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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

落部 (函館本線) 1989

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それなりの規模の集落を駅勢圏とする落部だけれど、その駅周囲は「駅前」の体を為していない。それはこの駅の来歴ゆえのことである。
アジア太平洋戦争末期に開通し上り線として用いられた別線新線、通称の海岸線上の停車場として開かれ、それは駅前後区間では既設線、通称山廻り線のさらに山側であったから、本来「駅前」となるべき位置は線路が通過する構内であった。1958年12月11日にその既設線が廃止されても、自動車通行を主体とした幹線国道への転用には、そこに「駅前」の形成される動機は生じなかったのである。1970年に初めて降り立った頃でも、駅本屋から少しばかり距離のある国道へは土埃舞う空き地の様相だったと覚えている。そこは用途を失ったままの鉄道用地だったから当然であろう。商店など立地するはずもない。
もっとも、1903年に北海道鉄道(初代)が開通した当の既設線自体、住民の鉄道忌避により停車場設置を見送って集落の背後を大きく迂回する線形で敷設され、開通の8年後にようやく開設の旧落部駅も市街地外れのさらに外方に位置するところとなって、街道(旧国道)から分岐した「駅前通り」が開かれるも、そこへの市街地拡大には至らず仕舞いだった。
(市街地迂回は海岸段丘上から一旦落部川沖積平野に下り、再び段丘へと上るには必然の線形だったとも云え、このあたりの事情は、上記の変遷ともどもWebSiteの記事「石倉-野田生間の改良と線増」に詳述している)

新旧ともに「駅前」を持ち得なかった落部に降りて困ったのは、やはり食料の補給であった。海寄りの市街地まで踏み込めば食料品に雑貨の商店が所在とは承知していたけれど、徒歩の鉄道屋はそこまで迂回する気にもなれなかったのである。
自動車が行き交うばかりの殺風景な国道沿いへ、ようやくに商店が開かれたのは1980年代の中頃と覚えている。野田生方のポイントへと歩き始めて直ぐに、その看板を見つけるも洋菓子店とのそれには落胆したのだった。その類は不得手ではないものの、行動食にはなり得ない。
以来、そんな立地でケーキ屋の成り立つものかと訝しく思いながら、幾度となくその前を通り過ぎていたのを、ある時にウィンドウ近くまで接近して知れた。洋菓子と名乗れば当然にケーキやら焼菓子を思うのだが、ケーキなど冷蔵ショウケイスに僅かが並ぶのみにて、そこは実質的にパン屋だったのである。
その店、「シェルブールすがわら」は、八雲町商工会議所の資料には1985年の開業と記され、記憶と一致する。主人にしてみれば、本来の洋菓子店を目指したのかも知れぬが、あの立地では成り立たなかったのであろう。ベーカリーとて良くぞ彼此30年の営業とは感心してしまう。

東野側の急峻な段丘崖下を往くのは150列車。
萩野に着発した王子製紙の製品輸送列車にワキ5000が運用される末期の姿である。それの老朽化にはコキ50000に5tコンテナを固定して用いると云う、何やらパラドキシーな措置が採られた。なお、写真の後位側コンテナ車組成は、一部が先行したでなく札幌(タ)発編成の併結である。
せっかくに食料調達先と知れた「シェルブールすがわら」だったのだが、この頃には駅至近にコンビニ(セヴンイレヴン)が開店し、あまり立ち寄ることは無くなってしまった。けれど、コンビニにもある惣菜パンに走らず、本来の菓子パンを並べていたのは洋菓子屋の矜持だろう。森から八雲までの間では唯一のベーカリーに違い無く、自動車利用を前提にそこを商圏としているのが30年の盛業の所以であろうか。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6-8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

国縫 (函館本線) 1984

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山越郡長万部町国縫地内の国道5号線には、国縫停車場への進路を示す道路標識は見当たらない。設置が通例とばかり信じて来た旧い鉄道屋には、これも鉄道の地位低下を示す事象のひとつに見える。
停車場は函館バス長万部方面行き停留所に隣接の細道突き当たりに所在し、国道からも本屋の一部を認めるのだけれど、案内の無ければそれとは知れないだろう。もっともその位置なら地元の利用者は皆承知しているし、国道を通過する外来者には元来無縁の施設に違いないにしても、駅が街なり集落なりの生活の拠点と認識されなくなった何より証である。経済中心の無い集落は輪郭もまたぼやけて見える。

