"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

志撫子仮乗降場 (湧網線) 1977

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常盤仮乗降場 (天北線) 1985 にも書いた通り、北海道における鉄道景観の重要な一部を成すところとなった「仮乗降場」は、1954年に旭川鉄道管理局の第二代局長を任ぜられた斉藤治平を無くして生まれなかったとして過言ではない。「国鉄自動車経営論」の著作の在るとおり、地域交通に通じていた斉藤は赴任直後より多くの開拓地を抱えた管内の巡視から、始まりつつ在った「ディーゼルカー」の配備を背景に、それをバスのごとく頻繁に停車させることを考えたのである。
1954年11月半ばの網走方面巡視には、前年に全通を果たしたばかりの湧網線も通過し、沿線首長からの陳情も受けたことだろう。1955年12月25日と記録される遠軽機関区に新製配置のキハ10000形(後のキハ02形)-9両による同線客貨分離に際して、新たに線内6箇所の乗降場が置かれ、志撫子仮乗降場はそのひとつであった。

設置には既存停車場からの距離も勘案されたであろうが、ここに限ればその中湧別起点15K290Mの地点は、隣接の計呂地まで僅かに1240メートルしか離れていなかった。当時に付近にはサロマ湖での漁業者ら数軒からなる集落が所在したのではあるが、これは志撫子川の谷底を7キロ余り遡るまで散在していた本来の志撫子部落(当時の呼称)への利便を図ってのことであった。計呂地までの1キロを余計に歩かせず、気動車の加減速に優れた特徴を活かした短距離間での停留所設置は、斉藤治平の真骨頂と云えよう。
気動車1両分程度の粗末な板張乗降台の設備ではあったにせよ部落の利便に貢献したに違いなく、住民らの手により仮乗降場には例の無いような、ほぼ乗降台の長さに等しい待合施設が造られていた。住民(もしくは旧住民)の方によると思われる年表-志撫子郷土史には1957年10月18日の建築と記録されている。1964年7月17日の項で、これも乗降場にはあまり例を聞かない便所を設置したとの記述も見える。
ここには1977年の冬に始めて降り、翌冬にも再訪したのだけれど、寒冷にフィルムの折れてしまうアクシデントに、結局はその翌年と3年を続けて通ったのだった。

写真はサロマ湖畔を芭露へと走り去って往く924D、中湧別行き。
米粒ほどの単行気動車はご容赦いただきたい。この湖面に突き出した簡素な桟橋を画角にしようとすれば、どうしても広角の選択になってしまうのである。前述の年表によれば、この漁業施設も志撫子の住民が1972年4月に設置したものと云う。その延長は湖上200メートル程は在ったと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec.@f5.6-8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

二見ヶ丘 (湧網線) 1972

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思い出されるのは、味噌パンである。

当時の製造会社は数多存在しただろうが、鉄道弘済会の売店に供給されていたのは、網走市所在の古川製菓の製品であった。
駅売店で入手出来る上、夏期でも変質し難く、なにより冬に凍らないので携帯食として利用した。
確か、青函連絡船の船内売店にも在庫されていたはずで、乗船すると道内時刻表とともに購入した記憶がある。
携帯には、やや嵩張るのだが、その形状と厚み、冷たくならない性質からカメラバッグの緩衝材の隙き間に収納し、断熱材がわりにしたりした。効果の程は未だわからない。

この時も、その「断熱材」をバッグから取り出し、朝食代わりにかじりながら列車を待った。
その地元、網走郊外の緩やかにうねる畑作地で、網走刑務所の実習地らしく無断立入りを禁ずる旨の立て札を見るが、冬とあっては咎める者も居なかった。

列車は、中湧別までの線内貨物1990列車。
白煙を撮ったカットなのでわかりにくいけれど、ワムフ100が連結されている。当時、専ら本線区に運用されており、荷物車の代用だったのだろうか。
東海道線の宅扱小口急送品急行貨物列車の後部を飾った花形貨車の最期の姿である。

古川製菓は現在も盛業中と聞くが、その味噌パンはキオスクの常備在庫ではなくなってしまったようだ。

[Data] NikonF+AutoNikkor35mm/F3.5 1/250sec@f8 Y56filter Tri-X(ISO400)

計呂地 (湧網線) 1979



かつて、駅には、あたりまえに国鉄職員としての駅員がいた。
駅舎や待合室や乗降場は奇麗に清掃され、出札窓口は整頓され、そして乗車券箱には整然と「切符」が並んでいた。
70年代後半以降の国鉄合理化政策では、まず運転要員としての人員削減が掲げられ、線区単位でのCTCの導入がこれを劇的に推進した。
閑散線区においては、列車の削減とともに閉塞区間の併合化による要員配置駅の削減が進み、80年代末に登場した電子閉塞装置にあっては、無人の列車交換駅を出現させた。
余談だが、北海道でいえば函館本線の山線区間のごとくに、営業面からの要求が先行したケースもあり、この場合は配置人員は運転要員であり、出札窓口は閉鎖され、乗客側から見れば「無人駅」同然と言う、誠に不自然な駅も短期間だが存在した。

駅員がいれば、冬には待合室にストーブが用意された。
ローカル線の撮影では、長過ぎる列車間隔を、ひっそりした待合室でやかんの吹き出す湯気の音を聞きながら過ごすのが、とても好きだった。
計呂地は、幸運なことに1987年の湧網線廃止まで有人駅であった。

サロマ湖、能取湖、網走湖といった海跡湖を縫うように敷設されていた湧網線だが、湖岸を走る区間は限られ、サロマ湖とは、芭露から計呂地の区間のみであった。
写真は、この区間にあった志撫子仮乗降場付近。湖に突き出して設置されていた漁業施設から撮っている。
列車は、925D網走行き。この時代で、既に単行運転である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28/F2.8 1/125sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Compiled by Photoshop CS3 on Mac




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