"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

端野 (石北本線) 1973

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1973年の秋の渡道で端野に降り立った経緯は前の記事に書いた。40年も前の旅の記憶は失われつつあるけれど、当日ですらはっきりしない運行予定には振り回され、情報の収集に鉄道電話を随分と掛けさせてもらったものだった。
端野で捉えた522列車も前夜の網走駅への問い合わせでは、網走-北見間運休との報が、517列車・夜行<大雪>で到着した早朝の北見駅に拠れば、乗務員の手配が付いたゆえに急遽運行が決まったとのことだった。かと云えば、運行と聞いて釧網線の緑で待っていた列車がいつになっても来ないので駅に戻ってみれば、斜里からの乗務員が結局確保できずに同駅で打ち切りと云うような破目に会いもした。蒸機末期のこの時期に渡道していた諸兄も多いはずで、同じようなご経験をされたものと思う。
携帯端末でのリアルタイムの情報収集など考えられもしないこの当時、遠い駅間まで歩くリスクには駅近辺や駅撮りばかりがネガに残る旅になった。

始めて降りるところの端野は、上り本線と下り本線とその外側に副本線(待避線)を有する教科書的配線で、駅本屋に接する上り乗降場には下り乗降場が島式であった。貨物施設は駅本屋上り方に隣接して上り本線から貨物積卸線1線が分岐、副本線からも油槽所と農業倉庫へと側線が分かれていた。この時、どの積卸線は疎か副本線も貨車で満線だったのは、貨物列車の運休にともなう滞留車の疎開だったろう。
前の記事に書き漏らした肝心の駅本屋は、1933年改築と記録される2代目本屋であり、その際のスナップから読み取れば、鉄道省工務局による「小停車場標準図」(1930年10月6日工達第875号)の五號型に準拠したと思われる規模に見え、1935年の「建設線建物設置基準」(1935年10月29日建工達第1282号)に当てはめれば1日あたり600人を越える利用を想定していたことになる。1930年の端野村は戸数1042戸に人口6430人と記録されており、鉄道がほぼ唯一の交通機関と考えれば、なるほど想定に近い需要は存在したのであろう。1975年でも1415戸・5568人を擁した端野町だが、道路交通への需要流失には勿論過剰な設備となっていた。
旅客に貨物を扱い、運転も担う当たり前の一般駅の、その広い待合室に弘済会の売店が所在したかには記憶が定かで無い。

調べてみての新たな発見は、調合漆喰の商品化に1920年代半ばを境に事例のなくなっていた木造総板張りの質素な駅舎が1933年に建てられていた事実であった。物資不足に陥った戦時下に幾つかの例は存在するのだが、それらを除けば道内最新の板張り駅舎であったろう。満州事変が勃発し、戦争へと傾斜する時代、それが建築費削減の事由だろうか。最新とは云え、築58年を迎えた1991年に端野町の公共施設との合築駅舎に建て替えられて消滅した。

写真は、端野を出発して往く522列車。
この当時には旭川で832列車と列番を変えながらも網走から小樽まで、日中の13時間を通す列車であった。北見まで標準勾配の6.8パーミルには発車から基本的に力行が続く。
前の記事に掲げたカットの前コマである。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto  Nikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y52filter  Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977

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道内の車両が寒地向け仕様を要するように、それを撮る鉄道屋も耐寒耐雪の装備は必須である。
道内在住の頃、近所の線路端に立つのは日常生活の延長のままの姿だったけれど、山線などに遠征するようになればそうも往かず、ごく自然にスキー遊びの装備を流用していた。と云っても、今時とは違いキルティングのズボンにセーター、中綿入のジャンパーにヤッケの出で立ちで、足元はゴム長であった。けれど、それで積雪の斜面を這いずり回れば長靴に雪の入り込むのは自明の理である。冬山装備としてのゲーター(スパッツ)など知らぬ頃で、スネ回りにタオルなど詰め込んでいたところ、現場で出会った先達が雪切りの付いた長靴を履いているのを見つけた。恐る恐る尋ねれば会津線撮影の際に現地で入手したと聞かされ、仙台の弘進ゴム社の製品と教えてくれた。さすが内地の雪国には便利なモノの在ったものと、早速に親に強請り、狸小路アーケイド街に在った若井靴店で取り寄せてもらったのだった。
それは厚手のゴムの使われた頑丈な造りにウールの内張りも付いて、かなり値の張ったと覚えているが、雪侵入の悩みからは解放されて重宝した。身体の成長と共に買替えもし、札幌を離れるまで足元は長靴だったと記憶する。

