"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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苗穂 (函館本線/千歳線) 1999

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もう3年ほど前になるが、札幌 (函館本線) 1970 から数回に分けて苗穂駅史擬きの駄文を連ねたことがある。
そこでは、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線運転化に際して苗穂に増設されたのが現5・6番ホームであり、(1994年の留置線設置にて失われた)旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置であるとした。閲覧した資料や工事盛んな当時に幾度か苗穂を通過した際の記憶を辿っての記述だったけれど、その後に新たに閲覧した資料もあり、シリーズの補遺とする。

まずは、「旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置」との記述は検証不十分につき、少なくとも「1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」と訂正するが、これも実は正確では無い。この乗降場自体も躯体としては1965年の乗降場増設の際の新設なのである。
とは云え、戦前期からの島式乗降場の南側に接し、それを取り壊して設置の旧3・4番ホームでも、その南側に接するところとなった、函館千歳上り線から千歳上り線専用に転用の線路番号での3番線(工事前には5番線)の線路中心線は、同工事で動いていないと判断される。これの本屋側には函館・千歳線それぞれの副本線や貨物操配線が隣接しており、それらが駅機能上に不可欠であった当時に移設は困難だったゆえだろう。(貨物操配線は寧ろ1線が本工事で増強されている)
よって、「旧3・4番線ホームが1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」は、前記の通り正確では無いにせよ、あながち間違いでも無いことにはなる。
加えて、かつての島式乗降場とは凡そ10メートルの幅員を持っていたことも知れた。増設による島式2面化は、貨物操配線への影響を極力避け、その用地を最大限に活用することで為されたのである。小樽方面・江別千歳方面ともにホーム幅員が狭小気味だった事由として納得する。

工事は次の手順と推定される。
1, 北側の貨物操配線の1線を函館下り副本線に転用して、新7番線とする。
2, 旧7番線を新6番線として、これに接してホームを新設、片面使用にて函館線下り列車に扱いを開始する。(ただし、一部旧6番線が支障する位置があっただろう)
3, 使用停止した旧6番線を撤去、既存ホームの同線側も崩して、新設ホームのもう片面を築造の上、これに接して新5番線として函館上り線を移設。これにて増設ホームが竣工する。
4, 続いて、既存ホームを全撤去して増設ホームと同形態のホームを、位置の変わらない旧5番線に接して設置、これを千歳上り線(新3番線)とする。
5, 同ホーム北側に接して新4番線を新設、千歳下り線とする。
(番線表記は、
苗穂 (函館本線) 1991 の記事を参照していただきたい)

札幌からの斜路を駆け下り苗穂場内に進入する8010列車。
苗穂5・6番ホーム先端からの画角自体は幾度もの既出である。春分あたりから秋分過ぎまでなら、低い光線が夕刻の上り特急寝台列車の深い屋根を照らし出してくれた位置ゆえ、渡道の度の定番位置だったのだが、苗穂新駅工事に支障するものか、同ホームの短縮化により失われてしまった。
8010列車の16時10分過ぎとは難しい時間帯で、もっと暮色のイメージが欲しいところなのに、それの得られる11月初旬を待てば、日没方向はより南へと移動してしまうのだった。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
札幌駅八十年史 : 日本国有鉄道札幌駅八十年史編さん委員会, 1960
北海道建設業協会100年史 : 北海道建設業協会 2016
札建工業五十年史 : 札建工業株式会社 1992


[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.


