"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1980

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1958年6月19日に国鉄総裁あて提出された「動力近代化委員会」(1958年2月17日付総裁達第64号を以て国鉄本社に設置)の報告書には、ディーゼル機関車の将来の運転分野として、非電化線区・区間での貨物列車、電化区間より直通する客車列車、および入換用途と記されていた。そして、これを受けた工作局部内での検討により、動輪周出力1200PS程度の大型機、同800PSの中型機、同じく550PS程の小型機を開発し、動力伝達方式は液体式とすること、軸重は丙線規格への入線から14トン以下が望ましく、大型機には蒸気発生装置の搭載も考慮することなどの、おおまかな方針が立てられたのだった。
本線用大型機の目標とされた動輪周出力の1200PSとは、このクラスが将来的にも現用のD51形式蒸機を代替する出力で十分と考えられ、DD13の経験からは内燃機関の低速性能が蒸機よりも優良なことも勘案の上で導かれたのだが、それに従い開発され、形式をDD51と付された機関車は1000馬力機関の2基搭載にて同1400PSを実現していた。それは、低速域でのD51は勿論のこと、40km/h以上の中高速域で旅客機C61をも上回るものだった。
投入を急ぐべきとされた東北・信越・鹿児島・長崎線の各地方幹線には誠に相応しい性能だったのだけれど、1961年度末に出場した試作1号機は、2基の液体変速機の不協調と14tの軸重から勾配引き出し性能が計画値を大幅に下回る事態となった。貨物機とすれば致命的であり、量産計画を遅らせての設計変更がなされ、ノッチの多段化などの改良が盛り込まれたほか、2次試作機とされた2号機は軸重15t、3次試作の3・4号機には中間台車による14tと15tの軸重可変方式が取り入れられた。その改良機は1963年4月に東北線盛岡付近において、10‰勾配からの1260トン引き出しに成功、その際の粘着性能も交流電機に匹敵する摩擦係数40を記録して量産への目処を達成したのだった。(他にも軸重14tにおいても過大となったK荷重からの低規格線での速度制限問題などを生じたが、ここでは割愛する)
開発時には旅客機・貨物機を兼ねるDD51を母体に、重貨物用をDD52、除雪と貨物牽引兼用をDD53とする計画があり、後者は実現したものの、想定外の設計変更にてDD51で十分に貨物仕業への投入可能となれば、それは蒸機発生装置に替り死重を積んだ番台区分とされて前者は空番となったのである。

ここまでは内燃の識者ならとっくにご承知のことだろう。けれど、その貨物専用機が1962年当時、5動軸即ちDE50として計画されていた事実は余り知られてはいないと思われる。1969年に至って試作機の出場した軸配置をA・A・A-Bとした機関車のことでは無い。DD51のヴァリエイションとしてB-A-Bにて計画されていたのである。まずは、狩勝峠区間の長大トンネルを伴う新線への移行にて全面無煙化が必須だった根室本線が投入の想定線区であった。
12パーミル連続勾配の縦断線形で設計の狩勝新線において、将来的に計画の根室線貨物列車の1000トン牽引には4動軸機では粘着力が不足と考えられ、DD51の前後台車中間に動軸を追加し、変速機からプロペラ軸で駆動させる方式が検討されたものである。これが立ち消えとなったのは、軸重を15tとした2次試作機が前述のとおり、勾配引き出し試験に成功したことに加え、機関出力2000PSを以てしても、12パーミル勾配での1000トン牽引における均衡速度は25km/hの低速となり、何れにせよ重連仕業を避けれない事情からも、重貨物機の製作は得策で無いと判断された故であった。

清涼な風力の遍く渡り往く盛夏の狩勝新線を上るのは422列車の滝川行き。マ級を含むとは云え、客車の6両はDD51には楽な仕業だったろう。
1976年当時、根室線貨物はDD51による定数100でスジは引かれていたのだけれど、富良野-帯広間に1000トン貨物の運転はなかったと記憶する。下りの特急貨物3053だけが狩勝を重連で越えていたものの、コンテナ車12両の600トンには速度確保のためだった。(石油輸送の5472も重連だったが、これは定期回送による)
この当時も増田山はここでの定番位置になっていたものだから、敢えて外した画角を試している。昨年秋のこと、久方振りに訪れたが、周辺樹木が成長してこれは撮れなくなっていた。

趣味的にB-A-B機は誠に興味深いのだが、後にプロペラシャフトに起因する事故がDD54に引導を渡したことを思えば、仮に実現していても短命だったように思える。

=参考文献=交通技術 1963年9月号 通巻215号 (交通協力会)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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厚岸 (根室本線) 1971

