"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

厚岸 (根室本線) 1971

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根室線の釧路以東区間を久しく訪れていない。記録を遡ってみれば1986年の夏前が最後だから、もう30年を経過する。
厚岸湾岸、辺寒辺牛湿原にせよ、落石千里浜にせよ、その景観は変わらぬだろうが、鉄道屋なので、やって来る列車に魅力が乏しければ、どうしても足は向かぬのである。この間、札幌所の寝台車で組成された臨時運用が幾度か施行されたけれど、沿線の騒ぎを思えば遠慮申し上げるしかなかった。
周遊券・周遊きっぷや自由乗降型企画券が遠い過去となり、道内夜行が皆無となれば、それは「周遊旅行はするな」と云われているのと同義だから、最近には航空機で行き来するピンポイントの撮影ばかりで、釧路にも随分と出入りしているのだけれど、釧路以東と云えば至近の釧路川橋梁で単行気動車を眺めるのがせいぜいである。

厚岸の根室方、線路が厚岸湾岸に接近する位置に所在した、湖面での漁専用の小舟の繋がれた船溜まりには、1970年の初遠征で訪れて以来に幾度も立ったものだった。下り列車なら線路際から、上りに対しては粗末な岸壁から前景に小舟をとらえるのが定番の画角である。
この位置は、先住民がタンタカと呼んだ地から厚岸湾に突き出し、厚岸湖との境を為すように発達した砂州の内水面側の、1960年代前半までの埋め立てにより出現しており、本来には岸壁とは云えず、本当に粗末な木杭と木板で土留めがされているだけだった。干潮ともなれば、写真のように泥の底が露出して係留の小舟が取り残される有様だったのだけれど、70年代末には浚渫もなされ、土留めも岸壁を兼ねたコンクリートに改修され、線路寄りには船揚場も整備されて船外機の小舟ばかりでなくエンジン船も見られるようになっていた。
岸壁上には漁師小屋も並び漁具も無造作に置かれた一通りの漁港風情には、浜番屋に執心していた時期でもあり、幾度も通った理由のひとつであった。ただし、それにお見せできるような成果は手にしていない。

写真は、駅も間近にこの位置をゆっくりと場内信号機に接近する464列車。根室から釧路操車場までの区間貨物である。
G2Type後藤デフにJNRロゴのこの機関車についてはWebに幾らでも記事がある。個人的には必然の無いデフ改造に装飾は(加えてランボードにテンダ上縁の白線も)、ブームを当て込んだわざとらしさが鼻についたものだった。

ここは1990年代に至って、さらに埋め立てが行われ、線路と平行方向に船揚場が拡張の上移設されて、立ち位置としては失われた。もっとも、写真で造成の進められていた様子の窺える背後の丘陵に住宅の建ち並んだ今には、あまり魅力は無い。
移設船揚場の後背地で絶滅危惧種厚岸草(珊瑚草)の人工栽培が行なわれているとは、以前の記事 厚岸 (根室本線) 1972 に書いた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.


西女満別 (石北本線) 1971

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アジア太平洋戦争の敗戦から間もない時代の国有鉄道は、空襲により破壊された施設や車両は勿論のこと、戦時下に疲弊した輸送設備全般の復旧と戦前並みの輸送力への回復に追われ、新駅の設置どころでは無いのが本音であったろう。けれど、戦地からの復員兵や引揚者の収容と、それによる人口増による食料不足への懸念から、彼らの帰農を目的とした、時の幣原喜重郎内閣が1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域では、近隣に鉄道路線の在れば、運輸省鉄道総局には駅設置の請願の多数が寄せられた。
これに対し国有鉄道当局は当初には予算や要員の事情から静観を決め込んでいた様子の伺えるものの、国策の前には抗し難く、日本国有鉄道発足後の1951年3月に新たな駅設置基準を定め、それに合致する請願を渋々に承認するのだが、「要領」に示された開墾予定面積155万町歩の45パーセントに当たる70万町歩(≒7100ha)を占めながらも多くが僻陬地に位置した北海道においては、鉄道以外に考えられぬ交通手段の確保に札幌鉄道局限りの乗降場が前倒しにて設けられていた。
美幌から7K050Mの地点へ設置の旭野仮乗降場もそのひとつであり、当時の女満別村旭野開墾地の利便を図ったものであった。1947年2月11日の開設は日本国有鉄道発足前に当たるが、将来の正駅格上げを前提に乗降施設は土盛の恒久的構造とされ、要員配置の無いながらも総下見板張だった造りから推察するに駅本屋もその際に設置されていたものと思われる。
ここは、1951年3月の国鉄理事会における前記の新駅設置基準の制定を待たずに駅昇格の承認され、1950年1月15日付にて西女満別として開業の公告された。当然に要員の置かれて手・小荷物を扱い、翌1951年には貨物積卸線を設けての貨物扱いも開始し、開墾地の物流拠点に機能したのだった。
その賑わいは、短い乗降施設に小さな待合所が鉄道林の中に深閑と佇む現在からは些か想像し難い。

