"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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箸別仮乗降場 (留萠本線) 1979

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国有財産を無償で承継した民営鉄道会社とは、随分と勝手なことをするものだ。留萠本線の末端区間の話である。
降雪やら風雪の気候が大幅に変動したでなく、沿線の地形が大改変されたでも無い。増毛港を内陸へと連絡するこの区間は、1世紀に及ばんとする歳月を開業以来の位置に線形を維持して休むことなく客貨を輸送し続けてきた。
春先の融雪期に雪崩の危険箇所が存在すると云うならば、それはその間に継続的に潜在したに違い無い。記録に当たってはいないけれど、時には実際に線路を塞いだことだろう。それでも、可能な限り速やかに復旧され、線区の機能が留め置かれたことなど無い。
ところがである。北海道旅客鉄道は乗客への危険を事由に、いとも簡単に春先の数週間の運行を放棄してしまうのだった。先の事由など建前だけのこととは言うまでもなく、1日に12往復を運行するバス交通への旅客の転移促進が本音である。かくて、輸送密度を39人キロまで落とした(落とせた)この区間は、沿線自治体は勿論、住民からの差したる反対もなく、2016年12月4日を最終運行とする念願が成就する。
全くに恐れ入った「公共企業」だけれど、そんな策を弄さずとも、沿線はとっくにこの線路を見放していよう。

2015年3月改正ダイヤでの、ここでの列車設定は6往復である。
この6往復の運行とは、もともとに輸送需要の小さい線区・区間における列車頻度の国有鉄道以来のスタンダードと云える。1980年代半ばの時刻表を開いてみれば、渚滑線も湧網線も興浜南・北線も羽幌線の中間区間も判で押したように6往復運行であった。これら線区も実態はより需要が縮小していたのであろうが、運行を削減したところで、車両の運用や乗務員の行路が当該線区に特化したものでは無い限りに、線区経営の改善には然程に寄与するものではなく、公共輸送機関との自覚が踏み止ませるのが、営業時間帯の2から3時間に1本運行となる6往復だったのだろう。
北海道旅客鉄道もそれを踏襲したと見えるものの、代替機関の未発達な時代ならいざ知らず、移動の自由が権利と理解されるよう変化した生活意識の下では、とても満足の往く頻度では無い。運営側と利用者では、6往復を巡って意識に乖離を生じざるを得ない。12往復の道路交通が並走しているとなれば選択先は明らかである。

とは云え、そのバス運行も1970年当時には24往復を数えていた。留萠駅前基準で6時台から19時台まで30分毎の運行である。公共交通として十分な頻度の、その後の40年での半減は、この間の増毛町の人口動態と符合する。1万人から5千人に、これも半数を減らしているのである。
対しての鉄道は札幌直通を含む8往復からの削減である。6往復は、やはり踏み止まったとして良さそうで、それは北海道旅客鉄道も受け継いだはずの「国民の国鉄」の微かな残滓に思える。

増毛へは1979年と翌年の二度訪れただけに終わった。ここの他には目ぼしい立ち位置が見つからず、それを撮って仕舞えば再訪するまでも無かったのである。
これは、既出のカットの前コマで、後追いの763D。増毛方に組成はキユニ21、1形式2両のみの希少車だった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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増毛 (留萠本線) 1979

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単線区間における線路容量増加の抜本策は、閉塞区間の分割、即ち停車場(一般的には信号場)の新設となるが、複線区間においては、それまでの双信閉塞方式に替えての自動閉塞方式の導入であった。連続した軌道回路により検知される列車自体により自動的に閉塞および信号現示の行われるこの方式は、駅間軌道回路を幾つかに分割すれば複数の閉塞区間設定を可能としたのである。後には、列車回数の増加した単線区間に対しても、通票閉塞器操作の煩瑣やそれゆえの錯誤の防止による保安度の向上、また閉塞作業に関わる時間の省略による運転時分短縮、通票授受時の通過列車の速度低下回避、ダイヤ混乱時の回復力確保などの事由から導入が進んだ。