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根室線の釧路以東区間を久しく訪れていない。記録を遡ってみれば1986年の夏前が最後だから、もう30年を経過する。
厚岸湾岸、辺寒辺牛湿原にせよ、落石千里浜にせよ、その景観は変わらぬだろうが、鉄道屋なので、やって来る列車に魅力が乏しければ、どうしても足は向かぬのである。この間、札幌所の寝台車で組成された臨時運用が幾度か施行されたけれど、沿線の騒ぎを思えば遠慮申し上げるしかなかった。
周遊券・周遊きっぷや自由乗降型企画券が遠い過去となり、道内夜行が皆無となれば、それは「周遊旅行はするな」と云われているのと同義だから、最近には航空機で行き来するピンポイントの撮影ばかりで、釧路にも随分と出入りしているのだけれど、釧路以東と云えば至近の釧路川橋梁で単行気動車を眺めるのがせいぜいである。

厚岸の根室方、線路が厚岸湾岸に接近する位置に所在した、湖面での漁専用の小舟の繋がれた船溜まりには、1970年の初遠征で訪れて以来に幾度も立ったものだった。下り列車なら線路際から、上りに対しては粗末な岸壁から前景に小舟をとらえるのが定番の画角である。
この位置は、先住民がタンタカと呼んだ地から厚岸湾に突き出し、厚岸湖との境を為すように発達した砂州の内水面側の、1960年代前半までの埋め立てにより出現しており、本来には岸壁とは云えず、本当に粗末な木杭と木板で土留めがされているだけだった。干潮ともなれば、写真のように泥の底が露出して係留の小舟が取り残される有様だったのだけれど、70年代末には浚渫もなされ、土留めも岸壁を兼ねたコンクリートに改修され、線路寄りには船揚場も整備されて船外機の小舟ばかりでなくエンジン船も見られるようになっていた。
岸壁上には漁師小屋も並び漁具も無造作に置かれた一通りの漁港風情には、浜番屋に執心していた時期でもあり、幾度も通った理由のひとつであった。ただし、それにお見せできるような成果は手にしていない。

写真は、駅も間近にこの位置をゆっくりと場内信号機に接近する464列車。根室から釧路操車場までの区間貨物である。
G2Type後藤デフにJNRロゴのこの機関車についてはWebに幾らでも記事がある。個人的には必然の無いデフ改造に装飾は(加えてランボードにテンダ上縁の白線も)、ブームを当て込んだわざとらしさが鼻についたものだった。

ここは1990年代に至って、さらに埋め立てが行われ、線路と平行方向に船揚場が拡張の上移設されて、立ち位置としては失われた。もっとも、写真で造成の進められていた様子の窺える背後の丘陵に住宅の建ち並んだ今には、あまり魅力は無い。
移設船揚場の後背地で絶滅危惧種厚岸草(珊瑚草)の人工栽培が行なわれているとは、以前の記事 厚岸 (根室本線) 1972 に書いた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.


尺別 (根室本線) 2008

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道内におけるDD51型内燃機関車の運転が「ようやくに」終了した。それは1966年度末の旭川機関区への配置による石北トンネル越え、塩狩越えの補機運用を嚆矢としていたから、爾来半世紀に迫らんとする歳月は、確かに「ようやく」としても良いだろう。もちろん、この際の投入車が生き残ったではないけれど、それでも函館運輸所の最後の5両は全て1975年の新製車両につき、車齢は41年に達する。現在苗穂工場に保管されるC623でも1973年10月の運用離脱時のそれは25年に過ぎなかったから、恐ろしいほどの老朽機関車と言える。
ハーフサイズ写真機から一眼レフを手にした蒸機の終末期以来、釧網線や江差線で、後には天北線でDE10なり15に出会えたとは云え、この機関車を常にファインダーに捉え続けたには、時代の巡り合わせに違い無いとしても、20余年を過ぎれば些かに食傷気味なのが正直なところであった。言葉を変えれば「飽き飽きして」いたのである。
その凸型車体には入換機の印象を拭えないままに加えて、貨物鉄道会社に現れた機関更新機に対する赤系や青系の新塗色に、旅客鉄道の客車に合わせての青色20号など違和感ばかりが先に立ってどうしても馴染めぬのが追い打ちをかけていたとして良い。そこが北海道で、それが寝台車を連ねた特急列車でなければ写欲も失せていたことだろう。「ようやく」とするのは、そんな想いもある。

