"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

糠平 (士幌線) 1984

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蒸機末期の頃、士幌線を管轄していたのは、釧路鉄道管理局に置かれた帯広管理所と云う組織だった。
言わずと知れた非採算線区経営改善に設けられた現業機関であり、1960年の11月に、それまで管理長制度下に在った士幌線と広尾線の各駅に、池田機関区帯広支区、釧路車掌区帯広支区、帯広保線区の士幌・広尾線管内、加えては帯広駅までも統合して発足し、総勢600名余りの職員を擁していた。
管理所とは支社長の権限にて設けられ、1958年7月に発せられた総裁通達で、線区別経営組織を設置した場合、支社長は部内規定に拘らず経営改善のためであれば何事でも施行出来ると通達されていたとは云え、ルーラル線区の個別経営体が本線の拠点駅までも飲み込んでしまうのは、誠に珍しい事例だったと思われる。600余名とは帯広に在勤する国鉄職員のほぼ全てではなかったろうか。

前置きが長くなったが、この帯広管理所には東京から幾度も電話したものだった。長距離電話料金が恐ろしい程に高額だった当時に用いたのは、以前に小平 (羽幌線) 1972にも書いたけれど、当然に鉄道電話であった。
70年代の初頭、9600の牽く士幌線貨物は定期2往復が設定されるも、共に上士幌までの運転であり、十勝三股に到達するのは年に数回と言われた運材の臨貨だけだった。今に理解すれば第五音更川橋梁と思われる連続アーチ橋を往く蒸機列車を鉄道雑誌に見て以来、機会があればと念じ、渡道の予定が決まれば丸の内の国鉄本社ロビーに通った訳である。
帯広へは、1960年9月までに札幌を起点に岩見沢東と神居山の反射板を経た支線系SHFマイクロ波通信網が旭川から達しており、ダイヤル即時通話が実現していた。国鉄PRコーナーから借り出した電話帳に帯広管理所だけで、多くの番号が記載されていた覚えがある。記憶は定かでないけれど、選んで架けていたのは駅運転助役だったろう。そこでは、急遽運転が決まることもあると教えられ、渡道してからも撮影先の駅長事務室で電話を拝借しては問い合わせたものだったけれど、とうとう機会に恵まれぬまま終わったのだった。
余談だが、東京からのダイヤル通話も、SHF通信網を外れた道内地点からでは旭川や釧路の交換台を呼び出す必要があり、またもや蚊の泣くような通話に大声で怒鳴ることになっていた。後々即時通話の時代になっても小駅の駅員氏が待合室にまで響き渡るような大声で電話していたのは、この必要に迫られた癖が抜けぬものだったに違いない。

上士幌までの平原区間には魅力を覚えず、結局は足を踏み入れず仕舞いだった士幌線への初訪問は、煙も絶えて久しい1978年の年明けまもない頃で、十勝三股に気動車で到達した唯一の記憶である。勿論、前述の第五音更川橋梁が目当てだったのだが、寧ろ山腹にへばり付いたルートから第四糠平トンネルを抜けると眼前に広がる景観に惹かれ、数年を通うことになった。糠平での思い出話の幾つかは、前にここへ書いている。

糠平湖岸の726D。後追いである。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320)  Edit by LightroomCC on Mac.

糠平 (士幌線) 1983

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音更川の上流域、先住民族によりユウウンナイと呼ばれた地域は太古からの広大な原生林に覆われ、彼らの狩猟・採集生活の場であった。
それを全くに顧みることの無かった新政府と開拓使は、拓殖拠点としての帯広市街地造営ための用材供給地をユウウンナイに求め、北海道集治監釧路分監の囚人を造材従事者に送込んだ。それは道路の開削から始められ、着手は1892年と記録されている。十勝分監の設置前のことで下帯広村に釧路分監帯広外役所が設けられ、囚人の移送されていたのである。刑期5年以上の重罪囚からそれを半ばまで服役した囚人から選ばれた彼らは、当初には十勝平野の農地開墾要員と考えられており、刑期終了後には農民としての定着を意図していたと云う。犯罪人とは云え、多くは西南戦争下での不平士族や思想犯であった。しかしながら、奥地に越冬しての造材作業への従事には、凶悪犯罪囚から選別の為されるようになるのだった。
年間を通しての伐採は冬季には山元に貯木され、造材は夏季に音更川を利用して流送の行われた。それらは全て分監築造の自家消費に回されたのだが、市街地構築の造材には、ここでも内地新興財閥たる王子木材が関わった。囚人労働は自家用材の伐採終了後には同財閥の伐採地への道路開削、そして造材に振向けられたと上士幌町史にはある。

