"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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湯の川 (函館市交通局・湯の川線) 1977

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「蝦夷拾遺」に記録された徳川幕府による1785年から86年の調べで、上湯川村と下湯川村には300人余りの人々が暮らしていたと在る。それが和人なのか先住民族なのかの記載は無い。江戸期に集落を指し示していた「村」は、開拓使の時代となって1869年に渡島国亀田郡に組み込まれて引き継がれ、1879年には行政区画としての上・下湯川村が成立して下湯川村に戸長役場が置かれた。当時に道南の拠点に発展しつつあった函館区に隣接し、その市街地から東に6キロあまりを離れた郊外であった。
現在の湯川に対する先住民による yu-pet(ユペッ=温泉川の意)の地名とおりに、下湯川村には温泉の自然湧出していたと云い、1885年には高温の湯脈の掘り当てられ、翌年12月に湯川村温泉(浴場?)が開場、以後源泉の掘削の続いて1890年代に至れば温泉旅館に別荘などの温泉街が形成され、当時には湯川沿いを湯川温泉、松倉川より海岸側を根崎温泉としていた様子である。1887年には函館市街と結ぶ新道も開通して温泉街は活況を呈したのではあるが、徒歩ないし人力車や馬車に頼らざるを得ない交通に加え、物資輸送に往来した荷重の在る馬車の増加を想定していない道路は、融雪期や長雨の季節ともなれば、それこそ「馬体没する」悪路と化し、次第には温泉客の遠のくところとなっていた。
これには湯川側から函館湯川間鉄道の敷設運動の起こり、それは紆余曲折の末に亀田から函館連絡を優先した亀函馬車鉄道として1895年に設立登記され、1897年に函館市街区間の一部を先行開業、同じく函館-湯川間の蒸機鉄道を計画していた函湯鉄道(後に函館鉄道)と合併後の1898年に亀田までと共に湯川までの路線を開業したのだった。本社を置いた東川町(現在の函館市役所東側付近)から延長の線路は前記の新道上に敷設された。
この亀函馬車鉄道を改めた函館馬車鉄道の開通は、湯川温泉復興の起爆剤となり保養温泉としての地位確立に寄与し、1911年10月1日付での函館水電への買収にともなう電気鉄道への転換を経て、1943年11月1日の函館市による経営へと繋がるのだった。
松風町を起点に湯の川まで6キロの函館市役所交通局湯の川線の開業日は、その電気運転が実現した1913年6月29日が採られている。

写真は終点湯の川停留所に進入して来る710型の711。
1985年の国鉄五稜郭車両所での車体更新を経て、2009年度末の廃車まで50年を生き延びた車両のオリジナル当時の姿、と云うことになる。
この湯の川終点は、ほぼ函館馬車鉄道開業の湯川の位置と思われるのだが、戦後の1949年6月13日付にて温泉入口停留所からの区間が一旦廃止され、1959年9月2日に再延長となったものである。その際には温泉入口を改めた湯川を湯の川温泉とし、ここを湯の川と、共に「の」入り名称が採用された。函館市の住居表示は湯川のままであるから、これは温泉街側の表記に合わせたものであろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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函館ドック前 (函館市交通局・本線) 1979

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函館市は観光都市のイメイジで語られることが多いけれど、かつて四方に伸びていた市内電車に見た市街地は、どこか殺風景な印象がある。函館観光の核心に位置する末広町停留所から十字街、坂道と趣の在る街並の続いた宝来町から谷地頭の函館山山麓地域を離れれば、倉庫街に工場地帯を抜けて北へと向かった本線は勿論、湯の川線、東雲線も広い道幅に住宅の市街地を淡々と走ったものだった。
函館山の麓と云えど基坂を過ぎれば街並の様相の一転して、そこは函館ドックを中心とした工場労働者の町であった。

