"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

猿払 (天北線) 1985

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天北線(当時の北見線)への気動車運行は1955年12月1日に音威子府-稚内間の混合列車1往復を置替えたのが始まりである。その秋に稚内機関区へも投入されたキハ48000(称号改正後のキハ11)が運用された。そして、年の明けた1956年2月26日には、それの増備とキハ10000(称号改正でキハ01)の配置を受けて、早くも貨客分離が実現していた。列車本数の少なさもあろうが、これは宗谷本線の名寄-稚内間に先駆けてのことだった。
この際に、混合列車から貨車を引継いだ蒸機の牽く貨物列車が幾本設定されたものかは解らぬが、手元に資料の残る1963年10月改正ダイヤには790から793列車の4本に、音威子府-浜頓別間の区間列車2本の計3往復が見て取れる。全線を通す4本は全て昼間の運転であり、この頃に小石-曲淵間の峠に立てば、その全てを異なる光線下で撮れたことになる。これの削減は1968年10月改正であり、沿線物流の道路輸送への移行は早い時期から始まっていたのだろう。
道北へと遠征を始めた頃の浜頓別以北での1往復運行は、貨物の3往復に加えてC55の旅客列車まで撮れた宗谷線に比すれば効率の悪いのは明らかであり、実は一度も撮っていない。蒸機の無くなってからも興浜北線へは通ったのに、天北線はキハ22の2両組成を恵北の丘から幕別原野に望む程度でお茶を濁していた。

そこへもたらされた1985年3月改正からの昼行客車急行の運転、<天北>の客車化のニュースは青天の霹靂として良かった。1972年の<白山>の電車化、特急格上げ以来に白昼を堂々と駆け抜ける客車による優等列車は新潟以北の<きたぐに>に、函館山線を重連の機関車で越えた<ニセコ>だけであり、それが<宗谷>と合わせ2往復も追加設定されるなど夢にも思わなかったから、鉄道雑誌に見つけた速報に機関車屋は驚喜したものだった。しかも、<天北>は優等列車牽引なら1968年10月改正での米原-田村間<日本海>以来のDE10が登壇と相成った。
かくして始まった天北線通いは、ポイントの探索からとなり、音威子府の北で天北峠を越えての頓別川流域よりも浜頓別から先のクッチャロ湖をはじめとする海跡湖が点在し沿岸湿原の続く猿払原野区間に惹かれ、中でもポロ沼を茫漠と遠望した情景が、世話になったそこの牧場主一家と共に印象に残っている。

写真は夏の日の猿払駅本屋。
それにしても旅心は無いのだな、と熟熟に思う。
鉄道の旅はそれはそれは随分としたのだけれど、車窓を肴に酒を舐めるのは旅情とは云わぬだろうし、写真を撮りに往く旅ならコンテの検討が先に立っていたし、仕事の移動に乗るならば着いてからの手順が気になった。鉄道屋だから汽車に乗ることこそ旅だと偏った理解はすれど、それを写真にするなぞ思いもしなかったのである。撮り切れずに断念した話しは 奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977 にも書いた。
これも光線が気になったのが先行して、せいぜいに上りの到着に忙しい駅員氏を待合室越しに抜いた程度である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

猿払 (天北線) 1986

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天北トンネルで頓別川の谷に出てから、頓別原野に猿払原野を北進して宗谷丘陵に分け入るまでの天北線の車窓には延々と牧草地が続いた。それは同じ酪農地帯としても、緩やかな起伏のそれに落葉松林や広葉樹の樹林帯の交互に現れた標津線とは異なり、車窓の視座からでは原野や海岸湿原とは見分けのつかないくらいにどこまでも平たく広がっていた。けれど、どこか茫漠としているに違いは無く、ここでも通過する駅名を読んでいないと自分の位置を見失った。