少しばかり乱暴な物言いになるが、1922年の改正『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号)とは、1900年9月15日の伊藤博文による結党以来に、地方の大地主と新興資本を支持基盤に政権を担った立憲政友会による党利党略の集大成として良い。
この政党は、幹線鉄道国有化の実現した鉄道院による改軌計画を1912年に力づくにて頓挫させる一方、鉄道建設の規制を大幅に緩和した『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)に、それに準拠した新線に利益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月23日法律第17号)までも制定して、新線建設を利益誘導の手段に用い、建設を希求する世論の沸騰を背景に法的根拠を与える「鉄道敷設法」の改正にまで至ったのである。同党に対抗した憲政会にせよ、同じ穴のムジナであり、鉄道の誘致に着工を巡っては私利私欲の熾烈な政争が繰り広げたのだった。全くに日本の保守政党と、それを支えた資本とは碌なものでは無い。

その碌で無さは、先の囚人労働を通じた搾取など一端に過ぎず、時の政権(これも伊藤博文内閣である)は1896年1月に拓殖を一元管理する北海道庁を成立させると、内地新興資本など「盛大な事業者」には未開墾地を無制限に、且つ無料での貸付けを定めた「北海道土地払下規則」(1896年6月29日閣令第16号)を制定、未開墾地には当然のごとくに広大な原生林の山林が含まれたのである。王子木材はこれにより、労せずして道内各所において山林地主となり、年間を通じての大量・定形の造材搬出には鉄道の建設を要求したのだった。
改正『鉄道敷設法』の別表に「 十勝國上士幌ヨリ石狩國「ルベシベ」ニ至ル鐵道」として法定された、上士幌からの延長線も、そのひとつである。1920年代後半の政友会と憲政会との政争の具とされて時間を浪費したものの、1934年に着工して1937年9月26日にユウンナイの糠平に、1939年11月28日には最奥地の十勝三股に達した。両駅の土場には造材の溢れたと記録され、それを満載した列車の行き交ったに違いなく、沿線住民には生活革命とも云える利便で生活の安定に寄与したのも確かではあるが、戦後に木材資源の枯渇とともに、資本はこれを打ち捨てるのだった。

透過層雲の雲底が湖面に接するような糠平湖岸を往く723D。隧道をひとつ越せば糠平に着く。
画角は既出で、糠平 (士幌線) 1978 の夏姿になる。
1955年の客貨分離以来の一日に5往復運転は、その内の1往復分には乗車するし夜間には撮れないから、撮影チャンスの2回から3回程度は効率の悪いこと、この上無かった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 FujiSC56filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

糠平 (士幌線) 1982

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先住民族の意志を何一つ諮ることなくアイヌモシリを植民地とした薩長新政権は、1869年に拓殖を管轄する中央官庁たる開拓使を置く。その本庁が1873年に札幌へと造営されれば、開拓のインフラ施設の整備、即ち奥地への道路開削と各地域への開拓拠点の設置が喫緊の課題となり、これに使役されたのが1881年の樺戸以来、空知、釧路、網走へと置かれた集治監の収容者(囚人)達であった。
道内にこれだけの集治監の設置は、当初には矯正労働として農地開墾に従事させ、放免後の道内定住化を意図してのことだったが、1885年に政府より北海道三県巡視に派遣された太政官大書記官-金子堅太郎が翌年に提出した復命書を切っ掛けに変質したのだった。少し長くなるけれど、それの当該部分を再録する。

「彼等ハ因ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪エズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪エス斃レ死シテ其ノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ、万已ムヲ得サル政略ナリ。又尋常工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道ニ於イテ尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四十銭ヨリ下ラス。囚徒ハ僅カニ一日金十八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ、則チ囚徒ヲ使役スルトキハ、此開築費用中工夫ノ賃銭ニ於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ一挙両全ノ策ト云フヘキナリ。現時ノ如ク十年以上ノ大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房屋飲食衣服等一ヲ之ヲ内地ヨリ輸入シテ、非常ノ金額ヲ費シ、其使役ノ方法ニ至ツテハ軽罪犯ニ異ナラス之ヲ優待シ、悔悟ノ日ヲ待テ之ヲ土着セシメントスルモノハ、重罪犯ヲ懲戒スルノ効ナキノモナラス、又政府ノ得策ニアラサルナリ。宜シク此等ノ囚徒ヲ駆テ、尋常工夫ノ堪ユル能ハサル困難ノ衝ニ当ラシムヘキモノトス。」