戦前期から函館の都市経済を支えたのは、北洋に船団を送り出した水産業に、もうひとつの柱が函館ドックとその下請企業による造船・機械関連産業であった。1980年代以降に市勢の振るわぬのは、その基幹産業の時を同じくした衰退によるところが大きい。市域人口も80年の345165人(国勢調査集計値)を最大に漸減を続けている。
函館市史には、1977年当時に市内の造船関連企業への就業人口は6200人に達し、函館ドックには従業員(所謂本工)の2300人に下請関連も同じく2300人が働いたと在る。市内電車はその通勤輸送に賑わい、昼夜の勤務に午前0時近くまで運行が行われた。
入舟町、弁天町、大町には労働者を当て込んだ飲食店が進出し、そこには函館で「もっきり」と呼ばれた立ち呑み屋が数多営業していた。
立ち呑みと云えば近年には鉄道会社の駅ビル商売のひとつとなって、洒落た店舗に待ち合わせスポットにも使われているらしいが、本来には文字通り土間にカウンターと簡易なテーブルの在るだけの安酒場である。金欠の写真学生時代には渋谷の桜坂下にも在ったそこへ冷や酒を呷りに通ったものだった。
これの始まりは酒屋、現在に云う酒販店である。酒がガラス製の瓶に封入されて売られるようになるのは1900年代以降のことで、その永い酒造史の中では至極最近に属する。それ以前には徳利を下げて量り売りを買いに往くものだったのである。そして徳利の無ければ、その場で呑みもした。これが転じて古の酒屋は呑み処でもあった。
ガラス製一升瓶の登場以後にも、この習慣は廃れること無く続き立ち呑み屋に連なる。函館の「もっきり」はこれであった。飲食店の営業許可を得ている訳ではないから、酒は現状売りしか出来ない。あくまで酒販であり、本来には燗酒の提供も御法度である。肴も調理品はあり得ず、袋入りの乾き物を客が購入してその場で封を切ると云う形態を取る。「もっきり」は一合枡など酒器一杯ずつの量り売りを「盛り切り」と称したのが語源とされる。

1960年代の最盛期には店に入り切れぬ程に客の押し寄せた「もっきり」であったが、1973年の第一次オイルショック以降に造船業界は長期の不況に見舞われ、函館ドックもまた縮小を余儀なくされて1984年には来島ドックの坪内敏雄に再建を託するまでに至る。関連の下請企業の相次ぐ倒産には「もっきり」の転廃業も続いた。最後の一軒となった千代盛商会の廃業は1999年12月と市史には在った。よくぞ生き存えたとの印象だが、函館どつくも一応の再建を果たしたその頃に、立ち呑み屋は最早時代の間尺に合わなくなっていたと云うところだろう。

まもなく終点函館ドック前(現函館どつく前)に到着する500形515は3系統に運用中。柏木町からガス会社前を経由しての系統だった。
市内電車を撮ると、どうしても街を横目で覗き込むような視線になってしまう。きっと、そこの生活者では無いからだろう。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/125sec.@f4 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

宝来町 (函館市交通局・東雲線) 1976

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函館山の麓を半周するような本線の函館ドック前-十字街間と宝来・谷地頭線の計3キロ余りの区間は、路線と直交する坂道が幾つも通じていて、市内電車の撮影には良い足場ではあった。
函館港を望み、観光の核心地域に所在の基坂や八幡坂が定番ではあるけれど、それを外れたドック寄りの幸坂あたりも好ましい坂道と覚えている。但し、道幅からは電車を捉えるのは一瞬に限られた。
電車道そのものが青柳町電停を頂点に急坂を越えていた宝来・谷地頭線に入ると、坂道は古くからの住宅街に伸びていて点在する趣の在る建物と共に好ましい景観を見せてくれる。中には、今で云うところのカフェに転用された建物もあり、そこでの一休みも市内電車撮影の楽しみであったのだ。
ここでのポイントは、坂の名は失念したけれど宝来町の電停から、老舗すき焼き店「阿佐利」の角を上がる坂道であった。ここからなら、宝来町で接続する東雲線を見通せたからである。坂上からだと、基本的に電車の側面を見るしかないのだが、ここならば正面気味にも撮れて何度か立ったものだった。
1992年3月一杯での廃止から既に20年を経過して、函館市民の記憶には風化の進んだものかも知れないが、松風町で湯の川線・大森線に繋がる1.6キロの路線が存在していたのである。沿線には住宅地とも業務地区とも云えない平凡な街並の続くばかり区間と記憶している。五稜郭駅前への路線の健在な頃でも、そこからガス会社、五稜郭公園前、松風町を経由して宝来町からドック前までを往復する系統のみが走り、廃止前時点では駒場車庫から末広町で折返す系統が都市内交通にはあり得ない程の永い時隔で運行されるだけとなっていた。その頃には需要の完全に消失した路線だったのだろう。
この撮影当時には、1系統のみとは云え15分間隔程度に運行されていたから撮影チャンスは少なくはなかった。寒い一日で自動車の通行でも路面は露出しない。

実は最近に、この坂道を再訪しているのだが、30年を経過してここに写る建物の多くが健在なことに驚かされた。
函館の旧市街地とは、そんな地域なのだろう。羨ましくも思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/f2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

