"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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端野 (石北本線) 1973

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1973年の秋の渡道で端野に降り立った経緯は前の記事に書いた。40年も前の旅の記憶は失われつつあるけれど、当日ですらはっきりしない運行予定には振り回され、情報の収集に鉄道電話を随分と掛けさせてもらったものだった。
端野で捉えた522列車も前夜の網走駅への問い合わせでは、網走-北見間運休との報が、517列車・夜行<大雪>で到着した早朝の北見駅に拠れば、乗務員の手配が付いたゆえに急遽運行が決まったとのことだった。かと云えば、運行と聞いて釧網線の緑で待っていた列車がいつになっても来ないので駅に戻ってみれば、斜里からの乗務員が結局確保できずに同駅で打ち切りと云うような破目に会いもした。蒸機末期のこの時期に渡道していた諸兄も多いはずで、同じようなご経験をされたものと思う。
携帯端末でのリアルタイムの情報収集など考えられもしないこの当時、遠い駅間まで歩くリスクには駅近辺や駅撮りばかりがネガに残る旅になった。

始めて降りるところの端野は、上り本線と下り本線とその外側に副本線(待避線)を有する教科書的配線で、駅本屋に接する上り乗降場には下り乗降場が島式であった。貨物施設は駅本屋上り方に隣接して上り本線から貨物積卸線1線が分岐、副本線からも油槽所と農業倉庫へと側線が分かれていた。この時、どの積卸線は疎か副本線も貨車で満線だったのは、貨物列車の運休にともなう滞留車の疎開だったろう。
前の記事に書き漏らした肝心の駅本屋は、1933年改築と記録される2代目本屋であり、その際のスナップから読み取れば、鉄道省工務局による「小停車場標準図」(1930年10月6日工達第875号)の五號型に準拠したと思われる規模に見え、1935年の「建設線建物設置基準」(1935年10月29日建工達第1282号)に当てはめれば1日あたり600人を越える利用を想定していたことになる。1930年の端野村は戸数1042戸に人口6430人と記録されており、鉄道がほぼ唯一の交通機関と考えれば、なるほど想定に近い需要は存在したのであろう。1975年でも1415戸・5568人を擁した端野町だが、道路交通への需要流失には勿論過剰な設備となっていた。
旅客に貨物を扱い、運転も担う当たり前の一般駅の、その広い待合室に弘済会の売店が所在したかには記憶が定かで無い。

調べてみての新たな発見は、調合漆喰の商品化に1920年代半ばを境に事例のなくなっていた木造総板張りの質素な駅舎が1933年に建てられていた事実であった。物資不足に陥った戦時下に幾つかの例は存在するのだが、それらを除けば道内最新の板張り駅舎であったろう。満州事変が勃発し、戦争へと傾斜する時代、それが建築費削減の事由だろうか。最新とは云え、築58年を迎えた1991年に端野町の公共施設との合築駅舎に建て替えられて消滅した。

写真は、端野を出発して往く522列車。
この当時には旭川で832列車と列番を変えながらも網走から小樽まで、日中の13時間を通す列車であった。北見まで標準勾配の6.8パーミルには発車から基本的に力行が続く。
前の記事に掲げたカットの前コマである。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto  Nikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y52filter  Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

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網走機関車駐泊所 (石北/釧網本線) 1973

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網走の構内には、初代そして現在の二代目駅にも蒸機運転廃止まで、一貫して収容庫や転車台、給炭台、給水塔など一通りの設備が置かれていた。しかしながら、それが独立した現業機関である機関区(機関庫)本区とされた記録は無いようである。

