"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

[番外編 9] 青函連絡船 1983

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青函連絡船を続ける。[番外編 8] 青函連絡船 1985の続きである。

下船の実際
混雑期ではなくとも着岸30分前程になると、乗(下)船口広間には行列ができ始める。時刻表に記載の到着時刻とは着岸してタラップが架けられ、下船口の開く時刻であるから、その30分前ともなれば、船は減速して、まもなく港の防波堤を交わす位置まで接近しつつある。函館ならば函館山を眼前に見るゆえ、接続列車の座席確保に気が急くのである。
青森なら倉庫群の林立する民間岸壁を、函館なら運転所の前海を回り込むように岸壁前に達した連絡船は、バウスラスターを駆動させて回頭し、後退しつつ補助汽船に推進されて着岸する。この時にはやや衝撃があって、それと知る事が出来た。
桟橋側からハネ上げられていた屋根付きのタラップが降下して接続され、安全柵の設置が確認されると、航海中は締切られていた扉が開かれ、広間の行列は一斉に走り出す。高名な桟橋マラソンである。特急列車に自由席が設置された以降の函館なら、それのゴールは遥か編成の旭川方であった。青森/函館とも一岸への着岸であればまだ良いが、二岸となれば船の全長分、132メートルをまるまる余計に走らされることになる。
この下船開始のタイミングも特別船室側が早かった。階上で階段を降りねばならぬ位置関係による配慮と思われ、これを知る者は普通船室旅客でも特別船室の広間に行列したのだった。

船内食堂
普通船室であった船楼甲板右舷中央部付近に食堂が設けられており、日本食堂が運営していた。
ここでのメニュー等についてはWeb上にも記述が多く、ここでは触れない。
広い船内であるから、その造作や雰囲気は陸上での、例えば青森駅での同社食堂と大差はない。唯一異なるのは、舷側に窓が開口しており、その窓際席からは海面を間近に航行する波飛沫を見ることであった。
この津軽丸(2代)型近代化船で、ここを利用した最も古い記憶は1965年のことで、松前丸の就航間もない頃である。この当時は、列車食堂がそうであったように、町食堂と云うよりレストランが正しく、一種近づき難い雰囲気も存在していたものである。それに店名(愛称名)などは無く、あくまで「◯◯丸船内食堂」であった。
これが70年代に入ると押し寄せる乗客に大衆化が進んでカジュアルな空間となって往き、「グリル◯◯」(◯◯は船名)の名称の付与されたのもこの頃である。食堂側の人手不足もあって、オーダーは食券方式に改められ、それの自動券売機が導入されていた。その食券は、B型乗車券サイズで白地に黒インキでオーダ名が印字されるのみの味気ないもので、価格表示すら無かった。
80年前後となると、乗客の減少とともに利用も低下したものと思われ「サロン海峡」として喫茶関連が分離されたことも手伝ってか、券売機は深夜便での「海峡ラーメン」営業のみとなり、再び退店時のレジでの清算方式に戻された。そのレシートは「グリル◯◯」の名が入り、メニュー名と価格がドット文字で印字の、当時の新幹線食堂車と同様のものであった。「サロン海峡」の高級感に対して大衆食堂らしいイメージが継承していたけれど、この頃メニューの価格だけは高級となっていたのだった。

指定席特急券の一ヶ月と一日前発売
連絡船と直接には関わりのない余談ではあるが、これにも触れておきたい。
国有鉄道より承継し、現在は鉄道情報システムが運営管理する旅客販売総合システム(通称マルスシステム)による指定券類の発売開始日が、一ヶ月前の同日午前10時からであることはご承知の事と思う。連絡船の時代を知る方なら、これには例外が存在し、青函連絡船の深夜便から接続する列車については、さらにその一日前から発売されていたこともご記憶であろう。勿論、深夜便を介した前後の列車を先乗列車の発売日に同時発売を可能とする旅客サーヴィス上に不可欠な事項であると同時に、道内列車が乗り継ぎ割引の対象でもあって発券処理上からも所要の措置なのである。
これ自体は古くから在る扱いで、知る限りでは、台帳管理による発券時代に深夜便を介した<はつかり><おおぞら>特急券の通し発売に適用されていたし、より以前の<みちのく><大雪>の時代でも行われていたはずである。
指定席券類の発売開始が7日前や14日前であった頃には、深夜便接続列車ばかりでなく上野/大阪発や札幌発の夜行列車から接続となる列車(当然連絡船は昼行便)も適用対象であったのだが、後年には、青函旅客の利用減少とともに引き続き需要の在った深夜便からの接続列車に限るよう改められた。
ところで、これはマルスのプログラム上で先乗/後乗列車の同時発券が条件とされていた訳ではなく、後乗列車を単独でも購入出来たのである。例えば、青森からの<はつかり1号>の一定の座席数は、道内列車と無関係に一ヶ月と一日前から発売されていた。
さて、連絡船の廃止とともに時刻表の営業案内から抹消されたこの扱いだけれど、実は今現在も生き続けていて、上り<はまなす>から接続となる新青森発の<はやぶさ4号>と<はやて14号>に、(近隣の横浜線相模原駅みどりの窓口担当氏によれば)「ほんの数席」だけ一ヶ月と一日前発売の座席が用意されているそうである。やはり、マルス上は<はまなす>との同時発券の条件設定はなされていないのだが、窓口でそれを条件とするよう通達/指導が存在するとのことだった。