写真は、西女満別北側での5672列車。新富士から北見への石油輸送列車だった。
防雪林の延々と続く景観に女満別から西女満別方に歩いたのだけれど、めぼしい位置は見つからず、初秋の冷たい雨に気力の萎えそうになりながらの撮影と覚えている。新旭川起点213キロのこの位置は、現在に女満別空港に通ずる道道246号線跨線橋の架けられているあたりと思う。
辿り着いた西女満別は、既に駅務長の詰めるだけの業務委託駅となっていたけれど、待合室には早くもストーブの焚かれて、それは駅本来の姿だった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1971

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宗谷本線の旭川起点251キロ地点は、かつてには南稚内に列車を降りて線路伝いに延々と歩いて到達する位置だった。坂の下まで宗谷バスを利用し、比高40メートルばかりの斜面下まで歩いて、そこに取付けられた保線用タラップを昇る手もあったけれど、バスの南稚内から日に2本だけの運行には使い様もなかったのである(稚内からノシャップ経由なら9往復があったが50分程を要した)。
けれど、最近の鉄道撮影ブームとやらではタラップ下に自動車で乗り付けるのが大半であろう。その手のお手軽撮影者は斜面にクマザサをかきわけてポイントを採るのを嫌って線路端で済ませる事例の多いものか、この地点には「立入り禁止」の札の建植されてしまっているらしい。それ自体は田畑の畦が線路を横切る位置に呪文のように建てられていた「線路内横断禁止」と同じく、鉄道側の免罪符に過ぎないものの、ここで線路端に立たれてしまうと背丈程のクマザサと格闘する写真屋の画角に入り込み、その苦労が無に帰すのも事実である。

この施工基面高42メートルの位置からの景観は、海上遥か利尻の島影をさて置いても雄大な眺めとして良い。眼下に見通す北の西浜から南の抜海に至るまで10キロあまりの海は、坂の下湾と呼ばれるらしいのだが、その緩やかな海岸線には呼称はあるのだろうか。
そこは環境省の公開している2万5千分の一植生図によれば、立ち位置一帯を覆うクマザサ群落は道道までの急斜面に尽きて、それに沿うようなミズナラ群落、その外側の低層湿原にヨシ原が続いて、海岸の砂丘地はハマナス群落とある。2006年の調査に基づくと云うが、この当時は云うに及ばす、太古から何一つ変わってはいないだろう。
それは1970年以来幾度となく眺めても、距離感を喪失する光景でもある。地図上に海岸線までは直線で400メートルあまりと読めるのだが、建物のひとつも人影すら見当たらないそこに比較するものがないものだから、いつも指呼の間に、海まで手の届きそうに感じられてしまう。

前の年の初訪問で透き通った天候に恵まれ、気を良くして翌年にも再訪したものの、利尻島の望めぬのなら画角を変えるしか無い。
R=302の急曲線でサミットの251K096Mに差し掛かるのは324列車。夏場なので、絶気となれば白煙もない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

銚子口 (函館本線) 1971

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CTC制御方式による運転扱いとは、列車指令と乗務員間に駅を介在させない方式であるから、列車運行は単純であることが望ましい。例えば、駅を制御所から切り離して行わねばならない本線を支障する入換運転が各駅から要求されると集中制御のメリットは失われる。よって、この方式の導入は先行或は併行して貨物扱駅の集約が進められることになった。貨物扱と運転扱いの無くなった駅には旅客フロントの機能が残るのみとなって、その業務量の少なければ何らかの代替の下に要員の引揚げが可能であり、線区運営の合理化に資した。
1958年の伊東線での試験運用の後には、1962年の横浜線へ本格導入、1964年の東海道新幹線での実用化と続いたように、当初に国鉄はこれを高密度運転線区での保安度向上設備と捉えていた節のあるだが、1967年から69年に架けての土讃本線、高山本線への導入を以て線区運営合理化の推進基盤との認識に至るのである。
これにより、1970年代以降、 CTC制御方式はその前提となる閉塞の自動信号化と合わせて、原則的に単線区間の保安方式として導入が推進され、1980年代半ばまでにその施行累計距離は10000キロに達する。
国鉄線上に要員の撤収した無人化駅(業務委託化駅を含む)の爆発的な増加を見たのがこの時期であった。従来からの棒線駅等の無人駅を合わせれば、大半が要員無配置と化したのである。1970年度から国鉄本社が押し進めた線区運営の総合的な合理化策「営業(体制)近代化」政策の協力なツールだったことが伺える。

