"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

網走 (石北本線) 1974

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旭川鉄道管理局管内石北本線で最後まで蒸機牽引で残ったのが、北見機関区のC58の牽いた北見-網走間の1527・1528列車であった。云わずと知れた517・518列車<大雪5号>(1975年3月10日改正当時)の末端普通列車区間である。

この列車の運転は、戦後間もない1949年9月15日改正(東海道線には特急列車の復活した改正である)にて函館-網走間に設定の503・504列車に始まる。但し、これは旭川-網走間を準急運転としていた。石北線末端区間を各駅停車とするのは1950年10月1日改正からのことで、列番を505・506列車に変じて札幌-北見が準急区間とされた。翌1951年4月1日で505の準急区間が遠軽までに短縮されるのは、燃料不足の当時に近接した時間帯の普通列車と統合したものだろう。これは1956年11月19日改正で旧に復す。そして、1958年10月1日改正を期して列番を503・504列車に戻して<石北>の愛称が付与されるのである。
1964年10月1日改正で普通列車区間を区別し、123-507-517・518-508-124列車とされ、1965年10月1日改正にて123-517-1527・1528-518-124列車に改められて、ここに1527・1528の列番が現れる。
これは1966年3月5日を以ての急行格上げ、1968年10月1日改正での愛称名の<大雪>への統合、1970年10月1日改正の函館-札幌間123・124列車の分離後も長く維持された。

この北見-網走間は、この区間での始発、最終列車として通勤・通学輸送を兼ねており、下り大垣夜行でのご経験の向きが多いと思うが、通勤客は乗り込んでも寝ている夜行客に座席を独占され、夜行客は通勤客に起こされで、双方が気まずい思いをしていたものである。
1980年10月1日改正に至って、ようやく同時間帯の北見発着<しれとこ>との振替が行われて、<大雪>は全区間が急行運転となった。82年には座席車の14系置替が予定されたから、それに定期客は乗せたく無かったと勘ぐりたくもなるが、現実には<しれとこ>の直通客も、また通勤利用客も2両編成の気動車で事足りる程に減っていたのである。

写真は網走で発車を待つ1528列車。通路線にも機関車が停まっていてそれも撮ったものなのだが、お陰で肝心の急行編成は見えない。
この当時の所定10両組成は第二乗降場の有効長を上回り、後部の荷物車/郵便荷物車をそれに納める必要から前部側の普通車2両はホームに掛からなかった。

以下は全くの蛇足である。
蒸機を機関区等の現場では「カマ」と通称した。ボイラを載せているから「罐」なのは、当時からの鉄道屋なら百も承知のことと思う。それは電機や内燃機に取って代わっても引き継がれ、それらも慣習的に「カマ」であった。
部外者であるファンに、これが専門家気取りに広まったのだろうが、蒸機の時代を知らぬ若い世代には「SLブーム」再来とは云え、由来が伝わらなかったと見える。最近に「凸釜」や「星釜」「カシ釜」云々の表記に出会い、申し訳ないが爆笑してしまった。確かに罐-火室に飯盒を放り込んだ話は機関士に聞いたことが在るけれど、本来に機関車は飯炊き道具では無い。
付け加えさせて頂けば、カマが一台とか二両などの数上げもあり得ない。罐とした以上水を呑み込むのだから、それは一パイ、二ハイと数えねばならない。これも慣習的に電機・内燃機でも同じである。
押し掛け趣味の代表でもある鉄道趣味にて、なにも部外者が現場の符牒をマネしなくとも良いだろう。「機関車」で十分と思う。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 Bulb@f4 Nonfilter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCC on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1974

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北海道電化の頃のことは良く覚えている。札幌地区の鉄道には一大変革であったから鉄道雑誌や北海道新聞の記事をむさぼるように読み、1966年11月からのED75の、1967年2月からの711系電車の試験運転は何度か眺めに行っていた。ハーフ判カメラを手にしていたけれど、拙い画像は個人記録の域を出るものでは無い。
「函館線電化」では無くて「北海道電化」とは不思議な言い回しだが、当時にはそう呼ばれていた。これは函館本線ばかりでなく室蘭本線に千歳線も含めた道央/道南地区の電気運転計画の総称であり、1958年に着工の門司港-久留米間「北九州電化」と同様に、中央の国鉄本社から見ればそうなるのであろう。