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島松 (千歳線) 2004

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その昔、親父との大衆車パブリカでの日曜ドライヴで、広島街道を厚別丘陵を越えて長沼方面へと走ると、まっすぐな道路の行く手を遮るような黒々とした樹林帯を幾度も眼にしていた。これを横切る途中で自動車を降りてみれば林中の如くであったし、並行する道を行けばどこまでも尽きぬ延長にも感嘆したものだった。
石狩平野に広く分布する国有の防風保安林である。札幌に暮らした分には身近な風景だったけれど、内地にその規模をみることは無く、植民区画に由来して整然と区画された耕地を大規模に縁取る防風保安林は、これも北海道の独自な景観と思う。最近にWeb上でいくらでも閲覧可能となった衛星画像を確認すれば尚更の感がある。特に、西側に後志の山系へと続く丘陵地を眺める長沼低地は、作付けの春先にそこから吹き下ろす冷風の回避からか、多くの防風保安林が設けられているのが見て取れる。それは高高度の撮影にもくっきりとしたグリーンベルトである。
これらの起源を調べるに行き当たった資料は、札幌営林局(当時)による1975年の「都市化地域防風林の整備調査報告書」だけゆえ、一次資料を直接に調べていないことをお断りするのだが、それには1886年に始まる北海道庁による殖民区画の選定過程(本文書には「殖民区劃測設」とある)から農耕地間に「防風林帯として」(原生)森林を存置した旨が記載されており、1896年には「殖民地選定及区劃施設規定」を制定して「防風林ハ少クモ1,800間毎ニ之 ニ相当スル土地ヲ適宜存置スヘシ」と定めたと在る。
3キロあまり毎に設けよ、とは道内の広大な耕地面積を考慮したものであろうし、その面積に効果を及ぼすにはあれだけの帯域を要したのであろう。調べ得なかったけれど、80から100メートルの幅は当時での44間から55間を基準とした思われる。
このように原生林の存置を意図したものであったが、実際には開墾にともなう伐採も進んでしまい、一部には防風林帯としたものの草地に放置されたり、天然更新のヤマグワやヤナギなどの林相と化したりであったため、1897年施行の『森林法』で保安林と規定し、道庁は1907年に「北海道国有林整備綱領」を定めて造林事業を推進したようである。その結果、1920年頃までには現在の如きヤチダモを主体とした樹林帯の出現を見たと云う。
この規模の大きい防風保安林を地元の農家は、そこを薪や木炭など生活材の調達先に位置づけ保全に努めた。つまりはその6キロから8キロに及ぶ延長からは、ひとつの「里山」であり、彼らの呼称も「お山」だったと聞く。

1926年8月21日開業と記録の北海道鉄道(2代)札幌線は、千歳-恵庭間の2箇所と島松停車場北側で、この防風保安林を切り開いて敷設された。前者は、現千歳線の長都とサッポロビール庭園付近であり、特に長都はその伐採跡に立地している。島松の北側で斜めに横切る防風林帯は幅が30メートル程と小さく、これは20間と云う規格なのだろうか。
そのさらに北側、島松神社からそれを越えた向こうの南19号線踏切には幾度も通った。南北方向の線形には上り特急寝台列車通過時刻なら西側からの斜光線を浴びたからなのだが、改めて過日の原版を確認すると降雨下の撮影も多い。明確に意識したでは無いけれど、島松の駅から然程遠く無い位置には「雨傘」にもしていたと云うことだ。→ 白石 (千歳線/函館本線) 2000

写真は、ルルマップ川橋梁への10パーミルを駆け下りる8002列車。画角の何度もの既出はお詫びする。
この日のことはよく記憶していて、前夜の<利尻>で南稚内に降りたものの、雨天に嫌気の差して<スーパー宗谷>で蜻蛉返り、そのままここに立っていた。この後も数日に悪天の続くことが予報されたので、モノは試しと島松でマルスを叩いて貰えば、運良く当日4列車の1人用個室A寝台のキャンセル分に巡り会い、それで帰京している。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6  LBA1 filter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