農林水産省の2007年度データによれば宗谷郡猿払村の耕作地面積は5670haとあり、その内の5640haが牧草の栽培地である。そして、69戸の酪農農家が7630頭の乳牛を飼養している。村の農業生産額322千万円は、肉用牛を飼育する3戸と合わせ、全てが畜産業により産み出されている。
残る30haの耕地には穀類(麦であろうか)に、大根・白菜などの野菜の栽培されるらしいが、統計に数字として現れて来ない。これら現況は浜頓別町に中頓別町も同様であり前述の車窓を裏付ける。けれど、それは戦後の、強いて云えば近年に出現した景観である。

1924年の猿払村の成立からの戦前期において村域の広大な山林・原野は、内地新興財閥系の王子造林や三井造林に所有される原木の供給源であった。そこには同系の農場も開かれ小作農が入植していたものの、原木伐採の地積獲得目的の実態には定着を見ること無く、僅かな民有林で1920年代に開墾入植の記録もあるが、冷涼な気候に加えての掠奪農法には数年で離農を余儀なくされていた。この時代の猿払は天然帆立貝の漁獲に沸いた漁業が中心産業であり、かつての宗谷本線(後に天北線)の車窓にはハンノキの灌木が散在する泥炭の原野が果てしなく続いていたのである。
これを含む猿払原野での本格的農地開発は、戦後の「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月9日閣議決定)に基づく開拓入植以降のことになる。しかしながら、その初期政策が基盤整備を伴わず、単にアジア太平洋戦争の敗戦にともなう引揚者や農家の次男・三男の収容目的でしかなかったため、特に泥炭地の排水不良による畑作の低生産性に冷涼な気候、過酷な自然環境から、その入植者たちの生活は辛酸を極め、多くの離農者を生んだ。その様相は不振開拓地として社会問題化するのだが、批判が拓殖政策の不備に向かわず、ここを「農業不毛の地」として北海道開発政策そのものを不要とする論調を巻き起こすに至って、1963年に北海道は「猿払村開拓地特別新興対策実施方針」を策定して国に対して強く支援を迫り、農林省は1967年度を初年度とした三カ年計画の「第一次農業構造改善事業」を打ち出して応じたのである。それは、この地での持続的営農形態として酪農への専業化を掲げていた。
猿払原野への乳牛の導入は1932年に既に記録のあるけれど、あくまで半自給的畑作営農の一部とされ飼養頭数も1頭からせいぜい数頭に留まり、これは戦後入植者にも引継がれていた。これに対して、上記事業では、未利用地の機械開墾に離農農地の再配分による農地拡大や牧草地転換、電力に用水確保の営農基盤整備に、農家へ牛舎やサイロ、搾乳設備などの建設に積極的な融資・補助を実施して酪農専業営農への誘導がなされ、現況への発展の基礎となった。この際に泥炭低湿地の大規模な排水が未墾地開発事業として行われ、天北線の車窓は1970年までには一面の牧草地へと姿を変えたのであった。

遍く夏風吹き抜ける牧草の海を渡って往くのは、304列車<天北>。
写真の頃、猿払村がこの豊かさを手にして、たかだか10年あまりに過ぎなかった。
いつも撮影位置にさせていただいていた牧場の主に伺えば、秋田県よりここの東山農場の小作農として入植した祖父が、その後樺太開拓団に加わるも敗戦にて引揚げとなり、1949年に舞戻って開拓入植したものと云う。ご苦労なさったはずだが、80を越えていた当の爺様は訪ねる度に「また来たのか」と笑っていたものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

常盤仮乗降場 (天北線) 1985

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戦後に北海道の国有鉄道路線上には、その鉄道景観を特徴付けることになった仮乗降場の多数が設けられた。どの施設も地方機関の限りにおいて設置されたに違いはないが、1949年6月1日の日本国有鉄道発足を境に、前後ではその性格は異なったのだった。
これは、2013年6月に 安別仮乗降場 (天北線) 1985からシリーズで記述した仮乗降場に関わる記事の補遺である。

