"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

七飯 (函館本線) 1972

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静岡県浜松市で日本近代史を研究する竹内康人によるリスト「朝鮮人強制労働現場一覧」には、その冒頭に七飯町の「鉄道工業函館本線増設工事」と「堀内組軍川七飯間鉄道工事」が連行先事業所として列記されている。
前者が日本土木建築統制協会による「昭和20年第1次朝鮮人労務者割当表」を、後者が内務省警保局の「特高月報」に典拠しているゆえのことで、これは同じ鉄道工事への徴用連行を指していると思われる。アジア・太平洋戦争下で着工されながら日本の敗戦で未成に終わった七飯から軍川(現大沼)への勾配緩和線増設工事である。
朝鮮人ばかりでは無い。大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会が、外務省文書「華人労務者就労事情調査報告書」から調査・公表した資料には、徴用中国人の連行先として同じく「軍川・七飯間鉄道新設工事」が引き受け事業所を地崎組の大野出張所として記してある。

半島からの日本国内への戦時労務動員は1939年に、大陸からは1943年に始まったとされており、云うまでも無く国家総動員法下での戦時労働需給を支配した半島に、悪化する戦局に徴兵・民間徴用で不足した労働力の代替を占領下の大陸に求めたもので、労働力の確保が生産性に直結した炭鉱や鉱山、港湾に軍需工場への移入が主体とは周知の史実であろう。
長く「強制連行」とされてきた、この戦時動員に対して、近年に至って「強制」の事実は無かったなどとの声高な主張を繰り返す反動勢力が在り、確かに初期には募集への自発的応募も事例は存在しただろうけれど、大半の事例である地域や自治体単位での官斡旋や徴用とは外形に過ぎず、実質的に拒絶できぬのであれば、それを「強制」と云うのは自明である。百歩譲って、その主張に耳を傾けたところで、連行により「強制労働」に賦したのであり、日本近代史の一大汚点に違いない。
薩長政権の国粋主義体質が往きついた地点であり、これを「無きこと」と主張するのは、敗戦で断罪されたはずのそれらの流れを汲む保守層の忌むべき悪癖である。

竹内によれば、アイヌモシリ(道内)だけで239事業所を数える連行先の中で、この鉄道工事は当初より朝鮮人労働を前提としていたと思われ、相当数が使役されたものだろう。
その数を示す資料は竹内も発掘していないが、七重町の歴史館が収蔵する住民からの聞き取り資料には、(彼らを戦場での捕虜と思い込んでいたのであろうが)朝鮮人捕虜は渡島大野駅(1942年3月31日までなら本郷駅)から長い列で連れて来られ、毎朝に工事現場へと向かう行列が見られたこと、隧道掘削現場からトロッコで運び出された土砂を日本兵(憲兵だろうか)に鞭打たれながら運んでいたこと、事故により受傷したり死亡した者が、一日に幾度となくトラックで運び出されたこと、などの証言がある。
年月を経てからの調査であるから記憶が誇張されている部分もあるだろうが、複数証言の「長い列」にはかなりの人員を思わせるし、監視下での労役は「強制労働」以外の何ものでもない。朝鮮人との記憶は、前述の通り中国人も含まれていたことだろう。
この遥か後年に現在の藤城線として開業する鉄道工事の着工を明確に記す資料には巡り会えていない。七飯町史は1936年と書くけれど、七飯-軍川間輸送力増強工事としての仁山信号場設置を含めてのことでは無いか。使命を同じくし同時期に設計が進められたと推定される石倉-野田追(現野田生)間線増工事の1942年10月との整合には、期日を要する隧道掘削を考慮しても1940年前後に思える。後述する工事放棄の状態も、9年間に工事を継続したものとは考え難い。
やはり、1939年からの朝鮮人徴用連行がなければ着手の有り得なかった工事なのでは無かろうか。
(この項続く)