1958年2月に国鉄部内に設置された動力近代化調査委員会は、40回に渡る専門委員会の開催を経て1959年6月19日に総裁に対して答申を行った。そこでは、1958年度末の既電化区間2500kmに加えて「主要幹線約5000kmを、遅くとも15年以内に電化」すべきとされ、これには道内の長万部-小樽間を除く函館本線、室蘭本線、千歳線が含まれていた。
この答申を受けた道内の電化計画は、1964年1月に国鉄北海道支社に設置された「電化計画委員会」に始まる。北海道開発庁による1963年度からの「第二期北海道総合開発計画」において旭川・小樽から室蘭に至る道央各都市への第二次産業の誘致・育成が盛り込まれ、当時に陸上の基幹輸送機関であった国鉄は、対本州の輸送力増強と輸送時間の短縮ばかりでなく道都札幌とこれら都市を結ぶ輸送網の整備をも迫られていたのである。
この委員会にて立てられた計画案は道内の電化を三期に分割して実施するものとされ、第一期の小樽-旭川-永山間を1968年度に開業、第二期を室蘭-岩見沢間と千歳線区間として1971年度に、第三期を函館から東室蘭の区間にて1973年度を目標にしていた。この内の第一期計画は1965年11月に国鉄理事会の承認にて着手が決定、直ちに工事認可(1965年12月3日運輸大臣認可)を得て、銭函-手稲間と定めた試験区間の手稲構内に電化1号柱が建植されたのは翌1966年5月のことであった。
滝川までを1967年度、全区間を北海道が開基100年と位置づけた1968年度の開業を予定したのだが、車両側に生じた誘導障害や試験区間で明らかとなった冬期間の設備保全などの技術面の解決などに時間を要して、小樽-滝川間は1968年7月25日に通電・加圧され、試験運転を経た8月28日に開業、以遠旭川までは、1965年8月に着工していた納内-近文間の別線複線の神居トンネルにおける難工事から、それの完工を待っての1969年10月1日の開業と、それぞれ1年を遅れた。けれど、現在に至るまで道央の基幹輸送路に欠かせぬ設備となっている。

第二期と位置づけられた区間については、北海道総局からの計画概要に本社にて検討の開始されたのは1977年2月のことであり、同年12月12日の常務会にて計画決定され、翌13日の理事会の承認を以て、1978年1月9日に運輸大臣の工事認可を得て直ちに着工された工事は、1980年10月1日の開業と計画に9年を遅れることになった。そして、第三期区間の着工は見送られ続け、今後の着工もあり得ないだろう。
この遅れは、切迫していた財政上の事由もあるが、当時に政府内で進められていた北海道新幹線の経路問題が影響していた。それが1974年に小樽を経由する「北回り」に決着したことで、第二期計画区間との重複投資が回避されて、ようやく計画の進行したのであった。当時に整備新幹線は近い将来の着工が見込まれており、それも無理からぬこととも思える。
北海道総局の提出した計画では、石炭輸送の衰退から室蘭本線の沼ノ端-岩見沢間は削除されていたが、代替に第三期の函館-東室蘭間を先取りすることは無く、この時点で既にそれは放棄同然であったろう。その区間こそ新幹線の並行線ゆえである。であれば、この時点で室蘭から苫小牧の区間も削除されて然るべきなのだが、それの見直しの無かったのは、室蘭市を始め沿線自治体への対応と国鉄の官僚体質からだろうか。
1970年代前半の計画停滞が、その後の北海道電化の命運を分けたとして過言でなく、それに少なからず新幹線計画が影響した事実は覚えておいて良い。
周知のとおり、今その区間には数往復の特急電車のみに大規模施設が稼働を続けている。
(この項続く)

激しい降雪の石狩湾岸を往くのは、荷41列車。
銭函-手稲間の試験区間は1967年10月に朝里まで延され、ここの電車線路設備はそれ以来のものである。複線分を片持ちする巨大な鉄製電化柱は、ここに試用された独特の形態で他に例は無い。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 L37filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