写真は、暮色に包まれる函館駅構内。テルファーの向こうに連絡船のマストが見える。やはり、この光景が在ってこその函館と思う。
二岸に在るのは、夜目でも白く映えるマストの摩周丸、24便として出航準備中である。
3番ホーム在線の列車は、札幌からの12D<北海2号>。まもなく、4番ホームには6D<おおとり>も到着する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/60sec@f1.4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 8] 青函連絡船 1985

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青函連絡船については、以前に2度ほど記事にしている。
その後に思い出したこともあって、追記しておきたい。

船内案内所における乗車券類発売
津軽丸型近代化船の船楼甲板に設備される普通船室のロビー(乗下船口広間)には案内所が開かれており、その名のとおり船内における旅客フロントなのだが、同時にここでは乗車券類の発売も行われていた。
永いこと、その根拠は列車内での発売と同列に思っていたのだが、この記事にあたり調べてみると、ここは運輸収入取扱基準規程の規定する「駅所」にあたり、その発行責任者は連絡船事務長と知れた。なるほど、券面表記は“◯◯丸乗務員発行”ではなく“◯◯丸発行”とされる所以である。
そこに常備されるのは、当然ながら券種は限られるものの基本的に硬券で、乗車券箱にダッチングマシンが置かれていた。軟券では自船のグリーン券や自由席特急券や急行券の他、出札補充券の設備も在り、駅とほぼ同等の扱いがなされていた。
あまり知られていないのだが、ここでは接続列車に限って指定席特急券の発売もなされていたのである。船舶無線がデータ通信に対応していない時代ゆえ船内にマルス端末を置いていた訳では無い。出航前に函館駅設置の端末より割当を受け、それを列車名まで表記された常備式のD型券に転記して発行していたのである。ただ、函館駅発行の特殊指定共通券に船名印を押したものも見かけたので、後年には簡略化されていたのではなかろうか。
連絡船乗船後に思いのほか混雑していて、接続列車の自由席確保に着岸のかなり前から下船口への行列の予想される際などに、指定席が確保出来る利便性はあったのだが、指定席の早くに売り切れてしまう混雑期には扱いが無く、座席確保に不安の無い閑散期ならその需要も小さいゆえか、いつしか廃止されてしまっていた。調べると1985年3月改正時とあった。

列車名入りの乗船名簿
青函連絡船への乗船に際しては、連絡船乗船名簿への記入と提出が要件であった。これは、旅客営業規則の通則に条文が規定される程に重要視されていたのである。
この名簿には、第一種と第二種が規定され、一種が一般用で白色用紙、二種は特別船室旅客用で淡緑色用紙と区別されていた。主には船に接続となる列車内で配られ、北海道内では優等列車ばかりか普通列車でも函館到着が近づけば車掌が配布して歩いたものである。本州側では優等列車に限られたと記憶する。
加えて、これが甲乙券片様式であった1971年頃までは、規定には無い配布列車の列車名が押印され、旅客がどの列車からの接続客であるかが判別出来たのである。手元に残るそれには、特急に限らず、奥羽線のローカル急行で配られた「急行しらゆき・きたかみ」の押印付のものや、五能線からの急行列車内で請求したものにも「急行深浦」との押印があって徹底されていたと推定する。これがどのような事由にてなされていたものかは調べ得なかった。
この後には、特急列車内配布のものに「特」表示が入れられるようになったゆえ、以下に述べる乗船制限に際しての区分であったと推定している。

