"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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北檜山 (瀬棚線) 1972

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戦後まもなくに、発足したばかりの日本国有鉄道により非採算線区に区分けされていた瀬棚線の最大のトピックは、1966年10月のダイヤ改正における函館連絡の急行列車設定だろう。
当時に、函館経済圏に含まれた桧山支庁北端の瀬棚線沿線地域は、函館-札幌間設定に限られて函館へ午前の到達の無い優等列車配列から日帰りでの用務が困難な陸の孤島とされていたのである。この空白域を埋める優等列車の設定は、道内各方面に続々と気動車準急の設定の進む中で関係自治体から強く要望されるところであった。青函船舶鉄道管理局も年間凡そ2500万円の増収の見込めるとして1963年度から北海道支社と検討を進め、ようやくに需給増となる気動車1両と運転上丹羽停車場に必要となる行違設備を地元引受の利用債にて賄うことを条件に実現に至ったものだった。
当時の北海道新聞の記事によれば、運転開始当日の10月1日、まだ夜も明けきらぬ早朝と云うのに瀬棚駅での出発式には多くの町民が押し寄せ、乗務員への花束贈呈から紅白のテープカットにくす玉の紙吹雪を発車して往く列車を見守り、途中停車駅の北桧山に今金でも学校のブラスバンドが繰り出した中、両町長によるテープカットの発車式が行われたとある。ここにも多くの町民が集まったことであろう。また、同列車には地元募集の函館観光団体240名が乗車して、彼らは下りの函館においても出発式を挙行したと云う。
沿線にとって函館直通は全通以来の悲願とも云われ、経済中心地へ日帰りの可能となったインパクトは大きく、それは沿線での日用品等の物価までも引き下げたとは爾来50年を経た現在には想像もつかない。その末期とは云え、鉄道が陸上交通の王者だった時代のことである。

瀬棚線は延長50キロ足らずの路線ながら、渡島半島基部の横断に半径300メートルの曲線が続く25パーミル勾配の分水嶺越えから後志利別川流域の水田地帯に海岸線を望む区間まで、一通りの車窓が存在した。蒸機撮影には二つの峠に挟まれた広い谷間を利別川が曲流する箱庭的風光の花石に惹かれながらも、一度だけ日本海岸まで足を伸ばしていた。
そこは、国縫起点45.5キロ付近の半径300メートルで右に旋回してから瀬棚までの3キロに満たない区間に過ぎず、立ち位置はこれしか考えられない国道背後の段丘によじ登って機材をセットしたのだった。
雪混じりの強風下にやって来た1991列車は、緩急車も無く無蓋車1両を牽くのみだった。ここでの貨物の多くは北檜山に発着して瀬棚の扱いは僅かだったのである。
背景は後志利別川の河口。この海岸低地には今は電源開発瀬棚臨海風力発電所の2000kw級風車の6基が立ち並ぶ。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f2.8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

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花石 (瀬棚線) 1973

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以下を、茶屋川 (瀬棚線) 1971 の記事の補遺とする。

1910年に制定の『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)とは、それに準拠して鉄道が建設されると云うのに僅か8条の条文しか持たなかった。その法定の意図は、1906年に鉄道国有法を制定して国家骨格の幹線鉄道を買収した結果、新線建設への資金余力を失った政府に替えて民間資本による必要とされる地域交通線の建設促進を図るものであった。それらが輸送量も少なく、簡易な規格にて済むものと考え、零細資本での参入に配慮して大幅に規制や規格を緩和したゆえの8条なのである。しかも、開業後5年間に限り建設費に対して年間5パーセントの収益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月27日法律第17号)も定められ、さらには従来の私設鉄道法からの転換も認められたので、以後に所謂軽便鉄道ブームが続いた。この時代に開業した私設鉄道は実に多い。
ところが、この法律自体が成立からそれを織込み済みとの推測も成り立つのだが、すぐに政治的に利用されることになる。時の帝国議会は、民間資本を想定していた当法の解釈を拡大し「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」に限り、当法に準拠した簡易規格の国有鉄道線を帝国議会の予算承認のみで建設可能としたのである。これにて時の政権党立憲政友会は勿論、対抗した同志会(後の憲政会に民政党)にしても自らの意になる地盤獲得手段を手に入れ、以降に国有軽便線の多くが政治路線と化すこととなった。現在まで尾を引く地方交通線問題の全てはこれに端を発したとして良い。