小沢 (函館本線) 1974

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道内線区には幹線として開通しながら、後にその地位を奪われた例が幾つか存在する。何れも、より短絡線に代替されてのことで、釧路連絡線の一部であった富良野線、宗谷本線として開通の天北線、かつての網走本線だった池北線、それに替えて北見・網走連絡を担った名寄本線などである。
この函館本線の長万部-小樽間、通称の函館山線区間もその類型には違いないけれど、やや事情は異なっていた。噴火湾北岸の断崖地形を越えての長輪線の開通は岩見沢との短絡であったから、内地とを結ぶ貨物幹線とは成り得ても、その際に札幌連絡の旅客輸送が転移することはなかったのである。戦後に進駐軍専用列車の運行を契機に室蘭・千歳線経由運転の優位性が実証され、国鉄部内で地域交通線化が幾度か検討されながら、1961年10月改正で道内最初の特急列車が東室蘭経由とされた後に至っても、なお幹線の地位を保ち続けたのは偏に沿線の小樽市の存在ゆえであろう。
1904年10月15日に函館-小樽中央(現小樽)間全通を果たした北海道鉄道(初代)が、当時の幹線鉄道中最悪と云われた線形を以てしても渡島半島の縦断経路を選択したのは、噴火湾岸の断崖を避けたと言うより、札幌を凌ぐ経済拠点であった小樽を、そこに達していた北海道炭礦鉄道線との接続を無視出来なかったからに他ならない。
以来、小樽を経過地とする内地連絡列車は連綿と温存され続けたのだが、戦後においてその市勢が縮小して札幌経済圏に吸収され、内地への旅客流動も千歳空港方向となるに及んで、ようやくに(?)山線は幹線より没落したのだった。

国鉄が永年の懸案であった山線の地方交通線化を断行したのは、民営化を目前に控えた1986年11月改正である。先に記した各線区での事例が1900年代前期の鉄道が陸上交通の主体を担った時代のことゆえ、長距離優等列車が転移しても、そこは引続き主要な交通路であったのだが、希有な近年の事例となったここでは、ドラスティックに変化が進んだ。行き違い設備の撤去など施設の簡素化は云うに及ばす、線路等級の格下げにより保守基準も緩められたから、線路はたちまち細道と化して、女満別 (石北本線) 1973 にも書いたように、最近では列車走行空間も確実に小さくなっている。
棒線の上にダルマ駅と化した二股に蕨岱や、大きな駅本屋に10両編成対応の長い乗降場を持て余す倶知安もそうだけれど、この区間の零落を最も強く感じさせるのは小沢だろう。倶知安峠と稲穂峠の谷間に在って上下列車とも峠への緊張感を持って出発して行った駅は、岩内線の接続駅として多くの駅員を収容したであろうマンサード屋根の大きな駅本屋がすっかりと取り払われ、跡地への小さな待合小屋周囲には空疎な空間の広がるばかりの光景を見せる。風雪を刻んだ重厚な跨線橋だけが残されれば、なおさらの感がある。構内北側の側線跡へは周囲の植生が進出して、構内は一回りもふた回りも小さくなった。

蒸機運転の無くなって間もない頃、雪の降り始めの小沢駅。
積雪に備えて準備されたのは、ホーム上での手小荷物・郵袋の運搬用の橇である。永いこと使われたであろうそれは、無骨だけど丁寧に木を曲げて創られていた。岩内線ホームには朝の線内輸送を終えた気動車が佇む。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/250sec@f5.6 Y52 filter  Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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沼ノ端-遠浅 (室蘭本線) 1974

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失われた鉄道景観のひとつに保線小屋がある。
それに類する建物は、保線管理室やら保線センターなどと名前を変えた現在でも、その事務所なり詰所として拠点駅の構内に所在するが、一部を除く小駅構内や停車場間の線路際にそれを見ることは無くなった。
正式には、鉄道管理局の現業機関である保線区の担当区間延長を幾つかの線路分区に分割し、これをさらに細分した線路班とされる業務遂行の最小組織の作業拠点としての詰所、それの事務室や休憩室、用具用品庫を収容した建築物である。
主には線路班担当区域の駅構内に置かれたのだが、駅間が長大距離の場合など区域内の適当な地点に駅が位置しなければ、それを駅間に設置して、これは中間線路班と区別された。また、これらに付属して休憩所兼用具用品のデポ施設が駅間に設置されることもあり、正式名称は知らぬが、これも保線小屋である。
古い鉄道写真屋ならば、ロケハンに線路を歩いた折にでも、そこへと招き入れられて茶なぞ馳走になった経験もあるだろう。寧ろこれを保線小屋と認識する向きが多いかもしれない。一例として、宗谷本線の旭川起点252K500Mに在ったそれは、鉄道屋には馴染みの深い。放棄された後のそこで夜を明かした経験をお持ちの方も多いはずである。

