"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

興部 (名寄本線) 1983

okoppe_01-Edit.jpg

1980年代半ばまでなら、ルーラル線区にも弁当の販売駅がまだまだ生き残っていた。日高本線の鵡川や静内に様似、留萌本線の留萌、根室本線末端区間の厚岸に厚床、釧網本線の弟子屈などである。そして、名寄本線の興部もそのひとつであった。
そこでの駅弁販売開始は1961年11月と歴史は浅く、それは米田弁当店の上興部からの移転によるものと記録される。

上興部へのほぼ最初の定住者だった米田久三郎が、アカダモが生い茂るばかりの原生林地帯だった植民区画上興部17線に私設駅逓を開いたのは1906年のことであった。オホーツク岸から天塩川最深部の内陸へと短絡する交通路上に天北峠を控えて位置したこの駅逓所は、1909年には官設駅逓に買上げられるなど拠点として繁盛した様子だが、久三郎の三男久作が管理人を務めた当時の1915年に上興部三等郵便局が開局すると逓送業務が無くなり、1921年10月5日の名寄線全通には、翌年1月に駅逓そのものが廃止されてしまう。
久作はそれを見越して1917年頃から澱粉工場を経営、駅逓廃止後には菓子舗を開店し、1925年には米田弁当部として上興部駅での弁当販売の構内営業に進出したのだった。函館桟橋-野付牛間直通1往復のほか、函館桟橋-稚内間急行接続の名寄-野付牛間1往復の長距離列車が経路とするなど、名寄本線が野付牛・網走連絡の幹線として機能していた時代である。名寄から先の汽車弁当は渚滑だけだったから、商機と見込んだものだろう。
冷蔵設備も無い中でのヤマベを用いた「やまべ寿司」は道内初の事例としてこの際に売り出されていたのだが、菓子舗を生かして「こくわもち」も製造・販売し、ともに評判を取ったと伝わる。前者は1972年に購入の150円の掛け紙が残るけれど、残念ながら後者には記憶が無い。久作の妻の郷里、石川県小松・松任地域に伝わるあんころ餅(圓八あんころ?)をヒントに製造したものと云うが、コクワを餡に仕立てられるはずも無くコクワ=サルナシの葉を用いた柏餅状の菓子だったのではなかろうか。
米田弁当部の興部移転は、1961年当時に計画されていた名寄線経由の札幌-紋別間急行が上興部に停車せぬことが明らかとなったゆえである。素早い経営判断と言うべきか、1962年5月1日の運転開始に先駆けて、そこでの構内営業を始めたのだった。同日には、その急行<紋別>ばかりでなく、旭川発着で名寄線を循環する準急<旭川>や興部-網走間の準急<天都>も設定され、ルーラル線区と化していた名寄本線の都市間連絡線への復帰が成っている。この当時、既に中長距離移動に優等列車利用が一般化し、供食需要はそれに頼らざるを得なかったのであろう。

興部上り乗降場に停まる628D、名寄行き。4両編成で到着し、825Dとして興浜南線に入る後部1両を残して発車して往く。
この時も、列車到着直前に携帯容器を下げて改札をすり抜る立売りの姿を認めていた。米田弁当部は列車ごとに調製して駅に運んでいたものと思う。やまべ寿司にこくわ餅は遠に製造をやめてしまい、幕の内弁当に、稲荷と巻物の寿司だけの販売と覚えている。
米田弁当部の構内営業からの撤退(廃業?)の時期は1985年の夏前と思われる。冒頭に掲げた各駅の多くも1986年には販売を終えており、同年11月改正における、そこを走る優等列車の廃止と運命を共にしたと云うことである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

名寄 (宗谷本線/名寄本線) 1980

nayoro_04-Edit.jpg

手稲の新興住宅地に暮らした家族が晴れて札幌市民となった頃だから、1967年か68年の冬だったと思う。札幌駅構内各所の分岐器から時折雪煙の上がるのに驚き、何事かと思った記憶が在る。構内に降りて近づく訳にも往かず、遠くから観察していると、列車の通過して進路の切り替わる度のことと知れた。推察は附いたのだが、念のためと4番/5番線ホームの苗穂方にあった輸送本部を訪ねて問えば、案の定、空気で分岐器の雪詰まりを吹き飛ばす装置であり、今冬からの設置には大変に役立っていると教えられた。引き続いて、道内各駅構内に多くが導入された「圧縮空気式分岐器除雪装置」の初見であった。

