"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

渚滑 (名寄本線) 1970

shokotsu_02-Edit.jpg

蒸機時代からの旧い鉄道屋ならご存知かも知れない。塩狩峠で一日を過ごした翌日を函館山線、例えば塩谷あたりと決めた場合、当時からつい最近の1989年まで、この200キロばかりの地点間を夜行列車を宿替わりに移動出来たのである。1972年3月改正ダイヤなら、塩狩を18時22分の323に乗れば、塩谷到着は翌朝8時05分の524Dで104列車に十分に間に合い、この間に何処かで一時的な「半駅寝」するでは無く、ずっと車中で過ごせた。
そのカラクリは名寄本線に在った。323は名寄へ20時03分に終着する。その23分後には札幌からの4605D急行<紋別>が追いついて、20時30分発のこれに乗換えれば、興部から普通1625Dとなった列車は遠軽着23時46分で直通し、23時53分に網走から到着する518列車<大雪5号>を捕まえられたのである。この逆コースも利用価値の在り、遠軽4時04分到着の517列車には4時21分発の名寄行き622Dが接続して、興部着の5時56分には興浜南線始発列車に乗れた。317列車<利尻>の利用なら午前2時前に名寄で降ろされて半駅寝の上、南線始発には到底間に合わない。
北海道均一周遊券(正しくは北海道一般用均一周遊乗車券第一種)の利用ならでは経路だったのだが、名寄本線遠軽口での始発・終着列車であった622Dと1625Dは、オホーツク岸の紋別や渚滑と札幌間を夜行急行での連絡目的の設定であり、4時台・23時台のルーラル線区としては異様に早く遅い発・着時刻もそのためだったのである。紋別や渚滑と札幌とは遠軽を回ると少しばかり遠回りだけれども、1967年4月の旅客制度改正から渚滑線内を含む名寄本線の紋別-渚滑間と新旭川以遠(旭川方面)の区間は選択乗車区間とされ、距離のやや短い名寄経由の運賃にて遠軽経由も認められていた。
同様の列車設定には、317・318列車<利尻>と音威子府で接続した天北線の721D・730Dが在り、浜頓別のほか興浜北線直通車も併結して北見枝幸と札幌間も夜行移動の有効圏内であった。遠軽接続と同じくオホーツク岸の都市であるのは偶然ではなく、内陸を経路とした石北・宗谷線夜行と沿岸とのアクセスは必須の要件だったのである。それは、名寄・天北線ともにかつてには網走へ稚内桟橋への夜行長距離列車の往来した幹線だった名残とも云えた。
余談ながら、この当時、前記のような明確な接続は取られなくとも、池田や美深、名寄、長万部など深夜帯に夜行急行の着発した接続駅では、支線区の最終でやって来て上りを待ったり、未明に下りを降りて始発までを過ごす乗客の多々見られたものだった。今は、全てが昔語りである。

名寄本線内での大駅とすれば紋別となろうが、規模ならば渚滑線を分けた渚滑が上回っていた。名寄上下本線に渚滑線の使用した副本線の他に貨物側線5線は、豊富な林産資源の輸送線だった渚滑線との貨車操配には必要な配線だったのだろう。確かに、構内にはその中継車や翌日の所要車は勿論、自駅の使用車に停泊車など多くの貨車が停まっていた。
蒸機の行き交う光景。名寄に向けて発車を待つ1692列車を横目に北見滝ノ上からの1792列車が到着する。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

植苗 (千歳線) 1970

uenae_07-Edit.jpg

湿地や低湿地は地球上に広く分布している。けれど、「湿原」となれば限られた環境下にしか存在しない。地理学上に湿地と湿原の区分には些かの曖昧さを残すのだが、植生学の分野においては湿原植生の立地を以て「湿原」と定義している。この禅問答めいた定義を解説すれば、水位の地表面付近にある湿地であって、その供給水質の貧栄養ゆえに、それに耐えうる小型植物のみの発達した自然草原を指して「湿原」と呼ぶのである。この湿原植生の代表的には、ミズゴケ群落、ヨシ-イワノガリヤス群落、ヤチヤナギ-ムジナスゲ群落などがある。
貧栄養と云う湿原の発達要件をもたらすのは典型的には冷涼な気候と云うことになる。過湿条件の低温下では有機物である植物の枯死体はほとんど分解の進まずに泥炭化する。泥炭からは有機物の含有する栄養素の放出されることは無く貧栄養が常態化し、その堆積の進んで湿原が形成されるからである。
したがって、例えばツンドラ地帯ではあまりの寒冷に植物の生産量自体が少ないので泥炭も堆積され難く、また比較的温暖な地方では植物生産量は多いけれど分解速度が速いため、これも泥炭生成量は少なくなってしまう。その結果、冷温帯から亜寒帯で最も泥炭が堆積され易く、北海道はまさにそこに位置するのである。

