"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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京極 (胆振線) 1969

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明治維新とは、民衆を蚊帳の外にした軍事クーデターに過ぎなかった。それの革命とする向きもあるが、人民の関わらぬ革命などあろうはずも無く、この薩長政権の私利私欲による搾取の始まりは日本近代史における不幸と云わざるを得ない。
民衆支配の道具として天皇を担ぎ出した政権にとって、それに繋がる公卿や薩長連合に組した大名家などによる支配層の形成は急務であり、西洋を模した階級制度である華族制度の制定が、1869年7月25日の版籍奉還と同日に「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」とする行政官布達54号にて出されていた。
そして、脆弱な財政基盤にあっては彼らに人民搾取の利権を付与することで維持・育成を図らざるを得ず、天皇の言とする「蝦夷地開拓御下問書」を以て北海道の植民地化を正当化、1886年2月の中央官庁としての北海道庁成立後の同年6月に、自らが伯爵であった伊藤博文の内閣により制定された『北海道土地払下規則』(1886年6月29日閣令第16号)や、大隈重信の息のかかった松方内閣時代の『北海道国有未開地処分法』(1897年3月30日法律第26号)などにより、官有地の華族への無償ないし極めて低価格での払下の行われ、各所に途方も無い規模の華族農場が成立したのだった。
北海道は、政権に従う謂れの無いアイヌ民族にしてみればその利権に植民化された地であり、小作人に送り込まれた民衆には殖民を強いられた地と云えよう。
巨大地主となった彼らは、次に農場生産物の商品化に鉄道の敷設を要求し、その意を受けた政府は、道内幹線鉄道建設を法定した1896年の『北海道鉄道敷設法』での対応が困難と見るや、1910年に国会の協賛のみで建設を可能とする『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)までも成立させるのだった。

四国丸亀京極家に連なる子爵京極高徳が、真狩山の北麓、倶知安村ワッカタサプ(wakka-ta-sap)番外地の原野に800haの土地を得、京極農場を開いたのは1897年のことであった。この小物華族は、やや出遅れの感があり、そこそこと云った規模もそのせいだろう。当然に現地に管理人を置く不在地主で、主に北陸地域から小作人を入植させていた。
道庁は1903年に京極農場の土地を一部返還させて公設市街地を開いており、農場経済を背景に順調に人口の増加していたものだろう。
ここへの鉄道も軽便鉄道法に準拠した東倶知安線として1917年8月に着工され、第一次世界大戦による物資不足に難渋したものの、1919年11月15日に運輸営業を開始した。終点停車場は京極農場内に引込まれるごとくに置かれ、それゆえに「京極」を名乗り、営業線名も京極軽便線とされた。当時にワッカタサプ川対岸に位置した市街地は、虻田郡東倶知安村の中心として字東倶知安市街地と呼ばれて、郵便局も東倶知安局だったから、これは駅名・線名だけのことであった。
この鉄道の建設は、内地の新興財閥たる三井が1916年にワッカタサプ川上流へ稼業した褐鉄鉱山からの鉱石搬出線としての側面の強いのだが、鉄道省には沿線大地主である京極高徳への配慮も強く働いたものだろう。
1940年に至り、東倶知安村が村名を京極村と改めるのは、倶知安と繋がる基幹輸送路だった鉄道の駅名からの派生と思われ、地主京極家から直接の由来では無さそうだが、1938年に開放されていたとは云え、かつての支配者の名を村名とするなど、軍国主義に向かった時代背景ゆえのことなのだろうか。些かに無神経極まるとしておく。

写真は、京極手前での1890列車。勾配には場内まで力行して往く。
頂きを雲に覆われた真狩山は残念だったけれど、それでも存在感の感ぜられる山ではある。

[Data] NikonFphotomicFT+P-AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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新大滝 (胆振線) 1970

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胆振線は勿体ないことをしたと思っている。
札幌からなら日帰り圏内に在ったし、内地から通うようになっても室蘭線に函館線を繋ぐ回廊なのでスケジュールにも容易に組込めたはずなのだが、前年とこの年と二度を撮っただけに終わってしまった。本線にC62やらC57、D51が健在で、ここの9600の古めかしいスタイルに魅力を覚えなかったことに加えて、車窓からのロケハンにてこれと云った地点の見つからなかったせいだろう。もう少し後のことなら、壮瞥や蟠渓あたりの風光に惹かれたと思うけれど、この当時に蒸機には、とにかく煙だったのである。倶知安に居た9600の前照灯をデフレクタ上の2灯とした装備にしても、本来は落石の多かったこの路線向けの仕様なのだが、それも共通運用の岩内線貨物に倶知安峠で多々対面していた。
この日も倶知安からの気動車にこれと云った位置を見出せないままに峠の向こうの新大滝に降りている。千鳥配置の乗降場の中央に接する通路の先に質素な駅本屋を記憶するが、まだ稼働していたはずの徳瞬瞥鉱山からの索道や構内に建造された硫黄鉱の大規模貯鉱槽には覚えが無い。この線に1往復の貨物運転の午前の下り、夕方から夜間の上り設定は、ここから東室蘭への鉱石輸送を配慮したものだった。
積雪の線路を足を取られながらも尾路遠トンネルに向けて道路が接近するあたりまで歩いたものの、結局気に入ったポイントの無く、駅から山裾に取り付いてまもなくの落石覆い手前まで戻って斜面を登ったのだった。

