"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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細岡 (釧網本線) 1985

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北海道鉄道網の骨格路線を定めた『北海道鉄道敷設法』(1896年5月13日法律第93号)の第2条には、「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」が規定されていた。これは同法の制定意図から将来に幹線と位置付けられた路線と見て良い。公布後、直ちに道庁に置かれた臨時北海道鉄道敷設部による調査が行われ、この鉄道は第1期線に位置付けられたのだった。
経路中の厚岸は当時まで道東の拠点であった故だが、釧路川水運によりヒンターランドを確保した釧路が厚岸を凌ぐ経済的地位を確保すると、1919年の『北海道鉄道敷設法』改正にて(1919年3月25日法律第21号)、太平洋岸とオホーツク岸連絡線は短絡を意図して釧路から網走間と改られ、ここに後に釧網本線となる路線が確定したのである。
とは云え、釧路側の泥炭地帯(釧路湿原)の通過には難工事が予想され、二つの経路が比較・検討されるところとなっていた。釧路川の右岸と左岸の経路であり、当然ながら双方とも台地の縁を縫う線形が調査されていた。
実現しなかった右岸線を乏しい資料から推察するに、後の新富士付近の大楽毛方から分岐し、温根内までは1926年に開通した殖民軌道雪裡線とほぼ同経路、右転して温根内川・雪裡川の低湿地を築堤して渡り、宮島岬・キラコタン岬に隧道を穿って通過し下久著呂付近から標茶に至るもの、即ちは現在の道道53号から243号線に類似ながら、より泥炭地側の経路とされていたと伺える。
新富士-標茶間調査路線は、およそ50キロ余りの延長と推定され、それは東釧路(当時に別保信号場)-標茶間を上回るのだけれど、泥炭地への路盤構築距離は短く、現行路線が軟弱地盤への施工に難航し、工費・工期とも当初予定を大きく超過したことからは、ずさんな調査・見積りによる選定だったとも思える。開通後も、この現行線は激しい凍上や法面崩壊に悩まされ、洪水時の路盤水没からの一部線路付け替えなども生じたから、尚更の感がある。
にもかかわらずの左岸選定は、結局のところ釧路でのスイッチバック運転の回避だけだったのではなかろうか。

細岡から中の沢川流域の湿原陥入部を渡る築堤区間へと差し掛かる5691列車。東鹿越-中斜里間の指定運用による石灰石輸送列車の、これは返空回送であった。
写真の頃には湿原の乾燥化も進んでいたけれど、ここへの築堤構築も難航したに違いない。丘陵の裾に張り付けた区間が多かったとは云え、別保信号場-細岡間の1メートル当りの竣工単価は21円81銭と記録にある。釧北隧道掘削を含む上札鶴(現緑)-川湯(現川湯温泉)でも22円60銭であったから、如何に工費を浪費したかが理解されよう。細岡から塘路間に至っては50円82銭であった。

ところで、写真の背後には細岡駅周辺に所在していた集落が写り込んでいる。現在では全てが失われた。2010年国勢調査ではトリトウシ原野南4線の居住者は1世帯2人であった。さて、昨年の調査結果ではどうだったのだろうか。

=主要参考資料=
釧網線建設概要(1931年 鉄道省)
日本鉄道史(1921年 鉄道省)
鶴居村史(1966年 鶴居村)
北海道交通史(1950年 梅木通徳)

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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川湯 (釧網本線) 1977

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御料地とは皇室の所領を指しての言葉と云う。そして、皇室を存立足らしめる天皇制は、徳川幕府より政権委譲(断じて「維新」などでは無い)を得た薩長政権が唐突に持ち出し、民衆の支配に利用した根拠の曖昧な装置である。そればかりでは無い。これは土地の収奪と隔離にも用いられた。勿論に為政者の利権確保のためである。

