"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

稀府 (室蘭本線) 1996

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現在の伊達市域、かつての有珠郡を構成した有珠・長流・東紋鼈・西紋鼈・稀府・黄金蘂の各村は、道内でも有数の藍の産地であった。勿論にタデ科イヌタデ属に分類される植物であり、藍染に用いられた「藍」である。
道内への殖民は自給作物ばかりでなく、同時に開墾地の経済的自立に商品作物の生産を要して、それの内地からの移植も推奨され、そのひとつが当時に全国的需要も大きかった藍だったのである。
1870年に始まる奥州伊達藩の支藩亘理藩の集団移住による開墾が知られるこの地においても、1874年には作付けが行われたとの記録があるが、藍作ばかりでなく、それからの染料生産(製藍)までも含めて本格化するのは、徳島県からの団体が長流村に入植した1883年以降であり、1887年の有珠郡における作付け面積の100町歩あまりは、1889年には道内作付け面積のほぼ半分にあたる400町部に迫らんとし、1900年に最大の560町歩に達した。中心域は当然に長流村と隣接する西紋鼈村に属した長流川の沖積平野であった。

この有珠地域での藍作の盛期最中の1895年頃、黄金蘂村に所在した田村農場への入植者に篠原茂次郎がいた。彼も徳島県板野郡川内村出身ではあったが、一家を挙げての幌別郡幌別への移住が不作により失敗に終わり、1年間の単身賃金労働を経てのそこへは知人の伝手を頼った小作人としての再入植であった。長流村への徳島団体との関わりはなく偶然と思えるが、吉野川河口地域と云えば、かつての製藍地帯と重なり、茂次郎自身も葉藍を染料に加工する際の発酵過程を管理する「水師」の技術者でもあったらしく、ここでの藍作隆盛を聞き及んでに違いなく、田村農場から牛舎川左岸に9町部を借り受けた茂次郎は、入植直後から藍作に取り組んだとされる。
茂次郎の幸運は、再入植直後から藍の価格が上昇し、1900年には一番藍が10円から25円の高値を記録したところだろうか。「水師」の技術を活かした自家藍製造に止まらず近隣農家作付けの製藍も引き受け、さらにはかつての藍取引の経験から内地に販路を開拓する藍商としての性格も帯びて経営規模を拡大、1910年には西紋鼈村と稀府村に10町6反部の土地を取得して自作農化するのだった。藍による蓄財を以っての篠原家による土地集積は以後1920年代に掛けて続き、その小作地は壮瞥村も含む有珠郡一帯に及んで、1933年の統計による67町部は有珠郡で四番手の地主であった。

ここでの興味は、これだけの地主に成長しながら、茂次郎は所有者が代わり高橋農場となっていた牛舎川左岸の土地に関しては、小作人で在り続けたことである。理由はわからない。農場が下げ渡しに応じなかったものか。おそらくはそこが藍作に適し、製藍の作業場も所在したのだろうけれど、何よりも成功への基盤となった藍作の土地だけに愛着も感じていたのかも知れない。
けれど、このことが戦後に再び茂次郎に幸運をもたらす。農地解放政策により、経営した有珠郡一円の土地は没収の憂き目に会うのだが、ここだけは逆に自作地として保有が叶うのである。戦後の篠原家は、この9町歩での葉藍生産に加え、周辺に自作地として買い求めていた稀府の5町歩の畑、北黄金の3町3反の水田で営農を続けた。しかしながら化学繊維の出現と普及は藍染め産業にも壊滅的打撃を与え、1960年代半ばまでに藍作農家は篠原家を残すのみとなり、それも1972年に至って途絶を余儀なくされるのだった。

写真は、長万部起点62K700M付近に所在した踏切付近での3059列車。
背景は勿論有珠山である。今に定番化している位置なのだが、廃止された踏切名称は失念した。

篠原家の藍生産は、折からの工芸としての藍染めブームと当時の当主茂氏の熱意により1980年に再開され、現在にも茂次郎入植以来の土地で9町歩ほどの作付け面積ではあるけれど継続されていると聞く。
そして、篠原家は21町歩の畑を経営する大規模農家である。その営農地は今も列車背後に見える樹林の向こう側一帯に所在している。

=参考資料=
新稿伊達町史 : 伊達町 1972
伊達市史 : 伊達市史編纂委員会 1994
北海道農業発達史 : 北海道立経済総合研究所 1963


[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter EPP Edit by LightroomCC on Mac.