燃料炭完全燃焼の水蒸気のみを吐き出して渡島大野へと加速するのは、125列車の札幌行き。客車にはスハ32が連なる。
1971年10月時刻表に、13時丁度に函館を出て、仁山と砂原を回り、山線を抜けるこの列車が札幌に到達するのは23時44分とある。
七飯高架橋のタラップからの撮影は、マナーとやらに喧しい今には望むべくも無いだろう。戦時下の設計にこの高架橋は含まれていない。

つい最近に、1960年当時に藤田組の新入社員として札幌支店勤務を命ぜられ、1963年11月に再着工した藤城線建設に関わった人物と知己となる幸運に恵まれた。75歳にして矍鑠とした彼に何よりも問うたのは、当然に戦時下工事の中断状態である。直接に工事を管轄したでは無く、仕事は現場事務所の運営管理だったと云うが、それには明確に答えてくれた。「トンネルは掘られてはいたが貫通したのは一つも無かった」
これで、2014年4月の記事 七飯 (函館本線) 1988 に書いた長年の命題が解けた。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.


恵比島 (留萠本線) 1972

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留萠本線が雨竜山地を越えるサミットは、恵比寿トンネル入口やや手前の深川起点22K413Mにあって、その施工基面高は89M00である。峠下の34M30からなら比高55メートルを登坂するところとなって、運炭鉄道の使命からの10パーミルを最急勾配とする縦断面設計には延長6キロ弱を要し、R=260で180度を反転する2箇所の馬蹄形曲線が挿入された。
後補機運転もあった深川-留萠間の撮影地点としては、これ以外には考えられない線形に違いなく、五万分の一地形図の恵比島図輻にも眺めていたものの、羽幌線行きに幾度か通過した車窓のロケハンの限りには、サミット付近から恵比寿トンネルを経て峠下トンネルの先まで、馬蹄曲線の大半が両側を防雪林に囲まれて引きが取れないことも承知していた。
とは云え、現地を歩けばなんとかなるだろうと峠下に降りたのは72年の暑い盛りの頃だった。深川に夜行を捨てての始発列車での到着は、同年春の改正で朝の770列車と夕方の776列車になっていた上りの後補機運転は、後者の本務機が9600とあっては狙いは当然に前者に絞られたからである。
さて、その成果は、と云えば見事に「負け」である。案の定に線路端から離れられず、編成越し後補機を見通すなど無理な相談には時間切れで、手持ちのスナップが関の山なのだった。
仕方なく、峠下トンネルの先で交差していた旧道を辿って恵比島側に抜け、変哲もない風景に同じく線路端写真に終始したのが、この夏の日と覚えている。

写真は、西陽を浴びて峠に向かう775列車。この頃に稼働が2両となっていたD61が牽いて来てくれたのが、せめてもの救いだろうけれど、線路端は止む無しとしても、画角選定の拙さは、これもおそらくは立ち位置を探すうちの時間切れカットと思われる。
後年に先達諸兄の記録に知るのだが、峠下側に後補機までを見通す地点はあったのである。件の馬蹄形曲線区間と思いきや、その立ち位置は峠下から山裾に沿って次第に高度を上げながらそれの築堤に取り付くまでに存在したのだった。
初心者の思い込みのせいには違いないとは思うものの、未だに心残りのひとつではある。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.


八雲 (函館本線) 1972

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鉄道と道路との立体交差、ここでは跨線橋のことなのだが、今昔に撮影の立ち位置である。特に目ぼしい俯瞰画角の見いだせない区間に在っては貴重に違い無い。けれど、都市部以外にこれが出現したのは、経済成長に道路交通が飛躍的に増加した1960年代以降のことになる。全国的に主要国道とは名ばかりの土道だった地方幹線道路の改良が進められ、これには鉄道との平面交差の解消は命題とされていたのである。山越郡八雲町域(当時)を縦貫する一級国道5号線も道央道南連絡の幹線道路として、その対象であった。