1969年8月3日に試用の始まり、11月26日から本格運用となった函館本線[五稜郭]-[森]間(*1)への設備が、道内に置けるCTC制御運転の嚆矢である。本州連絡列車の集中する区間であり、地域内列車を加え100回を超える列車回数から、これは保安対策上の選定であった。導入時点で区間内(両端駅を除く)に6駅の貨物扱い駅を残し、施行に際して営業要員までの引揚も行われなかったことで、線区運営の合理化とは切り離されていたと知れる(*2)。
これが道内の次例となった1971年3月施行の根室本線[落合]-昭栄信号場間、8月の昭栄信号場-[釧路]間では、高山本線にて「営業体制近代化」効果の確かめられた後となって、同年10月2日改正を以て10駅が貨物扱いを廃して要員無配置とされた。けれど、現在に比すれば遥かに大きかった旅客需要に荷物扱いの要請から多くで営業フロントが業務委託ないし簡易委託にて維持され、完全に無人化されたのは尺別のみに留まっていた。
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(*1) CTC制御の施行区間の両端駅、即ち非CTC区間との境界駅については、被制御駅となる「CTC運転取扱基準規程」(最新改正-1984年4月1日運転局長達第3号)に定める「非運転駅」とする場合とそうでは無い場合がある。当該駅は往々にして構内作業の輻輳する線区拠点駅であり、構内の運転扱いを駅制御とした方が有利なため制御対象から除外する事例の多かった。この場合にCTC制御区間とは、同駅場内を除いた場内信号機の外方からと云うことになる。
このような駅を規程上に「一般駅」とするが、誤解無きよう付言すれば、運転の自駅扱い故の「一般駅」ではなく、CTC区間の隣接駅は全てがそれに対しての「一般駅」である。区間末端駅を「非運転駅」とした場合、自駅で制御を行わずとも隣接の「一般駅」間との閉塞扱いには要員配置を要した。
この五稜郭-森間の事例では、両端駅は運転扱いの「一般駅」とされ、正確なCTC制御区間とは、五稜郭上り場内信号機(操車場場内に対する第一場内信号機)-森下り場内信号機間になる。これからは桔梗-姫川・尾白内間とする資料もあるのだが、本記述では、[五稜郭]-[森]間の例で表記している。
なお、CTC区間が延伸された場合、「非運転駅」に組み込まれることもあれば、制御の自駅扱いのまま残ることもあり、その場合には規程上に「運転取扱駅」とされた。森は長万部まで延伸の1986年11月1日より「非運転駅」に含まれる「入換駅」となった。
(*2) この区間での「営業近代化」は、導入から2年を経た1971年10月26日付にて実施された。
(この項 常紋信号場 (石北本線) 1997 に続く)

写真は砂原線を上るD52牽引の250列車。銚子口の駅から少し大沼方に戻った地点と記憶する。
CTC線区と云えば近代路線のイメイジがあるが、1969年当時はまだ蒸機の時代である。CTC設備もまたリレイを用いた原初的装置であった。
なお、道内へのCTC制御の導入経過をWebSiteにまとめている。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 NON filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

初田牛 (根室本線) 1971

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国有鉄道における業務委託駅の嚆矢は、アジア太平洋戦争戦時下の『陸運統制令』(1940年2月1日勅令第37号/1941年11月15日勅令第970号にて改正)に基づく私設鉄道の買収に起因する。1943年8月1日付で戦時買収の現飯田線を構成する私設鉄道4社に所在して、会社がその業務を外部に委託していた計20駅の非直営駅を委託契約そのままに引継いだ結果であった。
これら20駅は何れも閉塞を扱わない所謂棒線駅であり、乗車券類販売を外部業者に委託していたのである。この国有鉄道線に想定していなかった停車場の運営形態に、鉄道省はジャパンツーリストビューロ(JTB)での乗車券類代売が対象であった「乗車券類委託販売規程」(1942年5月1日鉄道大臣達第267号)に条文を付加して対応したのだった。
ただし、この時点では「業務委託駅」と云う明確な概念は存在しなかったと思われる。