そこに登場した貨物鉄道の手になるDF200型電気式内燃機関車の、パノラミックな2枚窓を配したフロントデザインの本線機らしい箱型車体には、積年の恨みが解ける気のしたものだった。
試作機は1992年4月2日に五稜郭機関区へ回着しながら、一千トン牽引試験で死重を積んだコンテナ車の20両編成を牽いたりしたものの、なかなか営業には投入されずにいたのだけれど、その単独牽引が1993年の5月11日から4061-3070列車で実現し、運用区間も五稜郭-札幌貨物ターミナルに拡大されれば、開発事由の一つであった千歳線内での走りを撮りに渡道したものだった。以前の記事 南千歳 (千歳線) 1993 は、その際の一枚である。
90年代も後半に至り、その配備が定着した頃の渡道は、寝台特急とこればかりが被写体であり、この時期には道南地域にばかり通い、そこから外へ出なくなったのもそのためであった。
やがては運用区間も新旭川へと拡大、2008年春の改正からは根室本線を新富士へと辿るところとなった。これは撮らぬわけには往かない。

寂れた尺別の集落を背景に冬支度の原野へと踏み出すのは2091列車。
根室線への運用設定には、尺別 (根室本線) 2003 と5年を隔てて同じ丘に上った(ただし樹木の成長で全く同位置とは往かなかった)。季節も被写体も同じならレンズも同じなのだが、写真機はディジタルに替わっている。前年にNikonが35ミリフルサイズ機をラインナップしてくれたからである。それは待望した機材だった。

ご承知のとおり、DF200は2014年には低い線路規格に困難とされていた石北本線の臨貨運用にも進出した。この事態には少しばかり躊躇した末に、二度と踏み込まぬだろうと思っていた常紋の峠道に立つことした。札幌からの移動も前泊の宿からして見渡せばご同業ばかりと云う環境に、旧い鉄道屋はやはり困惑したと書いておく。

[Data] NikonD3+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 C-PL filter ISO320 W.B. 5260 Developed by CaptureOne9pro Edit by PhotoshopCC & LightroomCC on Mac.

釧路 (根室本線) 1978

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釧路駅前を左手へ線路沿いの道路を進めば、程なく旧釧路川に架橋の旭橋に達し、そこから川上方に根室本線の釧路川橋梁を眺められた。駅至近のお手軽な位置でもあり、幾度も立っているのだけれど、その分だけ雨傘(釧路なら霧傘と云うべきか)だったり、時間的に動きのとれない場合の代替地だったりで、あまりまともな写真は残っていない。

1917年12月1日の釧路本線の厚岸までの延長に際して架橋の鉄道橋に対して、旭橋はずっと時代を下った戦後の、しかも高度成長期とされる時代にあたる1966年10月12日の開通である。この永き間、釧路川左岸から業務市街地へは1889年から所在の幣舞橋(最初の架橋時には愛北橋)もしくは1933年12月に架橋の久寿里橋まで迂回せねばならなかったから、当時の都市計画を閲覧したではないけれど、増大した市街地交通量には3本目の架橋を要したには違い無い。
戦後間も無い1947年の空中写真に農地の広がる左岸側の段丘上部は、1961年には宅地への転用が始まっていた様子が見て取れ、架橋直後の1967年となれば街路の整備が進み僅かばかりの畑作地を残すのみと成っている。旭橋により中心街へのアクセスが格段に向上した証左であろう。
その架橋位置は材木町の町名が示す通り川沿いには原木の野積場が続いていたところであるが、同じ1966年の9月1日には上流右岸の釧路村(当時)と跨る位置に釧路水面貯木場の供用が始まったこともあり、旭橋たもとの鉄道橋までのそれの移転した跡地河岸へは1967年には岸壁を伴った施設が建てられていた。そこには漁船の係留も見てはいるけれど、裏手には釧路臨港鉄道からの側線(専用線?)が引き込まれており、何らかの(おそらくは肥料関係の)工場だったと思うものの、施設名は失念している。岸壁が魚揚場では無かったのは確かである。鉄道橋の北側に接しては、戦前からの艀製作所である天寧造船所が健在で、そのせいか艀も多くが繋がれていたと記憶する。
釧路駅前から至近ながらのこの場末的河岸風景は、中小製造業が市街地に同居し都市河川が輸送路であった時代の当たり前の景観ながら、1967年5月25日付で成長する都市外縁の工業地域である西港に注ぐ新釧路川を釧路川とし、ここは旧釧路川と改められるなどの動きとも無関係では無かったようにも思える。前年には岩保木水門が完全に閉じられ、確かに釧路川とは分断された存在となっていた。

釧路川橋梁を渡るのは終着間近の混合444列車。
場末感をより一層に深めていたのが、鉄道橋直下の水面に朽ちるままに係留された木造の曳舟に筏だった。1967年の空中写真に認められず、70年夏に橋梁を通過した際には見ているから、その間に繋がれて放棄されたものだろう。
とは云え、写真の鉄道屋には格好の写材であり、旭橋に立つ度にそれを画角に取り込んでいたのが、この頃のネガに見て取れる。