時期に依っても異なるであろう、この線路班が道内にどれほど存在していたかは知り得ない。停車場間の長いここにおいては中間線路班も多くを数えたものと思われる。
胆振線の新大滝-御園間に所在した尾路遠線路班や根室本線札内-止若(現幕別)間の稲士別線路班のように官舎も併設されて、職員・家族が居住した大規模な例もあった。そこには、家族の利便を図って乗降台が設備されて列車が停車していた。関係者のみの利用に付き道内時刻表にも記載の無かったのはご存知のことと思う。類推すれば石炭輸送の幹線-歌志内線砂川-文殊間の焼山線路班、池北線の上利別-大誉地間の笹森線路班、室蘭本線大岸-礼文間の豊住線路班に幌別-登別間の富浦線路班も同様と思われるのだが、確証は無い。これらは周辺に集落も存在したのだろう。早い時期に乗降施設は駅とされていた。他に、一時的にせよ信号所として列車停車に対応した例は、函館本線銭函-手稲間の星置線路班、滝川-砂川間の空知太線路班、室蘭本線苫小牧-沼ノ端間の一本松線路班がある。
職住近接が原則であった国鉄現業機関において、交通手段が鉄道に限られた時代ならば何れの中間線路班も官舎を伴っていたとも考えられる。線路班の構成人員は5名から15名程度とされていたから、それなりの用地を要したことだろう。

保線作業最小単位としての線路班は、大型機械の導入を伴う集約等により1970年代には廃止・統合が始まり、放棄された建物施設自体もやがて解体されて姿を消していった。駅のみならず駅間にもこのような不休の職場の在ったことは、永く記憶に残したい。

写真は、ウトナイ湖畔の湿原区間を往く223列車、岩見沢行き。
画角左端に見えるのが、ここに在った東植苗線路班の詰所である。石炭輸送の最重要幹線上にて軟弱地盤での凍上や路盤沈下などに前記の一本松線路班ともども苦労した区所であったろう。この74年当時、既に常駐は無く間もなく廃止されたものと思う。

=参考文献・資料=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
デゴイチ保線野郎 : 藻岩三麓 札幌北書房 1972

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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倶知安-小沢 (函館本線) 1974

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青函を深夜便で渡れば、函館からは101D<ニセコ1号>である。
接続列車には<おおぞら><北海>の特急も在ったけれど、均一周遊券で乗れたのは急行自由席までだったから選択肢はこれしか無い。特急の走り去った後を追う、函館5時05分発は1980年10月改正での列車廃止まで不変で、札幌方面へと急ぐ客は特急に乗るゆえ、11便の25分後の1便で着いても空席のあるのも有り難かった。例えば1972年3月改正時点での所定8両編成は、キロ26-1両を含む4両が座席指定車でもあり、本州連絡急行の貫禄十分であった。
札幌まで小樽経由だったから、この場合の渡道一日目は大抵函館山線の何処かを撮ることになる。幾度も乗った列車だが、確かに札幌までの5時間を乗り通した記憶はない。

この急行は、1961年10月改正における<おおぞら>の新設に際して、運転区間を函館-札幌間に短縮した11・12<大雪>の後身であった。この大雪山の麓まで往かなくなった<大雪>は、1963年6月1日を以てキハ56/27系列の気動車編成に置替られ、この際、列車名も11D・12D<ライラック>と改めている。さらに、1966年10月改正で翌年春に設定予定の函館山線特急に列車番号を譲って101D・102Dとなり、1968年10月での列車名統合にて<ていね>と共に<ニセコ>を名乗のったのである。
余談だが、<ニセコ>の愛称はそれまで倶知安-札幌間の地域内準急に使われたもので、こちらは<らいでん>と改称された。

