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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

上野幌 (千歳線) 1994

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北海道鉄道(2代)が1926年8月21日の札幌線開業に際し上野幌を設置した当時、その一帯は白石村の野津幌と呼ばれていた。付近の小学校も野津幌尋常小学校(現上野幌小学校)だったし、1915年に入植者により建立された神社も野津幌神社(現上野幌神社)であった。
野津幌は、この地域の丘陵地を侵食しつつ谷底平野を形成していた多くの水流の先住民による呼称「nup-or-o-pet」の当て字には違いなく、和人はこれを「ノホロ」「ノッホロ」「ノッポロ」と聴き取り、地名に用いたのである。自然発生的なものゆえ、おそらくは「津」の入らない野幌も当初より混用されていたと思われる。
公文書に初めて現れるのは野津幌の方で、1873年に布告の『地租改正法』に際して開拓史が札幌周辺の国有林の位置を指定した、1873年11月19日の「官林取極の件」に官林名称としてその名が読めるが、官設幌内鉄道が1889年11月3日に江別村に開業の停車場は、当初より野幌を名乗っていた。この時期には、官の側では「津」抜きの方に統一が進みつつあったのかも知れない。
いずれにせよ、今の行政区画でも札幌市から江別市、北広島市に跨る広大な原生林名称への採用により、その周辺を含む広域地名として成立して往くのだが、それゆえに細分化の過程で幾つかの混乱を生じることになる。

官設鉄道の野幌もその事例で、そこは「nup-or-o」の景観と云うよりは石狩低地に属したけれど、付近に最初の鉄道駅として官林名称からの採用であろう。北海道鉄道が野津幌の停車場を上野幌としたのは、勿論にそれとの重複を避けたに違いないが、当時既に定住が進みつつあったnup-or-o-petの上手側が上野幌、下手側が下野幌と区別され始めており、この停車場は現在の大曲付近まで及んでいた上野幌地域を駅勢圏としたゆえと推定する。新札幌市史を斜め読みしたに過ぎないのだが、この区分の始まりの時期への言及は無かった。
これと対に、現在の青葉町やもみじ台などの一帯の旧字区は厚別町下野幌であった。新札幌で開業した千歳新線上の新駅が計画段階に下野幌で仮称されていたのは、至極自然と言えよう。この結果、大曲川からの川筋で見れば、野幌より上手側に下野幌が存在することになっていた。

一方、北海道鉄道の上野幌の開業当時、広島村にも下野幌と呼ばれる字があった。停車場の位置からは野津幌川を隔てた東側にあたる。その頃には原生林只中の入植地もまた、野幌と呼ばれており、官設の停車場位置ばかりでなく野幌は数多くあったのである。ここの野幌には1890年に原生林を開削して廣島開墾地と開拓使を繋ぐ札幌道路が開かれた。この道路を中心地だった椴山から野津幌川に下ると標高差は70メートルほどになり、そこに架橋されていた立花橋付近にも定住地が形成されていたので、ここを下野幌と呼び、やがては廣島村の字区とされた。その範囲は野津幌川の谷底平野を鉄道沿いに上流域まで及び、上野幌より上に位置する下野幌が存在したのである。千歳新線上に移設された現在の上野幌は、当時なら下野幌区域と言うことになる。
これには先に述べた下野幌との関連を指摘する向きあり、野津幌川下流域も丘陵上の野幌を下ったゆえの下野幌だったのかも知れないけれど、地名の真相は誠にわからない。
廣島村の野幌に下野幌は1935年の字区改正で消滅し、双方が字西ノ里となった。現在の西の里である。

降雨下の大曲橋梁に差し掛かるのは、5列車<北斗星5号>。
この橋梁の架橋位置が大曲を名乗ったことは無い。けれど、目と鼻の先の野津幌川対岸は、同じ字区改正で下野幌から字大曲に編入されて以来に大曲である。鉄道施設名称への近隣地名の採用は珍しくはないが、その地名の起こりは西に離れた位置でのことだから、違和感はある。

[Data] NikonF3P+AiNikkor85mm/F1.8S  1/500sec@f5.6+2/3  Fuji SC52filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopCC & LightroomCC Classic on Mac.



