
宗谷本線における塩狩峠は、塩狩の下り場内信号機手前の旭川起点28K130Mの施工基面高251メートルを最高標高として越えるもので、蘭留との標高差66メートル程、和寒とは111メートル余りである。双方とも最急勾配20パーミルが連続するものの、標高差の大きい和寒側で直線的に上ってしまうなど、さほどに山深い峠ではない。
けれど、塩狩駅は、国道40号線に近接し東側には農業施設が存在するにかかわらず、樹林帯にてそれらと隔絶され、山間の小駅のロケーションに在った。乗降場より一段高い位置にある駅本屋が、信号場としての出自を感じさせる。それでも、長い構内有効長と中線までも持っていた規模は、かつて樺太連絡の重要幹線にあって峠の頂上に位置した風格と言ってよかろう。
この日は、蘭留側に下った小半径曲線の連続する区間での撮影を予定していたものの、激しい降雪にそれを諦め、駅構内にて一日を過ごした。めったに乗客の来ない待合室で、ストーブの上に置かれた薬缶から上がる湯気の向こうに降雪を眺めるのは、それこそ至福の時に違いなかった。
写真は、塩狩を通過する303D<天北>である。
特急の設定の無い宗谷本線では最優等列車であり、<宗谷>と共に確かにその貫禄は備えていた。
連査閉塞が施行されて通票の授受はなくなっていたけれど、列車監視に立つ駅員の姿は運転扱い駅の証である。列車も速度を落とすこと無く、力行のまま構内を通過して行く。
上下線間からの撮影だが、この位置には使われなくなった中線が存在し、当時は撤去されていなかったと記憶する。
この頃、既にこの区間の蒸機運転は無くなっており、蘭留-和寒間での補機も一部貨物列車と編成の長い夜行<利尻>を除き廃止されていた。
[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

苗穂から北広島に至る千歳線の新線区間は、最急勾配を10パーミル、最急曲線をR800にて設計され、白石からの高架橋にて新札幌で既に上野幌と同等の施工基面高30メートルを確保して、椴山付近での63メートルのサミットに対して上野幌側では丘陵の尾根を突き刺す直線的な線形で高度を上げている。必然的にその谷には橋梁が架けられ、大曲B./保安林B./橋本B.と続く。
中でも、上野幌近隣の大曲橋梁は231Mの延長を持ち、長大編成列車を載せてその南北両側や直下の畑作地からなど様々な画角を提供してくれる被写体となっていた。
丘陵地が迫った位置への架橋ゆえ、どの方向からでも背景が空に抜けず、その丘陵の秋の美しさも特筆に値する。
しかしながら、電化後は橋梁東側の尾根先からは架線柱が煩雑で撮れなくなり、残念なことに、近年になって西側の熊笹の丘からも前景の樹木が成長してアングルの限られるようになってしまっている。
このポイントも同様で、この頃はまだパイプラインの埋まった草道だった旧線路盤から後方の斜面を登った位置なのだけれど、まもなくここに北海道ガスの北広島供給所が設けられ、失われてしまった。
列車は、8007列車<エルム>。
6月のこと、8両程度の組成と予想していたのだが、11両とあっては橋梁上に乗り切らない。もう、北海道は観光シーズンなのだ。
8007・8008列車<エルム>は、89年3月改正における<北斗星3・4号>の定期格上げに際して、それの後継として設定され、上り下りとも首都圏-北海道間寝台特急群のしんがりを勤めるダイヤも新たに引かれたものである。この予定臨のスジは、同列車の運転以外に同編成による団体臨や修学旅行等の集約臨にも利用された。
92年は春臨から冬臨まで<エルム>の最大運転本数を記録した年で、上下延べ291本の設定であった。これには、<カートレイン>のスジである
9009・9010によるもの(*)を含むけれど、集約臨や回送運転は含んでいない。
この頃には、予備車確保の関係上、品川運転所の24系25形や青森運転所の24系が組み込まれることがあり、白帯車の道内運転は、これ以外に例はない。(銀帯車は<カートレイン>運用車である)
(*) - <エルム81・82号>としての運転。特に冬臨設定は全てが、このスジであった。