旭橋はおよそ30年を経過した1995年に架け替えられ、その際に左岸の旧国道44号への接続ばかりでなく、緩やかな勾配にて城山の台地に取り付き、材木山の手トンネルでそこの住宅街に直接に達するところとなった。雑然とした工場や土場が全て取り払われた河岸は、北海道開発局による釧路川水系の治水事業を兼ねた河川整備計画(ふるさとの川整備事業)にて遊歩道の続く河岸公園化が進んでいる。
単行の気動車に趣味の悪い観光列車ばかりには、久しく此処に立っていないけれど、その無理矢理感溢れる余所往きの景観はとても居心地が悪そうだ。ただ、2001年4月5日に至って、ここが再び釧路川の名称を取り戻したことは喜ばしい。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8 1/500sec@f5.6-8 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

別当賀 (根室本線) 1972

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道内で幼少から少年期を過ごしたけれど、両親は茨城県水戸市の出身で、ご先祖は水戸藩士に行き着くらしい。
なので、水戸藩が、その太政官布告からまもない1869年8月から北海道の分領支配に参加し、天塩国北部と利尻島の割譲を受けたことくらいは承知していたけれど、そこから彼方東の根室国花咲郡での山林所有は寡聞にして不知であった。先住民にペトゥッカ(pet-utka)と呼ばれた地域の原生林である。
この取得が分領支配を出願した水戸徳川家11代当主、徳川昭武の時代の『地所規則・北海道土地貸規則』によるものか、1884年の華族令にて爵位を与えられた12代篤敬が『北海道土地払下規則』ないし『国有未開地処分法』を根拠に、その地位を以って成したものか、歴史の門外漢が覗いた程度には知りえなかった。おそらくは後者、これらの法令が北海道に特有の不在大土地所有制を誘導したように投機目的と見るのが順当なのだろうが、篤敬の次男、宗敬が後に東京帝国大学農学部林学科に進んだことを思えば、昭武の代から本気で将来の山林経営を考えていたのかも知れない。
しかしながら、宗敬進学の10年ほど前、1907年に水戸徳川家はそれを手放してしまう。売却先は、同年に秋田県能代(当時に山本郡能代港町)の製材会社3社が合同した秋田木材株式会社であった。これは当時の木材需要に成長した内地資本の道内進出に違い無いが、会社を率いた井坂直幹(なおもと)は、旧水戸藩士の子であり、大倉喜八郎の日本土木会社(大倉組)を経て能代にて造材会社を起こした人物であった。この売買が水戸徳川家側の事情によるものか、井坂の要請の結果なのか、経緯を研究者はとっくにご存知なのだろうが、いずれにせよ彼の推進した能代の製材会社3社の合併は北海道進出を見据えてのことであり興味深い。

秋田木材によるペトゥッカに当て字した別当賀における事業は、周辺山林からの造材に始まり、乾燥を経ての本格製材は1910年頃からと思われる。製品は建材としての各種板材はもちろんのこと、当時に需要の高かった木箱にも加工されて遠く朝鮮や満州へも運ばれたと云う。これにて、原生林中には100戸ほどの従業員住戸のほか、雑貨店や理髪店、料理屋も呼び込んだ集落の出現するに及んだと記録にある。
1920年11月20日には厚床から西和田へと釧路本線(当時)が延伸され、別当賀停車場が開かれるのも、この集落経済力ゆえであり、製品の輸送路を得たと云うに、肝心の秋田木材は1915年までに標津の忠類村に工場を移転し、この地を去ってしまう。細い水流しか認められぬ地では奥地からの運搬手段に事欠き、周囲での資源が早くも枯渇したと云うことなのだろうか。
山林は、苫小牧を足場に道内事業を拡大していた王子製紙(初代)に受け継がれ、現在は十条製紙を経た日本製紙の社有林となっている。

別当賀構内へと進入するのは444列車、釧路行き。
せっかくの蒸機旅客を写真には面白くも無い駅スナップとしているのは、道東太平洋岸特有の移流霧に拠る。前に車窓に見かけた落石との間の浸食崖上区間(後年に高名となる位置である)へ歩くつもりで、地形図上に細道の繋がっていた別当賀に降りたものの、深い霧の晴れるのを待機する間に到達タイミングを失ったのだった。
最近になって、同区間での蒸機写真をWeb上に見つけ、やはり撮ったヒトはいたのだと思えば、すぐに再訪しなかったのが悔やまれる。この頃には多くの地点を目指すだけで精一杯だったのである。

秋田木材は別当賀での操業中に、根室市街地での電燈事業など、同地域で幾つかの事業を起こし、それは工場を移転してからも続けられた。そこでは「あきもく」の通称で親しまれ、今でもその名を懐かしむ人の多いと聞き及ぶ。

[Data] NikonFphotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 L37filter unknown film Edit by PhtoshopCC on Mac.

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