約8000年前の縄文海進期に支笏火山群による火砕流台地に海水の浸入し、やがては海蝕にて形成された古勇払湾は強い沿岸流からの砂州の発達にて閉塞の進み、古勇払内湾から勇払湖を経て3000年前とされる海退期にはウトナイ湖や弁天沼などを内水面に残して広大な後背湿地を出現させるに至った。やがては泥炭の堆積の進んで湿原へと姿を変えて行ったのである。それが、ついこの間まで、100年程前までの勇払原野であった。
もっとも湾奥の位置であったろうウトナイ湖の周辺にも泥炭の湿原が広がり、1892年の北海道炭礦鉄道も、1926年の北海道鉄道(2代)も、そして1960年代に施工の千歳線の増設線もそこに大量の土砂を投入する地盤改良にて建設されたのだった。

写真はウトナイ湖の湖面を背景に、前年9月に開通したばかりの千歳線上り線(注-苗補起点にて記述)盛土区間を往く臨貨9755列車。本輪西からの石油輸送列車である。この頃、誰もが撮った画角であろう。彼方には樽前山も浮かぶ。
しかしながら、たかだか40年後の現在には手前側に出現したハンノキの樹林帯に隠されて、この光景を望むことは出来ない。当時にそこは高栄養の雨水に涵養され灌木の成育の始まっていたとは云え、夏期には踏み込めない中間湿原を含む湿地だったのである。
湿原は、教科書どおりには「湿性遷移系列」と呼ばれる遷移をする。即ちは低層湿原から泥炭の堆積が進んで地下水位が地表面より低下すれば地表の乾燥化し、雨水の供給にはやがて森林へと変化して往くのである。いくら亜寒帯地域に属する北海道とは云え、自然界でのそれには千年単位での時間を要する。現在に我々はその何千年目かに立ち会っている訳では無い。湿性樹木のハンノキながらの森林化は明らかに人為的乾燥化の結果である。1960年代に勇払原野で行われた大規模開発が地下水位に変動を与えなかったはずもない。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい更新の滞り気味です。3月末頃までのこととご容赦下さい。

七飯 (函館本線) 1970

nanae_20-Edit.jpg

[外伝]の記事 ホテル オークランド でも少し触れたとおり、七飯に始めて降り立ったのは1970年の冬、そこでの新しい鉄道景観となっていた延長913メートルの七飯高架橋での撮影を目論んでのことだった。ただし、これには前史の在って、帰省先の水戸とを往き来した列車で幾度もそこは通過していたし、1965年の秋には親父に連れられての残り1年となった仁山越えの補機撮影の際、ホームには降りて構内や駅舎の佇まいを眺めてはいたのである。
その当時の駅本屋は勿論に木造で写真を撮っておかなかったのを悔やむのだが、Webを検索すると地元七飯町の七飯歴史館の発行する広報紙「ぴちゃり」第56号に1960年前後撮影とされる写真を見つけた。
それは1970年当時に降りた本屋に違いなく、1902年12月10日の開駅時以来のものとも思うけれど、「道南鉄道100年史」(北海道旅客鉄道株式会社函館支社, 2003)に所載の建物の一部の見える写真と比較すると規模の大きくも見え、1920年と記録の残る構内拡張の際の改築が正解であろうか。
藤城回り線の開通に先駆けては跨線橋の設備され、待合室では弘済会の売店が営業していた。「ぴちゃり」の記事にも藤棚が触れられているが、70年代にそれはより成長して、駅務室の入口へはそれの長いトンネルをくぐり抜けるような有様だったと覚えている。