戦後に多くを抱えることとなった地方非採算線区の運営に苦慮した日本国有鉄道(以下国鉄)は、そこでの駅業務の簡素化、要員の削減に飯田線の例に倣っての業務委託の導入を方針とするのだが、同時期に自動車線駅の駅務全てを受託させる組織として日本交通観光社(以下日交観)の設立が国鉄主導にて進み、またジャパンツーリストビューロを改めた日本交通公社以外にも乗車券類の代売を認める動きの在ることに鑑みて、前記「乗車券類委託販売規程」を改正、1954年9月に公示として「乗車券類委託販売規程」(1954年9月9日国鉄公示第262号)を、総裁達として「乗車券類委託販売細則」を制定し、そこでは駅務の委託と乗車券類の委託販売は明確に区分されるところとなった。
調べ得なかったのだけれど、この際に「営業線等管理規程」などの規程類や基準規程に停車場業務の委託が明文化されたものと推定する。国鉄の定員を置かずに停車場業務の一切を外部に委託した個所を「業務委託駅」と規定したのであった。よって、飯田線に始まる事例以降は全てこれに含まれた。
けれど、運転保安上から閉塞扱や貨物扱の在る停車場の受託者には、訓練された国鉄からの出向者やその退職者が在籍した前記の日交観のみに限られていた。これは国鉄の内規であったろう。
ご承知のとおり、列車運行図表に業務委託駅は、停車場名に左半円を塗りつぶしたマル記号を付して表示されるが、日交観の受託個所にはそれの省略されていた。業務の一切を丸ごと受託したそこは運転上に区別を要さなかったゆえである。その記号の表示されていたのは日交観以外の受託個所であり、RCやCTC制御の普及以前には、確かに棒線駅ばかりであった。従って、それらは荷物営業を含む例の多かったとは云え、実態は乗車券類の委託販売である。

初田牛は1920年11月10日の根室線西和田までの開通に際して設けられた停車場ではあったが、周辺原野の開墾が進展せず、1962年には貨物扱いを取りやめ、1964年4月1日付で行違い設備を撤去して業務委託駅となっていた。この区間では花咲も同様の経過を辿っている。当時の受託者は調べ得ていない。
ここでの下車は特に当ての在ったで無く、濃霧の晴れ間を追って移動した結果に過ぎない。けれど、列車を待つ間に移流するそれに追いつかれてしまい、せっかく見つけたポジションを諦め、急ぎ線路端まで移動することになった。
やって来た列車は1492列車。根室港発の冷蔵車を連ねた編成だった。それの潮の香りのしたことは前に書いたと思う。シャッタタイミングの少し早いのは拙さ故とご容赦願いたい。

ついでなので、乗車券類販売の簡易委託制度に触れる。
この制度は、1970年度に「乗車券簡易委託発売基準規程」(1970年9月28日旅客局達第201号)としての制定による。
前述の「乗車券類委託販売規程」「乗車券類委託販売基準規程」(1958年に[細則]呼称が改められた)が、一般の乗車券類の他、周遊乗車券や遊覧用の特殊委託クーポン乗車券類などの代売に主には旅行業者を受託者とした制度であるのに対し、これは国鉄線内相互発着の常備片道乗車券と常備急行券に限り、資格を特に定めること無く国鉄の認めた者に受託させる制度である。地方公共団体から公的機関、果ては個人に至るまでを受託者に想定していた。
従来に、停車場業務の一環として業務委託を要した駅窓口での乗車券類の委託販売を分離したのは、1970年度を初年度に全国規模で実行された「営業体制近代化」施策に対応した措置であった。1950年代から60年代の線区別経営政策の当時に、要員の引揚げられた駅の地元から代売の申し入れの在っても、業務委託以外に制度の無かったことに応じたのである。それは旅客制度の専門知識を持つ要員の他、帳票作成や報告に国鉄内部と同程度の経理を要求され、簡単に受託出来るものではなかったからである。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f4 Nikon L1Bc filter  Unknown Film(ISO100)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