1912年10月5日の野付牛(現北見)からの網走本線延長開業に際しては、終端駅設備としても矩形機関庫の他、転車台や給炭給水の設備の設けられ、これは駅から独立した野付牛機関庫の網走分庫とされた。分庫ゆえ規模は小さかっただろうが、それを名乗る以上は数両の機関車(おそらく2500形や2700形のC型タンク機)に要員の配属されたものだろう。けれど、これは翌1913年には何故か駅に所属の網走駐泊所に格下げされてしまうのである。現代に当てはめれば機関車の無配置化に要員の引揚げを意味するものの、機関車の整備・運行に多くの人手を要した当時に、その稼働実体はあまり変わらなかったとも思える。けれど、1925年11月10日の網走から斜里までの延長開業に野付牛機関庫斜里分庫が開設されれば、網走駐泊所の機能の多くが移転して、以後には文字通りに駐泊施設として稼働したことだろう。これは1932年12月1日付での網走駅のクルマトマナイへの移転(正しくは呼人-網走間への新駅設置)の後にも浜網走と改称した旧駅構内に存続した。
それは後には新駅構内へと移転するのだが、残念ながらその時期を手元資料の限りには調べ得なかった。「網走歴史の会」が記録、公表している網走とその周辺の年表に拾えば、1949年の駐泊施設に隣接した南二条西一丁目への日本通運倉庫の開設(年表では網走機関庫と表記)との記述から、戦後間もない時期には未だ浜網走構内への所在と知れ、1948年の米軍撮影の空中写真もそれを裏付けている。
1969年10月4日付での浜網走の移転までには違いなく、Web上の先達諸兄の撮影には移設後の駐泊所にて1968年とのキャプションも見られることを勘案すれば、1961年度に施工された網走駅構内の拡張工事に際してではないかと推定している。
当時既に網走市当局は将来の浜網走駅移転の構想を持っており、それの具体化の進展したでは無かったものの、国鉄も網走と浜網走のそれぞれでの構内に分かれて輻輳していた貨車仕訳と組成作業の網走構内への集約を図っての工事であった。以降に浜網走には貨物取扱機能のみが残されたのである。

降雨下、駐泊所東側で仕業を待つC58 408、収容庫2番線にはC58 418が見える(共に当時は釧路機関区配置)。
鉄骨にスレート葺きの収容庫は、やはり1960年代の建築だったであろう。給炭・給水施設はその西側に在り、撮影位置後方に転車台が設備されていた。今はこの位置を網走市の市道(山下通り)が走る。
D51には不似合いだった北海道独自の切詰めデフは、C58には違和感無く収まっていたように思う。多分車長との偶然のバランスだったのだろう。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2  1/60sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

網走 (石北本線) 1973

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Nikonのスタンダードとされる画角には、全て大口径と云えるF1.2・F1.4・F1.8(F2)の各口径比が用意され、商売道具としてはそれぞれを使い分けていた。決してレンズマニアでは無かったので、他社の同様事例については知らぬのだが、絞り1段分の中にこれだけのラインナップは、単に最大口径ぱかりでなく、レンズの性格が異なっていたからである。
Noct-Nikkorと冠された58mm/F1.2は、舞台撮影に少しでも明るいレンズを望んだのも然り乍ら、その設計意図通りにステージ下から見上げた構図などに写り込む舞台照明にサジタルフレアを生じ難いのに重宝した。ディジタル全盛の最近に再評価されたものか、中古市場で高値取引のなされると聞く。これは、まったくの仕事レンズだったので、取り敢えずは置いておく。
鉄道撮影に持ち出していたのは50mm/F1.4と同F1.8(F2)である。なので、あくまで中景から遠景描写での話だが、その差異はコントラストと絞り開放での描写に在った。
F2は1959年にNikonFと共に発売され、1966年に一眼レフを手にして以来親しんだレンズである。カリカリと良く写り、コントラストの高いくっきりとした描写を見せてくれて、1978年にF1.8と改められても同様であった。対して、F1.4を最初に手にしたのは1977年のAiタイプだったのだが、コントラストは抑え気味ながらも、ピントエッジの鋭い切れ込みはF1.8を僅かながら上回ると思われ、列車背景の木々の葉一枚一枚の明確な分離にもそれは見て取れた。けれど、それはf4程度まで絞った場合であって開放での解像度はF1.8に軍配の上がったのである。これは双方をf2とした場合も変わらず、f2.8でほぼ同等であった。
これにはモノクロームで撮影の当時ならば、ためらい無くF1.8の選択だったのだが、Ektachromeを鉄道撮影にも持込むようになると撮影の度にどちらを機材に加えるか迷うこととなった。カラーポジには少しでも諧調の幅の広いに越したことは無く、ASA64や100の感度には緊急避難的にf1.4まで開く方が良いに違いない。けれど、それでの開放絞り近くでの解像力を思えばF1.8も捨て難かったのである。
とは云え、それはあくまで保険の範疇で、鉄道撮影での存在意義は大口径ゆえにf2.8を安心して常用出来るところだから、その都度迷いながらも、結局は季節や予想された朝夕での撮影頻度などで選んでいたものだった。