民衆による革命ではなく、単に武家社会の封建制の看板を差替えたに過ぎなかった新政府の体質を如実に示す物言いである。当時の内務卿伊藤博文が採用したこの提案は、その後のタコ部屋労働を誘発する起点となったばかりか、現在に至るまで保守支配層に内在する階級是認の反動的体質そのものでもある。ここに使役された囚人達の大半は、佐賀の乱や新風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南の役などで新政府に対峙した政治犯とされた人々であり、決して犯罪者ではなかったのである。

1895年に開かれた北海道集治監十勝分監も、その設置そのものが十勝開拓への収容者の使役を目的としており、早速に拠点とされた帯広市街造営のための森林伐採に原生林の広がるばかりだった音更川上流のユウンナイと呼ばれた一帯へと送込まれている。当時には川筋を遡る他に道は無く、現地に越冬しながら伐採を進め、これを夏期に筏に組んで流下したと云う。そして、1918年の士幌村からユウンナイに向けての道路開削もまた彼らの使役により為されたのだった。当時に音更山道と呼ばれた後の糠平街道、現在の国道273号線にあたる。ここにも「囚人道路」の存在は忘れてはならない。

写真は強い西日に付替新線の不二川橋梁を渡る728D列車。
福島県相馬から1907年に本別村活込入植していた島隆美による原生林中への源泉湧出の発見は、その人馬交通路の開かれてこそである。島は1924年に湯殿山と名付けたそこに小屋掛けの湯坪を設け、糠平温泉の始まりとされる。
ユウンナイに達した道路からその位置までの通路は島が自らの手で開いたと云うが、その四半世紀後にダム建設に伴う付替で道路も鉄道もそこへ直接に達するとは露にも思わなかったことだろう。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[番外編13] 糠平 (士幌線) 1983

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士幌線には、1978年末からの末端区間での自動車代行輸送を書いておかねばなるまい。[番外編 11] 糠平 (士幌線) 1980 の補遺でもある。

国鉄が、巨額の赤字の積み上がる糠平-十勝三股間の列車運行を休止しバス代行輸送に踏み切ったのは、それによる影響が当時に想定利用者の三股集落に居住の5戸14人に留まったゆえである。国鉄に前例の無い措置には違いないけれど、それは本社や北海道総局には勿論のこと、所管の釧路鉄道管理局にしても軽微案件であった。鉄道施設の全てが物理的にも法規上にも維持され、輸送実態も搬器を除けば変わることが無い。よって、これは釧路局の局長達および関係部署の通達にて処理され本社の関わることはなかった。事実、そこでの資料や統計には記録されていない。全国版の時刻表に反映されず、当初に道内版にすら記載の無かった所以である。
本来ならば、糠平に達する日常利用者か、たまたまに訪れた旅行客以外は知り得ず、且つ知らずとも良い措置だったのだが、これに興味を抱いた記者による新聞報道にて全国から衆目を集めるところとなったのだった。
なお、その要因となった最盛期に100人を越えていた三股からの人口流失は、輸入材に対抗し得なかった国内林業の衰退ゆえであるが、1974年に国道273号線の三国トンネルが開通し糠平からの砂利道が舗装道路に改修され、残った林業従事者の自動車による通勤が可能となったためでもある。

この区間の搬器が鉄道車両から道路上のバスとされた1978年12月25日を以て、幌加、十勝三股からは要員が引上げられ(幌加への配置は運転要員だけだった)両駅は要員無配置駅となった。路面からも位置的には利用可能ながらの駅舎の放棄は、老朽化していたそれの維持管理を回避したものであろう。乗車券販売はバス代行運行とともに上士幌タクシー有限会社への簡易委託とされ、バス乗務員が販売した。硬券だったそれに対しては、通常のダッチングマシンを運転台に紐で固定して印字していた。
代行化と当時に道路上に置かれたスキー場入口と幌加温泉入口は形態こそバス停留所ではあるが、釧路局の開設した仮乗降場の扱いであった。当然に営業キロ程の設定は無く、乗降に外方駅から(まで)の乗車券を要した。
また、列車を引継いでの新聞輸送を1984年2月改正まで行っていた。