アジア太平洋戦争の敗戦直後より日本国有鉄道発足までの仮乗降場の開設は、戦地からの復員や外地よりの引揚げによる人口動勢に端を発していた。1945年から47年までの2年間に、実に622万人にも及んだこれら人々の収容と人口増にて危惧される食料難に対して1945年11月9日に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域の交通手段として鉄道駅の必要とされたのである。当時に国有鉄道を管轄した運輸省鉄道総局には多くの新駅設置の請願が行われた中で、特に未開墾地の多くが所在し早期に入植の進展した北海道においては、緊急の国策に政府の要請も強く、本省の裁可を待たずに札幌鉄道局の限りに仮乗降場としての設置が進められ、その数は11線区での23箇所に及んだ。都市近郊での1箇所に炭住街の拡張による運炭線上の2箇所を除けば、全てが道北道東地域に所在した。(具体的個所は追記にて記す)
この当時の国鉄は常設駅を無人駅も含めて恒久施設と考え、これら仮乗降場も将来の駅昇格を念頭に土盛の乗降場に待合所、必要とあらば本屋も備えていた。中には木材組み板張り構造の乗降場と云う個所も含まれたが、あくまで駅昇格時の本工事を前提に工期短縮の仮設備とされて少数派であった。

1949年に発足の日本国有鉄道は、鉄道総局への請願に対して1951年3月の理事会にて新たな駅設置基準を内規に定めた上で、それに適合した93駅の新設を同年7月14日付にて承認した。この内、38駅が仮乗降場からの格上げであった。ところが、道内の23箇所には上記承認とは無関係に昇格を果たした個所のあった反面、全てがそれを認められたでは無かったのである。
この際の駅設置基準は、地形・線路状態が設置に適し且つ工事の容易なことを前提に、便益者側での用地寄付や工事費の負担があり、既設駅間距離の8キロ以上の中間に位置する、一日あたりの推定乗降客数の500人以上の旅客駅を承認条件としていたものの、僻陬地についてはそれの300人以上と緩和され、さらに仮乗降場からの昇格には駅間距離の条件も緩められていた上に、鉄道以外に交通手段の無い地域には特段の考慮との項目も付されていたに関わらずであった。石北線の旧白滝・野上(新栄野)・生野・鳥ノ沢、池北線(当時に網走本線)の笹森の5箇所を数えた事例の、個々の事情は知り得ない。

国鉄の理事会が打ち出していた、この93駅の設置承認を最後に「今後当分の間は新駅設置はしない。事情止むを得ないものと云えども地方機関限りで仮乗降場も設置してはならない」との方針に反旗を翻したのが、旭川鉄道管理局の第二代局長として1954年に赴任した斉藤治平であった。管内視察から、そこに数多くを擁した僻陬地に位置する開拓集落の、地理的条件や気象状況に数キロ先の駅までの交通にも難儀する実情に鑑みて、離任時期は調べ得ていないが、1960年までに管内の12線区に実に97箇所もの仮乗降場を開設したのである。
当然に本社との軋轢を生んだのだが、彼は自らの構想を本社の云う仮乗降場とも考えていなかった形跡が在る。線区としての輸送量を重視し乗降場あるいは駅としての乗降客数の集積に拘らないのが斉藤の発想であり、進展しつつ在った気動車運行を前提に、バス停留所のごとくに乗降施設の短い距離間隔での多設を想定していたのである。本社への意見具申の中での指導により中途半端に終わったのだが、構想通りに実現していれば設置は200箇所に迫ったのではなかろうか。施設自体も乗降扉1枚分程度の乗降台を考えていたものが、これは運転側のブレーキ扱い上の要望にて気動車と同等の有効長とされた。板張りの粗末な乗降台と云う北海道に特徴的な鉄道景観は、斉藤の構想に始まったとして良い。

常盤仮乗降場は下頓別から3キロ余りの音威子府起点54K820M地点に1955年12月2日に開設されている。写真にも見える通り、広大な酪農地帯に位置し農家の散在するものの、周囲に集落の存在するではない。ここも、1950・60年代には高校生の街への下宿を不要とし、小荷物として特認された生乳の出荷にも大いに寄与して列車着発の度に賑わったものであろうが、線路際にバス停然とした施設だから、代替交通機関の発達すればいつしか忘れ去られ、廃止予定線ともなれば尚更に放置されるのみだった。