前記の記事にも書いたように、軽便鉄道法の下に計画の進められ、第一次世界大戦後の戦後恐慌期の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で建設の協賛を得た瀬棚線は政治路線の典型であった。そればかりか政友会代議士加藤政之助の個人利権路線ですらあった。彼の弟が沿線の大地主だったからである。
部分開業を経ての1932年11月1日の全通は沿線住民には福音に違いなかったが、20年の運営を経て、発足直後の日本国有鉄道が1953年11月に通達した「線区別経営改善計画」にて既に経営の困難な非採算線区とされ、北海道支社は1958年10月1日付でこれを青函船舶鉄道管理局駐在運輸長の管轄から分離、局長直属の瀬棚線管理長による運営として経営改善に乗り出さざるを得なかった。
ちなみに、この時期に道内で管理所や管理長、運輸区方式にて運営の分離されたのは、胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線があった。
国鉄による1959年の資料で、管理長制度による瀬棚線の同年上期の経営成績は前年同期に対し、3駅の要員無配置化(=棒線化)、1駅の業務委託化、夜間当直の廃止等による17人の要員減をともなった機動的運営により、営業係数を226から180に改善し、赤字額は7,622千円を圧縮する31,347千円とある。貨幣価値は現在と異なるが、大きな改善効果を挙げたには違いない。けれど、この線区別経営の制度は主には合理化による経費の圧縮を目的としていたから、それの往き着いてしまえばそれ以上の改善は見込めないものであった。
1966年の待望の函館直通急行の設定は、青函局に年間25,000千円の増収をもたらしたとは云うが、それは瀬棚線内旅客ばかりではなく長万部、黒松内方面を含んでのことであり、経営改善の端緒とはならなかった。

第二渡島利別川橋梁上の列車は1992列車。日中の上りはこれしか撮れなかったのだが、1993列車とは花石で行違うダイヤには場所の移動は叶わない。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

茶屋川 (瀬棚線) 1971

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北海道のルーラル鉄道の多くは政治路線として良い。それらの建設計画を推進させたのは、沿線に広大な土地を所有していた貴族や華族と彼らの意を受けた政治家だったのだが、普通選挙の実現しない当時に政治家自身がそれら階層の出身である例も多々存在し、その場合には政治路線ですらなく、個人利権路線そのものであった。
背景には、軽便鉄道法の成立(1910年4月21日法律第57号)とそれの拡大解釈による鉄道省建設線への適用を議会が容認していたことがある。

瀬棚線の建設は、第一次世界大戦戦後恐慌下の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で決定され、1923年に北海道建設事務所の所管となって着工した。沿線地域の大地主であり埼玉県選出の政友会代議士であった加藤政之助が、弟勘助が入植していたこの地の、豊富な木材と鉱物資源の開発利権を目論み請願運動に成功したものであり、個人利権型路線の典型が見て取れる。鉄道省はその敷設理由を「沿線に擁する豊富な資源を始め中間に抱く利別沃野の開発」(瀬棚線建設概要 : 鉄道省 1932)のためとしていた。
1922年に制定の鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)の別表には、その130項に「 膽(胆)振國八雲ヨリ後志國利別ニ至ル鐵道」が規定されていたのだが、これが顧みられることはなかった。

函館本線の大型蒸機を差し置いても、この線へと通ったのは渡島利別川が曲流した花石盆地の風景に誘われてであったが、勿論茶屋川から稲穂峠への25パーミル勾配区間にも立っていた。
茶屋川駅は既に駅員の無配置化がなされ木造の待合所のみが残されていたが、それは正面からみれば大きな三角ファサードの玄関が全てを占めるようで、おそらくは無人化時に不要となった木造本屋の駅務室部分を取り壊したものと思われた。無用となれば放置される例の多い中で、1961年と云う早い時期ゆえ国鉄にも余裕の在ったのだろう。