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苗穂 (函館本線/千歳線) 1999

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もう3年ほど前になるが、札幌 (函館本線) 1970 から数回に分けて苗穂駅史擬きの駄文を連ねたことがある。
そこでは、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線運転化に際して苗穂に増設されたのが現5・6番ホームであり、(1994年の留置線設置にて失われた)旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置であるとした。閲覧した資料や工事盛んな当時に幾度か苗穂を通過した際の記憶を辿っての記述だったけれど、その後に新たに閲覧した資料もあり、シリーズの補遺とする。

まずは、「旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置」との記述は検証不十分につき、少なくとも「1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」と訂正するが、これも実は正確では無い。この乗降場自体も躯体としては1965年の乗降場増設の際の新設なのである。
とは云え、戦前期からの島式乗降場の南側に接し、それを取り壊して設置の旧3・4番ホームでも、その南側に接するところとなった、函館千歳上り線から千歳上り線専用に転用の線路番号での3番線(工事前には5番線)の線路中心線は、同工事で動いていないと判断される。これの本屋側には函館・千歳線それぞれの副本線や貨物操配線が隣接しており、それらが駅機能上に不可欠であった当時に移設は困難だったゆえだろう。(貨物操配線は寧ろ1線が本工事で増強されている)
よって、「旧3・4番線ホームが1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」は、前記の通り正確では無いにせよ、あながち間違いでも無いことにはなる。
加えて、かつての島式乗降場とは凡そ10メートルの幅員を持っていたことも知れた。増設による島式2面化は、貨物操配線への影響を極力避け、その用地を最大限に活用することで為されたのである。小樽方面・江別千歳方面ともにホーム幅員が狭小気味だった事由として納得する。

工事は次の手順と推定される。
1, 北側の貨物操配線の1線を函館下り副本線に転用して、新7番線とする。
2, 旧7番線を新6番線として、これに接してホームを新設、片面使用にて函館線下り列車に扱いを開始する。(ただし、一部旧6番線が支障する位置があっただろう)
3, 使用停止した旧6番線を撤去、既存ホームの同線側も崩して、新設ホームのもう片面を築造の上、これに接して新5番線として函館上り線を移設。これにて増設ホームが竣工する。
4, 続いて、既存ホームを全撤去して増設ホームと同形態のホームを、位置の変わらない旧5番線に接して設置、これを千歳上り線(新3番線)とする。
5, 同ホーム北側に接して新4番線を新設、千歳下り線とする。
(番線表記は、
苗穂 (函館本線) 1991 の記事を参照していただきたい)

札幌からの斜路を駆け下り苗穂場内に進入する8010列車。
苗穂5・6番ホーム先端からの画角自体は幾度もの既出である。春分あたりから秋分過ぎまでなら、低い光線が夕刻の上り特急寝台列車の深い屋根を照らし出してくれた位置ゆえ、渡道の度の定番位置だったのだが、苗穂新駅工事に支障するものか、同ホームの短縮化により失われてしまった。
8010列車の16時10分過ぎとは難しい時間帯で、もっと暮色のイメージが欲しいところなのに、それの得られる11月初旬を待てば、日没方向はより南へと移動してしまうのだった。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
札幌駅八十年史 : 日本国有鉄道札幌駅八十年史編さん委員会, 1960
北海道建設業協会100年史 : 北海道建設業協会 2016
札建工業五十年史 : 札建工業株式会社 1992


[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.


