"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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七飯 (函館本線) 1972

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静岡県浜松市で日本近代史を研究する竹内康人によるリスト「朝鮮人強制労働現場一覧」には、その冒頭に七飯町の「鉄道工業函館本線増設工事」と「堀内組軍川七飯間鉄道工事」が連行先事業所として列記されている。
前者が日本土木建築統制協会による「昭和20年第1次朝鮮人労務者割当表」を、後者が内務省警保局の「特高月報」に典拠しているゆえのことで、これは同じ鉄道工事への徴用連行を指していると思われる。アジア・太平洋戦争下で着工されながら日本の敗戦で未成に終わった七飯から軍川(現大沼)への勾配緩和線増設工事である。
朝鮮人ばかりでは無い。大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会が、外務省文書「華人労務者就労事情調査報告書」から調査・公表した資料には、徴用中国人の連行先として同じく「軍川・七飯間鉄道新設工事」が引き受け事業所を地崎組の大野出張所として記してある。

半島からの日本国内への戦時労務動員は1939年に、大陸からは1943年に始まったとされており、云うまでも無く国家総動員法下での戦時労働需給を支配した半島に、悪化する戦局に徴兵・民間徴用で不足した労働力の代替を占領下の大陸に求めたもので、労働力の確保が生産性に直結した炭鉱や鉱山、港湾に軍需工場への移入が主体とは周知の史実であろう。
長く「強制連行」とされてきた、この戦時動員に対して、近年に至って「強制」の事実は無かったなどとの声高な主張を繰り返す反動勢力が在り、確かに初期には募集への自発的応募も事例は存在しただろうけれど、大半の事例である地域や自治体単位での官斡旋や徴用とは外形に過ぎず、実質的に拒絶できぬのであれば、それを「強制」と云うのは自明である。百歩譲って、その主張に耳を傾けたところで、連行により「強制労働」に賦したのであり、日本近代史の一大汚点に違いない。
薩長政権の国粋主義体質が往きついた地点であり、これを「無きこと」と主張するのは、敗戦で断罪されたはずのそれらの流れを汲む保守層の忌むべき悪癖である。

竹内によれば、アイヌモシリ(道内)だけで239事業所を数える連行先の中で、この鉄道工事は当初より朝鮮人労働を前提としていたと思われ、相当数が使役されたものだろう。
その数を示す資料は竹内も発掘していないが、七重町の歴史館が収蔵する住民からの聞き取り資料には、(彼らを戦場での捕虜と思い込んでいたのであろうが)朝鮮人捕虜は渡島大野駅(1942年3月31日までなら本郷駅)から長い列で連れて来られ、毎朝に工事現場へと向かう行列が見られたこと、隧道掘削現場からトロッコで運び出された土砂を日本兵(憲兵だろうか)に鞭打たれながら運んでいたこと、事故により受傷したり死亡した者が、一日に幾度となくトラックで運び出されたこと、などの証言がある。
年月を経てからの調査であるから記憶が誇張されている部分もあるだろうが、複数証言の「長い列」にはかなりの人員を思わせるし、監視下での労役は「強制労働」以外の何ものでもない。朝鮮人との記憶は、前述の通り中国人も含まれていたことだろう。
この遥か後年に現在の藤城線として開業する鉄道工事の着工を明確に記す資料には巡り会えていない。七飯町史は1936年と書くけれど、七飯-軍川間輸送力増強工事としての仁山信号場設置を含めてのことでは無いか。使命を同じくし同時期に設計が進められたと推定される石倉-野田追(現野田生)間線増工事の1942年10月との整合には、期日を要する隧道掘削を考慮しても1940年前後に思える。後述する工事放棄の状態も、9年間に工事を継続したものとは考え難い。
やはり、1939年からの朝鮮人徴用連行がなければ着手の有り得なかった工事なのでは無かろうか。
(この項続く)

燃料炭完全燃焼の水蒸気のみを吐き出して渡島大野へと加速するのは、125列車の札幌行き。客車にはスハ32が連なる。
1971年10月時刻表に、13時丁度に函館を出て、仁山と砂原を回り、山線を抜けるこの列車が札幌に到達するのは23時44分とある。
七飯高架橋のタラップからの撮影は、マナーとやらに喧しい今には望むべくも無いだろう。戦時下の設計にこの高架橋は含まれていない。

つい最近に、1960年当時に藤田組の新入社員として札幌支店勤務を命ぜられ、1963年11月に再着工した藤城線建設に関わった人物と知己となる幸運に恵まれた。75歳にして矍鑠とした彼に何よりも問うたのは、当然に戦時下工事の中断状態である。直接に工事を管轄したでは無く、仕事は現場事務所の運営管理だったと云うが、それには明確に答えてくれた。「トンネルは掘られてはいたが貫通したのは一つも無かった」
これで、2014年4月の記事 七飯 (函館本線) 1988 に書いた長年の命題が解けた。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.