下りは終始札幌行きであったのだが、趣味的に興味深いのは上りである。
1968年10月改正での<ニセコ>への改称時に、それまでも運用上車両の直通していた根室-札幌間<阿寒>と統合され、根室-函館間1414D-404D<ニセコ3号>となったのである。遥か東端から根室本線を運行する列車に<ニセコ>の名称も奇異だけれど、札幌以南も根室線系統の400番台の列車番号を通したところも珍しい。しかも根室-釧路間での1414Dはキロ26をキハ27が挟み込む3両組成(キハ56/27の5両は釧路回転車)に、普通車の座席指定車-1両を含んでいて、3種の座席種別設定を持つ最短編成列車であった。
さらには、1972年3月改正にて釧路-札幌間のみが6404Dとして季節列車化されてしまうのである。即ち、これの運転されない期間には、根室-釧路間と札幌-函館間にて一日に2本の上り<ニセコ3号>の運転されることとなった。
以後、暫くこの状態が続くのだが、さすがに国鉄も最東端の列車に<ニセコ>は無いと思い直したものか、78年10月改正で、札幌にて系統分割し以北区間を<狩勝>に編入、変則運行は終了した。
なお、根室から函館までの829.4キロ(砂原線経由)は、ついぞ破られることのなかった気動車急行列車運行距離の最長不倒である。

写真は、後方羊蹄山(しりべしやま)からの雪晴れの朝日に倶知安峠へと向かう101D<ニセコ1号>。
この季節ならば長万部を過ぎて、ようやく車窓に雪原が青く浮上して来る。青森/函館と深夜に乗継いだ乗客の大半は眠っていて、いつも夜行列車の続きのような朝だった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8-11 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

七飯 (函館本線) 1974

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函館市の北に位置する七飯町の人口は、1975年から2000年までに1万人程の増加をみている。この間、北海道のそれも50万人ばかり増えているのだが、85年以降は横ばい状態の続き、道外からの札幌都市圏への流入が全道からの流出を上回った過ぎない数字である。
七飯町の増加は、同期間に3万人を減じた函館市からの転移が大半と見て良いだろう。70年代にも市内電車の走る道道83号線沿いを堀川町から本町、杉並町と移動していた函館市の人口重心は、80年代以降には五稜郭公園東側に至り、市域の東側から北側への市街地/住宅地の進出が見て取れる。それは、当然のごとくに行政区域を越えて七飯町域に及んだのである。
今、函館/大野平野東側の丘陵中腹を往く函館新道からそこを見遣れば、国道5号線沿いに住宅地が七飯市街地まで途切れること無く続いている。

そこでの宅地開発は80年代から本格化したと思われ、この頃までは、小規模な屋敷林を伴った数軒の農家の他は畑作地に果樹林の広がるばかりだった、七飯からの函館本線下り列車線-通称藤城線の七飯高架橋周辺も90年代に入れば住宅の建ち並んで、鉄道を撮るには不向きなロケーションと化してしまった。
宅地は、藤城線が丘陵地に取り付く辺りの斜面にも開かれるのだが、造成中のそこは逆に、函館新道の開通にて城岱牧場への旧道が付け替えられるまで高架橋を見渡す絶好のポイントでもあった。

写真は、高架橋の10パーミル勾配を上る5D<おおぞら3号>釧路行き。
1961年10月改正にて設定の釧路・網走・稚内行き多層建て気動車急行が、70年10月改正でそれぞれ単独運行とされ、この後に15D<おおとり>、そして305D<宗谷>と5分間隔で雁行する、昼のゴールデンタイムである。

この農地は今や一面の住宅街である。同一地点を探し出して、例えそこに立ったところで、軒に遮られて高架橋は望めないだろう。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

豊浦 (室蘭本線) 1974

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鮭の遡上する川、貫気別川である。

この秋の渡道は天候に恵まれずにいて、この日降り立った豊浦も背後の低い山々は雨層雲下層の霧雲に巻かれ、せっかくの噴火湾だけれど、海や空を画角にすれば白く飛んでしまうゆえ、ポイントは高岡のカーブに決めていた。市街地を抜けて、通りかかった貫気別川の橋から川面を見れば、遡上する鮭の姿があった。
群れと云う程では無い。時折上流方向へと泳ぎ去る大きな魚影を鮭と理解するまで、些か時を要した。噴火湾の最奥部に位置する河川とは言え、もうそれの始まる季節だったのである。前日来の降雨にて多少水嵩の増した流れを上る姿にしばし見とれていた。

ところで、鮭の回帰する母川の条件とは何か。水量とか流域延長などは関係するのだろうか。と云うのも、はるか以前にオホーツク沿岸の、それこそ小川以下の流水で鮭の姿を見かけたことがあるのだ。シロザケ/カラフトマスの仲間は回帰性が多少弱く、母川の確認に付近の幾つかの河口に一旦泳ぎ入ると聞くゆえ、その行動だったのだろうか。

