"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

[番外編] Website を開設しました

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2011年の11月から"Monochromeの北海道 1966-1996"を、それの内地版の"Monochrome Days 70s/80s"を2012年12月から書き始めて、記事数は双方で500本に迫ろうとしています。古い写真に拙い文言におつき合い下さいまして、ありがとうございます。

予てから計画の、それらのアーカイブ先としてのWebsiteを開設いたしました。
まだ、ほんの一部しか移植作業は済んでおりませんが、記述時の事実誤認やその後に判明した事柄など、必要とあれば加筆・訂正しながら進めています。なにせ数の多いので完了まではだいぶ時間はかかると思います。ご容赦下さい。
移植に際しては、FC2のサーバを通すと写真のコントラストとシャープネスが落ちる傾向に対して、それを過剰としていたデータの修正をカットごとに行っています。言わば写真はリマスター版になっています。

アーカイブは撮影年別ですが、機能上検索と並べ替えが出来ないのでテーマ別のギャラリーを併設しました。
ここには、このブログでは発表していないカットも含みます。
また、このブログでは取り上げていない、撮影の周辺の事柄も書いています。

Update がどの程度の進行になるか分かりませんけれど、それはここでもお知らせするつもりでおります。
御立ち寄り、ブックマークを戴けますと幸いです。

カメラ 万年筆 - As the years go passing by

なお、このブログも 姉妹編内地版の "Monochrome Days 70s/80s" とも、まだまだ続きます。
よろしくご声援下さいませ。

[番外編 12] 国鉄北海道総局 (函館本線・札幌) 1984

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カメラ(敢えて写真とはしない)と旅ジャンルからのかつてない参入者数により、その分野だけが歪に膨らんでいるのが鉄道趣味の現在である。それ自体は従前より在る事象で珍しくはないが、桁違いのその数に、少なくとも古い鉄道屋にはそう見える。
休日に列車で遠出でもすれば、沿線には多くの撮影者の姿が認められ、普段都内と往来する小田急線からもホームでカメラを構える人々を日常に目撃する。撮影適地に参集する数は、70年代初頭のSLブーム末期を上回るであろう。
ディジタルカメラの急激な普及と性能向上にWeb上での個人レヴェルの情報発信の容易化が、それの後押しをしているのは明白で、初心者の慣例に従い駅乗降場や線路際に集う彼らが、鉄道側や地元住民と軋轢を生じさせるのも、個々人の資質もさることながらその数によるところも大きい。早くにそこを離れないと鉄道「写真」分野には参入出来ぬと伝える他ない。

反面、最近に報道される「線路内立入りによる列車の緊急停車」事象の一部には、鉄道側の過剰反応とも思える節が在る。これは、四半世紀を経過した国鉄の民営化と決して無縁ではない。勿論、マスコミの過剰反応もあるが、ここでは触れない。
現場を目撃した訳では無いから断定はしないけれど、中央本線鳥久保踏切での事例も、奥羽本線神宮寺-刈和野間での例にせよ、鉄道用地内には違いないが架線柱建植位置の外側の様子である。どちらも現場を直前に通過した列車の乗務員が運転指令に通報し、指令員が接近しつつあった列車に緊急停車指令を出した結果であろう。(当該列車運転士がそれを目視して停車と報道にはあるが、それでは止まりきれない。指令により徐行で接近した後に対象を目視して停車と思われる)
おそらくは、旅客鉄道各社においては前記のごとき昨今の事情に鑑みて、鉄道用地内立入り等に対する規制の厳格化の内部通達が出されているものと推定される。それを厳密に適用すれば、その位置にかかわらず立入り者を確認すれば即通報と相成り、反すれば民間会社の社内規定により処分もあり得えるのである。民営化に至る過程での労働者選別の記憶は分割会社に深く刻まれ、運転士と云えども民営会社の一従業員意識の浸透したのが、この四半世紀である。
通達は、民間の株式会社とすれば当然の自己防衛であり、しいては株主対策のひとつなのである。万が一、事故の発生すれば防護策を講じなかった鉄道側にも責任を認めて来た、日本での裁判所判例が背景に在る。云うなれば、撮影者の与り知らぬ資本の論理が過剰な反応を引き起こしているのである。
悲しいかな、線路際撮影は大半の乗務員が通達にもかかわらず黙認してくれていることで成り立っている。これは肝に命じねばならない。

