されており、翌1913年に同線国富からの専用線が稼働すれば、製品の出荷のみならず、周辺鉱山からその精錬施設への鉱石搬入拠点として機能したのだった。1980年代まで残ったマンサード屋根の大きな駅本屋は岩内線との乗継ぎ旅客に、多くの駅要員の詰めるに必要な規模だったのである。
けれども、集落経済を背景に立地した駅ではなかっただけに、近年に岩内線を失うほどに旅客・貨物の道路交通への流出の進み、加えての函館山線の幹線からの脱落に至っては忘れられた駅となった。

かつてには当たり前だった駅の光景。当務駅長に見送られ524Dの長万部行きが出発して往く。
重厚な駅本屋に旅客跨線橋、有効長のある乗降場と上屋には、ここは間違いなく主要駅だった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

塘路 (釧網本線) 1975

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北海道の拓殖初期に利用された輸送路は河川であった。それは拓殖のインフラそのものであったから遡行の可能な河川河口に港の開かれ、開拓民の上陸地や物資の集散地として拠点化したのである。釧路川河口に市街地の形成された釧路もそのひとつに数えられる。特に釧路川は中流から下流域に広大な低湿地が存在する緩やかな河川勾配に奥地まで遡上出来たのだった。
ここには、釧路郡漁場持だった佐野孫右衛門(4代目喜代作)が1876年に釧路標茶間航路を開設している。自身による硫黄山(アトサヌプリ)から採掘の硫黄搬出が目的であった。馬の背で標茶までを運ばれた硫黄は、そこで五十石船に積込まれ(これが釧網線五十石駅の謂れである)、川幅の広く水量も豊かとなる下流域では百石船に積換えられた。その積換え地点に選択されたのが古くからの先住民の居住地であるトオロコタンが所在した位置であった。そこの釧路川と水路にて繋がる大きな湖を繋船地として積換え施設の置かれたものと思われ、船頭や人夫達も常駐したことだろう。云うまでもなく、現在の塘路に湖は塘路湖である。ここは先住民の意志に関わり無く、1869年には開拓使の命を受けた佐賀藩による支配地として川上郡トーロ村とされ、開拓使根室出張所の管轄となった後の1875年に「塘路」との漢字表記が当てられたのだった。
硫黄採掘事業が内地新興財閥たる安田善次郎の手に渡り、1888年に馬の背に頼っていた標茶までに専用鉄道の建設されると、水運区間も小型蒸気船に置替られ、塘路での積換えも廃されるのだけれど、同年から翌1889年に架けての釧路集治監の囚人達の使役による標茶から釧路への河川の氷結する冬季に対応した陸上輸送路の開通には、途中二ツ山と遠矢と共に駅逓所の開かれるところとなった。1885年には川上郡4ヵ村の戸長役場も置かれて和人の定住も進んでいたのだろうが、塘路の地域拓殖拠点化の嚆矢であろう。やや時代の下るが、1912年度の「植民公報」でのデータでは162人の居住とある。
但し、当時にこの地域への拓殖入植は成立したばかりの北海道庁の思惑に関わらず進展を見せたとは云い難く、1892年の香川県から塘路への「貫誠社」11戸、1897年の山梨県から磯分内への山梨団体17戸の集団入植がどちらも1年足らずで離散するなど、冷涼な気候に定着を阻まれていたのである。塘路の162人の大半は役人を除けば林業や塘路湖での水産関係従事者とその家族だったと思われる。

一方、1910年代には寒冷地作物として馬鈴薯や燕麦の栽培が成功し、1927年の釧網線の開通には1930年代に掛けてようやくに周辺への入植も進展を見せ、道庁による植民軌道が国有鉄道線から奥地の開拓地へと建設され、地域拠点とされた塘路には1930年に久著呂線が、1934年には阿歴内線が接続する。
塘路駅における貨物扱高を1932年度の貨物統計に拾えば、この時代に至っても年間におよそ3千屯の発送貨物の大部分を、木炭に薪の林産加工品に木材・丸太そのものが占めていたものの、僅かながらに農産品も確認され、周辺開拓農家の商品作物の安定出荷に植民軌道から国有鉄道へのネットワークが有効に機能し始めていたと知れる。
以来に塘路は人的往来に物資輸送にと名実共に拠点化し定住人口の増加も招くのだが、それも戦後1950年代までのこと、周辺道路の整備が進む1960年代ともなれば自動車輸送への転換に単に接続点に過ぎなかった拠点機能は失われるしかなく、ここでの貨物扱も1973年2月5日に施行の釧網線東釧路-標茶間の営業近代化により廃止されてしまうのだった。