乗船の実際
連絡船の乗下船口は左舷側の船楼甲板に二カ所、遊歩甲板に一カ所が設備されており、それぞれに桟橋側よりタラップが接続されていた。船楼甲板のものが普通船室用、遊歩甲板が特別船室用である。
桟橋待合室の通路に、それぞれの札が掲げられ普通船室/特別船室別に列をつくって乗船を待つことになる。おおよそ出航20分前が乗船開始の目安で、桟橋係員の先導で乗船口直前まで移動する。乗船口の異なるにもかかわらず特別船室側の乗船タイミングが早かった。船に特有の上等客優遇の伝統だったのだろうか。
[番外編 3] 青函連絡船 1978の記述と重複するが、DISCOVER JAPANキャンペーンの成功による、当時の北海道旅行ブームがピークへと向う70年代前半には、特に混合う深夜便において乗船制限が多々発動されていた。この際には、連絡船指定席券(即ち指定席特別船室券)所持旅客、接続列車指定席券類所持旅客、特急列車からの接続旅客の優先乗船がアナウンスされ、乗船案内札もこの三つが追加されるのであった。乗船に際しては、改札が実施され指定席券の提示ないし「特」表示の乗船名簿を要した。
特急旅客の優先措置は、混雑の主要要因であった周遊券旅客の取り敢えずの排除を意図したもので、積み残しに対応して、深夜便出航の後に、客載車両渡し船による貨物便の151/158便(72年3月改正ダイヤによる)が客扱いしており、周遊券での旅行者などは最初からこれを選択する者も多かった。一度乗船経験の在る青森を午前2時30分に出航の151便など、さながら周遊券旅客専用便の様相であった。

長くなってしまった。この項さらに続く。

写真は、函館7時20分出航、上り4便として航海中の羊蹄丸。左舷側遊歩甲板を乗船口付近から船尾方向を見ている。冬期かつ函館での接続列車は山線夜行のみであり、船内は閑散としていた。
甲板への積雪は、波飛沫を浴びてシャーベット状になる。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

[番外編 4] 青函連絡船 1976

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青函連絡船を続ける。

1964年以降、続々と就航した近代化船と称される客載車両渡船は、1954年の15号台風‘マリー’による5隻の連絡船の沈没ないし転覆という青函航路史上最大の海難事故を教訓として建造され、防水隔壁の強化、舷側の二重構造の採用や船尾防水扉の設置、船体幅の拡幅による復元性の向上などをはじめとした多くの技術が投入されていた。
これらにより、荒天時の航行性能も向上し欠航率の低下にも寄与していたであろうが、海峡の時化にて欠航の判断を下す際に、ある船長をして「船はもつが私がもたない。本船テケミ」と言わしめたというエピソードも伝わる。
テケミとは、『天候険悪出航見合わせ』を意味する鉄道電報の略号である。

一度、船室窓に叩き付ける波涛が遊歩甲板を越えるにまで達し、デッキ扉は鎖にて閉鎖、食堂も売店もシャワー室も営業休止、船内放送では自席を立たないことと荷物を全て床に降ろすよう指示される程の荒天に乗り合わせたことがある。下船後に知るのだが、この日はこの便を最後に全便がテケミした程のシケではあった。
実際大きな揺れで、座っていると身体が大きく持ち上げられると思う間もなく、宙に浮くように急激に落とし込められ、その振幅は数メートルにも感じられたが、主機のエンジン音はいつものように淡々と響き、難航するでなく定刻に青森に着岸した。
確かに、船はもったのであるが、振幅を身体が記憶してしまい、接続の急行列車に乗り込んでからも目を閉じると揺れる感覚に襲われ寝付けずに困った。

前回、客船伝統の等級差と書いたけれど、船腹上部の遊歩甲板の全てを占めていた特別船室には、専用のロビーと明らかに普通船室のそれとはグレードの異なる調度の専用売店が開かれていたが、1978年にこれらは撤去され、新たに「サロン海峡」なる喫茶室が設置された。しかし、残念ながら乗船の多かった深夜便では営業休止につきそれほど利用する機会はなかった。
たまに昼便に乗船すれば、むしろ船楼甲板にあった食堂の窓際席、海面を間近に見るここでのビールを楽しみにしていたものだ。

特筆すべきは松前丸の船内装飾である。室内カーテンや壁面、照明器具などに松前藩の紋である『丸に武田菱』をモチーフにしたデザインが施され、特別船室などオレンジ色とベージュ色の配色とも相まって落ち着いた空間を創り出していた。とても好きな船だったのだが、なかなかに巡り合えない船でもあった。
しかも津軽丸ととも1982年には終航を迎えてしまった。これは、他の5船と補機関係の搭載機器が異なった故と言われているが、これを公式に記録した文書はない。通達は18年の法定耐用年数への到達を事由とするのみである。