1970年代の初めとは、函館市の北に接していた亀田町がそのベッドタウンとして人口の5万人を越え、それが七飯町にも及びつつあった時期である。1970年10月1日の国勢調査での七飯町の人口16745人は、1975年の同調査で18710人、1980年には21267人に達する。当初の宅地開発は亀田町桔梗と接した国道5号線の大中山地区で始まった様子だが、やがては北上して中心市街地周辺に及ぶ。ここでは鉄道での利便からなのか駅近くが選ばれて現在の緑町地区の農地が転用され、そして駅の北側、戦時下に藤城地区を経由する勾配改良線の通過が計画されていた現本町地区が対象とされた。敗戦で中断していた工事を再開しての藤城回り線の着工は1963年のことで、それには当初計画を大きく北へ迂回する線形の高架橋が含まれていたから、ここを市街地化する七飯町の都市計画は、遅くとも1960年前後には決定されていたことになる。

仁山回りの本線を七飯に向かうのは154列車。D52の仕業のはずがD51の牽いて来て些か落胆したカットである。白煙に隠されて高架橋が在り、それへの築堤部の斜面から撮っている。
渡島大野から横津岳より続く斜面の裾野に位置した七飯へは標準勾配の9.6パーミルを上り、蒸機は給気運転であった。
背景は現在の本町1丁目にあたり、そこには一面に住宅の建て込んでいるのはご承知の通りで、古い鉄道屋には隔世の感が強い。改めて写真を詳細に見ると雪中に測量の杭位置を示す標識が立っており、この頃、既に農地の耕作は放棄されていたのだろう。
後方に僅かに見える踏切道の細道は、今や2車線の道道676号七飯大野線となり、同位置に設けられた七飯架道橋で線路下をくぐり抜けている。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

春立 (日高本線) 1970

harutachi_01-Edit.jpg

国有鉄道線における無人駅の始まりは承知していない。けれど、旅客運送にかかわる規則が体系的にまとめられた最初の事例である1920年の「国有鉄道旅客及荷物運送規則」(1920年10月25日鉄道省告示第99号)を受けて同年12月に制定の「国有鉄道旅客及荷物運送細則」の第17条には「車掌携帯用片道乗車券」の規定を置いて、条文に「駅員無配置駅」の文言が見られるから、この時点で少数例にせよ無人駅の存在が伺われる。
当時の文書では「定員を置かない」と表現される要員無配置駅の明確に現れるのは、1929年からのガソリンカー運転に際して営業戦略上に置かれた通称のガソリンカー駅(後に気動車駅と呼び替えられる)である。これらは公示に依らず鉄道局長の公告にて設置の事例も多いのだが、公示された例を官報に拾えば(一例として東北線仙台付近)、「旅客ニ限リ取扱ヲ為ス」との記載にそれと知れる。その前段には着発する旅客扱いの区間も限定されており、車掌による車内発券に配慮したものであろう。それらガソリンカー駅として開業の中にも、小荷物に手荷物を扱った要員配置駅の例もあって(一例として室蘭線母恋駅)、無人駅とは極めて特殊な例外だったと知れる。
その例外が一挙に増加するのは戦時下の『陸運統制令』(1940年2月1日勅令第37号/1941年11月15日勅令第970号にて改正)に基づく私設鉄道の買収の結果であった。そこには簡素な乗降場だけと云った多くの無人駅が含まれていたのである。また、買収私鉄4社の路線にて構成の飯田線にはそれに加えて会社の直営しなかった20駅が存在し、これをそのまま引継いだ国有鉄道には、定員外のこれらが業務委託駅の最初の事例となっていた。

