"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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南稚内 (宗谷本線) 1972

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南稚内で直進する天北線から右に大きく旋回した宗谷本線は、エノシコノナイ川が煩雑に曲流を繰返す露出した周氷河地形を日本海岸へと向かう。けれど、熊笹の低湿地の細い流れは車窓に確認することは出来ない。降雪が降り積もって、ようやくに川筋が露となる程度である。客車急行となった<宗谷>に通った頃のこと、ポジションを探して雪原を歩き、それにすら気がつかずに雪を踏み抜いた足元の水流に慌てたこともある。
川、と云っても小川ほどなのだが、それらしくなるのは稚内高校のグラウンドからこまどりのスキー場下あたりからのことだったけれど、周囲が宅地に開発された今には流路が改変されてしまい、つい上流の原始河川然とした流れとは一変する。道の管理する二級河川としての指定区間もこれより下流とされ、上流側は河川扱いされていない。
かつての天北線路盤を転用した市道と交差するあたりからは、流路こそ変わらぬものの、周囲の市街地には護岸に囲まれ水路と化し、さらにかつての河口からの埋立地内は三方をコンクリートに固められた単なる直線水路である。
それでも故郷の水が呼ぶものか、秋口には鮭がそこを遡上する。建て込んだ住宅の中の三面の水路を遡る鮭の図と云うのは、何やら飛騨古川や津和野あたりの用水路に泳ぐ鯉と重なって何とも切ない。産卵場所はスキー場下からさらに上流の細い流れと思われるが、残念ながらその時期に覗き込んだことは無い。

エノシコマナイとは先住民による「川と川の間の川」の意であり、稚内丘陵からオホーツク海側に流れ出るクサンル川とウェンナイ川に挟まれた水流を指している。和人は、これに犬師駒内の字を当てたのだが、鉄道省は「犬獅駒内」を採用して、今も第一と第二の犬獅駒内川橋梁にその名を残している。

写真は、かの高名な利尻富士の標柱の建つ旭川起点251K096M地点に達した1396列車。稚内を昼に出る音威子府への解結貨物列車だった。
13年後の 抜海-南稚内 (宗谷本線) 1985 と全く同じポジションである。ハエタタキこそ無くなっているが、大火に焼失した樹木が寒冷に再生しない景観は全くに変化が無い。そればかりか、さらに30年後のつい先日の撮影でも同じ光景を眼にして来た。列車がいなければ、何時の時代の撮影か判別出来ぬだろう。
かつて中間線路班が置かれていたと推定される標柱位置の裸地が痛々しいが、ここの笹の植生は現在にも完全には回復していない。此の地点が抜海-南稚内間での宗谷丘陵のサミットであり、エノシコマナイ川の水源のひとつは、カーブに消えて往く線路のすぐ先あたりになる。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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抜海 (宗谷本線) 1979

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天塩線の建設は宗谷線の音威子府を起点に順次北進したのだが、稚内(当時)から兜沼の区間だけは1924年6月25日に天塩北線として終点側から先行した。南線は問寒別までを開業した時点であり、工期の短縮目的には違いない。とは云え、宗谷線は1922年に稚内へと達していたから、それと連絡して道央へ、本州への輸送路が確保され、早速に勇知川流域の入植地から芋の道外出荷が記録されている。
この当時に宗谷郡域の日本海側で古くから和人の定住が進み、集落の体を為していたのは抜海くらいだったのだが、天塩線はこの海岸集落に立ち寄ること無くクトネベツ原野を経路とし、ここに設けられた停車場が直線距離で2キロばかり先の抜海を名乗ったのだった。原野を西に弧を描くような平面線形は、勇知川流域とを隔てる丘陵への取付けゆえかも知れぬが、停車場位置を少しでも集落へと近づけんとする配慮だったとも思える。
当然に原野の只中の駅であった。これは原野が酪農地帯と開発された後年にも、そこに孤立するには変わり無い。