[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8 1/500sec@f11 PLfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

函館海線の定番撮影地ゆえ、落部には幾度も下車したけれど、駅から海側に続く集落(と呼ぶにはやや規模が大きいが)に入ったことが無い。
その先に、この辺りでは規模の在る落部漁港の存在も承知していて、一度覗いてみたいとは思うのだが、果たせずに居る。
1903年に北海道鉄道がここに開通した際、海岸段丘上に敷設された線路は、それの途切れるこの区間を急勾配で地平に降りて通過していた。内陸への迂回は既に存在していた落部の集落を避けたものだろうか。あるいは、住民から忌避されたのかも知れない。ここへの駅の設置が開通の8年後であるのは、鉄道会社によるそれへの意趣返しと見て取れぬでもない。
アジア太平洋戦争末期、敗戦間際に開通した線増線は段丘下にルートを取り、内陸側への迂回に際して段丘を穿つ第一から第三までの落部トンネルが設けられた。
写真は、落部の構内を抜けて第三落部トンネルに向かう6003列車<北斗星3号>である。
6003・6004列車<北斗星3・4号>は、88年3月13日改正で設定の<北斗星>系統3往復にあって季節(多客期)運転の輸送力列車として位置づけられ、その組成は尾久客車区による
*B寝台車のみ6両編成を所定に、以下10号車までを需要に応じた1両単位での増結としていたが、6月17日の6003に始まる夏臨期の運転からは、所定を8両に改めている。<北斗星>3往復の、その運転開始以来の予想を遥かに上回る旅客需要ゆえである。
このため、6003・6004列車はこの夏臨期の設定以降、翌89年3月改正での定期格上げまで集約臨としての運転を含めて、ほぼ毎日され、特に個室寝台は寝台券の入手難が続いたことから、88年7月22日の相互発より尾久客車区/札幌運転所の予備車の活用により個室寝台車/食堂車の組成も行われた。
これにかかわる趣味的な興味は、追記に詳述している。
*B寝台車のみ6両編成を所定に - この記事では、その全てを電源荷物車を除いた両数で記述している。
この日の6003列車は、所定8両運行での初日である。とはいえ、オハネフ25が中間に入り、外見上は所定6両に増結2両と変わりはない。牽引のDD51も原色を維持していた頃である。
第三落部トンネルの上部となるこのポイントは、周囲が畑作地となっていてアプローチは容易である。そこを反対側に横切ることで、野田生側との両面打ちも可能であった。(ただし、牧草地の柵越えをしなければならない)
道南自動車道の建設で大型ダンプの通行がやかましかった2003年が最近の訪問だが、車窓からでは現在も展望は可能に見える。
[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC52Filter Tri-X(ISO320) 続きを読む

実は、この頃カラーネガでも撮っていたのである。
掟破りなので、番外編に止める。
まだ、自分の写真が定まらぬ頃で、当然カラー撮影にも魅力はあった。
ただ、それが当たり前であった時代に、自家処理の出来ないもどかしさと、プロラボでの手焼きなど知らぬ頃ゆえプリントでの発色に不満で、結局はモノクロに絞り込んでしまった。
加えて、フィルムにせよプリントにせよ、外注せざるを得ないそのランニングコストは遥かに高く附いたのである。
これは、前年の夏に続いて再び名寄本線へ遠征した際のカットである。
前の年には撮らず仕舞だった一ノ橋との間の天北峠区間がその目的で、この日の車窓からのロケハンでもめぼしいポイントは見つからなかったけれど、取り敢えずは勾配区間へと線路沿いを歩き始めたところで、この光景に出会った。
放牧地にあったカシワと思われる独立樹の木陰が印象的で、その移動する木陰の方向に合わせて、結局は一日をここで過ごしてしまった。
列車は、1691列車。この当時貨物扱いの在った小向を除く13駅に停車し、遠軽まで7時間あまりをかけて走っていた。
このフィルムには、コダック独自のフィルム名称を示す記号が無く、12987との乳剤番号のみ印字されている。現在につながるオレンジマスクは当時最新の技術で、発売されて間もないものと推定する。