戦後1949年に発足した日本国有鉄道が早速に直面した問題のひとつが、全国に数多存在した非採算線区の運営であり、対策として選択されたのが線区別経営だったことは、内地版の 大湊運転区 (大湊線) 1973(2014年7月20付記事) に書いた。
それの具体策として、1950年代から60年代に続々と設けられた管理所や運輸区、管理長制度下での経営改善とは、とどのつまり線区運営の合理化・簡素化であったから当然に管轄駅の運営形態に踏み込むこととなった。ここで行われたのは要員の削減を意図した諸施策であり、駅長を廃しての管理駅化、特殊勤務の拡大など勤務体制の見直し、夜間運転のなければ当直勤務の廃止、駅作業の整理、一部業務の外注化などは勿論のこと、究極には閉塞扱いを廃しての要員引揚げ、即ち要員無配置化であった。この後に続く駅からの要員退去、停車場の無人化はここに始まったのである。国鉄はこれを部内でも対外的にも「停留所化」と呼んだことは 稀府 (室蘭本線) 2011 に書いている。
しかしながら、閑散線区と云えど、地域の生活や経済活動は駅の所在を前提に営まれていた時代であり、外部委託による営業フロントの維持は望まれたのだが、実現したのは一部に留まった。国鉄が1954年9月に告示した「乗車券類委託販売規程」(1954年9月9日日本国有鉄道公示第262号)に「乗車券類委託販売細則」の総裁達ではそれの認められず、施行には駅業務を一括した業務委託を要したからである。その実際は運輸帳票類の作成や報告等事務手続きの煩雑に、決して閑散線区小駅での受託の容易いものでは無く、これは線区別経営による合理化推進の障害ともなっていた。
なお、本記事には先の 初田牛 (根室本線) 1971の記事もご参照頂きたい。

(この項 初山別 (羽幌線) 1982 につづく)

道内における線区別経営は、瀬棚線・胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線の各線区で実行された。
日高本線と富内線を運営した日高線管理所は、1959年11月1日に静内駅構内に設けられ、200キロを越える管轄営業キロに、職員定員の592名(発足時)は線区別経営体として全国でも有数の規模であった。ここでも上記のごとき駅運営の合理化は進められたのだが、当時に線区の置かれた環境から要員引揚げは3駅に留まり、共に閉塞扱いを廃した上で業務委託化されたので窓口の閉鎖駅は生じなかった。

写真は東静内への小さな峠越えに向かう1892列車。様似から静内への区間貨物だった。
春立は、この当時にも行違い設備を持った一般駅である。こじまりとした質素な駅舎は、1930年代に鉄道省により建設されたこの区間各駅に共通の設計であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

留萠 (羽幌線) 1970

rumoi_ 03

石炭から石油への所謂エネルギー革命は1950年代に始まる。国際石油資本による中東やアフリカ、南米での巨大油田の開発はこの時代のことである。大型タンカーの就役とも相俟って供給価格が大幅に引き下げられ、それは資本主義の原則に従い世界中に供給されることとなった。日本も例外で無く、政府は1952年に重油の販売統制を解除してこれを受け入れている。それは、この機に高値に安定していた炭価の引き下げを誘導するためでもあった。ところが、1957年3月に第二次中東戦争が終結すると、主には経済復興を要したエジプトの増産により石油は1バレルあたり1ドルとも云われた安値となり、国内では転換の始まっていた工業用動力需要が一気に石油へと向かってしまったのだった。政府も将来の動力源転換を想定し、1955年に『石炭鉱業合理化臨時措置法』(1955年8月10日法律第156号)を成立させていたものの、その瞬く間の産業界の転換の速度には対応は後手に回ったと云うべきであった。国内炭の石油への対抗の不能なことは誰の眼にも明らかとなり、同法に定めた炭礦のスクラップアンドビルド政策を実行しつつも、1960年代を通じて国内生産からの漸次的撤退を図らずを得なかったのである。

苫前郡羽幌町に所在した羽幌炭礦の産出は灰分の少ない炭質で、煤の出ない性状から暖房炭に重宝され、その間も安定した出炭を続けて、道内でおよそ30パーセントのシェアを維持する優良炭礦だったのだが、1969年に保有した羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑ともに切り羽が断層帯に達して減産を余儀なくされ、1970年には債務超過に陥ってしまう。これに対して会社はその需要を背景に、1967年に成立の『石炭鉱業再建整備臨時措置法』(1967年7月5日法律第49号)での再建を可能と見て、同年9月1日に財産保全ため会社更生手続開始の手続きを申立てるのだが、これが従業員の動揺を招き、炭礦労組は10月25日に政府が1969年に策定していた「第四次石炭政策」に基づく「特別閉山」を求めるに至った。それによれば、会社清算に際しての労働者債務は国により完全保証されたからである。この従業員の離反を前に会社はやむなく11月2日を以て閉山としたのだった。会社更生法の適用申請までに債権者からの訴訟の動きは見られず、会社側の先走りが自らの首を絞めた結果の閉山であった。

