FC2ブログ

"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

上野幌 (千歳線) 1994

kami_nopporo_30-Edit.jpg

北海道鉄道(2代)が1926年8月21日の札幌線開業に際し上野幌を設置した当時、その一帯は白石村の野津幌と呼ばれていた。付近の小学校も野津幌尋常小学校(現上野幌小学校)だったし、1915年に入植者により建立された神社も野津幌神社(現上野幌神社)であった。
野津幌は、この地域の丘陵地を侵食しつつ谷底平野を形成していた多くの水流の先住民による呼称「nup-or-o-pet」の当て字には違いなく、和人はこれを「ノホロ」「ノッホロ」「ノッポロ」と聴き取り、地名に用いたのである。自然発生的なものゆえ、おそらくは「津」の入らない野幌も当初より混用されていたと思われる。
公文書に初めて現れるのは野津幌の方で、1873年に布告の『地租改正法』に際して開拓史が札幌周辺の国有林の位置を指定した、1873年11月19日の「官林取極の件」に官林名称としてその名が読めるが、官設幌内鉄道が1889年11月3日に江別村に開業の停車場は、当初より野幌を名乗っていた。この時期には、官の側では「津」抜きの方に統一が進みつつあったのかも知れない。
いずれにせよ、今の行政区画でも札幌市から江別市、北広島市に跨る広大な原生林名称への採用により、その周辺を含む広域地名として成立して往くのだが、それゆえに細分化の過程で幾つかの混乱を生じることになる。

官設鉄道の野幌もその事例で、そこは「nup-or-o」の景観と云うよりは石狩低地に属したけれど、付近に最初の鉄道駅として官林名称からの採用であろう。北海道鉄道が野津幌の停車場を上野幌としたのは、勿論にそれとの重複を避けたに違いないが、当時既に定住が進みつつあったnup-or-o-petの上手側が上野幌、下手側が下野幌と区別され始めており、この停車場は現在の大曲付近まで及んでいた上野幌地域を駅勢圏としたゆえと推定する。新札幌市史を斜め読みしたに過ぎないのだが、この区分の始まりの時期への言及は無かった。
これと対に、現在の青葉町やもみじ台などの一帯の旧字区は厚別町下野幌であった。新札幌で開業した千歳新線上の新駅が計画段階に下野幌で仮称されていたのは、至極自然と言えよう。この結果、大曲川からの川筋で見れば、野幌より上手側に下野幌が存在することになっていた。

一方、北海道鉄道の上野幌の開業当時、広島村にも下野幌と呼ばれる字があった。停車場の位置からは野津幌川を隔てた東側にあたる。その頃には原生林只中の入植地もまた、野幌と呼ばれており、官設の停車場位置ばかりでなく野幌は数多くあったのである。ここの野幌には1890年に原生林を開削して廣島開墾地と開拓使を繋ぐ札幌道路が開かれた。この道路を中心地だった椴山から野津幌川に下ると標高差は70メートルほどになり、そこに架橋されていた立花橋付近にも定住地が形成されていたので、ここを下野幌と呼び、やがては廣島村の字区とされた。その範囲は野津幌川の谷底平野を鉄道沿いに上流域まで及び、上野幌より上に位置する下野幌が存在したのである。千歳新線上に移設された現在の上野幌は、当時なら下野幌区域と言うことになる。
これには先に述べた下野幌との関連を指摘する向きあり、野津幌川下流域も丘陵上の野幌を下ったゆえの下野幌だったのかも知れないけれど、地名の真相は誠にわからない。
廣島村の野幌に下野幌は1935年の字区改正で消滅し、双方が字西ノ里となった。現在の西の里である。

降雨下の大曲橋梁に差し掛かるのは、5列車<北斗星5号>。
この橋梁の架橋位置が大曲を名乗ったことは無い。けれど、目と鼻の先の野津幌川対岸は、同じ字区改正で下野幌から字大曲に編入されて以来に大曲である。鉄道施設名称への近隣地名の採用は珍しくはないが、その地名の起こりは西に離れた位置でのことだから、違和感はある。

[Data] NikonF3P+AiNikkor85mm/F1.8S  1/500sec@f5.6+2/3  Fuji SC52filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopCC & LightroomCC Classic on Mac.



音別 (根室本線) 1977

ombetu_13-Edit.jpg 

北の育ちなものだから、上京して写真学校の不真面目な学生だった頃、近所の定食屋の惣菜棚に並べられた小鉢に見た蕗の水煮には驚いた覚えがある。それの、まるで三ツ葉の茎かと疑う「か細さ」に、である。その頃には、蕗が栽培作物とも知らず、山野に自生を刈り取るものとばかり思っていたことも手伝い、記憶のそれは湿地や水流の縁に低くても1メートルの丈に密生して、家での母親の調理も太い茎のぶつ切りに違いなかった。定食屋での一件は、以前此処に書いた「鱧」と並ぶ、はてなマーク事件である。→ 
東室蘭 (室蘭本線) 1995
しかも、彼方が本種で此方は亜種とは、さらに後になって知るのだった。
奥羽地域から北海道内に自生する亜種は、1メートルは疎か2メートルにも達する巨大蕗であり、「秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ」と歌われる秋田音頭のプロモーション効果なのか、一般に「秋田蕗」と呼ばれるようである。勿論、同様の蕗は道内至る所に見られ、流石に秋田蕗とする訳にも往かず、今では蝦夷蕗、大蕗が通称のようだが、札幌在住当時は、単に「蕗」と記憶し、それしか無いのだから、確かに「蕗」は「蕗」である。