礼文 (室蘭本線) 1994

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2011年3月11日に発生した「平成23年東北地方太平洋沖地震」では、茨城県水戸市も震度6弱にて揺さぶられ、千波湖南方の丘陵地に所在する実家でも、その長く大きな揺れに在宅していた老親は「庭に這い出るのが精一杯」の有様だったらしい。石燈籠の上部が滑り落ち、石積みの門柱も崩れるなどし、建物室内では壁面の装飾が落下したのだが、不思議なことに家具の倒壊は起こらず、隣戸で生じた造成地盤のひび割れや崩壊も見られなかった。
当時に健在だった親父は、造園から30年を経て地中一面に伸びきった庭木の根により地盤が強化されたゆえとの推定を披露していたものだが、確かに庭木で1番の高木がブンブンと音を立てて振れたと聞く揺れにも、地盤は健全であったし、建物基礎も数カ所に小さな亀裂を認めるだけではあった。

親父の自慢話はシロウト考えに過ぎないけれど、林学の分野において植物の根系による地盤安定、特に斜面に対する崩壊抑止効果は古くから経験的に知られ、研究テーマだったようである。それは主には治山や人工林育成の要求からだろうが、土木関係の研究者や技術者たちにも共有されたものと思う。
ただし、その効果を定量的に捉えられるよう研究の進んだのは、ごく近年のことであり、樹種による根系の土中分布特性別に根系の繊維強度や剪断耐性、引き抜き抵抗力などがモデル化され、一般的な崩落発生深度とされる表層から2から3メートルに対して、斜面安定効果が確認されるに至っている。

しかしながら、鉄道や道路建設などおける盛土や切取法面の安定対策は、即効性から古くは石積にカゴ工、近年に至ればコンクリート張や吹付けコンクリートなどの構造物工が主流であり、勾配の緩い斜面なら金網張や柵工にて植生基盤を確保することはあっても、それは植物の早期育成を図っての表層部の剥落防止が目的であり、根系による土圧への抵抗を意図したものではなかった。
したがって、経年に植生が自然林の様相を呈するに至れば、通行路の確保や信号見通しなど安全面から、定められた保線基準に従って定期的な伐採が行われるのが通例であった。

写真は、噴火湾岸を東西方向に貫く礼文華山トンネルからR=603で南転する盛土築堤を駆け下りて往く8002列車。
編成が改造後最初の全検を出場して、屋根の銀色が眩かった頃である。
本地点現況の樹林帯を抜けるが如くが惨状は諸兄もご承知のとおりで、通過する特急列車の車窓に築堤上と認識する旅客は皆無なのではあるまいか。今ではこの画角は望むべくも無い。前の伐採は、この列車が走り始めた1989年のことと記憶するので、以来四半世紀が経過した。
現況は根系による法面安定効果を期待した自然林の育成とは言いがたく、放置と呼ぶべきだろう。1987年の国有鉄道消滅以降、保線の基準は規程上に順次緩められ、最近の線路端の景観と云えば、迫る植生に辛うじて列車が潜り抜ける空間が確保される様相となり、幹線系線区とて軌框面に夏草が進出する有様である。植生による表層剝落防止機能を期待したには違いないにせよ、度を越した景観としか言えない。
当面に状況は変わらないと思われ、失われた撮影地点である。

=参考文献=
樹木根系の斜面崩壊抑止効果に関する調査研究 : 今井久(2008年)
植生による斜面安定効果の地盤工学的研究 : 稲垣 秀輝(2011年)

[Data] NikonF4s+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f4+1/2 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.


恵比島 (留萠本線) 1972

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留萠本線が雨竜山地を越えるサミットは、恵比寿トンネル入口やや手前の深川起点22K413Mにあって、その施工基面高は89M00である。峠下の34M30からなら比高55メートルを登坂するところとなって、運炭鉄道の使命からの10パーミルを最急勾配とする縦断面設計には延長6キロ弱を要し、R=260で180度を反転する2箇所の馬蹄形曲線が挿入された。
後補機運転もあった深川-留萠間の撮影地点としては、これ以外には考えられない線形に違いなく、五万分の一地形図の恵比島図輻にも眺めていたものの、羽幌線行きに幾度か通過した車窓のロケハンの限りには、サミット付近から恵比寿トンネルを経て峠下トンネルの先まで、馬蹄曲線の大半が両側を防雪林に囲まれて引きが取れないことも承知していた。
とは云え、現地を歩けばなんとかなるだろうと峠下に降りたのは72年の暑い盛りの頃だった。深川に夜行を捨てての始発列車での到着は、同年春の改正で朝の770列車と夕方の776列車になっていた上りの後補機運転は、後者の本務機が9600とあっては狙いは当然に前者に絞られたからである。
さて、その成果は、と云えば見事に「負け」である。案の定に線路端から離れられず、編成越し後補機を見通すなど無理な相談には時間切れで、手持ちのスナップが関の山なのだった。
仕方なく、峠下トンネルの先で交差していた旧道を辿って恵比島側に抜け、変哲もない風景に同じく線路端写真に終始したのが、この夏の日と覚えている。

