"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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稀府 (室蘭本線) 1996

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現在の伊達市域、かつての有珠郡を構成した有珠・長流・東紋鼈・西紋鼈・稀府・黄金蘂の各村は、道内でも有数の藍の産地であった。勿論にタデ科イヌタデ属に分類される植物であり、藍染に用いられた「藍」である。
道内への殖民は自給作物ばかりでなく、同時に開墾地の経済的自立に商品作物の生産を要して、それの内地からの移植も推奨され、そのひとつが当時に全国的需要も大きかった藍だったのである。
1870年に始まる奥州伊達藩の支藩亘理藩の集団移住による開墾が知られるこの地においても、1874年には作付けが行われたとの記録があるが、藍作ばかりでなく、それからの染料生産(製藍)までも含めて本格化するのは、徳島県からの団体が長流村に入植した1883年以降であり、1887年の有珠郡における作付け面積の100町歩あまりは、1889年には道内作付け面積のほぼ半分にあたる400町部に迫らんとし、1900年に最大の560町歩に達した。中心域は当然に長流村と隣接する西紋鼈村に属した長流川の沖積平野であった。

この有珠地域での藍作の盛期最中の1895年頃、黄金蘂村に所在した田村農場への入植者に篠原茂次郎がいた。彼も徳島県板野郡川内村出身ではあったが、一家を挙げての幌別郡幌別への移住が不作により失敗に終わり、1年間の単身賃金労働を経てのそこへは知人の伝手を頼った小作人としての再入植であった。長流村への徳島団体との関わりはなく偶然と思えるが、吉野川河口地域と云えば、かつての製藍地帯と重なり、茂次郎自身も葉藍を染料に加工する際の発酵過程を管理する「水師」の技術者でもあったらしく、ここでの藍作隆盛を聞き及んでに違いなく、田村農場から牛舎川左岸に9町部を借り受けた茂次郎は、入植直後から藍作に取り組んだとされる。
茂次郎の幸運は、再入植直後から藍の価格が上昇し、1900年には一番藍が10円から25円の高値を記録したところだろうか。「水師」の技術を活かした自家藍製造に止まらず近隣農家作付けの製藍も引き受け、さらにはかつての藍取引の経験から内地に販路を開拓する藍商としての性格も帯びて経営規模を拡大、1910年には西紋鼈村と稀府村に10町6反部の土地を取得して自作農化するのだった。藍による蓄財を以っての篠原家による土地集積は以後1920年代に掛けて続き、その小作地は壮瞥村も含む有珠郡一帯に及んで、1933年の統計による67町部は有珠郡で四番手の地主であった。

ここでの興味は、これだけの地主に成長しながら、茂次郎は所有者が代わり高橋農場となっていた牛舎川左岸の土地に関しては、小作人で在り続けたことである。理由はわからない。農場が下げ渡しに応じなかったものか。おそらくはそこが藍作に適し、製藍の作業場も所在したのだろうけれど、何よりも成功への基盤となった藍作の土地だけに愛着も感じていたのかも知れない。
けれど、このことが戦後に再び茂次郎に幸運をもたらす。農地解放政策により、経営した有珠郡一円の土地は没収の憂き目に会うのだが、ここだけは逆に自作地として保有が叶うのである。戦後の篠原家は、この9町歩での葉藍生産に加え、周辺に自作地として買い求めていた稀府の5町歩の畑、北黄金の3町3反の水田で営農を続けた。しかしながら化学繊維の出現と普及は藍染め産業にも壊滅的打撃を与え、1960年代半ばまでに藍作農家は篠原家を残すのみとなり、それも1972年に至って途絶を余儀なくされるのだった。

写真は、長万部起点62K700M付近に所在した踏切付近での3059列車。
背景は勿論有珠山である。今に定番化している位置なのだが、廃止された踏切名称は失念した。

篠原家の藍生産は、折からの工芸としての藍染めブームと当時の当主茂氏の熱意により1980年に再開され、現在にも茂次郎入植以来の土地で9町歩ほどの作付け面積ではあるけれど継続されていると聞く。
そして、篠原家は21町歩の畑を経営する大規模農家である。その営農地は今も列車背後に見える樹林の向こう側一帯に所在している。

=参考資料=
新稿伊達町史 : 伊達町 1972
伊達市史 : 伊達市史編纂委員会 1994
北海道農業発達史 : 北海道立経済総合研究所 1963


[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter EPP Edit by LightroomCC on Mac.