道内至る所に自生する蕗だが、音別町はその栽培地と言う。音別駅前から道道241号線、同500号線と内陸へ15キロばかり北上した霧里(むり)地区が中心と聞く。
1991年頃と云うから、ごく近年である。時の音別町振興公社が蕗の食品加工に際して大量に廃棄される蕗皮に着目して、これで紙を漉こうと考えたのだった。特産品の創成を目指してのことだが、今や百均ショップでも紙すき道具を売っている時勢だから、当時とて安易な発想の範疇だろう。
ともかく、この事業に着手すれば、蕗の繊維が独特の緑模様を見せる和紙が産み出され、これをフキに当て字した「富貴紙(ふきがみ)」と名付けたのである。しかしながら、その生産量からでもあろうが販路も限られ、小さな自治体の外郭団体ゆえ、大したプロモーションも為されぬうちに、折からの「平成の大合併」である。音別町の釧路市への吸収には振興公社も解散して「富貴紙」も沙汰止みとなってしまった。
これが2016年度に至ってのこと、全国自治体総参加の様相を呈する「地域起こし」とやらに、釧路市も音別地区への配慮にはネタ不足で在ったものか、再興を図るべくNPOを通じて都市居住者から移住を伴っての継承者公募に乗り出していた。
これも安易に過ぎると云うものだろう。住居は提供されるとは云え、たかだか十数万円の月額報酬で都市在住者に移住を迫る施策とは正気では無い。生産の地場産業を興すのであれば、商業的に成り立ってこそであるから、寧ろその分野に通じた都市在住者をそのままに雇用して、消費地側でセールスプロモーションに就かせたほうが余程マシである。
果たして、応募が無かったものか、あるいは相応しい人材に巡り合わなかったものか、その間の経緯は知らぬのだが、2017年に始動したのは、地元在住有志による組織であった。これの構成員は熱意の方々と承知しても、釧路市当局に担がれたと云うことだろう。
件の「平成の大合併」以降、音別町の中心地から釧路市の辺境となった音別市街地は縮小するばかりに見える。全くに、これを「ふるさと創生」などと語った自民党政権は碌なモノじゃない。

乳呑川が細く海に注ぐ地点。海成段丘が大きく途切れて引きが取れるゆえか、古にも今にも撮影の好地点である。
地形も植生も、海も空も、太古から何ら変わらぬのだろう。
40年の歳月など、つい今しがたである。ただ、この当時に国道側を迂回していた通信線が線路沿いとなって、写真には些かうるさくなった。
列車は、413D<ぬさまい>。後追いではある。
この地域急行は、旭川発着の<大雪>と、<しれとこ>を介して運用が繋がった旭川機関区持ちと記憶する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5  1/500sec.@f8 NikonY52filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopCC & Lightroom ClassicCC on Mac.


大成 (根室本線) 2017

memuro_01-Edit.jpg

その昔の貧乏旅の頃、自炊道具を持ち歩いてインスタントラーメンが主食とは、前にも少しばかり書いた。→ 桂川臨時乗降場 (函館本線) 1984
たまに菓子パンなど食べれば良い方で、汽車弁当など高嶺の花だったものだから、自炊を卒業して暫くはその反動もあってか、三食を汽車弁で回していた時代があった。コレクションの掛紙欲しさも手伝い、道内夜行の乗車には明朝分、降りた先では昼食分を調達していたものだった。汽車弁は旅の必需品であり、大抵の駅では深夜早朝と言わず入手出来た頃である。
乗継待ちや駅寝には「外食」(汽車弁で済むはずの駅の外へ出るので「外食」だった)もしたが、ちょっとした街なら必ず在った駅前食堂の類で済ませていた。弁当が白米ゆえ、この場合は麺である。
只々ストイックに写真を撮っていた頃と重なるので腹は満たされれば良く、その土地ならではの食事など考えもしなかった。青函連絡船の「あらまき弁当」、長万部の「北寄めし」、東室蘭の「はも弁当」、帯広の「きじ弁当」に厚床の「ほたて弁当」などの特殊弁当に、汽車弁だけでも十分にその片鱗に触れらたからでもあろう。加えて、帯広の豚丼にせよ、深川のジンギスカンにせよ、釧路のスパカツ、根室のエスカロップにせよ、当時に何ら情報のもたらされることは無く、全くの地元料理であった。札幌在住当時でも、おそらくどこかの店では供されていたのだろうがスープカレーなんて知らなかった。