写真は、西陽を浴びて峠に向かう775列車。この頃に稼働が2両となっていたD61が牽いて来てくれたのが、せめてもの救いだろうけれど、線路端は止む無しとしても、画角選定の拙さは、これもおそらくは立ち位置を探すうちの時間切れカットと思われる。
後年に先達諸兄の記録に知るのだが、峠下側に後補機までを見通す地点はあったのである。件の馬蹄形曲線区間と思いきや、その立ち位置は峠下から山裾に沿って次第に高度を上げながらそれの築堤に取り付くまでに存在したのだった。
初心者の思い込みのせいには違いないとは思うものの、未だに心残りのひとつではある。

[Data] NikonF+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.


苗穂 (函館本線/千歳線) 1999

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もう3年ほど前になるが、札幌 (函館本線) 1970 から数回に分けて苗穂駅史擬きの駄文を連ねたことがある。
そこでは、1965年9月25日の札幌-苗穂間3線運転化に際して苗穂に増設されたのが現5・6番ホームであり、(1994年の留置線設置にて失われた)旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置であるとした。閲覧した資料や工事盛んな当時に幾度か苗穂を通過した際の記憶を辿っての記述だったけれど、その後に新たに閲覧した資料もあり、シリーズの補遺とする。

まずは、「旧3・4番線ホームが1910年の開設時からの乗降場位置」との記述は検証不十分につき、少なくとも「1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」と訂正するが、これも実は正確では無い。この乗降場自体も躯体としては1965年の乗降場増設の際の新設なのである。
とは云え、戦前期からの島式乗降場の南側に接し、それを取り壊して設置の旧3・4番ホームでも、その南側に接するところとなった、函館千歳上り線から千歳上り線専用に転用の線路番号での3番線(工事前には5番線)の線路中心線は、同工事で動いていないと判断される。これの本屋側には函館・千歳線それぞれの副本線や貨物操配線が隣接しており、それらが駅機能上に不可欠であった当時に移設は困難だったゆえだろう。(貨物操配線は寧ろ1線が本工事で増強されている)
よって、「旧3・4番線ホームが1935年の構内貨物設備増強時点以降の乗降場位置」は、前記の通り正確では無いにせよ、あながち間違いでも無いことにはなる。
加えて、かつての島式乗降場とは凡そ10メートルの幅員を持っていたことも知れた。増設による島式2面化は、貨物操配線への影響を極力避け、その用地を最大限に活用することで為されたのである。小樽方面・江別千歳方面ともにホーム幅員が狭小気味だった事由として納得する。

工事は次の手順と推定される。
1, 北側の貨物操配線の1線を函館下り副本線に転用して、新7番線とする。
2, 旧7番線を新6番線として、これに接してホームを新設、片面使用にて函館線下り列車に扱いを開始する。(ただし、一部旧6番線が支障する位置があっただろう)
3, 使用停止した旧6番線を撤去、既存ホームの同線側も崩して、新設ホームのもう片面を築造の上、これに接して新5番線として函館上り線を移設。これにて増設ホームが竣工する。
4, 続いて、既存ホームを全撤去して増設ホームと同形態のホームを、位置の変わらない旧5番線に接して設置、これを千歳上り線(新3番線)とする。
5, 同ホーム北側に接して新4番線を新設、千歳下り線とする。
(番線表記は、
苗穂 (函館本線) 1991 の記事を参照していただきたい)

札幌からの斜路を駆け下り苗穂場内に進入する8010列車。
苗穂5・6番ホーム先端からの画角自体は幾度もの既出である。春分あたりから秋分過ぎまでなら、低い光線が夕刻の上り特急寝台列車の深い屋根を照らし出してくれた位置ゆえ、渡道の度の定番位置だったのだが、苗穂新駅工事に支障するものか、同ホームの短縮化により失われてしまった。
8010列車の16時10分過ぎとは難しい時間帯で、もっと暮色のイメージが欲しいところなのに、それの得られる11月初旬を待てば、日没方向はより南へと移動してしまうのだった。

=主な参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
札幌駅八十年史 : 日本国有鉄道札幌駅八十年史編さん委員会, 1960
北海道建設業協会100年史 : 北海道建設業協会 2016
札建工業五十年史 : 札建工業株式会社 1992


[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/125sec@f4 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.