七飯 (函館本線) 1971

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あちらこちらに引用されて、ついつい読んだ気にもさせられていたイザベラ=バードの著作「Unbeaten Tracks in Japan(邦題:日本奥地紀行)」を通読したのは、それの新訳本の出たつい最近のことである。当時の英国上流社会に属した人間の極東の未開地に対する見方に新たな発見はなかったけれど、1878年の夏を費やした横浜から越後地方を経ての奥羽地域から北海道への旅の記録は、19世紀末の日本辺境の自然や生活、習俗が細かく書き留められた、近代以前の日本の民衆の暮らしを記した貴重な資料には違いなかった。

バードは、8月17日に箱館から小沼畔の宿へと向かう途上に通過した七重(現七飯)について「整然とした洋風の村が立派な農作物に囲まれている」と記している。これは1870年から1894年まで置かれた「七重官園」の描写に違いない。現在に七飯町が町民憲章の序文に「近代農業発祥の歴史をもつ七飯町」と書くのは、その存在ゆえである。ここでの近代農業とは西洋式農業を指す。その実践と人材育成に設けられた施設が官園であり、後の農業試験場の嚆矢である。七重官園はその最初の事例となったのだが、それは、ここで起きたプロシア人リヒャルト=ガルトネルによる土地租借問題の顛末と云う歴史の偶然の結果に思える。この薩長新政権を揺るがした「ガルトネル開墾条約事件」については、北海道のポータルサイト「なまら北海道」のコラムが簡潔にまとめている。
ガルトネルは本格的な農園経営と条約に忠実に日本人への西洋式農法の教授を実践し、1868年から開墾の始められた農園にはリンゴやサクランボ、ブドウ、セイヨウナシなどの果樹や、大麦に馬鈴薯、キャベツなどの西洋野菜に、牛や馬、豚などの家畜をヨーロッパより持込み、その飼料にアルファルファやクローバー等の牧草の栽培も行い、また農耕にはプラウなどの洋式農具が取り入れた他、温室栽培までも手掛けていた。
莫大な補償金を支払って条約を破棄した新政権は、これらを財産として入手したことにもなり、ガルトネルに教えを受けた多くの農民も残ったのだった。開拓使がこれをそのまま開墾場としたのが、七重官園の始まりである。正式には1873年に七重開墾場と命名、1875年には七重農業試験場と改称され、同年より稲作試験、1877年からは傾斜地を利用した大規模水車による水力製粉、1880年からは葡萄酒醸造、ハム・ソーセイジの畜産加工や久根別川での鮭の人工孵化まで始められた。
バードが目にしたのは、西洋式の建物も多くが建てられていたであろう官園初期の風景である。

40年ばかり前、連絡船から乗継いだ気動車急行は五稜郭の操車場に貨車の群れを見ると、横津岳斜面から続く緩い傾斜地を横切って軽快に飛ばし、両方の車窓には畑作地に牧草地、果樹園の交互に過ぎ去る光景が続いて、やがては右転しながら高架橋に駆け上がれば、それらが一望に視界を占めた。それは、確かに美しいと評しても良い官園からの名残の風景だったろう。市街地化の進んだ現在には失われた光景でもある。
写真は暮れなずむ七飯での2153列車、五稜郭操車場からの小樽築港行きだった。と云っても函館本線を直進するでなく室蘭・千歳線回りである。
ここに40分程停車して、特急に急行、普通列車までを先行させていた。長い停車時間にはブロアを開いて蒸気を保持する。太いボイラのシルエットは長万部までを牽くD52である。
背景には今は伊達市に移転してしまったクレードル興農のアスパラ缶詰工場が写り込んでいる。町内に多くの農産部加工場の成立も官園所在に由来した。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 Bulb@f11 NON filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

遠軽機関区 (石北本線) 1971

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蒸機撮影に定番のジャンルだった「機関区詣」には幾度も往ったけれど、あまりまともな写真は手に出来なかった。
事務室で記帳すれば黄色い腕章なり安全帽(ヘルメット)を渡され、後は比較的自由に構内を歩けるのがほとんどだったけれど、そこは基本的に24時間稼働している輸送の現場であるから、機関車は必ずしも希望する位置に整った姿で止まっていてくれるでは無いし、庫の中ならば満足な光線の得られるでも無い。なんとか工夫して画角を見つけようとはするものの、足早にスナップして歩くのが関の山で、結局のところ「構内風景」がフィルムに記録されるのだった(もちろん例外はある)。 寧ろ、間近に機関車の鼓動を感ずるのが「機関区詣」の楽しさであり、その全てだったように思う。