自動信号による自動閉塞方式は1904年の甲武鉄道(現中央本線の一部)御茶ノ水-新宿間での施行を最初の事例として、続いては複線化の進んでいた東海道/山陽本線へと整備されて往った。
北海道内における導入は1936年度の小樽-南小樽間を嚆矢としている。以後に施行日の確認出来たのは1940年10月7日付での室蘭-東室蘭間、1942年7月20日の朝里-桑園間に留まるが、1937年に勃発した日中戦争にともなう「陸運転換」政策下においての運炭列車増発に対応して、この当時までの複線使用区間に設備されて往き、同時期に線増の進められた区間については併せて施工の行われて、戦争終結の1945年度までに函館本線の函館-桔梗間、小樽-砂川間、および室蘭本線の本輪西・室蘭-敷生(現竹浦)間が自動閉塞施行区間となっていた。
なお、複線区間ではあるが、石倉-野田追(現野田生)間にはタブレット式通票閉塞が、苫小牧-追分間では双信閉塞が維持された模様である。

戦後、1950年代始めまでに戦前の輸送水準を回復した国鉄は、1957年度を初年度とした第一次五カ年計画、それを打切っての1961年度からの第二次五か年計画を通じて、幹線の近代化と輸送力増強を推進した。主には線増に電気運転化であるが、それの及ばぬ単線線区に対しても冒頭に記した事由から閉塞方式の近代化、即ち信号の自動化が進められた。
北海道線においても、1970年度末までに既施行区間に加えて、函館本線、室蘭本線、千歳線の全線に根室本線の東釧路までの区間、及び宗谷本線の旭川-新旭川間が対象線区・区間となり、順次着工された。道内における自動閉塞施行の計画はこれが全てであり、旅客も然り乍ら貨物輸送の幹線が選ばれたことになる。この時点で長万部-小樽間が含まれたのは、そこに多くの優等旅客列車が運転されていたゆえであろう。旭川-新旭川間は当時に単線ながら宗谷・石北線列車の輻輳に応じた措置であった。

1960年代を通じて進展した計画は、函館本線の長万部-小樽間を中止とした上で1969年度の帯広-厚内間の完成を以て打切られる。残る厚内-東釧路間は落合-釧路間へのCTC制御導入と同時施行と計画の改められたためであった。
自動信号による自動閉塞式を大前提とするCTC制御の導入経過については別項に譲るが、1971年8月に使用開始した同区間の後、道内の自動信号化は10年近くの沈黙を経た1980年代にそれを伴って急速に進み、特に、民営化に際して経営基盤の脆弱とされた北海道地区に対し、国鉄は閑散線区への電子符号照査式閉塞導入の餞別とも云えた投資を実行し自動化はそこにも及んだ。
この1986年11月改正時点で廃止予定の地方交通線を除けば、江差線木古内-江差間、札沼線石狩月形-新十津川間、留萠本線全線、石勝線新夕張-夕張間、深名線全線、函館本線砂川-上砂川間、宗谷本線南稚内-稚内間が非自動閉塞線区・区間として残るのみとなっていた。

写真は、増毛港漁港区域(通称-増毛漁港)を車窓にする735D。
留萠本線の留萠-増毛間は、1921年11月5日の開通時以来には礼受・舎熊を閉塞境界とした票券閉塞式が施行されたと推定するのだが、1978年10月改正での貨物列車廃止にて続行運転の無くなれば、既に礼受・舎熊が棒線化されていたこともあって全区間を一閉塞の通票式に切替えられた。閉塞の扱い駅は留萠のみであり、列車は通票を携行したままに折返す。これは増毛が棒線となった現在まで30年来変わらない。
ご承知の通り、前記の非自動区間の内、江差線、深名線、函館上砂川支線は既に無く、留萌線の深川-留萌間と石勝線新夕張-夕張間、南稚内-稚内間には北海道旅客鉄道により自動信号が導入される現状となっている。
なお、道内における年度別自動閉塞方式導入区間を WebSite にまとめている。興味の在ればご覧頂きたい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

