"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

蘭島 (函館本線) 1986

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手稲の新興住宅地に暮らした頃、家族での海水浴と云えば祖父祖母の元へ帰省した折のことばかりで、至近だった日本海岸、石狩湾岸での記憶は無い。当時の家族アルバムを手繰ってみても、大洗や磯浜、鮎川のキャプションが付された写真は収められるが、道内のものは見当たらない。内地生まれの両親には、当地での海水浴など考えられもしなかったのだろう。唯一の記憶は家族のそれでは無い子供会の海水浴で、行先は蘭島海岸だった。

古来から日本人も海水に浴することは在ったろうが、それは禊など神事に属することに限られ、日光浴を兼ねた健康増進や余暇の楽しみとしての習慣は江戸期末期の開港以来に外国人によりもたらされたのだった。とは云え、薩長政権の時代となってもしばらくは彼らの奇異な習慣と見られていた様子であり、居留地からの行動制限内の横浜富岡海岸や片瀬海岸、神戸なら須磨海岸などが海水浴場に利用されるも、ほぼ外国人専用であったらしい。
1880年代に至ると、外国人と接する機会の多い上流階級や医師、一部文化人などの日本人が続き、「海水浴場」を名乗る海岸が各地に出現し始め、やがては1890年代を通じて一般化して往くのである。
道内における発祥は開港場函館に隣接の七重浜や開拓使本庁が置かれた札幌至近の銭函海岸とされており、お雇い外国人が利用を始め日本人が続いたものである。
遠浅で砂浜の風光明媚な蘭島海岸が海水浴場を名乗るのは1903年夏のことと記録され、それは道内における嚆矢となっている。蘭島の停車場自体は1902年12月10日に開かれていたが、平坦な線形から離れ小島的に開業した然別-蘭島間の1駅であり、それは翌夏を前にした1903年6月28日だった小樽中央への延伸に満を持したと云うことなのだろう。それには銭函や朝里浜を越えて札幌方面からの海水浴客を運んできたのである。
戸数200ばかりの漁村だった蘭島村(当時)の観光地としての発展は鉄道を抜きには考えられない。当初に徒歩連絡だった北海道炭礦鉄道の小樽と北海道鉄道の小樽中央の間、2キロばかりが、1905年8月1日に接続されれば尚更として良い。両鉄道の国有化を経て、鐵道院から鉄道省の時代に蘭島海岸は海水浴ばかりでなく、観光地・保養地に活況を迎え、多くの名士たちが別荘を構えたと云う。

戦前に訪れた、この隆盛期における海水浴臨時列車の運転については調べ得ていないが、記憶する1960年代以降なら、それらは基本的に余市着発で設定されていた。かつてに豊漁の続いたニシンなど海産物積出に整備された同駅設備の活用である。ただし、牽いて行った機関車が逆向きで築港区へ戻るのを目撃していたから、転車台は遠に使用を停止していたものと思う。勿論に蘭島着発列車も存在して、これには貨物列車の退避用だった中線が客車留置に用いられた。
蘭島での子供会海水浴は1965年のことである。帰路に乗車の臨時列車は満員の乗客を乗せた11両の客車を2両のD51が牽いた。この長大編成は函館本線が幹線ゆえの輸送力と云えよう。

通票の授受に本線を速度を落として通過して往く11D<北海1号>。
山線優等列車最末期の姿で、キハ80系編成と云えど食堂車の組成されない姿に、もはや特別急行の威厳は感じられなかった。夏期輸送の増結で2両目もキハ82である。これも特急らしからぬ編成には違い無い。
上り本線での行き違い退避は142Dの長万部行き。これに乗車してのスナップは、小沢に降りて102列車を押さえる前の駄賃だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f5.6-8  Fuji SC-52 filter  Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.