狩勝や士幌線への拠点である帯広は、夜行への乗降には不利な位置から地上泊(車中泊の対語に用いていた)の機会が多く、駅ビル上階に在った「帯広ステーションホテル」を常宿にしていたことも、前に書いている。→ 帯広 (根室本線) 1983
1978年の初冬のこと、上野を19時過ぎの<八甲田>で出て、青函5便から<おおぞら3号>と乗継ぎ、まる24時間を掛けて帯広に降り立っている。帯広への直行は他に覚えが無く、メモをめくると日程の短い旅で、それこそ狩勝新線と士幌線だけを撮って帰京とある。宿舎は勿論に帯広ステーションホテルである。
この旅と思うのだが、夕食は特急食堂車をガマンして帯広の汽車弁と決めていたものが手に入らず、外食に出掛けたのだった。しかも、珍しくも駅を背に街中を歩き、そして見つけたカレー屋に入っている。
それは、看板にターバンを巻いたインド人が描かれながら、インディアンを名乗る店と記憶する。インド人=カレーとは、特製ヱスビーカレーのプロモ、芦屋雁之助の「インド人もびっくり」で子供心の脳裏深くに刻まれていたものの、インディアンと云えば、その昔のテレビ映画「ローンレンジャー」での「嘘つかない」ほうのイメージが先行して、インド人=インディアンが素直に結びつかなかったと覚えがある。(このあたり、五十路を越えた人にしか判らないかも知れぬ)

この店、正しくは「インデアン」が帯広地域のカレー食文化に深く関わったとは、ついつい最近になって知った。戦後の日本カレー史において、それまでの粉末インスタントルーに替えて固形型への本格移行が生じ、カレー産業第二次隆盛期と呼ばれるのは1960年代のことである。
一般家庭へのカレー食浸透期にあたり、こと帯広において「カレーとは鍋持参でインデアンにルーを買いに往くもの」とは大いなる脚色に違い無い、と今でも半信半疑なのだけれど、このカレーチェーン店の1号店開業が1968年であり、以来6年で帯広中心部に3店を営業とのデータには、それまでの帯広カレー食文化が希薄との前提に立てば有り得ぬでもなさそうだ。

晩秋の西陽を正面にするのは、2070列車。
2010年までは無かった、この芽室跨線橋へと大成駅から道道715号線へ出ると、彼方に何やら回教寺院の如きドームが見え、近づいてみてカレー店「インデアン」と知れた。この時、帯広駅前で40年近くも前に訪れた店の盛業の姿と気がつきもしなかったのだが、傷つき曇り気味なステインレスの皿は微かな記憶だった。


[Data] NikonD5+AiAF Nikkor ED180mm/F2.8D  1/500sec@f9    C-PLfilter  ISO320  W.B. 5560   Developed by CaptureOne8 Edit by PhotoshopCC & Photoshop ClassicCC on Mac.

続きを読む

北母子里 (深名線) 1980

kitamosiri_04-Edit.jpg

朱鞠内からの車窓に、五万図の道路を視認した上で北母子里に降りたものと思う。
40年近くを過ぎて記憶も曖昧なのだけれど、勿論に要員の詰めていた駅舎を後に、家屋も散見された駅前通を進んで、突き当りの道路へ左折、間近の十字路をさらに左に曲がると、朱鞠内湖北岸へと続く砕石がきれいに敷きつめられた道に出た。この頃の足元が既に登山靴だったかにも覚えはないのだが、なんにせよ砕石の道とは歩くには不向きで、先の難儀を覚悟した覚えはある。

この道路が、1970年8月22日付で認定された道道688号名寄遠別線である。当初から起点を名寄市、終点を天塩郡遠別町として認定された路線ではあったが、今に調べると、当時に存在したのは、同年10月29日に起工して開通の幌加内町字母子里地内の260メートル区間に始まり、順次延長を重ねた同町蕗の台地内までの10キロ余りに過ぎず、まだ新しい砕石の端正な姿に落胆した地点が最初の工事起点であり、ここからは東へ向かっても1.5キロばかりは開かれていたと知れた。
この道道は、60年代の計画段階から国=北海道開発庁(当時)が、『道路法施行令』(1952年12月4日政令479号)の第32条に基づき指定した、所謂「開発道路」であった。この制度下では、政令施行以降1970年度まで、道内に既存の市町村道の多くが指定を受けており、ひとたび「開発道路」とされれば、その改良と維持、管理までの全てが国費で賄われたのである。それは新設の道路にも適用され、建設は国の予算にて進められた。条文で「当分の間」とされていた全額負担は、1971年度以降に道にも求められるところとなるが、70年代を通じて建設費なら95パーセント、除雪を含む維持費や改良費も80から90パーセントの国庫負担が継続された。

開発庁の地方機関である北海道開発局が計画を進めた60年代後半は、広大で開発も急務とされた道内での道路整備も一段落し、新たな指定も絞られつつ在った時期にあたり、この名寄盆地と日本海岸を直結する道路の、構想は古くから在ったにせよ、予算要求と計画の具体化が随分と性急と資料に読めるのは駆け込み指定を狙ったものだろう。
官製に違いない急造りの期成同盟会(開発道路名寄遠別線建設促進期成会)には幌加内町の他、起終点の名寄市と遠別町は当然として、日本海沿岸幾つかの自治体も加わるのだが、それが一斉でなかったのは、幌加内町を除けば然程に熱心では無かった現れとも見て取れ、計画の核心は、同町が仕掛けたであろう母子里と名寄を短絡・直結する「名母トンネル」に在ったと思われる。その証に、同トンネルは5年の工期を経て1987年9月に貫通するも、幌加内と遠別の町境を跨ぐ7.8キロ区間は開発道路指定から50年に迫る現在にも未着工である。日本海岸自治体は、何やらダシに使われた感が無きにしも非ずで、最初の着工区間が母子里から西区間と云うのも、これを糊塗しようとしたものと深読み出来ぬでも無い。