これにより、深川機関区留萠支区に在って築別から留萠までの運炭列車に重連で専用されていたD61形蒸機は、その全機6両が仕業を失うこととなった。羽幌線の低い橋梁負担力からD51を軽軸重としたこの機関車は同線専用機であり、D51も余剰とされる時代には転用されるでもなく終焉を迎えた。もっとも出炭の減った時点にて本来の4両使用は2両使用となり、612/615/616には早々と第一種休車の措置が取られていた。
写真は、留萠の羽幌下り本線を出発する滝川からの鬼鹿行き(回送で羽幌まで)海水浴臨時9841列車。深川からの牽引にこの日はD611の登板であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

新大滝 (胆振線) 1970

shin_otaki_01-Edit.jpg

胆振線は勿体ないことをしたと思っている。
札幌からなら日帰り圏内に在ったし、内地から通うようになっても室蘭線に函館線を繋ぐ回廊なのでスケジュールにも容易に組込めたはずなのだが、前年とこの年と二度を撮っただけに終わってしまった。本線にC62やらC57、D51が健在で、ここの9600の古めかしいスタイルに魅力を覚えなかったことに加えて、車窓からのロケハンにてこれと云った地点の見つからなかったせいだろう。もう少し後のことなら、壮瞥や蟠渓あたりの風光に惹かれたと思うけれど、この当時に蒸機には、とにかく煙だったのである。倶知安に居た9600の前照灯をデフレクタ上の2灯とした装備にしても、本来は落石の多かったこの路線向けの仕様なのだが、それも共通運用の岩内線貨物に倶知安峠で多々対面していた。
この日も倶知安からの気動車にこれと云った位置を見出せないままに峠の向こうの新大滝に降りている。千鳥配置の乗降場の中央に接する通路の先に質素な駅本屋を記憶するが、まだ稼働していたはずの徳瞬瞥鉱山からの索道や構内に建造された硫黄鉱の大規模貯鉱槽には覚えが無い。この線に1往復の貨物運転の午前の下り、夕方から夜間の上り設定は、ここから東室蘭への鉱石輸送を配慮したものだった。
積雪の線路を足を取られながらも尾路遠トンネルに向けて道路が接近するあたりまで歩いたものの、結局気に入ったポイントの無く、駅から山裾に取り付いてまもなくの落石覆い手前まで戻って斜面を登ったのだった。

胆振縦貫鉄道がこの区間を開業したのは、徳瞬瞥(後の新大滝)までが1940年12月15日、西喜茂別(後に喜茂別)までの全通が1941年10月12日と、地方開発線としてはかなり遅い時期であり、それは1890年代末に始まり1910年代までには幾つかの中心集落を形成するに至った徳瞬瞥や優徳の長流川上流域への拓殖と一体ではなかったことを示す。当時より自治体が要請し、1922年の鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)別表131項にも「膽振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈ニ至ル鐵道」が法定されながら、財政上の事由から鐵道院・鉄道省による建設は見送られ続けていたのである。
伊達町(当時)在住の早瀬末吉らを発起人とした胆振縦貫鉄道が、1930年12月22日に喜茂別-伊達紋別間の地方鉄道敷設免許を得たられのは、それゆえであったが、同社の本来の目論みは伊達と札幌との中山峠を介しての短絡に在り、その実現のための未着工の法定線を盾にした免許獲得と見るべきであろう。1928年には伊達紋別-静狩間の長輪線(後の室蘭本線)が開通し、短絡線をこれに結ぶところに商機を見いだしたと思われ、早瀬はこれに私財を投げ打ったと史料にある。
取り敢えずの喜茂別への到達は、ここに産出した鉄鉱石の倶知安回りであった輪西(現東室蘭)への輸送路を代替して、経営の安定に寄与するとの見込みからだろう。加えて、開業の1940年からは徳瞬瞥鉱山も本格操業を開始して、鉄道は活況を呈することとなった。
鉱石輸送の重要路線として戦時買収の対象となり1944年7月1日を以て国有化のなされるが、資源の枯渇も早く、最終的には共に日鉄鉱業が採掘していた倶知安(脇方)鉱山が1969年10月に、徳瞬瞥鉱山が71年3月に閉じられれば、その命運の決したとして良かった。

