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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

浜頓別 (天北線) 1985

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1970年代の後半に毎年のように通った興浜北線へは、札幌からの夜行<利尻>を午前3時の音威子府に降りて、一時間後に連絡する天北線列車に乗っていた。これは北見枝幸行きを併結していたから、それに乗ればまだ薄明の斜内に直通出来たのだった。けれど、長旅に深夜の起床も辛くなったものか、一度だけ浜頓別に泊まっている。駅前の浜頓ホテルである。
塩狩で一日を撮り終えての移動は23時の到着で、寝るだけの宿の一階フロントから2階への階段壁面に架けられた北オホーツクの油絵が見事で思わず見入った覚えが在る。ホテルでは無く旅館と承知していたけれど、予約の電話では洋室か和室かを問われ、洋室と答えていたそれにはバス付のツインルームが用意されていた。ツインルームは閑散期ゆえの便宜ではあろうが、道内では都市部のビジネスホテルでもまだまだバス無しが一般的だったこの時代に、それの設備には驚いたものだった。ここには駅前商人宿ばかりでなく観光需要も存在したのだろう。

80年代半ばに、思いもかけない天北線客車急行の運行で、ここへは再び足を運ぶことになった。けれど、それには朝の<宗谷>を稚内で捉えてからでも十分に間に合ったから、浜頓別に宿泊することはなかった。食事に寄った浜頓ホテルの食堂メニューには惹かれるものがあって(勿論酒の肴に)、ここを拠点にした天北線撮影も目論んではいたのだが、実行の機会の無いままに線路自体が消え失せた。

下りの<天北>は陽の短い季節には天北線に入ると日没を迎えてしまうから浜頓別でのバルブとして、上りを撮り終えればそこに移動して待っていた。
写真は風雪の中を稚内から到着した726D、音威子府行き。ここで15分程停まる。
この頃には、経費節減とやらでホームの蛍光灯は消灯されており、構内はほの暗くて駅の活気も感じられない。ここは興浜北線ホームへの通路だったのだが、この7月に廃止されてその先は雪に埋もれるばかりだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S  1/125sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

鬼志別 (天北線) 1986

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猿払村域の天北線には4駅(他に仮乗降場の2場)が存在したが、村の代表駅は村名を名乗る猿払では無く鬼志別であった。
ここに集落の形成が先であったか、停車場の開かれたゆえであったかは調べていないけれど、ここに鉄道の開通したのは1920年11月1日のことで、宗谷村から分村しての猿払村の成立は1924年と記録される。それから半世紀以上を経て見た駅は市街地の外れに位置していた。市街地とは云っても、駅前通りは鬼志別川を渡り2分も歩かぬうちに家並みは途切れ、右をみれば村営住宅と思われる住宅が続いていたから、本来の集落規模は極めて小さいと知れる。

駅は、その開設から2年間は宗谷本線(*1)の終端駅だったから、その設備として機関車の駐泊施設に転車台も置かれて、後には稚内機関庫の鬼志別分庫ともされていた。1922年11月1日に稚内(現南稚内)までが全通すると小石から曲淵へ宗谷丘陵を越える勾配区間の補機基地を要したゆえである。
頓別・猿払原野の開拓と樺太への連絡を目的に建設されたこの線の停車場は300メートル近い本線有効長が確保され、副本線を設備した例も多く、加えてここは客車留置に使われたであろう側線も有していた。それは、その地位
にあったのは僅か4年ばかりに過ぎないのだが、幹線駅の風格と云えた。
本線有効長に比しての客車で3両程度のアンバランスな乗降場延長は、その4年あまりの間に運転された小樽-稚内間や函館桟橋-稚内間などの長距離列車(*2)を例外として、混合列車での客扱いに対応すれば十分との設計なのだろう。
本多勝一氏の著作『北海道探検記』には、開拓地への入植の入口駅として機能した姿がルポされており、実際に利用の多かったものであろう、猿払村史には1941年に駅舎改築との記述がある。それが、新築であったか、増築をともなう改築を意味するのかは知れぬが、駅本屋の下頓別や浅茅野、猿払に比べて一回り大きかったのは確かである。