朱鞠内湖北岸の隧道を抜けて来るのは、944Dの朱鞠内行き。隧道名称は知らない。
件の開発道路を3キロ程度歩いた位置であり、勾配も然程で無かったはずだが、砕石に足を取られながらには随分と遠く感じたものだった。
この頃には、白樺や蕗の台にも通じていて、彼の地は共に自動車交通の手段も手に入れたことになるのだが、如何せん両地区とも既に居住者は皆無であった。この後も何度か歩いたこの道で、丸一日通行者に出会ったことは一度も無い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5   1/250sec@f8   Fuji SC48 filter   Tri-X(ISO320)    Edit by PhotoshopCC & Lightroom Classic CC on Mac.

音別 (根室本線) 2016

onbetsu_12-Edit.jpg

釧路市がWebsiteで公表する音別地区の近年のヒグマ出没情報に拾うと、2016年の夏、根室線の線路沿いでの目撃報告が続く。

2016-06-19 JR根室本線直別駅より釧路方面寄りへ、約0.4キロメートル地点における線路付近(目撃)
2016-06-20 JR根室本線直別駅より釧路方面寄りへ、約1.5キロメートル地点の線路付近(目撃)
2016-06-21 JR根室本線尺別駅付近の海岸(足跡)
2016-07-05 JR根室本線尺別駅から釧路方面寄りへ、約2.2キロメートルの海岸付近(目撃)
2016-07-06 JR根室本線尺別踏切より釧路方面寄りへ、約0.6キロメートルの線路付近(目撃)
2016-07-19 JR根室本線尺別駅から釧路方面寄りへ、約2.0キロメートルの線路付近(目撃)
2016-07-21 JR根室本線尺別駅から釧路方面寄りへ、約1.0キロメートルの線路上(目撃)
2016-08-03 JR根室本線尺別駅付近の海岸(目撃)
2016-08-08 JR根室本線尺別駅から釧路方面寄りへ、約1.8キロメートルの線路付近(目撃)
2016-08-13 JR根室本線尺別駅から釧路方面寄りへ、約1.5キロメートルの線路付近(目撃)
2016-08-16 JR根室本線尺別駅から釧路方面寄りへ、約1.2キロメートル地点の線路付近(目撃)

お気付きの通り、大半が尺別から音別川橋梁までの区間であり、ここを訪れる鉄道屋がレンズを向ける定番の被写界と云うことになる。目撃は何れも早朝や夕刻に夜間であり、国道を走るドライヴァーや夜なら列車の運転士の報告による。
ヒグマの生態など門外漢も甚だしいのだが、これらはどうにも同一の個体に思えてならない。ヒグマが徘徊するのは、繁殖目的で無ければ採食のためであろう。彼(彼女?)は、6月の半ばに食料を探して後背の丘陵地から直別付近に現れ、近くの山林と往復しながら、直別原野東3線の踏切あたりより海岸を目指し、海成段丘崖直下を汀線沿いに尺別に向かったと、報告には読める。
いったい、堆積が進んだ海岸湿原であるそこで彼が何を見つけたものか。身近なペット動物としてのネコやらイヌもそうであるように、一絡げに犬猫ではなく、個体ごとに性格や好みが違うのはヒグマとて同じであろうから、余程に気に入った食料に巡り合ったに違いなく、規則正しくとも見える出現は付近の山林とを縄張りに一夏の餌場のひとつとして巡回したと思えてならない。とは云え植物の実には早かろうし、音別川の河口付近に鮭が接近するにも早い。その方面にも疎いけれど、道内でも自生しているはずのハマボウフウの類だろうか。
ここでの「線路」は地点特定のランドマークに過ぎないから、夜行性の彼は一晩中に一帯を徘徊したのだろう。目撃や痕跡が記録されぬだけで、鉄道屋が立ち位置にして居る、通称の「尺別の丘」や「音別の丘」も当然に行動範囲だろう。いや、そこの山林が昼間の隠れ家だったのかも知れぬ。

上のデータを知った上で訪れた2017年の初秋、未明の徒歩に国道から斎場へ上がる途中のこと、視界に向かい来る黒い個体を認めて戦慄したものだった。腰を抜かした鉄道屋は、接近して来てエゾシカと知るのだが、当に背筋が凍る思いだった。
と言うのも、Websiteにはその年7月7日早朝の、「国道38号線を音別橋から帯広方面へ約0.5キロメートル地点の道路」との目撃報告も見ていたからに他ならない。門外漢には全くの推定ながら、前年に味を占めた彼が翌年にも現れて不思議は無さそうに思えたのである。たまたまに「線路」周辺では「目撃」されなかっただけなのだろうと。

