"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

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2013年3月29日の記事 一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972 に「この鉄道は転車台を持たなかったのではないだろうか」と書いた。実際に上り豊富行きの正向きに対して下りは逆向き運転であり、ポッパも所在したこの一抗の機関庫付近にも、その広い構内にもそれらしき設備を認めなかったことも推定事由だったのだが、訂正せねばならない。転車台は在ったのである。

但し、それはかつて睦町や新町と呼ばれた炭住街を通り過ぎた、三抗の構内だったと思しき位置である。Web上に数多在るその遺構の写真に見て取れる円形の浅いピットは、それ以外の築造物の可能性も無きにしも在らずだが、ほぼ転車台の遺構と考えて良いだろう。けれど、天塩砿業所三抗の開抗は1945年と記録されており、鉄道の一抗から1.4キロばかりの延伸がその際だとすれば、それ以降の設置と云うことになる。線路終端への設備に不思議は無いのだけれど、ならば1940年2月13日の開業以来に機関車転向をどこで行っていたかの疑問が残る。一抗構内から移設したものだろうか。
一方、豊富側の転車台は国有鉄道の構内に所在していた。天塩線の最終開業区間に含まれて終端駅だったことの無いそこへの設置を訝しくは思っていたのだけれど、これを国鉄機ばかりでなく日曹の機関車も使用したものだろう。設置時期は調べ得ないでいるけれど、この専用鉄道の開業に関連してのことならば合点が往く。或は、本屋から南側に離れた位置に社線豊富駅を設けての接続に、用地上の事由からそれを鉄道省より借用して日曹側が設けたものかも知れない。

1967年の坑内火災を切っ掛けに三抗を失なって線路の再び一抗までとなれば、転車台は移設されること無く放棄されたものと思われる。同時に豊富での転向も意味を成さずに中止され、以降に上り正向き、下りは逆向きの運転としたのだろう。開放型のままのキャブに乗務員の震えたのは、4度の冬だったと知れた。

最終運行翌日、有火のまま機関庫前に佇む9615。
テンダの向こう側に屋根の見えるのが給炭台、石炭の他点火に使われる薪も積み上げられていた。機関車後方に2線の庫があり、手前の建物が機関庫詰所である。
この時には自家用の貨車が留置されていた、一番手前の線路が、かつて三抗へと通じていた本線と思われる。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

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一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

nisso_02-Edit.jpg

少々間隔の空き過ぎた。1年程前の記事、一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972の続編である。

キャブ下のS字曲線が特徴的な、1912年度から13年度に製造された9600形蒸機の最初の18両は、戦後まもない時点でその多くが道内に配属されていたものか、その時期に少なくとも9613-9617の5両はそこで用途廃止とされ、同地域の私設鉄道や専用鉄道に譲渡された。
9615は、その最も早い時点での事例であり、1948年10月に名寄機関区を最終配置区として用途廃止が決済され、同月20日には日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道に回着している。そこでの竣工届は翌49年11月3日付なのだが、一年間寝かされたとは思われない。これと、続いて48年12月7日に回着した9643との2両が代替したと思われる既存機関車の廃止届けは1949年6月7日付で出されているから、少なくともそれ以前には稼働していたはずである。付記すれば、9643の竣工届けの提出は1959年である。(上記データは日曹側資料を調査された大西清友氏による)

ここでは、この9615を転がすと云う、得難い体験をしている。機関区事務所でお会いした機関士の誘いに、一も二もなく飛びついたのである。
始めは片手シャベルで投炭し、インジェクタにブロワコックを操作して蒸気を作る。チェインで引上げる式の焚口戸の意外な軽さには驚いた。所謂滑車の原理なのである。そのうちに火床が赤く燃え上がり、やがては蒸気の騰がりが缶圧計に表れ、コンプレッサも動き出す。
まずは、機関士の説明を聴きながら構内外れまで助士席で一往復。これだけでも天にも昇る心地なのだけれど、次は機関士席でレギュレタを握るのである。まずは、先ほどの一往復後にミッドギアになっているリバーをフルギアに戻す。重そうに見えたこれがカラカラと回るにも驚いた。走行中も常に操作するから、なるほどと納得する。
ブロワを閉めて、レギュレタを手を添えてもらいながら少しだけ引くと、ひと呼吸あって動き出す。ドラフト2回のところでリバーを半分まで巻き上げろと云う。クルクル回しているうちに加速がついてきて、窓下のドレインコックを開く。排出する蒸気の心地よいうちに、レギュレタをもどし、機関士が単弁を操作して制動を掛け停車。
リバーをまたもやクルクル回して逆転側のフルギアへ。そしてレギュレタを引いて逆行。元位置に戻り止まった時には、全身汗ダクの記憶が在る。
楽しかったけれど緊張もしていて、気がつけば汽笛を引く余裕もなかったことが心残りではあった。
全線運行停止後の気安さからだろうが、おそらくは内規違反に相違なく、今に思えば二度と出来ぬ体験に感謝するばかりである。

この時、下り列車は常に逆向き運転にてキャブに風が吹き込み、ボイラのそばにもかかわらず冬には凍えた、との話が印象に残っている。40年も経って気がついたのだけれど、ならば、この鉄道は転車台を持たなかったのではないだろうか。そう云えば、ここ一抗でも見かけた記憶はない。
写真の停車位置から前方のカーブして構内を抜けるまでが「体験運転」区間である。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/125sec@f11 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR3 on Mac.
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一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972

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60年代の後半には道内の運炭鉄道の大半が健在で、かつ蒸機運転であった。
しかしながら新参の撮影者としては、これもまた健在であった幹線の大型蒸機に忙しく、その撮影は後回しにしていた。 

この日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道へは、炭坑の閉山の報に接して「慌てて」向かったのであるが、残念なことにその二日前に運転を終了していた。この当時、北辺の小さな専用鉄道の情報など内地までなかなかに届かず、それほどに情報過疎だったのである。

バスにて到達した機関区の存在する一抗は、選炭場や積出施設を中心に広い構内が確保されており、その一番奥まったところに機関庫はあった。
有り難いことに機関車はまだ火を落としておらず、見学の許可に訪れた鉄道事務所に居合わせた機関士の方には、気の毒に思ったのか、いろいろと便宜を図っていただいた。
庫に入っていたカマを引き出してくれたり、少し後退してロッドの位置を直してくれたり、石炭を焼べて煙を上げてくれたりと。
そうして何と、機関士席に座らせ「リバーを引いてみろ」と言うのである。勿論ブレーキ弁は彼が握っていたのだが、蒸気機関車を走らせたのは、あれが最初で最後の体験であった。心地よく響いたブラストと振動が忘れられない。

機関車が有火を維持しているのは、豊富方より撤去を開始する軌道や部材を一抗まで輸送する運転に備えてのことと聞かされた。まさに、「進路を断って退却する」と言う悲しい仕事が待っていることになる。

カットは、北米風の木造が良い雰囲気の機関庫。ただ、メンテナンスがなく、今にも朽ち落ちそうではあった。後になって気がついたのだが、掲げられた『架線注意』の標識が奇異だ。架線など何処にも見当たらない。

9643は既に無火であった。ここ数日内のことではなく、かなり以前からと思われた。
49678の前方画角外には、これも有火で9615が留置されている。運転させていただいたのは、こちらのカマである。
この9600形式の最初のロットの一両については、いずれ別項を立ててご紹介したい。

[Data] NikonF+AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS


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