細岡 (釧網本線) 1985

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北海道鉄道網の骨格路線を定めた『北海道鉄道敷設法』(1896年5月13日法律第93号)の第2条には、「石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐵道」が規定されていた。これは同法の制定意図から将来に幹線と位置付けられた路線と見て良い。公布後、直ちに道庁に置かれた臨時北海道鉄道敷設部による調査が行われ、この鉄道は第1期線に位置付けられたのだった。
経路中の厚岸は当時まで道東の拠点であった故だが、釧路川水運によりヒンターランドを確保した釧路が厚岸を凌ぐ経済的地位を確保すると、1919年の『北海道鉄道敷設法』改正にて(1919年3月25日法律第21号)、太平洋岸とオホーツク岸連絡線は短絡を意図して釧路から網走間と改られ、ここに後に釧網本線となる路線が確定したのである。
とは云え、釧路側の泥炭地帯(釧路湿原)の通過には難工事が予想され、二つの経路が比較・検討されるところとなっていた。釧路川の右岸と左岸の経路であり、当然ながら双方とも台地の縁を縫う線形が調査されていた。
実現しなかった右岸線を乏しい資料から推察するに、後の新富士付近の大楽毛方から分岐し、温根内までは1926年に開通した殖民軌道雪裡線とほぼ同経路、右転して温根内川・雪裡川の低湿地を築堤して渡り、宮島岬・キラコタン岬に隧道を穿って通過し下久著呂付近から標茶に至るもの、即ちは現在の道道53号から243号線に類似ながら、より泥炭地側の経路とされていたと伺える。
新富士-標茶間調査路線は、およそ50キロ余りの延長と推定され、それは東釧路(当時に別保信号場)-標茶間を上回るのだけれど、泥炭地への路盤構築距離は短く、現行路線が軟弱地盤への施工に難航し、工費・工期とも当初予定を大きく超過したことからは、ずさんな調査・見積りによる選定だったとも思える。開通後も、この現行線は激しい凍上や法面崩壊に悩まされ、洪水時の路盤水没からの一部線路付け替えなども生じたから、尚更の感がある。
にもかかわらずの左岸選定は、結局のところ釧路でのスイッチバック運転の回避だけだったのではなかろうか。

細岡から中の沢川流域の湿原陥入部を渡る築堤区間へと差し掛かる5691列車。東鹿越-中斜里間の指定運用による石灰石輸送列車の、これは返空回送であった。
写真の頃には湿原の乾燥化も進んでいたけれど、ここへの築堤構築も難航したに違いない。丘陵の裾に張り付けた区間が多かったとは云え、別保信号場-細岡間の1メートル当りの竣工単価は21円81銭と記録にある。釧北隧道掘削を含む上札鶴(現緑)-川湯(現川湯温泉)でも22円60銭であったから、如何に工費を浪費したかが理解されよう。細岡から塘路間に至っては50円82銭であった。

ところで、写真の背後には細岡駅周辺に所在していた集落が写り込んでいる。現在では全てが失われた。2010年国勢調査ではトリトウシ原野南4線の居住者は1世帯2人であった。さて、昨年の調査結果ではどうだったのだろうか。

=主要参考資料=
釧網線建設概要(1931年 鉄道省)
日本鉄道史(1921年 鉄道省)
鶴居村史(1966年 鶴居村)
北海道交通史(1950年 梅木通徳)

