"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

斜内 (興浜北線) 1981

shanai_04-Edit.jpg

午前3時に音威子府で下り<利尻>を凍てついたホームに降りれば、向かい側に天北線始発列車の据付けられているのは有り難かった。それには運用車送込みを兼ねた興浜北線直通北見枝幸行きが組成されて、6時には斜内へ到着する。誰もいない車内に駆け込み直ぐに睡眠の続きとしたものだった。

1月半ばの北オホーツク岸の朝は冬至をひと月程過ぎたとは云え、まだ夜明け(常用薄明)に至らない未明である。外が吹雪いていようものなら、そこにひとり気動車を降りるには勇気の要った。氷点下の冷気に照度の上がらない蛍光灯の薄暗い待合所に逃げ込んで風雪を凌ぐけれど、枝幸から折返して来る列車は7時なので、神威岬の燈台へ向けてはすぐにでも歩き出さねばならない。昨夜来の積雪に地吹雪の様相の国道を急ぐのも難儀には違いなかった。
けれど、そうでもしないと、この北辺のルーラル鉄道には撮影チャンスの確保が出来なかったのである。神威岬に列車のやって来るのは、この7時の上りの後には8時・9時と12時・13時に通過する一ヤマずつに15時半の下りの計6本、日没を過ぎた17時前のそれの折り返しはもう撮れない。
午前中の3本で切り上げ、11時の宗谷バスで浜頓別へ引揚げも出来たけれど、それから稚内方面に移動したとしても今度は撮るべき列車のなくて、結局は一日を斜内山道で過ごしたのだった。
とは云っても、訪れる度に風雪の吹き荒れた神威岬である。2度の3時間近いの空白には駅待合所までの避難も考えたものの、そこへ往復するのも面倒に思え、結局は風の岩陰に身を縮めてやり過ごすのを選んでいた。
長い列車間隔の暇つぶしにはならぬにせよ、持参の断熱シートを尻に敷いて座り込み、いつものように固形燃料で湯を沸かしてコーヒーをドリップすれば、それはそれで最高の贅沢に違いなかった。ただし、低温と回り込んで炎を乱す風には、燃料の浪費と引換えである。

夕刻の近づいてようやくに強風の治まった中を北見枝幸へと走り去るのは927D列車。スノウプラウの雪掻きでようやくに線路が現れた。
これの折り返しにて浜頓別へ戻るので、手早く機材を撤収せねばならない。
ここで、丸一日を風音と波涛の響きを聴いて過ごすと、帰りの夜行で眠ろうにも耳鳴りのして困ったものだった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

追) この記事より、しばし予約投稿です。

スポンサーサイト

斜内 (興浜北線) 1977

shanai_03-Edit.jpg

Nikon のカメラ自体は極地でもなければ特別の手当なしに相当な低温にまで耐え得るとは承知していたので、それの保温を考慮するのは、低温によるフィルムの折損にパーフォレイションの破損を経験していたからだった。何れもフィルムアドヴァンスの際に生じて、そのロールでの撮影続行が不能となるばかりか、最低でもひとコマの撮影済みカットを失うことにはなる。
初めてのこの事態には、目についた民家に頼み込んで押し入れを借り、なんとかパトローネに戻し込んだものの、案の定キズを入れてしまったものだった。今になってみれば、そのことよりも突然押し掛けた見ず知らずの若者に善くも押し入れまで案内してくれたものと、そればかり思い出す。以後しばらくは完全遮光のシートフィルム(4×5判)の空箱にダークバッグを持ち歩いていた。
ザックに収納した持参の水筒が凍りつくような環境となれば要注意で、アドヴァンスを慎重に行うのだけれど、パーフォレイションの割れて、それに気づかずに撮影してコマの一部を重複させたこともあった。

カメラの保温としても妙手のある訳ではなかった。オイル燃焼式の懐炉は自体が発熱するけれど体温と相乗して効果のあるもので、単体でカメラバッグを保温出来るはずも無く、その頃出回り始めた化学反応にて発熱する使い捨てカイロとて同様である。ウールで巻いてバッグに収めたりもしたけれど、それも体温を保温するのだから、考えてもみれば一度外気に晒した無機物には意味を成さない。
その時代に誰もが持ち歩いていたアルミ張りのバッグ、通称の「銀バコ」が如何にも冷えそうに思えて、ナイロン製のソフトバッグに差替える切っ掛けでもあった。