写真は、山瀬トンネル(786M)手前での1993列車。雪の線路伝いに随分と歩いた記憶がある。
C11形蒸機は、元はと云えば都市近郊の小運転用に計画された機関車なのだが、地方丙線にも多くが送込まれ、ここと言い、会津線と言い苦手な勾配線に挑んでいたものである。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

花石 (瀬棚線) 1973

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瀬棚線は、C11の牽く貨物列車の走る道南の地味な線区ではあった。
けれど、前回記事(美利河 (瀬棚線) 1970)でも触れたように、後志利別川の貫流している今金町大字花石の風景は、例えようも無く美しかったのである。雪解けに蝦夷山桜が咲いて新緑へと遷り往く季節なぞ桃源郷と表しても良いくらいに。
周囲を渡島半島脊梁の低くなだらかな山容に囲まれ、屈曲する利別川の谷が高低差のある河岸段丘を創り出す立体感の在る地形に、その清流そのものの美しさゆえだろうか。
サクラマスを筆頭にウグイ、アメマスの回遊魚にヤマメの魚影もあって、シーズンには多くの釣り人を見かけた。

瀬棚線は、国縫側から山瀬トンネル(786M)で美利河峠を越えて、ここに至り、花石駅前後で利別川を渡河すること三度(第一から第三後志利別川橋梁)にて小金トンネルを抜け、瀬棚方向へと下っていた。ここは、段丘面が盆地の底面を構成していて、花石の集落も駅も、その広く緩やかな段丘面に在った。
それゆえ、花石を挟んで移動すれば上下とも力行する姿を撮れたのだが、気に入っていたのは137Mと最も延長のあった上り方近傍の第二後志利別川橋梁で、その風景を凝縮した核心部分に思えていた。

けれど、この線に蒸機の健在な頃、写真の技術は未熟で、とてもそれを写し撮れるだけの技量はなかったのである。
73年秋の函館本線の無煙化後も蒸機運転は残ったものの、それも翌年春にはDD16に置替られ、結局のところ満足の往くカットは撮れず仕舞いだった。

写真は、蒸機最期の冬、第二後志利別川橋梁上の1992列車である。
貨物列車は2往復の設定が在ったが、昼間に撮影可能な上りはこの列車に限られていた。
この頃の旅客列車には、キハ22に混じってキハ21の姿もみられたはずなのに、1カットも撮っていない。
蒸機目当ての撮影とはそんなものだったのかも知れない。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/250sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

美利河 (瀬棚線) 1970

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瀬棚線には、茶屋川-美利河-花石と響きの奇麗な駅名が並ぶ。
そして、ここは美利河をサミットとする渡島半島の低い分水嶺越えの区間でもある。
本線の大型蒸機を差し置いての瀬棚線は、この駅名に誘われてのことだ。

実際に、山間の小さな盆地を思わせる美利河と花石の間は美しいところで、蛇行する後志利別川を二度渡る(橋梁名は第一第二の渡島利別川橋梁)花石寄りも気持ちの良い風景だったし、R300やR400曲線の連続する美利河近くの、道南らしい落葉樹の山越えも捨て難かった。
美利河の赤い三角屋根の小さな駅舎も、多分に駅名を意識して建替えたのであろうが、好ましく思えたもの。この当時は簡易委託駅で、駅舎内に乗車券の販売所が設けられていた。
当然貨物扱いなど無い、乗降場も一面のみの棒線駅にもかかわらず、この頃二往復設定されていた貨物列車の内の下り1本が10数分間停車するダイヤだった。この列車、次駅の花石で上り旅客列車との交換になるのだが、列車運行図表を読む限り花石へ直行しても何の支障もないと思われ、今もって謎の停車である。

列車は、1992列車。長万部までの線内貨物である。
当時、長万部機関区には3両のC11の配置があり、瀬棚線のほか函館線の黒松内までの旅客列車の仕業も存在した。
こちらは残念ながら撮っていない。

[Data] NikonF+AutoNikkor50mm/F1.4 1/250cec@f5.6-f8 Y48filter NeopanSSS

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