新世橋前 (函館市交通局・宮前線) 1979

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2013年に100年の節目を迎えたと云う函館の市内電車である。それの歴史は1897年の亀函馬車鉄道に始まるゆえ、とっくに100年を経過と思えば、その後身-函館馬車鉄道の路線を函館水電が買収し、電化工事にて電気運転を開始しての100年とのこと。確かに車体への公式掲示には「路面電車100年」と在った。
全線が健在だった頃の各路線は、函館の街の造作そのままにそれぞれ特徴を持っていて楽しめたものだった。観光の核心地域を抜けた終点が信じられない程に殺風景だった本線のどつく前方面、対して広い道幅に雑然とした工場と住宅の混在した街並の続く五稜郭方面、急坂に趣の在る沿線の宝来・谷地頭線、郊外線の面影を残した湯の川線沿線と記憶する。
あまり特徴的では無かったのが、東雲線から湯の川線の堀川町あたりへ続く区間に、この宮前線だったのだが、路線はここで川を渡っていた。

陸繋島である函館山の、その砂嘴上に成立した函館旧市街地に川の流れの在ることには、不思議にも思ったものだった。横津山系袴腰岳の南斜面を水源とした亀田川である。
調べて見れば、かつては砂嘴手前を曲流して現万代町付近にて函館湾に注いでいたものを、1888年に東流する人工河道(掘割)を築造し大森浜へ流したものと知り納得した。函館市電の路線上に存在したのは、この通称-新川への架橋であった。
専用橋とは往かず道路併用なのは残念だけれど、街並の続く路面中央を往くばかりの中では変化を与えてくれるロケーションではある。現在も電車の通る湯の川線の昭和橋よりも撮り易かったものか、この新世橋にばかりに立っていた。
函館に暮らした訳では無いので、ここがどのような地区だったのか分からないままなのだが、瓦斯会社の工場と五稜郭の商業地が、僅か2キロ程の宮前線を介して隣接しているのには不思議な感覚を覚えたものだった。

500形電車は、この当時に製造の30両中の2両が失われていたけれど、新製・就役から約30年を経ても主力車両に違いなかった。3系統に運行中の512は1948年11月の新製出場、この後さら1991年まで12年を稼働して用途廃止とされた。1978年11月1日付での系統改正による3系統は、駒場車庫を起点にガス会社回りで函館ドック前を往復する系統であった。
新世橋西詰めから柳川町方向。背後で後に西武デパートの入居するビルやHBC函館放送局を建設中の敷地が1973年に廃止の梁川車庫の跡地である。その手前、函館トヨタカローラ販売は建物こそ建替えられているが、今もこの位置にある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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五稜郭駅前 (函館市交通局軌道線・本線) 1977

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早い時期に無くなってしまったから、函館市民と云えど五稜郭駅前まで市内電車の来ていたことを知る人は少なくなったことだろう。函館市交通局軌道線の本線の北側末端にあたるガス会社前-五稜郭駅前間の廃線は、1978年11月1日のことであった。
戦時中の1943年に道南電気軌道から譲渡を受けて函館市交通局の発足した時点では、ガス会社前が本線の終点で、1954年11月20日に鉄道工場前までの1K260Mが、翌1955年11月27日にさらに五稜郭駅前への390Mが延伸されて、弁天(現函館どつく前)からの本線が全通している。この戦後の開通区間が最初の廃止区間なのである。
その国道5号線沿線には低い軒の住宅が張付いていたけれど、商業地の形成されたで無く、このガス会社こと北海道瓦斯函館工場や鉄道工場こと国鉄五稜郭工場に加えて小規模な工場や物流倉庫の点在する準工業地区であり、観光地としての函館とは無縁であった。

写真は、五稜郭駅前停留所に進入する古豪500型の513。
ここでは複線の合流する分岐器手前の安全地帯の無い路面で下車扱いが行われ、その後に電停まで進んで乗車扱いとなっていた。系統番号の10は、五駅前と駒場車庫前間を函館駅前-十字街-宝来町-松風町と回る系統で、1976年12月にそれまでの循環系統である1系統を五駅前で分割したものであった。
画角右上は、今は立体駐車場に転用されている五稜郭の貨物扱い所である。駅前の数軒の商店も今は全てが失われている。
前方に見える道道347号線との立体交差下には、高名な北海道瓦斯の専用線との平面交差が存在したが、この時期には既に撤去されていた。

余談めくけれど、この専用線は、北海道鉄道の手になる1902年12月10日の開業から1911年8月29日の新線開通による経路変更までここに存在した、かつての函館本線のルートを継承していた。五稜郭構内から直進して国道を斜めに横断していた線形はそのためであり、現在線の函館方に存在するR400曲線は、この変更時に新線の取付けにて生じたのである。
この経路上の函館駅は現在の西警察署敷地と云われており、今でもそこから北海道ガス工場跡までの、すなわち前記専用線終端部までの路盤跡も明瞭に辿れるにもかかわらず、廃線跡探訪的な記事を見かけたことはない。ルートは明確でも、100年を経てそこに在るのは単なる生活道路に過ぎず、確かに「探訪」するには物足りない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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