冬の北オホーツクを撮りたくて訪れる興浜北線では吹雪に出会い、仕方なく翌シーズンにも往けばまたも吹雪かれて、それを何年か繰返した。三脚を手で押さえねばならない程の烈風に画角を決めれぱ、列車時刻までカメラはバッグにしまい込むのだが、定期列車の所定時刻に排雪モーターカーの走るような無ダイヤ下では、三脚上にそれを備え続けることになる。気温は氷点下10度に達していないと思われるが、風雪に晒されての表面温度の低下には防風効果のあるスタフバッグが有用であった。ナイロンは比熱も小さい。

列車は、小一時間遅れの925D。北見枝幸行き。
次の吹雪が目前に迫っている。

寒冷によるこの種の事故は、F や F2 の時代のことで F3 になってすっかり解消した。フルボールベアリングを採用した極めて優れた巻上げ機構によるところだろう。但し、F3 では別の問題が生じた。結露に起因した事故である。これについては 中丿沢 (函館本線) 1997 に書いた。
なお、寒冷の環境は同一露出設定の連続した撮影にて、現像後の隣接コマの露出が明らかに異なるなど、絞りの動作を補償しているグリスの固化に起因した事象も生じてはいたのだが、当時のモノクロ撮影にあってはさほど問題にはしなかった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f4 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
続きを読む

斜内 (興浜北線) 1982

shanai_02-Edit.jpg

北見神威岬と斜内山道は、興浜北線のハイライトに違いない。
けれど、その険しい全景とそこを往く列車を捉えようとすれば海側に視点を置かざるを得ず、それは風景に反して平板な写真に終わった。燈台の背後の岩場を登摩して、それと列車と海面を画角に取り込んでも構図の整わぬものだった。

やはり、ここは視点の側に思える。ここから眺める目梨泊、問牧方向へ点在する集落を抱えて緩く弧を描く海岸線と、その先のなだらかな稜線の交差が気に入っていたのである。
けれど、海側に並行する国道238号線の路面を、積雪が隠してくれることを期待して訪れていた厳冬の季節は吹雪ばかりで、日中に数本しかない列車と共に決まってやって来る風と雪で、期待するカットはなかなかに叶わなかった。

何度目の訪問であったか、午後に至って突然に吹雪が止んで視界が開け、海鳴りも治まった。そこを上りの浜頓別行きが走り去る。列車は、926D。
キハ22にも首都圏色と呼ばれる単一塗色が増えて来ていた頃である。

次の列車、北見枝幸行きは早い日没の直前とあって3時間近くの間隔がある。有り余る時間を寒さに耐えて過ごすも、天候は好天には向わず、次の吹雪に追いつかれてしまうのだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

斜内 (興浜北線) 1980

kouhoku-Edit.jpg

斜内山道は吹雪ばかりだった。
冬にしか行かないのだから仕方ないのかも知れない。
燈台の直下からフレームを海側に取れば、どうしても写り込んでしまう国道238号線の路面を、厳冬の積雪が隠してくれるのを期待してのことだ。

浜頓別周辺へは夜行急行のルートを外れるゆえ、スケジューリングが難しい。早朝から行動しようとすれば駅前の『浜頓ホテル』にお世話にならねばならなかった。
にもかかわらずの斜内山道行きは、緩やかに弧を描く海岸線が目梨泊の岬へと収束する風景に魅せられてのことだった。
なのに、毎回の吹雪である。吹雪にも呼吸があるから止む。でも、次の吹雪は列車とともにやって来る。

斜内山道は、斜内山への「やまみち」ではなく、神威岬北側の急崖に、おそらく桟道の架かっていたことからの地名と思われる。この鉄道の開通まで、ここは確かに難所だったのだろう。

カメラを目梨泊のほうに向けてばかりいたが、ふと振り返ると、北に奇麗に海が抜けていた。
列車は925D。
背後に次の吹雪が迫っている。

[Data] NikonF3+AiNikkor105mm/F1.8 1/250sec@f5.6-8 Kenko Y2filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.




FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。