駅本屋から大分に歩かされる機関区の多い中で、遠軽の庫は乗降場の指呼の間に在り、駅員に断りを入れて構内通路を辿ればすぐに往き着けて、少しの空き時間にも訪ねられた。
半円に至らない庫内14線の扇形庫は、配置が戦後まもない時期以降の配置が40両を越えていたと聞けば手狭にも思えたけれど、それでも1954年の台風マリー(同年台風14号-洞爺丸台風として知られる)にて倒壊した木造庫の改築の際に拡張されたものと云う。翌1955年10月に完成した現行の鉄筋ブロック造りは機能優先にて、些か情緒には欠けたように思う。扇の要に置かれた転車台は、1957年のキハ22配備に際して20メートル級に交換されていた(D51形蒸機は18メートル級に載れたのである)。
この1971年当時に、配置はD51の7両に9600の11両まで減っていたけれど、旭川からのD51や北見からのC58の入込みもあり、庫内は気動車も含めて常時満線に近かったと覚えている。DD51は石北トンネル区間の補機の一部仕業が達していただけだった。
1972年10月改正にてそれが本務機として北見まで進出し、翌年に常紋越えの補機仕業もDE10への置替が進むと、名寄本線運用だけの残された構内の煙は寂しくなり、それら9600はゼブラマーキングが大半だったこともあって足は遠のいてしまった。

扇の外側、つまりは扇形庫の裏手が東ないし西を向いていれば、朝夕の低い光線が内部まで差し込んでくれるのだが、背後に台地の縁を背負ったここではそうは往かない。頼りは入口からの外光だけだが、内外の輝度差はフィルムの有効露光域を軽く越える。天窓から床に差し込む光が少しばかりのアクセントになろうか。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/60sec@f5.6 NON filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

名寄機関区 (宗谷本線/名寄本線) 1971

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機関区詣での初めは小学生の頃の小樽築港機関区だった。休日に何度か遠目に機関車を眺めていたそこへ、意を決して正門から踏み入れ事務所を訪ねたのである。応対の職員に来意を告げると、子供ひとりを訝しくも思ったのか「どこから来たのか」「親は承知か」などを質問されはしたものの、備付けの帳面に住所・氏名を記入して待つように指示され、やがて現れた案内係の名札には「区長」とあって子供心にも恐縮した記憶がある。機関車を間近に運転台は勿論、煙室内部を覗き込み、ピットまで潜らせてもらっての見学の後には区長室で茶を馳走になり、青焼きの機関車配置表まで土産に持たされたのだった。今時の子供と違い、この当時にカメラは手にしていなかったは惜しいところだ。
これに味をしめて「また来たのか」と云われる程に通い、機関車台帳(機関車履歴簿)などの部内文書を写させてもらったりもしていた。鉄道趣味は機関車研究の方向には至らなかったけれど、今も貴重な資料として手元に残る。
ここで、開所間もない札幌運転区(現運転所)も見学したいと申し出て教えられたのが、鉄道管理局の広報担当部署を通じての手続きだった。早速に札幌駅に同居の札鉄局を訪ね、受付からの丁寧な応対に広報担当に面会して難なく見学日程を決められた。余談だが、子供の図々しさと云うのだろうか、この担当者氏をその後にも何度か訪ねて顔見知りになり、使い古しの運行図表などを頂戴したものだった。
この手続きを郵便によるやり取りにて試したのは、1968年夏の帰省先での勝田電車区の見学であった。水戸鉄道管理局文書課広報担当宛に依頼文と共に同封していた返信封筒には、希望の幾つかから選んでもらった日時に「お待ちしています」の一文が添えられていた。指定当日に訪ねれば、既に案内係りが待機しており「今日は見せたいものがある」として連れられた先には、その10月から東北・常磐線を上下する予定の583系電車の一編成が入区していた。運転経路上の検修区所に対する突発故障に応じた検修訓練のためだったろう。確かに思いも掛けないことで驚喜もしたけれど、何より印象に残るのは、それに同乗して検修指導を行っていると云う青森運転所の担当者が、留置中にて冷房も効かない車内で、たかが中学生ひとりを相手に寝台設廃の一部始終を汗だくで実演し、その昼夜での居住性を実現した画期的構造に付いて熱弁をふるったことだった。