降雪地域において、分岐器の転撤部・轍叉部への雪詰まりによる不転換には、永らく人力に頼らざるを得なかったのだが、戦後に至り季節要員の不足と賃金の高騰には機械化の研究が行われ、1950年代半ばまでにはシーズ線ヒーターによる直接過熱式の電気融雪装置が上越線石打駅構内での試用を経て、東京や仙台、札幌の各鉄道管理局管内にて実用化され、国鉄本社においても「ポイントヒータ研究委員会」が各地での実績を元に1963年度に「電気融雪器標準仕様書」を策定していた。
しかしながら、当時には床板形も考案されていたものの、軌条に直接に設置する構造にかかわるメンテナンスや分岐器一組あたり2400から3400Wの電力消費に、本社内に設けられた「雪害対策分科会分岐器除雪専門部会」では、ガス赤外線式、蒸気式および圧縮空気式の各方式が検討されたのだった。前の二方式が湿雪ないし潤雪に応じ熱源を要するに対して、後者は寒冷地での乾雪を想定した空気式であり、謂わば掃雪装置とも云えるものであった。極寒地において、電熱式での融雪の再氷結や分岐部通過の振動で列車から落下した氷雪塊の詰まりなどの融雪には、より大きな熱源容量を要して、降雪を積雪のそばから吹き飛ばすのが有効と考えられたのである。

そして、1964年の基礎試験に続いて1965年1月からこれの実地検証の行われたのが、道内でも屈指の寒冷地域に位置し、構内に多数の分岐器の配された名寄駅であった。
初期装置は基本レイルとトングレイル間に埋め込まれたノズルからの5kg/㎤の圧縮空気噴射により、含水率0〜0.5%の積雪なら10センチでも20秒で完全な掃雪が確認されたけれど、少しでも含水率の高くなれば弱点を露呈していた。空気圧を7kg圧に向上、ノズルを大きくした改良型を次の降雪期に同じく名寄駅構内に設置し、10センチの湿雪でも35秒の噴射で除去を確認して実用化に至ったものである。

名寄が極寒ゆえに試験地に選ばれたのはこればかりではない。
将来の北海道新幹線車両設計の基礎データ収集のための試験列車が、1972年度より77年度まで冬期毎に運転されたのも旭川-名寄間であり、近年では281系強制振り子式気動車の試作車によるふた冬に渡る長期実用試験が記憶に新しい。

道道538号旭名寄線の名寄跨線道路橋から名寄構内の南端を見下ろす。
左端が南部引上線、その隣は名寄本線、旭川行き342Dの走り去るのが宗谷本線の上り本線であり、まもなくに隣接の下り本線に合流する。右端は深名線で、この先で分岐する天塩川製紙名寄工場への専用線と線路を共用していた。
引上線に見える分岐器には、もちろん圧縮空式分岐器除雪装置が付加されている。
この除雪装置の使用成績は実に良好であり、吹き上がる雪煙は高架となった札幌駅を含め、現在にも各所で見ることが出来る。おそらく将来もそうだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/15sec@f2.8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

渚滑 (名寄本線) 1970

shokotsu_02-Edit.jpg

蒸機時代からの旧い鉄道屋ならご存知かも知れない。塩狩峠で一日を過ごした翌日を函館山線、例えば塩谷あたりと決めた場合、当時からつい最近の1989年まで、この200キロばかりの地点間を夜行列車を宿替わりに移動出来たのである。1972年3月改正ダイヤなら、塩狩を18時22分の323に乗れば、塩谷到着は翌朝8時05分の524Dで104列車に十分に間に合い、この間に何処かで一時的な「半駅寝」するでは無く、ずっと車中で過ごせた。
そのカラクリは名寄本線に在った。323は名寄へ20時03分に終着する。その23分後には札幌からの4605D急行<紋別>が追いついて、20時30分発のこれに乗換えれば、興部から普通1625Dとなった列車は遠軽着23時46分で直通し、23時53分に網走から到着する518列車<大雪5号>を捕まえられたのである。この逆コースも利用価値の在り、遠軽4時04分到着の517列車には4時21分発の名寄行き622Dが接続して、興部着の5時56分には興浜南線始発列車に乗れた。317列車<利尻>の利用なら午前2時前に名寄で降ろされて半駅寝の上、南線始発には到底間に合わない。
北海道均一周遊券(正しくは北海道一般用均一周遊乗車券第一種)の利用ならでは経路だったのだが、名寄本線遠軽口での始発・終着列車であった622Dと1625Dは、オホーツク岸の紋別や渚滑と札幌間を夜行急行での連絡目的の設定であり、4時台・23時台のルーラル線区としては異様に早く遅い発・着時刻もそのためだったのである。紋別や渚滑と札幌とは遠軽を回ると少しばかり遠回りだけれども、1967年4月の旅客制度改正から渚滑線内を含む名寄本線の紋別-渚滑間と新旭川以遠(旭川方面)の区間は選択乗車区間とされ、距離のやや短い名寄経由の運賃にて遠軽経由も認められていた。
同様の列車設定には、317・318列車<利尻>と音威子府で接続した天北線の721D・730Dが在り、浜頓別のほか興浜北線直通車も併結して北見枝幸と札幌間も夜行移動の有効圏内であった。遠軽接続と同じくオホーツク岸の都市であるのは偶然ではなく、内陸を経路とした石北・宗谷線夜行と沿岸とのアクセスは必須の要件だったのである。それは、名寄・天北線ともにかつてには網走へ稚内桟橋への夜行長距離列車の往来した幹線だった名残とも云えた。
余談ながら、この当時、前記のような明確な接続は取られなくとも、池田や美深、名寄、長万部など深夜帯に夜行急行の着発した接続駅では、支線区の最終でやって来て上りを待ったり、未明に下りを降りて始発までを過ごす乗客の多々見られたものだった。今は、全てが昔語りである。