その後F1.4はF5カメラの導入時にAFタイプに買替えもしたのだが、これはどうしたことかマニュアルレンズよりも解像力の劣り、画質に影響せずに感度が可変なディジタルに移行すればf2.8に拘るまでもなくなって、その頃に発売された PLANER T*50mm/F1.4のZFレンズに移行してしまった。ポートレートを意識した甘々の描写がf4あたりで激変し、遠景までに素晴らしい描写を見せるこのレンズもディジタルなら撮影の自由度は上がる。

写真は網走駅頭でのC5833。かの1528列車の牽引機として発車を待つ姿である。
この機関車についてはあちらこちらで語られているので、ここには繰返さない。高さの在る後藤工場式デフレクタと、高い位置に取付けられたナンバプレートはそれに見合って、随分背高の機関車に見えた。
F2の絞り込みは繊細な描写と強いコントラストで、モノクロのバルブには打ってつけだったと思える。
余談ながら、本来にこの手の大口径レンズ使いの真骨頂は、絞り開放の極めて浅いピント面への切り込みの良さを利用した一点のみのシャープな描写で被写体を際立たせる近接・近景の撮影に在ることを付記しておく。絞り込んではいけないレンズなのである。

[Data] NikonFphotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 Bulb@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

徳満 (宗谷本線) 1973

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今や西日本旅客鉄道が承継したクモル145とクル144の1編成 2両のみとなったのが国鉄/旅客鉄道会社における配給車である。まもなくに、それを示す形式記号-配るの「ル」は消滅するだろう。
配給車とは勿論客車に始まり、文字通りに鉄道運営に要する資材や部品、用品などの各現場への配給に用いられた事業用車を指す。
この用途への新製車投入は客車には事例の無く、戦前に鋼製客車の時代となると木製の営業用客車が格下げ使用され、ナル17600や27700形などが1950年代前半まで残っていた(*1)。鋼製車もスハ32など20メートル級車登場以降には17メートル級のスユ30からのオル30やオハ31からのオル31が永く使われた。
それの運転は列車運行図表にあらかじめ組み込まれた定期、不定期運転の配給列車もあるが、多くは必要の都度1両単位に旅客列車や場合によっては貨物列車に連結して行われた。近年まで残った工場や検修区所などへの資材・部品輸送が知られるけれど、歴史的には駅を始め各現業機関の現場への事業用品輸送は全てこれにて賄われて来たのである(*2)。そして、配給車の運んだものは決してそればかりではなかった。

道内には、戦前は勿論のこと戦後にも交通に鉄道の他に無い山間や原野の僻陬地に駅や線路班などの多くが所在した。官舎(戦後には宿舎)に暮らす職員家族の生活必需品の買い出しにも、映画鑑賞などのたまの娯楽にしても近隣の都市までの往復に丸一日を要する位置は数多あり、中には1950年代後半に至っても未だランプを灯す生活さえ存在していた。
配給車は、このような職場への国有鉄道共済組合購買部(戦後には物資部)の要請による生活物資の配給にも用いられ、車内に商品を陳列した移動販売車と云うべき車両も存在したのである(*3)。加えて、戦後1950年代の旭川鉄道管理局管内には、映写機にスクリーンを積込んで巡回し「娯楽」を配給した記録すらある。勿論、同様事例は道内他局管内にも、或は内地にもあったことと思う(*4)。
運用に就いての詳細は不明に付き想像を逞しくする他ないが、おそらくは貨物列車などに併結されて送込まれ、貨物積卸線などに留置の上で「営業」したものだろう。
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(*1) 戦前の鐵道院・鉄道省に「ル」の記号は存在せず、配給用途車は職用車「ヤ」に含まれた。
(*2) よって形式記号は付されなかったが、貨車の配給車代用車も存在した。
(*3) かって開拓地に暮らした入植者が綴ったエッセイに「国鉄の販売車が定期的にやって来た」との旨の記述があり、国鉄職員家族ばかりでなくそこの住民にも広く開放されていたものだろう。(申し訳ないが、その出典は探し得ずにいる)
(*4) これを国鉄の部内広報誌「国鉄線」のコラム記事に拾えば、「映画上映車」と記されていた。車内の写真が、北海道新聞の写真デイタベイスに「レクリエイションカー」とのキャプションにて在る。車体断面形状などから電車からの戦災復興車の70番台系列に見えるが形式は分からない。