さて、連絡船は函館のものと言う感覚が強い。それは所管が1913年に鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所に移管されて以来、国鉄の青函船舶鉄道管理局を経て、1988年の終航時の北海道旅客鉄道函館支社に至るまでの歴史に起因するのかも知れない。しかし航路開設時から鉄道院の発足までの管轄部署は東京そして青森に所在したのである。
それは送り出す側に存在したこと、すなわち、この航路は北海道への移民船として開設されたことを忘れてはならない。

写真は、基坂からの函館市電と函館港。出航して行く連絡船は、当時のメモに「緑の船体」とあるゆえ、大雪丸である。
数時間粘ったけれど、連絡船の位置と市電の通過、それに前景の自動車往来のタイミングが合わず満足のゆくカットは撮れず仕舞だった。
春浅い時季のせいか、観光客の姿は見えない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320)


[番外編 3] 青函連絡船 1978

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青函連絡船ことは書きもらせない。
札幌在住当時の60年代には飛行機利用は一般的ではなかったゆえ、内地への移動は青函連絡船以外に考えられなかった。だから、近代化船と呼ばれた津軽丸型客載車両渡船就航前の最後の車載客船であった初代渡島丸や摩周丸、かの洞爺丸などにも乗船しているはずなのだが記憶には無い。
やはり、それは64年からの新造船津軽丸型以降のこととなる。

青函航路の利用客がピークを迎えたのは1973年で、それは年間498万5695人と記録されている。一日の輸送人員の最高記録も同年の8月5日の上下便合計34560人とある。(出典 : 航跡-連絡船70年の歩み 1977青函局)
DISCOVER JAPANキャンペーンの成功もあって北海道への旅行客は激増し、実際にこの当時の連絡船は混雑を極めていた。
人気のあった深夜便などはシーズンならずとも桟橋に積み残しが出る始末であり、午前2時過ぎに出航する貨物便(151・158便)を臨時に客扱いとして捌くことも多々あった。
この事態には国鉄も乗船順位を決めざるを得ず、それは、連絡船の指定席券所持旅客、接続列車の指定券所持旅客、特急列車からの接続旅客、そして急行列車からの接続旅客の順とされ、当時の時刻表にも注記がなされていた。
周遊券利用の旅客としては、その最下位に位置づけられる訳で、ならば特別船室(グリーン船室)の指定席を買って自衛する他なかった。連絡船の指定席とは、この特別船室しかないのである。
客船の伝統であるのか、ここでの等級差は歴然と付けられ、自由席の特別船室が列車の特別車と同等の自在腰掛に対して、指定席のそれは一人用の独立腰掛でリクライニングもほぼ水平にまで可能な所謂フルフラットシートであった。
しかも、その料金は列車に比較してかなり割安だったこともあり、以降連絡船の終航まで常用するようになった。
なお、敢えてJISにおける正式呼称の腰掛と書いているのは、連絡船で言う「座席」とはその名のとおり座る席、カーペット敷のフラットルームであり、腰掛のある席は「椅子席」と区別していたからである。

連絡船に乗り込んで自席に着いた後、なすべきことは食事とシャワーである。
深夜便なら普通船室の乗船ロビーで鉄道弘済会による「あらまき弁当」の販売があり、これは出航前に列に並ばないと入手出来ない程の人気であった。これに溢れれば、「海峡ラーメン」のみの営業だった食堂に入ったけれど、当然こちらがお目当ての乗客も多かった。
当時の乗組調理人の方が、後年に函館朝市近くにこの海峡ラーメンの店を開かれていたが、ご高齢ゆえに惜しくも閉店してしまったらしい。
シャワー室は、後の<あさかぜ>や<北斗星>に設備のものより広く、湯量もふんだんに使用出来た。カード式ではなく、コインの直接投入と記憶している。
このシャワー室は建造時にはなく、1970年より松前丸から順次全船に追設されたものである。
これらが終われば、昼便なら遊歩甲板の散歩となるも、深夜便なら午前4時過ぎの接岸の船内放送に起こされるまでは眠るのみであった。

長くなりすぎた。次回に続ける。

写真は、上り4便として運航中の八甲田丸のシンボルマークとメインマスト。
連絡船のシンボルマークは、航路開設70周年を記念して1977年に制定されたもので、車両渡船を含め当時就航の13隻に付与されていた。客載車両渡船では、両側舷とメインマスト直下の消音器室外壁に取り付けられていたが、車両渡船には付与されたのみで船体への表示は無かった。
八甲田丸のそれは、八甲田山系と水蓮沼を表現したものである。

ご承知のとおり、八甲田丸は終航の後、観光施設として青森桟橋に繋船され、幸いなことにこの光景は今でも見ることが出来る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320)

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