1957年の落部村との合併により、栄浜から黒岩までの33キロ程となっていた町内国道の改良工事は、北海道開発局函館開発建設部八雲出張所(現八雲道路事務所)により、1958年の八雲市街地区間の舗装工事から着手され、1967年に一応の完了を見るに至った。栄浜から栄野への鉄道路盤からの転用区間を含めて拡幅と舗装は勿論のこと、この間の橋梁22箇所は全て永久橋に架替られ、函館本線との平面交差箇所の立体化も施工されたのだった。
市街地南端に位置する、内浦町の八雲跨線橋は中でも工事末期まで持ち越された地点であり、1967年の3月に供用が開始されている。鉄道側では山越-八雲間の線増工事只中であり、当初より橋梁部の複線を跨ぐ径間で建設された。ここでは小河川の熱田川も交差し、径間延長を避けて立体交差の盛土底部に小型のコンクリートケーソンを埋設し流路としたのだが、近年の集中豪雨に対する流下能力の不足により、溢水が函館本線路盤を洗掘して通過貨物列車の脱線に至ったのは記憶に新しい。

八雲方から八雲跨線橋に差し掛かるのは124列車である。長万部から函館までを砂原回りで4時間をかけていた。
区間列車にかかわらず基準方に荷物車を連ねた函館線普通列車には当たり前の姿は、ネットワークが独立していた室蘭本線内からの継送のはずである。
機関車を中央に配置するあまりに後部を切らせてしまった、まだ拙なかった技術をご容赦願いたい。

線路と南東から北西方向に交差する八雲跨線橋の設計は、将来にその先を八雲バイパスとして海岸沿いに延長する計画に依っていた。それの実現は遠く1983年のことであったから、暫定的な現国道への接続には半径50メートルの反向曲線を介在させたところ、それは急曲線の事故多発地点となってしまった。1972年には曲線改良のなされたものの跨線橋からの下り勾配も相まって、永く運転者を悩ませたと八雲町史は書いている。
現在跨線橋線路乗り越し部には、御多分に漏れず丈の高いフェンスが設置されてしまったのだが、並行して1980年に架けられた八雲跨線橋歩道橋には何故か設置が見送られ、この八雲方への画角は今も健在である。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f4-5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

別当賀 (根室本線) 1972

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道内で幼少から少年期を過ごしたけれど、両親は茨城県水戸市の出身で、ご先祖は水戸藩士に行き着くらしい。
なので、水戸藩が、その太政官布告からまもない1869年8月から北海道の分領支配に参加し、天塩国北部と利尻島の割譲を受けたことくらいは承知していたけれど、そこから彼方東の根室国花咲郡での山林所有は寡聞にして不知であった。先住民にペトゥッカ(pet-utka)と呼ばれた地域の原生林である。
この取得が分領支配を出願した水戸徳川家11代当主、徳川昭武の時代の『地所規則・北海道土地貸規則』によるものか、1884年の華族令にて爵位を与えられた12代篤敬が『北海道土地払下規則』ないし『国有未開地処分法』を根拠に、その地位を以って成したものか、歴史の門外漢が覗いた程度には知りえなかった。おそらくは後者、これらの法令が北海道に特有の不在大土地所有制を誘導したように投機目的と見るのが順当なのだろうが、篤敬の次男、宗敬が後に東京帝国大学農学部林学科に進んだことを思えば、昭武の代から本気で将来の山林経営を考えていたのかも知れない。
しかしながら、宗敬進学の10年ほど前、1907年に水戸徳川家はそれを手放してしまう。売却先は、同年に秋田県能代(当時に山本郡能代港町)の製材会社3社が合同した秋田木材株式会社であった。これは当時の木材需要に成長した内地資本の道内進出に違い無いが、会社を率いた井坂直幹(なおもと)は、旧水戸藩士の子であり、大倉喜八郎の日本土木会社(大倉組)を経て能代にて造材会社を起こした人物であった。この売買が水戸徳川家側の事情によるものか、井坂の要請の結果なのか、経緯を研究者はとっくにご存知なのだろうが、いずれにせよ彼の推進した能代の製材会社3社の合併は北海道進出を見据えてのことであり興味深い。