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


鬼鹿 (羽幌線) 1977

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ニシンの生態に関する学術研究が本格化するのは1900年代以降であった。勿論、それが資源と認識されてのことであり、かつては新潟でも大量に漁獲された北海道樺太系群のニシンが奥羽地域北部からも去り、この頃には未だ大漁の続いていた北海道西海岸での資源確保が喫緊の課題されたゆえであろう。
漁業者に伝承は残されていたと思われるが、古文書の解析からその資源量の長期的な周期変動が裏付けられ、西欧での研究を取り入れた調査では、卓越年級群の出現頻度がその動向を左右することや、その出現は低く推移した海水温が関係すること、幼魚の生存には好適かつ豊富な餌(ブランクトン)との遭遇を要することなどが明らかとなった。
現在に至るまでには、さらに深度化された研究の続けられ、種として見ればニシン資源はマイワシやスケトウダラの資源量変動と逆相関にあること、それは地球規模の海洋環境に連動することが知られるが、産卵海域にて区別される系群単位では、やはり卓越年級群の発生状況により変動し、それは卵から稚魚期における生き残り数に左右されることが、より明確にされて来ている。
けれど、年級群の資源量にも当然に関係するはずの海洋環境の変動との相関のメカニズムには研究者間に諸説あって定説には至っていないと云う。
よって、1887年の97万トンをピークに増減を繰り返しながらも漸減し、1920年代半ばに減少傾向が明らかとなり、1950年代には壊滅的となった北海道西海岸における北海道樺太系群のニシン資源についても、消滅に至る事由が解明されたではない。プランクトン組成が変容した結果とは明らかでも、海洋環境が如何様に影響したかに説はあっても確証は得られぬのである。20世紀初頭ともなれば、漁具の改良や漁法の革新などによる著しい漁獲量増加の人為的要因も無視できぬに違いないが、これがどのように影響したものかも仮説の域を出ていない。
留萌郡鬼鹿村を含む石狩北部から宗谷に至る沿岸での鰊漁の終焉は1955年と記録されている。青森西海岸・渡島地方での1912年からは40余年、後志南部の1937年からでも18年を遅れ、この間に30万トンから20万トンの漁獲を維持した事由も明らかでないらしい。春鰊は実に時間をかけて南下南限を北に移したものだが、地球規模の変動からなら1秒にも満たぬ時間なのであろう。

1957年まで鰊漁が行われたと云う留萌地域沿岸には、1970年代半ばまでなら多くの鰊番屋が廃屋として残されていた。この時期北海道西海岸の残存全鰊番屋を撮影し続けた写真家樋口英夫氏によれば、増毛から苫前まで島嶼を含んで19箇所とある。鬼鹿地内には花田家番屋と隣接して小川家番屋が記録される。前者は現在にも観光資源として現存するが、後者は遠に解体されている。

鬼鹿の下り場内信号機を越えて上り方に進出して往くのは、826Dの深川行き。幌延から5時間をかけて走っていた。
画角左の建物は、鰊番屋に付帯して浜に建てられた「倉(くら)」と呼ばれた施設である。漁獲の一時貯蔵施設の「廊下(ろーか)」に対して、これは漁具の置き場に用いられたものと思う。手前側には鰊船が打ち捨てられているのも見える。
画角右側へはこの頃執心していた浜番屋(漁師小屋)が連なっていたのだけれど、段丘下の線路とは間に国道を挟むなど距離があり、まともな絵は撮れず仕舞いだった。

=参考文献=
近代北海道における鰊漁業の歴史地理学的研究 (服部亜由未 名古屋大学大学院論文2013年)
北海道におけるニシン漁業と資源研究 (小林時正 農林水産省水産庁報文2002年)
北海道における漁家住宅の歴史・地域的特性を活かすための研究 (駒木定正・小林孝二・山之内裕一 2015年)
北海道西海岸 鰊番屋全記録1976ー79年 (樋口英夫WebSite)


[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/500sec.@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.