札幌からの夜行<利尻>は終着を目の前にした南稚内で10分近くを停まった。そのシーンを記憶していないのものの、郵便荷物車からの取り下ろしのためだったと思われ、ここでの扱いは稚内では無く南駅だったのだろう。冬なら、まだ夜明け前なのだけれど、ホームに降り夜空を仰いで悪天と判断すれば、やがて向かい側2番線にやって来る単行気動車で抜海に戻っていた。稚内まで北上する事由の積雪を纏った利尻島が望めぬ場合の代替地点にしていたのである。なので抜海に降りたのは冬ばかりで、夏場の記憶は無い。
つい先ほど<利尻>で通過した車窓には駅長事務室に灯りのあるだけだった駅は、待合室も煌煌と明るく、点火されたばかりのストーヴでは薪がパチパチと弾けていたものだった。夜の白み始めるまでそこで過ごし、7時半に通過するキハ56/27組成の<宗谷>に間に合うよう駅を望む南側の丘に上るのが定番であった。勿論、本命はその1時間後にやって来る324列車だったのだから、それまでを暖かい待合室で過ごしても良かったのだけれども、特急設定の無かった宗谷本線では6両編成の気動車急行でもそれに匹敵する被写体に違いなかったのである。
この丘からの遠望には、もうひとつ保険が掛けてあり、背景に雄大に浮かび上がるはずの野寒布岬への宗谷丘陵が見通せないなら、写真機を東に振って牧草地の雪原を収めれば良かった。

写真は、その保険カット。雪原を往くのは324列車、旭川行きである。
おそらく此の日のことと思うが、駅で昼の上下貨物が運休と知らされ、有り余る時間潰しに抜海集落までを歩いた。雪の漁港風景の記憶は失われているものの、その近くの民家庭先に繋がれていた飼い犬のことは良く覚えている。分厚い体毛に覆われた大きな丸っこい犬は、姿に愛嬌もあれば、やたらと人懐っこい。犬と戯れる見知らぬ旅人を認めて庭に出て来た飼い主は「それでも樺太犬」と云い、名前は「ブク」だと笑った。なるほど、名は体なのだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

名寄 (宗谷本線/名寄本線) 1980

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手稲の新興住宅地に暮らした家族が晴れて札幌市民となった頃だから、1967年か68年の冬だったと思う。札幌駅構内各所の分岐器から時折雪煙の上がるのに驚き、何事かと思った記憶が在る。構内に降りて近づく訳にも往かず、遠くから観察していると、列車の通過して進路の切り替わる度のことと知れた。推察は附いたのだが、念のためと4番/5番線ホームの苗穂方にあった輸送本部を訪ねて問えば、案の定、空気で分岐器の雪詰まりを吹き飛ばす装置であり、今冬からの設置には大変に役立っていると教えられた。引き続いて、道内各駅構内に多くが導入された「圧縮空気式分岐器除雪装置」の初見であった。

降雪地域において、分岐器の転撤部・轍叉部への雪詰まりによる不転換には、永らく人力に頼らざるを得なかったのだが、戦後に至り季節要員の不足と賃金の高騰には機械化の研究が行われ、1950年代半ばまでにはシーズ線ヒーターによる直接過熱式の電気融雪装置が上越線石打駅構内での試用を経て、東京や仙台、札幌の各鉄道管理局管内にて実用化され、国鉄本社においても「ポイントヒータ研究委員会」が各地での実績を元に1963年度に「電気融雪器標準仕様書」を策定していた。
しかしながら、当時には床板形も考案されていたものの、軌条に直接に設置する構造にかかわるメンテナンスや分岐器一組あたり2400から3400Wの電力消費に、本社内に設けられた「雪害対策分科会分岐器除雪専門部会」では、ガス赤外線式、蒸気式および圧縮空気式の各方式が検討されたのだった。前の二方式が湿雪ないし潤雪に応じ熱源を要するに対して、後者は寒冷地での乾雪を想定した空気式であり、謂わば掃雪装置とも云えるものであった。極寒地において、電熱式での融雪の再氷結や分岐部通過の振動で列車から落下した氷雪塊の詰まりなどの融雪には、より大きな熱源容量を要して、降雪を積雪のそばから吹き飛ばすのが有効と考えられたのである。