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礼文 (室蘭本線) 1994

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2011年3月11日に発生した「平成23年東北地方太平洋沖地震」では、茨城県水戸市も震度6弱にて揺さぶられ、千波湖南方の丘陵地に所在する実家でも、その長く大きな揺れに在宅していた老親は「庭に這い出るのが精一杯」の有様だったらしい。石燈籠の上部が滑り落ち、石積みの門柱も崩れるなどし、建物室内では壁面の装飾が落下したのだが、不思議なことに家具の倒壊は起こらず、隣戸で生じた造成地盤のひび割れや崩壊も見られなかった。
当時に健在だった親父は、造園から30年を経て地中一面に伸びきった庭木の根により地盤が強化されたゆえとの推定を披露していたものだが、確かに庭木で1番の高木がブンブンと音を立てて振れたと聞く揺れにも、地盤は健全であったし、建物基礎も数カ所に小さな亀裂を認めるだけではあった。

親父の自慢話はシロウト考えに過ぎないけれど、林学の分野において植物の根系による地盤安定、特に斜面に対する崩壊抑止効果は古くから経験的に知られ、研究テーマだったようである。それは主には治山や人工林育成の要求からだろうが、土木関係の研究者や技術者たちにも共有されたものと思う。
ただし、その効果を定量的に捉えられるよう研究の進んだのは、ごく近年のことであり、樹種による根系の土中分布特性別に根系の繊維強度や剪断耐性、引き抜き抵抗力などがモデル化され、一般的な崩落発生深度とされる表層から2から3メートルに対して、斜面安定効果が確認されるに至っている。

しかしながら、鉄道や道路建設などおける盛土や切取法面の安定対策は、即効性から古くは石積にカゴ工、近年に至ればコンクリート張や吹付けコンクリートなどの構造物工が主流であり、勾配の緩い斜面なら金網張や柵工にて植生基盤を確保することはあっても、それは植物の早期育成を図っての表層部の剥落防止が目的であり、根系による土圧への抵抗を意図したものではなかった。
したがって、経年に植生が自然林の様相を呈するに至れば、通行路の確保や信号見通しなど安全面から、定められた保線基準に従って定期的な伐採が行われるのが通例であった。

写真は、噴火湾岸を東西方向に貫く礼文華山トンネルからR=603で南転する盛土築堤を駆け下りて往く8002列車。
編成が改造後最初の全検を出場して、屋根の銀色が眩かった頃である。
本地点現況の樹林帯を抜けるが如くが惨状は諸兄もご承知のとおりで、通過する特急列車の車窓に築堤上と認識する旅客は皆無なのではあるまいか。今ではこの画角は望むべくも無い。前の伐採は、この列車が走り始めた1989年のことと記憶するので、以来四半世紀が経過した。
現況は根系による法面安定効果を期待した自然林の育成とは言いがたく、放置と呼ぶべきだろう。1987年の国有鉄道消滅以降、保線の基準は規程上に順次緩められ、最近の線路端の景観と云えば、迫る植生に辛うじて列車が潜り抜ける空間が確保される様相となり、幹線系線区とて軌框面に夏草が進出する有様である。植生による表層剝落防止機能を期待したには違いないにせよ、度を越した景観としか言えない。
当面に状況は変わらないと思われ、失われた撮影地点である。

=参考文献=
樹木根系の斜面崩壊抑止効果に関する調査研究 : 今井久(2008年)
植生による斜面安定効果の地盤工学的研究 : 稲垣 秀輝(2011年)

[Data] NikonF4s+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4+1/2 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.