新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1980

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1958年6月19日に国鉄総裁あて提出された「動力近代化委員会」(1958年2月17日付総裁達第64号を以て国鉄本社に設置)の報告書には、ディーゼル機関車の将来の運転分野として、非電化線区・区間での貨物列車、電化区間より直通する客車列車、および入換用途と記されていた。そして、これを受けた工作局部内での検討により、動輪周出力1200PS程度の大型機、同800PSの中型機、同じく550PS程の小型機を開発し、動力伝達方式は液体式とすること、軸重は丙線規格への入線から14トン以下が望ましく、大型機には蒸気発生装置の搭載も考慮することなどの、おおまかな方針が立てられたのだった。
本線用大型機の目標とされた動輪周出力の1200PSとは、このクラスが将来的にも現用のD51形式蒸機を代替する出力で十分と考えられ、DD13の経験からは内燃機関の低速性能が蒸機よりも優良なことも勘案の上で導かれたのだが、それに従い開発され、形式をDD51と付された機関車は1000馬力機関の2基搭載にて同1400PSを実現していた。それは、低速域でのD51は勿論のこと、40km/h以上の中高速域で旅客機C61をも上回るものだった。
投入を急ぐべきとされた東北・信越・鹿児島・長崎線の各地方幹線には誠に相応しい性能だったのだけれど、1961年度末に出場した試作1号機は、2基の液体変速機の不協調と14tの軸重から勾配引き出し性能が計画値を大幅に下回る事態となった。貨物機とすれば致命的であり、量産計画を遅らせての設計変更がなされ、ノッチの多段化などの改良が盛り込まれたほか、2次試作機とされた2号機は軸重15t、3次試作の3・4号機には中間台車による14tと15tの軸重可変方式が取り入れられた。その改良機は1963年4月に東北線盛岡付近において、10‰勾配からの1260トン引き出しに成功、その際の粘着性能も交流電機に匹敵する摩擦係数40を記録して量産への目処を達成したのだった。(他にも軸重14tにおいても過大となったK荷重からの低規格線での速度制限問題などを生じたが、ここでは割愛する)
開発時には旅客機・貨物機を兼ねるDD51を母体に、重貨物用をDD52、除雪と貨物牽引兼用をDD53とする計画があり、後者は実現したものの、想定外の設計変更にてDD51で十分に貨物仕業への投入可能となれば、それは蒸機発生装置に替り死重を積んだ番台区分とされて前者は空番となったのである。

ここまでは内燃の識者ならとっくにご承知のことだろう。けれど、その貨物専用機が1962年当時、5動軸即ちDE50として計画されていた事実は余り知られてはいないと思われる。1969年に至って試作機の出場した軸配置をA・A・A-Bとした機関車のことでは無い。DD51のヴァリエイションとしてB-A-Bにて計画されていたのである。まずは、狩勝峠区間の長大トンネルを伴う新線への移行にて全面無煙化が必須だった根室本線が投入の想定線区であった。
12パーミル連続勾配の縦断線形で設計の狩勝新線において、将来的に計画の根室線貨物列車の1000トン牽引には4動軸機では粘着力が不足と考えられ、DD51の前後台車中間に動軸を追加し、変速機からプロペラ軸で駆動させる方式が検討されたものである。これが立ち消えとなったのは、軸重を15tとした2次試作機が前述のとおり、勾配引き出し試験に成功したことに加え、機関出力2000PSを以てしても、12パーミル勾配での1000トン牽引における均衡速度は25km/hの低速となり、何れにせよ重連仕業を避けれない事情からも、重貨物機の製作は得策で無いと判断された故であった。

清涼な風力の遍く渡り往く盛夏の狩勝新線を上るのは422列車の滝川行き。マ級を含むとは云え、客車の6両はDD51には楽な仕業だったろう。
1976年当時、根室線貨物はDD51による定数100でスジは引かれていたのだけれど、富良野-帯広間に1000トン貨物の運転はなかったと記憶する。下りの特急貨物3053だけが狩勝を重連で越えていたものの、コンテナ車12両の600トンには速度確保のためだった。(石油輸送の5472も重連だったが、これは定期回送による)
この当時も増田山はここでの定番位置になっていたものだから、敢えて外した画角を試している。昨年秋のこと、久方振りに訪れたが、周辺樹木が成長してこれは撮れなくなっていた。

趣味的にB-A-B機は誠に興味深いのだが、後にプロペラシャフトに起因する事故がDD54に引導を渡したことを思えば、仮に実現していても短命だったように思える。

=参考文献=交通技術 1963年9月号 通巻215号 (交通協力会)