現像直後から冷蔵庫で、その後に冷凍庫で保存のネガは、一部退色の見られるものの、カラーバランスの崩れも無く良好な発色を見せた。退色箇所も、データ上で十分に補正可能なレヴェルにある。(ここでは、あえて補正していない)
現在のフィルムスキャナは、ストレートなスキャニングでも高い彩度をとる傾向が在り、これでも、G系統Y系統の彩度と明度をかなり落としている。
[Data] NikomatFT+AutoNikkor5cm/F2 1/250@f5.6 Non filter Kodak unknown film (ISO100) Edit by PhotoshopCS3 on Mac. 続きを読む

羽幌線は、冬にばかりの鬼鹿に対して、初山別へは夏場にも通っている。それも、わざわざ最混雑期を選んで渡道していた。
その訳は、宗谷方面客車急行の増結運転もさることながら、夏の観光シーズンに運転されていた札幌-羽幌間の臨時急行<天売>が、この旧盆時期に限って羽幌以北を延長運転するゆえであった。そのキハ56/27による4両組成は、この頃ここでの最長編成である。
深川からでも130kmの初山別はスケジューリングの難しいところで、定番は札幌からの<利尻>を早朝の幌延で捨て、羽幌線の上り始発へ乗継ぐことだった。これなら、上りの急行<はぼろ>から撮影に入れるのだ。
ここでのポイントとなれば、
初山別 (羽幌線) 1977で記事化した通称-金駒内陸橋となる。
羽幌線をこのあたりまで北上すると、鬼鹿近辺での海岸段丘上の低木は姿を消して一面が熊笹に覆われる。しかも、それは強風のせいか丈の伸びず、視界を遮ることなく登坂の妨げにもならない。段丘上のいずこも撮影ポイントになり得るのだった。
写真は、金駒内川河口で隔てられた北側の段丘上部から撮っている。ここからだと金駒内陸橋の全長を見通すことが出来た。振り返れば、海岸段丘の迫る海岸線が緩く弧を描きながら遥か彼方へと視線を導き、その先に利尻岳を微かに認める。盛夏とは言え日本海を渡り来る風に秋風の冷たさもあって、熊笹の揺れる音を聞きながらの長過ぎる列車間隔は心地よい時間だった。
列車は、もちろん目当ての8803D<天売>である。札幌から滝川までは401D<狩勝1号>に併結、上りの8804Dは全区間単独運転と記憶している。
キハ22が2両か単行で走るこの区間でのキハ56/27は、それだけで優等列車の貫禄十分である。
しかし、天売島/焼尻島への観光客輸送の主体は、とっくに冷房の効いたバスに移っており、この列車の設定もこの翌年が最期となった。
余談だけれど、羽幌線はここよりさらに北の遠別付近で車窓に水田を見る。北緯44度43分。稲作の北限と言うが、熊笹の丘と牧草地との共存は不思議な光景だ。
[Data] NikonF3P+Ainikkor180mm/F2.8ED 1/500sec.@f8 FujiSC44filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

塘路の崖である。
細岡 (釧網本線) 1984でも触れたように、釧路湿原の俯瞰ポイントを探していた頃に、ここの存在は車窓からのロケハンで承知していたけれど、その見るからに急峻な斜度に登坂を躊躇していたものだ。
それは塘路で下車すれば、その乗降場からも地肌の露出して屹立した斜面として遠望出来た。
その直下に立ってみれば、土砂の崩壊跡とも見て取れず、草木の無い理由はわからなかった。
比高は40メートル程度、下部からして、その斜度は45度を越えると思われ、上部ほど傾斜の増すのが見て取れた。山屋の経験から言えば、それは登摩具なしでの登坂の限界である。
土の露出のところどころに植生の部分があり、そこへ到達すれば急斜面で身体を支え、機材をセッティングしての撮影は出来そうに見える。セオリーにしたがい、バックパックのウェストベルトを外し、ショルダーストラッブを伸ばして重心を下げて登摩を開始した。斜面をトラバースしながら徐々に高度を上げざるを得ないのだが、斜面側に重心を寄せながらのそれは、恐怖の一言であった。最後は、斜面を這うようにして到達した。