秋田木材によるペトゥッカに当て字した別当賀における事業は、周辺山林からの造材に始まり、乾燥を経ての本格製材は1910年頃からと思われる。製品は建材としての各種板材はもちろんのこと、当時に需要の高かった木箱にも加工されて遠く朝鮮や満州へも運ばれたと云う。これにて、原生林中には100戸ほどの従業員住戸のほか、雑貨店や理髪店、料理屋も呼び込んだ集落の出現するに及んだと記録にある。
1920年11月20日には厚床から西和田へと釧路本線(当時)が延伸され、別当賀停車場が開かれるのも、この集落経済力ゆえであり、製品の輸送路を得たと云うに、肝心の秋田木材は1915年までに標津の忠類村に工場を移転し、この地を去ってしまう。細い水流しか認められぬ地では奥地からの運搬手段に事欠き、周囲での資源が早くも枯渇したと云うことなのだろうか。
山林は、苫小牧を足場に道内事業を拡大していた王子製紙(初代)に受け継がれ、現在は十条製紙を経た日本製紙の社有林となっている。

別当賀構内へと進入するのは444列車、釧路行き。
せっかくの蒸機旅客を写真には面白くも無い駅スナップとしているのは、道東太平洋岸特有の移流霧に拠る。前に車窓に見かけた落石との間の浸食崖上区間(後年に高名となる位置である)へ歩くつもりで、地形図上に細道の繋がっていた別当賀に降りたものの、深い霧の晴れるのを待機する間に到達タイミングを失ったのだった。
最近になって、同区間での蒸機写真をWeb上に見つけ、やはり撮ったヒトはいたのだと思えば、すぐに再訪しなかったのが悔やまれる。この頃には多くの地点を目指すだけで精一杯だったのである。

秋田木材は別当賀での操業中に、根室市街地での電燈事業など、同地域で幾つかの事業を起こし、それは工場を移転してからも続けられた。そこでは「あきもく」の通称で親しまれ、今でもその名を懐かしむ人の多いと聞き及ぶ。

[Data] NikonFphotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 L37filter unknown film Edit by PhtoshopCC on Mac.

南稚内 (宗谷本線) 1972

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南稚内で直進する天北線から右に大きく旋回した宗谷本線は、エノシコノナイ川が煩雑に曲流を繰返す露出した周氷河地形を日本海岸へと向かう。けれど、熊笹の低湿地の細い流れは車窓に確認することは出来ない。降雪が降り積もって、ようやくに川筋が露となる程度である。客車急行となった<宗谷>に通った頃のこと、ポジションを探して雪原を歩き、それにすら気がつかずに雪を踏み抜いた足元の水流に慌てたこともある。
川、と云っても小川ほどなのだが、それらしくなるのは稚内高校のグラウンドからこまどりのスキー場下あたりからのことだったけれど、周囲が宅地に開発された今には流路が改変されてしまい、つい上流の原始河川然とした流れとは一変する。道の管理する二級河川としての指定区間もこれより下流とされ、上流側は河川扱いされていない。
かつての天北線路盤を転用した市道と交差するあたりからは、流路こそ変わらぬものの、周囲の市街地には護岸に囲まれ水路と化し、さらにかつての河口からの埋立地内は三方をコンクリートに固められた単なる直線水路である。
それでも故郷の水が呼ぶものか、秋口には鮭がそこを遡上する。建て込んだ住宅の中の三面の水路を遡る鮭の図と云うのは、何やら飛騨古川や津和野あたりの用水路に泳ぐ鯉と重なって何とも切ない。産卵場所はスキー場下からさらに上流の細い流れと思われるが、残念ながらその時期に覗き込んだことは無い。