けれど、都内から遠征するようになると、郊外私鉄や山手線でその出立ちは余りに素晴らしく(相変わらずのジャンパー・ヤッケのせいもある)、神田の小さな山・スキー用品店で見つけ購入したのが、世界的なバックパッキング活動の普及にて日本へも輸入され始めて居たカナダ-ソレル社のアークティックブーツだった。現在には良く知られており説明も不要だろうが、当時なら取り寄せたメイルオーダーカタログに眺めていたLLビーン社のメインハンティングブーツの積雪地版と云った印象で、長靴には違いないながらアッパーの鞣し革製は洒落ており、フェルト製のボアも付いたインナーシューズはなるほどに極寒地仕様だった。
おそらくは並行輸入と思われたそれは、学生身分には目の飛び出る程の価格で、懇意にしていた店主が「見栄で仕入れたものの、まさか売れるとは思わなかった」と宣うたのを覚えている。国内でバックパッキングの入門書などが出版される数年前のことである。

雪切りこそ附属しないこれには、深雪ならロングスパッツを装着すれば良く、暖かさにも満足して数シーズンを過ごしたのだけれど、此の頃に背負って行動する機材も増えれば、雪上とは云えそれを支える足への負担が気になり始め、重さから避けていた登山靴を検討せねばならなくなった。本格的な冬山用は既に所有していたものの、それは流石にオーヴァースペックでもあり、トレッキングとマウンテニアリングの汎用タイプだった東ドイツ-マインドル社のマッターホルンを手に入れた。無雪期には暫く前から軽量のザンバラン社製フジヤマを導入しており、これで足元は季節を問わず登山靴を装備する羽目となったのだった。
皮革にSno-Sealを幾度も塗り込み(湯煎で溶かしながらの作業が懐かしい)、ウェルトスティッチも専用の接着剤でシールしたものの、本来にはスリーシーズン用なせいか、僅かながら靴底側からと思える浸水が見られたものだから、底革周囲もシールし、ヴィブラムソールに打たれた鋲の頭もゴム系接着剤で塞いだ。ソレルブーツには比するべくもない防寒性能には、靴ごと装着するオーヴァーゲイターを履いたこともあるが、肝心のキック&ステップで斜面を上れないなど行動に支障を来して一度で懲りてしまった。

上京して、雪の無い地域に育った人々が冬の汽車旅に、矢鱈とセンチメンタルな想いを抱いていると知った。当然と云えばその通りの話しなのだが、冬ともなれば白い風景ばかりで育った人間には、とても新鮮な驚きだった覚えが在る。
ならばと、冬旅を何枚かの組写真(死語?)に仕立てることを目論んだのだけれど、雪が身近だった鉄道屋には雪中を這いずり回るばかりで、そんな感性はとても持ち得ずに諦めてしまった。
写真は、雪の細道を峠へと上る522列車、札幌行き。組写真の構成カットのつもりで撮影したものの、それっきりだった。

さて、弘進ゴムの長靴もソレルのブーツもマインドルの山靴も、全て手元に残っており現役である。特にマッターホルンは旧式の山靴と成り果てたけれども、ソールを幾度も張替え、足首のカーフスキンを取替え、アイレットも幾つかを新調し、アッパーの内側のライニングも張り直すような、新たに購入するに匹敵する費用の修繕もしながら30年余りのシーズンを過ぎた。しっかりと馴染んだ足入れの良さが手放せないのである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

常紋信号場-金華 (石北本線) 1985

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鉄道屋なので道路は門外漢である。それでも徒歩のそれとしては自分の歩いた道のことは気になる。
金華の先で国道242号線から右に分岐して熊の沢川の谷を遡り、標高397メートルの峠で八重の沢川の源流に至って生田原の平和橋近くで再び合流する(ここでは国道の方が合流して来ると云うのが正しい)、つまりは石北本線と共に常紋郡境を越える細道もそのひとつである。常紋信号場から要員の引揚げられ、隧道内の照明点灯がままならなくなって以降には、生田原側との往き来に歩いた諸兄も多かろうと思う。
線路との平面交差は一箇所のみで、その踏切名称-旧北見湧別線踏切から、かつては路線名を「北見湧別線」と呼ばれていたらしいと知れる。けれど、国有鉄道による踏切付名は正規の道路線名を採用するとは限らず、その名称は、ここでの道路史には登場しない。それを勘案しても「北見」と「湧別」と云う広域地名を名乗るには、ある一定の時期に両地域を結んだ主要道だった証と受取れもする。