ここに幾度か降り立つようになるのは、その頃のことであり、商業施設の集積にまで至らなかった市街地はそう呼ぶには些かおこがましく、駅横の鉄道官舎群ばかりの目立っていたと記憶している。
塘路駅下り線ホームに停車しているのは上りの636列車、網走行き。613D<大雪1号>との行違いを待っている。
待合室から外にカメラを向けていると、受託荷物を運びに行っていた駅員が戻りしなに「急行乗るのか?」と声をかけて来た。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい更新の滞り気味です。3月末頃までのこととご容赦下さい。


小沢 (函館本線) 1975

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北海道を旅して鉄道沿線にも廃校を見るようになったのは1980年代から此の方のことである。けれど、小学校の統廃合はその時代に始まったわけでは無い。

道内のルーラル地域における小学校は、拓殖の初期から入植者自らが設けた教習所に端を発する事例も多く見られる。定住を意に決していた彼らにとって子弟の教育は最大の関心事だったのである。富国強兵を国策とした新政府もまた、国民管理の拠点にそれを要して入植の進展と共に開拓地には遍く、当時に尋常小学校と呼ばれた初等教育機関が設けられたのである。
戦後には「緊急開拓事業要領」による開拓入植の進展に、成立間もない文部省も戦後教育に熱心であった時代ゆえ、そのような開拓地にも次々と分校の開かれて往き、道内では1960年度の2343校でピークに達する。
以後に減少に転ずるのは、迎えた経済の高度成長期に早くも農村からの人口流出の始まったことを意味して、社会構造の変革からもそれの続けば70年代に架けて統廃合が進展したのだった。炭鉱の閉山も関係していようが、1968年度から72年度への4年間などには実に200校が失なわれている。
この時代の統廃合は山間奥地が中心であったゆえ、鉄道線路から離れない鉄道屋にはそれの見えなかっただけであり、1980年代に人口の集積していたはずの鉄道沿線地域に及ぶに至るまでの認識の不明は恥じるしか無い。
それは農村や中山間地集落の縮小に加えて劇的に進行しつつ在った少子化による児童数の減少を背景にしていたのである。調べてみて驚いたのだが、児童総数は1982年度を最後に前年を上回ることが無くなっており、この時代には廃校となった分校の児童が数キロ先の本校へと徒歩で通う姿などの現れていたのだが、今度は経済論理により「政策的」な統廃合の進められるところとなったのである。先の1982年度の1802校は30年後の2013年度に1154校にまで減じた。この間、毎年にほぼ21校ずつの失われた計算になる。
地域コミュニティの拠り所となっていた学校の消滅が、どれほどの喪失感を住民に与えたかは想像に難く無い。それは例えば鉄道や駅の廃止など細微とする程であったろう。

小沢街区の外れには共和町立小沢小学校が所在していた。1903年1月15日の開校は鉄道到達の1年程前であり、それを見込んでの開拓入植の続いていたのだろう。「小学校令」(1900年8月20日勅令第344号-通称の第三次小学校令)に基づく小沢村戸長役場の尋常高等小学校としての設置であった。
函館本線の線路が校庭の北側を通過して、それは校庭への植樹の落葉する冬に限られたのだけれど、木造平屋の好ましい校舎を鉄道との写材にさせて貰っていた。この日は校門の側から、何処の学校にも在った二宮尊徳像を画角に列車を待ったのだが、天候の急速に崩れて吹雪模様となってしまった。
樹木が些か邪魔をするけれど重連のシルエットは104列車<ニセコ1号>である。

小沢小学校は1981年度末を以て、周辺5校と共に国富地区に用地を求めて開校の東陽小学校に統合されて廃校となった。趣の校舎は解体され、跡地には体育館建物を流用した小沢体育館と小沢ふれあいセンターが建つ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250@f4 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