薩長政権は、先住民が全く預かり知らぬ間にアイヌモシリ全土の領有を宣言し、すべての土地を官有地とした。その上で、この独裁政権は、1872年の『地所規則』に『北海道土地売貸規則』に始まり、1886年に『北海道土地払下規則』を、1897年には『北海道国有未開地処分法』(旧法)と矢継ぎ早に制定し、それこそ勝手に地積処分を行った。その過程で支配階級による広大な土地所有制が確立して行ったのである。
独裁には、所詮は同じ穴の狢であり支配階級内での権力闘争に過ぎなかったのだけれど、やがて議会開催を求める自由民権運動を生ずる。強権的弾圧で対抗するも、その高揚に抗しきれぬと見るや懐柔にて沈静化を図った政権側は、1889年に非民主的な『大日本帝國憲法』の制定に漕ぎ付けると、翌1890年に第一回総選挙を施行し帝國議会の開催を受け入れた。
しかしながら、政権基盤であった国有財産への議会の関与を嫌った薩長政権は、これに先立ってそれらの皇室財産への編入を画策し隔離・温存を図ったのだった。官営に発する銀行や商社など国有企業の株式は皇室への献上を以て政府資産から切り離され、官有地・官有林は大規模に御料地への編入が行われたのである。この結果、1873年度末に約193万円だった皇室財産は1889年には975万円にまで増加したと記録される。これは大財閥と呼ばれた三井・岩崎・住友の各新興資本の合計総額を遥かに上回るものであった。
当時に釧路国川上郡熊牛村に属した熊牛・弟子屈・美留和・跡佐登原野においても植民区画の引かれていた578万坪を除く2000万坪と云う広大な官有地が1897年に皇室財産へと編入、御料地・御料林とされた。(数字出典は弟子屈町史だが、やや疑問が残る)
それは阿寒湖・摩周湖を含んで、1923年に成立した弟子屈村は村域の大半が御料地と云う特異な自治体となったのだった。そして皇室財産の観光地に、鉄道省は1936年の川湯停車場本屋の改築に際して、それに相応しい洒落た山小屋風意匠とし、果たして利用を想定したものか内部には貴賓室をも設けた。道内駅として現在までも唯一の事例である。

凍てついた川湯の下り乗降場。列車は混合636列車の網走行きである。行き違いも無いのに、ここで10分ばかりを停車する。
釧網線の客車はウェバストヒータ装備にてスチームの上がらないのが物足りないけれど、静まり返った中に低く唸るそれの動作音と微かな石油臭も、二度と帰らない鉄道情景だろう。
19時前はまだ宵の口に過ぎないが、日没の早い道東なら早くも深夜の趣ではあった。シャッタを開け放って絞り込んだレンズに夜を吸い込ませるのはモノクロームの、それも銀塩の領域と思う。

今に続く保守勢力の権力基盤は、天皇制を隠れ蓑にした姑息な収奪により築かれた。蝦夷地に限れば侵略と略奪と云うことである。とは云え、当の天皇自身もまた加担した罪は免れ得ない。被災地見舞い好きな千代田区在住の好好爺夫妻は極めて真っ当なリベラルに見えるのだが、曾祖父の行状をどう振り返っているものか、興味深い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 bulb@f8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

細岡 (釧網本線) 1985

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蒸機の末期から飽きるほど通った釧網本線なのに、細々と残っていた中斜里着発の貨物列車が1996年に廃止されてからと云うもの、一度も撮っていない。1984年2月改正では混合列車(実質には客車列車だったけれど)が無くなり、86年11月改正で貨物の大半に優等列車まで喪失しては、前述の中斜里貨物を思い出したように撮るだけになっていたのだが、それすら失われての単行気動車ばかりには、あの沿線風景と云えども食指が動かないのである。
けれど、単なる旅行者としてならその後も幾度か全線を乗り通している。かつてに自分が立った位置を確認しながらの旅は、この四半世紀を越える歳月を感じさせる車窓でもあった。
降りる気にはなれない北浜の喧噪ぶりは論外として、沿線は極度に過疎が進行しているはずなのに網走近郊や斜里原野区間では建造物を煩わしく感ずるし、河川敷に樹木が大きく成長した猿間川橋梁では海別岳を背景に編成列車を捉えるのは既に困難だろう。
けれど、変容の著しいのは標茶から先、釧路湿原の区間と見える。一言で云えばハンノキの群落が増えた。釧路川へと流れ込む細い川筋はヤチダモが教えてくれるし、加えてはカエデやらヤナギの灌木だろうか。その樹林帯の確実な進出に、ヨシやスゲにコケ類の高層湿原群落の面積縮小が素人目にも見て取れる。これらは土砂堆積とそれにともなう乾燥化傾向を明らかに示していよう。