北舟岡 (室蘭本線) 1988

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1870年4月を端緒とした旧亘理伊達藩による噴火湾北岸、胆振国有珠郡紋鼈地域への数次に渡る集団入植と開墾事業は、それの成功事例とされている。紋鼈に戸長役場が開かれた1879年の末までに、人口は2504人を数えるまでとなり、その農業生産には農機具や食品加工の工場が立地し、その従事者は勿論のこと、住民経済の充実に商業者や物流業者なども呼び寄せるところとなって、1880年代の紋鼈には当時の室蘭を凌ぐ市街地が形成されていたと云う。
道内経済の拠点に成長しつつあった函館との連絡は、1800年代始めまでに長万部への礼文華山道、弁辺山道を含む陸路が通じてはいたものの、辛うじて人馬の通行を保証する三尺幅の険しい峠道は増大する物流に応じられるでなく、加えての割高な通行料には海上輸送が主体であった。用いられたのは帆船であり、当初には自然の良港とされた室蘭や近隣でも有珠湾が中継地とされる中で、紋鼈の請願が実り1876年に東浜に埠頭が築造されるに至った。築港のなされれば早速に農作物の移出や消費物資の流入拠点に機能したに違いなく、伊達町史は函館紋鼈間航路開設を1883年とするが、これ以前より紋鼈の商人や函館の米穀商太刀川善吉による帆船が不定期に就航していたのである。
一方で、函館市史によれば、この時期は道内における個人による動力船=汽船の所有、それを用いた海運業の黎明期にあたり、函館でも豪商渡辺熊四郎が自らの経営する函館器械製造所(後の函館造船所、現函館どつくの前身である)で建造の汽船を所有して回漕業に手を染めていた。後の金森回漕組の創始である。その汽船、矢越丸は1885年11月から室蘭・紋鼈との不定期運航を開始し、順調に輸送量の伸びると見るや、これを定期化し紋鼈東浜に出張所を開設したのだった。
同市史は、当時の「水産事情特別調査」を引用して、地域に与えた経済効果を書いている。曰く、有珠・虻田地域の漁獲の不定期な帆船輸送では時期を逸して買い叩かれたものが、汽船の定期就航により産地側に有利な取引が実現し、また肥料にせざるを得なかった有り余る漁獲に商品価値を与えもしたとある。これは農地の換金作物とて同様であったろう。
地形に阻まれて鉄道の開通を1928年まで待たねばならなかったこの地域にとって、およそ半世紀に渡る海上輸送は生命線だったのである。

東浜に造られたと云う埠頭の位置は知れない。紋別川・気門別川河口を境に東浜・西浜と呼んでいたのだから、それは現在にも残る伊達市東浜町の海岸線の何処かであろう。痕跡も残らぬとなれば、史書は「埠頭」と記すものの木造の桟橋程度だったと思える。半世紀に一度も永久構築物に改良されることが無かったことになる。

東浜の海岸を背景に北舟岡へと接近する1列車<北斗星1号>。
運行開始から間もない頃で、重連の機関車は国鉄制式塗色、次位には函館からのスハフ14が従う。
6月と云うに、立ち込める霞が湾岸の視界を遮る一日と覚えている。うららかな日差しの下、信号場当時からと思える打ち捨てられた乗降台に腰掛けて列車を待ったものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


大岸 (室蘭本線) 1992

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礼文-大岸 (室蘭本線) 1990 の記事で、道道608号線の廃道部に残存する岩見隧道と達古武隧道の供用を1944年と書いた。以下は同記事の補遺である。

切っ掛けは、ようやくに「北海道道路史」(1990年 北海道道路史調査会編)を通読したことによる。全3巻からなる、それの第2巻技術編に上記隧道が1870年の竣工との記述を見つけてしまったのである。そこへの鉄道トンネル掘削に先駆けること60年には少しばかり驚かされる。
先の記事では、アジア太平洋戦争末期の工事に「東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない」と疑問も呈しており、その回答とも云えるものの、俄かには信じ難い。この視点で「豊浦町史」(1972年 豊浦町)を解けば、本願寺道路との関連を匂わせる記述が見つかるのだけれど、地理的位置が違い過ぎようか。どちらも出典=一次資料の明示は無い。所載の参考資料群を片端からあたれば巡り会うだろうが、それほどの時間も無い。
ただ、先には北海道庁の資料での記述を信じて迂闊にも失念したのだが、改めて旧版地形図を閲覧すると1917年改測とされるそれに「道路」の存在は確認されたのだった。「長輪線建設概要」(1925年 北海道建設事務所)に収録される写真に写る礼文集落から(鉄道の)岩見隧道へと平行する道路を「工事用通路」と書いたけれど、既存だったことになる。
しかしながら、同じく所収の子持ち岩付近から(鉄道の)茶津・達古武隧道を画角とした写真には、それらしきは見えぬのである。難所のそこが、当時には人馬の辛うじての通行を保証するに過ぎない「通路」だったとすれば、トンネルも素掘りの洞窟風情とも推定され、解像度の良く無い原板にロウレゾの印刷技術には、写り込んでいても判然としないのかも知れない。
取り敢えずに閲覧した資料からは、どのように結論して良いものか。
今のところ1870年と云う確証は手にしていないけれど、1917年の改測図に鑑みれば鉄道隧道以前の1900年代初頭頃までにはトンネルは穿たれ、それは人馬のようやくに抜ける程度に洞窟然としていた、と云うところだろうか。道庁資料の1944年とは、それを貨物自動車の通常の走行を保証するまでの改修を指すのか。市井の道路史家や郷土史家には委細ご研究の向きもおいでのはずで、是非ともご教授願いたいものである。