写真は尾路遠トンネルへと上る1891列車。新大滝へ午前に空車を解放し夕刻に積車を拾う列車設定には、倶知安機関区の9600形は鷲別機関区への滞泊を要していた。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

植苗-沼ノ端 (千歳線) 1970

uenae_04-Edit.jpg

北海道に限らないが、各地域の町史や村史に付された年表を読んで往くと、戦後に「何々地区電化」と云った類いの記述を多々眼にする。これは、戦前の早くから電気の通じていた市街地に対して、そこから離れた集落などにようやく送配電線が設備されたことを意味している。
1882年に民営会社として始まった国内の電気事業は、小規模事業者の乱立から1910年代に所謂5大電力会社に集約されたものの、収益優先から農村や山村への配電は一向に実現しなかった。戦時の電力国家管理化もそれの促進を事由のひとつとしていたのだが、国家事業による推進は、占領軍の意向からの1951年の電気事業再編政令にて全国に9社の電力会社の公益企業体としての発足を背景に、1952年の「農山漁村電気導入促進法」(1952年12月29日法律第358号)を待たねばならなかった。この法律は文字通りに、僻地集落における小規模発電設備や電力会社送電線の引込みの、資金貸付や補助金の交付による促進を目的としていた。対象となる集落は「未点灯集落」と呼ばれた。

広大な土地の奥地にまで拓殖の進められた北海道では、そこに電気の通じないことは常態であった。前述の年表への記録には、中心集落からさほどに離れていない地区も散見されて、未点灯集落は奥地ばかりでなかったことも知れる。人の生活する開拓地すらの状況であるから、より奥地へと伸びる鉄道の駅もまた同様であった。
国鉄の部内誌「国鉄線」の1952年11月号に所載の道内拠点駅の駅長を集めた座談会記事には、帯広駅長による「釧路局管内に9箇所の駅と3箇所の中間線路班に電燈が無い」との発言がある。おそらく、そのような事例は全道に存在したものだろう。信号灯や閉塞器には蓄電池を用いるが、駅本屋や詰所に官舎の灯りはランプである。特に集落も無い駅間の原野や山中に在った中間線路班での家族との生活は想像するに余り在る。この時期、国鉄もまた線路沿いに電力・電灯線の延伸を進めねばならなかったのである。

千歳線の植苗に降りて、1969年に増設の上り線(下り運転線)に沿う小径を歩くと、やがてそれを越える踏切(*1)に往き当たる。この40年前には蛇が我が物顔で横切っていた人気の無い土道の踏切は単車の通行がやっとの細道であった。そして丘陵を巻いて湿原に降りると室蘭本線と千歳下り線の交点まで伸びていた。そこに在った東植苗中間線路班への連絡道だったのである。
この線路班が何時頃に設置されたかは分からないのだが、1948年に米軍の撮影した空中写真(*2)には現千歳下り線(上り運転線)沿いに詰所や官舎の並ぶ様子が伺える。
湿原の直中を往くばかりの沼ノ端-遠浅間8.9キロの中間となれば集落から電灯線を引く訳にも往かないから、苫小牧の至近にもかかわらず、かなり遅くまでランプ生活だった可能性が高い。
......................................................................................
(*1) 苗穂起点57K080M-当時に名称表示は見当たらなかったが、現行の植苗東通踏切である
(*2) 上り線の増設工事が認められるが、これは戦時下に着工され、その後に放棄された痕跡である。現在の上り線位置とは異なる。これに沿っての建築物は線路班ではなく工事関連とも考えられる。
なお、当該空中写真の閲覧には検索画面表示の後にもう一度クリックが必要。

植苗東通踏切に接近するのは、臨貨9755列車。本輪西から白石経由新札幌(現札幌貨物ターミナル)への石油輸送列車である。
道内未点灯集落の電化工事は、北海道電力によれば1973年まで続いたとある。
札幌で白黒テレビの番組に興じていた子供の頃の、同じ北海道での電気の通じぬ生活を後年に知り愕然としたことは前に書いた。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