とは云え、教条主義的な自主規制を叫ぶ声にも賛同出来ない。前に、地方小駅のホーム上にて撮影していたところ、同業と思しき男にホームは三脚禁止だと執拗に迫られたことがある。利用もほとんどない駅の停車位置からも離れた端部である。要は常識で判断すれば良いのだが、自分の頭で考えぬ輩には通用しないのである。とあるブログで見かけた「危険行為の痕跡」なる告発も、鉄道用地内には違いなかろうが、写真を見る限りでは危険は感じられなかった。
これらは、近年話題となったマイケル・サンデル ハーバード大教授の語る「正義感覚」に通ずる、いわば「直感の正義」であろう。けれど、それは直感であって論理ではない。危険の回避や他者への影響を考慮した自己の規制は当然であるが、それを以て公の規制とする気には到底なれない。
公共企業体である国鉄の用地は、鉄道の開業以来国民が永々と支払い続けて来た運賃収入を原資として取得されたもので、言わば国民の財産なのだった。国鉄自身もそのことは良く理解していて、鉄道営業法を盾にして無下に公衆を排除することはしなかったのである。それが、在る日極めて政治的に民間会社が設立され、当の会社に社有地意識が浸透し、公衆側にもそれの認知が強いられたのも、この四半世紀である。何が何でもそこに立ちたい訳ではない。されど改革の名の下に行われた理不尽な土地収奪劇も忘れるべきではない。自主規制も似合わぬ所以である。
付記すれば、最近では会社側からの要請でもない限り、報道の取材立入りに関しても構内/沿線での作業者同様の安全講習会への事前参加を求める動きがある。公共事業者にもかかわらずのこれは、閉鎖体質の進行とも見て取れ危惧する。有り体にいえば、巷に云う「東京電力化」であろうか。

さて、鉄道用地に踏み込まぬまでも、撮影に臨む以上、立ち位置は大抵の場合私有地である。そして対象の鉄道は広義に社会財である。自主規制を声高とする以前に、それを撮らせてもらっている、撮らせていただいていると云う「謙虚さ」を参入者各人が持てば、それで十分である。

写真は、旧札幌駅舎3階に在った国鉄北海道総局の玄関脇に掲げられていたプレート。
ここへは、それが必要と判断すれば許可を請いに訪れたものである。現業機関では無いから要件の済まぬこともあるが、それでも請願先の現場への手配は整えてもらえた。個人の立場にかかわらずの真摯な対応だった。

[番外編 11] 糠平 (士幌線) 1980

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士幌線末端区間の糠平-十勝三股間は、1978年12月24日を以て鉄道による運行を休止し、翌25日より帯広-十勝三股間に4往復設定の在った列車のこの区間がバスによる代行輸送とされた。路面交通による列車代行は災害や工事関連にて多々例があるが、あくまで一時的な措置であり、それの恒常的な施行は国鉄始まって以来の事例となった。
なお、この代行輸送は旅客に止まらず特別扱新聞紙の荷物輸送も含んでいた。

代行輸送は国鉄の直営ではなく河東郡上士幌町に本社の所在する上士幌タクシー有限会社に委託とされた。通常には、国鉄旅客は「代行輸送」区間を国鉄乗車券を所持したまま乗り、後に国鉄と当該輸送機関側とで精算のなされるのだが、この当時一日平均6人とされた利用実績の精算にて成り立つ訳もなく、実質的に金銭補償をともなう運送委託契約の締結されたはずであるけれど、それがどの規程によるものか解らない。そればかりでなく、同時に要員の引上げられる幌加/十勝三股での乗車券簡易委託発売も同社の受託とされ、それぞれからの「ム券」(簡易委託乗車券)が代行輸送車車内にて発売された。発売箇所表記は,それぞれ(簡)幌加/(簡)十勝三股である。これについても運営に資する程の売上の見込めるでなく(例えば十勝三股から帯広までの780円を11枚売って780円の手数料収入)、乗車券簡易発売基準規程によりながらも前記の運送契約と包括的に処理されていたものだろう。以前に、上士幌タクシー社長のインタビュー記事に接したことがあるのだが、このあたりの言及はなかった。

ところで、この措置の施行決定の遅れたものか、或は上士幌タクシーとの協議に時間を要したものか事由は不明だが、78年12月4日が編集の最終締切であった79年1月号(78年12月20日発売)の鉄道弘済会版の道内時刻表には一切記載が無い。それは、79年1月22日ダイヤ改正(訂補)収録とされた2月号から反映されたが、ここでも糠平にて乗換えを要するとの表記はなされなかった。もっとも、この措置に至る事由となったとおりに同区間の利用客の日平均6人は、三股集落の全人口14人に限られたから問題はなかったのであろう。列車行先票も矢印相互式の「帯広←→十勝三股」がそのまま使われ、これに括弧書きで(糠平-十勝三股間国鉄代行バス)の文字の加わるのは、これが全国紙で新聞報道され旅行客の見られるようになってからである。
代行輸送区間もそれはあくまで列車であり、糠平で待機中のバス運転手に運行便名を尋ねたところ、「これは725Dです」と列車番号が返って来た。