名寄本線内での大駅とすれば紋別となろうが、規模ならば渚滑線を分けた渚滑が上回っていた。名寄上下本線に渚滑線の使用した副本線の他に貨物側線5線は、豊富な林産資源の輸送線だった渚滑線との貨車操配には必要な配線だったのだろう。確かに、構内にはその中継車や翌日の所要車は勿論、自駅の使用車に停泊車など多くの貨車が停まっていた。
蒸機の行き交う光景。名寄に向けて発車を待つ1692列車を横目に北見滝ノ上からの1792列車が到着する。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

名寄機関区 (宗谷本線/名寄本線) 1971

nayoro_base_02-Edit.jpg

機関区詣での初めは小学生の頃の小樽築港機関区だった。休日に何度か遠目に機関車を眺めていたそこへ、意を決して正門から踏み入れ事務所を訪ねたのである。応対の職員に来意を告げると、子供ひとりを訝しくも思ったのか「どこから来たのか」「親は承知か」などを質問されはしたものの、備付けの帳面に住所・氏名を記入して待つように指示され、やがて現れた案内係の名札には「区長」とあって子供心にも恐縮した記憶がある。機関車を間近に運転台は勿論、煙室内部を覗き込み、ピットまで潜らせてもらっての見学の後には区長室で茶を馳走になり、青焼きの機関車配置表まで土産に持たされたのだった。今時の子供と違い、この当時にカメラは手にしていなかったは惜しいところだ。
これに味をしめて「また来たのか」と云われる程に通い、機関車台帳(機関車履歴簿)などの部内文書を写させてもらったりもしていた。鉄道趣味は機関車研究の方向には至らなかったけれど、今も貴重な資料として手元に残る。
ここで、開所間もない札幌運転区(現運転所)も見学したいと申し出て教えられたのが、鉄道管理局の広報担当部署を通じての手続きだった。早速に札幌駅に同居の札鉄局を訪ね、受付からの丁寧な応対に広報担当に面会して難なく見学日程を決められた。余談だが、子供の図々しさと云うのだろうか、この担当者氏をその後にも何度か訪ねて顔見知りになり、使い古しの運行図表などを頂戴したものだった。
この手続きを郵便によるやり取りにて試したのは、1968年夏の帰省先での勝田電車区の見学であった。水戸鉄道管理局文書課広報担当宛に依頼文と共に同封していた返信封筒には、希望の幾つかから選んでもらった日時に「お待ちしています」の一文が添えられていた。指定当日に訪ねれば、既に案内係りが待機しており「今日は見せたいものがある」として連れられた先には、その10月から東北・常磐線を上下する予定の583系電車の一編成が入区していた。運転経路上の検修区所に対する突発故障に応じた検修訓練のためだったろう。確かに思いも掛けないことで驚喜もしたけれど、何より印象に残るのは、それに同乗して検修指導を行っていると云う青森運転所の担当者が、留置中にて冷房も効かない車内で、たかが中学生ひとりを相手に寝台設廃の一部始終を汗だくで実演し、その昼夜での居住性を実現した画期的構造に付いて熱弁をふるったことだった。

これらの実体験にて知れるのは、運輸省が1947年8月に発表した「国有鉄道の現状」と題された白書の結びに使われた「国民の鉄道」「国民の国鉄」の意識が、1949年の発足後十数年を以て公共企業体日本国有鉄道の職員末端まで浸透していた事実であろうか。それは戦後に相次いだ国鉄を巡る謀略的事件や、桜木町、三河島、鶴見と云った重大事故からの信頼回復を教訓に国民への奉仕を部内に説き続けた結果にも思える。そこには国民経済を支える鉄道の職員としての強い誇りと職責も見て取れた。
事実、発足後の国鉄は広報活動に熱心であり、職用車に模型や資料を展示した広報車を用意し全国を巡回もさせ、また拠点においては自治体や地元新聞社の後援の元に鉄道博覧会も開催していたのである。現場の見学についても、その一環として垣根の無い受入が指示されていたものだろう。
私企業となった現在の旅客鉄道にこそ必要な姿勢とも思えるが、それを頑なに拒むのは、撮り鉄と称する一群の当時とは比較にならない数も一因だろう。

