"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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厚賀 (日高本線) 1986

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厚賀に降りて駅前を見遣れば、集落を貫く道路が線路に併行している。駅入口から東側が道道208号比宇厚賀停車場線、西側が日高町道5号線とされるこの道は、元には室蘭市から浦河町に至る国道235号線の構成区間であった。今は住民の生活道路であり両側に住宅やら商店が続き(多くは廃業状態ではある)、駅正面には広い敷地の製材工場が立地するのだけれど、これが国道に指定される以前、仮定県道南海岸線であった時代の地図を閲覧すると、その南側直下まで痩せた海浜の海岸線が迫っているのが見て取れる。
現状は人工的に埋め立てられたのでは無い。昨年の隣接海岸での線路路盤流失が記憶に新しいとおり、波浪災害に悩まされて来た地域にかかわらず汀線が遠のくとは不思議な気もするが、これは漂砂の堆積にて形成された土地なのである。切っ掛けは厚別川河口西側に築港の厚賀漁港であった。

日高地域の沿岸は、単調な海岸線に沿って段丘や砂丘が発達した浸食には極めて脆弱な地形を示し、加えて太平洋へと流入する中小河川の多数には砂の供給源に事欠かず、大量の漂砂が海中に存在している。そして、北西から南東方向への海岸線には冬期の季節風も春から夏期に三陸沖から根室沖へと北上する低気圧の呼び込む南風も、海岸線に併行方向の沿岸流を生じさせるところとなっている。ここでは、西向きのそれが東向きに卓越して古より河川河口には西側に大きな砂州の発達が見られた。
そのような沿岸に築港のための防波堤のごとき突起物を置けば、そこを始点に堆砂現象を生ずるのは自明の理であり、その港湾は漂砂流入に依る埋没に悩むことになった。1948年に着工された厚賀漁港も例外ではなく、漂砂流入阻止から港左岸の防波堤(南防波堤)中途から沖合へと湾曲した防砂堤を設けた。それは水深の浅い側に堆積を進め、先端側には堆積させずに浸食すら期待するものであったが、その意図に反して防砂堤を延伸しても構内埋没は避け得ず、都度に左岸の汀線は前進して、1960年代末までには現在に見る埋立地の如き陸地を生むに至ったのだった。そればかりではない、砂の供給を絶たれた右岸側は一層の浸食が誘起され、清畠との間で線路も道路も内陸移設を余儀なくされたのは、このためであった。
日高本線の不通を呼び込んだ大狩部側での路盤流失も、元はと云えば厚賀と同時期の節婦漁港の築造により、新冠川や静内川からの大量の土砂が、右岸にあたるこの海岸に供給されなくなり次第に汀線の後退したゆえであろう。北海道旅客鉄道や北海道は、語らずとも天災としている様子だが、節婦港を掘割にしなかった謂わば人災である。

さて、かように僅か20年程で出現した新たな土地は当然に国有地と思われるのだが、そこには個人の住宅ばかりか、先に述べた通り工場まで立地している。その所有権の変遷とは如何なものなのだろうか。
延長297メートルの厚別川橋梁を往くのは、704D<えりも4号>。たかが3両組成とは云え、ここでは急行型が急行らしく見える、札幌から直通の堂々たる優等列車だった。
今は写真のとおり海中を渡るような橋梁ではあるが、厚賀漁港の築造前には沖合に大きく砂州が発達して河口は駅の南方あたりに位置し、橋脚も大半が砂地に埋もれて、確かに「河」への架橋であった。写真中央に見えるコンクリート張りの水路がかつての厚別川流路の名残であり、今は美鈴川の放水路を成す。橋梁から彼方厚賀漁港防波堤までが、漂砂の堆積にて出現した土地である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6-8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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様似 (日高本線) 1968

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1926年12月7日に日高拓殖鉄道が静内に達した際、その終端駅設備として設けられたであろう転車台や給炭水施設が、車両や乗務員配置を得て静内機関区とされるのは、様似までの日高線全通を経た後の1938年3月10日と記録される。
苫小牧から佐瑠太までが改軌された1929年11月26日から、それの静内に及ぶ1931年11月10日の約2年間は、苫小牧機関区に所属していた762ミリ軌間車両は静内に移されていたはずだし、改軌後も末端側の運行拠点だったはずなのだが、おそらくは永く駅長に所管され車両も要員もそこに属していたのだろう。
10年を経てせっかくに独立した現業機関となった静内機関区も、戦後の1959年11月1日の日高線管理所発足には乗務員をそれの所属として、室蘭機関区の静内車両分所に改組されてしまう。管理所の廃止後も、ここは二度と本区と呼ばれること無く、追分や苫小牧機関区の静内支区であり続けた。