抜海-南稚内 (宗谷本線) 1970

267-03-Edit_2.jpg

宗谷本線の旭川起点251キロ地点は、列車を南稚内に降りて6キロ近くをひたすら歩く位置だった。線路歩きは歩き難いことこの上無く、1時間半から2時間近くの行程となっていた。現地に下を走る道道までの比高30メートル余りに保線用通路を認め、西浜集落の坂の下までの宗谷バス運行を知れば、歩きが2キロばかりで済んだものの、肝心のバス運行が一日に数本とあってはあまり利用の機会はなかった。
現地に達すれば達したで、ポジションの確保に身の丈ほどの熊笹との格闘を強いられる難儀な場所でもあったが、何よりもここまでを歩く動機の利尻の島影を気に掛けざるを得ないのだった。それは、南稚内近くからでも適当な丘陵を目指して上れば、大火で森林の失われて露となった周氷期地形を縫う線路と共に画角に収められたけれど、島と認識するにはここまで歩く他に無い。

稚内に着いて遠望が効かないと判断すれば最初から歩かないから、ここではいつもそれを見ていた。けれど、島影は認めても鮮明に捉えたことは数える程にも無かった。
特に、この地点で列車編成と画角に切るには、やや稚内方に戻った位置からの下り列車に限られるゆえ、幾度か早朝に下る<利尻>に南稚内の呑み屋で時間を潰して午前3時前から行動したものの、満足の往くカットを得られないままに機関車列車は消え失せた。
例え降雪であっても、宿をとっていない以上朝の晴天を願って厳寒の線路をひとり歩いたのだが、随分と後になってWeb上に同様の経験の記事をみつけて、御同輩は居たのだと感慨した。鉄道屋の考えることは皆同じである。

最近になって、ようやく植生の回復している様子ながら、「利尻富士」の標柱の建植された場所は70年代の始めに初見した時に既に地面の広く露出していた。ほか数カ所の裸地を不思議に思っていたのだが、おそらくは、且つてここに中間線路班詰所が、少なくともその用具収納小屋なり材料置場は存在したのではなかろうか。勇知-抜海-南稚内の長い停車場間距離からも、ここにそれの置かれておかしくは無い。その上で1947年に米軍が撮影した空中写真を眺めれば、確かに建物らしきものが見える。
この当時に機関士に聞いた話では、抜海を早発してここに停まって休憩したことも多々あったらしい。それは、機関士仲間に伝わる、かつて停車位置だった名残とは考え過ぎか。

利尻の島影を見る列車は1391列車。始発の音威子府を5時に出て途中14駅で貨物を扱い、稚内到着は12時過ぎになる。
北の沿岸の透明な夏。40余年前、ここへの初訪問に見た景観である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 UV filter  Kodak unknown film(ISO100)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

網走 (石北/釧網本線) 1970

abashiri_03-Edit.jpg

網走まで初めて達したのは1967年のことだった。常紋信号場を夕方に乗って、長い夏の陽もとっぷりと暮れた後である。駅舎は現況に建替えられる以前の木造建築であった。
1番ホームに到着した列車から集札口を駅前に出れば、そこに多くの人々が集合しているのに驚いた覚えが在る。
軒先にシートや新聞紙を広げて談笑しているグループもあれば、シュラフにくるまって早々と横に成っている姿もあった彼らは、横長のキスリングを旅行の運搬具とした道内の放浪型長期旅行者達、所謂カニ族と呼ばれた一群であった。札幌駅でも良く見かけていたし、夜行急行は彼らに占拠されていたようなものだったから珍しい訳ではないけれど、この網走にこれだけ集合しているとは想像していなかったのだ。最果てや離島指向を持っていた彼らにとって知床は必須の場所とは後に知ることで、網走はその行動拠点だったのである。改札前には上り夜行<石北>で移動する一群が、また長い列をつくり、待合室もごった返していた。
父親同士が知り合いであった大学生に同行してもらっての旅では、遠軽に続いてここでもビバークを予定しており、彼らの傍らで一夜を過ごした。
こちらも銀箱に三脚以外は山道具を流用した装備だったから全く違和感は無く、その行動様式も含めて当時の鉄道写真屋はカニ族の亜種だったような気がする。
網走、釧網線へは、この後幾度も訪れたけれど、翌年にも盛夏を選んで以降はそれを外した季節ばかりだったからカニ族と出会うことは無く、1970年代の半ばまでにはその旅行スタイル自体が失われて、駅寝だとか夜行連泊などと云っていたのは鉄道屋だけになっていた。