北オホーツクの早い秋空を空中の腕木信号機梃子のケープルが横切る、鬼志別駅の暮色。
キハ22の単行列車は、鬼志別下り本線に停まる727D稚内行き。ここで、後部に回1742Dで小石から回送され滞泊していた1両を併結、さらに曲淵では前部に744Dで到着した2両編成を加えて、稚内到着時にはキハ22ばかりの4両組成になる。
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(*1) この音威子府から鬼志別までの開業時に線名の宗谷線を宗谷本線と改めたが、1921年10月5日付で宗谷線に戻された。しかしながら、1922年11月1日の稚内(現南稚内)まで全通直後には11月4日付にて再び宗谷本線とされた。
(*2) 全通と同時に函館桟橋-釧路間急行に接続する小樽-稚内間列車を設定。稚泊航路の開設された1923年5月1日改正からは、これに替えて函館桟橋-稚内間急行の運転を開始している。但し、急行券所要区間は滝川までで宗谷線内は普通列車であった。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/60sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

安別仮乗降場 (天北線) 1985

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戦後の北海道の鉄道景観に特異性を与えた存在に「仮乗降場」がある。その中核を成すのは旭川鉄道管理局管内に集中した一群であった。それは偶然では無く、そこに第二代局長として赴任した斉藤治平の発案、尽力によるものである。

1958年発刊の国鉄による鉄道エンサイクロペディア『鉄道辞典』は、仮乗降場を「季節的に旅客の集中する場合等旅客乗降の利便を図るため駅以外の場所に設備した乗降場を云う」と記述している。「駅以外の場所に設備した乗降場」とは奇妙な表現だが、「仮駅との異なるところは、仮乗降場には営業キロ程が設けられず」と続いて、ここでの「駅」とは運輸営業上のそれであり、仮駅と区別の必要からの用語と知れる。
同記述はさらに、それの「設置は本社で行っており、その開設期間や旅客取扱区間等については鉄道管理局長が定める」としながらも、最後段で「現在通勤・通学の利便を図るため、鉄道管理局長かぎり臨時に列車を停車させ旅客の取扱を行っている場所があり、これも仮乗降場または臨時乗降場と通称する」と書く。
敢えての言及は、従来手続きと異なる「仮乗降場」がこの頃までに相当数に存在していたことを示し、それが旭川鉄道管理局による仮乗降場群なのである。「と通称する」の件は、それの正式呼称が存在しないと読め、本社として扱いに苦慮していたことを物語る。

斉藤についての多くは知り得ない。本社からの赴任は1954年半ば頃と思われ、1953年に交通経済社から『国鉄自動車経営論』の著作があり、地域輸送事情に通じていた人物と推定される。
赴任後の管内巡視から、冬期には馬橇すら通行に難儀するほどの僻地の気象条件や交通事情に鑑みて、各所への極めて簡素な乗降施設の設置を発案する。想像の域を出ないのだが、それは斉藤の専門分野と思われる旅客自動車の停留場の発想であろう。且つ簡易停車場としても時間を要する手続きを避けて設置を急ぎ、自身の責任において局独自の施策としてこれを実行したのである。これも推定だが、設廃の局長権限である災害時や工事施工時の臨時乗降場設置手続きを拡大解釈したのではなかろうか。
赴任翌年の1955年に8線区へ39場、1956年には10線区31場を開設し、1960年までに管内12線区へ97場を設置している。
勿論この施策には、この頃までに道内の多くのルーラル線区に運転を開始していた内燃動車の存在が背景にあり、当時の旭川局では、これら新設乗降場を単に「気動車駅」と呼称していた。これは国鉄部内で通常に使われていた用語である。
斉藤は合わせて液体式気動車の管内への導入も積極的に推進し、富良野線の1958年1月25日改正における客貨分離のように本社施策として実現させた例もあり、この際に設けた同線の仮乗降場はまもなくに駅へと昇格している。

この旭川局管内の事例を以て、現在に仮乗降場イコール本社非承認案件、即ち鉄道公報に達の記載されず管理局報での通達により設置とする情報が流布されるが、些か疑問である。中には駅設置基準の推定利用者数に交通不便地を考慮する緩和条項へ照らしても本社の難色を示した案件や、斉藤の手続きを無視した方針への反発も在っただろうが、最終的には承認を得たと見るべきであろう。前記富良野線の例ばかりでなく、早い時期に駅への昇格を果たした事例も存在するからである。乗降場が既存で局による通達も出されており、遡った達を省略する内規が定められたものではないだろうか。
同時期には推定利用者数に大差の無いと思われる案件が、広尾線依田や士幌線武儀のように正規の手続きを踏んで正駅として開業した事例も存在する。
(元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978 に続く- 文中敬称を略した)

天北線には仮乗降場の連続する区間が2区間存在していた。ここは、飛行場前が先行して1955年12月2日に、安別は翌56年11月19日改正を以て開設されている。
周囲は見渡す限りの酪農地帯であるが、戦争末期には飛行場前の名のとおり、この周辺に陸軍浅茅野第一飛行場の滑走路が完成していた。牧草地は敗戦にて使われることのなかったそれの転用である。その建設には連行された朝鮮人らの強制労働の歴史が在る。