留萠 (羽幌線) 1970

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石炭から石油への所謂エネルギー革命は1950年代に始まる。国際石油資本による中東やアフリカ、南米での巨大油田の開発はこの時代のことである。大型タンカーの就役とも相俟って供給価格が大幅に引き下げられ、それは資本主義の原則に従い世界中に供給されることとなった。日本も例外で無く、政府は1952年に重油の販売統制を解除してこれを受け入れている。それは、この機に高値に安定していた炭価の引き下げを誘導するためでもあった。ところが、1957年3月に第二次中東戦争が終結すると、主には経済復興を要したエジプトの増産により石油は1バレルあたり1ドルとも云われた安値となり、国内では転換の始まっていた工業用動力需要が一気に石油へと向かってしまったのだった。政府も将来の動力源転換を想定し、1955年に『石炭鉱業合理化臨時措置法』(1955年8月10日法律第156号)を成立させていたものの、その瞬く間の産業界の転換の速度には対応は後手に回ったと云うべきであった。国内炭の石油への対抗の不能なことは誰の眼にも明らかとなり、同法に定めた炭礦のスクラップアンドビルド政策を実行しつつも、1960年代を通じて国内生産からの漸次的撤退を図らずを得なかったのである。

苫前郡羽幌町に所在した羽幌炭礦の産出は灰分の少ない炭質で、煤の出ない性状から暖房炭に重宝され、その間も安定した出炭を続けて、道内でおよそ30パーセントのシェアを維持する優良炭礦だったのだが、1969年に保有した羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑ともに切り羽が断層帯に達して減産を余儀なくされ、1970年には債務超過に陥ってしまう。これに対して会社はその需要を背景に、1967年に成立の『石炭鉱業再建整備臨時措置法』(1967年7月5日法律第49号)での再建を可能と見て、同年9月1日に財産保全ため会社更生手続開始の手続きを申立てるのだが、これが従業員の動揺を招き、炭礦労組は10月25日に政府が1969年に策定していた「第四次石炭政策」に基づく「特別閉山」を求めるに至った。それによれば、会社清算に際しての労働者債務は国により完全保証されたからである。この従業員の離反を前に会社はやむなく11月2日を以て閉山としたのだった。会社更生法の適用申請までに債権者からの訴訟の動きは見られず、会社側の先走りが自らの首を絞めた結果の閉山であった。

これにより、深川機関区留萠支区に在って築別から留萠までの運炭列車に重連で専用されていたD61形蒸機は、その全機6両が仕業を失うこととなった。羽幌線の低い橋梁負担力からD51を軽軸重としたこの機関車は同線専用機であり、D51も余剰とされる時代には転用されるでもなく終焉を迎えた。もっとも出炭の減った時点にて本来の4両使用は2両使用となり、612/615/616には早々と第一種休車の措置が取られていた。
写真は、留萠の羽幌下り本線を出発する滝川からの鬼鹿行き(回送で羽幌まで)海水浴臨時9841列車。深川からの牽引にこの日はD611の登板であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

深川 (函館本線) 1973

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深川は深名線や留萠・羽幌方面への乗換駅だったから幾度もホームには立ったものの、集札(改札)をくぐって本屋に出たことは数えるくらいしかない。一度、午前0時過ぎの網走行き急行を待った以外は、全てそこや稚内からの夜行を未明に下車した時ばかりである。それは<利尻>なら午前4時前となり、夜行移動にはなかなか難儀な位置ではあった。

ここの駅本屋は、深川市の引受による利用債にて1959年度に予算化され1960年6月30日に使用を開始した建物で、同年度予算での旭川や倶知安と同様に直線で構成された、いかにも戦後設計の近代的建築に見えた。冬期の暖房も同じくスチーム式が設備され、件のFRP製のベンチを除けば居心地は良さそうだったが、その必要のなかったので駅寝をしたことはない。もっとも、深夜帯に約3時間の着発の空白があったから待合室は閉鎖されていたものと思う。
未明なので駅を踏み出すこともなくて、静まり返った街には印象もほとんど無い。駅前にアーチ型の「歓迎」看板が建てられ、その先の駅前通りは右側だけにアーケードの架けられていたのを不思議に思った覚えが在るだけである。