ムカ原野とイクタラ原野を連絡した最初の「道路」は、1891年秋には完工していたであろう北見道路(中央道路)を構成する区間とされており、これは留辺蘂から北上し現佐呂間町の共立で左折、丸山(558.3M)の斜面を標高510メートルまで上る五号峠(共立峠)を越えて下生田原に至る経路であった。北見道路は1895年3月23日の北海道庁令23号を以て仮定県道中央線に指定、基幹道路とされた。そして、1919年に五号峠の北方に標高を302メートルに下げる旭峠が開かれると、『道路法』(1919年4月10日法律第58号)に基づく1920年4月の「北海道道路令」(1919年11月25日勅令第473号)での地方費道5号旭川根室線への指定と同時に、同峠に経路が変更されていた。それは道路としての輸送力向上を意味する。
かように旧北見道路出自の道路が幹線であり続けた中で、「北見湧別線」なる経路の開通はいつのことなのだろうか。門外漢は調べ得なかったけれど、米軍が1947年に撮影した空中写真にくっきりと確認出来るところから、戦前期ではあろう。最も順当に、留辺蘂-下生田原間湧別軽便線の建設資材輸送路として開削されたものと考えるならば、鉄道開通と同時期に一般の供用を開始したものと思う。名称すら記録されていない、その常紋郡境越えの峠は五号峠に比して標高を100メートル低下させたばかりでなく、標高320メートルの丸山峠越えも不要としたから、この推定が正しいとすれば、1914年頃から旭峠開通までの5年間ほどは中央線に比して輸送の主体を担っていた可能性もあり得る。けれど、それらしきは、北海道に存在した仮定県道は勿論、その後の地方費道・準地方費道にも見当たら無い。

此の道路が記録に現れるのは、連合軍施政下の一時期に存在した「北海道2級道路15号線」としてである。新制北海道庁による1948年9月の「北海道総合開発計画書」に札幌と主要都市・重要港湾を結ぶ1級道路と、隣接支庁間の2級道路の指定があり、15号は紋別郡上湧別村を起点に遠軽町・生田原町を経て常呂郡留辺蘂町に至る路線とされていた。旧北見道路は1級道路6号(旭川市-現根室市厚床間)とあるから、これが件の「北見湧別線」に間違いあるまい。1954年3月30日には道道111号遠軽留辺蘂線に認定されている。
一方、国道39号線(旧北見道路)の留辺蘂-下生田原間の30キロばかりに旭・丸山の二つの峠の維持管理を避けるべく、ずっと時代の下った1963年に、金華から奔無加川沿いに上金華へと、上生田原からは生田原川・支線沢川の谷に伸びていた開拓道路を結んで開削されたのが金華峠(1973年に現道に改良)である。開通と同時に前後の開拓道路部分も含めて、湧別-遠軽-留辺蘂-置戸経由で網走市と帯広市を結ぶ国道242号線の構成区間となり、これが「北見湧別線」こと道道111号遠軽留辺蘂線を旧道に追いやったのだった。
道道111号遠軽留辺蘂線は1965年4月1日付にて29号遠軽上湧別線と結んで511号上湧別留辺蘂線となり、意外なことには1976年8月31日に認定解除されるまで道道であった。

石北線定期貨物運転の末期、盛夏の常紋郡境を下って往くのは1557列車。コンテナ車 7両の350t牽引には、所定の補機運用が省略されていた。
この日も早朝に金華へと降りて、かつての道道を既に無人となった常紋信号場へと歩いた。北海道らしく湿度も低く、快適なトレッキングと覚えている。
さて、旧北見湧別線の踏切名称付名は「旧」の付される以上、金華峠開通以降の比較的近年、しかも道道上湧別留辺蘂線の時代のことであろう。それが設置時に、即ち道路の開削時に何と呼ばれていたかは、終ぞ知り得なかった。それ次第では設置時期も推察可能ゆえ、鉄道省札幌鉄道局による線路略図など所蔵の方が居られれば、ぜひとも御教授を請いたいものだ。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

道路の門外漢には、大島仁氏による労作「道道資料北海道」を参照させていただいた。

常紋信号場-金華 (石北本線) 1983

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北見市留辺蘂町字金華の人口は、2010年国勢調査のデータによれば5世帯10人と在る。この統計調査での金華地区とは、奔無加川とその支流流域すべての約33平方キロであり、奔無加川奥地の上金華集落はとうの昔に消滅し、常紋への細道(それでも、かつての北見湧別間道路である)分岐周辺の数戸も人の住む気配は無いから、これは金華駅前集落の居住者と云うことになろう。
最近には随分と解体・整理の進んだ様子ではあるが、1990年代末頃で既に廃屋ばかりの眼についた駅前集落の荒れた有様を思えば、未だに居住者のあること自体、不思議な気がしてしまう。