ロケハンに疲れ安別仮乗降の乗降台で一休みしていると、空冷式単気筒3馬力機関の甲高いエンジン音とともに軌道自動自転車が爽快に通過して行った。閑散線区の線路巡視なら、それに限るだろう。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/500sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

猿払 (天北線) 1986

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猿払、最後の夏である。
ここが線区とともに廃駅となるまで、まだ3年半を残すのだけれど、この年の11月改正にて猿払は閉塞扱を廃止し中間駅となるのである。上り方下り方の分岐器に場内/通過/出発の信号機は撤去され、第二乗降場は不要となる。もちろん要員は引上げられ、無人化される。

もっとも、貨物列車のスジの無くなった84年2月改正以降、所定ダイヤではここでの列車交換の設定は無くなっており、朝方の3本と夜間の2本列車には浜頓別-鬼志別間で併合閉塞が施行されていたから、閉塞は急行を含む日中の8本列車に扱うのみであり、何時廃止されても不思議の無い状況だったのである。
浜頓別-鬼志別間に在った閉塞駅の内、山軽/芦野が60年代末に、ほぼ中間に位置する浅茅野が73年9月と云う早い時期にそれの廃止され、猿払が残された事由は解らない。81年度データでの乗車人員も浅茅野が上回っていた。
ともあれ、ここは86年10月31日まで旅客駅で在り続けた。但し、併合閉塞施行の時点で駅長は廃され、浜頓別の管理駅となって運転要員はそこからの派遣であった。(なお、この際に音威子府方から上り本線への進入/進出ルートが確保され、以来第二乗降場は使われていない)

この時は、札幌での用務の際に足を延ばしている。いつも撮影でお世話になっていた牧場主に、そこからの写真をパネル化して届けに赴いたのである。撮影機材と一緒ではとても持ち歩けない。
<利尻>で音威子府から入り、廃線後の興浜北線を眺めてから牧場を訪ね、この日は稚内に泊まって翌日に空路で帰京している。

列車は、駅員の監視にて発車して往く724D音威子府行き。見慣れていた光景だが、やはり良いものだ。
北オホーツクの短い夏は、もうすぐ終わる。

[Data] ContaxT CarlZeissT*35mm/F2.8 Aperture-Priority AE(f5.6) Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

寿仮乗降場-新弥生仮乗降場 (天北線) 1985

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夜の闇を衝いて走る列車は魅力的な被写体に違いない。
暮色や薄明ではなく、夜間である。構内照明の中での駅出発ではなく、駅間である。沿線でそれを待てば前照灯の描くサークルと客窓の灯りで列車は夜に浮かぶから撮れそうに見える。

但し、それには幾つかの条件を考慮せねばならないのは当然であった。
シャッタ速度とある程度の被写界深度の確保にはTri-Xをどこまでも増感すれば良いけれど、ISO12800は35mmフィルムには論外で、ISO6400でもどんな現像を試しても粒子の荒れが大きくてディテイルが崩れてしまうゆえ、この目的にはせいぜい3200が限界と知れた。
前照灯と客窓を写し込まねばならない画角決定も、それの強い光りによるハレーションを避けて俯瞰気味の位置を要し、見かけ上の動きの小さくなるよう列車の移動方向と光軸は浅く交差させねばならなかった。習作を繰返して理解するのだが、光源としての列車周囲の光景は単純であること、加えて前照灯の光束を明確化出来れば、それに越したことはない。この条件の一例には、積雪線区での降雪時があった。

写真は、激しく降り積む雪中に、第八頓別川橋梁(118M)付近で捉えた303列車<天北>。
このカテゴリでは結局のところ満足の往くカットは撮れずに終わっていて、これも習作である。
編成の存在を捉えるべくR400の曲線を選んだのだが、列車速度は70km/h以下に落ちているものの、フィルム上での見かけの動きは速くて1/60秒ではブレを生じてしまっている。窓明りも明確でない。

このカットから20年を経て、ディジタル撮影のもともと集光性の高い撮像素子と画像エンジンの性能向上はISO12800を常用感度域に含むに至り、それは銀塩の限界を軽々と越えている。夜間の走行写真は、もはや当たり前の撮影領域だろう。
コンテもある。アイデアもある。けれど、撮れる機材を手にした頃に、撮りたい列車はとっくに走り去った。そんなものである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 Non filter Tri-X(ISO3200) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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