銀山 (函館本線) 1981

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1980年代には『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(1980年12月27日法律第111号)に準拠して選定された地方交通線の事業形態の転換が続いた。ご承知のとおり、経営体を替えて鉄道営業の存続した線区も存在したが、多くはバス交通を代替として廃止の途が選ばれた。
必然的に人口過疎地域を経過地とする線区が大半を占めた北海道においては22線区が選定され、1990年までに地北線の140.0キロを除いた、実に1316.4キロもの線路が失われた。1981年10月1日現在の道内国鉄線延長は石勝線の開通により32線3996.7キロに達していたのだが、実にその33パーセント、三分の一を喪失すれば、道内の鉄道地図に空白の目立つようになるのは当然で、北海道周遊券が値下げされぬのはおかしいと毒づいたりしたものだった。
2008年に至って国土交通省北海道運輸局が行った「北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査」の報告書(2009年3月)に拾うと、すべての路線で転換時点よりも利用者数は減少と報告されており、中には代替バス自体の廃止事例も含まれる。この報告に際して開かれた「北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査検討会」(2009年3月17日札幌にて開催)議事録にも、バス転換を契機にした沿線のさらなる過疎進行への言及が読みとれ、特定地方交通線の主たる利用者であった通学生徒に高齢者は、前者が全国的な人口動態にて漸減した上に、代替バスの(一部に低床型ノンステップ車両導入事例の見られたとは云え)路面からの乗降の不便や、シートが小さく狭い車内の居住性の低下、そして何より便所を設備しない不安に後者が利用を諦め、やむなく世帯で沿線を離れるなどから過疎スパイラルに陥ったとある。小さな集落やら地域は、そもそもに経済規模が極小なだけに一世帯の離脱だけでも大きな打撃を受けるに違い無く、それがさらに次の離脱を誘発する連鎖である。

なるほど確かにその通りなのだろうが、些か説得力は欠く。過疎スパイラルは辛うじて鉄道の存続した地域でも変わるところが無いからである。バスへの転換はそれを早めた程度だろう。交通弱者とされる個別移動手段を持たない住民が鉄道利用者として残存したにせよ、彼らとて極めて限定された乗車チャンスによる生活時間の拘束が時代の間尺に合わなくなったのである。それを嫌えば、最早その土地を離れるしか選択の余地は無い。
かくて、皮肉なことに過疎はマクロには鉄道の沿線から進行する。鉄道と主要道路交通路が近接している区間では目立たないけれど、鉄道単独で通過するところなら如実である。
余市川の形成した谷底平野を遡る函館本線は、瀬戸瀬川の谷に出るべく稲穂嶺直下の稲穂隧道へ向けて山腹に取り付いて高度を稼ぐ。その途中の斜面に位置する銀山など、その代表例と言えまいか。肥沃な生産基盤である谷底平野を通過する道道沿いにはそこそこの集落が張り付くと云うに、1980年代までの駅前集落は今やほぼ壊滅の有様である。

馬群別の平野を見下ろして稲穂嶺の山腹を下るのは、903D<らいでん3号>。
その10月改正での幹線急行の廃止などで捻出の急行型が、ようやくこのルーラル急行にも充当されるようになっていた。
奥白滝-上白滝 (石北本線) 1977 に書いた、冬旅組写真の一枚のつもりで撮ったカットだが、これも永い事塩漬けのままである。葉の落ちる季節なら車窓には木立越しの視界が開ける。運良く、気動車は淡い雪煙を巻き上げてくれた。

翻って、バス転換路線とて沿線全てで過疎が深度化したでは無い。旧羽幌線の羽幌や旧標津線の中標津、旧名寄本線の紋別、盲腸線でも旧渚滑線の滝ノ上などである。沿線人口の総数は減じているにかかわらず、1970年代と現在との空中写真を比較すれば一目瞭然にこれらでの市街地が拡大したのを見て取れる。過疎域から離れた人口を吸収したとするのが妥当だろう。
函館山線沿線でも、余市や倶知安はそれに該当しようか。つまりは生活域が集中化しつつあるのだから、その間を線で結ぶ速達輸送は鉄道の分野である。その経路間が極端な過疎域と云うなら北海道旅客鉄道が主張するように、そこの駅を廃せば良い。線路が通っていればこそ、いざとなれば駅など幾らでも再開できる。線路そのものを失っては元も子もない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/f1.4S 1/500sec@f4-5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

倶知安 (函館本線) 1982

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そこには18時05分が定刻の倶知安発車に夕刻が近づけば三々五々写真屋達が集まり始めるのだった。勿論、C11の逆向き運転の観光列車でもC62が短い編成を牽いた展示運転でも無く、それの重連が本州連絡急行<ニセコ>の仕業に就いていた頃の北四線踏切の話しである。
集合と云っても、せいぜい10人を超える程度は近年の狂乱の比では無かったものの、定番の画角を得られる位置は限られて、皆が踏切取付道の盛土中程で団子のようになって撮っていたものだった。なので、この画角を一度押さえてしまえば他の位置を選びたいところではあったけれど、前に出る訳には往かずに些かもどかしかったのである。
それの叶うのは、71年9月にC62が三重連運転などと云う愚挙の果てに走り去り、さらに2年を経て山線蒸機が終焉を迎え、そこが静寂を取り戻してからのことだった。