これらの実体験にて知れるのは、運輸省が1947年8月に発表した「国有鉄道の現状」と題された白書の結びに使われた「国民の鉄道」「国民の国鉄」の意識が、1949年の発足後十数年を以て公共企業体日本国有鉄道の職員末端まで浸透していた事実であろうか。それは戦後に相次いだ国鉄を巡る謀略的事件や、桜木町、三河島、鶴見と云った重大事故からの信頼回復を教訓に国民への奉仕を部内に説き続けた結果にも思える。そこには国民経済を支える鉄道の職員としての強い誇りと職責も見て取れた。
事実、発足後の国鉄は広報活動に熱心であり、職用車に模型や資料を展示した広報車を用意し全国を巡回もさせ、また拠点においては自治体や地元新聞社の後援の元に鉄道博覧会も開催していたのである。現場の見学についても、その一環として垣根の無い受入が指示されていたものだろう。
私企業となった現在の旅客鉄道にこそ必要な姿勢とも思えるが、それを頑なに拒むのは、撮り鉄と称する一群の当時とは比較にならない数も一因だろう。

名寄機関区は、その地理的位置から幾度も足を運べたでは無かったけれど、直接に訪ねれば許可の下り、動きの少ない扇形庫にはじっくりと機関車に向き合えたものだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 O56 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北浜 (釧網本線) 1971

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鉄道と云うものは程度の差こそあれ、敷設計画に際しては政治路線である。この釧網本線には斜里(現知床斜里)付近の線形に、それは端的に見て取れる。

この北海道の太平洋岸とオホーツク岸とを短絡する鉄道の建設は、「北海道ニ必要ナル鐵道」を定めた『北海道鉄道敷設法』(1896年5月13日法律第93号)の第二条に規定の旭川-十勝太-厚岸-網走間鉄道を根拠としていた。同法第一条に基づき予定線を調査した「北海道官設鉄道調書」(1896年)によれば、その北見国側の想定経路は標茶から本鉄道に転用予定の釧路鉄道を辿って跡佐登に至り、硫黄山を経て釧路・北見国境を4箇所の隧道と4箇所の橋梁にて越え止別川の流域を下るものとされ、これは現在の国道391号線に近似の経路と推定される。敷設計画が沿線地域への入植の遅れから見送られる中で調査の行われた1910年の「北海道北部線路調査報告概要」では、北見国側での経路がより具体的に示され、それは止別から濤沸湖南岸・藻琴経由とされていた。当時にヤンペツとされた地域は内陸部に至るものと思われ、これは国境から網走への最短経路としたものだろう。
いずれにせよ、当時の斜里村小清水近郊を通過する経路であり、これに対して小清水ではそれを集落に近づけ停車場を設置させる請願が行われた。1917年に制定の『北海道拓殖鉄道建設費利子支出ニ関スル法律』(1917年7月21日法律第10号)を背景に拓殖計画へ網走-斜里間鉄道が追加されると、それを小清水にて分岐の支線とするよう陳情もなされて、鐵道院もこれらには一応の同意を与えたのだった。この時点で鐵道院の計画した経路は小清水村水上付近から小清水集落を経由して古樋でオホーツク岸に達し、北浜、藻琴を経て網走に至るものであったが、小清水より稲富(現網走市稲富)を経て呼人にて網走線に接続する経路も比較線として保持していた。また、水上以南では止別川流域から札鶴川の谷へと遷移する現道道805号線の経路も検討された模様で、この時期までの線路選定作業において、これにより国境越え区間を隧道の1箇所に減じられることの判明していたものと思われる。現行の釧北トンネルである。
この小清水村通過案に対して、1919年に小清水村を分村していた斜里村では製材業者らが中心となって、網走-斜里間鉄道と厚岸-網走間鉄道の一体建設の協力な運動を展開し、同じ斜里郡内とは云え、自治体ばかりでなく地域住民を巻き込んだ激しい誘致競争を繰り広げたのである。その詳細は省くけれど、最終的には斜里に大農場を所有していた三井財閥の政治力により斜里側の請願が通り、釧網本線は斜里付近にて凡そ270度を転回する不自然な線形となったのだった。政治路線の所以である。
もっとも、鐵道院〜鉄道省が大幅な迂回となるこれを容認したのは、上記の釧北トンネル経由線により迂回経路に関わる建設費増加を相殺可能との判断も働いたものと思われる。小清水村には恨みのトンネルだったことになる。

釧網本線には、この他にも標茶までの経路を巡る釧路町と厚岸町(ともに当時)経由の、それぞれの経過地自治体を巻き込んだ争いも存在した。これについては改めて別項を立てたい。

