"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

白樺 (深名線) 1981

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深名線の名寄-朱鞠内間は、白樺 (深名線) 1981 に記した通り、1928年に設立の雨龍電力株式会社による雨竜川の電源開発計画に始まる。この電力会社は内地資本たる王子財閥の事業子会社であり、王子製紙苫小牧工場への電力供給に加えての売電の営利事業は、軍部が膨張主義に独走を始めた時代に電力増強は国策そのものと捉えられ、1932年5月に成立の挙国一致内閣は、『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号-通称の新鉄道敷設法)に法定されながら放置されていた名寄-雨龍-羽幌間鉄道(同法別表143号)の建設を鉄道省に命じたのである。建設は電源開発計画の進行に組み入れられ、実質はほぼ雨龍電力株式会社の専用鉄道だったと見て良い。

朱鞠内-名寄間の全通は1941年10月10日と記録されるのだけれど、これはあくまで一般運輸営業の開始であり、1935年8月に着工の朱鞠内から宇津内の区間(西第一工区)は、宇津内から第二堰堤工事位置までの専用線と一体に1937年8月には竣功し、おそらくは朱鞠内場内から第一堰堤位置までの専用線も同時期には通じたと思われ、1937年11月に工事実施認可を得て12月より工事用通路などの準備工事に着手していた雨龍電力株式会社は、1938年の春から夏にこれを終え、直ちに堰堤排水路ならびに遮水壁基礎掘削や、連絡水路隧道、各竪坑横抗水槽、余水路ほかの排水路工事など基礎的工事に着工しているから、早速に建設資材運搬列車の運行されたのに違いない。
2400haあまりに及んだ湛水予定域の原生林の王子製紙による伐採も、積雪期を通じて行われ、1936年の融雪期を待って着工とされた宇津内から白樺の区間(西第二工区)も1938年4月に竣功すれば、すぐにも原木輸送に供されたはずである。

堰堤から発電設備に至る全ての工事竣功による湛水と発電開始の1943年度を勘案すれば、1941年の深名線全通開業とは電源開発関連の資材や伐採原木輸送の大方を完了してのことになる。つまりは国費で私企業に提供した線路を沿線開発目的に転用した訳である。
実際に白樺駅付近には鉄道官舎のほかにも居住区画の造成整備が行われ、造材関係者や開拓入植者が移り住み、ここに限らず沿線への開拓民には初期移民の子弟が多かったと云われている。1930年代ともなれば彼らの次男や三男が新たな土地を求めたのであろう。泥川流域の緩やかな傾斜地が開拓適地と見られ殖民区画も引かれていたのだけれど、その冷涼な気候には収穫の阻まれ、まもなくに全戸が離農と伝わる。
白樺集落の最多人口の12戸100人は、皮肉なことに全道に大きな被害をもたらした1954年の台風15号(洞爺丸台風として知られる)による雨龍山地の風倒木処理に賑わった1955年から翌年に掛けてのことであった。

ルーラル鉄道にあまり興味を持たぬながら、蒸機の去った後にも深名線の朱鞠内湖北岸区間には幾度か通っていた。二度の夏場を除けば全て積雪期ばかりを選んだのは、厚く氷結し深雪の雪原と化す湖面上にポジションを採れるゆえである。
1977年度より白樺は冬期間に営業の休止されており、北母子里に降りて、通路はそれしかない線路を積雪に足を取られながらも延々と歩いたものだった。
北母子里から6キロばかりを歩いた泥川橋梁近くの盛土区間。列車は944D、朱鞠内行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

白樺 (深名線) 1981

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1995年9月3日まで深川-名寄間で存在した深名線は、本来にこの両停車場を起終点に計画されたものでは無い。『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号-通称の新鉄道敷設法)での法定線は名寄-雨龍-羽幌間鉄道(同法別表143号)であり、これに幌加内村(当時)の有力者が政治力で実現させた深川より雨龍原野奥地、雨龍川流域への請願線へ雨龍(朱鞠内)で接続とした結果の線形に過ぎない。もっとも、建設線名を雨龍線としたこの請願線が幌加内線の名称で朱鞠内に達した1932年に、名寄-羽幌間法定線は予定線に留め置かれて調査線ですらなかった。鐵道省には、朱鞠内で区分される南部区間と北部区間とは計画はもとより建設動機、目的の異なる個別の案件だったのである。これを合わせて単一の線路名称を付与したのは両区間の大部分が通過した幌加内村への配慮とも思える。