生田原 (石北本線) 1975

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石北本線の遠軽-北見間は、湧別軽便線として1912年から1915年にかけて順次延伸開業した区間である。この国有鉄道唯一の762ミリ軌間を含んだ線路の沿革については、以前に 常紋信号場 (石北本線) 1983 から3回に分けた記事に書いている。
ここに開業時に置かれた、安国(旧下生田原)、生田原(旧上生田原)、金華(旧奔無加)、相ノ内(旧上相ノ内)、東相ノ内(旧相ノ内)の各駅には、当時からの特徴的な配線構造が残されている。これは後に名寄本線に含まれた同軽便線出自の開盛(旧社名淵)、上湧別も同様であった。
これらには、行違いの上下本線が島式乗降場を挟みながらも、一方はそれを使用すること無く駅本屋に接しても設けられた乗降場で扱いを行う設備・配線が採用されていたのである。その本屋側本線が両側で乗降場に接するところが特徴的と云える。同様事例の多くを認めるものでは無いから、湧別軽便線に積極的に取り入れられた設計として良かろう。
けれど、それに至った思想背景は良く分からない。待避線を、この構造に依らない留辺蘂と遠軽、名寄線区間の中湧別の設備とした行違いの上下本線のみには島式で事足りたと思われる上、金華を除けば一方の本線外側には待避線としても用いられたであろう貨物着発線を持つのである。
道内での類例は函館本線の赤井川に一例のみ存在し、1904年開設のそこでは本屋側本線を上下で共用し、島式側を待避線に専用することで本線側運転列車による島式乗降場との通行遮断を回避していたのである。敷地上の事由から乗降場の千鳥配置の取れなかったゆえの措置と考えられる。けれど、この石北線各駅は千鳥状に近い配置となっており、本屋側に上下列車の着発したでもない。
事情ご存知の方のおいでなら、是非ご教授頂きたい「謎」のひとつである。

写真は生田原で対向列車を待つ521列車。
白滝方面や名寄線、湧網線などの撮影後、北見へ夜行<大雪>を迎えに往くのに、この列車には良く乗っていた。網走まで乗りたいところではあったが、北見で50分近く停車するものだから<大雪>の網走発車に間に合わず、それには北見で連結の回転車と云うことになっていた。
混合列車が主体であった石北線普通列車の中で札幌連絡(上りは小樽行き)の521・522列車は別格で、<大雪>とともに郵便・荷物輸送も担う重要な地位にあった。上川以遠釧路までの区間で蒸気暖房によるのもこの2列車に限られ、写真の情景は、この列車ならではだったのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f11 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

富良野 (根室本線) 1975

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後志・石狩・空知管内の21事業者の戦時統合により発足した北海道中央バス(当時には北海道中央乗合自動車)は、その営業域に含まれた道央の基幹交通軸での都市間輸送に熱心であり、1962年4月15日には札幌-旭川間と同芦別間に直通特急便の運行を開始していた。
第一期北海道総合開発計画の進展にともなう道央地域の活発な経済活動を背景とした旅客流動の増大に、国鉄が気動車による都市間準急列車網(ビジネス準急と呼ばれた)の整備を進めていた時期であり、多分にそれを意識してのことだろう。
上芦別への運行は、芦別・赤平地域が人口13万人余りを擁する炭都であった故である。国鉄準急の2時間の所要時分に対して3時間を要したけれど、日中に30から40分毎の運行頻度と低廉な運賃に需要を確保したのである。これの都市間高速バスへの再編と富良野への延長は1984年9月1日のことで、1981年10月の石勝線開業にともなう富良野経由優等列車の激減以降に、国鉄が積極姿勢を採らぬのを見極めての施策であろう。前年11月9日の北海道縦貫自動車道の札幌ICと岩見沢IC間の供用開始も背景にしていた。当初に朝方と夕刻の2往復は次第に利用を伸ばして増便を重ね、87年発足の北海道旅客鉄道が一時本線急行に併結の直通列車(根室線内快速)を復活して対抗した時期もあったものの、バスのフリークエンシィに敵うはずも無く鉄道側の完全撤退を呼び込むことになった。1990年の富良野・芦別・赤平を合わせた沿線人口の7万人余りは、最早鉄道に新たな投資を呼び込むインセンティヴとはなり得なかったのである。現在に富良野連絡はバスが独占する。

