"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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平糸 (標津線) 1976

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現在の別海町域での拓殖事業は1869年の根室開拓使西別出張所の開設に始まるが、この遥か奥地の火山灰台地である根釧原野への入植が本格化したのは、1910年に北海道庁(現在の組織とは全く異なる)が拓殖15カ年計画、所謂第一次拓殖計画を策定し実行して以降と云う。
時代のかなり下がるのは、未開地の調査や入植区画選定、道路開削などのインフラ整備が遅れたものなのだろうか。同計画に追加された植民軌道も1925年の厚床-中標津間への試験的敷設後の多くは1930年代の設置である。
以来、多くの入植者と、また冷涼な気候と痩せた土壌に多くの離農者を出しながら開墾は進められ、次には酪農を核と定めての開発に切替えられたものの、戦後に進められたパイロットファーム事業の恩恵に外れた零細農家も数多く、本多勝一氏の著書『北海道探検記』には1960年代に至っても電気の通じない粗末な木造家屋に住む開拓農家がルポルタージュされている。これを出版された79年に読み、札幌で白黒のテレビ番組に興じていた子供の頃に同じ北海道の東端でそのような生活の在ったことに衝撃を受けたものだった。
淘汰された農家の開拓地は、やがて放牧地へと転換されて行った。

1970年代の末に乗った標津線の車窓は、ミズナラやシラカンバの林を散在させて、どこまでも放牧地や牧草地が続いた。開拓され尽くした土地を見ていたことになる。原野の面影は台地に浅い谷を刻む水流の周辺のササやハルニレ群落に残されるだけだった。
けれど、それは原初景観を見るようにどこか茫漠としていて、停車する駅名を読んでいないと自分がどこを走っているのかわからなくなるのだった。今思えば、酪農地として在るなだらかな畦りの開墾と変転の歳月が霞の彼方から立ち現れるように車窓を過ぎるのをぼんやりと眺めていたことになる。
列車設定が5往復しか無いここへ幾度か通ったのは、そんな漠然とした風景に誘われてである。一日に一往復などの蒸機列車の記憶も新しい頃ゆえ、撮影効率も気にならなかったのだろう。牧草地が緑であるよりも、それの雪原を好んだ。

この日は、平糸の粗末な木造乗降台に降りて線路際を歩き、ミズナラの林を過ぎた所で牧草地に上った。撮影方向と位置を把握してからでないと、自分の足跡を撮ることになる。
列車は355D、中標津行き。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/f2.8 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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計根別 (標津線) 1975

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アバレル大手のひとつに、株式会社キングがある。
戦後間もない1948年9月にキング染工芸社として京都市にて創業、1968年に自社ブランドPINORE(ビノーレ)を以て女性向けアパレルの製造販売事業に進出している。1978年の現社名への変更と染工業の流れを汲むテキスタイル事業分野の分社化を経て、現在では8銘柄のハウスブランドとふたつのライセンスブランド、それに三つのアクセサリーブランドを保持するに至ったアパレル事業分野にて、2012年3月期決算(グループ各社連結決算)で136億円あまりの売上を計上している。大手に違いない。

そのアパレル販売は、保有する幾つかのブランドを組み合わせた五つのチャンネル=店舗にて行われ、中核は、アパレルのPINORE・C'EST CHIC'A(セシカ)にアクセサリィのLUPYを扱うAVENUEを名乗る店舗である。全国で300店程と思われ、その面的な展開は同業他社の追随を許さぬものがある。もちろん全てが直営店舗ではなく、大半はフランチャイズ店、大手流通資本や地元資本と提携したテナント出店なりショッブインショッブの形態と推定されるのだが、それは大都市圏やその周辺のみならず、かなりの中小都市にまで及んでいるのである。
人口23000人余りの北海道標津郡中標津町にも、この店舗がある。

その出店先は地元資本である株式会社東武の運営する大型ショッピングモール東武サウスヒルズで、それは中標津市街地南側に隣接して立地している。このショッピングモールは、例えば首都圏近郊のそれと比較しても引けを取らない。1973年から市街地で営業していたショッピングセンターを、2005年に郊外へ移転開業したものと言う。服飾販売ではテナントの出店もあるのだが、ここでは東武直営の服飾売り場にAVENUEが存在する。ショッブインショッブ形態なのだろう。