エノシコマナイとは先住民による「川と川の間の川」の意であり、稚内丘陵からオホーツク海側に流れ出るクサンル川とウェンナイ川に挟まれた水流を指している。和人は、これに犬師駒内の字を当てたのだが、鉄道省は「犬獅駒内」を採用して、今も第一と第二の犬獅駒内川橋梁にその名を残している。

写真は、かの高名な利尻富士の標柱の建つ旭川起点251K096M地点に達した1396列車。稚内を昼に出る音威子府への解結貨物列車だった。
13年後の 抜海-南稚内 (宗谷本線) 1985 と全く同じポジションである。ハエタタキこそ無くなっているが、大火に焼失した樹木が寒冷に再生しない景観は全くに変化が無い。そればかりか、さらに30年後のつい先日の撮影でも同じ光景を眼にして来た。列車がいなければ、何時の時代の撮影か判別出来ぬだろう。
かつて中間線路班が置かれていたと推定される標柱位置の裸地が痛々しいが、ここの笹の植生は現在にも完全には回復していない。此の地点が抜海-南稚内間での宗谷丘陵のサミットであり、エノシコマナイ川の水源のひとつは、カーブに消えて往く線路のすぐ先あたりになる。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

大夕張炭山 (三菱大夕張炭礦大夕張鉄道) 1972

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幼少から十数年を暮らした北海道から内地に転じて、そこへは均一周遊券を手に通うようになった1970年代初頭とは、1962年の原油輸入自由化以来の炭礦閉山が、期せずしてその最終段階を迎えた時代であった。
年間5000万トンの出炭を確保しつつも低能率炭礦の整理と優良炭礦の保護育成を同時進行とするスクラップアンドビルドと呼ばれた石炭政策の破綻が明らかとなり、1968年12月25日に出された石炭鉱業審議会答申を受けての1969年1月の「今後の石炭政策について」の閣議決定、所謂「第四次石炭政策」は、石炭産業自体の縮小均衡を明示した歴史的転換点をなし、経営基盤の維持や累積債務に再建の困難な炭礦の漸次的撤退を誘導していた。
ところが、それに出炭規模の明示されないままでの閉山交付金の単価引上げに経営者の腰が浮いたところへ、「企業ぐるみ閉山」に対しての特別閉山交付金制度の新設が炭鉱労働者の動揺を呼び込んだ結果、ビルド鉱とされた優良鉱も含め閉山を雪崩状に誘発してしまったのだった。1969年度から1973年度までに、北星、茂尻、雄別、尺別、羽幌、奔別、夕張第二、美唄などの大規模炭礦を筆頭に実に58礦が失われ、道内炭礦は14礦を残すのみとなっていた。
それゆえ道内の運炭線がほぼ壊滅へと至ったのもこの時代である。国鉄線は運炭列車の皆無となっても線路は残ったけれど、地方鉄道や専用鉄道、専用線の多くは路線廃止へと向かった。
随分と前の記事でも告白したのだが、実のところそれらをほとんど撮っていない。ごく一部を除き蒸機鉄道であったから、勿論にいずれ撮るつもりではいたのものの、国有鉄道の本線系線区に大型機が健在であれば、どうしても眼を奪われたし、運炭線の多くは撮りたいロケイション恵まれずに後回しとしているうちに前述の雪崩閉山の事態を迎えたのである。

三菱大夕張炭礦大夕張鉄道には1972年の夏にロケハンのつもりで訪れ、明石町-千年町間の深い沢に架けられた5号(旭沢)橋梁の特徴あるトレッスル橋を確認していたのだが、乗って往復した列車を除けば日中に1本だけと云う当時のダイヤには撮り損ねてしまい、翌1973年11月の北部礦閉山、12月16日の南大夕張以北の廃止にはそれっきりとなった。大夕張炭山に所在の機関庫を訪ね、選炭場のホッパを見上げる構内を歩き回ってのカットが手元に残るのみである。