PLfilter にて水面を覗き込まねば、それは捉えられず、まして列車との組合せなど困難だけれど、その流れだけでも撮ろうと河口側へ向かうと、細いロープひとつで流れに抗がう小舟があった。

列車は、4D<おおぞら2号>。
旭川からと釧路からの編成を滝川で併結した堂々の13両組成である。釧路編成は食堂車を含む7両だが、運用上は付属編成となり根室本線内では4004Dを名乗っていた。
この道内での80系気動車の2編成併結による最長編成は、1964年10月1日改正で設定(急行格上げ)の函館-釧路・網走間<おおとり>にて実現し、70年10月1日改正による網走<おおとり>の分離にて一旦消滅するも、72年3月15日改正での旭川発着<北斗>に釧路編成を増発しての<おおぞら>への列車名変更に際して再登場した。写真の旭川編成が旧<北斗>の後身である。
この頃1D・2D<おおぞら1・3号>も函館-札幌間にて札幌回転車3両を含む13両組成であった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor35mm/F2 1/500sec@f5.6-8  Y48filter  Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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遠軽 (石北本線) 1974

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戦後に、公共企業体として再発足した日本国有鉄道は「国民の足」を標榜しただけあって、そのサーヴィスは至れり尽くせりであった。近年の民営会社のごとくに、4両組成の客車列車を、ほぼ定員が同じだからと2両のロングシート電車に置替えたり、地方線区の線路保守費の低減を理由に最高運転速度を抑制して、結果到達時分の延伸を招いたりはしなかったのである。まして、石北本線で事例の在ったような、単行気動車による運行で変則下校時の高校生を積み残すような失態は考えられぬのであった。

その石北本線では、白滝方面から遠軽への朝夕の通勤通学輸送に(勿論、現在より乗客は遥かに多かったのではあるけれど)、この区間での増結を施行していた程である。
1973年10月1日改正ダイヤで、朝方に白滝6時41分発の混合523列車と夕刻18時26分に遠軽を出る混合532列車がそれにあたり、要員区とされていた遠軽客貨車区に常駐した旭川客貨車区のオハ/オハフ62の2両が上川-遠軽間の編成に増結されていた。532で白滝へと向かった編成は、30分近い停車時間に解放されて牽引機(この当時はD51形蒸機であった)により側線に押し込まれて滞泊(*)、翌朝に523の牽引機(これもD51である)に引き出されて編成前位に連結、遠軽へと戻る運用であった。
これを気動車でなく客車編成でやっていたところが「至れり尽くせり」に思える。
(*) - 余談だが、この頃ここでの駅寝の際に、この滞泊車で寝せてくれ、と頼み込んで見事断られたことがある。まあ、当然ではある。

北見方でも、朝に北見からの522列車に遠軽まで、北見客貨車区のオハ62が1両増結されて、これは昼の貨物列車に連結されて北見へと戻っていた。もちろん、これにも乗車可能で、「貨物列車」による旅客営業は道内では歴史的に珍しい事例ではない。

写真は、夕方の運用に向けて遠軽で昼寝中の白滝回転運用車である。このオハ62 43は、UF12型台枠を持つ木製車オハユニ25420を1952年に旭川工場にて鋼体化したもので、以来四半世紀あまりを生き延びて1980年11月に用途廃止とされている。
ところで、床下に「温気暖房器」と表記された収納箱が見える。これこそ、客車暖房としての石炭ストーブを追放した機器であり、その搭載は石北本線運用車の特徴であった。この機器については以下に詳述する。

[Data] NikonF2A+Ainikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320)

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御影 (根室本線) 1974

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右のコラムにあるとおり、記事のカテゴリィは撮影年別に区分けさせていただいている。ここで1987年の記事はゼロとある。白状すると、これは永遠に「ゼロ」なのである。この年には一度も渡道していない。
その冬に釧網本線に向っているので87年内と思っていたのだが、調べてみると年の明けた1月のことであった。