本社が斉藤の具申を認め、それに続いた他の管理局での設置も追認し、最後には前述の方針の撤回に至ったのは、それが増収をもたらした故と推定する。以後、国有鉄道の矜持としての土盛の乗降場にも拘らなくなるのだった。
(文中、斉藤治平氏の敬称は略させていただいた)

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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曲淵 (天北線) 1986

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この駅に降り立ち駅名標を眺めれば、そこには「稚内市」と記され、些か意外だった覚えが在る。平成の大合併とやらで広域に及ぶ自治体の珍しくもなくなった昨今ならいざ知らず、線路は南稚内まで32キロ余りを残していたからである。
この地は1879年に開拓使が宗谷郡を置いた際、声問村戸長役場の管轄区域に含まれた。宗谷湾岸声問川の河口付近に漁業者と思われる和人の定住が在り、その集落に先住民族による地名 koy-tuyeに声問の字を当て村名としたものだが、声問川の上流域に向けては宗谷丘陵に至るまで無人の原野(上声問原野と呼ばれた)が続いていたゆえだろう。1900年7月1日付で施行の北海道一級市町村制(1900年5月19日内務省令第19号)にて稚内村が指定されると抜海村と共にその一部となり、声問村の名は大字として残された。稚内が村から町、そして市へと改められた1949年4月1日以来、稚内市大字声問村字曲淵なのである。大字としての旧村名の存続は先の内務省令によるが、その後の改正で「村」を省略ないし廃する例が大半の中、ここではそれが現在まで残るのが珍しい。

そして、曲淵の地名はこの鉄道停車場名からの派生である。ここは、鬼志別まで達していた宗谷線の最終区間として1922年11月1日に稚内(現南稚内-但し位置は異なる)までを開通した際に、閉塞距離のある宗谷丘陵越え区間の西側に行違い設備を要して上声問原野の只中に設けられ、そこに集落なり人家の存在したでは無かったのである。命名者は知らぬが「北海道駅名の起源」(1939年鉄道省北海道鉄道局編)によれば、付近を流れる「ウベ、ウタン川」(宇流谷川を指すのだろう)の「淵を成し」且つ「甚だ湾曲」した流れからの付名とある。鉄道職員の居住に稚内町も、この年に大字声問村に曲淵の字を置き、鉄道を頼りに入植者や林業従事者の定住が始まって次第に集落の形成されたのである。
ここには、1940年に天北石炭鉱業が稚内坑(通称-稚内炭坑)を、宗谷炭礦が曲淵坑(通称-宗谷炭坑)を開き、戦時下には軍部による炭油抽出の指定坑として盛業し、戦後1950年前後の最盛期にはそれぞれが年間7万トンを出炭していた。その輸送に天北線の用いられたのは云うまでもなく、両坑のホッパまで専用線が引込まれていた。当然に炭住街が成立し、炭坑従業員だけでも500人を越える人口を抱え、多くの飲食店に劇場も営業する「街」であった。稚内との人的往来も盛んであったと思われ、天北線に最後まで残った稚内-曲淵間列車設定はその名残だったろう。
1958年に稚内坑が、1963年に宗谷坑が閉じられると個人経営の赤松炭坑による露天採炭が細々と続けられたものの、集落は衰退し、2010年国勢調査データでは61世帯113人が暮らすのみである。

夏の訪問で虻の大群に集られて散散だった線路沿いの林道へは、その秋に再訪した。→小石-曲渕 (天北線) 1986
高い緯度での紅葉黄葉に選んだ時期は、まだ尚早だったのだけれど、今度はゆっくりと心地よい林道歩きを楽しめたのだった。
列車は、勿論304列車<天北>。