北浜後背の丘陵からオホーツク海を背景に抜くのは好きな画角だった。
鐵道院が稲富経由案も検討していた頃に、藻琴村内での内陸と沿岸での誘致争いはなかったのだろうか。この線路が小清水から稲富を通り呼人に接続していれば実現しなかった景観でもある。
列車は、混合635列車。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Y48 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊富 (宗谷本線) 1971

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1973年の冬と記憶するが、羽幌線北部のロケハンからの帰路、幌延から乗った321列車のスハ32は白熱灯の残った車両だった。この日は午後から風雪が強まり、羽幌からの823Dの車窓はそれの吹き付けるばかりでロケハンの用を為さず、やがての暮色には遅延にも気を揉んだけれど、接続の321もまた40分近い遅れで到着したのだった。
C57に牽かれた列車は、吹き溜まりを警戒したものだろうか速度を抑えて走り、幌延で乗り込んだ決して多くはない乗客も豊富で皆降りてしまい、取り残されたのは自分ひとりだけになっていた。降雪は収まったようだけれど、強風に吹き上げられた雪が車窓を遮蔽するように灯りに浮かんでは流れ去り、そればかりか、風は地鳴りの響きを伴いながらやって来て、機器の少ない客車の床下を風音を残して通り抜けて往った。駅に停まれば静まり返る客車のこと、乗降場の側壁に阻まれた風が車体を軋ませ、閉めてあるはずのベンチレータから粉雪が舞えば、決して明るくは無い車内灯に心細さも感じたものだった。前方からは、機関車のコンプレッサ作動音と駅側との前途の確認だろうか、強風に怒鳴り合うような声が途切れ途切れに聞こえていた。
遅延はさらに増して、稚内での上り<利尻>への接続に不安も感じた頃、列車は100分余りの遅れで南稚内へ到着し、そこで前途打切りとなった。稚内ホームには既に<利尻>編成が据付けられていて、機回線の取り払われていた1番線に機関車列車は入線出来ないからだ。
無事に乗換えられた<利尻>のスハ45のまばゆいばかりの蛍光灯には何処か安堵感を覚えたものだった。

客車の客室照明への蛍光灯導入は、1955・56年度に為された戦前製の2等車(当時)オロ35に対する更新修繕での換装を嚆矢としている。1962年まで続いたこの更新修繕工事ではスロ51やスロ54、スロ60に加えスハ44/スハフ43の一部やスハ42(更新工事によりオハ36と称号変更)も試験的に対象とされ、1957年には新製時より蛍光灯を装備したナハ11/ナハフ11も製造されている。
この更新修繕での換装は、客車の電燈電圧である直流24Vを交流100Vへ変換するロータリインバータの追設や、当時の直管蛍光灯には従来の器具台座を撤去して配線も引き直すなどの工程を要したのだが、1960年代初頭までには東芝が1953年から製造していた環状管型蛍光灯が商品として一般化して、1962年度からの更新修繕工事を改めた近代化改造工事では従来の台座の転用が可能となり大幅に工程の簡略化されることとなった。これには道内の急行用スハ45/スハフ44も工事対象となり、1966年度までにその蛍光灯照明が実現していたのである。天井に二列の丸形の台座にサークル形状の蛍光灯の配列仕様を御記憶の向きは多かろう。
ところがである。せめての客室照度向上に白熱灯を二列配置としていた、これら戦後設計車は良いとしても、それの天井中央に一列であったオハ35などの戦前製車両への適用は、当時の30W型蛍光灯では白熱灯に比してかなり改善されるとは云え、換装効果の十分でなかったのである。これに対しては同時期に短尺の直管蛍光灯2本を一組とし、個別にトランジスタインバータを備えた台座取付け型の専用灯具が開発されたのだけれど、高価なことも在り、台座の一列配置車への本格的な蛍光灯普及は、高効率の大型環状蛍光管の開発を待たねばならなかった。これが、1970年代前半までスハ32やオハ62に白熱灯車の多く残存した事由である。もっとも、用途廃止も間近いこれらに投資する動機もなかったのが正解かも知れぬ。

これは真夏の遅い日没に、斜光を受けて豊富を発車して往く321列車。
旅客車は2両ともスハ32にスハフ32で揃えられている。運用区所の旭川客貨車区のこれらに蛍光灯装備車は無かった。引上げ線に置かれた石炭車が日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道の健在を示す。

[Data] NikonFphotomicFTn+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 O56filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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