そこは、それだけの価値はあり、眼下にエオルト沼、マクント沼、ポント沼をはじめとする大小の湖沼群と釧路川本流を見て、塘路湖を最遠部まで遠望するポイントであった。
ここには、季節を変えて都合4回登っている。2回目以降はストックを2本持参した。
列車は、混合644列車、網走行き。この頃には貨車の連結されることはほとんど無くなっていた。
さて、写真をご覧になって気がつかれた方も多かろうと思う。そうなのである。
後年になって、この丘陵に「サルルン展望台」が開かれ、そこから標高79.1mの三角点へも容易にアクセスが可能となっている。その三角点こそ、この崖の真上にあたるのである。
そして、2001年に列車からの現認で、ここは樹木に覆われた緑の斜面となっている。旧に復したと言うことであろう。夢の跡である。
[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@F8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

七飯浜から上磯で函館湾に開口し、峠下に尽きるまでの緩やかな斜面を大野平野と呼んで良いのだろうか。
函館周辺の都市化の進む70年代まで、ここは豊かな土地で、田地や畑作地の広がる中に、こんもりとした小さな森が点在して、横津岳、七飯岳、木地挽山、雷電山などに三方を囲まれた風景を、連絡船から乗継いだ急行列車の、軽快なエンジン音で車窓に見るのが好きだった。
また、ここは季節風の吹く頃になると江差から厚沢部を経て木地挽山への雲の通り道にもあたり、晩秋には時雨の、冬には降雪の日が多い。遠く函館山に日射しのあるのを雨天の七飯岳中腹から何度も目撃したし、積雪も函館市街地を遥かに上回る。
七飯からの藤城線の高架橋を、この平野と函館湾を背景に撮れぬものかと考えたことが在る。今でこそ、桜町団地の造成や城岱牧場への旧道にあたる町道桜町8号線の函館新道建設にかかわる整備にて、そのポジションをとることは容易で、同じく上藤城8号線(通称-城岱スカイライン)の開通により、より高度のある俯瞰も可能になっているけれど、この80年頃には、国土地理院の五万図であたりをつけて現地を歩き回ったものの、適切なポジションは見つからず仕舞だった。
写真は、その中で最初に到達したポイントで、城岱牧場への旧道に入って右手の畑作地の斜面を登ったところにあった。
しかし、ここからだと高架橋の曲線の内側に入り過ぎて背景に海面は望めないのだ。送電線の保守用の草道を、より上へ左へと辿っても、そこは樹木に遮られて見通しはなかった。
列車は、3053列車。隅田川から青函7便での航送を経て札幌貨物ターミナルまでの特急貨物列車Aである。Aの区分は、最高運転速度の100km/h指定を示し、それに対応したコキ/コキフ10000系列のコンテナ車で組成されていた。
この当時、2往復が設定の首都圏-北海道間特急貨物列車Aに専用された隅田川駅常備の同系列貨車は、緩急車車体後部には北海道の地図をかたどったマーキングが入れられ、3051・3050が<北たから>、3053・3052が<北海>の列車名を名乗っていた。
もっとも、100km/h運転は、ブレーキの電気指令と増圧装置を装備したEF65 1000番台およびED75 1000番台の重連に牽引される東北本線内のことで、最高運転速度95km/hのDD51には無縁ではあった。
首都圏-北海道間のフレートライナーは、1968年10月の改正で設定のコキ/コキフ10000系列による3051・3050を嚆矢としており、同改正での東北本線の全線複線電化完成、道内のコンテナ拠点駅たる新札幌(1973年7月16日に札幌貨物ターミナルと改称)の開業にて実現した。
青函航路にワム車換算48両の積載で等速運行可能な津軽丸型客載車両渡船-7隻が67年度までに配備完了したことも背景にある。最大18両組成のライナー列車の一挙航送が可能となっていた訳である。
道内への→
函館・室蘭線への最初のDD51の投入は、これの重連牽引を目的としていた。
同区間へのライナー列車は、その後、1972年3月改正にて2往復、1973年10月改正で6往復、1976年10月改正でさらに1往復と増発が続けられて行く。これらには、コキ/コキフ50000系列による特急貨物列車BおよびCが含まれる。