もともとに蒸機は身近に過ぎて、近代車両に惹かれていたくらいだったのでその喪失感は薄弱で、寧ろひとりきりで自由に画角を選べるのが喜ばしく、幾度かそこに立ったのだった。<ニセコ>はメインの被写体に変わりはなかったものの、優等列車の風格が失われつつあった時代に、客車急行の重連牽引であることとスロ62組成を除けば遠目には普通列車と大差の無い姿に次第に飽きてしまい、忘れた撮影地にはなっていた。
その復活は、ここでも編成の14形座席車系列への置替である。特急寝台の設定が無かった道内で機関車次位に深い丸屋根こそ続かぬにせよ、それを彷彿とさせる姿は十分に魅力的だったのである。1972年製の新系列客車には旧型客車編成の重厚さの失われたとの評も聞いたが、こと<ニセコ>に関しては列車に風格を与えたと思える。比すべき列車の無かった道内で気動車特急に匹敵する設備を得、加えて重連の機関車の牽引が寄与したと云うべきか。

この頃、無人となった農家の残されたここの農地には毎年に麦が育てられていた。馬鈴薯の輪作作物とは知っても、どちらがどちらのための地力回復作物なのかは知識のないのだけれど、完全な輪作では無かったように覚えている。
真狩山を背に峠へと向かう101列車<ニセコ>は定番の画角ではあるが、真狩山に架かる雲に麦の植列を意識したタテ使いにはだいぶ踏切寄りに立っている。
小麦は秋蒔きで、後ひと月程にてそれこそ小麦色に染まり収穫を迎える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f1.8S 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

銀山 (函館本線) 1975

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函館運輸所に配置のDD511142には、2014年度末日を以て用途廃止の措置がとられた。四半世紀に及んだ本州連絡夜行列車群の撮影では、ファインダに確認する機会の最も多かったと記憶し、それらの最後を見届けるものとばかり思っていただけに意外感が残る。

DD511142号機は、1974年度第一次債務車両計画にて発注され、日立製作所笠戸工場で落成して、1975年6月27日に当時の北海道総局に配属、岩見沢第二機関区の配置とされるも、同年12月1日付では1141・1143の僚機と共に小樽築港区に転じて、主には函館線区間に運用されていた。
1974年度と云う年は国鉄の無煙化計画の最終局面にあたり、北海道や山陰地区に残存したD51やC57蒸機の一掃を目的とした、74年度本予算での51両と前記第一次債務計画での38両の計89両とは、1962年度が初年度であったDD51形式内燃機の単年度発注数では最大両数であり、以後1975・76年度と続いた発注は既に山陰地区のDF50にDD54の内燃機の取替用であった。
つまりは無煙化目的では最後に増備の一群となり、89両の内、1092-1103・1135-1169の45両がA寒地仕様車とされて、75年の1月から9月に架けて旭川・岩見沢第二・小樽築港の各区に投入、石北・宗谷線や道央地区の蒸機を放逐したのである。なお、1135号機のみは、5月に東新潟区に新製配置の後、9月までに鷲別区へと転じていた。磐越西線での夏季輸送に応じた措置であったろう。

小樽築港区へのDD51機の配置は、1973年4月の2両が最初の事例であるが、一般装備機であったこれは関西線無煙化用途を要員検修と道内の夏季旅客・秋季貨物輸送を兼ねたもので、年内には本来の配置区である亀山区へと去り、この年10月1日改正を以ての函館山線区間の完全無煙化は、篠ノ井・中央西線電気運転にともなう篠ノ井区および稲沢第一区からの25両(一部は短期間の五稜郭区や鷲別区配置を経て転入)と、1972年度第二次債務計画で新製の7両にて為されたのだった。
以後も増備は続くのだが、1974年7月の3両を除けば、何れも本来配属の前使用の多くて定着しなかった。上記の1974年度発注車からも1975年3月から6月に12両の配置があったものの、内8両が同年10月から翌1月の間に鷲別区や岩見沢第二区へと転出し、それに替わって転入したのが1141・1142・1143の3両だったのである。岩見沢第二との間でこの3両が差替えられた事由は分からない。
とまれ、1142号機は小樽築港区で11年近くを過ごし、年度末の民営化を控え継承体制を確立した1986年11月1日改正を以ての同区の乗務員区化に際して、連番で揃っていた1136-1143号機と共に岩見沢第二区を改めた岩見沢機関区へと転じた。この改正では旅客鉄道会社と貨物鉄道会社への承継車の振分けが行われ、それがどのような基準に拠ったものかは知り得ぬのだが、岩見沢区への配置には将来の特急機の座が約束されたのだった。