糠平構内から使用停止された出発信号機を越えて幌加方に歩くと、市街地から湖畔へと降りる道路との踏切があった。既に踏切票は外されていて名称はわからなかったが、かつては湖底に沈んだ旧糠平駅と温泉街を結ぶ道だったのだろうか。この土に埋もれつつある踏切からの士幌線は草海に没して辿れなかった。50メートル程先には糠平川橋梁(63M)が架けられている。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f11 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 10] 上興部 (名寄本線) 1973

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上興部に下車した際の同駅名標のスナッブである。
戦前には興部を凌ぐ駅勢を誇り、一の橋との間の峠越えの補機解結駅にて機関車駐泊施設(当初は名寄機関区上興部分庫)を持ち、駅弁当の販売も在ったと言うから主要駅だったのだろう。1935年には、構内分岐の専用線をともなう道直営の石灰石の採取場も開かれ、貨物の発送トン数も大きかったはずである。
この1973年当時も、それは北海道農材工業上興部石灰砿業所の専用線として健在で、本線列車を牽いて来た9600が1キロ程奥の工場まで出入りしていた。これ以外にも到着/発送の貨物も多く、貨物扱い線や側線には貨車の屯していたものであった。

写真には、その留置貨車が写り込んでいる。驚くことに、その所属たるや鹿児島鉄道管理局、常備駅は鹿児島とあって、北辺で見る遥か南の貨物車であった。しかも、家畜車-カ3000形、調べてみるとこの頃に18両まで数を減らしていた同形式の一両なのだった。いったい、どのような家畜を遥々と運んで来たものか、何昼夜を架けた輸送であったのか、付添人はひとりだったのか、はたまたリレーして来たものか、暫し感嘆に耽った覚えがある。
けれど、貨車は全国一律運用であったから、たまたま道内入りしていたこの車両が家畜車の要求により、ここへ配車されたものかも知れない。

日本の近現代史の専攻で後に鉄道史学会を設立された原田勝正氏によれば、日本の車扱貨物輸送における輸送効率は先進国にあっても最高レヴェルで、英国国鉄の10倍、フランス国鉄に対しても4倍の高効率だったと云う。(出典:日本の国鉄 1985 岩波書店)
それは偏に貨車操配技術に優れていた故である。荷主からの輸送申込を受諾した駅からの貨車配車要請に対して、荷の種類/分量/形状に適合した貨車を最短時間で配車する。鉄道の創成期から1984年2月まで、これは国鉄における最重要業務として本社/鉄道管理局/現業機関に専門部署が置かれ、毎日15時からの24時間を単位に全国の貨車の動向が細かく把握されていたのである。主に使われていたのは、全国をネットワークしていた鉄道電話であり、朝の定時通信には、通話時間を定めて各部署間の回線独占が認められていた程と聞く。当然ながら配車指令は専用回線も持っていた。
圧倒的なマンパワーを背景に実務と経験によって実現されていたこれは、過密ダイヤと狭い国土の線路延長から無制限に貨車を保有出来ない日本国鉄の事情が産み出した世界最高の技術であった。
現在、コンテナひとつひとつにタグが付され、それを読み取ることによって同様のことが実現され、それの積まれた貨物列車は衛星通信にて位置が把握されているけれど、その基本的な考え方はこれらをベースにしている。

さて、このカ3104は、この後どうしたのだろう。家畜輸送の需要は僅かとなっていた時代だが、それの消滅したでなく、両数の少ない中で各地の要請に従って全国を回遊したものだろうか。鹿児島へと帰ったのは何年後だったのだろうか。このサイズの写真では判然としないが、車体の全検出場表記は「47-10鹿児島工場」と在って、回帰まで余裕のあるゆえ、それも考えられぬでも無い。貨車の雄大な旅に想いを馳せる。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

[番外編 9] 青函連絡船 1983

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青函連絡船を続ける。[番外編 8] 青函連絡船 1985の続きである。

下船の実際
混雑期ではなくとも着岸30分前程になると、乗(下)船口広間には行列ができ始める。時刻表に記載の到着時刻とは着岸してタラップが架けられ、下船口の開く時刻であるから、その30分前ともなれば、船は減速して、まもなく港の防波堤を交わす位置まで接近しつつある。函館ならば函館山を眼前に見るゆえ、接続列車の座席確保に気が急くのである。
青森なら倉庫群の林立する民間岸壁を、函館なら運転所の前海を回り込むように岸壁前に達した連絡船は、バウスラスターを駆動させて回頭し、後退しつつ補助汽船に推進されて着岸する。この時にはやや衝撃があって、それと知る事が出来た。
桟橋側からハネ上げられていた屋根付きのタラップが降下して接続され、安全柵の設置が確認されると、航海中は締切られていた扉が開かれ、広間の行列は一斉に走り出す。高名な桟橋マラソンである。特急列車に自由席が設置された以降の函館なら、それのゴールは遥か編成の旭川方であった。青森/函館とも一岸への着岸であればまだ良いが、二岸となれば船の全長分、132メートルをまるまる余計に走らされることになる。
この下船開始のタイミングも特別船室側が早かった。階上で階段を降りねばならぬ位置関係による配慮と思われ、これを知る者は普通船室旅客でも特別船室の広間に行列したのだった。