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


北舟岡 (室蘭本線) 1988

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1870年4月を端緒とした旧亘理伊達藩による噴火湾北岸、胆振国有珠郡紋鼈地域への数次に渡る集団入植と開墾事業は、それの成功事例とされている。紋鼈に戸長役場が開かれた1879年の末までに、人口は2504人を数えるまでとなり、その農業生産には農機具や食品加工の工場が立地し、その従事者は勿論のこと、住民経済の充実に商業者や物流業者なども呼び寄せるところとなって、1880年代の紋鼈には当時の室蘭を凌ぐ市街地が形成されていたと云う。
道内経済の拠点に成長しつつあった函館との連絡は、1800年代始めまでに長万部への礼文華山道、弁辺山道を含む陸路が通じてはいたものの、辛うじて人馬の通行を保証する三尺幅の険しい峠道は増大する物流に応じられるでなく、加えての割高な通行料には海上輸送が主体であった。用いられたのは帆船であり、当初には自然の良港とされた室蘭や近隣でも有珠湾が中継地とされる中で、紋鼈の請願が実り1876年に東浜に埠頭が築造されるに至った。築港のなされれば早速に農作物の移出や消費物資の流入拠点に機能したに違いなく、伊達町史は函館紋鼈間航路開設を1883年とするが、これ以前より紋鼈の商人や函館の米穀商太刀川善吉による帆船が不定期に就航していたのである。
一方で、函館市史によれば、この時期は道内における個人による動力船=汽船の所有、それを用いた海運業の黎明期にあたり、函館でも豪商渡辺熊四郎が自らの経営する函館器械製造所(後の函館造船所、現函館どつくの前身である)で建造の汽船を所有して回漕業に手を染めていた。後の金森回漕組の創始である。その汽船、矢越丸は1885年11月から室蘭・紋鼈との不定期運航を開始し、順調に輸送量の伸びると見るや、これを定期化し紋鼈東浜に出張所を開設したのだった。
同市史は、当時の「水産事情特別調査」を引用して、地域に与えた経済効果を書いている。曰く、有珠・虻田地域の漁獲の不定期な帆船輸送では時期を逸して買い叩かれたものが、汽船の定期就航により産地側に有利な取引が実現し、また肥料にせざるを得なかった有り余る漁獲に商品価値を与えもしたとある。これは農地の換金作物とて同様であったろう。
地形に阻まれて鉄道の開通を1928年まで待たねばならなかったこの地域にとって、およそ半世紀に渡る海上輸送は生命線だったのである。

東浜に造られたと云う埠頭の位置は知れない。紋別川・気門別川河口を境に東浜・西浜と呼んでいたのだから、それは現在にも残る伊達市東浜町の海岸線の何処かであろう。痕跡も残らぬとなれば、史書は「埠頭」と記すものの木造の桟橋程度だったと思える。半世紀に一度も永久構築物に改良されることが無かったことになる。

東浜の海岸を背景に北舟岡へと接近する1列車<北斗星1号>。
運行開始から間もない頃で、重連の機関車は国鉄制式塗色、次位には函館からのスハフ14が従う。
6月と云うに、立ち込める霞が湾岸の視界を遮る一日と覚えている。うららかな日差しの下、信号場当時からと思える打ち捨てられた乗降台に腰掛けて列車を待ったものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


中丿沢 (函館本線) 1999

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中丿沢停車場は、そこに北海道鉄道(初代)線の開通した翌年に「紋別」の停車場名にて開設されている。その1904年10月15日には熱郛から小沢までの開通により函館-小樽中央(現小樽)間が全通し、さらに翌年には小樽(現南小樽)への延伸にて北海道炭礦鉄道との接続が予定されていたから、将来の列車本数増には長い駅間に交換設備を要して国縫-長万部間9.5キロのほぼ中間が選ばれたものであろう。おそらくは計画当初より既定だったと思われ、大沼(軍川を経て現大沼)-宿野辺(現駒ケ岳)間14.1キロに置かれた赤井川も同日に開かれている。
先住民族が普遍的に静なる川を指したmo-petに由来するモンペツ(モンベツ)の地名は道内の各所に存在し、ここでも今にも名を残す紋別川が河口に発達した砂州に流れを遮られ、延長の短い河川だけに中流に至るまで緩やかな水面を見せていたのだろう。その河口周辺には先住民のmo-petコタンが立地し、1809年とされる「蝦夷渡海記」にはモンヘツの名で11戸65人が居住と記されている。これは同記録によるオシャマンベの87人、ユウラッフの67人に次いで、噴火湾西岸では大きな集落だったと云えよう。やがては和人の混住も進んで紋別が当て字され、薩長政権下で胆振国山越郡長万部村の字名となったのである。
障害物の無い地形に国縫-長万部間のほぼ中間地点が選定された停車場が、その名称に紋別を採ったのは、それが最も至近の集落だったゆえであろう。以後、道内の鉄道線上に幾つかが現れる「紋別・門別」の最初の事例であった。
それの中丿沢(当初には中丿澤)への改称は、それらとの重複回避かと思えば、二例目である名寄本線紋別の開駅に7年を先立つ1914年10月1日付には、鐵道院側の事情では無さそうだ。
1938年に鉄道省札幌鉄道局が編纂した「駅名の起源」には、紋別川と和類川の間で「澤」を成しているゆえの付名とある。現在と川筋は若干異なろうが、中の川か中の沢川もしくはその中間の無名の水流を指してのことと思われ、確かに前記河川に比すれば細い流れである。停車場の開かれて10年も経過すれば周辺に集落も発達して、それが中丿澤部落と呼ばれたのである。改称はそれに合わせてのことになる。中丿澤只中の「紋別」では具合の悪かろうと云うものだろう。
やや時代が下るけれど、1925年発行の渡島支庁管内町村勢要覧には、当時の長万部村に4社が所在の株式会社組織の内、製材業の北海林工、澱粉を用いた製飴業の北海道製飴の2社が中の澤に立地とある。自前の駅名を名乗るほどの駅勢は確かに存在したのである。