北部、法定線区間の建設は1928年の雨龍電力株式会社設立に始まる雨龍川の電源開発計画による。沿線に入植の進展しつつあった南部幌加内線区間と異なり、予定区間はほぼ全線が人跡未踏の原生林地帯であったから、この計画のなければ建設のインセンティブに乏しい区間であった。
鐵道省は1932年に比較線として朱鞠内-美深間(37.3キロを想定)の踏査を行った上で、これを法定どおりに名寄起点を妥当として1933年度に朱鞠内までの区間を調査線とし、1934年4月1日付にて北海道建設事務所の所管線に編入、建設線名を名雨線として線路選定に着手した。
工事は、全線43キロを名寄-初茶志内-熊牛内-奥大学-白樺-宇津内-朱鞠内の6区間に分け、奥大学を境に名寄側からを東第一から東第三工区、朱鞠内側からを西第一から西第三工区として、1935年8月に朱鞠内口の西第一工区に、同年10月に東第一工区へ着工、他の工区も1936年の融雪を待って着工されている。
この作業拠点や飯場の置かれた工区区分箇所で、初茶志内に白樺と宇津内は開業に際しての停車場設置地点であろう。線路は名雨隧道出口近くで熊牛内川と交差していたから、この付近が熊牛内と推定されるも、奥大学の位置が良く分からない。おそらくは北海道帝国大学雨龍演習林の所在に由来した命名と思われるが、当時にも存在したはずの茂尻(後に母子里)の地名を用いなかったのは、母子里原野より西の原生林地帯に設けられたものだろうか。既に入植の始まっていた茂尻への飯場開設を避けたのは十分に考えられることではある。

前の年の訪問で白樺から道道638号名寄遠別線(当時に未成)とは名ばかりの林道へ至る通路を確認していたので、北母子里から延々と歩くこと無く、この朱鞠内湖の奥まった北岸を望む高台に到達していた。この夏の一日も誰一人出会わずに過ぎたのは云うまでもない。知識のあまり持たなかったせいなのか、ヒグマへの遭遇を心配した覚えも無い。
朱鞠内湖の湖畔を抜けるキハ22の単行は944D、朱鞠内行き。
それの去ってしまえば、チシマザサを揺らす風音しか聞こえない。

付記) 上記では飯場と記述したが、実態はタコ部屋労働である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北母子里 (深名線) 1973

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雨竜郡幌加内町字母子里の地名は、先住民族アイヌ言葉の mosir に由来するのだろうか。とすれば、彼らにとって特別の土地だったことになる。けれども1869年に蝦夷地が日本の植民地としての北海道と改められれば、ここも彼らに何の断りも無くその領土(国有地)に収奪されたのである。
この雨龍川上流部の奥地に位置した原生林の約3万haは、1901年にその運営資金の自己調達に内務省(北海道庁)より札幌農学校の財産林に移管、以降に同学第一基本林として運営され、1918年には農学校から農科大学を改めた北海道帝国大学の雨龍演習林とされて、現在の母子里には看守所と、学生の実習施設としての製材工場に教官及び学生の寄宿所が設けられた。この製材工場は官行伐採の山元製材により学生の実習に供し、あわせて道庁用材の自給を図るものであった。(ここは下記の開拓農家入植後には演習に支障のない限り、その自家用材の製材に応じて集落の建設にも寄与し、1976年まで稼働した)

ここへの開拓農家の入植は、帝大が公募した演習林内への1928年から1933年にかけての24戸が最初とされている。1922年の『鉄道敷設法』に予定線とされた名寄-羽幌間鉄道の内、名寄-雨龍(朱鞠内)間の計画が雨龍川電源開発計画と共に1928年頃より動き出しており、奥地への入植もその開通を見越してのことであったろう。
多くが同じ道内の美深村からの応募と云うのは、おそらくそこへの初期入植者の子弟世代が土地を求めたものと思われ、当時に、赤平の茂尻や士別の茂志利に対して「茂知」が当てられていた開拓地名も、1928年8月5日の若い入植者夫婦への第一子誕生を機会に、現在までの「母子里」に改められている(*1)。また、早くも1931年には尋常小学校の開校されたことでもそれは知れる。これに続いたとされる中頓別村からの13戸に常盤村からの5戸についても若い世代だったろう。