写真は、出発信号機を越えて釧網本線に進出する5673列車。この北見からの釧路操車場行きは、斜里までが北見機関区のC58の運用で、以遠区間は釧路への帰区を兼ねたDE10に牽かれていた。
機関区支区が所在し、前年に移転した浜網走との間での貨車操車作業や気動車編成の入換に構内照明が設備され、活気に満ちていた構内である。

余談だが、初訪問には市街地郊外だったここに1931年に駅の移転したことなど知らず、翌朝に見た駅前から川を隔てた市街地には小さな街との印象しかなかった。北浜まで乗った釧網線の車窓もオホーツク海の記憶ばかりで、その東側に広がる中心街を見るのは後のことである。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/15sec@f2 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

(旧)西の里信号場-北広島 (千歳線) 1970

kita_hiroshima_04-Edit.jpg

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1998 から続く

千歳飛行場の始まりは、当時の小樽新聞社が所有した複葉機「北海号」を着陸させるために村民自らが切り開いた滑走路にあり、それは1926年10月22日のことと千歳市史は書いている。この年に開通した北海道鉄道札幌線を利用した小樽新聞社主催の鮭孵化場への観楓会旅行が切っ掛けだと云う。
この村民着陸場は、引き続いての奉仕活動による拡張を経て1934年に千歳飛行場として開場し、日中戦争勃発後の帝国海軍は、北方からの米国艦隊の南下に備えてこの飛行場を1937年に接収、大規模な拡張整備の上で1939年までに洋上攻撃の大型機を含む48機を擁する第12航空艦隊司令部千歳海軍航空隊を置いた。
ここへは建設資材搬入線として北海道鉄道の千歳停車場から線路が引込まれ、完成後には航空隊軍需部倉庫を経て弾薬庫まで延長、燃料庫への分岐線も敷設されて軍需物資輸送の専用線に使われた。この専用線の当時の名称は調べ得なかった。
ここに北海道鉄道線は戦争遂行上に欠くべからざる路線と認識されるに至り、国家総動員法の第八条に基づく勅令である陸運統制令(1941年11月15日勅令第970号改正)を発動した買収にて1943年8月1日を以て国有鉄道に編入され、その千歳線となった(1943年7月26日鉄道省告示第203号)。起点は苗穂に置かれ函館本線の支線である。線路名称は線内千歳駅の存在よりも千歳海軍基地を意識したものであろう。

国有鉄道線となったものの線路設備に保安設備は脆弱なままで、引き継いだ機関車に替えての貨物や混合列車の牽引は、簡易線向けC56に限られ、9600形も入線した記録のあるようだが重い軸重に速度制限が課されただろう。旅客列車は引続き単行運転のガソリン動車が札幌と苫小牧を往復するのみの地域交通線であった。
ここに室蘭本線を経由とした長距離優等列車の運転されるのは、1946年4月22日から小樽経由にて上野-札幌間に客車航送をともなって運行を開始した連合軍専用列車(後にYankee Limitedと命名)を、軍用鉄道輸送軍鉄道輸送司令部の指示により11月5日の運転より経由変更したのが最初である。おそらくは千歳エアベイス最寄りの千歳への直通と到達時間短縮を意図しての札幌地区輸送司令部の発案と推定されるが、室蘭本線は運炭列車に内地への貨物列車経路であり、函館-札幌間の旅客列車経路は函館本線を唯一と考えていた国有鉄道当局に、距離は上回っても勾配の小さい室蘭本線回りの優位性を認識させる契機となったのだった。
(この項 上野幌-北広島 (千歳線) 1988 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

先行して1969年に完成していた北広島方の盛土区間を往く、急行貨物4097列車。
ここには既に複線の線路が敷設され、将来の上り線(下り運転線)を旧線から切替えて使用していた。その使用開始日を輪厚橋梁の供用から明らかにしようと試みるも成らなかった。
現在の共栄西通りの西端あたり(工業団地の敷地かもしれない)、旧線の路盤から撮っている。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
次のページ

FC2Ad