胆振縦貫鉄道がこの区間を開業したのは、徳瞬瞥(後の新大滝)までが1940年12月15日、西喜茂別(後に喜茂別)までの全通が1941年10月12日と、地方開発線としてはかなり遅い時期であり、それは1890年代末に始まり1910年代までには幾つかの中心集落を形成するに至った徳瞬瞥や優徳の長流川上流域への拓殖と一体ではなかったことを示す。当時より自治体が要請し、1922年の鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)別表131項にも「膽振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈ニ至ル鐵道」が法定されながら、財政上の事由から鐵道院・鉄道省による建設は見送られ続けていたのである。
伊達町(当時)在住の早瀬末吉らを発起人とした胆振縦貫鉄道が、1930年12月22日に喜茂別-伊達紋別間の地方鉄道敷設免許を得たられのは、それゆえであったが、同社の本来の目論みは伊達と札幌との中山峠を介しての短絡に在り、その実現のための未着工の法定線を盾にした免許獲得と見るべきであろう。1928年には伊達紋別-静狩間の長輪線(後の室蘭本線)が開通し、短絡線をこれに結ぶところに商機を見いだしたと思われ、早瀬はこれに私財を投げ打ったと史料にある。
取り敢えずの喜茂別への到達は、ここに産出した鉄鉱石の倶知安回りであった輪西(現東室蘭)への輸送路を代替して、経営の安定に寄与するとの見込みからだろう。加えて、開業の1940年からは徳瞬瞥鉱山も本格操業を開始して、鉄道は活況を呈することとなった。
鉱石輸送の重要路線として戦時買収の対象となり1944年7月1日を以て国有化のなされるが、資源の枯渇も早く、最終的には共に日鉄鉱業が採掘していた倶知安(脇方)鉱山が1969年10月に、徳瞬瞥鉱山が71年3月に閉じられれば、その命運の決したとして良かった。

写真は尾路遠トンネルへと上る1891列車。新大滝へ午前に空車を解放し夕刻に積車を拾う列車設定には、倶知安機関区の9600形は鷲別機関区への滞泊を要していた。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

京極 (胆振線) 1969

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噴火湾岸から洞爺湖の東を北上し、シリベシ山(羊蹄山)を回り込むように室蘭本線と函館本線を連絡していた鉄道が存在していたとは、今では信じられない気がする。
もっとも、胆振線はこの連絡のために建設されたものでは無く、脇方鉱山の鉄鉱石の搬出を図った鐵道院による軽便線と沿線の林産資源の開発を目的としていた私設鉄道の戦時買収にて成立した線区である。資源の枯渇すれば、衰退は免れ得なかったと見るべきだろう。

この線区は往復を乗ったけれども車窓からは気に入ったポイントを見つけられず、蒸機時代に間隔を置いて二回、延べ二日間撮っただけで終わってしまった。それも函館山線撮影の「ついでに」のレヴェルである。
左右のデフレクタのステーに2灯の前照灯を乗せた倶知安機関区の9600にしても、岩内線への運用を小沢や倶知安峠で何度も撮っていたし、貨物の一往復の運転しかない胆振線行きは効率の面からも躊躇していたのである。

最初の訪問が、この1969年の冬で、区間列車もあって入り易かった京極まで出向いた。そこにポイントの当てが在った訳でなく、上りの<ニセコ>を見送った後に転戦可能な範囲からの選択に過ぎない。

写真は、京極の北岡方に外れた畑作地らしき地点(積雪の下で分からぬのだ)からのカットである。シリベシ山を画角に捉えたいところだが、午後から悪化した天候で中腹まで雲に覆われてしまっていた。
列車は、1890列車東室蘭操車場行き。山麓の傾斜地だけに場内直前まで力行している。この列車、京極に約1時間停車するゆえ南京極方に移動してカットを稼げるところなのだが、冬至も近いこの時期に在っては、それは日没間際となってしまうのだった。

倶知安機関区によるこの仕業は、伊達紋別から室蘭本線を東室蘭操車場まで直通しており、この区間で見られる唯一の9600であった。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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