幹線駅の地位を失った富良野は往時に比すれば一回りも二回りも小さくなった。シーズンに観光列車で暫し賑わうものの、それも近年には縮小傾向に在る。同じ境遇の倶知安と異なり貨物(コンテナ)扱い施設の維持されたのが救いかも知れないが、方や将来の新幹線駅ではある。
幹線の主要駅らしく乗降場の大半を覆った木造上屋は、多雪に対応してその重みを負担する腕木が各柱に設けられていた。それの連続する様は鬱陶しく、重苦しくもあったけれど、多くのスキー客の乗降したこの駅には相応しい景観にも思えた。
但し、重厚な趣の木造本屋は1974年12月20日に現在のRC構造に建替えられて、この上屋とは如何にもアンバランスではあった。

1番線ホームの跨線橋下に到着したのは442D、落合からの札幌行き。この間を5時間を費やして走っていた。ここで上下<おおぞら>を退避して30分ばかりを停車する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f8 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

小沢 (函館本線) 1975

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小沢駅構内には特徴的な形態の旅客跨線橋が現存している。乗降場との昇降階段部屋根が跨線部より一段低いそれは、跨線部端より通路を階段とし、階段部の上部に踊り場を設置した設計による。
これの建築年は今のところ調べ得ていない。そこには「明治」と打ち出された金属製の建築物財産票(財産種別は旅客上屋とある)が打ち付けられているのだが、既に「年月」の刻印は読み取ることが出来ない。もっとも、北海道鉄道(初代)の開設であるこの停車場では、その当時より当該跨線橋の存在したとしても、刻まれたのは1907年7月1日付での買収以降の「年月」である。
古い写真や絵葉書を閲覧すると、同じ北海道鉄道出自の八雲に倶知安の他、帯広、岩見沢、苫小牧、栗山にも同形態の跨線橋の存在が見て取れる。この内、岩見沢での1898年、帯広の1909年、苫小牧の1911年の設置が鐵道院年報等で明らかであり、八雲も二代目駅舎への改築に合わせてならば1915年となる。北海道炭礦鉄道運営当時の岩見沢を除き、いずれも鐵道院北海道鉄道管理局による建築である。
おそらくは小沢も同時期と推定され、最も可能性として考えられるのは1912年11月1日の岩内軽便線の接続時点だろう。その開業は鐵道院年報に只の一行が費やされるだけなのだけれど、本線本屋側への乗入れには乗降場の増設は勿論、本屋の改築も伴ったかも知れない。翌年に国富停車場が開設されて国富鉱山への専用線が分岐すれば、ここからの貨車の煩雑な出入りに跨線橋を要したのだろう。
ところで、その1912年を考えれば、1898年の「鉄道建築定規(鉄道工事設計参考図面-停車場之図)」に、1900年の「停車場内建築定規」の共に鉄道局通達により停車場建築の標準化の進展した時期にあたり、1912年11月に設置の野付牛(現北見)の跨線橋は、確かに1909年12月達第1044号の「停車場内跨線橋定規」に示された図面に準拠したと思われるのだが、小沢のごとき設計はそれには見当たらないのである。1898年の北海道炭礦鉄道による岩見沢への設置に端を発したものとすれば、これは北海道の私設鉄道に流れを汲む例外的形態となるのだろうか。

永年の風雪に耐えたその外観の、絵葉書に示された往年の八雲や倶知安の姿との比較では、跨線部に架設の鈑桁や階段部の屋根まで延長された一部の鉄骨は後年の、おそらくは戦後の補強・改修と見える。さらに踏み込めば、木造の上部構造とて腐食には更新の行われたことだろう。かつてには木製だった窓戸(写真のごとく)も然りである。従って、1912年の設置と仮定しても100年を経て残る部材は一部に過ぎないだろうが、他駅のそれが全て失われた現在では往時の姿を伝える希有な存在に違いはない。歴史的建造物としての保存に十分な価値がある。

外の強風を避けて列車を待つ親子。上りへの乗車は倶知安までの一駅だろうか。
踊り場からそっとスナップさせてもらった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/60sec@f5.6 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上目名 (函館本線) 1975

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静寂の戻った上目名。喧噪の頃には撮れなかった構内風景である。
この信号場のようだった駅の開業は、線路の開通からおよそ10年を経過した1913年9月21日と記録される。列車回数の増加にともない熱郛-目名間の15キロあまりに列車交換の必要を生じての設置であろう。寿都郡・磯谷郡を分ける分水界を頂点に五十分の一勾配(=20‰)が連続する区間ゆえ、その頂点位置となる第二白井川隧道の出口側に用地を求め、函館桟橋起点147K637Mから148K150Mの500メートル区間にレヴェルを得て構内としていた。