そして、1937年からの終端駅である様似に所在の施設もその度に名称の変わったことだろう。それが様似駐泊所だったのか給炭水所だったのかは知り得ぬままで居る。
上下本線をそのままに構内外れまで延長すれば、木造の給炭所と煉瓦積の土台に載った給水タンクが線路を挟んで向き合っており、その先は人力に頼る転車台に達していた。小さな施設には給炭水線に転向線に留置線を兼ねた線路と云うことである。
空間の広い構内の行き止りにそれだけがポツンと置かれるが印象的であり、詰所や休憩所が附属していなかったのは、それには駅舎を用いていたからだろう。
この頃のダイヤなら、朝の8時から9時頃、昼の14時から15時過ぎまで、そして夕方18時から19時頃の一日3回、ここで給炭水を受けたC11が休んでいた。札幌から日帰りで訪れていた当時、苫小牧操車場を早朝に出る1893列車を始発列車と後の急行で追いかけながら様似に達すれば、先着したその牽引機が人気の無い給炭水線に佇む姿を目撃したものだった。

この日も給炭水線に居たのはC11210。この機関車には日高線へと向かう度に出逢っていた。調子の良い個体だったのかも知れない。
日高の山系が背景となる絶好のロケイションには、今なら随分と拘っただろうが、作画意識も拙い此の頃には気にもしなかった。
まもなくに機関士と助士が戻り、日本電工の専用線から貨車を引き出せば、それを組成した1896列車を牽いて静内へと帰って往く。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135cm/F4 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSS  Edit by LightroomCC on Mac.

春立 (日高本線) 1970

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国有鉄道線における無人駅の始まりは承知していない。けれど、旅客運送にかかわる規則が体系的にまとめられた最初の事例である1920年の「国有鉄道旅客及荷物運送規則」(1920年10月25日鉄道省告示第99号)を受けて同年12月に制定の「国有鉄道旅客及荷物運送細則」の第17条には「車掌携帯用片道乗車券」の規定を置いて、条文に「駅員無配置駅」の文言が見られるから、この時点で少数例にせよ無人駅の存在が伺われる。
当時の文書では「定員を置かない」と表現される要員無配置駅の明確に現れるのは、1929年からのガソリンカー運転に際して営業戦略上に置かれた通称のガソリンカー駅(後に気動車駅と呼び替えられる)である。これらは公示に依らず鉄道局長の公告にて設置の事例も多いのだが、公示された例を官報に拾えば(一例として東北線仙台付近)、「旅客ニ限リ取扱ヲ為ス」との記載にそれと知れる。その前段には着発する旅客扱いの区間も限定されており、車掌による車内発券に配慮したものであろう。それらガソリンカー駅として開業の中にも、小荷物に手荷物を扱った要員配置駅の例もあって(一例として室蘭線母恋駅)、無人駅とは極めて特殊な例外だったと知れる。
その例外が一挙に増加するのは戦時下の『陸運統制令』(1940年2月1日勅令第37号/1941年11月15日勅令第970号にて改正)に基づく私設鉄道の買収の結果であった。そこには簡素な乗降場だけと云った多くの無人駅が含まれていたのである。また、買収私鉄4社の路線にて構成の飯田線にはそれに加えて会社の直営しなかった20駅が存在し、これをそのまま引継いだ国有鉄道には、定員外のこれらが業務委託駅の最初の事例となっていた。

戦後1949年に発足した日本国有鉄道が早速に直面した問題のひとつが、全国に数多存在した非採算線区の運営であり、対策として選択されたのが線区別経営だったことは、内地版の 大湊運転区 (大湊線) 1973(2014年7月20付記事) に書いた。
それの具体策として、1950年代から60年代に続々と設けられた管理所や運輸区、管理長制度下での経営改善とは、とどのつまり線区運営の合理化・簡素化であったから当然に管轄駅の運営形態に踏み込むこととなった。ここで行われたのは要員の削減を意図した諸施策であり、駅長を廃しての管理駅化、特殊勤務の拡大など勤務体制の見直し、夜間運転のなければ当直勤務の廃止、駅作業の整理、一部業務の外注化などは勿論のこと、究極には閉塞扱いを廃しての要員引揚げ、即ち要員無配置化であった。この後に続く駅からの要員退去、停車場の無人化はここに始まったのである。国鉄はこれを部内でも対外的にも「停留所化」と呼んだことは 稀府 (室蘭本線) 2011 に書いている。
しかしながら、閑散線区と云えど、地域の生活や経済活動は駅の所在を前提に営まれていた時代であり、外部委託による営業フロントの維持は望まれたのだが、実現したのは一部に留まった。国鉄が1954年9月に告示した「乗車券類委託販売規程」(1954年9月9日日本国有鉄道公示第262号)に「乗車券類委託販売細則」の総裁達ではそれの認められず、施行には駅業務を一括した業務委託を要したからである。その実際は運輸帳票類の作成や報告等事務手続きの煩雑に、決して閑散線区小駅での受託の容易いものでは無く、これは線区別経営による合理化推進の障害ともなっていた。
なお、本記事には先の 初田牛 (根室本線) 1971の記事もご参照頂きたい。