バスには詳しく無いので形式まではご勘弁願うが、代行運行を受託した上士幌タクシーはこれに際して、登録番号89の日野自動車製小型バスと、まもなくに登録番号644のこれも日野製マイクロバスを導入、輸送波動により使い分けていた。事由は不明だが、登録番号89のバスは、この1983年までに登録番号258のやはり日野自動車製小型バスに取替えられ、マイクロバスも1986年には登録番号1110の三菱自動車製に更新された。これら車両はリース会社を通じての中古車の調達だったと思われ、それゆえの車両交替とは推定する。

鉄道代行とは云え乗合自動車を沿道の丘に登り待ち受けるバス趣味は持たないので、駅頭でのスナップをご容赦願いたい。後方の駅名標は代行化に際して、この位置に建植されたものである。
写真のとおりに、ここに運用された自動車の登録番号標は自家用を示す白地、即ち「白バス」であった。これには門外漢にて承知しないのだが、営業車としなかったのは『道路運送法』(1951年6月1日法律第183号)で自家用車による有償運送の禁止を定めた80条(当時)の但書き-公共の福祉を確保するためやむを得ない場合-を適用したものだったのだろうか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S (exposure data is unknown) Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

黒石平 (士幌線) 1985

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士幌線の廃線跡に多数が現存するコンクリート製の拱橋群は、工場で製造して架橋現場に輸送せねばならない鉄桁に代えて、現地で調達可能な材料と運搬の容易なセメントを用いることで、1930年代の当時に多くが構想されていた地方開発線の建設費の低減策として試行されたものである。背景には、実現を可能せしめていたコンクリート構造物の設計や施工の技術革新があり(*1)、国立公園内と云う環境への調和も配慮した点も併せて近代土木遺産として評価される所以である。
国鉄精算事業団の保有であったこれらの解体撤去の事態に直面して(*2)、地元有志が遺産価値を認めて保存運動を立ち上げ、最終的に上士幌町が、その内の33基の買い取り(*3)に動いたことにて、これら拱橋群の存在自体が観光資源としても注目されるに至った。もとより行政当局に保存経費の予算化は困難で解体を一時回避したに過ぎぬのだが、それらの中の代表的5橋は、後に文化財保護法に基づく登録有形文化財とされた。
これには、ダム堪水域を保有する電源開発すら財産としていないタウシュベツ川橋梁(*4)が最も注目を浴びると云った皮肉な副作用も伴っていた。

ここには、これら1930年代の築造になるものの他に、1955年8月1日に切替えられた糠平ダム建設にともなう付替線上にも幾つかのコンクリート拱橋が残されている。ダム迂回線の性格から音更川右岸の急斜面に建設され、必然的に山間の谷や沢筋に架橋を要して、延長50メートル級の第一糠平陸橋、下の沢陸橋に中の沢橋梁など10から15メートルの径間を連ねるものを含め、ここにも拱橋が採用されたのである。
その位置から接近も難しく、1950年代半ばの建設にて技術的に目新しいところも無いせいか、土木方面からは注目されず、観光面にも案内パンフレットに国道から遠望される中の沢橋梁が記されるのみである。けれど、景観への配慮と云う先人の意思を継承して、ここにもコンクリート拱橋を多用した事実は、より評価されて然るべきであろう。
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(*1) 無筋による10m径間、鉄筋を入れた32m径間にて、橋梁負担力は乙線並みの活荷重KS-15を実現していた。鉄桁を採用した第一、第二、第四音更川橋梁の負担力は簡易線建設規程に準拠したKS-12の設計であった。
(*2) 実際にいくつかは撤去された。
(*3) 他に路盤跡および隧道の1本を含む
(*4) 水没物件であり、解体撤去を省略したものであるから存在していないと見なされる。

=参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
交通技術 : 交通協力会定期刊行物 1955年通巻112号
戦前期鉄道アーチ橋建設工事の計画と技術展開 : 土木学会北海道支部論文報告集 1998年

写真は、急峻な斜面に位置する中の沢橋梁の25パーミルを登る723D、十勝三股行き。周知の通り、列車運行は糠平までである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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