北海道旅客鉄道に所属したDD51機の25両が岩見沢区改め空知運転所に集中配置とされた1990年7月当時、本州連絡列車群の牽引は最大で7仕業に13両の使用だったから、重連の本務機となる確率はその半分、出区から帰区まで本務と次位補機の役目の入れ替わるだけの運用を上下別にすれば、さらに半分の25分の3(12パーセント)程度となる。けっして高い数字とは思えぬのだが、それにしてもこの機関車にはよくよくに出逢っていた。

新製後、最初の冬を迎えた頃の1142号機。121列車の旭川行きを牽いて銀山に到着した姿である。
小樽築港機関区に転じて10日足らずなのだが、既に同区配置車に特徴的なスピーカが設置されていた。蒸気暖房用接続ホースは使用中と云うことなのか、所定のホルダに掛けられていない。
付け加えさせていただけば、続く函館所のスハ32・スハフ32は、これが優等列車用であった当時を思わせる程、重厚に整備されていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

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徒歩の鉄道屋なのだが、撮影とのタイミングや運行頻度などからバス便が利用可能なら勿論乗っていた、とは以前の記事に書いたことがある。
均一周遊乗車券が使えた国鉄バスは機会の多く、洞爺駅前とエントモ岬に出入りした有珠中学校前と若生町停留所間に加え、豊浦市街とも往き来した伊達本線(豊浦駅-伊達紋別駅間)や、石狩湾に恵比寿岩を見下ろす西春香停留所と小樽築港駅なり銭函停留所(駅まではやや距離が在った)の間の札樽線(札幌駅-小樽駅間)には良く乗っていたし、北広島駅(東側に在った旧駅舎)と江別駅を直行出来た空知線(江別駅-恵庭駅間)は、椴山あたりと新夕張川橋梁との掛け持ちに便利だったと記憶する。
民間バスも、函館線普通列車の時隔を埋めた函館バス長万部線の森駅-長万部駅間ではあちらこちらで乗降し、時隔の空き過ぎていた旭川から塩狩峠へは道北バス名寄線の急行便を使っていた。
都内や近郊都市圏では確保されない定時性から決して乗りたいとは思わないバス便だけれど、列車で移動するばかりの旅先なら、渋滞の無い道路の法定速度に忠実な淡々とした走りには沿道の車窓を楽しませてもらったものだった。

倶知安峠を越えての倶知安駅と小沢駅の間もバスの運行頻度の高い区間だった。倶知安と岩内を結んだニセコバスの小沢線に加えては、同社による昆布温泉・ニセコ駅前-小樽ターミナル間路線も小沢駅前を経路としたからである。1978年12月号の「弘済会の道内時刻表」に拾えば小沢線の16往復に小樽連絡の9往復運行が見て取れる。但し、小樽方面は急行便であり、倶知安峠途上のワイス温泉やら峠下停留所で乗降しようと思えば小沢線に限られた。

雪晴れの強い陽光に峠下地区の山脚を往くのは、苗穂機関区キハ22の運用だった902D<らいでん2号>。
小沢で岩内行きを4941Dとして切り離せば、この区間は倶知安から普通列車の522D長万部往きに併結となる1両と倶知安止まり1両の2両組成が所定なのだが、スキーシーズンのこの日は蘭越までの<ニセコスキー>1両を併結しての3両編成であった。<らいでん>とは別に与えられた列車名称も、これが江別発着だった当時にはそれなりに意味も在っただろうが、札幌発着の一体運用となれば<らいでん>の増結車と何ら変わりは無い。愛称は誘客上の事由にて残されたものだろう。編成の真ん中の1両が当該臨時運用に当たる。
この日は函館からの41列車を未明の小沢に捨て、ワイス付近で峠を下る11D<北海>を捉えてから、小沢線のバスにて倶知安側の峠下停留所に降りたのだった。勿論、北四線踏切を目指しての目論みだが、肝心なことを忘れていたのである。冬期に除雪されないその位置まで、息を切らしての40分あまりのラッセルと覚えている。写真はその途上からのもの。

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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