写真は、大夕張炭山の乗降場に一旦入線の後、入換に後退して往く混合4列車。次位のナハフ1には勝手を知る乗客らが既に乗り込んでいた。後位に石炭車を増結して再び乗降場に据付けられ発車を待つのである。
牽引のNo,3は、1937年度の専用鉄道から地方鉄道への変更申請に際しての自社発注機で、同年8月の日立製作所笠戸工場製である。当時にNo,2からNo,8まで7両が在籍した9600型の中で、同じく1941年自社新製のNo,4と共に切取形テンダに特徴があり、これに出会えただけでも満足したものだった。

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[お詫び] 本業の多忙は4月にも持ち越してしまい更新の捗りません。ご容赦下さい。

北檜山 (瀬棚線) 1972

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戦後まもなくに、発足したばかりの日本国有鉄道により非採算線区に区分けされていた瀬棚線の最大のトピックは、1966年10月のダイヤ改正における函館連絡の急行列車設定だろう。
当時に、函館経済圏に含まれた桧山支庁北端の瀬棚線沿線地域は、函館-札幌間設定に限られて函館へ午前の到達の無い優等列車配列から日帰りでの用務が困難な陸の孤島とされていたのである。この空白域を埋める優等列車の設定は、道内各方面に続々と気動車準急の設定の進む中で関係自治体から強く要望されるところであった。青函船舶鉄道管理局も年間凡そ2500万円の増収の見込めるとして1963年度から北海道支社と検討を進め、ようやくに需給増となる気動車1両と運転上丹羽停車場に必要となる行違設備を地元引受の利用債にて賄うことを条件に実現に至ったものだった。
当時の北海道新聞の記事によれば、運転開始当日の10月1日、まだ夜も明けきらぬ早朝と云うのに瀬棚駅での出発式には多くの町民が押し寄せ、乗務員への花束贈呈から紅白のテープカットにくす玉の紙吹雪を発車して往く列車を見守り、途中停車駅の北桧山に今金でも学校のブラスバンドが繰り出した中、両町長によるテープカットの発車式が行われたとある。ここにも多くの町民が集まったことであろう。また、同列車には地元募集の函館観光団体240名が乗車して、彼らは下りの函館においても出発式を挙行したと云う。
沿線にとって函館直通は全通以来の悲願とも云われ、経済中心地へ日帰りの可能となったインパクトは大きく、それは沿線での日用品等の物価までも引き下げたとは爾来50年を経た現在には想像もつかない。その末期とは云え、鉄道が陸上交通の王者だった時代のことである。

瀬棚線は延長50キロ足らずの路線ながら、渡島半島基部の横断に半径300メートルの曲線が続く25パーミル勾配の分水嶺越えから後志利別川流域の水田地帯に海岸線を望む区間まで、一通りの車窓が存在した。蒸機撮影には二つの峠に挟まれた広い谷間を利別川が曲流する箱庭的風光の花石に惹かれながらも、一度だけ日本海岸まで足を伸ばしていた。
そこは、国縫起点45.5キロ付近の半径300メートルで右に旋回してから瀬棚までの3キロに満たない区間に過ぎず、立ち位置はこれしか考えられない国道背後の段丘によじ登って機材をセットしたのだった。
雪混じりの強風下にやって来た1991列車は、緩急車も無く無蓋車1両を牽くのみだった。ここでの貨物の多くは北檜山に発着して瀬棚の扱いは僅かだったのである。
背景は後志利別川の河口。この海岸低地には今は電源開発瀬棚臨海風力発電所の2000kw級風車の6基が立ち並ぶ。

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一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

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2013年3月29日の記事 一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972 に「この鉄道は転車台を持たなかったのではないだろうか」と書いた。実際に上り豊富行きの正向きに対して下りは逆向き運転であり、ポッパも所在したこの一抗の機関庫付近にも、その広い構内にもそれらしき設備を認めなかったことも推定事由だったのだが、訂正せねばならない。転車台は在ったのである。