島松 (千歳線) 2004

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その昔、親父との大衆車パブリカでの日曜ドライヴで、広島街道を厚別丘陵を越えて長沼方面へと走ると、まっすぐな道路の行く手を遮るような黒々とした樹林帯を幾度も眼にしていた。これを横切る途中で自動車を降りてみれば林中の如くであったし、並行する道を行けばどこまでも尽きぬ延長にも感嘆したものだった。
石狩平野に広く分布する国有の防風保安林である。札幌に暮らした分には身近な風景だったけれど、内地にその規模をみることは無く、植民区画に由来して整然と区画された耕地を大規模に縁取る防風保安林は、これも北海道の独自な景観と思う。最近にWeb上でいくらでも閲覧可能となった衛星画像を確認すれば尚更の感がある。特に、西側に後志の山系へと続く丘陵地を眺める長沼低地は、作付けの春先にそこから吹き下ろす冷風の回避からか、多くの防風保安林が設けられているのが見て取れる。それは高高度の撮影にもくっきりとしたグリーンベルトである。
これらの起源を調べるに行き当たった資料は、札幌営林局(当時)による1975年の「都市化地域防風林の整備調査報告書」だけゆえ、一次資料を直接に調べていないことをお断りするのだが、それには1886年に始まる北海道庁による殖民区画の選定過程(本文書には「殖民区劃測設」とある)から農耕地間に「防風林帯として」(原生)森林を存置した旨が記載されており、1896年には「殖民地選定及区劃施設規定」を制定して「防風林ハ少クモ1,800間毎ニ之 ニ相当スル土地ヲ適宜存置スヘシ」と定めたと在る。
3キロあまり毎に設けよ、とは道内の広大な耕地面積を考慮したものであろうし、その面積に効果を及ぼすにはあれだけの帯域を要したのであろう。調べ得なかったけれど、80から100メートルの幅は当時での44間から55間を基準とした思われる。
このように原生林の存置を意図したものであったが、実際には開墾にともなう伐採も進んでしまい、一部には防風林帯としたものの草地に放置されたり、天然更新のヤマグワやヤナギなどの林相と化したりであったため、1897年施行の『森林法』で保安林と規定し、道庁は1907年に「北海道国有林整備綱領」を定めて造林事業を推進したようである。その結果、1920年頃までには現在の如きヤチダモを主体とした樹林帯の出現を見たと云う。
この規模の大きい防風保安林を地元の農家は、そこを薪や木炭など生活材の調達先に位置づけ保全に努めた。つまりはその6キロから8キロに及ぶ延長からは、ひとつの「里山」であり、彼らの呼称も「お山」だったと聞く。

1926年8月21日開業と記録の北海道鉄道(2代)札幌線は、千歳-恵庭間の2箇所と島松停車場北側で、この防風保安林を切り開いて敷設された。前者は、現千歳線の長都とサッポロビール庭園付近であり、特に長都はその伐採跡に立地している。島松の北側で斜めに横切る防風林帯は幅が30メートル程と小さく、これは20間と云う規格なのだろうか。
そのさらに北側、島松神社からそれを越えた向こうの南19号線踏切には幾度も通った。南北方向の線形には上り特急寝台列車通過時刻なら西側からの斜光線を浴びたからなのだが、改めて過日の原版を確認すると降雨下の撮影も多い。明確に意識したでは無いけれど、島松の駅から然程遠く無い位置には「雨傘」にもしていたと云うことだ。→ 白石 (千歳線/函館本線) 2000

写真は、ルルマップ川橋梁への10パーミルを駆け下りる8002列車。画角の何度もの既出はお詫びする。
この日のことはよく記憶していて、前夜の<利尻>で南稚内に降りたものの、雨天に嫌気の差して<スーパー宗谷>で蜻蛉返り、そのままここに立っていた。この後も数日に悪天の続くことが予報されたので、モノは試しと島松でマルスを叩いて貰えば、運良く当日4列車の1人用個室A寝台のキャンセル分に巡り会い、それで帰京している。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6  LBA1 filter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 1993