写真は徳満付近の上サロベツ原野での372列車。稚内から音威子府への解結貨物列車Bである。
上サロベツ原野への開拓は1899年に始まったとされ、戦後には「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月9日閣議決定)に基づく、外地からの引揚者の開拓入植も受け入れた。農林省による1950年の農業センサスによれば、徳満地区の農家は30戸、耕作面積は一戸あたり平均で42.6反(≒42.2ha)とある。まだ酪農へと誘導される前のことで、主な作物は馬鈴薯に燕麦であった。未だ電気の通じなかったここにも、当然に「娯楽」や「売店」の配給車はやって来たことだろう。
1958年の客車配置表には、旭川客貨車区にオル31を始めナル17600など5両の配給車の配置が見て取れ、そのどれかが移動販売車だったと思われる。
1960年代ならば、スハニ3117を改造のオル321が小樽築港客貨車区に置かれて、それの全道を一定の運用順にて巡回したのが知られている。これには長期の巡回に同乗する販売担当者用の寝台設備が設けられていた。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

花石 (瀬棚線) 1973

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以下を、茶屋川 (瀬棚線) 1971 の記事の補遺とする。

1910年に制定の『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)とは、それに準拠して鉄道が建設されると云うのに僅か8条の条文しか持たなかった。その法定の意図は、1906年に鉄道国有法を制定して国家骨格の幹線鉄道を買収した結果、新線建設への資金余力を失った政府に替えて民間資本による必要とされる地域交通線の建設促進を図るものであった。それらが輸送量も少なく、簡易な規格にて済むものと考え、零細資本での参入に配慮して大幅に規制や規格を緩和したゆえの8条なのである。しかも、開業後5年間に限り建設費に対して年間5パーセントの収益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月27日法律第17号)も定められ、さらには従来の私設鉄道法からの転換も認められたので、以後に所謂軽便鉄道ブームが続いた。この時代に開業した私設鉄道は実に多い。
ところが、この法律自体が成立からそれを織込み済みとの推測も成り立つのだが、すぐに政治的に利用されることになる。時の帝国議会は、民間資本を想定していた当法の解釈を拡大し「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」に限り、当法に準拠した簡易規格の国有鉄道線を帝国議会の予算承認のみで建設可能としたのである。これにて時の政権党立憲政友会は勿論、対抗した同志会(後の憲政会に民政党)にしても自らの意になる地盤獲得手段を手に入れ、以降に国有軽便線の多くが政治路線と化すこととなった。現在まで尾を引く地方交通線問題の全てはこれに端を発したとして良い。