そして、1964年の基礎試験に続いて1965年1月からこれの実地検証の行われたのが、道内でも屈指の寒冷地域に位置し、構内に多数の分岐器の配された名寄駅であった。
初期装置は基本レイルとトングレイル間に埋め込まれたノズルからの5kg/㎤の圧縮空気噴射により、含水率0〜0.5%の積雪なら10センチでも20秒で完全な掃雪が確認されたけれど、少しでも含水率の高くなれば弱点を露呈していた。空気圧を7kg圧に向上、ノズルを大きくした改良型を次の降雪期に同じく名寄駅構内に設置し、10センチの湿雪でも35秒の噴射で除去を確認して実用化に至ったものである。

名寄が極寒ゆえに試験地に選ばれたのはこればかりではない。
将来の北海道新幹線車両設計の基礎データ収集のための試験列車が、1972年度より77年度まで冬期毎に運転されたのも旭川-名寄間であり、近年では281系強制振り子式気動車の試作車によるふた冬に渡る長期実用試験が記憶に新しい。

道道538号旭名寄線の名寄跨線道路橋から名寄構内の南端を見下ろす。
左端が南部引上線、その隣は名寄本線、旭川行き342Dの走り去るのが宗谷本線の上り本線であり、まもなくに隣接の下り本線に合流する。右端は深名線で、この先で分岐する天塩川製紙名寄工場への専用線と線路を共用していた。
引上線に見える分岐器には、もちろん圧縮空式分岐器除雪装置が付加されている。
この除雪装置の使用成績は実に良好であり、吹き上がる雪煙は高架となった札幌駅を含め、現在にも各所で見ることが出来る。おそらく将来もそうだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

南稚内 (宗谷本線) 1986

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1869年、開拓使により北見国の郡名に採られ、北海道庁の成立後の1897年に設置の支庁名ともされた広域地名としての「宗谷」の起源は、現在の宗谷岬から1キロ程西方の珊内集落にある。珊内もここで先住民によりサンナイ(san-nay=浜に出る川の意)とされた小さな流れからの地名なのだが、沖合の弁天島まで岩礁の続く海岸の様を彼らはソヤ(so-ya=岩磯の岸の意)と呼んだのである。1685年の松前藩による場所の設置には岩礁を天然の防波堤とした穏やかな海が交易船寄港地となって拠点たる会所が置かれ、和人は先住民の呼称のままにここをソーヤとし、場所もソーヤ場所と定めたのだった。和人命名によるアイヌ語地名である。「宗谷」の当て字のなされた時期は調べ得ていない。
この地点名だった「宗谷」は会所の移転と共に移動する。それが現在の宗谷市街地である。当時にこの地域での中心地に発展し、冒頭の郡名への採用や、1879年の『北海道一級町村制』(1897年勅令第159号)と『北海道二級町村制』(1897年勅令第160号)の公布による行政区画の設置に際しての村名が宗谷村を名乗ったのも当然と云えよう。同時に宗谷郡に設置の、抜海、稚内、声問、泊内、猿払各村を管轄する戸長役場もそこに置かれた。この辺りが広域地名化の始まりと云えようか。
オホーツク海岸と日本海を隔てる宗谷丘陵に、国際名ラ=ペルーズ海峡に対する日本での宗谷海峡の命名時期も明らかにしようとしたが、当たるべき文献が見つかっていない。先達のおいでなら、ご教示願えると有り難い。
1888年には戸長役場が移されて新たな拠点に成長しつつあった稚内村に向けて建設の進められていた鉄道の線路名称は、永く天塩線部の天塩線とされており、宗谷線部の宗谷線に改められるのは、宗谷支庁の設置されて以降の1912年9月21日のことであり、これは北海道北端部に対する広域名称「宗谷」の定着化ゆえであろう。
なお、宗谷岬の名は戦後の日本最北端としての観光向け命名として良く、それまでは大岬と呼ばれていたのである。