陸化型の湿原は、低層から中間、高層へと推移して、やがては陸地と化する。縄文海退による潟湖に発する釧路湿原は、まさに植生学の教科書どおりの「湿性遷移系列」の途上にあるには違いない。けれど、数千年を経ての泥炭の堆積により形成された湿原である。前に 植苗 (千歳線) 1970 で勇払原野のウトナイ湖周辺湿地についても書いたけれど、現在に我々はその何千年目かに訪れる陸化への最終遷移に偶然にも立ち会っている訳では無い。この50年にも満たぬ期間での景観の変容は人為的結果と云わざるを得ない。
それは、19世紀末期以来の湿原を囲む丘陵地の開墾にともなう土砂流失と、そこでの経済活動にて生じた栄養塩類の涵養水源への流入がもたらしたとされている。戦後に至っての湿原内河川河道の直線化では氾濫原が失われ、結果的に増した土砂流送量に堆積は進み、湿原内にも及んだ農地化が拍車を掛けたと云えそうだ。
薄暮の車窓など特に、かつても現在もただ茫漠たる湿原風景の過ぎ行くに見えるけれど、その景観は様変わりしたとして過言でない。

幾度も通った細岡の遠矢方、中丿沢川出口の陥入部をR=362M曲線の築堤で渡って往くのは3692列車。
此の頃には、後部の石灰石を積んだ無蓋車を中斜里で切り離しての北見行きであった。
背景の湿地を横切る中丿沢川の流路沿いには、たかだか30年を経た今にハンノキにヤチダモが密生するに至っている。土砂の堆積は、やはりこのような「入江」から進むものか、背後の丘陵地からはエゾイタヤやシナノキの樹林の進出が著しく、ヨシ原に最早湿地を湿原に足らしめる「湿原植生」の群落は存在しないだろう。
このように書いておきながらなのだが、実はここを含む達古武沼周辺地域でのハンノキ群落の面積は減少している。皮肉なことに、陸化したそこが農地へと転用され続けた結果である。
=参考資料=
釧路湿原達古武地域自然再生事業実施計画書(2005年環境省北海道環境事務所)

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f5.6 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

美留和 (釧網本線) 1978

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航空機で道内入りし、専ら貸し自動車で巡られる諸兄には無縁の話しであるが、列車と徒歩の鉄道屋に、最近の道内は動きにくくて仕方がない。
要因は何といっても夜行急行の廃止による長距離移動の制約である。それの宿代わりはさておいても、夜間移動に加えて、未明から早朝に南稚内や生田原に網走、音別や釧路に降り立てたはずが、前日の撮影行動時間を削って午後から夕刻の特急列車を選ばねばならなくなった。必然に現地への投宿も余儀なくされる。せっかくに全道全線のオープンチケットを利用しても、かつての均一周遊乗車券の時代のごとくに、それを存分に活用するなど端から諦めるしかない。代替に夜行バスなど選択すれば、それこそ余分な負担になってしまう。
一般の用務客としても、札幌から旭川や帯広あたりならまだしも、釧路に函館ともなれば朝の特急では午前中を車内で浪費するのだから、夜行需要など低下のしようも無かろうと思えるのだけれど、現実には夜間移動は嫌われて、旅客は前泊を選択するか、自家用車もしくは当日朝の航空機へと逸走したのだった。
旧い鉄道屋は、早起きして遠い飛行場を目指すくらいなら、前日夜から車内で一杯やり乍ら過ごす方が余程マシと考えるのだが、もはや少数派と云うことである。結局のところ、泣く泣く夜行バス料金を別払いしたり、夕刻の斜光線に後ろ髪を引かれつつ特急の客となるしかなくなった。