前記の記事にも書いたように、軽便鉄道法の下に計画の進められ、第一次世界大戦後の戦後恐慌期の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で建設の協賛を得た瀬棚線は政治路線の典型であった。そればかりか政友会代議士加藤政之助の個人利権路線ですらあった。彼の弟が沿線の大地主だったからである。
部分開業を経ての1932年11月1日の全通は沿線住民には福音に違いなかったが、20年の運営を経て、発足直後の日本国有鉄道が1953年11月に通達した「線区別経営改善計画」にて既に経営の困難な非採算線区とされ、北海道支社は1958年10月1日付でこれを青函船舶鉄道管理局駐在運輸長の管轄から分離、局長直属の瀬棚線管理長による運営として経営改善に乗り出さざるを得なかった。
ちなみに、この時期に道内で管理所や管理長、運輸区方式にて運営の分離されたのは、胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線があった。
国鉄による1959年の資料で、管理長制度による瀬棚線の同年上期の経営成績は前年同期に対し、3駅の要員無配置化(=棒線化)、1駅の業務委託化、夜間当直の廃止等による17人の要員減をともなった機動的運営により、営業係数を226から180に改善し、赤字額は7,622千円を圧縮する31,347千円とある。貨幣価値は現在と異なるが、大きな改善効果を挙げたには違いない。けれど、この線区別経営の制度は主には合理化による経費の圧縮を目的としていたから、それの往き着いてしまえばそれ以上の改善は見込めないものであった。
1966年の待望の函館直通急行の設定は、青函局に年間25,000千円の増収をもたらしたとは云うが、それは瀬棚線内旅客ばかりではなく長万部、黒松内方面を含んでのことであり、経営改善の端緒とはならなかった。

第二渡島利別川橋梁上の列車は1992列車。日中の上りはこれしか撮れなかったのだが、1993列車とは花石で行違うダイヤには場所の移動は叶わない。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

深川 (函館本線) 1973

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深川は深名線や留萠・羽幌方面への乗換駅だったから幾度もホームには立ったものの、集札(改札)をくぐって本屋に出たことは数えるくらいしかない。一度、午前0時過ぎの網走行き急行を待った以外は、全てそこや稚内からの夜行を未明に下車した時ばかりである。それは<利尻>なら午前4時前となり、夜行移動にはなかなか難儀な位置ではあった。

ここの駅本屋は、深川市の引受による利用債にて1959年度に予算化され1960年6月30日に使用を開始した建物で、同年度予算での旭川や倶知安と同様に直線で構成された、いかにも戦後設計の近代的建築に見えた。冬期の暖房も同じくスチーム式が設備され、件のFRP製のベンチを除けば居心地は良さそうだったが、その必要のなかったので駅寝をしたことはない。もっとも、深夜帯に約3時間の着発の空白があったから待合室は閉鎖されていたものと思う。
未明なので駅を踏み出すこともなくて、静まり返った街には印象もほとんど無い。駅前にアーチ型の「歓迎」看板が建てられ、その先の駅前通りは右側だけにアーケードの架けられていたのを不思議に思った覚えが在るだけである。

この留萠線蒸機の末期に留萠へと運転されていた運炭列車は、赤平と芦別発着の1往復ずつが設定されており、積車となる下りは2本とも留萠石炭桟橋での作業に合わせて線内を未明から早朝に通過していた。当然に夏の季節以外の走行撮影は困難で、深川へ未明に下車して、やっとこれを構内照明の下に捉えられた。
そこでの蒸機の出発シーンはドレインの白い蒸気が夜目にも美しく、機会の都度に被写体にしていたものである。天への凄まじい排煙が照明光源を遮ってシルエットと化すのも近代車両には出来ぬ演出である。展示運転に蒸機が復活し夜間の運転の行われることが在っても、肝心の煌煌と灯る構内照明が失われては再現されない光景であろうか。
列車は5781列車。赤平から滝川で継送されたこの列車は、1973年10月改正にて午後の定期列車との差替えにより臨9781列車から格上げされていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8  1/8sec@f4 NONfilter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5on Mac.

北母子里 (深名線) 1973

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雨竜郡幌加内町字母子里の地名は、先住民族アイヌ言葉の mosir に由来するのだろうか。とすれば、彼らにとって特別の土地だったことになる。けれども1869年に蝦夷地が日本の植民地としての北海道と改められれば、ここも彼らに何の断りも無くその領土(国有地)に収奪されたのである。
この雨龍川上流部の奥地に位置した原生林の約3万haは、1901年にその運営資金の自己調達に内務省(北海道庁)より札幌農学校の財産林に移管、以降に同学第一基本林として運営され、1918年には農学校から農科大学を改めた北海道帝国大学の雨龍演習林とされて、現在の母子里には看守所と、学生の実習施設としての製材工場に教官及び学生の寄宿所が設けられた。この製材工場は官行伐採の山元製材により学生の実習に供し、あわせて道庁用材の自給を図るものであった。(ここは下記の開拓農家入植後には演習に支障のない限り、その自家用材の製材に応じて集落の建設にも寄与し、1976年まで稼働した)

