"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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西中 (富良野線) 1978

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その夜の富良野盆地は厳しく冷え込んだのだった。このカットの夜ではない。その、ひとシーズン前の西中でのことである。
バックパックに入れた水筒が完全に凍りついて、素手で触れるのを躊躇してしまうような環境が、どれだけ気温の低下していたものかは分からないけれど、その厳寒でF2に仕込んだフィルムは、用心していたにもかかわらず次のアドヴァンスで折れてしまったのである。
仕方なく、翌日の撮影をカメラ一台のみにて済ませ、これを早めに切り上げて釧路の写真店で暗室を借りたのだった。ここで、リワインドもアドヴァンスも出来なくなった状態のままカメラから取り出し、フィルムの未撮影の残りを取り去ったパトローネに事故以前の、パーフォレイションも長く破損もしていた撮影済み部分をなんとか詰め込んで、これを持ち帰った。
後日に現像したそれは、折損部は勿論だけれど壊れたパーフォレイションが膜面を傷つけていて、予想通りにコマの大半が救えなかったのだった。
この翌月の道内行きで、多くは撮影し直したものの、富良野線は翌年に持ち越していた。だから、これは一年越しで再撮影したカットである。

富良野盆地内の富良野線は、鹿討の手前、起点4キロ付近から上富良野直前までの約10キロメートルが直線である。沿線は、駅周辺を除けば障害物の無い田園地帯で、どちらが先か分からないけれど、その碁盤の目状の条理線を正確にトレースしている。その開けた風景が気に入って幾度か訪れていたのだった。

西中はその区間の簡素な木造乗降場の駅で、この頃には、その傍らにプレハブの小さな待合所が建てられていた。国鉄に依るものと云うより、地元有志による寄贈物件と思われ、それもそのはずで、ここは1958年1月25日付にて開設の仮乗降場を出自としている。けれど、駅への昇格は、その僅か2ヶ月後の3月25日である。仮乗降場の大半が北海道旅客鉄道の発足まで正駅化を待たねばならなかった中にあって、2ヶ月でのそれは異例と云って良かろう。

これは、駅昇格を前提とした設置だったのである。
富良野線は、この1958年1月25日の時刻改正にて、気動車の投入による貨客分離を果たし、その加減速性能を生かした到達時分の短縮やフリークエンシィの向上が図られ、あわせて長い駅間を埋める多くの乗降場を開設する総合的な線区の経営改善が行われたのであった。
この改正で設置の乗降場は他に、近隣の学田/鹿討/北美瑛に旭川近郊の西瑞穂/西聖和を数える。神楽岡/西御料も一足早い1957年12月1日に開設されていた。
この営業施策は、ルーラル線区経営のモデル線区として本社の主導を得て実施されたものであり、これら乗降場も当然にそれの認めるところであった訳である。
国鉄本社においても、簡素な無人駅設置と活用の思想がこの当時に存在したことの証でもあり、興味深い。

走り去って往くのは636D、旭川行き。後部標識灯は非自動化線区ゆえ片側点灯である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8  bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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美馬牛 (富良野線) 1977

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蒸機末期の富良野線には、9600の牽く貨物列車3往復(内1往復は夜間)が設定されていたけれど、道央の地味な線区とあって、これは撮らずに終わってしまった。
この線へ向かうのは1970年代も後半になってからで、富良野を舞台としたテレビシリーズの放映開始前にて、まだまだ静かな沿線であった。当時は情報も少なく、車窓からのロケハンでは、富良野盆地の田園地帯に直線区間の続く中富良野付近や、線路両側の防雪林が美しい美馬牛周辺が印象に残っていた。

美馬牛は、施工基面高が283M50で富良野線のサミット付近に位置して、富良野方に19.6パーミル、旭川方に20.0パーミルの標準勾配がある。(後年に高名となる、高低差は30メートル近くに達する「すり鉢」状の縦断面線形は、サミットから旭川方へ28.6パーミルで下った富良野起点25K757Mにその底部が所在する)
この付近は、その勾配に延々と続く防雪林で車窓から山間を往くような感覚だったのだが、下車してみると小さな集落のある駅前も開けていて、実際には緩やかに起伏する丘陵地でその外側は酪農/畑作地帯と知った。
この防雪林と周辺に見える山々を背景にコンテを考えていたものの、その区間は意外な程に足場がなく、それは用地確保のために起伏地を造成したであろう駅付近に見いだせた。駅場内は丘となった造成前の元地形の樹林帯に囲まれるように存在していたのである。

写真は、ここを発車しようとしている633D旭川行き。上下乗降場の連絡通路からの撮影で左後方に上り乗降場が在る。昼過ぎのカットだが、冬の低い太陽が強烈な逆光線となって早朝のようなイメージだった。

道内向けのキハ40は、この年の春に旭川機関区に10両、苗穂機関区に6両が配置されたのみの最新鋭車であり、旭川区配置車は、ほぼ富良野線運用に専用されていた。この時点では、キハ47を含めても全国に32両のみの稀少車でもあった。その首都圏色と呼ばれた朱5号の単色塗色が新鮮だったものの、未だ首都圏区所への配置は無くて、全国への大量増備の開始されるのは78年夏以降である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

西中 (富良野線) 1976

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近頃、旅をしていて食事に困ることが多くなった。

早朝に夜行で到着するか、まだ暗い内に宿を出て撮影行動に入り、日暮れまで人里離れた辺鄙な場所で過ごして、そして翌日の行動のために移動するか、もしくは現地に泊まる。
これを毎日繰り返していたのが、北海道の撮影行だった。
まる一日重い機材と行動しているから、余計な歩きはしたくない、すなわち駅からは離れたくないのである。したがって、食事は、駅弁屋か構内営業の立食いそば、せいぜい駅前の食堂が頼りであった。

ここ10年くらいだろうか、このセオリーが通じなくなったのだ。
駅弁売店やそば屋は、札幌行き最終の特急発車までの営業。それの出て行った駅は閑散とし、駅前の食堂とて午後6時ともなれば店仕舞してしまう。
道内夜行も、末期には始発駅で乗車しない限り「朝までエサなし」を覚悟せねばならなかった。
かっては、その停車駅、岩見沢や旭川は勿論のこと、深夜の富良野、帯広、遠軽などでも駅弁の立ち売りがあり、駅そばスタンドも営業していたものだ。駅前でも、連絡船やフェリィの接続する函館や稚内に限らず、釧路や北見でも夜行の到着に合わせて開店する多くの食堂があった。
それだけ、鉄道での長距離移動、まして夜行でという旅客がいなくなった訳だ。

富良野の乗降場にはタイル貼りで円筒形の駅弁販売所があって、深夜でも売り子が詰めており、特にしばれる冬場には、赤々としたストーブの上の蒸篭で蒸した暖かい弁当を提供していた。

写真は、西中から中富良野方向の雪原の夕暮れ。
夏には水田の広がるだけの平野だが、冬ならば「絵」になる。後年観光地化するラベンダ畑は、画角外右手の丘陵地にあたる。
持参の水筒の水がしっかり凍り付いてしまうほど寒い夕刻だった。
帰り着いた富良野で購入した幕の内弁当の暖かかったことを、よく覚えている。
列車は、655D富良野行き。

[Data] NikonF2+Nikkor35mm/F2 1/125sec@f5.6 Tri-X(ISO320)

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