建設線名の名雨線を改めた深名線が1941年10月10日に全通し、ここに北母子里停車場の開かれれば入植者も増え、戦後の1950年に87戸618人の人口を擁するまで成長する。これには復員軍人や引揚げ者の入植も含まれたであろうが、この頃に開拓農家は駅周辺の市街地ばかりでなく、周囲に広く散在して小さな丘陵を隔てたモシリウェンナイ川流域にも集落が作られていた。1940年代には、戦時下の隣保組織だった隣組制度にて駅周辺を「市街班」した他は「一組」から「五組」にまで分けられ、それぞれが15軒前後の規模と伝えられる。
農家の生産物は寒冷気候に耐え得る馬鈴薯が中心で、隣組に1軒は澱粉加工場が在ったと云う。

母子里の人口は上記の618人をピークに以降減少に転じ、1960年代の高度成長期を通じて流失が続いた。それでも、ここに初めて降り立った1970年代初頭、駅前には石造りの農業倉庫に澱粉工場が並び、その先には数戸の農家に商店も存在して、駅も短い有効長にコンパクトな造りながら、島式乗降場を挟む上下本線に貨物側線と積卸場を備え、同時期の私設鉄道とは比べ物にならぬ鉄道省建設の停車場であった。
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(*1) 命名者は北大演習林関係者と伝わる。1930年に幌加内村議会の承認を受けて正式の字名となった。

その頃でもここを走る列車は既に単行運転だったけれど「汽車時間」ともなれば駅には多くの旅客が集まっていた。冬至を過ぎたばかりの早い暮色にやって来たのは947Dの名寄行き。
2013年現在の母子里の人口は36人と聞く。著しい過疎である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4  following data is unknown

白樺 (深名線) 1981

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線路伝いにしか到達出来ない地点と云うのは幾らでもあって、ずいぶんと線路歩きをした。
鉄道写真屋ばかりでなく、1970年代あたりまでなら架橋など道路の未整備にて集落間を結ぶのは鉄道だけと云った地域も多く、住民たちもまた歩いていた。そこはあくまで線路だから歩き難いことにはこの上無く、特に枕木の間隔に歩幅を合わせざるを得ないことには閉口したものだった。なので、これにはそれの大きい丙線、中でも簡易線が向いていた。けれど、炎天下のむせ返るような枕木防腐剤の匂いも懐かしく、陽炎の道は至福の空間としても記憶に鮮やかである。
これも積雪期の様相は一変し、枕木間隔に囚われないそこは通常の雪道と変わらなくなる。度重なる除雪車運行で圧縮されれば、靴の沈み込むことのない快適な歩行路にさえ変貌したものだった。
冬季の深名線は、母子里から蕗ノ台付近に通じていた道道688号名寄遠別線とは名ばかりの砂利道が閉ざされてしまうから線路を辿るほかなかった。

良く知られるように、深名線は沿革の異なる線区を朱鞠内で接続したものである。深川からの南部区間は沿線有力者が政治力により実現させた請願線で、第一次世界大戦の影響はあったものの1911年の初請願から20年余りで朱鞠内に達した。一方の北部区間は鉄道敷設法の別表第143号に「天鹽國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」と規定されながら、その時点でも南部区間とは無関係に放置されていたのである。この内「天鹽國名寄ヨリ石狩國雨龍」区間の着工は、1928年設立の雨竜電力株式会社による雨竜川の電源開発計画に伴うもので、工事資材運搬ばかりでなく広大なダム堪水域および周辺からの木材搬出線と目されたゆえであり、それの無ければ戦後に名羽線として着工の「石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌」区間に連鎖して未成に終わった可能性も高い。
中間に設けられた宇津内、蕗ノ台、白樺の各駅は木材積出拠点であり、宇津内には第二堰堤工事の資材搬入施設も設けられた。工事の完了し、駅の在るゆえの開拓入植も失敗に終われば存在意義を失うのは当然の帰結ではある。