此処へは、1970年代から幾度と無く訪れているが、ヒグマの出没なぞ考えたことも無かった。過疎と裏腹に人間の生活域が集約されて行く中で、彼らは原始の行動圏を主張しつつあるのだろう。縮小することは無い人間のそれとのクロスオーヴァーが各所で頻発していることになる。
黎明にホッキ漁の漁船と並走するのは、2095列車。彼が被写界に立ち現れる4ヶ月前の撮影である。

さて、音別より東側、釧路方の海岸線での目撃情報は件のWebsiteに記されていない。けれど、それは旧国道が木造橋の腐食で通行禁止となっている昨今には滅多にヒトの立ち入らぬゆえとも思え、2017年の10月9日夜には、列車乗務員による市道馬主来線との波若(ヤムワッカ)踏切付近線路上での目撃が報告されている。海岸線までは直線で500メートル程である。


[Data] NikonD3s+AiAF Nikkor 85mm/F1.8D 1/125sec@f2.8 NONfilter ISO6400 W.B. 3450 Developed by CaptureOne8 Edit by PhotoshopCC & Photoshop ClassicCC on Mac.


落部 (函館本線) 1988

otoshibe_22-Edit.jpg

森を過ぎた線路は、海岸線に迫る段丘崖と汀線との間の僅かな平地に路盤を求め、時には段丘に隧道を穿って通過して往く。この段丘は海成段丘であり、この噴火湾西岸域には海岸線とほぼ平行に5面の段丘面が認められると云う。
地質学上の名称とは不可思議で、通称としても定着したものが無い。研究者らが論文ごとに付名しているように見える。ここでは1978年の地質調査所北海道支所の石田正夫による報告に従うと、その5面とは海岸線寄りから、海抜30メートル以下の森段丘面、同じく20〜70メートルの落部段丘面、40〜120メートルの山越段丘面、そして80〜200メートルに達する野田追面に200メートルを越える境川面である。後者の2面は成立の時代から谷の浸食が進んでおり、段丘面としての平坦面を最早維持していないので、単に(かつての)面と扱われている。地形図からは内陸に続く丘陵地ないし山地としか読めない。
落部川の扇状地を挟んで海面への急崖を落とし込み、現在にかつての鉄道路盤を国道5号線が通過しているのは、もちろんに落部段丘面であり、そのすぐ背後、一段高く丘陵状に見えるのが山越段丘面と云うことになる。そして、石倉側でのイナウ岬先端と野田追の海岸平野に低く続くのが森段丘面であろう。森段丘面の離水がもっとも新しいのだけれど、それとて更新世と云うから人類誕生の彼方である。

落部の前後区間が古から鉄道屋を集めたのは、駒ケ岳を正面に噴火湾を望む落部段丘面に容易くポジションを取れたロケーションからに他ならないけれど、今に思えば、これに加えて石倉-落部間が1958年12月10日の海線への腹付による複線使用から、落部-野田追間が1960年7月5日に単線のままながら、共に自動信号が稼働していたことも事由のひとつだったろう。そこからは、単芯の通信線を幾本も装架した通信線柱、所謂ハエタタキが、この早い時期に一掃されていたのである。
キネ旬が発行していた「蒸気機関車」誌に見たものだったと思う(探せば見つかるだろうが、とても書庫を漁る気にはなれないで居る)。東野の駐車スベース、当時には複線化工事のバックヤードとしての役目終えたばかりの国道脇用地から、冬日の朝に逆光の白煙を引くD52蒸機を画角手前に後追いしたカットは、それは美しく、工事直後のせいもあろうが、広々とした空間が構成されていて、遠征初心者を誘惑するに十分だったと覚えて居る。

同じポジションに立ったは良いが、画角のトレースすら出来なかった新参者から十数年を経て、ここでは本州からの寝台列車群を迎えることになった。かつてには、いつかは実現するとは思いつつも夢物語に過ぎなかった被写体である。
写真は、6003列車<北斗星3号>。
個室式寝台車や食堂車が組み込まれるのは、このひと月ほど後のことで、B寝台者のみの短い編成を前提に第3落部トンネル出口寄りの立ち位置を選んで居る。国道から斜面を登っての位置は、海面からの比高40メートル程となり、まさに落部段丘面なのだろう。肝心の駒ヶ岳は蝦夷梅雨に煙る。


[Data]  NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec.@f5.6  Fuji SC48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by LightroomCC on Mac.



七飯 (函館本線) 1972

nanae_24-Edit.jpg

静岡県浜松市で日本近代史を研究する竹内康人によるリスト「朝鮮人強制労働現場一覧」には、その冒頭に七飯町の「鉄道工業函館本線増設工事」と「堀内組軍川七飯間鉄道工事」が連行先事業所として列記されている。
前者が日本土木建築統制協会による「昭和20年第1次朝鮮人労務者割当表」を、後者が内務省警保局の「特高月報」に典拠しているゆえのことで、これは同じ鉄道工事への徴用連行を指していると思われる。アジア・太平洋戦争下で着工されながら日本の敗戦で未成に終わった七飯から軍川(現大沼)への勾配緩和線増設工事である。
朝鮮人ばかりでは無い。大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会が、外務省文書「華人労務者就労事情調査報告書」から調査・公表した資料には、徴用中国人の連行先として同じく「軍川・七飯間鉄道新設工事」が引き受け事業所を地崎組の大野出張所として記してある。