この留萠線蒸機の末期に留萠へと運転されていた運炭列車は、赤平と芦別発着の1往復ずつが設定されており、積車となる下りは2本とも留萠石炭桟橋での作業に合わせて線内を未明から早朝に通過していた。当然に夏の季節以外の走行撮影は困難で、深川へ未明に下車して、やっとこれを構内照明の下に捉えられた。
そこでの蒸機の出発シーンはドレインの白い蒸気が夜目にも美しく、機会の都度に被写体にしていたものである。天への凄まじい排煙が照明光源を遮ってシルエットと化すのも近代車両には出来ぬ演出である。展示運転に蒸機が復活し夜間の運転の行われることが在っても、肝心の煌煌と灯る構内照明が失われては再現されない光景であろうか。
列車は5781列車。赤平から滝川で継送されたこの列車は、1973年10月改正にて午後の定期列車との差替えにより臨9781列車から格上げされていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8  1/8sec@f4 NONfilter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5on Mac.

深川機関区留萠支区 (留萠本線) 1973

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このD5186は石炭を満載していることに解る通り、用途廃止で放置されているでは無く、朽ち落ちそうな矩形の機関庫も現役の庫である。目前に迫った留萠本線/羽幌線の無煙化に際しては、検修区所としての廃止が予定されていたから、補修を見送られていたものだろう。
ここの機関区は、留萠本線と羽幌線の間に扇状に開いた広大な留萠駅構内の最も港湾側に位置して、船入澗の岸壁までは至近であった。もっとも、それは現在の錦町一帯に掘込まれていた船入澗の埋立に替えて戦後に築造されたもので、古い地図を見れば機関庫周辺には鉄道官舎が建ち並んでいたようである。
ここには、1910年11月23日の深川-留萠間開通と同時に終端駅設備として機関庫が設けられたが、規模の小さいゆえか1912年4月6日付にて旭川機関庫の留萠分庫とされ、1917年6月1日には廃止されてしまう。同日付で深川に設置した旭川機関庫深川分庫に機関車配置が集約されたものであった。給炭や給水設備まで撤去されたでは無く、駐泊所としては機能したことだろう。
ここが、深川機関庫の留萠分庫となり機関車が再配置されるのは1933年12月20日のことで、それは1932年までに開通した留萌鉄道の炭礦線に臨港線の運行管理を国有鉄道が受託したことにより、留萠での機関車常駐を要したためであった。写真の機関車庫はこの際に建てられたものと推定する。
戦後には、基本的に羽幌線/留萠本線を出ることの無かったD61形蒸機の全6両が、ここの配置であったのはご承知のとおりである。この1973年夏にはD613と614が車籍を有していたものの、614は深川区で休車となり辛うじて613のみが稼働していた。

当時も書類上にはD613の配置区であった留萠支区は、小さな機関区ながら庫内2線の矩形庫延長上の駅乗降場寄りに木造の検修台と背の高いの給水塔が、そのさらに先に小型のコールビンが存在し、転車台はその北側に隣接していた。庫とは別棟に修繕職場と事務室が付属したが、修繕職場はこの当時には既に使われていなかったと記憶する。
今、この旧留萠駅構内は、留萌市により船場公園と呼ばれる都市計画公園とされるものの、ただただ広大なグラウンドが存在するのみで公園とは名ばかりである。この機関区位置はそれからも外れて土埃が舞う。

[付記] D5186は、1937年に国鉄浜松工場を同工場製作のD51初号機として出場したものである。その縁でこの翌月に第二種休車に指定されると浜松工場に運ばれて整備の上、工場敷地に保管された。現在は、舘山寺フラワーパーク内に展示されている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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