先住民族による「mena」とは「細い支流」の意であり、現在の尻別川支流の目名川を指したものであろう。蘭越町の町史を読むと、その合流点の一帯、メナフトと呼ばれた地域が当初の目名と知れる。尻別川流域への入植は河口部から始まり、モリベツ(現在の初田)周辺地区を経て、1883年にメナに至った。現在の名駒地区である。ここが目名の中心集落となり、その上流域が中目名、上目名と順に名付けられた。中目名が現在の目名町であり、上目名とされたのはカイカラ沢と呼ばれた貝殻沢川の流域あたりであった。このカイカラ沢には1901年に駅逓が置かれ1906年には教育所が開所とあるから、その頃までには開拓の進んでいたのだろう。
1913年に開設の函館本線の停車場は、もっとも近い集落であったこの上目名を名乗ったのである。これを信号場とせず旅客も貨物も扱ったのは、当時に鉄道の建設や駅の設置は周辺の開拓に資することが求められたゆえと思われる。実際に構内下り方に続く長い雪覆いを抜けて左に回る辺り、起点149キロ付近で車窓左下に見える樹林に還りつつある平坦地は、かつての開墾地である。その先の上目名川沿いに開拓農家が在ったと云う。
加えて、1935年にはその上流の大玖山に黒鉱の鉱床が発見され、1940年より本格的な採掘が行われた。大玖鉱山である。上目名駅は鉱石の積出駅となり、それは国富の製錬所に送られた。蒸機ブームに湧いた1970年頃を30年遡って、駅本来の賑わいがここに在ったことになる。ここは確かに、峠の駅には不釣り合いな駅前広場を持っていた。積出には不可欠のスペースだったのだろう。

函館山線区間において唯一、ここは島式乗降場の駅でもあった。上下列車の扱いの便から互い違いに配置の対向式乗降場ばかりの中に在っての島式の採用の事由は知れない。峠頂上と云う用地の制約からだろうか。このお陰で、本屋側の下り本線に先に列車の入ってしまうと、上りから降りてもすぐには本屋に向かえず、それに乗ろうとすれば下りの客車のデッキによじ登らねばならなかった。写真のごとくに、である。
列車は121列車。524Dとの行違いを待つ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

銭函 (函館本線) 1975

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苗穂工場敷地にガソリン動車キハニ5000の5005が保存・展示されている。1929年に鉄道省最初の内燃動車として製作された形式であり、札幌鉄道局には2両が配属されて東室蘭-室蘭間に市内交通のフリークエントサーヴィスを提供した。事業用車への改造を経て廃車後に苗穂工場で倉庫代用となっていたものを、同工場の70周年記念事業にて原型復元したのである。ただ、車体の所属表記の[名カキ]や取付けられた行き先札の[仙䑓-塩竃]は、確かにこの形式の現役当時の配置先や運用区間ではあるが、苗穂での保存には些か腑に落ちない。
前置きが長くなってしまったが、話は同車の外観上の特徴ともなっている車体端の屋根に設置された機関冷却水の放熱器である。この冷却水は機関からここに至るまでに客室内に回された放熱管を経由した。即ち、この車両の暖房装置は温水式であった。
機関廃熱の有効活用は内燃車の暖房としては理想的であり、1962年度以降に国鉄気動車の標準方式となった温水暖房の嚆矢には違いないけれど、それはこのままに順調に発展したものでは無い。キハニ5000の原初的とも云える温水暖房は機関の出力から、このような小型車はともかくも広い客室の暖房には容量が満たせなかったのである。

従って、これに続く機関を床上に装備した大型車体のキハニ36450は、蒸機発生装置を荷物室に搭載する蒸気暖房方式が採用された。やや時代の下って1937年に総括制御をねらって製作された3両固定編成の電気式ディーゼル動車-キハ43000も中間車のキサハ43500に重油燃焼式のボイラを積んでいた。しかしながら、これらは暖房容量を満たしても車体重量の増加をもたらして普及すること無く、内燃動車の暖房には、機関の排気を循環させる排気暖房の試行を経て、客室内への漏洩事故の危険からそれにて暖めた空気を室内に送気する暖気暖房に落ち着いたのだった。但し、当初より暖房を設備していない形式も多々存在した。
と偉そうに書いているが、実はこの暖気暖房がどのようなものであったかを見たことが無い。1960年代の地方私鉄には自社発注や国鉄から払い下げられた機械式内燃車が残存していたのだけれど、この時期ともなれば後述の温気暖房に換装された例が多く、暖気式を維持していたのは江若鉄道に21両がまとまっていた以外は10社で64両に留まっている(温気暖房との併用を含む)。道内では留萌鉄道にキハ1000と1100の計3両が記録されているが、残念ながら乗っていない。これらは1955年と59年製にもかかわらずの暖気式の採用は、後に述べるように道内のごとき寒地に温気式は容量が不足したのかも知れない。
せめて、室内への暖気吹き出し口の形状でも見たいと写真を探すも見つからなかった。ご存知の向きがおいでなら御教授願いたい。