Web上で1970年代の空中写真を検索し、現在の衛星写真と比較すれば明らかだが、その市街地は拡大している。旧市街地の周辺に新興住宅地と商業地が定着しているのである。特に国道272号線バイパス(中標津バイパス)の開通以降に、その沿線地区の開発が進んだ。東武サウスヒルズもその一角への進出である。
前にも書いたけれど(稚内 (宗谷本線) 1985)、それは周辺地域の広域における劇的な人口流失と表裏を成している。
既存市街地で、情報の速達化にともなう生活意識と様式の全国的平準化を背景とした都市化が進行し、一方で過疎を通り越した無人地帯が出現する。ここ中標津に限ったことでは無いこの現象は、それは都市が割拠する様相であり、もはやそこをルーラルエリアとは呼べるものではないだろう。ルーラルエリアを線で結んでいた鉄道の衰退するのは道理なのである。

なにより、中標津町は勿論のこと、隣接する別海町や標茶町/弟子屈町のみならず同種商業施設のない根室方面をも商圏とする東武サウスヒルズは、縦横に整備された国道/道道と自家用車の保有を前提に成立している。AVENUEで販売されるブランドを欲しているのは、そのような「都市生活者」なのである。

計根別から開栄仮乗降場に向かって、ほぼ直線の線路伝いに歩いて往くと原野の中から忽然と放牧地が現れる。夏ならば緑の空間なのだろうが、冬と在っては原野よりもそこが「空間」であるだけに寂しい光景だ。
列車は、327D中標津行き。
中標津町計根別の市街地は、この当時より明らかに縮小している。

[Data] NikonF2+Auto-Nikkor50mm/F1.4 1/30sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.



平糸-別海 (標津線) 1977

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根釧台地上に敷設された標津線は、落葉樹林の原野とそれを切り開いた酪農地帯とが交錯して、似たような車窓がどこまでも続く。
厚床線と通称された中標津から厚床に向かう路線に、その感が強い。
それは、沿線の何処に立っても同じような写真の撮れることであり、事実そうなのだった。
しかし、この沿線を特徴づけるサイロのある風景を放牧地越しに、引きの在る画角で捉えようとすれば、それは在る程度限定された。

列車からのロケハンで「あたり」をつけて五万図にプロットし、最寄り駅にて下車、その地点を目指すのだが、放牧地への農道が地図に全て記載されるでなく、当てずっぽうに入り込んでは歩き回るしか無かった。
ここは、「あたり」の場所に辿り着けぬうちに、偶然達したポイントである。
夕闇の迫る光景は、それを待った訳ではなく、日中の列車をその間に逃してしまったからに他ならない。

この翌年の再訪で、この場所への再到達を目指したけれど叶わなかった。その農道もまた、何処も似たような風景なのだった。

列車は、355D中標津行き。
キハ22の2両編成は、この当時でもここでの最長組成である。

[Data] NikonF2A+AINikkor50mm/F1.4 1/60sec@f1.4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

春別 (標津線) 1978



標津線は茫洋としたイメージがある。捉えどころがないのだ。
何処で撮っても同じようなカットになるだろう。

これで旅しても、車窓には牧場と落葉松林と落葉樹、さらに牧場と落葉松林と続いて行く。
時間を喪失する線路だ。

根釧原野に敷設された標津線は、台地に浅い谷を刻む小さな流れを幾度も渡る。その都度谷へと下り、直線的な平面線形ながら、はげしく上り下りの勾配を繰り返す。
しかも、簡易線規格ゆえの20から25パーミル勾配が随所に存在した。
その線路縦断面図は宛らノコギリの様相を呈し、北海道ならではの特異な線形の路線であった。

写真は、春別川を渡り20パーミルを上って台地上に出た、354D厚床行き。
この当時、貨物列車はスジこそ引かれていたものの、既に牽くべき財源が無く運休が常となっていた。

快晴で雪原が眩しい午後だった。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f11 Kodak No,12filter Tri-X(ISO320) edit by CaptuerOne5 on Mac.

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