但し、それはかつて睦町や新町と呼ばれた炭住街を通り過ぎた、三抗の構内だったと思しき位置である。Web上に数多在るその遺構の写真に見て取れる円形の浅いピットは、それ以外の築造物の可能性も無きにしも在らずだが、ほぼ転車台の遺構と考えて良いだろう。けれど、天塩砿業所三抗の開抗は1945年と記録されており、鉄道の一抗から1.4キロばかりの延伸がその際だとすれば、それ以降の設置と云うことになる。線路終端への設備に不思議は無いのだけれど、ならば1940年2月13日の開業以来に機関車転向をどこで行っていたかの疑問が残る。一抗構内から移設したものだろうか。
一方、豊富側の転車台は国有鉄道の構内に所在していた。天塩線の最終開業区間に含まれて終端駅だったことの無いそこへの設置を訝しくは思っていたのだけれど、これを国鉄機ばかりでなく日曹の機関車も使用したものだろう。設置時期は調べ得ないでいるけれど、この専用鉄道の開業に関連してのことならば合点が往く。或は、本屋から南側に離れた位置に社線豊富駅を設けての接続に、用地上の事由からそれを鉄道省より借用して日曹側が設けたものかも知れない。

1967年の坑内火災を切っ掛けに三抗を失なって線路の再び一抗までとなれば、転車台は移設されること無く放棄されたものと思われる。同時に豊富での転向も意味を成さずに中止され、以降に上り正向き、下りは逆向きの運転としたのだろう。開放型のままのキャブに乗務員の震えたのは、4度の冬だったと知れた。

最終運行翌日、有火のまま機関庫前に佇む9615。
テンダの向こう側に屋根の見えるのが給炭台、石炭の他点火に使われる薪も積み上げられていた。機関車後方に2線の庫があり、手前の建物が機関庫詰所である。
この時には自家用の貨車が留置されていた、一番手前の線路が、かつて三抗へと通じていた本線と思われる。

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厚岸 (根室本線) 1972

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能取湖の南岸、湧網線の卯原内付近を秋ともなれば赤く染めていた「サンゴソウ」群落は承知していたけれど、それの和名の「アッケシソウ」とは随分と後年に知った。観光ガイドブックやパンフレットの類いにサンゴソウ(珊瑚草)と紹介されてもアッケシソウ(厚岸草)の名はなかったのである。網走市にしてみれば観光資源に厚岸を持ち出したくも無いのが正直なところだったろう。

このアカザ科の一年生植物は、1891年に厚岸湖の牡蠣島で発見されたところから、その和名が付された。道内には厚岸湖、能取湖の他にサロマ湖や野付半島でも群落の確認されて北方系の植物かと思えば、宮城県や瀬戸内海沿岸にも自生と聞いて驚きもした。それの群落形成には塩分濃度の比較的高い汽水と緩やかな潮の干満差が条件と云う塩生植物である。牡蠣島の大群落は1921年に「厚岸牡蠣島の植物群落」として天然記念物にも指定されたのだけれど、牡蠣島自体が地形変動により水面下に没し始めて、以来に牡蠣島のアッケシソウは急激に減少したのだった。天然記念物指定も1994年に至って解除されている。厚岸湖から絶滅したでは無いものの、湖岸に残された自生地には陸路の通じない最深部にて、厚岸町はこれを観光資源とはしなかったのである。
決して繁殖力の弱い植物ではないらしいのだが、前述のごとくに生育条件が限られ湖岸の至る所とは往かない稀少植物であり、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧種2種に指定、北海道庁においても準絶滅危惧種である。