苗穂 (函館本線/千歳線) 1993

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 かつてのサトポロ(sat-poro)だったフシコサトポロ(husko-sat-poro)が流れ、メム(mem=湧水)の地でもあったそこの水資源に着目し、大友堀(創成川)と豊平川に区切られた一帯に事業所(工場)施設群を配置すべきと論じたのは、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として来日した合衆国農務局長ホルレス=キャプロン(Horace Capron)だった。開拓使はこの提言を受け入れ、サトポロと切り離されたフシコサトポロの新たな水源、ナイポ(nay-po=小川の意)と呼ばれた上流の小さな流れのあたりを中心に、木工や機械製造、馬具、漁具、製紙、製油、製粉、製糸、精麦、缶詰、味噌・醤油の醸造など多くの官営工場群を建設して往った。
これらは北海道拓殖の基礎製品を提供し、かつ内地への移出品を生産するものであった。これだけの工場の稼働には多くの労働力を要し、それらもまた移民にて賄われたはずである。それがどのような出自の人々であるかは調べ得ていないけれど、大方の想像はつく。経済的に決して豊かではなかった彼らは、工場近隣に用意された粗末な宿舎に居を定めることになり、社会保障など考えられぬ当時、官営工場が内地新興資本の手に払い下げられれば、資本による搾取の対象でもあった。
旧北海道庁庁舎正面から創成川を越えて苗穂停車場へ至る北三条通り沿道の市街地は、このような労働者階級の居住地として形成され、かつてには職工町と呼ばれた貧者の街、細民街であった。1900年代始め頃の苗穂界隈の様子は、当時札幌鉄道局に勤務し苗穂の官舎に住んだ、異色の作家橘外男の短編「求婚記」に次のように描写されている。


私はかねて聞いていた通り煙草屋と荒物屋との間の狭い横丁を入った。
職工町の一町ばかり先の左側を目指して入ったが、どうも何ともかともごみごみとした、行けば行くほど裏長屋の貧民窟のような処であった。
降り積もった雪が腰のあたり迄両側に掃き寄せられて、そのトンネルみたいな中を平ったく入って行った芥溜(ごみため)のあたりから、同じような小さな棟割り長屋が幾つも幾つも並んでいた。
[求婚記-現代ユーモア文学全集橘外男集(1954駿河台書房)に所収]

そればかりでは無い。都市は膨張の過程にて必然として貧民窟(スラム)を内包する。都市経済の拡大にはその規模を超えて過大な人口流入を誘起するが、必ずしも全てに配分の行き渡らないが故である。新たな流入者には、おそらくは小作農からの離農者などが多くを占めたと推定され、苗穂のほか豊平橋周辺にも存在したと云う細民街が吸収したものだろうが、そこからも溢れた者達は豊平川の河川敷を占拠して粗末な小屋を建て居住したのだった。貧民窟の出現である。この1910年代までには形成されていた豊平細民街から一条大橋、東橋を経て苗穂細民街に至る貧者の回廊と、その対岸菊水の白石遊郭の存在は、都内で言えば四谷2丁目から東福院坂を下りた鮫ヶ橋界隈から千駄ヶ谷を経て新宿貨物駅に至るそれと、その先の新宿遊郭に符合するのが興味深い。
札幌の例に限らぬが、このようなスラム街は往々サムライ部落と呼ばれた。その語源には諸説あって定まらず、古い報道記事などには武士部落と書かれているのを見かける。「武士」をサムライと読んだのである。
廃品・古紙回収で生計を立てられれば良い方で、多くは無職だったとされるが、中には実際に武家出身者も交じり、教養・教育もある誇り高き人々からのことかもしれない。
河川敷ゆえに出水の度に流されながらも、その都度に再建され、戦後に至れば緊急開拓政策による戦後開拓からも溢れた人口を吸収して拡大したのだった。この頃には都市景観上から幾度も撤去が試みられるも、いつしか再出現するイタチごっこを繰り返し、来るべき札幌冬季五輪開催にともなう強引な行政指導により消滅する1969年まで存在した。

残照を背に、苗穂の東方函館桟橋起点290K000Mへと差し掛かる2列車<北斗星2号>。
画角は幾度もの既出である。この位置には渡道すれば一度は立っていた。手元には1月から12月まで全ての季節が寝台特急を収めたこの画角で揃っている。これは9月下旬の撮影。手稲山からの稜線を遮ってしまうJRタワーはまだ無い。

1960年代に市電に乗りながら眺めた北三条通りが、奥へ行くほど、東橋に接近するほどに場末感を漂わせたのは、このような背景による。現在にも中心街に隣接しながらも落差のある街並が続く。前にも書いたが、土地の刻印とはなかなかに消えぬものなのだ。
とは云え、「細民」とは中間層が存在せず、富裕支配階層と下層階級しかいなかった時代の古い言葉である。貧者を意味したにせよ、現代に翻訳すれば「庶民」を指すと付言しておく。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopCC on Mac.