1972年3月改正の増発以降は、最大組成を16両として東北線内(補機使用区間を除く)、道内での重連運転を解消した。
なお、本州線-北海道間のコンテナ列車は、フレートライナー以前からもコキ5500系列を使用した急行貨物列車として運行が行われている。
さて、このポイントは、間もなく耕作を中止して永らく放棄された後に、函館新道の建設工事にて切り崩され現存しない。
[Data] NikonF3HP+AiNikkor200mm/F4 1/250@f11 NikonO56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

苗穂の札幌に対するポジションについて、以前に書いたことがある。
苗穂 (函館本線/千歳線) 1992その隣駅白石も、73年9月の千歳線接続に際して、苗穂同様にその前後で函館/千歳線の上下線それぞれが相互に連絡されていた。複々線を効率良く運用するに不可欠の配線であるが、その使用法は苗穂といささか異なり、
*構内南側の札幌貨物ターミナルと東札幌への連絡線を各線に接続させる必要上からであった。例えば、この当時存在した倶知安や小樽築港からの貨物列車を札幌貨物ターミナルへと、また千歳/岩見沢方面からのそれを東札幌へ入線させるためである。
また、それらと
*機関区所在の苗穂との間に単行機関車列車の運転が頻繁に設定されていた。
*構内南側の札幌貨物ターミナルと東札幌への連絡線 - 1968年10月1日の新札幌(1973年7月16日に札幌貨物ターミナルと改称)の開業に際して、白石-東札幌と白石-新札幌に函館本線の貨物支線として設けられ、1973年9月9日の千歳線の白石接続、札幌貨物ターミナルの厚別/新札幌通路線開通まで、その唯一の連絡線として機能した。白石-札幌貨物ターミナル間は同日付にて廃止されたが、線路は現在も白石の構内側線として健在である。
白石-東札幌間は、東札幌の廃止とともに1986年11月1日付にて廃線となった。
*機関区所在の苗穂 - 札幌貨物ターミナルに乗務員区/機関車検修施設が併設されるのは、札幌駅構内に在った札幌客貨車区を改組/移転して白石運転区として発足する1986年11月1日のことである。1987年4月に日本貨物鉄道に承継され、札幌機関区となった。
それらの廃止後も温存された設備は、1992年の新千歳空港連絡快速列車の頻発運転の開始以降、苗穂の持っている札幌の着発線使用方にかかわる機能の一部の負担に使用されるようになっている。加えて、この際には
*千歳上り線に待避線も設けられた。
中でも乗降場旭川方に設置の函館本線上り線と千歳線上り線間のシーサスクロシングは常時稼働し、札幌に向かう函館/千歳線列車の一部を相互の差替えている。主には千歳線から函館線への転線だが、その逆も在って、函館線列車の同線優等列車への退避も可能である。
札幌から同駅まで続く複々線区間の使用方において重要な地位を占め、それは苗穂を介して札幌の着発線の使用方までも規定しているのである。
*千歳上り線 - 同線下り列車運転線。ここでは、施設上の基準に従い苗穂を千歳線の起点として記述している。
この駅の特異性は、こればかりではない。閉塞上きわめて長い構内延長を持つのである。それは、函館方の下り場内信号機にはじまって、函館線は厚別の下り場内信号機まで、千歳線は新札幌の出発信号機(白石第四出発信号機である)に至るものである。千歳線では棒線駅の平和/新札幌、そして札幌貨物ターミナルを含んで5kmを越える。
これは、この区間で札幌貨物ターミナルへの通路線が分岐していることによる。手動閉塞の時代ならば、当然信号場が設けられたが、自動信号とあってはそれを回避したものである。千歳上り線ならば新札幌手前から白石の場内信号機が連続するが、通路線分岐外方の白石第三場内信号機を除き、それは実質的に閉塞信号と変わりはない。
写真は、雨天下に苗穂方から白石構内に進入する 2列車<北斗星2号>である。既にDD51には塗色変更機が投入され始めていたけれど、この日は重連の2両とも原色機であった。