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中丿沢 (函館本線) 1999

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中丿沢停車場は、そこに北海道鉄道(初代)線の開通した翌年に「紋別」の停車場名にて開設されている。その1904年10月15日には熱郛から小沢までの開通により函館-小樽中央(現小樽)間が全通し、さらに翌年には小樽(現南小樽)への延伸にて北海道炭礦鉄道との接続が予定されていたから、将来の列車本数増には長い駅間に交換設備を要して国縫-長万部間9.5キロのほぼ中間が選ばれたものであろう。おそらくは計画当初より既定だったと思われ、大沼(軍川を経て現大沼)-宿野辺(現駒ケ岳)間14.1キロに置かれた赤井川も同日に開かれている。
先住民族が普遍的に静なる川を指したmo-petに由来するモンペツ(モンベツ)の地名は道内の各所に存在し、ここでも今にも名を残す紋別川が河口に発達した砂州に流れを遮られ、延長の短い河川だけに中流に至るまで緩やかな水面を見せていたのだろう。その河口周辺には先住民のmo-petコタンが立地し、1809年とされる「蝦夷渡海記」にはモンヘツの名で11戸65人が居住と記されている。これは同記録によるオシャマンベの87人、ユウラッフの67人に次いで、噴火湾西岸では大きな集落だったと云えよう。やがては和人の混住も進んで紋別が当て字され、薩長政権下で胆振国山越郡長万部村の字名となったのである。
障害物の無い地形に国縫-長万部間のほぼ中間地点が選定された停車場が、その名称に紋別を採ったのは、それが最も至近の集落だったゆえであろう。以後、道内の鉄道線上に幾つかが現れる「紋別・門別」の最初の事例であった。
それの中丿沢(当初には中丿澤)への改称は、それらとの重複回避かと思えば、二例目である名寄本線紋別の開駅に7年を先立つ1914年10月1日付には、鐵道院側の事情では無さそうだ。
1938年に鉄道省札幌鉄道局が編纂した「駅名の起源」には、紋別川と和類川の間で「澤」を成しているゆえの付名とある。現在と川筋は若干異なろうが、中の川か中の沢川もしくはその中間の無名の水流を指してのことと思われ、確かに前記河川に比すれば細い流れである。停車場の開かれて10年も経過すれば周辺に集落も発達して、それが中丿澤部落と呼ばれたのである。改称はそれに合わせてのことになる。中丿澤只中の「紋別」では具合の悪かろうと云うものだろう。
やや時代が下るけれど、1925年発行の渡島支庁管内町村勢要覧には、当時の長万部村に4社が所在の株式会社組織の内、製材業の北海林工、澱粉を用いた製飴業の北海道製飴の2社が中の澤に立地とある。自前の駅名を名乗るほどの駅勢は確かに存在したのである。

中丿沢の旧場内を下る9051列車。
[外伝]にも書いたように、飽かずに幾度も通った林立道路踏切からのカットである。けれど、この90年代半ばからの数年間には上下線間にススキが繁茂してしまい撮れなくなっていた。せめてと春先に訪れるも、二年続きで降雪に見舞われれば、枯れススキも花の賑わいと思うしかない。

ところで、林立道路踏切は中丿沢から長万部への新道が開通するまで国道5号線上の踏切道であり、現在よりもやや下り方に所在していた。今でも、長万部三八飯店敷地北側に国道から分岐して踏切へ向かう当時の道筋の痕跡が衛星写真に見て取れる。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8 NONfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.


八雲 (函館本線) 1972

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鉄道と道路との立体交差、ここでは跨線橋のことなのだが、今昔に撮影の立ち位置である。特に目ぼしい俯瞰画角の見いだせない区間に在っては貴重に違い無い。けれど、都市部以外にこれが出現したのは、経済成長に道路交通が飛躍的に増加した1960年代以降のことになる。全国的に主要国道とは名ばかりの土道だった地方幹線道路の改良が進められ、これには鉄道との平面交差の解消は命題とされていたのである。山越郡八雲町域(当時)を縦貫する一級国道5号線も道央道南連絡の幹線道路として、その対象であった。