上野幌 (千歳線) 2000

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地名のことであるから、野幌丘陵の南北稜線上、野津幌官林の原生林が広がる最高所一帯に付された椴山の名が、いつ頃から存在したものかを明確に記した資料などは無いだろう。トドマツが密生していたことからの和名ゆえ、そこに和人の杣夫(木樵)が入り込むようになったとされる1880年代の彼らによる付名であろうとは、想像に難く無い。1890年に、広島開墾からそこを横断して豊平川に架橋の東橋へと至る札幌道路が開削された時点には既にそう呼ばれ、1898年に丘陵頂上に建立された神社も椴山出雲神社であった。
その札幌道路沿いに選定された殖民区画は、当然にそれを東西基線とした上で、椴山に直交する南北基線が引かれた。現在の椴山交差点がほぼ交点に当たる。そして、1897年7月に発行された区画図によれば、その南北基線をやや外れた位置に、札幌道路から南へ、開墾地を外れて原生林の中を、当時にノホロ(現在の大曲と思われる)と呼ばれた地区の殖民区画へと向かう小道が描かれている。おそらくは、これが農場橋へと向かう鉄道屋達に馴染みの深い、現在の北広島市道大曲椴山線のはじまりであろう。西の里地域の開基百年に際して刊行された郷土誌「風雪百年」(2000年 西の里開基百年記念事業実行委員会編)には、かつてノホロへは、裏の沢川上流のベコネ沢沿いに辿ったと記されるから、これに替えて開かれたのかも知れない。
せっかくに道が通じたと云うに(と言っても獣道よりはマシな程度の踏分道だったに違い無い)、その一帯が先にも書いたように入植地とされず原生林が残されたことには、些か訝しく思っていたのだが、それは敢えて残したものだったらしい。20世紀初頭にも自然保護の思想は存在したのである。けれど、それは強固な国家意思に支えられたでなく、前に 静狩 (室蘭本線) 2010 に書いたごとく、経済活動を前には決して留意されぬのだった。ここも1921年3月3日に「野幌原始林」の一部として天然記念物指定を受けながらも、戦後まもなくに開墾地とされるに至った。1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」によってである。
この戦後緊急開拓については、猿払 (天北線) 1986 に概略を記したので繰り返さないが、急増した人口を吸収する「開拓」用地の不足には自然保護など二の次にされ、先の椴山から大曲へと辿る小道の、1926年には開通していた千歳線までの一帯には「新光」と名付けられた部落(敢えて当時の呼称とする)が開かれ、13戸が移住したのだった。樺太や遠くシベリヤからの引き揚げ者を含んだけれど、この施策が開拓農家の次男坊・三男坊の受け皿に過ぎなかったことを示すように多くは道内からの入植であった。
新光地区は、野津幌川水源の沢が入り込んだ起伏のある地形に農耕には極めて悪条件ではあったが、馬鈴薯を主体に大根・キャベツにレタスや人参を生産、札幌市内に出荷していたと云う。1960年代には花卉栽培に転換して成功したと「風雪百年」にある。

市道大曲椴山線が「農場橋」で千歳新線を越えるあたり、苗穂方のR=800曲線を旋回する8002列車。
画角は数度の既出なこと、ご容赦いただく他無い。北広島ないし上野幌駅前からのバスを椴山停留所に降りて、農場橋までは本当に幾度も通ったのである。手稲在住の古には、親父との日曜ドライブで馬鈴薯農場へと走った道でもあるとは、以前の記事に書いた。
千歳新線は、新光部落の南端に用地を求めて建設された。この画角の位置もそれに当たる。
そればかりが事由では無いだろうが、農地を削られた新光集落は1980年代までにはほぼ全戸が離農、一部で耕作の続けられるものの、現在では開墾地の多くが転用ないし耕作を放棄されたまま野に還りつつある。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/320sec@f3.2  C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

上野幌-西の里信号場 (千歳線) 1998

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再々で恐縮ながら、広島街道である。
それが野幌丘陵を超えるところの「西の里」の地名は、1935年に広島村の字名を整理改称した際、「北の里」「南の里」に「東の里」と共に新たに起こされた字名である。それは、取りも直さずに広島開墾地の1894年に成立した広島村の中心集落としての順調な拡張に、村内四方に集落をともなった農地開発の進展していたことを示している。「西の里」は、それまでの字名、野幌と下野幌を併せた地区への付名であった。