白石の構内も配線変更のなされる以前で、現在ではこの位置に立てない。
9月も秋分を過ぎて、札幌は秋へと傾く冷たい雨だった。
[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

国土交通省は、北海道新幹線の新函館以北区間の工事着工に、この2012年5月にも認可の方針と聞く。
工期が予算配分から24年にも及ぶと言う、およそ現実離れした実施計画だ。工事は全区間で均一に進むでなく、早期に完成した路盤や隧道、橋梁はその間放置され収益を生まぬ訳だから、まだまだ政治のカラクリの潜んでいそうな様相だ。着工後の見直しは必至と思う。
四半世紀後の函館本線が、どのような姿か想像もつかぬが、ともあれ開業に際しては新函館・七飯-小樽間が並行在来線として北海道旅客鉄道から経営分離される。同社の着工同意は、これを前提にしている。沿線の関係地方自治体もおおむね同意の方向だが、温度差はかなりありそうだ。
貨物の動脈でもある海線区間はまだしも山線区間の鉄道維持は困難をともなうだろう。
現位置に新幹線駅の予定される倶知安を筆頭にしたニセコ地域と、小樽/札幌への通勤通学需要のある余市町/仁木町でのそれには大きな開きがあり、両町の同意は渋々に違いない。
開業後の倶知安-札幌間の所要時分は15分程度と聞き及ぶ。リゾートはおろか、札幌のベッドタウンに十分な時間距離である。対して、余市町/仁木町では小樽まですらバス利用にて1時間を覚悟せねばなるまい。
そもそも、86年の優等列車廃止以降、新幹線に転移するとされる優等旅客のいない山線区間が果たして並行在来線と呼べるものなのか、甚だ疑問ではある。
この延伸に際しては、函館から18キロと言う空港より遠い新函館の位置による道内輸送機関としての適格性も問われる。
九州新幹線の成功は在来の鹿児島中央駅へ乗り入れてこそである。これには、新函館開業時に在来線との接続をホームタッチにするとの報道に答えを見て取れる。報道内容はここまでだが、札幌延伸後にホームタッチの在来線を改軌すれば新幹線列車の函館発着がかなう訳だ。おそらく自治体関係者にはここまで伝達されているのではないか。道や函館市が江差線の維持に転じたのは、このあたりにカラクリがありそうだ。
写真は、再びの日本で一番有名な踏切、「北4線踏切」である。
倶知安 (函館本線) 1982ここに達する農道は冬期に除雪されない。この日はワイス温泉からのバス移動であったゆえ、国道上のバス停留所からの移動は覚悟していたものの、無雪期の5分に対して30分以上を要してしまった。それでも、倶知安駅までバスに乗り、線路伝いに戻るよりは早かったはずである。
列車は、荷41列車札幌行き。3両の旅客車は函館からだけれど、その客扱いは森以北である。
倶知安を出た新幹線は、北に直進して高見付近で倶登山川を渡り、末広あたりで二つ森トンネルに入る。
その頃、列車の来なくなったこの位置からは、画角の遠く左右方向にその高架橋を見るはずである。
[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

仕事写真では必需品であった可変焦点レンズだけれど、鉄道の撮影では使用していない。全て単焦点である。これは今でも通している。
焦点可変であるがゆえに、フレーミングの選択肢が無限に在って、その決定が曖昧になってしまうのが最大の理由だ。
何があっても編集者なりクライアントの意図に沿った写真を持ち帰らざるを得ない仕事写真とは異なり、趣味の写真である。画角の決定に迷うくらいなら、単焦点の与えられたそれでフレーミングを楽しみたいと思っている。
鉄道を撮り始めた頃から70年代はじめまでに、ニッコールには既に7本程の焦点可変レンズがラインナップされていたけれど、いずれも報道分野を意識した高価な高倍率の望遠系で、でなければ単焦点が当たり前の時代であり、それを装着して、自分が動きながら、あるいは被写体との距離を予測しながら撮影位置を決定しフレーミングする、それがセオリーである。もう、身にしみ込んでいる。