かつての国縫停車場は瀬棚線を介しての日本海岸との輸送の結節点であり、その貨車操配に相応しい構内規模を持っていた。加えては、隣接した合板工場への原木の到着に製品出荷を扱う専用線も稼働して、側線には多くの貨車が見られたものだった。函館海線では貨物拠点のひとつだったとして良い。
合板工場の北海ベニヤ株式会社国縫工場としての操業開始は、瀬棚線が瀬棚までの全通を果たした2年後の1934年と記録されており、それの沿線資源も期待したものであったろう。海外からの金属原料輸入が途絶えた戦時下には木製航空機の資材生産工場に指定されたと云う。戦後には幾度かの変転を経て、瀬棚線撮影にここへ降りるようになった1970年代前半には札幌の合板会社北晴合板の国縫工場となっていた。
当時のダイヤには、五稜郭操車場-長万部間の区間列車だった1191・1190列車の1往復のみが停車して貨車の集配を行っていたと見て取れる。瀬棚線内発着貨車の授受も担っただろうが、それには当該貨車は半日程の滞留を要することになって構内に車票の差された中継車の多かったのも頷ける。

現在も残される駅本屋は1939年に改築の三代目となり、大きく取られた待合室に駅長事務室は瀬棚線接続で増大した旅客や構内作業の人員の収容からと思われ、調べ得なかったが跨線橋の設置もその際だったと推定される。駅員の詰めていた当時には集落規模に不釣り合いな堂々の規模と見え、今は元商店の2軒が残るだけの駅前も、それに隣接して商人宿の二階屋が駅舎と相対し、さらに商店が続いていたと覚えている。深い草叢と化している北側一帯には集落人口の多くを占めたであろう鉄道職員の官舎が建ち並び、確かに集落経済の中心を成していたのだった。

写真は瀬棚線蒸機から10年後に再訪した国縫停車場。今は取り払われてしまった第二乗降場上屋が、真夏の白い光線にくっきりと影を落としていた。
2番線には森から長万部への643Dが停車中。1番線に到着したのは瀬棚線への927Dである。本来なら3番線着発のはずだが、この日は大幅遅延と思われる貨物列車が入線していたゆえの変更であろう。発車して往くそれの後ろ姿も画角にある。
北晴合板は1981年11月28日に44億円の負債を抱えて札幌地裁に和議を申請、30日に財産保全命令を受けて事実上に倒産し、国縫工場も操業を停止した。この1984年には瀬棚線からの貨物出荷も既に無く、側線だけが空疎に残されていた。画角のコンテナ車は、それを利用した夏期遊休車の疎開留置だったと思う。
けれど、駅長事務室には当然に職員が詰め、待合室にはキオスク売店も健在だった頃ではある。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with adaptor 1/500@f5.6 Fuji SC56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

七飯 (函館本線) 2008

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大野平野から無沢峠の直下、峠下隧道内での施工基面高136M90を経て小沼畔へと標高差100メートル余りを上る既設線勾配を緩和した別線新線、通称の藤城線は1966年9月30日に使用を開始しているから、函館本線無煙化までの7年間、ここを蒸機列車が通過していた。
10パーミルに緩和の標準勾配には、重連運転や渡島大野からの後補機は失われたものの、力行は約束されていたし近代的な真白いコンクリートラーメン高架橋との組合せも面白く、幾度となく通ったものだった。畑作地に農家の点在するだけだった周囲から見上げるのは勿論に、柵すらなかった橋脚のタラップを上って線路際より七飯構内からの盛土築堤を駆け上がって来る姿を捉えたり、眼下の仁山回り既設線の俯瞰を試みたりもしていた。直下に住宅の目立つようになれば、このタラップ上り口には鉄製の柵の巡らされたものの、1990年頃までなら北海道旅客鉄道函館支社に申し入れて撮影許可も得ていたけれど、昨今のごとき状況下では門前払いが関の山であろうか。