ここへの開拓農家の入植は、帝大が公募した演習林内への1928年から1933年にかけての24戸が最初とされている。1922年の『鉄道敷設法』に予定線とされた名寄-羽幌間鉄道の内、名寄-雨龍(朱鞠内)間の計画が雨龍川電源開発計画と共に1928年頃より動き出しており、奥地への入植もその開通を見越してのことであったろう。
多くが同じ道内の美深村からの応募と云うのは、おそらくそこへの初期入植者の子弟世代が土地を求めたものと思われ、当時に、赤平の茂尻や士別の茂志利に対して「茂知」が当てられていた開拓地名も、1928年8月5日の若い入植者夫婦への第一子誕生を機会に、現在までの「母子里」に改められている(*1)。また、早くも1931年には尋常小学校の開校されたことでもそれは知れる。これに続いたとされる中頓別村からの13戸に常盤村からの5戸についても若い世代だったろう。

建設線名の名雨線を改めた深名線が1941年10月10日に全通し、ここに北母子里停車場の開かれれば入植者も増え、戦後の1950年に87戸618人の人口を擁するまで成長する。これには復員軍人や引揚げ者の入植も含まれたであろうが、この頃に開拓農家は駅周辺の市街地ばかりでなく、周囲に広く散在して小さな丘陵を隔てたモシリウェンナイ川流域にも集落が作られていた。1940年代には、戦時下の隣保組織だった隣組制度にて駅周辺を「市街班」した他は「一組」から「五組」にまで分けられ、それぞれが15軒前後の規模と伝えられる。
農家の生産物は寒冷気候に耐え得る馬鈴薯が中心で、隣組に1軒は澱粉加工場が在ったと云う。

母子里の人口は上記の618人をピークに以降減少に転じ、1960年代の高度成長期を通じて流失が続いた。それでも、ここに初めて降り立った1970年代初頭、駅前には石造りの農業倉庫に澱粉工場が並び、その先には数戸の農家に商店も存在して、駅も短い有効長にコンパクトな造りながら、島式乗降場を挟む上下本線に貨物側線と積卸場を備え、同時期の私設鉄道とは比べ物にならぬ鉄道省建設の停車場であった。
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(*1) 命名者は北大演習林関係者と伝わる。1930年に幌加内村議会の承認を受けて正式の字名となった。

その頃でもここを走る列車は既に単行運転だったけれど「汽車時間」ともなれば駅には多くの旅客が集まっていた。冬至を過ぎたばかりの早い暮色にやって来たのは947Dの名寄行き。
2013年現在の母子里の人口は36人と聞く。著しい過疎である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4  following data is unknown

深川機関区留萠支区 (留萠本線) 1973

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このD5186は石炭を満載していることに解る通り、用途廃止で放置されているでは無く、朽ち落ちそうな矩形の機関庫も現役の庫である。目前に迫った留萠本線/羽幌線の無煙化に際しては、検修区所としての廃止が予定されていたから、補修を見送られていたものだろう。
ここの機関区は、留萠本線と羽幌線の間に扇状に開いた広大な留萠駅構内の最も港湾側に位置して、船入澗の岸壁までは至近であった。もっとも、それは現在の錦町一帯に掘込まれていた船入澗の埋立に替えて戦後に築造されたもので、古い地図を見れば機関庫周辺には鉄道官舎が建ち並んでいたようである。
ここには、1910年11月23日の深川-留萠間開通と同時に終端駅設備として機関庫が設けられたが、規模の小さいゆえか1912年4月6日付にて旭川機関庫の留萠分庫とされ、1917年6月1日には廃止されてしまう。同日付で深川に設置した旭川機関庫深川分庫に機関車配置が集約されたものであった。給炭や給水設備まで撤去されたでは無く、駐泊所としては機能したことだろう。
ここが、深川機関庫の留萠分庫となり機関車が再配置されるのは1933年12月20日のことで、それは1932年までに開通した留萌鉄道の炭礦線に臨港線の運行管理を国有鉄道が受託したことにより、留萠での機関車常駐を要したためであった。写真の機関車庫はこの際に建てられたものと推定する。
戦後には、基本的に羽幌線/留萠本線を出ることの無かったD61形蒸機の全6両が、ここの配置であったのはご承知のとおりである。この1973年夏にはD613と614が車籍を有していたものの、614は深川区で休車となり辛うじて613のみが稼働していた。