1957年の落部村との合併により、栄浜から黒岩までの33キロ程となっていた町内国道の改良工事は、北海道開発局函館開発建設部八雲出張所(現八雲道路事務所)により、1958年の八雲市街地区間の舗装工事から着手され、1967年に一応の完了を見るに至った。栄浜から栄野への鉄道路盤からの転用区間を含めて拡幅と舗装は勿論のこと、この間の橋梁22箇所は全て永久橋に架替られ、函館本線との平面交差箇所の立体化も施工されたのだった。
市街地南端に位置する、内浦町の八雲跨線橋は中でも工事末期まで持ち越された地点であり、1967年の3月に供用が開始されている。鉄道側では山越-八雲間の線増工事只中であり、当初より橋梁部の複線を跨ぐ径間で建設された。ここでは小河川の熱田川も交差し、径間延長を避けて立体交差の盛土底部に小型のコンクリートケーソンを埋設し流路としたのだが、近年の集中豪雨に対する流下能力の不足により、溢水が函館本線路盤を洗掘して通過貨物列車の脱線に至ったのは記憶に新しい。

八雲方から八雲跨線橋に差し掛かるのは124列車である。長万部から函館までを砂原回りで4時間をかけていた。
区間列車にかかわらず基準方に荷物車を連ねた函館線普通列車には当たり前の姿は、ネットワークが独立していた室蘭本線内からの継送のはずである。
機関車を中央に配置するあまりに後部を切らせてしまった、まだ拙なかった技術をご容赦願いたい。

線路と南東から北西方向に交差する八雲跨線橋の設計は、将来にその先を八雲バイパスとして海岸沿いに延長する計画に依っていた。それの実現は遠く1983年のことであったから、暫定的な現国道への接続には半径50メートルの反向曲線を介在させたところ、それは急曲線の事故多発地点となってしまった。1972年には曲線改良のなされたものの跨線橋からの下り勾配も相まって、永く運転者を悩ませたと八雲町史は書いている。
現在跨線橋線路乗り越し部には、御多分に漏れず丈の高いフェンスが設置されてしまったのだが、並行して1980年に架けられた八雲跨線橋歩道橋には何故か設置が見送られ、この八雲方への画角は今も健在である。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f4-5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

函館 (函館本線) 1983

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戦前期までの函館港と云えば、国鉄函館桟橋から弁天町の函館船渠(現函館どつく)に至る一帯、現在に西部地区とかウォーターフロントと呼ばれている地域を指していた。
幕末の「開港」時点で函館山の山麓が箱館であり、その前浜を埋め立てるなどして用地を得、やがて港湾が形成されて行ったゆえある。1932年に函館市の手により竣工した現在の西埠頭もその延長にあり、北洋漁業の大型母船なども接岸出来たそれは函館港の中心的存在であった。その供用により、港湾地区が漁業基地に、同時期に埋立ての進んだ若松町から海岸町の東側地区が石炭や原木など工業材の集積地と住み分けられたと函館市史にある。
それは、西埠頭に加えて、北海道庁による東側地区への大規模埠頭の築造計画が1927年の第二次拓殖計画に盛り込まれていたことも背景としていたのだが、国鉄の有川埠頭が戦時下の陸運転換政策にて応急に築造されたのみにて終戦を迎えてしまった。

その中央埠頭の着工は国土交通省函館開発建設部の資料によれば、終戦間もない1946年とあるのだが、1944年10月に陸軍が撮影した空中写真には埠頭の基部らしき姿が記録されており、40年代初頭には工事の始められていたと見える。第二次拓殖計画には、国鉄の若松埠頭(函館桟橋を含む国鉄の海陸荷役施設を指す)の北方に2基の大規模埠頭建設と、後背となる亀田地区の工業地域化が明記されていたのである。
けれど、実際に着工したのは現中央埠頭の一基に止まり、終戦を挟んで再着工されたと云うことなのだろう。その全ての工事竣工は1971年までを要したものの、背後に整備されていた倉庫群や集積場、工場等に接したことで函館港の中核的地位を西埠頭から奪ったのだった。
なお、その年には北側で万代埠頭築造も着工されて、第二次拓殖計画でのプランは40余年を経て達成されたことにはなっている。
中央埠頭への陸側の連絡路、即ち臨港道路は永く国道5号線からT字に分岐する中央埠頭通りだけだったのだが、1980年代半ばに新川広路を介しての道道86号函館南茅部線との直結が図られた。流石にこの時代ともなれば函館本線との交差は立体交差となり、函館運転所の検修庫を間近に見下ろす位置に中央埠頭跨線橋が架けられ、函館構内を見渡す新たな視界となっていた。

