"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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大夕張炭山 (三菱大夕張炭礦大夕張鉄道) 1972

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幼少から十数年を暮らした北海道から内地に転じて、そこへは均一周遊券を手に通うようになった1970年代初頭とは、1962年の原油輸入自由化以来の炭礦閉山が、期せずしてその最終段階を迎えた時代であった。
年間5000万トンの出炭を確保しつつも低能率炭礦の整理と優良炭礦の保護育成を同時進行とするスクラップアンドビルドと呼ばれた石炭政策の破綻が明らかとなり、1968年12月25日に出された石炭鉱業審議会答申を受けての1969年1月の「今後の石炭政策について」の閣議決定、所謂「第四次石炭政策」は、石炭産業自体の縮小均衡を明示した歴史的転換点をなし、経営基盤の維持や累積債務に再建の困難な炭礦の漸次的撤退を誘導していた。
ところが、それに出炭規模の明示されないままでの閉山交付金の単価引上げに経営者の腰が浮いたところへ、「企業ぐるみ閉山」に対しての特別閉山交付金制度の新設が炭鉱労働者の動揺を呼び込んだ結果、ビルド鉱とされた優良鉱も含め閉山を雪崩状に誘発してしまったのだった。1969年度から1973年度までに、北星、茂尻、雄別、尺別、羽幌、奔別、夕張第二、美唄などの大規模炭礦を筆頭に実に58礦が失われ、道内炭礦は14礦を残すのみとなっていた。
それゆえ道内の運炭線がほぼ壊滅へと至ったのもこの時代である。国鉄線は運炭列車の皆無となっても線路は残ったけれど、地方鉄道や専用鉄道、専用線の多くは路線廃止へと向かった。
随分と前の記事でも告白したのだが、実のところそれらをほとんど撮っていない。ごく一部を除き蒸機鉄道であったから、勿論にいずれ撮るつもりではいたのものの、国有鉄道の本線系線区に大型機が健在であれば、どうしても眼を奪われたし、運炭線の多くは撮りたいロケイション恵まれずに後回しとしているうちに前述の雪崩閉山の事態を迎えたのである。

三菱大夕張炭礦大夕張鉄道には1972年の夏にロケハンのつもりで訪れ、明石町-千年町間の深い沢に架けられた5号(旭沢)橋梁の特徴あるトレッスル橋を確認していたのだが、乗って往復した列車を除けば日中に1本だけと云う当時のダイヤには撮り損ねてしまい、翌1973年11月の北部礦閉山、12月16日の南大夕張以北の廃止にはそれっきりとなった。大夕張炭山に所在の機関庫を訪ね、選炭場のホッパを見上げる構内を歩き回ってのカットが手元に残るのみである。

写真は、大夕張炭山の乗降場に一旦入線の後、入換に後退して往く混合4列車。次位のナハフ1には勝手を知る乗客らが既に乗り込んでいた。後位に石炭車を増結して再び乗降場に据付けられ発車を待つのである。
牽引のNo,3は、1937年度の専用鉄道から地方鉄道への変更申請に際しての自社発注機で、同年8月の日立製作所笠戸工場製である。当時にNo,2からNo,8まで7両が在籍した9600型の中で、同じく1941年自社新製のNo,4と共に切取形テンダに特徴があり、これに出会えただけでも満足したものだった。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

[お詫び] 本業の多忙は4月にも持ち越してしまい更新の捗りません。ご容赦下さい。

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大夕張炭山 (三菱大夕張炭礦大夕張鉄道) 1972

ooyuubari-Edit.jpg

1960年代後半と云えば、国鉄/私鉄/専用線を問わず道内の運炭鉄道は、その大半が健在であった。
ところが、新参者の撮影者は、ご多分に漏れず幹線列車に眼を奪われていたのである。それでも、鉄道ファン誌の掲載記事に触発されて、夕張線へと向かったこともあるのだが、始めて見る、谷の斜面を埋め尽くす炭住街とあちらこちらで黒煙を噴き上げる蒸機の光景に圧倒され、戸惑うばかりの記憶が残る。この頃には、それを画角にまとめあげるだけの力量は無かったのである。
根室本線の富良野-釧路間を除けば、まだまだ全道が蒸機運転であったこの当時にあっては、運炭線をいつしか後回しにするうちに、そこは無煙化されるばかりか、70年代に至って廃線も続出したのだった。

大夕張鉄道も、この数日前に訪れた日曹炭坑の専用鉄道(→一抗 (日曹炭坑天塩砿業所専用鉄道) 1972)で、 大夕張抗の南抗へのスクラップアンドビルドの噂を聞きつけてスケジュールに急遽組み入れたのだった。例によって全線を乗って、明石町-千年町間のトレッスル橋であった旭沢橋梁に目をつけたのだけれど、長い運炭列車を捉えられる足場が見つからずに、結局は3キロ程先の大夕張炭山の構内に向かった。

この鉄道については、ここの旧住民の方によるディープな総合サイトふるさと大夕張や、詳細な年表を伴った三菱大夕張鉄道58年史などを始めとした多くのサイトが開設されており、ここに語ることは無い。

写真は、大夕張炭山構内の最奥部、巨大なホッパ設備の尽きるあたりである。16時13分発の混合6列車の牽引機が客車を従えて待機していた。客車は清水沢方連結が定位ゆえ、このままホッパ前部まで進んで、そこから満載となった石炭車編成を引き出し、駅乗降場に据え付けて発車時刻を待つのである。
機関車No,3は、1937年日立製造の自社発注機で国鉄C56の設計図面を流用したテンダに特徴があった。国鉄における9600形式の製造終了後の新製は、その線路規格が新鋭D51の入線を許さぬゆえである。続く客車も、これも自社生え抜き、同じく1937年日本車輌東京支店によるナハ1形式ナハ1を緩急車化したナハフ1と見える。

混合6列車は、清水沢への旅客扱いのある最終列車で、もちろんこれに乗車して大夕張を後にした。
この日の早朝、岩見沢で夜行<大雪>を捨てて以来、あれほど群れている観光客/旅行客をまったく見かけず、当時の夕張はそれとは無縁のところだったのだ。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor5cm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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