これを受けて、厚岸町は教育委員会が中心となって2005年よりその栽培を手がけている。栽培地は、かって鉄道の撮影位置でもあった線路沿い船溜りの埋立地である。陸上に区画を設けてのそれは定期的な海水の散布を要し、如何にも畑作地然とするのは頂けないが、釧網線の車窓にも見える。埋立地先にでも冠水域環境の復元を望みたいところではある。
余談だけれど、冒頭の卯原内地区では観光協会が自生地の保護を行って来たのだが、近年に主には潮位の上昇から土壌の流失や常時冠水域を生じたため、群生地への湖水流入を減少させる盛土工事を行ったところ、乾燥化が進行して生育不良に陥り、現在に群落は壊滅状態と云う。調査の結果、盛土に使用した能取湖港湾工事の際の浚渫土砂による土壌の酸化作用が原因と知れ、現在にその土砂と湖岸堤防の撤去が進められていると聞く。前述のとおり、環境にうるさい植物なのである。

厚岸湖岸の船溜りを車窓に旋回して往く列車は混合444列車。まもなく厚岸の場内に至る。
現在に前記の栽培地に埋め立てられた位置である。鉄道屋としてみれば、格好の立ち位置を失ったのだけれど、背後の丘陵も住宅街と化してしまい、どっちみち撮れたものではなくなっている。

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白老 (室蘭本線) 1972

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それは白貝(シロガイ)と言って関東地域では良く出回っており、横浜市場で取引している贔屓の魚屋でも見かける。何しろ大きいのに安いので、その昔には酒の肴に重宝し、剥き身を軽く湯に通して冷水で締めて刺身にしていた。要するには青柳(バカガイ)と同じ処方なのだが、それのような独特の旨味は持たず淡白ながらも酸の高めの吟醸酒などにはこれの方が勝るように思えていた。値段はバカガイの半分程である。

数年前の渡道の折り、北海道旅客鉄道が列車内で配布していた広報誌の写真に良く似た貝を見つけ、記事を読めば、その貝は「サラ貝」と呼ばれるらしかった。帰京後に改めて魚介類図鑑を開くと、この白くすべすべした手触りの扁平な二枚貝は、国内に46種の棲息するニッコウガイ科に属する「皿貝(サラガイ)」と記され、俗称に白貝とあった。その漁獲の大半が北海道の太平洋岸とも初めて知り、房総周辺の産とばかり思い込んでいたそれは遥々北の彼方から運ばれていたのである。
ならばと西胆振の地域紙「室蘭民報」のWebsiteで「サラ貝」をキーワードに検索すると続々と記事が見つかり、大半が白老町に関わるものだった。そのデータベイスは1999年7月以降に限られたが、ホッキ貝漁で混獲されるこの貝は、かつてには地元でも白貝と呼ばれての年間100t程の水揚げは地元漁師が食べていたくらいで、そのほとんど全量が首都圏方面向けに出荷されていたことが知れた。道内出荷の無かったのは、ホッキにツブにホタテなど競合する魚介のいくらでも在ったからだろうか。
これを、町起こし事業に「食材王国」を標榜した白老町(食材王国しらおい地産地消推進協議会)が2000年頃から地元や道内での消費を誘導し始め、「サラ貝」の名称でその地元食材に加えると共に、年に数回漁港で開催する朝市に出品する等で順調に消費を伸ばした様子が見て取れる。
2008年4月15日の朝刊には、《白老「サラ貝カレー」の研究会設立、商品化目指す》との記事があり、流行りのご当地カレーの食材に抜擢もされている。以前から漁師達の家庭ではカレーの具にしていたのをヒントに基本レシピを制定し、町内の幾つかの飲食店で「しらおいシーフードカレー」の名で提供を開始したもので、所謂B級グルメのフィールドにも名乗りを上げた、と云うことであろう。ただ、検索の限りではそのレトルトパックの販売は確認出来なかった。
カレーも美味そうではあるけれど、酒呑みとすれば、やはり湯通しの刺身にしたいところではある。

放牧の競走馬の背景を往く室蘭本線。列車は2286列車、旭川からの五稜郭行きである。
この馬産牧場は、この当時に「社台ファーム」と呼ばれていたけれど、それが地名では無く既に企業名だったとは随分後になって知った。競走馬の生産集団である社台グループの始まりの牧場は、この時期に「社台ファーム白老」だった。

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