半島からの日本国内への戦時労務動員は1939年に、大陸からは1943年に始まったとされており、云うまでも無く国家総動員法下での戦時労働需給を支配した半島に、悪化する戦局に徴兵・民間徴用で不足した労働力の代替を占領下の大陸に求めたもので、労働力の確保が生産性に直結した炭鉱や鉱山、港湾に軍需工場への移入が主体とは周知の史実であろう。
長く「強制連行」とされてきた、この戦時動員に対して、近年に至って「強制」の事実は無かったなどとの声高な主張を繰り返す反動勢力が在り、確かに初期には募集への自発的応募も事例は存在しただろうけれど、大半の事例である地域や自治体単位での官斡旋や徴用とは外形に過ぎず、実質的に拒絶できぬのであれば、それを「強制」と云うのは自明である。百歩譲って、その主張に耳を傾けたところで、連行により「強制労働」に賦したのであり、日本近代史の一大汚点に違いない。
薩長政権の国粋主義体質が往きついた地点であり、これを「無きこと」と主張するのは、敗戦で断罪されたはずのそれらの流れを汲む保守層の忌むべき悪癖である。

竹内によれば、アイヌモシリ(道内)だけで239事業所を数える連行先の中で、この鉄道工事は当初より朝鮮人労働を前提としていたと思われ、相当数が使役されたものだろう。
その数を示す資料は竹内も発掘していないが、七重町の歴史館が収蔵する住民からの聞き取り資料には、(彼らを戦場での捕虜と思い込んでいたのであろうが)朝鮮人捕虜は渡島大野駅(1942年3月31日までなら本郷駅)から長い列で連れて来られ、毎朝に工事現場へと向かう行列が見られたこと、隧道掘削現場からトロッコで運び出された土砂を日本兵(憲兵だろうか)に鞭打たれながら運んでいたこと、事故により受傷したり死亡した者が、一日に幾度となくトラックで運び出されたこと、などの証言がある。
年月を経てからの調査であるから記憶が誇張されている部分もあるだろうが、複数証言の「長い列」にはかなりの人員を思わせるし、監視下での労役は「強制労働」以外の何ものでもない。朝鮮人との記憶は、前述の通り中国人も含まれていたことだろう。
この遥か後年に現在の藤城線として開業する鉄道工事の着工を明確に記す資料には巡り会えていない。七飯町史は1936年と書くけれど、七飯-軍川間輸送力増強工事としての仁山信号場設置を含めてのことでは無いか。使命を同じくし同時期に設計が進められたと推定される石倉-野田追(現野田生)間線増工事の1942年10月との整合には、期日を要する隧道掘削を考慮しても1940年前後に思える。後述する工事放棄の状態も、9年間に工事を継続したものとは考え難い。
やはり、1939年からの朝鮮人徴用連行がなければ着手の有り得なかった工事なのでは無かろうか。
(この項続く)

燃料炭完全燃焼の水蒸気のみを吐き出して渡島大野へと加速するのは、125列車の札幌行き。客車にはスハ32が連なる。
1971年10月時刻表に、13時丁度に函館を出て、仁山と砂原を回り、山線を抜けるこの列車が札幌に到達するのは23時44分とある。
七飯高架橋のタラップからの撮影は、マナーとやらに喧しい今には望むべくも無いだろう。戦時下の設計にこの高架橋は含まれていない。

つい最近に、1960年当時に藤田組の新入社員として札幌支店勤務を命ぜられ、1963年11月に再着工した藤城線建設に関わった人物と知己となる幸運に恵まれた。75歳にして矍鑠とした彼に何よりも問うたのは、当然に戦時下工事の中断状態である。直接に工事を管轄したでは無く、仕事は現場事務所の運営管理だったと云うが、それには明確に答えてくれた。「トンネルは掘られてはいたが貫通したのは一つも無かった」
これで、2014年4月の記事 七飯 (函館本線) 1988 に書いた長年の命題が解けた。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.


糠平 (士幌線) 1984

nukabira_09-Edit.jpg

蒸機末期の頃、士幌線を管轄していたのは、釧路鉄道管理局に置かれた帯広管理所と云う組織だった。
言わずと知れた非採算線区経営改善に設けられた現業機関であり、1960年の11月に、それまで管理長制度下に在った士幌線と広尾線の各駅に、池田機関区帯広支区、釧路車掌区帯広支区、帯広保線区の士幌・広尾線管内、加えては帯広駅までも統合して発足し、総勢600名余りの職員を擁していた。
管理所とは支社長の権限にて設けられ、1958年7月に発せられた総裁通達で、線区別経営組織を設置した場合、支社長は部内規定に拘らず経営改善のためであれば何事でも施行出来ると通達されていたとは云え、ルーラル線区の個別経営体が本線の拠点駅までも飲み込んでしまうのは、誠に珍しい事例だったと思われる。600余名とは帯広に在勤する国鉄職員のほぼ全てではなかったろうか。