朝8時の函館構内、彼方市街地は低く差し込む朝日を反射するモヤに霞む。下り本線をDD51に牽かれて加速するのは長万部までの123列車。その先は245列車として室蘭に達していた。青函局[函3]運用-3組中の1組-4両編成である。
この頃、函館運転所には29両の51形客車が配置されていた。このカットに写らないのは、240列車に運用中の[函3]のもう1組-4両に、森から126列車で2番ホームに到着して回送を待っている[函5]運用の1組-8両、写真の[函3]に併結で木古内から到着した[函付1]運用の1組-3両だから、写真の123列車を含めると、この時刻に運用に就いているのは19両になる。なので、検修庫前の通路線をDD13にて客留線へと押し込まれて往くのは、夕方に木古内へ向かう1723列車となる[函3]の3組目と[函付1]だろう。運用表上では29両配置の23両使用、予備6両の需給なのだが、実質には、より余裕があったと見て取れる。
航送線へと繋がる副本1番から4番線には、DD51にDE10、2両のDD13が見える。DD13は道内での配置末期であった。

この頃、中央埠頭跨線橋自体は竣工したものの、肝心の新川広路側への斜路が未成で、階段で上る歩道だけが供用されていた。贅沢な「歩道橋」だったと云うべきか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

落部 (函館本線) 1989

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それなりの規模の集落を駅勢圏とする落部だけれど、その駅周囲は「駅前」の体を為していない。それはこの駅の来歴ゆえのことである。
アジア太平洋戦争末期に開通し上り線として用いられた別線新線、通称の海岸線上の停車場として開かれ、それは駅前後区間では既設線、通称山廻り線のさらに山側であったから、本来「駅前」となるべき位置は線路が通過する構内であった。1958年12月11日にその既設線が廃止されても、自動車通行を主体とした幹線国道への転用には、そこに「駅前」の形成される動機は生じなかったのである。1970年に初めて降り立った頃でも、駅本屋から少しばかり距離のある国道へは土埃舞う空き地の様相だったと覚えている。そこは用途を失ったままの鉄道用地だったから当然であろう。商店など立地するはずもない。
もっとも、1903年に北海道鉄道(初代)が開通した当の既設線自体、住民の鉄道忌避により停車場設置を見送って集落の背後を大きく迂回する線形で敷設され、開通の8年後にようやく開設の旧落部駅も市街地外れのさらに外方に位置するところとなって、街道(旧国道)から分岐した「駅前通り」が開かれるも、そこへの市街地拡大には至らず仕舞いだった。
(市街地迂回は海岸段丘上から一旦落部川沖積平野に下り、再び段丘へと上るには必然の線形だったとも云え、このあたりの事情は、上記の変遷ともどもWebSiteの記事「石倉-野田生間の改良と線増」に詳述している)

新旧ともに「駅前」を持ち得なかった落部に降りて困ったのは、やはり食料の補給であった。海寄りの市街地まで踏み込めば食料品に雑貨の商店が所在とは承知していたけれど、徒歩の鉄道屋はそこまで迂回する気にもなれなかったのである。
自動車が行き交うばかりの殺風景な国道沿いへ、ようやくに商店が開かれたのは1980年代の中頃と覚えている。野田生方のポイントへと歩き始めて直ぐに、その看板を見つけるも洋菓子店とのそれには落胆したのだった。その類は不得手ではないものの、行動食にはなり得ない。
以来、そんな立地でケーキ屋の成り立つものかと訝しく思いながら、幾度となくその前を通り過ぎていたのを、ある時にウィンドウ近くまで接近して知れた。洋菓子と名乗れば当然にケーキやら焼菓子を思うのだが、ケーキなど冷蔵ショウケイスに僅かが並ぶのみにて、そこは実質的にパン屋だったのである。
その店、「シェルブールすがわら」は、八雲町商工会議所の資料には1985年の開業と記され、記憶と一致する。主人にしてみれば、本来の洋菓子店を目指したのかも知れぬが、あの立地では成り立たなかったのであろう。ベーカリーとて良くぞ彼此30年の営業とは感心してしまう。

東野側の急峻な段丘崖下を往くのは150列車。
萩野に着発した王子製紙の製品輸送列車にワキ5000が運用される末期の姿である。それの老朽化にはコキ50000に5tコンテナを固定して用いると云う、何やらパラドキシーな措置が採られた。なお、写真の後位側コンテナ車組成は、一部が先行したでなく札幌(タ)発編成の併結である。
せっかくに食料調達先と知れた「シェルブールすがわら」だったのだが、この頃には駅至近にコンビニ(セヴンイレヴン)が開店し、あまり立ち寄ることは無くなってしまった。けれど、コンビニにもある惣菜パンに走らず、本来の菓子パンを並べていたのは洋菓子屋の矜持だろう。森から八雲までの間では唯一のベーカリーに違い無く、自動車利用を前提にそこを商圏としているのが30年の盛業の所以であろうか。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6-8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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