(この項 初山別 (羽幌線) 1982 につづく)

道内における線区別経営は、瀬棚線・胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線の各線区で実行された。
日高本線と富内線を運営した日高線管理所は、1959年11月1日に静内駅構内に設けられ、200キロを越える管轄営業キロに、職員定員の592名(発足時)は線区別経営体として全国でも有数の規模であった。ここでも上記のごとき駅運営の合理化は進められたのだが、当時に線区の置かれた環境から要員引揚げは3駅に留まり、共に閉塞扱いを廃した上で業務委託化されたので窓口の閉鎖駅は生じなかった。

写真は東静内への小さな峠越えに向かう1892列車。様似から静内への区間貨物だった。
春立は、この当時にも行違い設備を持った一般駅である。こじまりとした質素な駅舎は、1930年代に鉄道省により建設されたこの区間各駅に共通の設計であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

新冠 (日高本線) 1969

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1967年、クラスメイトの兄に聴かされた Sam & Dave/Hold On, I’m Comin’ が始まりである。退屈な教科書音楽に白黒テレビの歌番組しか知らぬ耳への衝撃は忘れられず、以来に黒人(系)音楽に魅入られた。趣味分野は鉄道屋だけれど、仕事写真をそのフィールド回りとした切っ掛けでもある。
コレクターとは思っていないが、興味はR&Bを起点に、勿論Rock音楽にBlues・Gospelとディープに広がり三万枚近くのレコード盤を所有するに至っている。かつては、これが引っ越しの悩みの種で、見積もりの業者に唖然とされたこともあれば、(その頃には一万枚程度だったにかかわらず)荷物搬入当日にそれを見た大家からアパート2階への入居を断られもした。
60年末から70年代に国内盤LPの価格は1800円から2400円辺りで推移し、中学生にはなかなかに買えるものではなかったのだが、73年にプレトンウッズ体制が崩壊すると、それも恐ろしく高価だった輸入盤価格が下落して渋谷のヤマハは勿論、上野アメ横の蓄晃堂や開店したばかりの吉祥寺芽瑠璃堂などへ物色に通ったものだった。そこでは再販制度下の国内盤にはあり得ない、カットアウト盤と云う廉価な廃盤商品が流通していて、欲しいアルバムの多くがそれに含まれていたのである。
その内に「Schwann」なる米国の月刊音楽カタログ誌を知り、その広告にラックジョバー(小売店鋪内に売り場を設ける卸問屋)による在庫整理、カットアウト盤の定期的な大量放出を見つけて早速に手紙で問い合わせると取引に応じるとの返信が在り、それから個人輸入による大量購入を始めたのである。当然に船便での輸送ゆえ秋から冬に限ることとし、夏の終わりに発注すれば、すっかりと忘れ去ったクリスマスの頃に横浜税関から引取要請のハガキが届くのだった。在庫リストを送って貰い、一度に400枚から500枚の発注に、運賃に関税を含めても一枚あたり300円から500円は格安に違いなかった。これは、後には為替レートの変動で200円台まで低下した。