本業のほうが多忙だったこともあるけれど、86年11月改正において、道内夜行急行に宗谷方面の客車急行、釧網本線の貨物運行は維持されたものの、函館山線優等列車と客車列車の全廃、根室本線貨物列車の削減、石北本線貨物の臨時格下げ、稚内/網走への客車列車の気動車化、80系気動車の定期運用離脱など、ターゲットが激減してしまったことが大きい。早い話が、撮る気の失せていた訳である。
この国鉄民営化の年には、道内に替えて高山本線に通っていた。そこには客車列車の設定こそないけれど、80系気動車や名古屋鉄道8000系による特急にキハ58/28の気動車急行、加えてDD51牽引の貨物列車もある列車運行と、その線路や各駅の設備が一昔前の亜幹線を思わせ、以前より幾度か撮っていたのだった。東京からそう遠い距離でもなく、本業の合間を縫ってのスケジューリングも可能だったのである。大垣夜行で岐阜から入り、高山駅前のホテルをベースに二日程撮って富山から急行<能登>で帰京するパターンである。時には<能登>を早朝の高崎で捨て、八高線に立ち寄ることもあった。

亜幹線と言うのは、公式の線区種別ではないが、戦前から1960年代の輸送力増強第三次長期計画の頃までは国鉄部内でも使われていた区分である。例えば、C57形蒸気機関車は、亜幹線向け旅客用機関車として開発された。
明確な定義は存在しないけれど、幹線に次ぐ重要線区で優等列車の設定や貨物列車の運転頻度も高いものの、線路設備は当時の運輸省による建設規程で乙線ないし丙線、国鉄による線路管理規程では3級線に当たる線区と言って良かろう。電化/複線化前の羽越本線や信越本線に中央本線、西の山陰本線に九州島内なら長崎本線など、60年代まで地方幹線の大部分がこの範疇にあった。
趣味的に見れば、薄い道床厚に40Kgレイルの単線で勾配/曲線改良もままならず、通票閉塞に信号場と補機で輸送を支えていた、鉄道の魅力を存分に感じさせる線区なのだった。
その残り香を十分に保持していたのが高山本線だったのである。特に高山以北の区間にその感が強い。

道内では、室蘭本線の長万部-東室蘭間や釧路までの根室本線などは、確かに亜幹線の範疇にあったのだが、視点を87年戻してみてもそのイメージは薄れてしまい、そこは近代化された幹線であった。独立島内の線区であるゆえだろうか。長万部-小樽間を含む函館本線に宗谷本線は、もとより幹線の風格を備えていた。

写真は、御影に到着する445列車、新得からの釧路行きである。帯広までのこの区間では朝の通勤通学輸送を担っており、客車の後部3両は帯広で解放される。
この線区が、辛うじて亜幹線のイメージを保持していた頃である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8-11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

塩狩 (宗谷本線) 1974

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宗谷本線における塩狩峠は、塩狩の下り場内信号機手前の旭川起点28K130Mの施工基面高251メートルを最高標高として越えるもので、蘭留との標高差66メートル程、和寒とは111メートル余りである。双方とも最急勾配20パーミルが連続するものの、標高差の大きい和寒側で直線的に上ってしまうなど、さほどに山深い峠ではない。

けれど、塩狩駅は、国道40号線に近接し東側には農業施設が存在するにかかわらず、樹林帯にてそれらと隔絶され、山間の小駅のロケーションに在った。乗降場より一段高い位置にある駅本屋が、信号場としての出自を感じさせる。それでも、長い構内有効長と中線までも持っていた規模は、かつて樺太連絡の重要幹線にあって峠の頂上に位置した風格と言ってよかろう。
この日は、蘭留側に下った小半径曲線の連続する区間での撮影を予定していたものの、激しい降雪にそれを諦め、駅構内にて一日を過ごした。めったに乗客の来ない待合室で、ストーブの上に置かれた薬缶から上がる湯気の向こうに降雪を眺めるのは、それこそ至福の時に違いなかった。

写真は、塩狩を通過する303D<天北>である。
特急の設定の無い宗谷本線では最優等列車であり、<宗谷>と共に確かにその貫禄は備えていた。
連査閉塞が施行されて通票の授受はなくなっていたけれど、列車監視に立つ駅員の姿は運転扱い駅の証である。列車も速度を落とすこと無く、力行のまま構内を通過して行く。
上下線間からの撮影だが、この位置には使われなくなった中線が存在し、当時は撤去されていなかったと記憶する。

この頃、既にこの区間の蒸機運転は無くなっており、蘭留-和寒間での補機も一部貨物列車と編成の長い夜行<利尻>を除き廃止されていた。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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