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 かつてのサトポロ(sat-poro)だったフシコサトポロ(husko-sat-poro)が流れ、メム(mem=湧水)の地でもあったそこの水資源に着目し、大友堀(創成川)と豊平川に区切られた一帯に事業所(工場)施設群を配置すべきと論じたのは、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として来日した合衆国農務局長ホルレス=キャプロン(Horace Capron)だった。開拓使はこの提言を受け入れ、サトポロと切り離されたフシコサトポロの新たな水源、ナイポ(nay-po=小川の意)と呼ばれた上流の小さな流れのあたりを中心に、木工や機械製造、馬具、漁具、製紙、製油、製粉、製糸、精麦、缶詰、味噌・醤油の醸造など多くの官営工場群を建設して往った。
これらは北海道拓殖の基礎製品を提供し、かつ内地への移出品を生産するものであった。これだけの工場の稼働には多くの労働力を要し、それらもまた移民にて賄われたはずである。それがどのような出自の人々であるかは調べ得ていないけれど、大方の想像はつく。経済的に決して豊かではなかった彼らは、工場近隣に用意された粗末な宿舎に居を定めることになり、社会保障など考えられぬ当時、官営工場が内地新興資本の手に払い下げられれば、資本による搾取の対象でもあった。
旧北海道庁庁舎正面から創成川を越えて苗穂停車場へ至る北三条通り沿道の市街地は、このような労働者階級の居住地として形成され、かつてには職工町と呼ばれた貧者の街、細民街であった。1900年代始め頃の苗穂界隈の様子は、当時札幌鉄道局に勤務し苗穂の官舎に住んだ、異色の作家橘外男の短編「求婚記」に次のように描写されている。


私はかねて聞いていた通り煙草屋と荒物屋との間の狭い横丁を入った。
職工町の一町ばかり先の左側を目指して入ったが、どうも何ともかともごみごみとした、行けば行くほど裏長屋の貧民窟のような処であった。
降り積もった雪が腰のあたり迄両側に掃き寄せられて、そのトンネルみたいな中を平ったく入って行った芥溜(ごみため)のあたりから、同じような小さな棟割り長屋が幾つも幾つも並んでいた。
[求婚記-現代ユーモア文学全集橘外男集(1954駿河台書房)に所収]

そればかりでは無い。都市は膨張の過程にて必然として貧民窟(スラム)を内包する。都市経済の拡大にはその規模を超えて過大な人口流入を誘起するが、必ずしも全てに配分の行き渡らないが故である。新たな流入者には、おそらくは小作農からの離農者などが多くを占めたと推定され、苗穂のほか豊平橋周辺にも存在したと云う細民街が吸収したものだろうが、そこからも溢れた者達は豊平川の河川敷を占拠して粗末な小屋を建て居住したのだった。貧民窟の出現である。この1910年代までには形成されていた豊平細民街から一条大橋、東橋を経て苗穂細民街に至る貧者の回廊と、その対岸菊水の白石遊郭の存在は、都内で言えば四谷2丁目から東福院坂を下りた鮫ヶ橋界隈から千駄ヶ谷を経て新宿貨物駅に至るそれと、その先の新宿遊郭に符合するのが興味深い。
札幌の例に限らぬが、このようなスラム街は往々サムライ部落と呼ばれた。その語源には諸説あって定まらず、古い報道記事などには武士部落と書かれているのを見かける。「武士」をサムライと読んだのである。
廃品・古紙回収で生計を立てられれば良い方で、多くは無職だったとされるが、中には実際に武家出身者も交じり、教養・教育もある誇り高き人々からのことかもしれない。
河川敷ゆえに出水の度に流されながらも、その都度に再建され、戦後に至れば緊急開拓政策による戦後開拓からも溢れた人口を吸収して拡大したのだった。この頃には都市景観上から幾度も撤去が試みられるも、いつしか再出現するイタチごっこを繰り返し、来るべき札幌冬季五輪開催にともなう強引な行政指導により消滅する1969年まで存在した。

残照を背に、苗穂の東方函館桟橋起点290K000Mへと差し掛かる2列車<北斗星2号>。
画角は幾度もの既出である。この位置には渡道すれば一度は立っていた。手元には1月から12月まで全ての季節が寝台特急を収めたこの画角で揃っている。これは9月下旬の撮影。手稲山からの稜線を遮ってしまうJRタワーはまだ無い。

1960年代に市電に乗りながら眺めた北三条通りが、奥へ行くほど、東橋に接近するほどに場末感を漂わせたのは、このような背景による。現在にも中心街に隣接しながらも落差のある街並が続く。前にも書いたが、土地の刻印とはなかなかに消えぬものなのだ。
とは云え、「細民」とは中間層が存在せず、富裕支配階層と下層階級しかいなかった時代の古い言葉である。貧者を意味したにせよ、現代に翻訳すれば「庶民」を指すと付言しておく。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopCC on Mac.