キハニ5000での温水式暖房は紆余曲折を経て、戦後のキハ22にて国鉄気動車の標準方式となる。それに不可欠であった温気暖房器の開発も含めては次回とする。
(この項 門静 (根室本線) 1981 に続く)

写真は石狩湾岸区間での堂々足る遜色急行、904D<らいでん2号・いぶり>。
後追い撮影の後部1両が小沢解放の岩内行き、2両目が倶知安からの<いぶり>、前部2両が上目名行きである。
この頃、苗穂には21両ものキハ21の配置が在りキハ22と共通使用されていたのだが、さすがに急行列車を含む運用は区別されていたと見え、それが<らいでん>に入ることは無かった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y52 Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

黒松内 (函館本線) 1975

kuromatsunai_02-Edit.jpg

8620の牽く水郡線列車の木造客車に乗る姿は親父の撮った写真に残るけれど、幼少の自分に記憶は無い。オハ31には微かに記憶の在るものの、1950年代の末に小樽から札幌への「お出掛け」に乗った、窓と座席の合わない客車がそれと後になって知った程度である。この形式は700ミリ幅3個組の客窓に二つの座席区画が割り振られた設計だったから、子供の眼にはそう見えたのだろう。
魚腹台枠を持つ17m級鋼製客車だったこれが、その構造ゆえに1960年代半ばまでには一掃されたのに対して、経年で大きくは変わらない20m車体のスハ・スハフ32は80年代まで生き残ったから、その組成列車を良く眺めもしたし乗って旅もした。オハ35からの1000ミリ幅の広窓も良かったけれど、ひとつの座席区画に高さ740ミリ/幅600ミリの客窓の2個が並ぶ、その「ひとりひと窓」が気に入って、編成にこれがあれば選んで居場所を決めたものだった。
もっとも、道内に限ればオハ35(オハフ33)の配属は以外に少なく、急行列車の14系化でスハ45・スハフ44が大量に捻出される以前の本線系統の長距離普通列車は、この形式が主力ではあった。函館本線の121・122列車に宗谷本線の321・324列車や石北本線の521・522列車、根室本線の421・422列車などである。旅客車がこれで揃った美しい編成をご記憶の向きも多かろうと思う。
内地の、例えば東北線筋の同形は古びた印象が強いのだが、道内車はいつも奇麗に整備されていた記憶があり、特に、函館本線系統列車は函館客車庫以来の伝統なのか、必ず順位票(号車札)を差して優等列車然としていたことや、温気暖房機搭載のオハ・オハフ62主体の石北線列車にあっては札幌直通の521・522は別格の存在だったことも思い出される。同線仕業のDD51は、夜行急行とこの列車のためだけに蒸気暖房装置を稼働させていた。
函館山線夜行や根室線夜行(後の<からまつ>)にも組成されて、その窓側に肘掛けの無い、シートピッチ1455ミリは、閑散期にひと区画を占拠して対角線に横になるにはスハ45よりも快適であった。遅い時期まで白熱灯照明の車両も残存しており、減光の必要も無いような(実際にその仕様にはなっていなかった)古の夜汽車の旅も味わえたものだった。

写真は、121列車の旭川行きに組成された函館運転所のスハフ32。
この頃のダイヤで函館を6時20分に出て20時06分の終着は、全区間に乗って見たいような、乗りたくも無いような列車であった。
内地で多客期の臨時急行への組成を見かけると、あまりの格差に愕然としたクルマだったけれど、北海道のこれで揃った編成は優等列車のように美しかった。

[Data] NikonFphotomicTN+P-AutoNikkor105mm/F2.5 1/125sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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