当然に、延長913メートルに及ぶ陸橋自体の俯瞰を考えぬ訳も無く、当時に1本しか無かった城岱牧場への登坂路周辺や送電線直下の保守用通路など斜面を探索するも、その時点で適当な地点を探し得えずにいた。ところが、とある月刊誌(鉄道雑誌では無い)に陸橋上の蒸機列車をほぼ正面から撮影したカットを見掛ければ、やはり撮れる位置は在るのだと些かに悔しくも思い、その写真からおおよその位置を、かなり西寄りの送電線保守通路付近からと五万図上で当たりをつけて再度探索に出向くも発見出来ず、斜面を彷徨った挙げ句に辿り着いたのが、俯瞰と云うには高度の物足りない畑作地だったのである。けれど、既に蒸機の無いことには写欲の沸かず、1980年に<ニセコ>が14系に置き替わるまで永く塩漬けにしておいた。→ 七飯 (函館本線) 1983

その位置は、2000年3月に開通した函館新道の用地となって失われてしまうのだが、同工事には前記の城岱牧場への登坂路(町道桜町8号線)が付替られて眺望の開けるところとなった。四半世紀を待った位置とでも云おうか。
早朝の低い斜光線に高架橋を上るのは3061列車。
C62に牽かれて高速で駆け上がって往く<ていね>編成をここで撮りたかったと、つくづくに思う次第。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D 1/60sec@f5.6 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.

落部 (函館本線) 1992

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森町域から八雲町域に至る噴火湾西岸には海成段丘が発達し、特に海食崖に続く波食棚が離水するまで隆起しなかった石倉から東野に掛けては段丘崖が汀線に接している。
古代以来に海沿いの通行路とは一般に海岸線をトレイスしていたから、この区間はやはり難所であったろう。幕末期の1845年に此処を通過した松浦武四郎は、後年の東蝦夷日誌に、モナシベ(現在の栄浜付近)からホンミツ(地名は残らなかったが、現在の落部市街地東端あたりであろうか)までを「タテと云崖の下を行也。此処風波有、又は雨の日等は通りがたし。又雪の後には崖崩て落ること有、之まゝ径我人有ことなり。旅人此処を行時は日和を考て通行すべし。」(※句読点を加えている)と記し、落部川を渡船してからモノタヘ(現野田追)への段丘崖を「クロハゲ并て少し行アカハゲ赤土崩崖なり」と書いている。
ここには、1600年頃に松前藩による知行地たる場所の置かれていたのだが、当初には福山(松前)との往き来は勿論のこと場所内交易拠点間の連絡にも主には船が用いられていた模様である。1799年に東蝦夷地を直轄領とした幕府は、松前から長駆エトロフに至る軍用路を開設し、陸上の運搬路も開かれたものの、これとて局地的踏分道を繋ぎ合わせ、辛うじて人馬の通行を可能とした程度で、通路開削の困難な段丘崖直下の海岸線は「海岸汐時に寄深ヌカシテ馬蹄難進ことあり用心いたす所なり」(「蝦夷渡海記」1809年)と捨て置かれた様子は、40年余り後の松浦武四郎の記述に合致する。
それでも、その時代に鷲ノ木・山越内・長万部に通行屋が、落部・黒岩に昼休所が設けられて通行の利便の図られていたことが記録されており、この原初的な通行路は日本海岸寿都までの連絡も担い、寿都街道と呼ばれていたようである。

森から長万部への本格的な西洋式の交通路、河川への架橋も含めた「道路」の開かれるのは、1888年に着工して1890年12月に開通した国道が最初であった。これには、規格とされた幅3間(約5.5メートル)の確保に、段丘崖直下の開削は困難であったのだろう。ヤウルクテキナイと呼ばれた(らしい)現在の本石倉付近から東野へは段丘面上を通過する線形の選ばれていた。
よって段丘崖下に路盤を構築したのは、アジア太平洋戦争戦時下での陸運転換政策に急遽着工され(計画と設計は1930年代から存在し、一部隧道は1942年から着工されていた)、1945年7月20日に使用を開始した函館本線の別線が最初であった。段丘面上へと登り降りする既設線に比して勾配の除去を要求されたゆえのことであり、古の通行路が鉄道に姿を変えて復活したのだった。土木技術と機械化の進展の結果ではあるが、段丘崖の崩落と噴火湾の波浪に悩ませられる災害区間となったことは、松浦武四郎の時代と違わない。

海面との比高の40メートル近くに及ぶ段丘崖下を往く8002列車<トワイライトエクスプレス>。
ここを17時33分頃が定時だったこの列車の光線下で撮影は、夏至の近辺と云えども困難だった。それは列車の斜め後方からとなるのだが、急峻な崖下までに届くことは無く、せめては海面への照射の反射光に期待することになった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCCon Mac.