こうして集めたレコード盤には、ジャケットを差替えただけの同内容リイシュー盤や既に所有していた楽曲でのコンピレイション盤など(これらは手にしてみないとわからなかった)が含まれ、それらを整理した20年程前に細やか乍ら新冠町に寄贈させていただいた。音楽業界で少なからず世話になっていた先達からの呼びかけに応えてのことで、彼は、竹下内閣当時の通称-ふるさと創生事業による交付金の使途に端を発したと云う、そこでのレコード収集構想に関わっていたのである。この総額25億円を掛けたと云う事業では、保管・展示・活用施設として1997年に「レ・コード館」が建設された。
今のところ国内でほぼ唯一の施設であり、その収蔵数は2012年度末に86万枚余りに達したと聞くが、資料として利用の困難が不満である。著作物であるだけに法律上の規制はやむを得ないとしても、収蔵盤のデータ、即ちタイトルに演奏者など基本情報は勿論のこと発売年、レーベル、収録楽曲の詳細などがジャケットにレーベルの写真と共にWeb上に公開されて然るべきなのに、十数年を経てもなお実現していない。現地に赴いてようやくにリストを閲覧出来るのみである。まして、研究者が学術的体系的に利用しようとしてもサポートは期待出来そうにない。おそらくに、使えそうな学芸員がいないのである。町当局は目先の町起こしとやらにばかりに気をとられ、自分達の興してしまった事業の重大性を理解していないと思われる。本来なら国家事業、国会図書館が手がけても不思議の無いのである。最高学府のアーカイヴ専門課程を経たばかりでなく、少なくともタワーレコードのバイヤー並のマニアックな知識を持った学芸員がジャンル毎に必要なはずなのだが、地方自治体の事業としてはやはり限界なのだろうか。企画展は疎か、そこからは何の発信も無い。Websiteでは「思い出をお預かりします」なぞと宣うが、それとは無関係にレコード盤は民衆文化そのものである。

写真は新冠を出発する6883列車。
この当時、追分機関区静内支区(1969年11月1日の追分機関区苫小牧支区の本区格上げにて苫小牧機関区静内支区となった)には8両ものC11が配置されていたにかかわらず、撮影に行く度に巡り合ったのが210号機だった。73年10月の日高線無煙化に際しては検査切れ機の代替として石巻線に転じ、そこでも再会している。
1974年5月28日付での用途廃止後には、これも当時の自治体に流行した「機関車欲しい」病に従って、縁は在っても縁は無い野辺地町に展示されるも、40年を経て朽ち落ちつつある。ここにもまた文化は果つる。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f5.6 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

厚賀 (日高本線) 1980

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日高本線の車窓が静内を境に一変するのは、その沿革の相違からである。
苫小牧-佐瑠太(現富川)間は、1909年に鵡川まで、1911年に佐瑠太までを延伸した王子製紙の運材軌道の改修により1913年10月1日に開業の苫小牧軽便鉄道、佐瑠太-静内間は1926年12月7日に全通した日高拓殖鉄道の共に762ミリ軌間の軽便鉄道を出自としている。対して、これらを1927年8月1日付にて鉄道省が買収、1931年までに改軌の上で、その延長線として1933年から1937年に建設したのが静内以遠様似までの区間である。
苫小牧から水平線を眺めた車窓が、静内を過ぎて内陸に向かい小さな峠越えを繰返すのは、それによる。鉄道省は線路規格こそ国有鉄道簡易線建設規程に準拠したとは云え、海沿いの断崖を避けた線形を取り、民間資本により投資を最小限とし速成を意図した区間は、その後に永く浪害に悩まされることになった。

特に海岸段丘が直接に海岸線に接する浸蝕性地形の続く清畠から節婦の区間にそれは激しい。軽便鉄道当時から築堤崩壊などの続いたこの区間に対し、国有化後の鉄道省は護岸構築の防護策を講じるものの、護岸基礎の波浪による洗掘からの倒壊も続き、1950年代の厚賀漁港の築造が浸蝕に拍車をかける結果となっていた。このため、後背地に余裕の在った清畠-厚賀間では、1960年に苫小牧起点62キロ付近からの約3キロ区間で最大220メートルの内陸移設を行い同年12月25日に使用を開始している。けれど、浸蝕性段丘直下の区間ではそれもままならず、強固な護岸にて凌いでいる現況ではある。
加えて、そこは陸側の断崖にも注意を要して防災上の問題が大きい区間でもある。1979年7月6日には60km/hにて進行中の下り急行<えりも3号>が、厚賀-大狩部間にて線路上の落石に追突して脱線、乗客に14名の負傷者を生ずる事故の記録も在る。

反面、海岸線の線路は日高山系からの流れの河口を長大橋にて渡り、さながら海上を往くような景観を見せてもくれる。厚別川、新冠川、静内川などへの架橋である。中でも陸側からの視点の取れる厚別川橋梁は定番であろう。
定番の位置での定番のカットをご容赦いただきたい。これは、撮らされてしまう画角なのである。
列車は839D、様似行き。

[Data] NikonF3HP+AiNikkorED180mm/f2.8S 1/500sec@f5.6 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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