前置きが長くなったが、この帯広管理所には東京から幾度も電話したものだった。長距離電話料金が恐ろしい程に高額だった当時に用いたのは、以前に小平 (羽幌線) 1972にも書いたけれど、当然に鉄道電話であった。
70年代の初頭、9600の牽く士幌線貨物は定期2往復が設定されるも、共に上士幌までの運転であり、十勝三股に到達するのは年に数回と言われた運材の臨貨だけだった。今に理解すれば第五音更川橋梁と思われる連続アーチ橋を往く蒸機列車を鉄道雑誌に見て以来、機会があればと念じ、渡道の予定が決まれば丸の内の国鉄本社ロビーに通った訳である。
帯広へは、1960年9月までに札幌を起点に岩見沢東と神居山の反射板を経た支線系SHFマイクロ波通信網が旭川から達しており、ダイヤル即時通話が実現していた。国鉄PRコーナーから借り出した電話帳に帯広管理所だけで、多くの番号が記載されていた覚えがある。記憶は定かでないけれど、選んで架けていたのは駅運転助役だったろう。そこでは、急遽運転が決まることもあると教えられ、渡道してからも撮影先の駅長事務室で電話を拝借しては問い合わせたものだったけれど、とうとう機会に恵まれぬまま終わったのだった。
余談だが、東京からのダイヤル通話も、SHF通信網を外れた道内地点からでは旭川や釧路の交換台を呼び出す必要があり、またもや蚊の泣くような通話に大声で怒鳴ることになっていた。後々即時通話の時代になっても小駅の駅員氏が待合室にまで響き渡るような大声で電話していたのは、この必要に迫られた癖が抜けぬものだったに違いない。

上士幌までの平原区間には魅力を覚えず、結局は足を踏み入れず仕舞いだった士幌線への初訪問は、煙も絶えて久しい1978年の年明けまもない頃で、十勝三股に気動車で到達した唯一の記憶である。勿論、前述の第五音更川橋梁が目当てだったのだが、寧ろ山腹にへばり付いたルートから第四糠平トンネルを抜けると眼前に広がる景観に惹かれ、数年を通うことになった。糠平での思い出話の幾つかは、前にここへ書いている。

糠平湖岸の726D。後追いである。


[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320)  Edit by LightroomCC on Mac.

稀府 (室蘭本線) 1996

mareppu_07-Edit.jpg

現在の伊達市域、かつての有珠郡を構成した有珠・長流・東紋鼈・西紋鼈・稀府・黄金蘂の各村は、道内でも有数の藍の産地であった。勿論にタデ科イヌタデ属に分類される植物であり、藍染に用いられた「藍」である。
道内への殖民は自給作物ばかりでなく、同時に開墾地の経済的自立に商品作物の生産を要して、それの内地からの移植も推奨され、そのひとつが当時に全国的需要も大きかった藍だったのである。
1870年に始まる奥州伊達藩の支藩亘理藩の集団移住による開墾が知られるこの地においても、1874年には作付けが行われたとの記録があるが、藍作ばかりでなく、それからの染料生産(製藍)までも含めて本格化するのは、徳島県からの団体が長流村に入植した1883年以降であり、1887年の有珠郡における作付け面積の100町歩あまりは、1889年には道内作付け面積のほぼ半分にあたる400町部に迫らんとし、1900年に最大の560町歩に達した。中心域は当然に長流村と隣接する西紋鼈村に属した長流川の沖積平野であった。

この有珠地域での藍作の盛期最中の1895年頃、黄金蘂村に所在した田村農場への入植者に篠原茂次郎がいた。彼も徳島県板野郡川内村出身ではあったが、一家を挙げての幌別郡幌別への移住が不作により失敗に終わり、1年間の単身賃金労働を経てのそこへは知人の伝手を頼った小作人としての再入植であった。長流村への徳島団体との関わりはなく偶然と思えるが、吉野川河口地域と云えば、かつての製藍地帯と重なり、茂次郎自身も葉藍を染料に加工する際の発酵過程を管理する「水師」の技術者でもあったらしく、ここでの藍作隆盛を聞き及んでに違いなく、田村農場から牛舎川左岸に9町部を借り受けた茂次郎は、入植直後から藍作に取り組んだとされる。
茂次郎の幸運は、再入植直後から藍の価格が上昇し、1900年には一番藍が10円から25円の高値を記録したところだろうか。「水師」の技術を活かした自家藍製造に止まらず近隣農家作付けの製藍も引き受け、さらにはかつての藍取引の経験から内地に販路を開拓する藍商としての性格も帯びて経営規模を拡大、1910年には西紋鼈村と稀府村に10町6反部の土地を取得して自作農化するのだった。藍による蓄財を以っての篠原家による土地集積は以後1920年代に掛けて続き、その小作地は壮瞥村も含む有珠郡一帯に及んで、1933年の統計による67町部は有珠郡で四番手の地主であった。