船内食堂
普通船室であった船楼甲板右舷中央部付近に食堂が設けられており、日本食堂が運営していた。
ここでのメニュー等についてはWeb上にも記述が多く、ここでは触れない。
広い船内であるから、その造作や雰囲気は陸上での、例えば青森駅での同社食堂と大差はない。唯一異なるのは、舷側に窓が開口しており、その窓際席からは海面を間近に航行する波飛沫を見ることであった。
この津軽丸(2代)型近代化船で、ここを利用した最も古い記憶は1965年のことで、松前丸の就航間もない頃である。この当時は、列車食堂がそうであったように、町食堂と云うよりレストランが正しく、一種近づき難い雰囲気も存在していたものである。それに店名(愛称名)などは無く、あくまで「◯◯丸船内食堂」であった。
これが70年代に入ると押し寄せる乗客に大衆化が進んでカジュアルな空間となって往き、「グリル◯◯」(◯◯は船名)の名称の付与されたのもこの頃である。食堂側の人手不足もあって、オーダーは食券方式に改められ、それの自動券売機が導入されていた。その食券は、B型乗車券サイズで白地に黒インキでオーダ名が印字されるのみの味気ないもので、価格表示すら無かった。
80年前後となると、乗客の減少とともに利用も低下したものと思われ「サロン海峡」として喫茶関連が分離されたことも手伝ってか、券売機は深夜便での「海峡ラーメン」営業のみとなり、再び退店時のレジでの清算方式に戻された。そのレシートは「グリル◯◯」の名が入り、メニュー名と価格がドット文字で印字の、当時の新幹線食堂車と同様のものであった。「サロン海峡」の高級感に対して大衆食堂らしいイメージが継承していたけれど、この頃メニューの価格だけは高級となっていたのだった。

指定席特急券の一ヶ月と一日前発売
連絡船と直接には関わりのない余談ではあるが、これにも触れておきたい。
国有鉄道より承継し、現在は鉄道情報システムが運営管理する旅客販売総合システム(通称マルスシステム)による指定券類の発売開始日が、一ヶ月前の同日午前10時からであることはご承知の事と思う。連絡船の時代を知る方なら、これには例外が存在し、青函連絡船の深夜便から接続する列車については、さらにその一日前から発売されていたこともご記憶であろう。勿論、深夜便を介した前後の列車を先乗列車の発売日に同時発売を可能とする旅客サーヴィス上に不可欠な事項であると同時に、道内列車が乗り継ぎ割引の対象でもあって発券処理上からも所要の措置なのである。
これ自体は古くから在る扱いで、知る限りでは、台帳管理による発券時代に深夜便を介した<はつかり><おおぞら>特急券の通し発売に適用されていたし、より以前の<みちのく><大雪>の時代でも行われていたはずである。
指定席券類の発売開始が7日前や14日前であった頃には、深夜便接続列車ばかりでなく上野/大阪発や札幌発の夜行列車から接続となる列車(当然連絡船は昼行便)も適用対象であったのだが、後年には、青函旅客の利用減少とともに引き続き需要の在った深夜便からの接続列車に限るよう改められた。
ところで、これはマルスのプログラム上で先乗/後乗列車の同時発券が条件とされていた訳ではなく、後乗列車を単独でも購入出来たのである。例えば、青森からの<はつかり1号>の一定の座席数は、道内列車と無関係に一ヶ月と一日前から発売されていた。
さて、連絡船の廃止とともに時刻表の営業案内から抹消されたこの扱いだけれど、実は今現在も生き続けていて、上り<はまなす>から接続となる新青森発の<はやぶさ4号>と<はやて14号>に、(近隣の横浜線相模原駅みどりの窓口担当氏によれば)「ほんの数席」だけ一ヶ月と一日前発売の座席が用意されているそうである。やはり、マルス上は<はまなす>との同時発券の条件設定はなされていないのだが、窓口でそれを条件とするよう通達/指導が存在するとのことだった。

写真は、暮色に包まれる函館駅構内。テルファーの向こうに連絡船のマストが見える。やはり、この光景が在ってこその函館と思う。
二岸に在るのは、夜目でも白く映えるマストの摩周丸、24便として出航準備中である。
3番ホーム在線の列車は、札幌からの12D<北海2号>。まもなく、4番ホームには6D<おおとり>も到着する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/60sec@f1.4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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