中丿沢の旧場内を下る9051列車。
[外伝]にも書いたように、飽かずに幾度も通った林立道路踏切からのカットである。けれど、この90年代半ばからの数年間には上下線間にススキが繁茂してしまい撮れなくなっていた。せめてと春先に訪れるも、二年続きで降雪に見舞われれば、枯れススキも花の賑わいと思うしかない。

ところで、林立道路踏切は中丿沢から長万部への新道が開通するまで国道5号線上の踏切道であり、現在よりもやや下り方に所在していた。今でも、長万部三八飯店敷地北側に国道から分岐して踏切へ向かう当時の道筋の痕跡が衛星写真に見て取れる。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8 NONfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.


大岸 (室蘭本線) 1992

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礼文-大岸 (室蘭本線) 1990 の記事で、道道608号線の廃道部に残存する岩見隧道と達古武隧道の供用を1944年と書いた。以下は同記事の補遺である。

切っ掛けは、ようやくに「北海道道路史」(1990年 北海道道路史調査会編)を通読したことによる。全3巻からなる、それの第2巻技術編に上記隧道が1870年の竣工との記述を見つけてしまったのである。そこへの鉄道トンネル掘削に先駆けること60年には少しばかり驚かされる。
先の記事では、アジア太平洋戦争末期の工事に「東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない」と疑問も呈しており、その回答とも云えるものの、俄かには信じ難い。この視点で「豊浦町史」(1972年 豊浦町)を解けば、本願寺道路との関連を匂わせる記述が見つかるのだけれど、地理的位置が違い過ぎようか。どちらも出典=一次資料の明示は無い。所載の参考資料群を片端からあたれば巡り会うだろうが、それほどの時間も無い。
ただ、先には北海道庁の資料での記述を信じて迂闊にも失念したのだが、改めて旧版地形図を閲覧すると1917年改測とされるそれに「道路」の存在は確認されたのだった。「長輪線建設概要」(1925年 北海道建設事務所)に収録される写真に写る礼文集落から(鉄道の)岩見隧道へと平行する道路を「工事用通路」と書いたけれど、既存だったことになる。
しかしながら、同じく所収の子持ち岩付近から(鉄道の)茶津・達古武隧道を画角とした写真には、それらしきは見えぬのである。難所のそこが、当時には人馬の辛うじての通行を保証するに過ぎない「通路」だったとすれば、トンネルも素掘りの洞窟風情とも推定され、解像度の良く無い原板にロウレゾの印刷技術には、写り込んでいても判然としないのかも知れない。
取り敢えずに閲覧した資料からは、どのように結論して良いものか。
今のところ1870年と云う確証は手にしていないけれど、1917年の改測図に鑑みれば鉄道隧道以前の1900年代初頭頃までにはトンネルは穿たれ、それは人馬のようやくに抜ける程度に洞窟然としていた、と云うところだろうか。道庁資料の1944年とは、それを貨物自動車の通常の走行を保証するまでの改修を指すのか。市井の道路史家や郷土史家には委細ご研究の向きもおいでのはずで、是非ともご教授願いたいものである。

大岸第一キャンプ場の東端には小さな岩山が存在する。車窓に認めた方も多かろう。チャス岬と同じく後背の山塊からの尾根筋の張出し先端が鉄道や道路建設で分断されての岩山だろうが、俯瞰と言えるほどの高度は無いものの、見渡す海岸風景が気に入って何度か立っていた。
大岸 (室蘭本線) 1991 の翌年、手前に放置されたボートが、その1年に海へと漕ぎでた形跡は無く、小屋の扉は風雪に破れてしまっていた。
通過するのは、定期に格上げされていた頃の3列車<北斗星3号>。470Dとの離合は大岸トンネル入り口付近のはずだか、3列車の僅かな遅れで被られるところだった。

チャス岬根元に現役だった岩見隧道が見える。先の「北海道道路史」は達古武隧道と共に道内最古の道路トンネルと書いている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


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