野津幌官林と呼ばれた原生林が広がっていた野幌丘陵の現西の里地域への最初の入植は、そこがまだ月寒村域に属していた1889年のことで、現在の上野幌駅近く野津幌川沿いの山根橋あたりとされている。この頃、野幌丘陵を越えて長沼低地側と札幌開拓使を結ぶ道路は1873年6月に開通した札幌本道しかなく、月寒村内は島松から輪厚・大曲の経路であったから、ここでは交通路・輸送路としての川筋が選ばれたのは当然と云えよう。
一方、1884年以来に中丿沢原野で進められた広島団体による開墾は、稲作の成功に入植者の1000人に迫ろうと云う模範的開墾地となって、これの優遇されたものか、1890年に現中の沢付近から丘陵の東西稜線に沿って直接に札幌開拓使に至る札幌道路が開削されたのだった。これが後に広島街道と呼ばれた現在の国道274号線である。
この道路は現西の里地域を横断したゆえ、そこへの入植は以降に本格化し、広島村成立後には100戸ほどの入植が進んだと「広島村史」(1960年広島村)は記述する。なるほど、「風雪百年-西の里郷土史」(2000年西の里開基百年記念事業実行委員会)に所載の1900年代初頭頃とされる開拓者分布図を眺めれば、札幌道路沿いと野津幌川の低湿地に入植者の名がずらりと並ぶのが見て取れる。
丘陵地ゆえに水利や低温、強風など営農の労苦は尽きなかったに違いないが、物流の交通路を持ち得たことで入植は促進され、広島開墾から続く定住の進んだ沿道には千歳・恵庭方面からの荷馬車も多くは札幌本道ではなく、この道路を通行したと云う。それが商店や茶屋を呼び込む好循環を生んだとも記録には読める。

だいぶ遅れて野幌丘陵を越えたのが、1926年8月21日開業と記録される北海道鉄道(2代)の札幌線であった。広島開墾地への人口集積に、此の鉄道は島松から北上してそこに北広島停車場を開き、左転してまもなくに野幌丘陵に取り付くのだが、札幌道路とともに急坂を上る訳には往かず、その南方で丘陵南北稜線の鞍部を隧道を掘削すること無く越え野津幌川左岸を下る経路を選んでいた。道路沿いに開墾が進んでいたとは云え、その背後にはまだまだ原生林が続いていたから、それを切り開いての建設であった。西の里の開墾区域と標高差30メートル程の原生林内の通過にはそこに停車場を持つことは無く、以来国有鉄道千歳線を経ての現在まで西の里は鉄道の通過しながら、それとは無縁の地区である。
早くに開通した道路により成長して来た地域なのだが、札幌圏の拡張にともなう農地を転用しての宅地化は、1973年に上野幌停車場の移転した札幌市厚別区側に見られる程度であり、それも1990年代に至ってようやくのことであった。せっかくに設置しながら遊休化している西の里信号場は存在するものの、周辺に開発用地を持つでもない北海道旅客鉄道にこれを旅客駅化するインセンティブは働きそうに無い。

千歳新線が切通しで通過する施工基面高63M00の最高点をR=1000M曲線で左転して往く8001列車。新緑が照り返す。
画角としての既出はご容赦願いたい。此処では、電車線の被らぬ位置まで切通しを降りるのを定番にしていた。
10パーミル勾配を力行してきた2台の機関車は農場橋の真下でノッチオフする。電車列車に互するとまでは云い難いが、それに追い着かれまいとする走りだった。
ところで、近年この位置に「西の里」と進行方向の信号場名を記した標識が建植された。実を云うと、これが何と呼ばれる標識なのか旧い鉄道屋は知らない。停車場接近標識なら橙黄色の矩形板に対角線方向の黒色線のはずで、何より場内信号機の設置されない停車場への標識である。けれど、同停車場場内信号機から外方600メートル位置は代用閉塞施行に備えての設備とも推定され、ならばこれも停車場接近標識として良いのだろうか。正解をご存知の識者のおられれば教えを請いたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f4 PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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