大岸第一キャンプ場の東端には小さな岩山が存在する。車窓に認めた方も多かろう。チャス岬と同じく後背の山塊からの尾根筋の張出し先端が鉄道や道路建設で分断されての岩山だろうが、俯瞰と言えるほどの高度は無いものの、見渡す海岸風景が気に入って何度か立っていた。
大岸 (室蘭本線) 1991 の翌年、手前に放置されたボートが、その1年に海へと漕ぎでた形跡は無く、小屋の扉は風雪に破れてしまっていた。
通過するのは、定期に格上げされていた頃の3列車<北斗星3号>。470Dとの離合は大岸トンネル入り口付近のはずだか、3列車の僅かな遅れで被られるところだった。

チャス岬根元に現役だった岩見隧道が見える。先の「北海道道路史」は達古武隧道と共に道内最古の道路トンネルと書いている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


長万部 (室蘭本線) 1995

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写万部山の南斜面を水源にオタモイ山を巻くように流れて噴火湾に注ぐ小河川がオタモイ川である。現在、旧旭浜信号場の先で線路と直行するそれは、両岸ばかりか川底もコンクリートで固められた直線の水路そのものに見える。
それもそのはずで、オタモイ川は1950年代に進められた静狩原野の農地化、即ち泥炭地の乾燥化に際して右オタモイ川や左オタモイ川にナイベコシナイ川などの支川と共に排水路に用いられ、開発道路に併行した上記の区間はその際に掘削された放水路なのである。
かつての静狩原野とは長万部川から静狩川まで沿岸に10キロあまりに続く、総面積の600から800ヘクタールと云われる高層湿原であった。このあたり、静狩 (室蘭本線) 2010 に書いている。
ここへ流れ出たオタモイ川は蛇行しつつ海岸線を目指すものの、そこの砂丘に阻まれて旧旭浜信号場裏手から現在の10号農道付近まで2キロほどの長さに沼地を形成した上で、これも煩雑な蛇行を繰りながら西流し、やがては長万部川の河口付近まで達していたのだった。

そして、1923年12月10日に長万部から静狩までを開通した長輪線は、起点2キロから3キロ間の反向曲線の途中でオタモイ川に架橋していた。先の記事で、この反向曲線を「湿原を避けて海岸寄りに進路を遷移するための線形」と書いたが、正しくは静狩側から湿原の只中を回避し海岸寄りを進んだ線路が、オタモイ川の流路に往くてを阻まれ、これを渡河するために選ばれた線形とすべきだろう。
室蘭本線と改められ複線化された現在にも残る線形であり、この付近も泥炭地の農地化は進んだのけれど橋梁前後の流路だけは手つかずで残されている。静狩湿原の太古の姿は、中心部の6ヘクタール程度を残すのみとされているけれど、これも加えて良さそうに見える。湿原水位の低下に狭められたとは云え、低湿地に蛇行を繰返す原始河川の姿である。

この反向曲線を通過する本州からの下り寝台特急群に対し、3月と10月半ばの数日間だけ最良の光線が得られたとは以前の記事 長万部 (室蘭本線) 2003 に書いた。
10月の半ばと云うのは道南地域の紅葉黄葉には少しばかり早く、かといって常紋の峠あたりは盛を過ぎる中途半端な時期ゆえ、ここでの渡道は結局、長万部への連泊となっていた。それでもコンテに描いたような光線に出会えたのは数える程も無かった。
写真は、この情景をポジで撮り始めた頃の習作。日出方位が100度を越える10月21日はタイミングとしては、やはり少しばかり遅いのである。それとカメラ位置が高過ぎて、同じく光線を受ける通信線柱が目立ってしまった。列車は6時37分の通過だった6003列車<北斗星3号>。
試用してみたPanther100(PRP)は、FujiのVelviaに対抗したフィルムだけあって、こんな光線に使うと色乗りが執拗に過ぎた。

さて、ここに残されたオタモイ川旧流路が現在に何と呼ばれるものか。長万部川放水路建設にて分断され、しかもそこで水門にて仕切られてしまった、か細い水流には北海道開発局の資料に準用河川としての記載も無かった。長万部川水系にも現オタモイ川水系にも属さぬそれは、おそらくは河川に扱われていないのだろう。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@8 NON filter PRP Edit by PhotoshopCC on Mac.

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