曲がりなりにも職業カメラマンの仲間入りを果たすと、限られた時間でカットを稼がねばならず、かなりの無理をしてニッコールの定番だった「よんさんはちろく」こと43-86mmに、80-200mmを導入し、後には先輩から50-300mmを安く譲ってもらい使っていた。
ただし、ニッコールと言えども、これら可変焦点レンズの画質は単焦点には遠く及ばず、当時の新聞や雑誌グラビアの印刷レヴェルにあってこそ機能したものだ。B5判の見開き指定ともなれば、当時のフィルム性能もあって6×6判の領域であり、35mmなら間違いなく単焦点を選んだ。
印刷技術の急速な進歩にあって、ニッコールに使える可変焦点レンズの登場するのは、1982年の‘Ai-Zoom80-200mm/F2.8ED’を待たねばならず、それは恐ろしく高価でもあった。
ニコンは、引き続き可変焦点を報道用の特殊レンズと見ていた傾向があり、85年からの10年間は、その開発すら止ってしまう。
今もそうなのだが、蒸機撮影時代からの習慣(?)で、三脚上にプレートを介して二つの雲台を準備し、メインとサブのカメラをセットする。時にはどちらもメインだ。
2台使用なので、可変焦点レンズを導入しても機材全体の軽量化にはつながらない。これが、単焦点に拘る消極的なほうの理由である。むしろ重量化する可能性すらある。
カメラとともに買い与えられた50mmと135mmに始まって、このモノクロ撮影時代に持ち歩いた単焦点レンズは、28/50/85/105/135/200mmの各焦点距離である。50mmはf2からf1.8とf1.4を、105mmもf1.8とf2.5を使い分け、200mmは後で180mmに差替えている。画質に不満でZEISS社のDistagonをアダプタを介して使っていた28mmを除けば、全てニッコールである。300mmは必要に応じて仕事用の機材を持ち出していた。
このラインは、機材の買替えはあっても、リバーサルフィルムを経てディジタル撮影の現在も基本的に変わっていない。Distagonの28mmがNikkorの24mmに入替わり、逆に50mmがPlannerのZFになって、COLOR-HELIARの75mmが加わり、135mmが外れたくらいだ。
不思議なのは300mmで、リバーサルも併用するようになって急に装着頻度が上がった。自分でも理由が良く分からない。大きくて重い仕事用のf2.8に替えて、f4を導入して持ち歩くようにしていたのだが、やはり明るさと画質に不満で、その頃最も全長の短かったTokinaのATXに替えた。これならバックに立てて収まるのだった。
ニッコールの広角系は、35mm/F1.4のような名レンズもあるのだが、24/28mmに関しては今一つの印象であった。画面のディストーションがまとまらず、なにより周辺部での崩れが大きかったのである。
これがどうしても気になっていた頃、78年頃と記憶するが、Contax RTS向けに発売されたのがDistagon 28mm/F2.8だった。同じ頃にContax-Nikon間のマウントアダプタの存在も知り導入を決めたものだ。その描写は素晴らしいものだったが、アダプタを介した撮影には種々の制限があり、オートフォーカスの時代になって劇的に改善されたニッコールに再交代した。
写真は、天北線の急行<天北>に組成されたキロ26 201の車内である。3番の座席付近から前位側の客室妻面を見ている。Distagon 28mm/F2.8による描写は、カメラ位置さえ的確なら歪みを感じさせず(実際に無いのだ)、絞り開放でも周辺部まで破綻の無いものだ。
キロ26201 は、1967年度三次債務予算にて新製の同系列における最終増備グループに属する。キハ56/27であればパノラミックウィンドウを装備したグループである。この時点では、20年に満たぬ経年なのだが、かなり老朽化して見えた。
1月半ば過ぎのこの日、南稚内から旭川までの乗客は自分を含めて3人であった。
[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 1/125sec@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320)
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