ここでの興味は、これだけの地主に成長しながら、茂次郎は所有者が代わり高橋農場となっていた牛舎川左岸の土地に関しては、小作人で在り続けたことである。理由はわからない。農場が下げ渡しに応じなかったものか。おそらくはそこが藍作に適し、製藍の作業場も所在したのだろうけれど、何よりも成功への基盤となった藍作の土地だけに愛着も感じていたのかも知れない。
けれど、このことが戦後に再び茂次郎に幸運をもたらす。農地解放政策により、経営した有珠郡一円の土地は没収の憂き目に会うのだが、ここだけは逆に自作地として保有が叶うのである。戦後の篠原家は、この9町歩での葉藍生産に加え、周辺に自作地として買い求めていた稀府の5町歩の畑、北黄金の3町3反の水田で営農を続けた。しかしながら化学繊維の出現と普及は藍染め産業にも壊滅的打撃を与え、1960年代半ばまでに藍作農家は篠原家を残すのみとなり、それも1972年に至って途絶を余儀なくされるのだった。

写真は、長万部起点62K700M付近に所在した踏切付近での3059列車。
背景は勿論有珠山である。今に定番化している位置なのだが、廃止された踏切名称は失念した。

篠原家の藍生産は、折からの工芸としての藍染めブームと当時の当主茂氏の熱意により1980年に再開され、現在にも茂次郎入植以来の土地で9町歩ほどの作付け面積ではあるけれど継続されていると聞く。
そして、篠原家は21町歩の畑を経営する大規模農家である。その営農地は今も列車背後に見える樹林の向こう側一帯に所在している。

=参考資料=
新稿伊達町史 : 伊達町 1972
伊達市史 : 伊達市史編纂委員会 1994
北海道農業発達史 : 北海道立経済総合研究所 1963


[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter EPP Edit by LightroomCC on Mac.


礼文 (室蘭本線) 1994

rebun_11-Edit.jpg

2011年3月11日に発生した「平成23年東北地方太平洋沖地震」では、茨城県水戸市も震度6弱にて揺さぶられ、千波湖南方の丘陵地に所在する実家でも、その長く大きな揺れに在宅していた老親は「庭に這い出るのが精一杯」の有様だったらしい。石燈籠の上部が滑り落ち、石積みの門柱も崩れるなどし、建物室内では壁面の装飾が落下したのだが、不思議なことに家具の倒壊は起こらず、隣戸で生じた造成地盤のひび割れや崩壊も見られなかった。
当時に健在だった親父は、造園から30年を経て地中一面に伸びきった庭木の根により地盤が強化されたゆえとの推定を披露していたものだが、確かに庭木で1番の高木がブンブンと音を立てて振れたと聞く揺れにも、地盤は健全であったし、建物基礎も数カ所に小さな亀裂を認めるだけではあった。

親父の自慢話はシロウト考えに過ぎないけれど、林学の分野において植物の根系による地盤安定、特に斜面に対する崩壊抑止効果は古くから経験的に知られ、研究テーマだったようである。それは主には治山や人工林育成の要求からだろうが、土木関係の研究者や技術者たちにも共有されたものと思う。
ただし、その効果を定量的に捉えられるよう研究の進んだのは、ごく近年のことであり、樹種による根系の土中分布特性別に根系の繊維強度や剪断耐性、引き抜き抵抗力などがモデル化され、一般的な崩落発生深度とされる表層から2から3メートルに対して、斜面安定効果が確認されるに至っている。

しかしながら、鉄道や道路建設などおける盛土や切取法面の安定対策は、即効性から古くは石積にカゴ工、近年に至ればコンクリート張や吹付けコンクリートなどの構造物工が主流であり、勾配の緩い斜面なら金網張や柵工にて植生基盤を確保することはあっても、それは植物の早期育成を図っての表層部の剥落防止が目的であり、根系による土圧への抵抗を意図したものではなかった。
したがって、経年に植生が自然林の様相を呈するに至れば、通行路の確保や信号見通しなど安全面から、定められた保線基準に従って定期的な伐採が行われるのが通例であった。

写真は、噴火湾岸を東西方向に貫く礼文華山トンネルからR=603で南転する盛土築堤を駆け下りて往く8002列車。
編成が改造後最初の全検を出場して、屋根の銀色が眩かった頃である。
本地点現況の樹林帯を抜けるが如くが惨状は諸兄もご承知のとおりで、通過する特急列車の車窓に築堤上と認識する旅客は皆無なのではあるまいか。今ではこの画角は望むべくも無い。前の伐採は、この列車が走り始めた1989年のことと記憶するので、以来四半世紀が経過した。
現況は根系による法面安定効果を期待した自然林の育成とは言いがたく、放置と呼ぶべきだろう。1987年の国有鉄道消滅以降、保線の基準は規程上に順次緩められ、最近の線路端の景観と云えば、迫る植生に辛うじて列車が潜り抜ける空間が確保される様相となり、幹線系線区とて軌框面に夏草が進出する有様である。植生による表層剝落防止機能を期待したには違いないにせよ、度を越した景観としか言えない。
当面に状況は変わらないと思われ、失われた撮影地点である。

=参考文献=
樹木根系の斜面崩壊抑止効果に関する調査研究 : 今井久(2008年)
植生による斜面安定効果の地盤工学的研究 : 稲垣 秀輝(2011年)

[Data] NikonF4s+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4+1/2 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.


次のページ

FC2Ad