石倉 (函館本線) 1980

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茂無部(もなしべ)川は、それを先住民族が pon-nayと呼んだとおりの細い水流である。にもかかわらず、これは茅部郡森町と二海郡八雲町との町界を為し、そこに所在する一連の集落の行政区画を分け隔てている。この水流を以て境界とするのは300年あまりを遡り、それは、松前藩が藩士への知行に替えて先住民との交易権占有を認めた「場所」の区分界としてであった。
「場所」の設置時期は明確ではないが1600年頃からと云われており、噴火湾西岸地域にはノタヲイ(野田追)場所とカヤベ(茅部)場所、少し遅れてユウラッフ(遊楽部)場所が置かれている。けれど、当初にその範囲が藩により明確にされなかったことから隣接場所との境界争いを度々に生じていたらしく、1791年と後年の記録ながら「東蝦夷道中記」には、ノタヲイ場所とカヤベ場所の境界争いが1695年に出された裁定にて、pon-nayこと現在の茂無部川に定められたと記されている。
同様の水流なら、近隣に現在の本内川や三次郎川、石倉川など幾つも存在した中での選定は、これが海岸段丘から岬状に砂浜の押し出た地形、当時に和人が稲穂岬と呼んだ位置に河口を持っていたゆえと思われる。つまりは同じような水流の存在には特定の容易だったからなのだろう。ちなみにノタヲイ場所北側に追加されたユウラッフ場所との境界はヤムクシナイ(山越内)南方の境川なのだが、ここに目立つランドマークは無かった。

さて、先の和人による稲穂岬の稲穂とは、道内に多数の事例のあるとおり先住民族のinaw(木幣)に対する当字であり、そこは彼らが神にinawを捧げた hasinaw-us-i(幣場)であった。そして、岬を回り込んだ段丘下にはコタンが所在して、これも pon-nayのコタンと呼ばれていたようである。
この集落に対する和人によるモナシベの呼称の起源は知り得なかった。pon-nayからの転訛と仮定しても、モナシ「ベ」が不明である。pon-nay-petでは「川」が重なってしまう。o-tes-petからのオトシベ(乙志部=現落部)との混用だろうか。享保年間(1716-1735)の著作とされる「蝦夷商賈聞書」にオトシ部、モナシ部の表記で記述されており、「場所」が請負制で運営されていた時代の1786年の「蝦夷草紙別録」に箱館の商人江口屋伊右衛門の請負としてモナシベ場所の名も記録されている。前述の「東蝦夷道中記」には「ノタオイ場所モナシベ運上屋あり」とノタヲイに在った運上屋がモナシベに移転したらしき記録もなされる。
18世紀後半には「場所」は先住民との交易区域から請負商人による直接の事業区域へと性格を変えつつあり、噴火湾西岸地域でも、それまで交易や漁労の度に出向いていた和人の定住化が1764年の津軽からオトシベへと移り住んだ漁家3戸を最初の事例として進行すれば、運上屋を中心に番人が常住するようになり、大規模化した漁場には番屋が開設されて先住民は労働力としての和人への隷属構造が形成されて往くのである。運上屋のモナシベ移転も、そこが中心漁場となったことを示し、従来からの住民に加えて近隣のコタンからも使役のために集められもしたであろう。19世紀半ばの松浦武四郎らの記述によれば、20軒ばかりの全てが漁家であり和人とアイヌ民族が混住していたと云う。とは云え、そこに移住した和人たちもまた幕府による経済構造の下層に位置したに違いなく、先住民とどのように共存したものか興味深い。

石倉から落部へのほぼ中間地点、湾岸のR=600曲線を旋回して往くのは104列車<ニセコ1号>。
無煙化されてしまえば、スロ62の組成を除き外観上に普通列車と大差なく、この時期に熱心に撮った記憶は無い。本来に機関車次位には、[北東航21]の隅田川区オユ10の姿が在るはずだが、遅延などの事由にて前日の418列車からの継送の出来なかったものか、護送便である[札航1]の札幌区スユ13だけが従っていた。
段丘斜面を路盤まで続くのは枕木廃材による保線用の通路。使われなくなった今もクマザサの薮に埋もれているはずである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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