この日は冬期休止中の白樺駅を越えて歩き、泥川手前の切通しの斜面を登るつもりだったのだが、雪が深くてこれを断念し、いつものように湖水側に出た。泥川の運んだ土砂の堆積した位置に渇水のまま降雪のあっただろうから、足元は氷ではないと思われた。
列車は945D、名寄行き。

=参考資料=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
雨龍川水力発電工事概要(1938年7月17日土木学会第二回年次学術講演資料) : 松野辰治
新幌加内町史 : 幌加内町 2008年

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

朱鞠内 (深名線) 1973

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222である。2222も、22222も居たけれど、やはり桁の少ない方が鉄道車両なら初期車ゆえ有り難味の在りそうだ。
このキハ22の最初のロットの1両は、1958年10月30日に帝国車輛にて落成し旭川機関区に新製配置された。1962年度には名寄機関区へ転じて、宗谷本線やこの深名線に運用されていたのである。

キハ22は、本来はキハ21の後継車としてルーラル線区での運用を想定した形式であったにかかわらず、キハ55/26系列に酷寒地向け形式の用意されなかったから、その投入当初には寒地対応で客扉を車端に寄せ出入台を設けた構造を逆手に、積極的に準急列車に投入されたのだった。当時の道内主要線区における優等列車の無煙化と到達時分の短縮要求は、それだけ強かったのである。その頃には、デッキ構造を持たないキハ21が使われた程であるから、客車並みのキハ22なら上出来とも云えたけれど、キハ55/26が準急用の内地に比べれば格落ちには違いなかった。
それでも、1959年9月22日改正における函館線<かむい>や室蘭/千歳線<ちとせ>の設定は、キハ22の配備を前提にしており、現在の道央都市間連絡特急の原点であったことは記憶されて然るべきである。道内のみの翌1960年7月1日改正では、札幌-網走/稚内間に設定の<オホーツク/宗谷>にも、これの5両編成が充てられ、気動車による長距離都市間輸送もこれに始まることも忘れてはなるまい。
ただ、同改正では水戸機関区から苗穂に転入したキハ55/26系列による<すずらん>が、特急のなかった道内でそれに匹敵する全車座席指定の急行列車として函館-札幌間に運転を開始しており、優等列車らしい大きな窓に整った姿を札幌駅で眺めれば、その格差は一目瞭然で、それが冬期にキハ22編成に置替られると子供心にも無理を感じたものではあった。
これら優等列車運用も、1960年度末から配備の開始されたキハ56/27系列に取って替わられて往くのだが、その絶対数不足と運用区所の関連で永くそれに残存して、やがては「遜色急行」の名を頂くのはご承知のとおりである。

その在籍期間に存在した線区/区間で、キハ22の運転のなかったのは石勝線の楓-上落合信号場間だけであったから(これも記憶に値する)、沿線に立てばその運用列車は必ずやって来た。しかしながら、それを積極的に撮ったのは、組成の長い急行運用のあった釧網本線の標茶以南区間くらいだろうか。幹線筋の短編成の普通列車なら本番前の画角確認の程度であり、シャッタを切らずにやり過ごしたことも多い。加えて、蒸機がいなくなってそれしか運用の無くなった線区には、あまり出向かなくなっていたゆえ、これの写ったカットは思いのほか少ないのである。
けれど、撮影地点への移動には必然で、排気管のあるところの座席か縦型機関にて床に点検蓋のある近くを選んで乗り、アイドリングではカランコロンとあくまで軽く、勾配にかかれば重た過ぎる程のDMH17系列の機関音を楽しんだものだった。
防腐剤の染み込んだ木製の床材、初期車に残っていた白熱灯照明に、点検蓋から漏れ来る油臭さと車内に撒かれた消毒液の入り交じった匂いがキハ22の記憶である。

このキハ22 2は、永く名寄機関区に在籍した後に1985年3月改正にて運用を離脱、同時に旭川機関区に転ずるも休車の続いて、1986年3月末日付にて用途廃止が公示された。

写真は、深川からの921Dで朱鞠内に終着したキハ22 2。9時30分発の926Dで折返して往く。
眩しい程の雪晴れの朝であった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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