余談だけれど、Web上に散見される、この駅が開業時に「曲渕」と名乗ったとか、読みを「まがりぶち」とする記述は誤りである。この区間の鉄道運輸営業開始の告示(1922年10月27日鉄道省告示第144号)に記載の通り、開業時より「曲淵」であり、曲渕であったことは一度も無い。読みも「まがりふち」とルビの振られている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

浜頓別 (天北線) 1985

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旭川稚内間鉄道は1896年に成立の『北海道鉄道敷設法』(1896年5月14日法律第93号)第二条に規定の「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」を建設の根拠とし、この年7月の臨時北海道鉄道敷設部による調査をもとに早急に建設に着手すべき第一期線に組み入れられたものである。法定条文に経過地の記されないこれに対し、同敷設部は音威子府以北区間について「天塩川・サルペツ原野回り」と「頓別・猿払原野回り」の比較検討から、距離の短く且つ北見・天塩国境越えにも勾配の緩い前者の採用を前提に、名寄以北区間の工事を1909年9月に着工したのである。
しかしながら、この1900年代初頭は、道内における鉄道敷設の主導権が、それまでの大地主たる華族集団から当時に台頭しつつあった新興資本とその代弁者たる政治家・政党へと移行する時期と重なり、鉄道の誘致は各所において、巨大政党であった立憲政友会とそれに対立した同志会(後に憲政会)の地盤と利権確保の具とされ、この音威子府以北区間もその政争に巻き込まれるところとなった。ここで予定の天塩経由維持を主張したのは政友会であり、反政友会系の大同クラブ(同志会)が、頓別原野経由とする『北海道鉄道敷設法』改正案を提出した1912年2月の第28回帝国議会にて両者は厳しく対峙し、線形からも建設の容易さからも天塩経由の優位性は疑いの無いところではあったけれど、その激烈を極めた政争に鐵道院の正論の入り込む余地も既に無かったのである。
これは鐵道院総裁後藤新平の政治判断をして頓別回りにて決着するのだが、そこには同時期にやはり海岸線と山手線との争いの在った湧別原野網走間鉄道の政友会が主張する山手線採択と相互に裏取引の存在も囁かれるものの、確証は残されていない。
いずれにせよ、鉄道線路は、この頓別原野経由線と云い、常紋国境越えの山手線と云い、比較線のありながら難工事の想定される経路に建設せざるを得なくなるなど、最早鐵道院が自主判断で合理的に選定出来るものではなくなっていたのだった。

頓別原野線は、この決定を受けて同年10月に小頓別まで区間から順次着工したものの、そこの天北隧道が軟弱地質に加えての強い土圧に難行し、頓別川流域から猿払原野に続いた泥炭地への路盤構築にも難儀して稚内への到達は1922年11月1日にずれ込み、それは政友会の巻き返しにて着工された天塩回り線の全通に僅か4年を先行したに終わった。しかも、距離の長い上に宗谷丘陵越えに半径300メートル台の曲線に12.5パーミル勾配の連続する線形は、それに樺太連絡の幹線の地位を譲らざるを得ないものであった。
とは云え、開通した線路は頓別・猿払原野の開拓に資したには違いなく、中頓別町史や浜頓別町史には入植の促進による沿線駅周辺集落の発展と現在には想像も出来ない繁栄の様子が記録されている。

建設距離の短縮のためであろうか、常盤付近からクッチャロ湖西岸の通過を予定していた線路を当時の頓別集落に近づけ東岸経由とさせたのは、その一帯に土地を所有していた菅野栄助であった。菅野は用地の提供を申し出て、そこに浜頓別停車場が置かれた。そればかりか原野であったそこへの市街地形成にも私財を投じたと町史にある。浜頓別の駅名は頓別川流域原野の最も海岸寄りの所在から鉄道院の付名したものだが、やがては新市街と呼ばれていたその地名となり、後に町名とまでなった。なので、浜頓別市街は頓別市街よりも内陸に所在する。

写真は浜頓別に到着する303列車<天北>。
この日、上川地方大雨による80分の遅延は日没直後となって、7月とは云え露出の苦しいのは否めない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8ED 1/30sec@f2.8 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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