当時も書類上にはD613の配置区であった留萠支区は、小さな機関区ながら庫内2線の矩形庫延長上の駅乗降場寄りに木造の検修台と背の高いの給水塔が、そのさらに先に小型のコールビンが存在し、転車台はその北側に隣接していた。庫とは別棟に修繕職場と事務室が付属したが、修繕職場はこの当時には既に使われていなかったと記憶する。
今、この旧留萠駅構内は、留萌市により船場公園と呼ばれる都市計画公園とされるものの、ただただ広大なグラウンドが存在するのみで公園とは名ばかりである。この機関区位置はそれからも外れて土埃が舞う。

[付記] D5186は、1937年に国鉄浜松工場を同工場製作のD51初号機として出場したものである。その縁でこの翌月に第二種休車に指定されると浜松工場に運ばれて整備の上、工場敷地に保管された。現在は、舘山寺フラワーパーク内に展示されている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

女満別 (石北本線) 1973

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近年に鉄道沿線に立ち始めた撮影者にはそれが鉄道線路であろうが、永年の観察者には違和感がある。変化は1990年代から起きていた。まずは線路伝いが歩き難くなった。犬走りへの夏期の植生の進出は当然だが、それが覆い被さる様相には、放置されていることに気がついた。さらに年月を経て周囲の樹木が成長すれば、沿線は鬱蒼とした植物群に囲まれるに至った。
宗谷線や石北線、函館山線などで撮られた緑の海を往くがごとくの光景を作画上の演出と思いつつも現地に立ってみれば、列車の走行空間が明らかに小さくなっていたのは、2000年前後からこの方のことである。冬期の積雪にて枝が撓り運転に支障した等の事例を多く聞くに及んで、Web上に発表の写真を検索すると、緑の切通しを抜けるようなロケーションが次々と見つかり唖然としたのもこの頃と記憶する。
民営化後の旅客鉄道各社では線路の保守基準を国鉄当時よりも緩めたであろうことは、疑いの余地がない。路盤に道床が夏草に覆われようと運行が確保されていれば良い。国鉄の時代に枝が払われ、周期的に伐採もされていた沿線樹木も建築限界を基準にそれを支障さえしなければ良い。駅員無配置駅の構内が草蒸したところで、最小限のサーヴィスが提供されれば良い。
利潤に直接的でない経費は、それを確保するに足る最低水準に固定化される。資本の論理である。

鉄道の線路は走行に要する空間ばかりでなく信号の見通しを要して、支障物の除去は保守基準にも明確化されて来た。これに応じて保線区は巡回しては枝を払い、周期的に伐採も行ったのであるが、民営化後に要員の減り続け、実作業も保線部門を分離した子会社への委託とあれば、これも経費削減策であるからとても手の回るところではなかろう。かくて必要最低個所の作業に限定せざるを得なくなった。機械化にて作業通路としての犬走りの必要度も低下し、手作業ではないから雑草を処理することもなくなる。
かつて保線業務遂行の最小単位とされた保線分区の線路班は、細分化された担当延長間の線路は仕事場としてばかりでなく、そこに官舎の存在したから当然かもしれないが、自分の庭のごとくに手入れをした。隣接班と競い乗務員(機関士)をして優秀な線路と言わしめることを誇りとしていたのである。