もうひとつには、釧網本線の使命だったはずの太平洋岸とオホーツク岸との回廊機能の喪失である。
単行の気動車に場違いな観光列車ばかりとなった、この線を撮る気は全くに失せているのだが、ならばと、朝方で「用事」の終わってしまう石北線から日中を潰しての根室線方面への抜け道としようにも網走で足止めされる。勿論、年間の多くの期間で日中のスジの1本が緑-川湯温泉間を直通することは承知しているけれど、所詮に定期運行では無い。キハ54形内燃車の優れた動力性能を以てして、現行の各駅停車はかつての急行列車並みの所要時分で釧網間を到達すると云うに、使えぬのでは話しにならない。
意図的なダイヤ編成には違いないから、先に書いた「喪失」は「放棄」とするべきなのだろう。
釧路への速達には、結局のところ北見からの都市間バスに頼らざるを得ず、ここでも鉄道のオープンチケットが無駄になる。

一面に霧氷の朝を往く604D<大雪6号>。この釧路からの札幌行き急行はキロ26を含む5両組成で釧網本線を走破していた。<しれとこ2号>を併結した釧路-標茶間なら7両編成を組む堂々の幹線列車だった。
阿寒湖に摩周湖の内水面を控えた美留和付近は、放出される水蒸気に冷え込めば霧氷の生成され易い区間とは、以前にも書いた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

北浜 (釧網本線) 1981

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鉄道を真っ当に撮り始めてから、最も多く降り立った駅は北浜だと記憶する。すべての記録を精査したではないが、間違いないだろう。札幌在住時に近所の北大生にお供を頼んでの最初の遠征旅行で目的地として以来、内地から道内へと向かうようになっても必ずスケジュールに組込み、ひとつの旅で2度3度と訪ねたことも在った。
道内では此処と日高本線に数例を見るだけの海原を画角背景に出来た濤沸川橋梁が存在したにせよ、他にはこれと云った立ち位置の無いにかかわらずの訪問は、そこでの基本形と云えるその画角で最良と思えるカットを初回訪問の、しかも最初のシャッタで押さえてしまっていたので、それを超えることを無意識にも自分に強いていたからだろう。→ 北浜 (釧網本線) 1967
とは云え、やはり北辺の沿岸のロケイションに気候、空気感、何より駅の佇まいに魅せられてのことにも違いなく、そこでの旅の禁欲を破っての至福の時間については前にも書いたので繰返さない。

橋梁撮影の基本形ばかりでなく、その周辺や網走方の波打ち際、それを見下ろした海岸段丘上など然程遠く無いところに幾つもの立ち位置の見つかるのも、徒歩の鉄道屋としては有り難いことだった。後には、市街地後背の段丘からそれを前景にオホーツクを眺めた画角に執心し、それこそ季節を変え、時間を変えてそこに立ったのだけれども、これもコンテに思い描いたような絵の撮れぬままに終わっている。
1984年2月改正で、既に実体は単なる客車列車だったとは云え機関車の牽く混合列車が一斉に気動車に置替られ、1985年3月改正に至って撮影可能な貨物列車も2本にまで減ってしまえば、翌86年の秋までにここでの撮影を止めてしまったからである。釧網線自体の貨物列車運行は1997年春まで維持されたのだが、それも釧路方から中斜里までであり、単行やせいぜい2両組成の気動車の往来には、撮る気の失せたのが正直なところであった。

鉄道を失った市街や集落の衰退して往く様を目撃することは確かにあるのだが、一方で滅び往くは鉄道ばかりと云う事例も数多である。ここもそのひとつでは無いかと思える。1984年2月改正での要員引揚をきっかけとして始まった駅自体の観光資源化は幾多の人々の努力の実を結び、テレビドラマや中国映画の撮影地として情報のマスに流れれば、今や観光バスの定番立寄地ともなり、それとは無縁の市街地も網走市の郊外域として然程に寂れるでも無い。網走方面が4車線に拡幅された国道244号線とは裏腹に、駅へは一日に数本の単行気動車が申し訳なさそうに着発するのみなのである。
これの無くなっても誰も困りそうになく、怨念の籠ったかのような「お札」に占拠された待合室は、そのままに「観光地」に存続するのではあるまいか。個人的には、二度と訪れたくも無い場所に成り下がった。

10メートルを上った程度の牧草地の外れから濤沸川橋梁を眺める。列車は混合634列車、網走行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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