上野幌 (千歳線) 2000

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地名のことであるから、野幌丘陵の南北稜線上、野津幌官林の原生林が広がる最高所一帯に付された椴山の名が、いつ頃から存在したものかを明確に記した資料などは無いだろう。トドマツが密生していたことからの和名ゆえ、そこに和人の杣夫(木樵)が入り込むようになったとされる1880年代の彼らによる付名であろうとは、想像に難く無い。1890年に、広島開墾からそこを横断して豊平川に架橋の東橋へと至る札幌道路が開削された時点には既にそう呼ばれ、1898年に丘陵頂上に建立された神社も椴山出雲神社であった。
その札幌道路沿いに選定された殖民区画は、当然にそれを東西基線とした上で、椴山に直交する南北基線が引かれた。現在の椴山交差点がほぼ交点に当たる。そして、1897年7月に発行された区画図によれば、その南北基線をやや外れた位置に、札幌道路から南へ、開墾地を外れて原生林の中を、当時にノホロ(現在の大曲と思われる)と呼ばれた地区の殖民区画へと向かう小道が描かれている。おそらくは、これが農場橋へと向かう鉄道屋達に馴染みの深い、現在の北広島市道大曲椴山線のはじまりであろう。西の里地域の開基百年に際して刊行された郷土誌「風雪百年」(2000年 西の里開基百年記念事業実行委員会編)には、かつてノホロへは、裏の沢川上流のベコネ沢沿いに辿ったと記されるから、これに替えて開かれたのかも知れない。
せっかくに道が通じたと云うに(と言っても獣道よりはマシな程度の踏分道だったに違い無い)、その一帯が先にも書いたように入植地とされず原生林が残されたことには、些か訝しく思っていたのだが、それは敢えて残したものだったらしい。20世紀初頭にも自然保護の思想は存在したのである。けれど、それは強固な国家意思に支えられたでなく、前に 静狩 (室蘭本線) 2010 に書いたごとく、経済活動を前には決して留意されぬのだった。ここも1921年3月3日に「野幌原始林」の一部として天然記念物指定を受けながらも、戦後まもなくに開墾地とされるに至った。1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」によってである。
この戦後緊急開拓については、猿払 (天北線) 1986 に概略を記したので繰り返さないが、急増した人口を吸収する「開拓」用地の不足には自然保護など二の次にされ、先の椴山から大曲へと辿る小道の、1926年には開通していた千歳線までの一帯には「新光」と名付けられた部落(敢えて当時の呼称とする)が開かれ、13戸が移住したのだった。樺太や遠くシベリヤからの引き揚げ者を含んだけれど、この施策が開拓農家の次男坊・三男坊の受け皿に過ぎなかったことを示すように多くは道内からの入植であった。
新光地区は、野津幌川水源の沢が入り込んだ起伏のある地形に農耕には極めて悪条件ではあったが、馬鈴薯を主体に大根・キャベツにレタスや人参を生産、札幌市内に出荷していたと云う。1960年代には花卉栽培に転換して成功したと「風雪百年」にある。

市道大曲椴山線が「農場橋」で千歳新線を越えるあたり、苗穂方のR=800曲線を旋回する8002列車。
画角は数度の既出なこと、ご容赦いただく他無い。北広島ないし上野幌駅前からのバスを椴山停留所に降りて、農場橋までは本当に幾度も通ったのである。手稲在住の古には、親父との日曜ドライブで馬鈴薯農場へと走った道でもあるとは、以前の記事に書いた。
千歳新線は、新光部落の南端に用地を求めて建設された。この画角の位置もそれに当たる。
そればかりが事由では無いだろうが、農地を削られた新光集落は1980年代までにはほぼ全戸が離農、一部で耕作の続けられるものの、現在では開墾地の多くが転用ないし耕作を放棄されたまま野に還りつつある。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/320sec@f3.2  C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

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