「マル生運動」への敗北で苦渋を舐めた保守勢力が右翼政治家中曽根康弘を為政者に仕立て上げ、土光敏夫経団連名誉会長や戦犯瀬島隆三伊藤忠商事顧問による第二次臨時行政調査会を後ろ盾に、公労協の分断を図り「戦後労働運動史の終焉を目指し」( * )たのが、「国鉄改革」の実体であり、それは、保線現場に限らぬ「誇り高き鉄道員」達から、所属組合を差別した人権無視のありとあらゆる不当労働行為により「誇り」を収奪することで実現された。
保守勢力の本音は、労働運動を弱体化し、解体した国鉄の資産を手中に収めるところに在って(それを民営化と云う)、決して「再建」ではなかったから、後は与り知らぬことだったのである。
昨今に噴出している一連の北海道旅客鉄道における諸問題の根源は全てここに在り、もの言わぬことで設立会社に採用された者達が四半世紀を経て経営幹部となり、その間に入社した「会社員」達が従業員組合をして安全施策を積極的に会社側に要求することも無い。まして、子会社に分離されてしまえばなおさらであろう。
時の政権の後裔であり、財界の意を受けた点に於いては優るとも劣らぬ安倍右翼政権の官房長官菅義偉による北海道旅客鉄道への非難は、「オマエらだけには云われたく無い」類いである。
( * ) 当時に国鉄「再建」監理委員長に就任していた財界出の(住友電工労務管理担当役員)による『文藝春秋』1986年9月号での発言。

写真は、西女満別-女満別間新旭川起点215キロ付近を走り去る1527列車。云わずと知れた<大雪>の普通列車区間である。女満別 (石北本線) 1973 の後ろ姿になる。
奇麗に整備された線路で、路盤から除雪車のウイング幅目標のポールまでは植生が刈り取られ犬走りも機能しており、防雪林までの用地の樹木も取り払われている。夏の始まりと終わりとの差異はあるのだが、2010年時点の現状との比較をzouketsu3さんの動画にお借りする。再生時分の2分から3分経過あたりが当該区間である。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

七飯-大沼 (函館本線) 1973

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七飯で分岐する下り列車専用に勾配を緩和した増設線、通称-藤城線に位置する新峠下トンネルは、この線増線の開通に先駆けて1956年12月15日より使用を開始している。仁山回りの既設線上の峠下トンネルが経年による覆工剥落や変状を生じていたため防災工事として先行し、この日函館桟橋起点22K700M付近からの3.1キロを新峠下トンネルを含む新線に切替えたものである。

この時点で、新設区間が単線運転の函館本線となり、その線上に距離標が移設されたのだが、注目すべきは起点23K000Mの甲号標である。その建植位置は、新峠下トンネル手前の切通し区間となっていた。
その後、上記防災工事にて放棄された旧峠下トンネルには曲線改良をともなう改築工事が行われ、新線へ切替えた22K700M地点に熊の湯信号場を置いて、軍川との間でこの復活旧線を上り線とする複線運転が1962年7月25日より開始された。
これにより下り線となった新峠下トンネル経由線は、予ての計画どおり1966年9月30日に藤城線が開通するとその一部となり、同日を以て熊の湯信号場から藤城線との接続点までは廃止されたのだが、どうしたことか、その地点より軍川寄りに位置した前記の23K000M甲号標は、そのまま存置されたのである。勾配緩和の迂回によりやや距離の伸びた藤城線上にも久根別トンネル出口方に23K000M甲号標は存在し、同線上には2箇所の同距離標が併存する事態となっていた。このような事例を他には知らない。

写真は、藤城線の久根別トンネルを抜けた1191列車。五稜郭操車場からの砂原回り長万部行き区間貨物列車である。
手前側に藤城線の23K000M甲号標が見える。対して、存置された熊の湯信号場経由線上の同標は、七飯-大沼 (函館本線) 1981 に見て取れる。その間350メートル程の間隔である。それを84年頃までは車窓に確認した覚えがあり、少なくとも20年程に渡ってこの状態が続いていたことになる。その事由はわからない。付記すれば、この23K000M甲号標をはさんで藤城線本来の同標基準の23K300Mと400Mの丙号標が建植されているのだが、その間隔はせいぜい50メートルである。これは現在も変わっておらず、どうにも謎の多い地点である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS4 on Mac.
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