名寄機関区は、その地理的位置から幾度も足を運べたでは無かったけれど、直接に訪ねれば許可の下り、動きの少ない扇形庫にはじっくりと機関車に向き合えたものだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 O56 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

沙留 (名寄本線) 1983

saruru_04-Edit.jpg

1980年に成立の『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)には、その第二条に1985年度での事業収支の均衡が規定されていた。これを受けて国鉄は、職員の7万4000人削減による35万人体制、特定地方交通線77線3,100kmの廃止、輸送の重点化と効率化による列車削減などを含む「経営改善計画」を策定、81年5月1日に運輸大臣に提出して同月21日に承認を受けた。そこには、1978年10月、1980年10月改正と縮小を続けた貨物輸送に関して、貨物扱い駅の800駅までの統合と貨車操配施設の100箇所体制が目標とされていた。国鉄はこれを1982年11月改正に繰り上げて実行したのだが、この鉄道開業以来のヤード集結輸送はこの間にも輸送量の低下しながら労働集約型の作業に依る高い輸送コストから収支を圧迫し続け、同改正を前にした10月31日に運輸省に設置の「国鉄再建緊急対策推進本部」の圧力に、それからの全面撤退を表明するに至った。旅客・荷物輸送に関しても経営改善計画のより深度化を求められ、緊急実施を要求されるも準備期間から1983年度末のダイヤ改正を以て施行とした。
これが、鉄道貨物の輸送体系に一大変革をもたらした1984年2月1日のダイヤ改正である。通常に融雪期の3月に行われる年度末の改正が、成案の決定直後に、日々に巨額の積み上がる損失に対して即効的な効果を期し、積雪期の改変に依る輸送混乱のリスクを承知で急遽繰り上げられたものである。これは当時に如何に国鉄が追いつめられていたかを示している。施行期日決定の混乱による市販時刻表の1・2月号合併発行をご記憶の向きも多かろう。
データで示せば、一般車扱の貨物列車は改正前の2449本が1669本を減じた780本に、列車設定キロは372.0千キロが295.1千キロとなった。これには19本を減らしただけの高速・専用貨物を含むから差分の76.9千キロはほぼ車扱貨物の消失分である。貨車は1982年11月改正までの33000両に加えて45000両が不要となり、余剰気味であった機関車も新たに770両が仕業を失い、運転関係区所は165箇所が廃止された(ともに旅客列車削減分を含む)。そして貨物扱駅は85年度目標の800駅を遥かに越えて460駅体制となった。

この改正を線路端で眺めていた鉄道屋としては、多様な貨車を延々と連ねた快速や普通に解結の貨物列車が一夜にして消滅し、操車場や拠点駅の側線が運用を失った貨車で溢れる様を目撃することになり、暗澹たる想いに駆られたものだった。物流ニーズと乖離した結果の必然とは承知していたけれど憂いの事由はそればかりでは無い。
国鉄の貨物輸送市場からの大幅な撤退は、土光敏夫や瀬島隆三らの名を連ねる「第二次臨時行政調査会」を隠れ蓑とした財界の意を受けた中曽根政権による、1982年9月24日の閣議決定、即ち5年以内の国鉄改革(政権の本音は解体)を含む緊急対策10項目を盾にした恫喝の結果であり、彼らを利する国民の公有財産である国鉄用地収奪の一歩だったからである。用途を失った広大な操車場用地をはじめ多くはまもなくに時の政権党に蹂躙され、続いて鉄道用地は全てが資本の手に落ちることになる。

ヤード集結型輸送からの撤退とは、とっくに廃止もしくは臨貨に格下げされていた行き止まりの盲腸線は別としても、地方ルーラル線区・区間の多くに引かれていた貨物列車のスジの消滅を意味したから、機関車屋にしてみれば大打撃に違いなく、そこに向かう動機の無くなれば、以来には一度も足を踏み入れなかった線区も多い。この名寄本線もそのひとつでる。
1982年11月改正以降も興部、紋別、元紋別(専用線)に貨物扱の残り1往復のスジが引かれていたけれど、出荷は激減して運休も多かった。前日に名寄に尋ねて運転を確認したこの日、下り1691列車は僅かな財源を牽いていたものの、期待した上りの1690列車は機関車の単行で現れた。財源の無いだけで単行機関車列車ではない。列車掛(車掌)は機関車に便乗している(はず)。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

次のページ

FC2Ad