金華の集落形成は1914年10月5日の湧別軽便線留辺蕊-下生田原間開業に際しての奔無加停車場設置による。それまでは、金華はもとより奔無加の地名すらないポンムカ(=小さい方のムカ川)の下る原生林の谷だったのである。
当時の鉄道院には、名寄線との接続構想は持たれていたにせよ、留辺蕊湧別間鉄道を将来の道央連絡幹線とする意識は希薄であり、1906年に北海道庁長官に着任した河島醇が仕掛けた道内統一組織であった「北海道鉄道期成会」の住民を巻き込んでの鉄道敷設促進運動に渋々に応じた結果とも云える特殊軌間軽便線を想えば、道庁の意向の強く働いた拓殖拠点としての開設だったろう。1915年から1916年と記録される上金華への愛媛団体35戸の入植も、この停車場の在ってこそである。

肝心の停車場周辺への定住も進んだ様子で、奔無華特別教授場(後の金華小学校)は1918年に開設されている。ただし、このあたりは奔無加川の谷が狭く耕作地の確保が困難だったから、その住民の大半は造材従事者と家族だったと思われる。米軍が1848年に撮影した空中写真に見える川沿いや山林地緩斜面の耕作地は、戦後の「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月5日閣議決定)に基ずく入植者により開かれたものだろう。今は全てが野に還っている。

常紋へと幾度も通った1980年半ばまでなら、駅前には商店も開かれ、東側へと鉄道官舎が建ち並び、その背後に民家の続くそれなりの集落を成していた金華は、道内に幾多と存在した先例と同様に消滅の道を辿りつつある。2010年10月現在に、そこに暮らす5世帯10人の方々の年齢構成を見れば、ご他聞に漏れず高齢者と見受けられる。おそらくは、先の林業関係者の御子孫か開拓入植者ご本人なのではあるまいか。
自動車交通の発達した今なら留辺蕊市街地から然程に離れるでは無いから、ご家族の行き来があれば生活に困るで無し、集落の最後を見届けられる覚悟とも思える。5年を経て、つい先頃の国勢調査の結果は如何なるものだったろうか。
それを見越したように、100年余りの歴史を刻んだ停車場には廃止の報道が為された。

堂々の9両組成で峠を上る32D<オホーツク2号>。
特急列車の貫禄とは、やはり編成長からもたらされるものと思う。
夕刻の様相は冬至も近い時期のこと。バッグや三脚の水滴は早くもしっかりと凍りつき、とっぷりと暮れた道を金華へと急いだものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

西女満別 (石北本線) 1971

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アジア太平洋戦争の敗戦から間もない時代の国有鉄道は、空襲により破壊された施設や車両は勿論のこと、戦時下に疲弊した輸送設備全般の復旧と戦前並みの輸送力への回復に追われ、新駅の設置どころでは無いのが本音であったろう。けれど、戦地からの復員兵や引揚者の収容と、それによる人口増による食料不足への懸念から、彼らの帰農を目的とした、時の幣原喜重郎内閣が1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域では、近隣に鉄道路線の在れば、運輸省鉄道総局には駅設置の請願の多数が寄せられた。
これに対し国有鉄道当局は当初には予算や要員の事情から静観を決め込んでいた様子の伺えるものの、国策の前には抗し難く、日本国有鉄道発足後の1951年3月に新たな駅設置基準を定め、それに合致する請願を渋々に承認するのだが、「要領」に示された開墾予定面積155万町歩の45パーセントに当たる70万町歩(≒7100ha)を占めながらも多くが僻陬地に位置した北海道においては、鉄道以外に考えられぬ交通手段の確保に札幌鉄道局限りの乗降場が前倒しにて設けられていた。
美幌から7K050Mの地点へ設置の旭野仮乗降場もそのひとつであり、当時の女満別村旭野開墾地の利便を図ったものであった。1947年2月11日の開設は日本国有鉄道発足前に当たるが、将来の正駅格上げを前提に乗降施設は土盛の恒久的構造とされ、要員配置の無いながらも総下見板張だった造りから推察するに駅本屋もその際に設置されていたものと思われる。
ここは、1951年3月の国鉄理事会における前記の新駅設置基準の制定を待たずに駅昇格の承認され、1950年1月15日付にて西女満別として開業の公告された。当然に要員の置かれて手・小荷物を扱い、翌1951年には貨物積卸線を設けての貨物扱いも開始し、開墾地の物流拠点に機能したのだった。
その賑わいは、短い乗降施設に小さな待合所が鉄道林の中に深閑と佇む現在からは些か想像し難い。

写真は、西女満別北側での5672列車。新富士から北見への石油輸送列車だった。
防雪林の延々と続く景観に女満別から西女満別方に歩いたのだけれど、めぼしい位置は見つからず、初秋の冷たい雨に気力の萎えそうになりながらの撮影と覚えている。新旭川起点213キロのこの位置は、現在に女満別空港に通ずる道道246号線跨線橋の架けられているあたりと思う。
辿り着いた西女満別は、既に駅務長の詰めるだけの業務委託駅となっていたけれど、待合室には早くもストーブの焚かれて、それは駅本来の姿だった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.

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