列車愛称としての<宗谷>は、1960年7月1日の道内ダイヤ改正にて設定された札幌-稚内間に毎日運転の臨時準急への命名が嚆矢である。道内に気動車準急網の整備の進められた時代であり、苗穂機関区に配備されたばかりのキハ22の2両組成が充てられた。
戦後の宗谷本線への優等列車は1958年10月1日改正での夜行準急が先行したが、1956年の北海道周遊乗車券の発売でブームになり始めていた離島を意識しての<利尻>の付与は、代表列車名としての<宗谷>を温存したものでもあったろう。1961年10月1日の全国白紙改正では定期列車化と急行格上げに函館への延長のなされ、これも新製間もない急行型キハ56/27系列による堂々の本州連絡急行となるのだった。敗戦により樺太を失ってから途絶えていた稚内への連絡急行の復活には<宗谷>愛称の本領と云えただろう。我々の世代には函館山線を越える印象の強いのだが、1964年10月改正までの3年間は<摩周> <オホーツク>に併結の室蘭・千歳線経由だった。

林野火災により周氷期地形の露出したエノシコマナイ(犬師駒内)原野を往くのは、302列車<宗谷>。
1981年10月改正で札幌以南が特急格上げにて分離されれば、編成も短縮された地味な気動車急行と化していたのだけれど、1985年3月14日改正を以ての14系置替には機関車屋/客車屋としては蒸機廃止から途絶えていた稚内通いを否が応でも再開するところとなっていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい更新の滞り気味です。3月末頃までのこととご容赦下さい。

塩狩 (宗谷本線) 1977

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名寄盆地は上川盆地の北端とは標高300メートル程の山稜にて隔てられ、獣道のごとき先住民族の交易路は通じていたかも知れぬが、人馬の通行の、増して物資の輸送に供される通行路は存在していなかった。幕末期から開拓使の時代となっても天塩国への往来は、江別太から石狩川を遡ってシラリカ(現在の雨竜市街地付近)より雨龍越えで留萠に至り海岸線を北上する経路であった。名寄盆地は天塩川河口から遡る最奥地だったのである。
そこへの開拓入植は、1897年のケネプチ(剣淵)原野への定住を始まりに1899年にはシペツ(士別)とケネプチに兵村が設けられ、タヨロマ(多寄)、ナイオロ(名寄)、フレペト(風連)への入植も進んで、その年の2月には風連へ剣淵ほか三ヵ村の戸長役場が開かれている。
一方、1894年から始まった上川盆地北端のピオプ(比布)原野への入植も、この間に進展したのは偶然では無い。『北海道鉄道敷設法』(1986年5月14日法律第93号)第二条の予定線に「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」が規定され、1897年6月に着手されたことを背景にしていたのである。また、同じ時期には経路を同じく仮定県道天塩線の工事も始められており、この地域における交通の飛躍的な利便向上が約束されていたのだった。

これにて石狩と天塩の国境を越える峠として開削されたのが塩狩峠である。道路は1898年に通じ、鉄道は1899年11月15日に天塩側峠直下の和寒までを開業した。蘭留から和寒への13.5キロに停車場の無く、列車は無人の山中を黙々と越えていた。夜間運行の列車の車窓には灯り一つ無い漆黒の闇の続くばかりだったに違いない。
この間に行違設備を要して峠頂上近くの10パーミル勾配上に塩狩信号所の置かれたのは1916年9月5日と記録される(規程改正により1922年4月1日付にて信号場)。当初には原生林に沈むランプの信号場であり、上り乗降場の背後に建てられた官舎に移り住んだ鉄道職員と家族は深い夜に暮らしたのだった。
隣接しては1923年に自然湧出の鉱泉に湯治場の開かれ、1925年には塩狩温泉旅館が建てられた。1924年11月25日付での駅昇格は、それによる乗降客の増加に応じてのことだろう。戦後には復員軍人や外地からの引揚者の帰農促進の緊急開拓事業にて周辺にも開墾地が出現するも、集落の形成には至らなかった。付記すれば、この開墾地は1970年代初めまでに離農により放棄され、線路東側のそれは植林地に転用された。今には杉の深い森に還っている。

写真は塩狩に到着した323列車、名寄行き。
周辺に集落の在るで無く、国道からも隔絶された位置にあったこの駅は、日の没すれば太古からの闇に包まれた。構内の照明に雪明かりも期待してバルブを切ったのだが、写真は光が無ければ写らない。ランプの頃の夜の底は如何ばかりかと思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 Bulb@f8 Nikon L37filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※ このカットはWebsiteのGalleryで既出の再掲です。但し、ディジタル上での編集処理をやり直しています。

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